はじっこによりすぎ
どちらかのバーチャル
 息子がスマホ片手に、しきりに虚空を掻いていた。
「こうすると喜ぶんだ」と言う彼のスマホには、この前捕まえたポケモンが映っているのだろう。
 山に行きたい、と急に言われた時はどうしたんだと思ったものだが、リリースされたポケモンアプリのお陰らしかった。そこに行かないと好きなポケモンを捕まえられないとかで、山道の途中で、はしゃいでスマホをトントンして捕まえたそうだ。きっかけはどうあれ、インドア派な息子が少しは外で遊ぶ気になって、古臭い親心ではあるが、やはり嬉しい。
 しゃがんでメールをいじっていた息子が立ち上がった。
「ユウちゃんたちと公園で遊んでくる」
 門限までに帰るよう、言い含めて見送った。なんでもポケモンバトルは外でやったほうが迫力があって楽しいとかで、息子の約十年の人生で外に出た回数を考えると、ポケモンアプリさまさまである。

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「コイツ、散歩すると喜ぶから」
 そう言って息子はよく外出するようになった。
 そしてその度、私は同じ注意をすることになった。
「スマホばっかり見て歩いたら、危ない」と。
 息子は、それはもう、通い慣れた通学路でも、楽しそうに歩く。隣にソイツがいるのだと言って、頻繁にスマホ画面でソイツの姿を確かめながら。
「危ないから、やめなさい」
「でも、コイツが車道に出て轢かれてたりしたら」
 息子の心配事に、私は思わずふき出した。
「アプリが轢かれるわけないでしょう」
 息子はちっとも納得しなかった。
「ユウちゃん、コラッタが轢かれたの見たって」
 それはきっと、アプリが車が映ったのを判断して、そういう演出を入れたのだろう。リアルは結構だが、やりすぎではないだろうか? 苦情を入れるべきだろうか。
 苦情は後で考えることにして、息子のほうは、歩きスマホをするならスマホを取り上げる、と脅して、やっとやめさせた。
 それでも息子は気になるのか、しょっちゅう立ち止まっては、アプリを起動して、ポケモンの姿を確認しているようだった。

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「アプリ中毒?」
 人は色んな物に中毒する。アプリ中毒はスマホ中毒に似ているが、違うらしい。
「ええ、ユウくんもアプリ中毒で大変なんだって。ポケモンの様子が気になるって、スマホを手放さないし」
 噂好きのママ友は声を低めた。
「スマホを取り上げたら、すっごい大声出して暴れるんだって。ユウくんいい子だったのに、いやねえ」
 いやと言うわりには、彼女の顔は舌なめずりでもしそうになっている。うちの子もハマってて、心配だわと付け加える声が空々しい。
 そうそう、最近はアプリ中毒専門のお医者さんもいるらしいわよ。ハマり始めに早めに対処したほうがいいんだって。ママ友はそんな情報を置いて去っていった。

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 もう学校から帰ってきているはずだ。子供部屋のドアをそっと開く。
 息子は床に座りこみ、スマホを横目で確認しながら、指を空中に這わせていた。
 その腕はなにかを抱える形に曲げられていて、息子にとって大切なものがそこにあるのだな、と見てとれた。
 開いたままのドアを叩く。息子は口を丸く開けて私を見上げた。子供部屋のドアが開けられたのに気づかなかったらしい。
「宿題は?」
 息子はバツが悪そうに目を伏せ、腕の中のなにかを下ろした。そして、机上に伏せたスマホを名残惜しそうに見てから、のろのろとノートを引っ張りだした。

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「典型的なアプリ中毒ですね」と医者は言った。
 頻繁にアプリを覗かないと落ち着かない、アプリを起動するとひとまず落ち着く、などが典型的な症状らしい。
 これが重度になると、アプリの中のポケモンを優先したライフサイクルとなり、通常生活に支障をきたすそうだ。
「そうなると、患者をアプリから引き離す際にも、多大な苦痛を生じます」
 医者は脅すように言う。
「そうならないために、どうすればいいんですか」
 その言葉に、医者は申し訳なさそうに目を伏せて、でも、職業上こういった演技には慣れているといった風情で、
「アンインストールでしょう」
 と言った。
 診察用の椅子に乗せられた息子が青ざめた。

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 ポケモンが見えなくなるから嫌だ、と息子は言った。
 アプリがなきゃ、餌をやる時間も餌のやり方もわからない、と息子は喚いた。
 アンインストールのボタンをタップするのは、指先の電気が触れるだけというのもあって、とても呆気なかった。

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 それからしばらく、仕方ないと言えば仕方ないが、息子は元気がなかった。ポケモンの名前らしい単語を連呼して、家の中を探し回るようになった。
 医者が言うには、時間が経てば元に戻るということなので、助言通り放っておいた。
 その内に息子も落ち着きを取り戻し、宿題も言えばきちんと取りかかるようになった。
 時々、床近くの空気を手で掻いていたが、私が見ているのに気づくと、すぐにやめた。
 医者いわく、「アンインストール後の手持ち無沙汰を埋める行為」だそうだ。これも、時間が経てばなくなっていくのだろう。

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 リビングの入り口で、息子が見えないボールを拾い上げる真似をした。そして、新聞を読んでいる私を見て、「まずい」という顔をすると、自室に逃げ帰っていく。
 なにがまずいのやら。後で暇があれば確かめよう。
 めくった面の見出しに、私は眉をひそめた。
『収まらぬ火山活動 伝説のポケモン復活の兆候か』
 新聞記者には重度のアプリ中毒者がいるようだ。ここの新聞はやめたほうがよいかもしれない。
 テレビを点ける。新聞と同じ火山活動のニュースだが、そこにはポケモンのポの字も出てこない。やはり、この新聞はどこかおかしいのだ。
 夕食を作るのに野菜が少ないので思い立って、外に出た。そこにはユウちゃんのアプリ中毒の話を美味しそうにしゃべくっていた、あのママ友がいた。
「こんにちは」
「こんにちは。噴火、怖いですねえ」
 当たり障りのない世間話で幕を開ける。しかし、相手は「いい車を買っても、灰で汚れるから大変なんですって」とまたもや舌なめずりしそうな顔になる。いやはや、この人に息子のアプリ中毒がバレなくてよかったなあと心底思う。
 ママ友は舌なめずりの顔のまま、「伝説のポケモンがいたって、いいことないんですのねえ」と言った。
「え、なんて」
 私は聞き返した。
「ニュースでやってるでしょう」
 相手は、私が非常識、と糾弾する調子で言った。
「そういえば」ママ友は話題を変えた。
「ユウくん、ポケモンと旅に出るんですってね。伝説のポケモンがいるような、危ないところには行ってほしくないわあ」
 うちの子は旅なんて出ませんけど、と彼女は自慢気に言った。

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「僕も、旅に出たいなあとは思ってるよ」
 息子が言った。
「クラスの子も、旅に出る人多いし。ユウちゃんも行くって言ってるし」
 バツが悪そうな顔をする息子の腕には、またもや透明なボールが抱きかかえられていた。
 いろんな疑問を飛び越えて、私ができるのは、彼の行為の上っ面をなぞることだった。
「なんで今まで言わなかったの?」
 そう問うと、息子は腕の中の透明なボールを見下ろし、私を見上げ、そして、目を伏せた。
「だって、お母さん、見えないみたいだし」
 伏せたまつげに半ば隠れているのは、それは間違いなく私への憐憫だった。見えない、お母さん、かわいそう。そんな。
「それはアプリでしょう」と私が言った。
 彼は悲しそうに、腕の中の空虚と“目を合わせた”。

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 夏休みに入る頃に、私は息子の背中を見送ることとなった。
 学校の担任に相談しても埒が明かず、かえって事態は加速して、おたくの息子さん、トレーナーとしての才能がありますよ、旅に出ないなんてもったいない、ということになってしまった。
 大きなザックを背負い、時折、見えない斜め下に向かって笑いかける息子が印象に残った。
 私には見えないだけで、車道を危なく横断するポケモンがいて、山の中でしか捕まえられないポケモンがいて、遠くのマグマ溜まりでは伝説のポケモンが眠っている。
 そう言われても、どれだけ世の中のニュースが書き換わっても、私には、ただのアプリしか見えないまま。

■筆者メッセージ
久方小風夜さま作「存在しなかった町」、「薄膜の上の誰かへ」、586さま作SubjectNotes#142790 「置き換えられた記憶」に影響されました。インスピレーションをくださったお二方に感謝。
きとかげ ( 2015/12/16(水) 01:09 )