はじっこはじまり
とおいちほう
 サザナミタウン。
 夏のリゾートとして有名なこの場所に、防寒具を着込み、双眼鏡を構えて立つ私は、場違いに見えるだろう。それ以前に、今は冬なのだから季節外れだ。
 幸いシーズンオフでもあるから、奇妙な格好をして双眼鏡を海に向ける私に気を止める者は、誰もいない。私は安心して双眼鏡を構え、海を見る。変わらない、鈍色の塊を見つめている。

 不意に潮が吹き上がった。はい、と手を挙げるみたいに。


「ねえ、このホエルコ、遠い場所から来たんだよ。ホウエン地方だって」
 幼い手の中の赤白のモンスターボールを、少女は高々と上げる。少女の遊び相手に選ばれた少年は、柔和な笑みを浮かべてそれを見る。その笑みと、彼のパートナーのツタージャは、似合っていた。どちらも草の雰囲気がした。

 昔々、といっても十年少し前のことだが、まだ少女だった私は、親がもたらす恩恵を自分のものとして、当たり前のように享受していた。そして、それを周りに見せびらかしていた。私の遊び相手、というより生贄に選ばれた少年は、いつも穏やかに笑って、私の自慢にもならない自慢を聞いていた。
 全く、私は馬鹿だったと思う。もしも過去に行けるのならば、過去の私を殴ってホエルコのボールを取り上げたいものだ。そんな私だったけれど、彼はいつも相手をしてくれていた。この時も、近くの川にホエルコを放って観察するという私の提案に付き合ってくれた。草の匂いのしそうな、あの柔和な笑みを浮かべて。

 河原を歩き、ちょうど良い滝壺を偶然見つけて、そこにホエルコを放つことにした。思えばそれだって、無茶な行軍をしたものだ。河原のすぐ上の道は気まぐれに切れていて、私と彼は何度も河原に降りて進まねばならなかった。道がすっかり低木で覆われていて、小枝を体で折るようにして進むことも度々あった。
 これでは満足に進めないと、私たちは河原を行くことにした。足に優しくない石ころにふうふう言いながら、川沿いをずっと進んだ。道中で現れた野生のミネズミやクルミルは、彼のツタージャに追い払ってもらっていた。そこまでされていて、滝壺に着いた私はお礼のひと言もなかった。彼がそうして従者みたいに付いて来るのを、当たり前に思っていたのだ。今なら分かる。過去の私は調子に乗ったクソガキで、彼は、得難い友であったのに。

 私たちは滝壺でホエルコと触れ合った。私はすぐ飽きてしまって、河原に転がっている、一見綺麗そうな石を見繕い始めた。その時の石ころも、持って帰ったのにいつの間にか失くしてしまった。
 彼はというと、ずっとホエルコに向きあって、肩にツタージャを乗せたまま、そのゴムみたいな肌をいつまでも触っていた。「お前はどんなところから来たの。ホウエンって暑いところらしいね。こっちは寒かないかい。あっちの海もこっちと同じくしょっぱいのかい」……そんなことを言っていたように思う。
 ツタージャの冷たく赤い大きな目と、彼の草を思わせる目が、ずっとホエルコに注がれていた。人間である彼はともかく、ポケモンであるツタージャがずっとホエルコを見ていたことが、印象に残っている。


 それから年が少し巡った。私は相変わらず親の力でポケモンを手に入れては、彼に見せびらかしていた。彼は黙って、ツタージャ一匹を連れて、いつも微笑んでいた。ツタージャしか連れていない彼に、私のポケモンをあげようかと言ったこともある。彼はもちろん穏やかに断った。全くもって愚かな人間の子どもの言うことだが、最後にそれだけは果たしたことになる。
 私と彼は、順当に中等学校へ進んだ。私は女友達とつるみ、人前で彼と話すのを避けるようになった。クラスメイトに彼と付き合っていると思われるのが嫌だ、という子供っぽい理由で。その内、彼と話すこと自体、なくなった。ポケモンを見せびらかすことも、なくなっていた。

 中等学校に入って最初の夏休み。私は、女友達数人と意味のないことではしゃいでいた。町の中心部に出てカラオケかウィンドウショッピングか、その他その年頃の女の子が考えつきそうなことを計画していた。その行く先の、道の真ん中に彼が立っていた。
「あ」私は嫌な顔をしたはずだ。何故、こんな間の悪い時に会おうとするのだろう。私はそう思ったけれど、彼にとっていいタイミングは、その時しかなかったのだ。
「こんにちは」と彼が言った。その声は低く穏やかで、柔な草が若木になったような、そんな印象を抱かせた。ただ、それは後で感じたことで、その時は……彼が私の知らない間に声変わりしているのが、悲しいような、悲しくないような、そんな衝撃を受けた。
「少し、いいかい」声変わりした声で、彼が言った。女友達が何かを暗示するように私を見る。「大事な話なんだ」彼の言葉が彼女たちの妄信に拍車をかけた。意味のない音を漏らしつつ、彼女たちは私の肩や腕を叩き、やたらとにやにやしながら彼を避けて道の先へ消えていった。

 後には彼と私だけが残された。
「何の用なの」つっけんどんに私は言った。彼はいつかと同じ、柔和な草を思わせる笑みを浮かべて言った。
「旅に出ようかと思ってさ。ほら、夏休みだし」
 旅? と私はオウム返しに聞いた。そう、旅、と彼は返した。
 旅には、本格的なものには中等を出てから行く人が多いのだけれど、その時の彼みたいに、長期休暇を利用して行く人も、結構いる。長期休暇が始まると旅立って、終わる頃戻ってくる、そんな期間限定の旅。
「いいんじゃない」
 私は何故か安堵して、そう言った。男子はよく行くし、夏休みが終われば帰ってくるし、いいんじゃない。私はそんな風に安心したのだ。
「そっか」彼はまた柔和な笑みを浮かべて言った。「じゃあ行こうか、ツタージャ」
 不意に草蛇が、彼の背中から生えてくるようににょっきりと顔を出した。涼やかな赤い目が彼を見つめ、ぴうい、と小さな声で鳴いた。
「皆、行っちゃったね。ごめんね」
 彼は女の子たちが去って行った道の先を眺めていた。そして、私を振り返ると、「君には言っておきたかったんだ」と言った。
「別にいいよ」言ってから、ぞんざいな返事だと気付いた。
「別に、今生の別れってわけじゃないんだしさ」
 彼は戸惑ったように目を迷わせて、「それじゃ」と言った。私は「またね」と言った。彼の服の背に手足を引っ掛けたツタージャが、赤い大きな目で私を見た。悠々、といった風格を漂わせるツタージャに、私は何故か、負かされた気がした。

 彼がいない夏休みは、別段寂しくはなかった。友達とは遊びに出るし、宿題もするし、ポケモンの世話もする。ただ、強いて言えば乳歯が抜けた時のような、座りの悪い思いをしていた。
 私は夏休みの大方を、ポケモンを強くすることに費やした。親に貰ったホエルコを中心に、やはり親に貰ったアブソルやマイナンやスバメなど、ポケモンバトルの訓練をした。私は、親に貰ったポケモンもその内飽きて、結局親が世話をしているということが多かったのだけれど、彼に見せたのと同じあのホエルコだけは、自分で面倒を見ていた。
 そうして夏が過ぎた。私は夏休み中にホエルコを進化させようと頑張っていたのだが、それは叶わなかった。学校が始まり、私は教室で彼の席をちらりと見る。始業式には彼は来ていなかった。彼が戻ってきたのは、新学期が始まって二日目になってからだった。少し、日焼けしていた。けれど、ツタージャは変わらずツタージャのままで、私は少しだけホッとした。

「ごめんごめん、少し遅くなって」
 放課後、私は彼と話をした。学生がよく行くファーストフード店で、私はジュースだけ頼んで席に座った。彼はハンバーガーセットをひとつ頼んでいた。そんなによく食べる方ではなかったのにな、と私はふと思った。
 旅に出て、なんとなく、彼が変わったように感じていた。話し方や行動が、ほんの少しだけ、きびきびしている。多分それは若木が樹皮を固め始めたような、確固たる芯を手に入れたような、そんなものなのだ。彼のツタージャはまだ、ツタージャのままだけれど。

 ちょっと道に迷って、と付け足したのは、新学期に遅れた言い訳なのだろう。私に言っても仕方ないのだけれど、と思いながら相槌を打った。
「旅先では色々あったよ。道に迷って、海に落ちて、ランセ地方まで行っちゃって」
「ちょっと待って、それ、どこ?」
 彼は頭を振って、よく知らない、と答えた。とにかく、彼はツタージャと共に海に落ちて、ランセ地方まで流れてしまったのだそうだ。
「右も左も分からないし、本格的に道に迷ってしまって、困ってるところをアオバの国の」
 そこで彼は言葉を切った。私は別なところに引っかかった。
「国? 地方の中に国があるの? 普通逆じゃない?」
「ランセ地方ではそうなってるんだよ」
 だとすれば、彼は見当もつかない、よっぽど遠い場所まで行ったのだ。
「国って呼ばれてるけど、規模は僕らの言うタウンぐらいだよ。そこのブショー……ジムリーダーみたいな人に助けられてね」
 彼が漏らした言葉を気にしつつも、跳ね上がった彼の語尾に注意を取られる。私はストローを口に咥えなながら、「それで?」と先を促した。彼は話した。若木みたいな声で、本当に楽しそうに話した。

 ジムリーダーみたいな人、モトナリさんに助けられ、ずいぶん世話になったこと。そのモトナリさんもツタージャを連れているそうで、モトナリさんと彼はそれで息が合ったらしい。きっとモトナリさんも、彼みたいな草っぽい人だろうな、と私は密かに思った。
 ランセ地方では変わったファッションが流行っているようで、全体的にゆったりしたものが好まれているらしいこと。例えばモトナリさんは、二段構えの不思議な帽子を被っていたらしい。これは説明を聞いてもよく分からなかった。

 ランセ地方でポケモンを育てられるのは、才能ある限られた人だけ。皆がモンスターボールを持ってポケモンを持てる地方じゃないんだね、と私が言うと、そもそもモンスターボール自体ないんだと彼が言った。私は声に出して驚いた。
「モトナリさんも驚いてたよ」彼は笑った。
 モトナリさんはモンスターボールにいたく興味を示し、出来ればじっくり研究したいとまで言ったそうだ。しかし、彼はツタージャのボールしか持っていなかったので、その件は保留にさせてもらったと言った。
「今度行く時に、ボールをいっぱい持って行くんだ」
 モンスターボールだけじゃなくて、他の種類のもねと彼は嬉しそうに言った。目をキラキラと輝かせて、生き生きと笑っていた。
 その今度がいつなのか、どうやって行くつもりなのか、私は尋ねなかった。

 その夜、私はベッドに寝転んで、電気も消さないまま、ぼうっと天井を眺めていた。家に帰ってから、私はまず地図を調べた。けれどランセ地方という文字は、私の持っている地図のどこにもなかった。探し方が悪かったのかもしれない。地図に載らないような、遠い、遠い場所なのかもしれない。私はホエルコの入ったボールを高く上げた。赤と白の球体の向こうは、どうしても見透かせなかった。そして、思い描いた。
 誰もポケモンをモンスターボールに入れない世界。一部の人だけがポケモンを連れて歩いている。人は皆ゆったりした服を着て、畑を耕したり、山菜を取ったりしている。二段構えの帽子を被ったモトナリさんはそんな国の人の様子を眺めて、傍らのツタージャに話しかける。きっとそれは、大木のような声だ。
 うまく想像できなかった。
「お前もそんな遠くから来たのかい」
 ボールの中のホエルコに話しかける。返事はない。生まれ育ったところと余りにも勝手の違うところへ来たら、寂しかろうなと私は思う。それとも、余りに遠すぎて、故郷を思うことさえ辞めてしまうだろうか。
 お前は帰りたいかい、ホエルコ。それとも……
 いっそのこと、もっと遠くへ行きたいかい。
 私は心の中でだけ、ホエルコに問いかけた。

 一年後の夏休み、彼は再び旅に出た。今度はランセ地方に行けなかったと言って笑っていた。相変わらず手持ちはツタージャ一匹だけだった。
「やっぱり、ホエルオーにでも乗って行かないとだめなのかもね」そう言って、濃くなり始めた緑みたいな笑みを浮かべた。
 そして、彼の三度目の旅立ちは、中等卒業の時にやってきた。ホエルコはホエルオーに進化して、ツタージャはツタージャのまま、私たちはその日を迎えた。
 彼は、色んなモンスターボールが入った袋を背負っていた。
「じゃあ、行ってくるよ」
「うん」
 夏のサザナミ湾から少し南に外れた、ひと気のないビーチで、彼は言った。それから、約束通り、私はホエルオーをボールから解き放った。
 もっと盛大に水しぶきがかかるかと思ったが、ホエルオーが押しのけた水の量は案外少なくて、寂しいくらいの小さな波が足元に打ち寄せただけだった。
 ぺた。ホエルオーのゴムみたいな肌に、私は手を当てた。
「これからは、彼の言うことをちゃんと聞くんだよ」
 ぷわあ、とした間の抜けた汽笛みたいな声は、肯定だろうか。
 ランセ地方へは海を渡らねばならない。ランセ地方から帰る時は野生のホエルオーに頼んだが、こちらで同じことは出来ないと言う。きっと、モトナリさんがホエルオーに頼んだのだろう。
 だから、私がホエルオーを貸すことにした。
「ちゃんと返してよ」
「分かってるよ」彼は枝葉を広げ始めた木の趣きの笑みを浮かべて、言った。
「必ず帰ってくるから、待っててね」
 そう言って、彼はホエルオーに乗って大海へ漕ぎ出した。私は彼の姿が見えなくなっても、しばらく水平線に向かって手を振り続けていた。ぶしゅう、とまるで手を振るみたいに、潮が吹き上がった。

 後はお察しの通り。年が明け、一年経ち、二年経っても、彼は戻らなかった。

 鈍色の海の中から、不意に玉を撒くような、潮の柱が立ち上がる。何度目だよ、と思いながら私は見ている。もう、今年はこれくらいにしておくか。
 私は荷物をまとめ、冬のサザナミタウンから引き上げることにする。来年はもう、来ないかもしれない。いや、やっぱり来てしまうだろう。
 だって、彼は帰って来なければならないのだから。貸しっぱなしのホエルオーを、返してもらわなければならない。モトナリさんがどれだけモンスターボールを喜んだか、アオバの国の外はどうなっていたのか、話してもらわなければならない。それとも、お前はランセ地方に根を張ってしまったか? あるいは、ランセ地方からさらに、遠い場所まで行ってしまったか?
「帰って、来おい」
 私のささやかな願いは潮騒に消える。鈍色の海は変わらず、陽の光を物憂げに弾いている。

きとかげ ( 2012/11/04(日) 19:36 )