Good night. a good dream.
「すいみんのタネをくださいな」
顔を上げると、そこには一匹のキュウコンが座っていた。
「七十ポケですよ」
「はい、どうも」
手渡すのは小さなタネ。キュウコンは九つの尻尾を稲穂のようにふありと揺らし、ありがとう、と微笑んだ。辺りには藍の霞が匂い、東の空は徐々に夕闇に沈みつつある。そろそろ店じまいの時間か。今日は最後の客かも知れない。
「お兄さん、探検隊のポケモンで? そういう風には見えませんけど」
「いいえ」
「すいみんのタネなんて、別段旨くもないでしょうに。何に使うんで?」
睡眠薬なら、粉の、もっと上質で安価な奴が、薬屋にも売っている。
夏の残り香の立ち込める日暮れの寂しさが胸をまさぐり、そんな雑談を振ってみた。魔窟の最果てに息衝くような文明無き者に食わせる『アイテム』なんかで、自らを誘うなど狂気の沙汰。それを知らない非常識には、そこの獣はとても見えない。
九尾の獣は、控えめに首をすぼめる。
「必要としている友人がいるのですよ」
ひそりと笑む。妖艶は夕凪の火照りに溶ける。斜陽の照らす狐の面は、夏の残照を煙のように棚引かせる。
「眠りってのはそう――」些か勿体ぶって、続ける。「三大欲求と呼ばれるモンのひとつでありまして」
「ええ」
「食べること、眠ること。そして残ったもうひとつをお話しするには、ちいと日が高すぎる時分で――」
ウフフと灼眼が細く引かれた。お兄さん、と呼んだが、その認識は誤っていたか。
「それが満たされて、我々は生きる。満たされぬ人生など、生きた心地もない。されども眠るということにつけて、これがまったく満たされぬ時と言うのを、我々はなかなか体感できませんなあ。空気のように当然にそこにあってから、阿呆な我々はそのありがたみを知らんのです」
風はなく、そして陽もなく。火照りを帯びていた大地は、のろのろと力を失っていく。
微笑んだまま、黄金は揺れていた。美しい毛皮の衣は、しっとりと茜に濡れていた。その瞳の紅は、時の経るにつれてじわじわと、煮詰めたように陰を濃くした。
「……これをもって、友人は、眠りの尊さを覚えるでしょうか」
「そうだとええですなあ」
九尾はくしゃりと笑う。
「店主、わたくしのこと、お兄さん、て呼びましたが。こう見えてわたくし、もう千年も生きているのよ」
「ありゃ、こりゃ失礼」
カクレオンはぺろっと長い舌を出した。
駆けずり回って、大声で笑って、泣いて、お腹いっぱいにご飯を食べて、太陽の匂いがする干し草のベッドで、昏々と眠りに落ちていく。
そんな当然の幸福を、彼女は知っているのだろうか。
日が落ちきると、土は急速に温かみを失っていった。冷ややかな感触を足裏に確かめ、黙々と歩く。星空が回りはじめた。月が昇りはじめた。咥え、口に含んだ贈り物を、ころころと舌で弄んで。星降る頂きは、もうすぐそこに。
……眠りに落ちる、幸せ。そんなこともよかった。けれど、そんなことよりも、生きている事の充実さを、もっと噛みしめて欲しかった。貴方は自分なんぞよりずっと崇高な存在で、本来は手なんて触れようもない高貴なもので、生あるものどもの図々しい希望を叶える、私たちの『夢』みたいなもので。……けれど、貴方だって生きている。瞬くような短い時間を、生きるように生きて、もっと、自分のためにだって、使って許されるべきだった。
貴方が目覚めてから、今日で八日目の晩。
――高台に、今日も彼女はいた。無垢な赤子のような白い躰。ゆるりと地面に這う羽衣は、月夜に咲く一輪花の如き淡い光を湛えていた。それが、か弱く儚く瞬くのは、実に夜空の星のようだった。ぱっと強く、徐々に弱く、消え入り、堪え、振り絞るように強く、強く。……頭にぶら下がった、水色の、数えきれぬほどの短冊に、よろよろと両手を添えるたびに。叫ぶように、輝く。疲弊しきった表情を、まだ他人の幸福のために、慈しむように、微笑ませて。
「……ジラーチ」
呼べど、振り返ることはない。
「みんなのねがい、とどいている」
ふわふわとして、幼い、浮ついた、夢見心地の窶れた声。
「とどいているかな」
「届いているよ」
「かなっているかな」
「十分に、叶っている」
「ああ、それならしあわせだ。ぼくはとってもしあわせなんだ」
「……だから」
もういいよ、と言う前に、彼女はふるふると首を振った。
我儘が過ぎる人々の願いが、どれほど残っているのか知れない。ただ、ひとつひとつ確かめるように短冊に触れて、その哀れな願いを聞き入れようとする願い星に、止めさせるのは容易ではなく。このまま貴方が壊れていくのに、目を瞑ることなんてできなかった。千年もむざむざと生きてきて、下手に暴力的な手段しか、キュウコンはとうとう選べなかった。
(……こんな方法でしか報いることができなくて、本当にごめんなさい)
廃人のように願いを叶え続ける『ねがいごとポケモン』の背後で、キュウコンは起立し姿勢を正した。一度瞼を伏せ、またひらく。頬の端に追いやっていた『すいみんのタネ』を、舌に乗せ、祈るような気持ちで唇に挟んだ。
くつくつと、小さな肩が揺れていた。細かに彼女は笑っていた。キュウコンは赤い目を細める。
「……おやすみなさい。よい夢を」
願はくは。
貴方に、千年分の安寧を。