ゆめと ぼうけんと
――青い空。白い雲。
緑の草の匂い。遠くに小川のせせらぎと、軽やかなムックルの歌う声、ひんやり頬を撫でる風……いつもと同じ、いつもとおんなじシンオウの昼下がり。
けれど、なにかが、いつもと違う。
ぼくは顔をあげた。そこにはいつもと変わらない、でもやっぱり、どこかちょっぴり違うような……そうだ、ちょっぴり寂しそうな、そんなマスターが笑いかけてくる。
「……お別れなんだ」
マスターの優しい声。
でも、へんだ。なにか違うじゃないか。
なにか、心臓のあたりが、ざわざわするような。
「ごめんな……でも、次は、もっと、うまくやるから」
次? 次って、なんだ?
『ざわざわ』が、喉の中を這いあがって、頭の方でもやもやしている。 マスターは何を言っているんだろう。どうして悲しそうな顔をしているの?
ことん、と僕の足元に置かれたのは、まだ新しい、それでも少し傷の入った、赤と白のモンスターボール……ぼくがマスターをマスターと呼ぶために、とても大切なもの。
マスターが背を向ける。そよ風が吹きぬけて、さわさわと草むらが鳴く。
ぼくはやっと理解した。あぁそうだ、ぼくは捨てられるんだ。
大好きな背中が遠ざかっていく。ぼくとボールはここにある。
ぼくはただぼんやりと、大好きな人を見つめている。
やっとの思いで固い殻を破ったその日に、ぼくはボールにつめられて、どこか小さな町へと運ばれて、そこでマスターに出会った。
ぼくらはすぐに旅に出た。たくさんのビッパやムックルを倒して、ぼくは火を吹くことを覚えた。苦手なイシツブテからはいつだって一緒に逃げだした。何度か挑戦して、ついにジムリーダーを倒したときは、ぼくらは抱き合って喜んだ。
もっと強くなって、たくさんの技を覚えて、いつか進化して、どんな敵だって、マスターの前に立ちふさがるなら、このぼくが焼き払ってやるんだって、決めたばかりなのに。
いっぱい戦って、いろんな出会いを経て、一緒にチャンピオンを倒して、ずっと一緒に笑って、ちょっとは一緒に泣いて……。
ねぇ、ポケモン図鑑を完成するって、約束は?
ぼくがいなくても、大丈夫?
そのとき、小さくなったマスターの背中が、すぅっと色味を失ったかと思うと、空と土と緑の中へ、とろんと溶け込んで消えてしまった。
ぼくは泣きだした。わんわん泣いて、しくしく泣いて、さめざめ泣いて、それでも全然足りなくて、もう一回わんわん泣いた。バトルするとき、体の中の炎の力は使いすぎると無くなるけれども、涙はなかなか枯れてくれなかった。
ぼくは体じゅう、それどころか足もとにぽつんと転がっているモンスターボールでさえ、涙と鼻水でべたべたにした。今この瞬間、涙の中にとろんと溶けて消えれたら、どんなにか良いことだろう。
何匹かのブイゼルやパチリスが心配そうにはしたけれど、声をかけようとはしなかった。喉が渇くろう、とカラナクシが一匹寄ってきたけれども、返事をすることもできなくて、カラナクシは哀れんだ顔をして去っていった。
さみしくてくるしくて胸が詰まった。ひっぐ、ひっぐと息が切れても、涙はぼたぼた落ち続けた。
気がつくと、どれくらいの時間が経ったんだろうか、辺りは夕焼け色に染まっていた。
ついに涙も枯れてきたようだ。ぼくはすん、すんと鼻をすすりながら、よろりと立ちあがる。景色がふらふらして、ずきんずきんと頭が痛い。
小さな橋に這いつくばって、きらきら光る川面に手を伸ばす。指先がちょろんと水にふれる。指を舐めてみるけれど、喉の渇きは潤わない。でもあとちょっとだ、ぼくはぐいっと身を乗り出して――ぼちゃん、と頭から小川に転げ落ちた。
きぃんと体が冷えた。ぼくはあっという間にパニックになる。水は苦手だ。泳ぎ方なんて知らない。しかも思ったより深い。岸はどっちだ? あぁ、体の力が抜けていくような、なんだか流されているような――どすん、と何かにぶつかったかと思えば、次の瞬間にはぼくは小川から放り出されて、道路の上に転がっていた。
アホウ、気をつけろ! 見ると、そこにはコイキングがいて、びしょぬれのぼくを睨んでいる。ぼくが無事なのを確認すると、くるりとこちらに背びれを向けて、水の中へと消えてしまった。お礼も言えなかった……ぼくは今、コイキングに助けられたんだろうか。世界で一番ひ弱だとされる、あのコイキングに?
ぼくはもとの場所まで戻ってきて、へたりと座り込んだ。
隣では、汚れたモンスターボールが斜陽を浴びて、にぶい輝きを放っている。見上げると、オレンジの空はだんだんと、夜闇の紺に沈みつつある。山から吹き下ろす冷たい風が草木を揺らす。濡れそぼったぼくの毛は、へちょりと体にへばりついたままだ。寒い。……お腹もすいた。
野生でなんて生きたことはないし、生き方なんて何も知らない。モンスターボールに飛び込んでも、もう拾い上げてくれる人なんか誰もいやしない。
しばらく空を見ていたけれど、やがてぼくは抱えたひざに顔をうずめた。ひとりで一番星を探したって、ちっとも楽しくなんかない。
ひとりだ。びゅうびゅう風が鳴る。寒さが身にしみる。なんだか疲れた。立ち上がる元気も、多分どこかへ落っことした。
そこでくるくる回ってる大きなかざぐるまが、ぼくを吸い込んではくれないだろうか――
「おい、こざる」
突然降りかかった声に、ぼくはのろりと顔を上げる。
そこにポケモンがいた。丸い体にふんわりした白い雲がのっかっていて、手のようなものが二本ぶらさがっている。夜空から染み出したような紫の真ん中に、やけに浮き立つ黄色のバツ印――風船にそっくりな、見たこともないポケモンが、目の前にぷかぷか浮いていた。
「こざる、どこへいく?」
吸い込まれそうな二つの黒い目は、ぴくりとも動かさないまま。
どこへも行けないんだ、行く場所も、行きたいところもないんだ、と答えると、そォか、と声色ひとつ変えずに、風船は続けた。
「こざる、もうすぐ、世界は終わる」
世界が終わる?
「次の世界が、もうすぐ、始まる」
……次の?
溶け落ちていくマスターの背中が、目の前にくっきりとよみがえる。
「おれァ、いくが、こざる、おめぇも、いくか?」
頷くと、風船の手が、ぼくの両手首へと絡まった。
ふわりとぼくらは浮き上がった。さっきまでずっしり重かった体が綿のように軽くて、見下ろすと、風車のそばに転がる赤いものが、どんどんどんどん小さくなっていく。
ぼくらは夜空へ向かう。真っ暗の闇の中へ向かっていく。
次はもっと、うまくやる。
どこで間違ってしまったのか、ぼくにはまだ分からないけれど――
ぼくだって次は、もっとうまくやるんだから。
世界が暗転して、とたんに明るくなって。
新たなる冒険の世界が、幕を開けた。