『Let's Go! キテルグマ』
※この物語はフィクションです。実在の人物・団体・事件等とは一切関係ありません。
Let’s go! キテルグマ
1
鉛の銃弾の雨あらしは、あとからあとから襲ってきます。
キテルグマは必死に走って逃げ続けました。街を抜け、公園を抜け、草むらの中へ飛び込んでも、まだ襲ってきます。池を泳ぎ渡り、ついに森の中にまで逃げても、それでもまだまだ襲ってくるのです。
幸運にも、キテルグマの特性は「もふもふ」でした。次々と突き刺さる銃弾など、体毛が威力を吸収してくれるので、そこまで痛くもありません。痛さよりも、キテルグマは悲しい気持ちでいっぱいでした。
だってキテルグマは、人間が大好きだったのです。
猟銃を持った人間たちは、みなギャラドスみたいな顔をしてキテルグマを追いかけてきます。そんな人間たちのことも、キテルグマは、今だって、大好きなのです。
それなのに、大好きな人間たちは、キテルグマのことを殺しに追いかけてくるのです。
どうしてこんなことになったのでしょう。キテルグマが赤ちゃんヌイコグマとして生まれたとき、白い服をきた人間たちは、とっても優しくしてくれました。やがて赤ちゃんヌイコグマはしょうたくんのおうちへ引き取られ、しょうたくんとママさんとパパさん、三人と一緒に暮らすようになりました。やんちゃで元気いっぱいのしょうたくんと、いつもきれいなママさんと、たまにこっそり、あまいミツを舐めさせてくれるパパさん。みな、赤ちゃんヌイコグマにとっても優しくしてくれました。人間たちに囲まれて一緒のおうちで暮らすあいだ、赤ちゃんヌイコグマは、とってもとっても幸せでした。
しょうたくんは、バトルが大好きな男の子でした。今日も一緒にバトルをして、そして、ヌイコグマはキテルグマへとついに進化を果たしました。
しょうたくんは大喜び。しょうたくんが喜ぶので、キテルグマも嬉しくて嬉しくてたまりません。
だからしょうたくんのもとへ駆け寄って、キテルグマは、力いっぱいしょうたくんを抱きしめたのです。
ぎゅうううううう……
ばきっ!
――ああ、そのあとのことなど、思い出したくもありません。ニコニコしていたしょうたくんの体が「く」の字に折れ曲がった瞬間のことなど、思い出したくもありません。後ろでニコニコしていたママさんがハイパーボイスに劣らない悲鳴をあげて崩れ落ちたことも、その隣でニコニコしていたパパさんの顔から、まるでデスマスのお面を被ったかのようにさっと表情が消え失せたことも、二度と考えたくありません。
キテルグマは、進化をした自分の体がこんなにも力持ちになっているなんて、まったく知る由もなかったのです。
怖い顔をした見知らぬ人間たちが、懲りずに銃弾を撃ち込んできます。熱い鉛の塊が、もふもふの薄い耳を掠めて、ぱっと裂けます。痛くて、悲しくて、思わずキテルグマは近くの大木を抱きしめました。
ぎゅうううううう……
ばきっ!
へし折った大木を、キテルグマは奇声をあげながら振り回しました。
我を忘れてぶんぶん振り回していると、いつの間にか、人間たちの声は聞こえなくなってしまいました。
もう誰も、キテルグマのことを探しに来てくれる人間はいません。ますます悲しい気持ちになって、キテルグマはとぼとぼ歩き出しました。
歩いていると考えるのは、やはりしょうたくんのことでした。しょうたくんは、もういません。キテルグマが抱きしめてしまったから、もういないのです。
……でも、あの時間にもう一度帰れたとして、キテルグマはしょうたくんを抱きしめたい衝動を我慢する自信がありませんでした。どうしても、力いっぱい、しょうたくんを抱きしめてしまうに決まっています。しょうたくんが大好きだから。人間が、大好きだから。
ああ、どうしてこんなことになってしまったのでしょう。キテルグマは、ほんとうに人間が大好きなのに。
2
それからしばらく経った頃、森でぼんやりしていたキテルグマのところに、あるポケモンがやってきました。
それはおおきなリングマでした。リングマはキテルグマを見つけるなり、怖い顔をしてずんずんずんと近づいてきます。そして、体が竦んで動けないキテルグマへ向かって、ぎゃおおと吠えながら腕を振り上げるのです。見ず知らずのキテルグマのことを、出会い頭に殺そうとするのです。
人間たちに傷つけられた心の傷も癒えていないキテルグマは、ひどく理不尽な仕打ちを前に、うずくまって頭を抱えるしかありませんでした。そうしていると、もやに包まれていたようだった悲しみが急におそいかかってきて、キテルグマは突然わんわんと泣きました。しょうたくんを「く」の字にしてしまってから、はじめて流した涙でした。人間にだけでなく、ポケモンにまで、どうしてこんなことをされなければならないのでしょう。キテルグマは確かにしょうたくんを「く」の字にしてしまったかもしれません。でもキテルグマだってそうしたくてした訳ではなく、ただキテルグマは、しょうたくんが大好きで、抱きしめたかっただけなのです。
わんわんと泣いているキテルグマを見下ろして、リングマは、あっけにとられた顔をしていました。腕を振り下ろすこともありませんでした。
リングマは何か思いつめたようにじっとキテルグマを見つめたあと、うずくまっているキテルグマの隣へと、どすんと腰をおろしました。そしてキテルグマに向かって、何かを差し出してきたのです。
それは、あまいミツでした。よくパパさんがこっそり舐めさせてくれていた、あのあまいミツでした。
口の中に、もうずっと昔に味わったかのような懐かしい甘さが、ぶああと広がっていきました。パパさんとママさん、しょうたくんの笑顔が、まるで目の前にあるかのように蘇りました。キテルグマはいっそうにわんわんと泣き声をあげてしまいました。
リングマの名前は、くまぞうと言います。キテルグマはくまぞうに、事の次第を打ち明けました。うまれたときからずっと、人間のことが大好きなこと。人間のことが大好きなあまり、大好きな人間を「く」の字にしてしまったこと。だから人間たちを怒らせて殺されそうになったこと。それでもやっぱり人間のことが大好きで、人間たちのことを思うほど、ますます人間のことを抱きしめたい気持ちが膨らんでいってしまうこと……。
すんすんと鼻水をすすりながら、あまいミツ瓶のふたの裏まで丁寧に舐めとるキテルグマの横で、くまぞうはずっとどこか遠くを見つめるような目をしていました。
「……分かってるんだ、ぼくにはもう、人間と暮らすことはできないんだってことは。でも、どうしても、この手でおもいきり、人間のことを抱きしめてみたいよ」
「どうしておまえは、そんなに人間のことが好きなんだ?」
「ぼくはタマゴからうまれたときから、おとうさんも、おかあさんも、いなかった。まわりにいるのは人間たちだけだったんだ。でも人間たちは、おちちをくれたり、あたたかいタオルでくるんでくれたり、背中を丁寧に梳いてくれたり。とっても優しくしてくれたよ」
思い出すと、また涙が出そうです。くまぞうは黙って聞いてくれていました。
「人間たちは親でもないのに、みなぼくに本当に親切にしてくれた。だから、人間のことは大好きだよ。くまぞうは、人間に優しくしてもらったことはなかった?」
キテルグマが聞いても、くまぞうは返事をしませんでした。
顔をあげれば青い空にまっしろな雲がもくもくと浮かび、風が吹けば枝葉はささやきあうような音を立てます。もっと耳を澄ませば、遠くから、小川のせせらぎも聞こえてきます。ポケモンの中にはそんな自然に囲まれていると元気になるのだという友達もいましたが、キテルグマはまったくの逆でした。森の中でなんか、暮らしたことはありません。キテルグマの生きてきた場所は人間たちの住む街の中であり、キテルグマの帰る場所は、しょうたくんのおうちなのです。森の声を聞けば聞くほど、自分の帰りたい場所からうんと遠くにいることを実感させられるような気がして、キテルグマはどんどん憂鬱になっていくのでした。
あまいミツのびんは、すっかり空になってしまいました。はあ、とため息をついたキテルグマの顔を、くまぞうは覗きこみました。
「……おまえ、一回人間を力いっぱい抱きしめることができたら、満足して野生に帰るか?」
「えっ!」
がばりとキテルグマは顔をあげました。
人間を力いっぱい抱きしめる。それはキテルグマの一番の望みなのですから、願ってもない提案です。
キテルグマはぶんぶんと頷きました。そうです。チャンスがない訳ではありません。しょうたくんは子供で、ほそっこくて、「く」の字になってしまいましたが、もっと太くて強い人間ならば。キテルグマが力いっぱい抱きしめたって、もしかしたらへっちゃらかもしれないのです。
3
キテルグマの知っている、一番太くて強い人間。
それはパパさんでした。
パパさんに会うために、キテルグマはくまぞうを連れて、しょうたくんのおうちへ戻ってきました。
ずっと帰りたかったしょうたくんのおうち。キテルグマの帰る家であるしょうたくんのおうち。パパさんとママさんの顔を見ること、少し怖さもありました。でもそれ以上に、久しぶりにおうちに帰れるんだというワクワク感で、キテルグマは胸を高鳴らせていたのです。
しょうたくんのおうちは、けれど、がらんどうになっていました。
しょうたくんと一緒にスクールから帰ってきたとき、ママさんがお買い物にいっていると、家に誰もいないということはあります。けれど今見ているおうちのがらんどうは、そのがらんどうとは少し違っている気がしました。
乗せられるたびにポケモン病院に連れていかれると思って暴れまわっていた車も、ありません。もう乗る人がいないはずのしょうたくんの自転車もありません。窓にはカーテンがかかっておらず、その向こうはまっくらで、キテルグマが何度も破いて怒られたソファも、パパさんがよく腰かけていたウッドチェアも、ママさんがじっとにらめっこしていた化粧台も、どこにも見当たらないのです。それはツチニンがテッカニンへ進化したあとの脱皮殻を思わせる暗さでした。
キテルグマの帰る場所だったしょうたくんのおうちには、もう、誰もいないのです。
キテルグマは悲しくて、わんわん泣いてしまいました。悲しくて寂しくて、わんわん泣きながら、がらんどうのしょうたくんのおうちを力いっぱい抱きしめました。
ぎゅうううううう……
ばきっ!
それからキテルグマはくまぞうを連れて、パパさんの会社へ向かいました。
パパさんは「森野商事」という会社の社長さんでしたから、会社にいけばパパさんに会えると考えたのです。しょうたくんとママさんに連れられて何度か遊びに行きましたから、会社の場所は知っています。
果たして、会社の前に辿りつくと、そこに会社はありませんでした。
看板も白いペンキで塗り潰されています。カーテンもしまりきっていて、中に人がいる気配もありません。出入りする人は誰もいません。ぽつんと立っている郵便受けには、山ほどのチラシが突っ込まれて、それはまるでキテルグマにあかんべえをしているようにも見えました。会社は潰れてしまったのです。
パパさんは、つまり、ここにもいないのです。
キテルグマはいよいよ悲しくなりました。キテルグマのことを置いて、みんな、どこかへ消えてしまったのです。悲しくて寂しくて、がらんどうのパパさんの会社を力いっぱい抱きしめました。
ぎゅうううううう……
ばきっ!
さて、おうちと会社以外に、パパさんの行きそうな場所なんてちっとも思いつきません。パパさんを抱きしめるのは諦めるしかなさそうですが、他に太くて強い人間など、キテルグマには心当たりがありませんでした。
くまぞうに励まされながらとぼとぼと道頓堀を歩いていると、キテルグマはあるものを見つけました。
『フリーハグ』
と書かれた紙っぺらの看板を首から提げて立っている、チャラそうな見た目の男の人です。
光明が差した。キテルグマはそう思いました。フリーハグ、つまり、抱きしめ自由。誰彼構わず抱きしめていいと、彼は両手を広げているのです。パパさんよりはやや細身ではありますが、しょうたくんよりはずっと大きな体をしています。もしかして彼なら、「く」の字にならずに済むのではないでしょうか。
キテルグマは喜んで、チャラ男の元へと駆け出していきました。
チャラ男は駆け寄ってくるキテルグマを見るなり、悲鳴をあげて逃げ出しました。
チャラ男だけではありません。H○Mで買い物をしていた人、かにを食べていた人、あのポーズで写真を撮っていた人たちも、みな血相を変えて一斉に逃げ出していきました。実はその頃にはしょうたくんが「く」の字になった事件のことは全国で報道されていて、キテルグマの危険性が認知されはじめていたのです。
しんと静まり返った道頓堀で、キテルグマとくまぞうの間を、たこ焼きソースの匂いだけが通り過ぎていきました。
大好きな人間たちが、自分の顔を見て、怯えて逃げていく。キテルグマはその現実を目の当たりにしてしまったのです。それは、それは、ショックでした。
キテルグマはそんなに怖い顔をしているのでしょうか。道頓堀を覗きこみ、水面に映る自分の顔を確認します。おめめはくりくりとして、カチューシャのような耳は白くてほわほわであり、顔はやはり、とっても愛らしいピンク色です。この、ピンク色。人間と暮らしているうちに、これが人間に愛される色なのだと知りました。きっと自分は人間に愛してもらうためにこの色に生まれてきたのだと、キテルグマは信じていました。だっこやポケモン病院がイヤでじたばた暴れても、人間たちが笑顔で許してくれるのは、きっとこの色のおかげでした。でも今は、そのピンク色をもってしても、人間に怯えられてしまうのです。
キテルグマのおおきな瞳から、大粒の涙が、ぽたぽたと、道頓堀に飛び込んでいきます。まるで虎柄の球団が優勝を決めた時のように、競うように次々と飛び込んでは、淀んだ道頓堀の色に呑み込まれてしまいます。
もういっそ自分も道頓堀に飛び込んでしまおうかと思ったとき、隣にいたくまぞうが、あるものを拾い上げました。
それは先程のチャラ男が首から下げていた、『フリーハグ』の看板でした。
くまぞうはその『フリーハグ』を、キテルグマの首からぶら下げて、スマホで写真を撮りました。
そして、インスタグラムを更新しました。
『#フリーハグ #最強の挑戦者募集 #キテルグマ #かわいいポケモン #写真好きな人と繋がりたい #ファインダー越しのわたしの世界』
――そう、くまぞうは、太くて強い人間を、世界中から募ることを思いついたのです。
この広いインターネットの海のなかでたったひとつの投稿が世界中の目に留まるためには、どうにかして知名度をあげなければいけません。キテルグマとくまぞうは、知名度をあげるための旅に出ることにしました。
4
まずキテルグマとくまぞうは、とある学校に赴きました。
最近のワイドショーのフリップネタはもっぱらとある学校の話題であり、今日もとある学校のまわりには各社のマスコミがカメラを構えています。
「うわあ、すごい人だあ」
「あのカメラに撮られている映像が、4チャンネルで生中継されているぞ」
キテルグマは、うじゃうじゃと群がるカメラの視線が不思議そうにこちらに向けられているのを確認して、力いっぱい校舎を抱きしめました。
ぎゅうううううう……
ばきっ!
しかし、国内だけでは物足りません。キテルグマとくまぞうは海を渡り、北の国を目指しました。
たくさんの人間たちがびしりとして見守る中で、迷彩柄のパレードカーが円筒状のものを運んでいきます。
「うわあ、おおきい!」
そしていかにも抱きしめやすそうな形状です。
「あれは核弾頭を搭載したミサイルですか?」
「そうです。西海岸まで到達しますよ」
キテルグマはパレードカーによじのぼり、円筒状のものを力いっぱい抱きしめました。
ぎゅうううううう……
ばきっ!
インスタグラムのフォロワー数は、加速度的に増加していきます。しかしまだまだ知名度が足りないのか、挑戦者は現れません。キテルグマとくまぞうは、世界中を旅しては、あらゆるものを抱きしめ、そしてインスタグラムを更新していきました。
傾いている塔を遠巻きに支えるのではなく、直接抱きしめました。
右手を掲げている女神の像を抱きしめたときには、かなりコメント欄が荒れました。
世界で一番おおきな岩の前で登山者を遮るように両手をひろげ、そのめいいっぱいに広げた両手で、おおきな岩を抱きしめました。
時には、登山もしました。くまぞうと二人でキャンプを張り、天気アプリで空模様を読みながら高度順応をして、山頂へとアタックします。声をかけ励まし合い、時に手を取り合いながら、遥か高くまでそびえる崖、また切り立った稜線の上を、高みをめざして歩いていくのです。高山病に苦しみ、半泣きになりながら登山を続けるキテルグマの脳裏に、くまぞうと見てきた様々な世界の景色が蘇ります。――そしてそれは、どれも、キテルグマがまだしょうたくんと一緒にいた頃、しょうたくんがいつか行きたいと夢見ていた世界そのものだったのです。
キテルグマは、先を歩くくまぞうの頼もしい背中を、じっと見つめました。くまぞうははっきりと前を向き、弱音のひとつも吐かず、ずんずんとキテルグマを導いていきます……
雪に覆われた岩肌の、一番とんがった先端に、ついにキテルグマは立ちました。
世界最高峰のいただき。それは、空の上にいるしょうたくんに一番ちかい場所でした。キテルグマは叫びました。しょうたくん、見てる――――。ぼくはやったよ――――。しょうたくんのいるところまで届くよう、大声で叫んだあと、キテルグマは、その大地を抱きしめました。
ぎゅうううううう……
ばきっ!
5
――そして、知名度をあげたキテルグマへ、挑戦者が名乗りをあげたのです。
挑戦者からの招待状を受け取り、キテルグマとくまぞうは一路アローラ地方へと飛びました。海に囲まれた南国気分にあふれるその島には、魅力的なものがたくさんありました。おおきなマラサダ、マンタインサーフ。一面のお花畑にオドリドリ。抱きしめやすそうな形状のきのみの木、抱きしめやすそうな形状のアローラナッシー……。キテルグマは、くまぞうと一緒に、それらをひとしきり楽しみました。まるで親子のような二人の束の間の休息は、あっという間に過ぎていきました。
そして、挑戦者の待つ「ロイヤルドーム」という名前へのレスリング会場へと、二人は乗り込んでいきました。
会場は人でごったがえしていました。彼らは世紀の一戦に心を躍らせている熱狂的なレスリングファンと言うよりは、怖いもの見たさで集まった観客たちでした。くまぞうが腕を組んで見守る中、キテルグマはロープを跨ぎ、リングの中で挑戦者を待ちました。
観客を煽るBGMと共に、向かいの入り口から、スモークが噴出してきます。やがて挑戦者が現れました。大興奮の野次や拍手と共にこちらに歩み出て、ロープを跨いでやってきたのは、確かにおおきな人間でした。しょうたくんより、『フリーハグ』のチャラ男よりも太く、パパさんよりは少し細身ですが、それでも曝け出された上半身の筋骨隆々と引き締まった肉体美は、いかにも強そうという雰囲気を漂わせています。赤と緑のヘンテコなマスクを被った人間は、キテルグマの前に立つと、両手を広げて言いました。
「さあ、君の技を見せてくれ! 僕の体はヤワじゃないぜ!」
その背後、ロープの向こうから、白い帽子を被った女の子が呆れた声で言いました。
「博士、また無茶なことをするのですか……! キテルグマさんのベアハッグを生身で受けようなんて、いくら博士でもさすがに危険です!」
両手を広げて待ち受ける、ヘンテコマスクの男の自信に満ち溢れた顔を、キテルグマはしばらく見つめて……。
くるり、と背中を向けました。
ロープを跨ぎ、元来た道を戻ります。後ろでヘンテコマスクが何かを言っていましたが、キテルグマは聞きませんでした。くまぞうが問いかけるような目でキテルグマを覗きこみ、キテルグマは、ゆっくりと首を横に振りました。
だって、キテルグマは、あの世界最高峰を抱きしめてきたキテルグマなのです。いくら筋骨隆々と言ったって、パパさんより細い体の人間です。力いっぱい抱きしめたら、彼がどうなるかは、容易に想像がつくことでした。
キテルグマは、世界でたったひとり、最強の挑戦者として名乗りをあげた人間でさえ、「く」の字にしてしまう自信をつけてしまっていたのです。
この世に、もう、キテルグマが抱きしめられる人間はいません。誰ひとりとしていません。キテルグマの夢は、ついに叶うことがなかったのです。キテルグマは夢遊病者のような足取りでロイヤルドームを後にしました。くまぞうは何も言わず、キテルグマの後をついてきました。キテルグマとくまぞうは、黙ったまま、ヴェラ火山をのぼりました。誰もいない急峻な岩肌に腰かけ、二人で雄大な海を眺めました。
「ぼく、これからどうしたらいんだろう」
キテルグマは言いました。言いましたが、分かっていました。これからはただのキテルグマとして、人間のことはさっぱり忘れて、生きていくしかないのです。キテルグマは人間の社会にたくさん迷惑をかけました。いくらピンク色と言ったって、もう、キテルグマを愛してくれる人間なんか、ひとりもいるはずはありません。
海を見つめる、キテルグマの横顔へ目をやって、くまぞうはぽつりと言いました。
「おまえに話さなければならないことがある」
キテルグマは振り返り、くまぞうの目をまっすぐに見ました。
とても懐かしい、気がしました。優しくて奥深い、くまぞうの目。キテルグマはその目に確かに懐かしさを感じました。それは、世界旅行へ連れ回してくれたくまぞうの背中ばかり見続けていたからではなくて、もっと前。くまぞうが最初に、キテルグマを殺そうとして、それからあまいミツを差し出してくれた時のこと。――いえ、もっともっと前です。くまぞうと会う前のこと。人間に撃たれながら逃げていたこと。しょうたくんを「く」の字にしたこと。その前。しょうたくんと、ママさんと、パパさん、みなに囲まれて、幸せに暮らしていたとき――。
「……おれは、実は、人間なんだ。元人間のリングマなんだ。
おれは、おまえのパパさんなんだ」
キテルグマは、はっとしました。
そう。――どこかで、分かっていたのかもしれません。だからキテルグマはくまぞうについていったのかもしれません。まるではじめから恨みを持っていたかのように、くまぞうが襲い掛かってきたこと。くまぞうが差し出した「あまいミツ」は、よくパパさんが舐めさせてくれたものと同じ甘さだったこと。くまぞうが連れていってくれる場所が、しょうたくんが夢見ていた場所ばかりだったこと。おうちに誰もいなかったこと。パパさんの会社が潰れていたこと。くまぞうが、いやにSNSに詳しかったこと……。しょうたくんを「く」の字にしたキテルグマのわがままを、パパさんは、ずっと傍で見守ってくれていたのです。
「どうして……」
キテルグマはあふれる涙をこらえられませんでした。くまぞうは、もうどこか遠くを見るような目はしませんでした。あの頃のように、あたたかい目で微笑んで、キテルグマのことを見つめていました。
「おれは、最初、おまえに復讐をするつもりだった。だがおまえに復讐するためには、人間の力では足りない。だからしょうたの仇を討つために、おれはポケモンになった。そして、おまえのところへ向かった。――だが、おまえは泣いていた。人間が好きだと泣いていた。そのときおれは気付いたんだ。気付いて、途方にくれたんだ」
「何に気付いたの?」
「おまえだって、あんなに仲良しだったしょうたのことを、「く」の字になんて、したくなかったんだろう? そのことに気付いたんだ。だったらどうして、悲しい事故が起きてしまったんだ? ――人間だ。人間のせいなんだ」
パパさんは、ゆっくりとキテルグマの肩を抱きました。
「おまえが人間のことを好きになるように仕向けたのは、人間たちだ。おまえが人間を好きになりさえしなければ、こんなことにはならなかった。本来、力の強いキテルグマと人間は、別々の世界で生きているべき存在なんだ。だが、ヌイコグマやキテルグマの見た目がかわいい。バトルに使える。そういう自分勝手な人間のエゴが、人間とキテルグマの間の境界を、取り払ってしまった。だから、こんな事故が起きてしまった」
パパさんは、泣いていました。キテルグマも、涙がとまりませんでした。キテルグマを抱きしめるパパさんのことを、抱きしめたくて、仕方ありませんでした。
「おれたちは、おまえに、確かに悲しい思いをさせられた。だが、おまえに悲しい思いをさせたのも、おれたちなんだ。おれたち人間が、キテルグマであるおまえを、こんなにも傷つけてしまったんだ。……キテルグマ。ごめんな、キテルグマ」
謝るパパさんの背中を、キテルグマは、撫でることしかできませんでした。本当は今すぐに、くまぞうを、パパさんを抱きしめたい。力いっぱい抱きしめたい。人間が、パパさんが、大好きだから。でも、それはできません。なぜならキテルグマは、あの世界最高峰でさえも、抱きしめてしまったキテルグマなのです。キテルグマが抱きしめれば、大好きなパパさんは「く」の字になって、二度と手の届かない空の上へといってしまうのです。――ところが。
「……さあ、キテルグマ。おれを抱きしめろ。人間の、元人間のおれを、抱きしめるんだ」
パパさんはキテルグマの目を見据え、肩を揺さぶって言いました。
キテルグマはイヤイヤと首を振りました。それだけは。絶対に、それだけは。
「何をためらっている。おまえは確かにトレーニングを積み、世界最高峰を抱きしめたキテルグマかもしれない。だが、おれだって、おまえと共にトレーニングを積み、共に世界最高峰を抱きしめてきたリングマだ。世界中のすべてのものがおまえの前に「く」の字になったとしても、おれだけは、おまえの抱擁を受け止めてみせる」
パパさんは、両手を広げました。
こうなってしまっては、もう、後戻りはできません。
キテルグマはパパさんの胴へと、ゆっくりと腕を回し。
そして力いっぱい、パパさんを、抱きしめました。
ぎゅうううううう……
「うううううううう……」
「ぬぬぬぬぬぬぬぬ……」
ぎゅうううううう……
「はああああああああああ」
「ふんぬうううううううう」
ぎゅうううううう……
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
「ぬおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
ぎゅううううううううううううう……!!
ばきっ!
6
水平線から日がのぼり、ヴェラ火山のむこうに日が沈んでいくさまを、それから、何度眺めたことでしょう。
キテルグマは、ヴェラ火山の岩肌に座って、ずうっと海を眺めていました。そこには人も来ませんし、ポケモンもあまり来ません。静かで、寂しくて、そして、誰も傷つけなくていい場所でした。キテルグマは、ずうっとひとりぼっちでした。しょうたくんの笑顔のようにきらきらしたり、道頓堀の水面のようにべったりと黒に沈んだりする海を、ずうっとひとりで眺めていました。
くまぞうを力いっぱい抱きしめたあと、キテルグマは、気付いたことがありました。
キテルグマは、確かに人間が大好きです。人間のことを、力いっぱい抱きしめたいとずっと思って、あらゆる世界のあれこれを抱きしめ、ここまで辿り着きました。――けれど、キテルグマが抱きしめたかった人は、本当は、たったひとりしかいませんでした。そのことにまるで気付かないまま、キテルグマは、ここまで辿り着いてしまったのでした。
キテルグマが力いっぱい抱きしめたい人は、しょうたくんだけ。
しょうたくんしかいなかったのです。
そして――しょうたくんを抱きしめることは、もう、永遠にできません。
しょうたくんのことを考えながら、キテルグマは、ずっと海を見て過ごしていました。海を見ながら、色んなことを考えました。けれど、自分がこれから何をするべきか、本当に何をしたいのかは、少しも思いつくことができませんでした。
その日はやけに静かでした。キテルグマの背中の向こうのほうにあるヴェラ火山公園には、ポケモンや人間がけっこう遊びに来るのですが、今日はひとりも来ていないようです。それどころか、ポケモンの鳴き声さえ聞こえないような気がします。少し不思議にも思いましたが、それだってもう、キテルグマにはどうでもいいことでした。だって、この世界には、キテルグマが抱きしめたいただひとりの人はいないのですから。
そのとき。
……ドオオオオオオオオオン……!!
という感じの音を立てて、ヴェラ火山が噴火しました。
ものすごく地面が揺れて、斜面に座っていたキテルグマは、たまらず転げ落ちました。転げ落ちたキテルグマへ向かって、ものすごい量の真っ赤なマグマが、ものすごい勢いで流れ落ちてきました。
実は、それは、危険なキテルグマを標的にした、人為的な噴火でした。
キテルグマは、確かに世界最高峰を抱きしめてきたキテルグマです。文中では省略しましたが、もちろんそれに至る過程では幾多の困難も乗り越えてきました。
ですが、不運にも、キテルグマの特性は「もふもふ」でした。
キテルグマは炎にめっぽう弱かったのです。
とめどないマグマに押し流され、キテルグマは灼熱の地獄に苦しみました。マンタインサーフは堪能していましたが、さすがにマグマを乗りこなす術は身につけていませんでした。もがき、あがいて、なんとかマグマの波から逃れたときには既に、キテルグマは全身にやけどを負っていました。気道も焼かれ、うまく息を吸うこともできません。まさに虫の息でした。もうすぐ自分が死んでしまうであろうことが、すぐに分かりました。あつい。くるしい。自慢のピンク色の体毛は、真っ黒に焼け焦げてしまっています。これではもう、本当に、誰に愛されることもありません。キテルグマは悲しい気持ちでいっぱいでした。
悲しい気持ちのまま、キテルグマは、瞼をとじました。
ですが。
最後の最後に、何かが目の端に映り込んで、もう一度瞼をあげました。
ああ、なんということでしょう。
――マグマとマグマの川の間を、ひとりの男の子が、走ってやってくるのです!
……こんなことが。こんなことが、あるのでしょうか……。キテルグマは打ち震えました。走りやってきた男の子は、すっかり変わり果てたキテルグマの姿になど、まったく構いませんでした。だって男の子は、キテルグマがピンク色だったから好きだった訳ではありません。キテルグマが男の子のことが大好きで、ずっと一緒に遊んで仲良くバトルなどをしていたから。キテルグマが、『キテルグマ』だったから、キテルグマのことが大好きだったのです。
夢にまで見たしょうたくんは、倒れ伏しているキテルグマを、しっかりと抱きしめてくれました。
「こんなところにいたんだね、すごく探したんだ。会いたかったよ。心配をかけてごめんね、キテルグマ」
大好きなしょうたくんの声。大好きなしょうたくんの笑顔。
きっと、夢を見ているんだろうな、と、キテルグマは思いました。
だって、しょうたくんは死んでしまったはずなのです。キテルグマが、「く」の字にしてしまったのだから、もうこの世にはいないはずなのです。でも、夢だろうが、奇跡だろうが、どうだっていいや、とキテルグマは思いました。
だって、キテルグマは、大好きなしょうたくんのところに、ついに帰ることができたのですから。
頭を撫でてくれるしょうたくんのことを、キテルグマは、抱きしめました。力いっぱい抱きしめました。……それでも、しょうたくんは、「く」の字になることはありません。キテルグマが力いっぱい抱きしめても、キテルグマは、いまにも死にそうだったので、しょうたくんを「く」の字にするだけの力は残っていなかったのです。
キテルグマは最期の力をふりしぼって、めいいっぱい、力いっぱい、心ゆくまで、しょうたくんを抱きしめることができました。
だから、キテルグマは幸せでした。
おしまい。
*
……どうだ。
こちらから問いたい気持ちを堪えつつ、担当者の顔を睨み続ける。原稿の最後のページを捲り終わり、しかし、意地汚そうな顔をした細身眼鏡の担当者は、首を縦に振らなかった。わざとらしく眼鏡を直し、眉間に皺を寄せ、さも偉そうに小首を傾げて見せた。
直感した。ああ、これはだめだ。終わった。今回は力作だと思ったのに。
「おそらくこのお話の主題は『くまぞう』が語る人間とキテルグマとの共生関係にあるのだと思いますけれどもね、全体的に、要素が多すぎて、要点が埋もれていると言いますか、生きてこないと言いますか。ここが伝えたいんか、読者を笑わせたいんか、社会風刺をしてるつもりなんかもしれませんが、これも中途半端と言いますか……結局ね、何がしたいのか分からんのですわ。あと、このラストシーンのね、マグマが流れる横で子供と抱き合う……と言うのは、あまりにもメルヘンと言いますか、突飛すぎると言いますか……」
「しかし、このお話は童話なので……おたくは童話の出版も取り扱われているとお伺いしております」
「童話、ねえ……」
原稿をぞんざいに机の上に投げ、こちらに押し返しつつ、担当は椅子の背もたれへふんぞり返った。
「童話のつもりで、お書きになったんですねえ。この、タイトルの『Let’s Go! キテルグマ』と言うのも、これはあれですよね、最近発表になった話題の新作ゲームの」
「やはり流行に乗じた方が、大勢の子供に読んでいただけるのではないかと」
「いやこれはね、だめですよ、森野さん。権利的にもね。これはだめですよ森野さん」
「しかし、ひとりでも多くの子供に、キテルグマというポケモンの真実を伝えるためには、私はどんな手段を使ってでも……」
「えー、森野……熊三さん。森野熊三さん?」
フルネームを繰り返す声には、嘲笑にも似た響きが含まれている。我慢の限界だった。
「これをね、子供に読ませるというのはね……幾分刺激が強すぎると言いますか……」
「――子供に読ませなきゃ、意味がないんだ!!」
椅子を立ち机を叩き、上から大声で怒鳴り付ける熊三に、担当の目つきが変わった。
無論、呆れたような目つきだった。
出版社を後にする。外は南国らしい日差しが照りつけ、からりと乾燥した風は、熊三の興奮を宥めるかのようだった。原稿を鞄に収め、額の汗を拭う。ついでに腕時計を確認する。17時30分。今日は19時からハウオリシティで『キテルグマ被害児童保護者の会』の会合がある。そろそろ船に乗らなければならない。
酷い担当者だった。人を小馬鹿にした奴の顔を思い出すだけで、また気分が悪くなるようだ。無名の出版社ならチャンスがあるかと思ったが、無名には無名なりの人材しかいないのだろう。この出版社は諦めて、次に持ち込む出版社を探さなければならない。『なぜキテルグマは人の世に暮らしてしまうのか』『森野祥太くん事件の真相――人々の妄想が、愛玩ポケモンを恐怖の殺人鬼に仕立てた』を出版したコガネの会社の担当者は、まだ親切な人だった。著作は既に絶版となってしまったが、とても良い本に仕上げてくれた。
港へと歩き出していく。通りかかるブティックには、キテルグマを模した可愛らしいシャツやスニーカーが並んでいるのが見える。店先にキテルグマとヌイコグマのぬいぐるみを大量に陳列しているショップもある。
熊三は口を引き結びながら歩き続けた。
――なぜ、こんな世界になっているのだろうか。なぜあんなに危険なポケモンを「かわいいポケモン」として定着させようとする連中が、未だにのさばっているのだろう。キテルグマがあと何人、将来勇猛なトレーナーを好意で殺してしまったとき、世界は、真実に気付くのだろうか。
キテルグマは、人間と共に生きることはできない。
共に生きてはならないのだ。
常に首から提げているペンダントを、今一度握り締める。
軌道に乗りかけていた会社を捨てた。あなたを見ていると悲しみから逃れられないと嘆いた薄情な妻も捨てた。あれから人生のすべてを懸けて、この問題に取り組んできた。不慮の事故で命を落とした祥太。そして、祥太を殺めてしまったばかりに、銃殺されてしまったキテルグマ。同じような被害は今でもアローラの至る所で発生している。この悲しみの連鎖を、断ち切る使命がある。だから熊三は、すべてを失ってなお、今日も戦わかねればならない。
乗り込んだ船は、嘆きのような汽笛をあげ、夕暮れの海へと繰り出していく。
この広大な海の向こう。祥太とキテルグマが無邪気に夢見た海の向こうに、きっと、正しい世界があると、熊三は信じている。