花の入り江
一面の黄色い絨毯。むせかえるほどの花の香。
なるほどこれが、『花の入り江』と呼ばれる由縁……。
フウとため息をついてから、男は花畑の中を歩き始めた。
膝ほどの背丈の緑の茎。葉の形と花の色はアブラナに酷似しているが、花弁の形はサクラの花に近いだろうか。しかしそれよりふたまわりほども大きい。男がザクザクとかき分けるように歩を進めるたびに、幾つもの花びらが散っていく。
強い花の香りの中に時折、潮の香りが混じる。何度も汗を拭いながら、男は微かな海の気配に引き寄せられるように進んでいった。
真っ青に晴れ渡った空、照りつける夏の日差し。火照った体を冷ます潮風が心地よい。
しばらく歩くと、永遠に続くかと思われた黄色い花の畑は突然終わりを迎えた。滑り落ちないように警戒しながら近づいてみると、陸の端のすれすれまでびっしりと花が埋め尽くしている。振りかえると、もうどちらから来たのか分からないほど一面に、鮮やかなレモン色が敷きつめられていた。
陸の終わりへと近付いて真下を覗き込むと、崖を打つ波の中に、星屑のような黄色い点がまだらに浮いているのが見えた。散った花の花弁だ。穏やかに波打つ水面で揺れる花びら、なるほどなかなか見事な光景である。
しかし男はそれを見て、首を傾げて呟いた。
「違うな」
やれやれと首を振って腕時計に目をやったとき、ふいに聞こえた音に男は顔を上げた。
ざぽんざぽんという波の音の中に、少し気の抜けたような、独特の汽笛の音色――もうすぐ汽車が来る。
「よいしょ」
突然誰かの声と、激しく水を叩く音が聞こえたのがその時だった。
慌てて崖の下をもう一度覗きこんで、男ははっと息を呑んだ。
「……これは」
視界の端には藍色の車体とそれが吐き出す白い煙が捉えられた。構わずに男は崖から大きく身を乗り出して、何一つ見逃すまいと目を大きく開いた。
「そんな」
一陣の風が駆け抜けて男の髪を乱した。一面に咲く花々を揺らし、その花弁が一斉に舞い上がった。男は列車の煙に包まれる直前の景色を見逃さなかった。
「まさか」
男の目の前には今、一瞬前とは全く違う光景が広がっていた。
乗客の歓声の中、列車が波をかき分けながらごうごうと音を立てて――黄色い海の中を。
煙に巻かれてせき込みながら、涙目で男は真下の海を見た。
列車はとうに東の海へと姿を消していた。眼下では、再び穏やかに打ち始めた波が、目を疑いたくなるような色に染まっている。鮮やかなレモン色――まさしく、それは今彼が踏みつけていて、その背後に延々と広がっている花畑の色だった。
どうやら、『花の入り江』の話は本当だったようだ。
「これはなかなか素晴らしい……ん?」
呟きながら、男は更に身を乗り出し、首をめいいっぱい伸ばしてて岸壁の方を覗き込んだ。
一面茶色の岩肌の中に、ぽつんと白くぼやけた部分がある。ずり落ちていた眼鏡をあげると、ぼんやりとした輪郭がはっきりと捉えられた。
……ブイゼルだ。それも、眉間に深くしわを寄せ、鋭い目でこちらを睨んでいる。
「……えぇと」
崖の中央辺りがくぼんで洞窟のようになっていて、ブイゼルはそこからこちらを窺っていた。中には、おそらく入り江を一面黄色く染めた原因であろうもの――黄色い花びらが散らかっている。彼、もしくは彼女がそこから海へ撒いたらしい。
「これは、君がやったのかい?」
ブイゼルは怖い顔のまま頷いた。
「しかり」
しかしそれは顔に似合わず、少年のような高い可愛らしい声だった。それだけ言うと、ブイゼルはものすごい速さで岸壁を駆け上がり、水の軌跡を残しながら男のそばへと降り立った。アクアジェットだ。
腰を下ろしたままぽかんとしている男と若干の距離を保って、ブイゼルは彼をじっと見つめた。もう怒った顔ではなくなっていた。
「人間。そなたは何者であるか」
「えっと……ミタニです」
「おれはブイゼルと申す。名はない」
だがイーチャンと呼ばれたこともあった。どうやらオスらしいブイゼルは律義に自己紹介をして、くるりと男に背中を向けた。
男――ミタニは唖然としたまま、こちらに背を向けて何かを始めたブイゼルを観察した。
すらりとした体躯に、首の黄色い浮き袋が目立つ。先っぽだけが白い、二股のしっぽをゆらゆらと揺らしながら、ブイゼルは前かがみになって何かをしている。
海に視線を向けると、水面に浮かぶ大量の花びらは少しずつ散らばりながら、沖の方へと流され始めている。
「あの……イーチャンは」
「その名で呼ぶでない」
しっぽをぴんとはり、顔はこちらに向けず、ブイゼルは高い声で静かに言った。どこまでも可愛らしい声質なのに、どこか威厳がある。ミタニは恐縮して、すまん、と小声で謝った。
「ブイゼルは、何故こんなことを?」
突然ブイゼルが動きを止めた。自然な体勢で動きを止め、ぴくりとも動かなくなった。
ミタニは口を閉じて返事を待った。海風に誘われて、花たちがサワサワと揺れた。
「……答える義理はない」
そう言い放つと、ブイゼルはまた作業を再開した。困り顔で頭を掻くミタニが見つめる中、彼にしっぽを向けたまま、少しずつ場所を移動しながら何かをしている。
「じゃあ、どのくらいこんなことを?」
「去れ」
即答されてミタニは身をすくめた。と同時にブイゼルは丸めていた背中を伸ばし、くるりと振り向いた。
その手のひらには、たくさんの黄色い花びらが握られていた。あ、とミタニが声を上げた瞬間、ブイゼルは瞬時に体に水をまとい、飛ぶように海の方へ降りていった。
花を摘んでいたのか。ミタニは呟いて花畑を見た。ブイゼルが移動した跡には、ところどころに中央のおしべだけになってしまった花が何輪も見受けられた。一か所から取ることはしないらしい。景観を守るためだろうか。
「去れと言った」
いつのまにかブイゼルはミタニの後ろに立っていた。手に花びらはなくなっている。崖の穴の中に置いてきたのだろうか……海に浮かぶ膨大な量の花が頭に浮かんで、ミタニはこの作業の果てしなさを思わずにはいられなかった。
「こんなに地道な作業を、君はいままで繰り返して来たのかい?」
「悪いか」
そういってまた背中を向けたブイゼルを見て、ミタニは急いで鞄に手を突っ込んだ。
このブイゼルがなぜこんなことをするのか、彼には見当もつかなかった。わざわざ花を摘み、それを集めて、海へ流す……それも丁度、午後の最初の列車が通る、その時間に。
分かっているのは、それがブイゼルの仕業であって、当初の彼の見解であった『自然現象』などではなかった、ということだけ。
ミタニは前かがみになって花を摘んでいるブイゼルの肩を叩いた。
怖い顔ではないものの、見るからに嫌そうな顔で振り向いたブイゼルの目の前に、ミタニは手に持ったものを突き出した。ブイゼルは驚いて少しだけ身を引いたあと、怪訝そうな顔で彼を見上げた。
「……これは?」
「いちいち置きに行くのは大変だろう、この袋に集めるといいよ」
そういって手渡されたスーパーのビニール袋をブイゼルはまじまじと眺め、同じ形状のものを持つ男が隣に腰を下ろすのを、やはり不思議そうに見た。ミタニは袋をひらひらと泳がせて、
「おれも手伝ってもいいかな」
そういって穏やかに笑った。
ブイゼルは狐につままれたような顔で長らく彼を見て、それからふいと顔を背けた。
「……十二年」
「ん?」
彼から視線を逸らしたまま、花びらを掴んだ手をおずおずと袋の中に入れた。
「おれが初めてフリシオンの花を撒いてから、もう十二回冬を越した。人間はこれを『十二年』と呼ぶのだろう」
先ほどの質問に答えたらしかった。言い終えると、ビニール袋をつかんだままひょこひょこと花畑を進んでいく彼の背中がどこか可笑しくて、男は声を殺して笑った。
*
「シッ、シッ」
男は右手を振りまわしてミツバチと格闘しながら、黄色い花を散らしながら小走りで進んでいた。
澄んだ青空に真白の雲がぽかんと浮かぶ、気持ちのいい昼間だ。ただし夜には雨が降り出すらしい。明日は来れないだろうと考えながら、しばらくスピードを上げて執拗に追いかけてくるミツバチを振り切った。
すると、気づかぬ間に海のすぐそばまで来ていたらしく、前方には仁王立ちでこちらを見ているブイゼルが見えた。よく見ると、眉間にしわを寄せ、鋭い目でこちらを睨んでいる。初めて出会った時と同じ、何か怒っているような表情だ。
かなり距離を置いたところでミタニは立ち止まり、情けなく笑いながら頭を掻いてみせた。
「……こんにちは」
声をかけると、ブイゼルはあっという間に普通の顔に戻った。おぉ、と言って、崖の下に飛び降りてしまった。
相変わらずよくわからない奴だ……あれから数時間花集めを手伝ったけれど、結局教えてくれたのは『フリシオン』という花の名前だけだった。なぜ野生のブイゼルが花の名前を知っているのか、それさえ分からない。
眼鏡が落ちないように片手で支えながら海を見下ろして、崖の横穴で何かをしているブイゼルにミタニは声をかける。
「なんで毎回睨むんだよ」
「睨んでなどない。目がよく見えぬだけだ」
はぁ、とあいまいな返事をすると、ブイゼルの姿は穴の奥へと隠れてしまった。それだけならあんな無骨な態度など微塵も連想させない可愛らしい声だけが、洞窟の壁を反響してからミタニの耳に届いてくる。
「ミタニ。今日は何をしにきた」
「え……っと、君がその、花を」
「よく聞こえぬ!」
「君が、海に花をまく瞬間が見たいなと思って!」
波の音にかき消されまいと大声で叫ぶと、フンと笑う声が聞こえて、
「ミタニの声はよく通らぬから聞き取りづらいわ」
そんな文句を相変わらずの高音で垂れた後、洞窟の中からひょっこり顔を出してこちらを見上げた。男は膝をついて、上半身を乗り出してブイゼルを見た。
ブイゼルは昨日あげた大きなゴミ袋を引っ張ってきて、その中に集めた大量の花びらを洞窟の出口に流し出した。
半日かかって集めた花びらは、想像していたよりものすごい量だった。よくここまで集められたものだ。塵も積もれば何とやら、というやつか。しかもそれだけ集めても、フリシオンの花畑はどこも禿げていないのだからすごい。
「直接撒くんじゃないんだね?」
「手間をかけてこそ」
そのとき、遠くで低く風の唸りのような音が聞こえた。汽車の汽笛だ。ミタニは右手の方向を見て、慌てて叫んだ。
「急がないと汽車が来るぞ!」
「分かっておる。おれは目は悪いが、耳はそなたよりうんと良い」
そういうとブイゼルは、ぷっと上に水をふいたかと思うと、二股の尾を高くあげて、水が落ちてくる前にくるくると空中でしっぽを回した。すると、水が吸い寄せられるようにそこに集まっていき、水の球体が出来上がった。しっぽを回す方向へ、中で激しい水流が渦巻いているのが見える。
「おぉ」
ミタニの感嘆を得意そうな顔で聞き流してから、ブイゼルは水の球を手へ持ち替えた。両手で大事そうに支えたその球を、黄色い花弁の山へそっと近づける。
するとレモン色の花びらは、激流にすくわれたような勢いをもって、渦を描きながら水球の流れの中へ飲み込まれていくではないか。男があんぐりと口を開けて見つめる中、無色だった球が、一瞬のうちに鮮やかな黄色へと変貌した。
ブイゼルは一瞬のためらいもなく、それを海の方へと放り投げた。球はきれいな球形を保ったまま、ゆったりと放物線を描いて飛んでゆく。
次にブイゼルは体をかがめた。どこからともなく彼の足もとへ水流がほとばしった。蹴りだすと同時に、彼の体を水流が電撃のように走った。目にもとまらぬ速さで線路の真上まで飛び、水流はブイゼルの尾に集められて淡い輝きを放った。体をくねらせた瞬間、彼と線路とを結ぶ直線上に丁度水球が重なった。
ブイゼルは大きく体をひねって、しっぽを真上から水球に打ち付けた。
「!」
男が口を開ける目の前で、多量の花びらを含んだ水球は崩れるように砕け、そこら一帯の海面へ降り注いだ。引きちぎられた花弁たちがもう一度寄りあって花開くように重なり、見下ろす入り江一面がフリシオンの色に染まった。
ブイゼルが再びアクアジェットを使って洞窟に戻った次の瞬間、彼の背後――即ちレモン色の海面を、藍色のボディを持つ汽車が走り抜けた。まばたきをするほどのわずかな瞬間、男とブイゼルの耳に、乗客たちの歓声が聞こえ、脳裏に焼きついた。一人と一匹は真っ白の煙に巻かれた。
「なぜ手伝う」
都合が悪いか? ブイゼルの怪訝そうな声にミタニは笑顔で答え、フリシオンの花びらを摘む作業に戻った。ブイゼルは不思議そうに首をかしげて、男の楽しそうな横顔をうかがった。
煙が去った後、ミタニは上がってきたブイゼルの濡れた手を握って、素晴らしいと雄たけびを上げた。驚いて体を硬直させたブイゼルにお構いなしに、彼はその小さな手を強く握って、この美しい技を一生忘れないだろう、そう思った。
それからまた花を摘む作業に戻ったブイゼルを、ミタニは何も言わずに手伝い始めた。
ブイゼルは不思議だった。なぜこの男は、何をされてもらったわけでないのにもかかわらず、無償で自分の『花撒き』を手伝うのか……。
考えてみるとそういえば思い当たる節があって、勝手にとはいえど手伝ってもらっているのだから、とブイゼルは口を開いた。
「アオイという人間を知っておるか」
「ん? アオイ? 知らないな」
振り向いた先に飛んでいたミツバチを水鉄砲のひと吹きで撃退してから、ブイゼルは淡々と話し始めた。
「おれが子供だったころ、この場所で人の子と出会った。名前はアオイ。いつも真っ白のワンピースと呼ばれる布をまとい、頭には麦わら帽子と呼ばれる円形の物体を被っておる。皮膚は肌色で髪は黒、瞳はこげ茶――丁度そなたと同様に」
それは日本人なら誰しも、と突っ込もうといて、ミタニはその言葉を飲み込んだ。
「海を通る列車の中に大量におるのが人間だということは死んだ母から教わっていたが、ホンモノと話したのはそれが初めてだった」
両親が早くに他界し、長らく一人で生活していたので、誰かと口を聞くのも久方だった。
アオイはここから近くの町へ親とともに帰省してきたところらしく、遊び相手もいなくて暇をしていた。おれたちはすぐに打ち解けて、この場所で毎日のように遊んだ。追いかけあって転げまわったり、花を摘み、茎を紡いで冠にしたり……フリシオンの花の名も彼女から教わった。
夏の数日間、二人きりでひどく楽しい時間を送った。
「だが彼女には帰らねばならぬ場所があった」
花びらをビニール袋へ入れながら、首だけはそちらへ向けて、ミタニは話を聞いていた。
「もう来れぬと彼女は言い、翌日の午後過ぎに列車でここを通るから、手を振ってほしいと続けて帰っていった。おれはアオイを盛大に送り出そうと、その時満開だったフリシオンの花を摘んで海へ撒いた」
じゃあまさかブイゼルは――そこまで言ったところでブイゼルが彼を睨んだ。
「話を最後まで聞け。……すると来年、フリシオンの花で崖が黄に染まる季節、また彼女はここへやって来たのだ。おれが花を撒いたことをとても喜んでくれた。とてもうれしかった、だからまた来たと。おれたちはまた遊んで、そして――」
花を撒き、冬を越し、季節がめぐり、アオイがやってきて、共に時を過ごして……。
「四度目にアオイを見たとき、彼女は以前よりひどく痩せて見えた。『びょーき』なのだと言ったが、それが何なのか、アオイは教えてくれなかった。その季節も、ここで毎日のように日が暮れるまで遊んだ。その日が来ると、アオイはまた来ると言い、そして帰るべき場所へと帰っていった。おれは花を撒いた」
すると。ブイゼルはそこまで話すと、きゅっと口を閉じた。ミタニが見つめる中、彼は一度、足元で咲き誇る花に視線を落として、それから顔をあげて続けた。
「その次にフリシオンが咲く季節、アオイはここへやってこなかった。なぜだかは分からぬ。昨年撒く花の量が少なかったのかも知れぬ。おれは嫌われたのかも知れぬ。それでも」
おれは、花を撒かずにはおれんかった。
その刹那、黒々とした瞳の色がかすかに揺れるのを、ミタニは見逃さなかった。
「じゃあ君は……それからずっと、その女の子のために、フリシオンを撒いていたのかい?」
「そうだ。毎回午後一番の汽車ではあったが、いつの汽車に乗っているのかは分からぬ。だから、フリシオンが咲く季節には、毎日午後一番の汽車に花を撒いてきた」
「ずっと……かい?」
「そうだ。全部で十二の冬、アオイが来なくなってからは八つの冬を越えた」
「まさか、雨の日も?」
「ん? そうだな。まだ雨が降ったことはないが……雨が降る日に、アオイが汽車に乗らないとは限らんだろう」
「もしもし」
『ミタニか? 調査の方ご苦労だな。何か分かったのか』
ミタニは携帯電話を片手に、延々と続いて見えるフリシオンの花畑の中をとぼとぼと歩いていた。
「ああ分かったよ。『花の入り江』の怪現象は、ポケモンの仕業だった。それもたった一匹のブイゼルの」
『……それは本当か? 毎日花が撒かれるようになってから、もう八年も経つんだぞ。あんな量を一匹のポケモンがだなんて信じられるか』
「本当なんだ」
『お前も、おそらく地形と風の影響だろうと言っていたじゃないか』
「そう思ってたさ。でも見たんだよ」
『なら一体何のために……』
強い風が吹いて、飛ばされた花びらが無数に舞い踊った。空を見上げると、重たい鉛色の雲が、西の端から順に頭上を覆い始めていた。
「……おれはやめさせるぞ。このままじゃあまりにも可哀想だ」
『は? 何を言っているんだ、あれはこの路線の見どころとしてこれから売り出すところだと言ったはずだぞ。お前には調査を頼んだだけで、そんなことは――』
「売上なんて知らん! 何も知らないポケモンを商売のために都合よく利用するなんて、そんなことあってたまるか」
会話相手は押し黙り、ミタニは携帯を閉じて大股で歩き始めた。
渦巻くような気味の悪い風がフリシオンの花をまき散らして行く。振り向いても、もう花を集めるブイゼルの姿は見えなかった。
*
夜中から降り出した雨はやがて激しさを増し、ミタニが入り江へたどりつく頃には、打たれると痛みを感じるほど強烈になっていた。足もとの黄色い花は、雨にうたれて散ってしまったものもあれば、花を閉じて容赦なく降り続く雨になんとか耐えているものもある。ここへくるといつも感じていた湧き上がるほどの生命力のようなものは、どこかへ姿を隠してしまっていた。
滑り落ちないように気をつけながら、慎重に崖の端まで近づいて、岩壁の洞窟を覗き込んだ。そこにブイゼルの姿はなかった。洞窟の奥へ避難しているのだろうか、しかしもうすぐ汽車がやってくる時間である。ミタニは傘を畳み、声を張り上げた。
「おい、ブイゼル! 時間だぞ!」
「……ミタニか?」
期待していた場所とは全く別の場所から返事が返ってきて、ミタニは慌てて振り返った。立ち上がって見回すと、一面黄色と緑の景色の中に、茶色の影がうごめいた。
駆け寄ると、そこにはいつものビニール袋を提げたブイゼルがいた。しかし様子がおかしい。
「ブイゼル?」
そこに横たわっていたブイゼルは、ミタニの声を聞くと、両手としっぽで体を支えながらのろりと立ち上がった。その顔を見てミタニは驚いた。生気のないうつろな目、いつも力強く結んであったはずが今日は力無くだらりと下がった口の端――いつもの彼の様子とはまるで違う。
ブイゼルは耳をぴくぴくと動かすと、ふらりと海の方へ歩き始めた。数歩よたよたと進んで、ふいに立ち止まると、そのまま膝から崩れ落ちるように花畑の中へ倒れた。
「ブイゼル」
ミタニはブイゼルの体を抱き上げて、その小さな体をゆっくりと揺すった。ぐっしょりと濡れた毛皮の奥から、嫌な熱を感じる。ブイゼルはぐったりとミタニに体を預けたまま、瞼を静かにあげて彼の顔を見た。
「ミタニか……花が、足りぬのだ……花が……」
「いったいどうしたっていうんだ、花は昨日十分集めたじゃないか」
「……風……強い風が」
ブイゼルはゲホゲホとせき込んで、それからミタニの腕の中でもぞもぞと動いた。彼から逃れようとしているようだった。
「はやくしないと、汽車に間に合わぬ」
「動かない方がいい、今日は諦めるんだ」
「しかし……」
「ダメだ!」
その時、雨音の中に低く長い唸りが聞こえた。振り向くと、白い煙が雨の中でもはっきりと捉えられた。――汽車が来る。
「アオイ……」
ブイゼルはそれを見て目を微かに開き、掠れた声で訴えた。放せミタニ、汽車が、汽車が来る……ミタニは腕の中で力なくもがくブイゼルを必死に抑え続けた。悲痛な声を上げるブイゼルを直視できず、きつく目を閉じた。
汽車が背後を通り過ぎていく気配を感じた。
「アオイ……アオイ……!」
「やめるんだブイゼル!」
両腕に激しい痛みを感じて、とっさにミタニは手を離した。ブイゼルは滝のような雨の中、アクアジェットを使って崖の先端に降り立った。海には、雨で流れたフリシオンの花がまばらに浮かんでいた。藍色の汽車の姿は、もうとうに雨の向こうに消えていた。
「……あぁ」
ブイゼルはもう一度地面に崩れ落ちた。駆け寄って抱えあげると、ブイゼルは目を閉じたまま、腕の中でくるりと丸くなった。
「……花を撒かないと……」
「今日の分まで明日撒けばいいだろ?」
腕の中で、ブイゼルは小さく震えていた。ミタニは彼をぎゅうと抱きしめた。子供のような高い声が、雨音に混じって微かに聞こえた。
アオイに、アオイに会いたい……。
「もしもし?」
『おいミタニ、花が撒かれなかったらしいじゃないか。雨のせいなのか? それともまさかお前本当に』
「もうダメだ……」
『は、は? 何がだ』
「おれはもう、こいつを……見て、られない」
スン、と鼻をすする音を何度も交えながら、ミタニは答えた。
な、何を言ってるんだ? 電話から聞こえる声が霞むほどの雨音の中、ミタニはぬかるんだ地面の上にしゃがみこんでいた。左手には携帯電話、雨水が収入してずしりと重みのあるビニール袋を提げて、右手を前に伸ばした。
ゆっくりと確実に、雨で散った花びらを一枚ずつ拾い上げては、ビニール袋に入れていく。
彼の後ろでは、広げられた傘の下でブイゼルが寝ていた。
「明日、全部を、終わらせ、る。止めないでくれよ」
『待て、落ちつけ。おれにはお前が何を言っているのかいまいち――』
「……もう決めたんだ」
通話を終了させて、すっかり濡れてしまった携帯電話を鞄の中に戻した。目をやると、ブイゼルは泥の中に横になって、ゆっくりと腹を上下させていた。顔色は良くない。
ミタニは袖で目をこすって、もう一度右手を地面へと伸ばした。
*
昨晩の嵐のような雨のおかげで、崖の上はぐちゃぐちゃになってしまっていた。
歩くと足の裏にこびりつく泥が気持ち悪い。腰を下ろすと、泥に混じって黄色いものが見える。雨によって落とされ、無残な姿を晒すフリシオンの花だ。
昨日より少し冷え込んだ空気の中、ブイゼルは軽く頭を振って立ち上がった。まだ体の中に嫌な感じはあるが、昨日に比べるとうんとよくなったように感じる。大きくのびをしながら見上げると、真っ青な空は高く高く広がっている。嵐の雲はどこかへ行ってしまった。
歩くとぺちゃぺちゃ音がするのが嫌で、ブイゼルはアクアジェットを使って岩壁の洞窟に戻った。そこらじゅうにフリシオンの黄色い花びらがちらかっている。そして、穴の一番奥に、昨日ミタニが一人で集めた花びらが積んであった。レモン色の中に、地面の泥色が混じっている。ブイゼルは振り返って入り江を覗き込んだ。
入り江は、雨で流れ込んだ土壌のせいか、いつもより淀んだ色をしていた。ところどころに見える黄色い点も、もう鮮やかな色はしていない。崖の上も、もう半分以上の花が散ってしまって、茎の緑の面積がうんと増えていた。
昨日の雨で、フリシオンの季節は、大方終わってしまったのだ。
もうミタニは来んかもしれぬ、とブイゼルは思った。
このような何もない場所に、だれが望んで来るだろうか。きっと、フリシオン色の海に興味があったに違いない。
ずっと遠くで汽笛の音が聞こえた。汽車が来る。ブイゼルはミタニがあつめたフリシオンの袋を取ってきて、いつもと同じように洞窟の入口に開けた。
この季節はこれで終わりだ。
真上に水鉄砲を吹き上げた。しっぽをあげて、ソニックブームを微妙に調節しながらしっぽを回転させる。輪の中央に水球が出来上がる。ソニックブームを少しずつ強めて中に水流を作り出しながら、ブイゼルはこの冬をどう越そうかなどと考えた。
回転速度が上がって水球が安定しだしたら手にやさしく持ち替えて、花びらに静かに近づけて……出来上がった黄色の渦の球は、いつもより少し濁った色をしている。花びらに付着していた泥の色だ。
まったくミタニは仕事が粗い。ふと笑みを作った瞬間、再び汽笛が聞こえた。右手にはうっすらと藍色の車体が見え始めた。
ブイゼルは水球を海の方へと放り投げ、同時に地面を蹴りだした。アクアジェットによって発生する水流を、勢いに乗せて二股の尾に集中させる。
ぐるりと体をひねって海を見た。青色の海だった。そういえば、これがレモン色に染まる瞬間を見たことがない。
水の中にゆったりとうねって見える線路と、真下に飛んできた水球がぴったりと重なった。真下へと体をひねり、しっぽでそれを叩き割る。同時にアクアジェットを使って洞窟へ戻りながら、ふと思いついて首を後ろへ捻った。
ブイゼルは目を見開いた。
空中を妙な姿勢で飛びながら彼が見たものは、ほんの刹那の光景だった。
形を失った球が粉々に砕け、その一つ一つの粒が、夏の鮮やかな日光を吸収し、夜空の星がそのそれぞれの存在を誇示するのよりずっと強く光り輝き、その光の影を空色の海へ投射し、二つの輝きの欠片たちが吸いつけられるように近づき、それらが交わる瞬間、いくつもの花が重なり合って開くように海面を埋め尽くして――、
そこまで見たとき、ブイゼルは妙な態勢のまま洞窟の壁に激突した。ゴツンと鈍い音がして、のろのろと起き上がったとき、目の前を藍色の汽車がごうごうと音を立てながら通り過ぎていった。乗客の声が聞こえた。目を輝かせ、口を大きく開けて笑っている誰かの顔が見えた。
ブイゼルは言葉を失って、ぽかんと口を開いて固まっていた。
強い風が吹いて、崖の上の花びらが海の方へ舞っていくのが見えた。白い煙を吹き飛ばし、洞窟から鮮明な景色が見えるようになったとき、
「――イーチャン!」
妙な声が、昔の自分の名前を呼んだのを聞いた。驚いて立ち上がり、洞窟の入り口まで出て顔を上げた。
「イーチャン! 私よ!」
まぶしい太陽の光の中に、白いなにかがはためくのが見えた。大きな丸いものをかぶった人間のようだった。しかしいまいち焦点が合わず、ぼんやりとしてよく見えない。ブイゼルは思い切り目を細めた。心臓がバクバクと脈打つのを感じていた。
白いなにかは、確かにワンピースだった。大きな丸いものは、確かに麦わら帽子だった。顔は逆光でよく伺えないが、記憶の中の少女よりずっと大きいことは確かだ。でも、人間は大人になるとぐんと身長も伸びると聞く。しかし……
「イーチャン! 私よ、アオイよ!」
その無理に押し出したような潰れた高音の声をよく聞いてみたとき、ブイゼルは急に可笑しくなって、口を押さえてぷっと吹き出した。
「――ミタニ、何をしておる」
股がスースーして気持ち悪い。気を抜くと海の方に押し倒されそうなほどの強風の中、ブイゼルは唖然としてこちらを見たあと、急に顔を伏せたかと思うと、笑いを押し殺したような声で言った。
このためだけに新調した真っ白のワンピースがはためくのを右手で抑え、同じ町に住む甥っ子に借りてきた麦わら帽子を左手で抑えながら、ミタニはブイゼルの言葉を聞いて一歩あとずさりした。
なぜだ、変装は完璧なはずなのに? もうブイゼルはものが見えない時にする彼の癖である、にらみつける行為をしていない。いやでもまだ、大丈夫だ。こちらに近づかれない限りは……
「イーチャン、もう花を撒かなくてもいいの! 私、もう十分よ!」
「それでもおれは撒きつづけるぞ、ミタニ」
「だから私は――」
ブイゼルはロケットのような勢いで崖の上に駆け上がって、慌てて帽子で顔を隠すミタニの姿を見て、おかしそうに笑った。
「目は悪いが、耳はそなたよりうんと良い。……言ったじゃろう、ミタニ」
*
『……おれはお前の常識を疑う』
「ハハハ。おれは女装趣味はないぞ。勘違いするなよ」
周りを飛び回るミツバチを片手で追い払いながら言うと、相手がフンと鼻で笑う声が聞こえた。
ミタニはフリシオンの花畑の中を歩いていた。昨日の雨で花は大量に押し流され、茎と葉だけになってしまったものも多い。そういえば、最初に来た時よりもずいぶんと涼しく感じる。秋が来るのだ。
「そのあとは、そこで彼としばらく話して」
ブイゼルとワンピース姿のミタニは並んで崖に腰かけて、フリシオンが沖に流されていくのを見ていた。
「おれはお前にひとつ嘘をついたな。最後にアオイに会ったとき、本当は彼女は、もう二度とここには来れぬだろうと言ったのだ」
ブイゼルはミタニの顔を何度も見てはそのたびに吹き出し、幸せそうにしっぽをふりながら話した。
「『びょーき』で死ぬから来れぬ、と言った。だからアオイがあの汽車に乗っておらぬことを、おれは知っておる。それでもどこかで、こうしていればもう一度アオイに会えるのではないかと、希望を抱いてもおった」
でもそれはもう、今日で終わりじゃ。ブイゼルは立ち上がって、ミタニの方に振り向いた。その手には、泥で汚れたビニール袋が提げられている。
「おれは今日見たよ。そなたが言うように、フリシオンが海に撒かれる様は、もう一生忘れられぬほど美しかった。おれはこの技で、あの汽車に乗る人間たちを喜ばせる。それにお前もな」
そういうとブイゼルはミタニに背中を向けて、二股の尾をゆらゆらと揺らしながら歩きだした。この季節は最後の一輪まで撒くぞ、と高々に宣言して。
「おれ、これからもここに来るからな。毎日とはいかなくても、週に何回かは遊びに来るよ」
ブイゼルはそれについては何も言わず、ああそうじゃと呟いて、くるりと振り返った。
「それからお前は、大きな勘違いをしておるぞ。言っておくが――」
「……イーチャンと呼んだのは彼の母親で、アオイちゃんとやらではなかったそうだ」
そう言うと、また会話の相手がフンと笑った。
『じゃあ、これからも『花の入り江』は続くんだな? ミタニ、ご苦労だった。今回の報酬はちゃんとお前の口座に――』
ちょっと待て。ミタニは言いながら振り向いた。なお懸命に咲き誇っているフリシオンの花が、風にくすぐられて笑い声を立てるように揺れていた。そのずっとずっと向こう、岩壁の洞窟以外には何もない入り江に、誰とも知らない人のために、線路に花を撒きつづけるブイゼルがいる。
「これからは、あの入り江を通るたびに、乗客に『ありがとう』と叫ばせることを提案するよ」
『……上に伝えておく』
携帯を閉じて鞄に収めた瞬間、突風が面白いようにスカートを捲りあげて、男は裾を必死に抑えながら花畑を歩きはじめた。