ケロ太の雲
秋が来てからというもの、ケロ太の雲からはしとしと雨が降り続いていた。
こればっかりは仕方ないとしても、それが一週間も二週間も連続するといいかげん嫌気もさしてくる。本物の空には高気圧が張り出して、甲高い青色が突き抜けるというのに。それと似たような青色のケロ太はここんとこいつでもぐっしょりだった。背負ってる雲がいつも降ってるんだから、仕方ない。仕方ないっちゃそうだけれど。
ケロ太の雲が『心の雨を降らせる雲』なのだというのは、ケロ太が三つになったときにケロ太の母ちゃんが教えてくれた。それはちょっと特別なのだと、父ちゃんとの馴れ初めの話をするときみたいに、ケロ太の母ちゃんは恥ずかしげだった。『ケロ太が初めて恋をしたときに、ケロ太の雲はその子の雨を降らせるのよ』。人の心の湿っぽいモノを、代わりに引き受けて、雨を降らせる。ケロ太の雲はそういう雲だ。
つまり今、ケロ太の雲から降っている雨は、ケロ太の初恋の相手の心の雨だということになるはずなのだけれど、納得いかないのはケロ太にそういう心当たりがまったくもってないところである。恋。恋ってなんだ。恋って誰だ。そういう『ときめき』の心当たりもなければ、例えば角を曲がった時にお魚くわえた女の子とうっかり鉢合わせしてしまったとか、そういうベタベタなシチュエーションにもさっぱり心当たりがない。誰かに恋をされているという心当たりも、もちろんない。ケロ太が鈍感なのだと言われればそんなものか思いそうにもなるのだけれど、そもそも女の子の知り合いなんてケロ太にはほとんどいなかったのである。
ケロ太というのは、だんだんおませになっていく幼馴染のケロマツの中でも、いっとうクールなケロマツだった。クールというか、ぼんやりというか、どっちなんかは分からない。ともかく愛だの恋だのということには、幼馴染の中ではいっとう関心のない方だ。きのみを食べたり、川で魚と遊んだり、お花畑に水をくれたり、お空の雲を追いながら自分の雲をのんびりぶくぶくさせるのが、なによりもいっとう好きなケロマツ。それというのが、ケロ太なのだ。
ああ、お空の雲に、恋でもしちゃったのだろうか。おセンチな気分で雨模様のケロ太は歩く。しとしと雨はついてくる。雨はしとしと降り続いているけれど、たまにはほとんど霧のようになったり、たまにはざんざんぶりになったりした。どっちにしたって降り続けることには変わりないから、ケロ太がひとところに留まって昼寝でもしようものなら、たちまちに辺りは水たまりになる。酷いときには洪水になる。不思議とお空が真っ暗になって星が自分語りを始める頃には雲も降り止むから、寝る分には困らないけど。今までのようなぼんやり遊びがろくにできないことが、特にケロ太の悩みの種だ。ぼんやりお空を眺めながら雲をぶくぶくさせていれば水たまりにして煙たがられるし、魚と遊びに川へ向かえばたちまち泥水を生んでしまうし、そんな調子だからいつものお花畑に行くなんてもってのほかだ、いつ雲が暴風雨になって、お花をぐっちゃにしちゃうとも分からない。
思春期のケロマツが大概そんな悩みを抱えるものだとしても、ケロ太に納得のいかないのが、何度も言うようだけれど、この雨を降らせている根本の人が誰なのかちっとも分からないことである。普通のケロマツなら、その雨を降らせているのは初恋の相手なのであるから、その初恋の相手の心の湿っぽいモノ――つまり悲しみの原因を取り除いてあげれば、雨を止ませることができる。それはもう、思春期を迎えたケロマツが大人になるための通過儀礼みたいなものだ。けれどもいつまでもケロ太は雨を降らせている。これがつまりどういうことなのかというと、初恋の相手の悲しみを延々と取り除けていないということだ。それどころかケロ太があんまりにもそういう類の行動を起こそうとしないから、周りのケロマツ仲間たちにもいいかげん不審を向けられ始めた。すなわち、ケロ太が甲斐性なしと。好きな女の子の悲しみも取り除けない、へたれのケロマツ。そんなこと言われたって、誰が何して悲しんでいるのかちっとも分からないのだから、どうしようもないではないか。
誰かさん、早く悲しむのをやめてくれよう。おれに涙を押し付けるのを、はやくやめにしてくれよう。この頃ケロ太はそればかり考えていたから、まあ甲斐性がないというのはきっとあながち間違いでもない。ああ、花蜜が舐めたいぜ。雨が降り始める前までのケロ太のいっとうの楽しみがそれだった。晴れが続いていたら、お花畑に行って、シャワーのように水鉄砲をくれるかわりに、お花から花蜜を頂戴する。そんなギブアンドテイク。いっとうきれいでおいしかったあの赤と黄色のまだらのお花、まだ咲いているだろうか。なにしろ雨が降り始めてから、一度もあそこに行っていない。ああ。あの高原の小さな花畑。考えるほどに恋しさが募る。
あそこから眺める高い雲。それがまた、ケロ太の楽しみだった。群れからはぐれた千切れ雲のすんとした白さが、たまらなく好きだ。群れて愛だの恋だの言ってる幼馴染たちとちょっと違ったケロ太の『はぐれ』を、そっくり映してくれてるようで。あれはケロ太の親友だった。別にケロ太に友達がいないということはなくて、ただ愛だの恋だのに浮かれている幼馴染ケロマツの中で、そういう部分に限って、ケロ太が浮いているというだけの話なのだけれど。
さあそんな幼馴染の一匹が、おセンチケロ太にやってくる。ケロ吉だ。ケロ吉は幼馴染連中の中でもいっとう体がでかくて、雲もでかくて、心もでかい。そういうケロマツだ。ケロ吉の親父は大忍者で、そういう血を継いでいるから戦うのにもめっぽう強い。それでいてケロ太みたいなぼんやりへたれのケロマツにも変わらぬ態度で接してくれる、とても気のいいケロマツだった。
しとしと降っているケロ太が顔を向けると、ケケケッ、とケロ吉は笑った。
「今日も湿っぽいなぁ、ケロ太よ。ケケケ」
「おれだって好きで湿っぽくいるわけじゃねぇ」
「ケケケケケッ! そいつぁそいつぁ。イイ子ちゃんは見つかったんケ?」
水たまりを作らないようにうろうろしていたケロ太を止めて、水はけの良い川原の切り株に、どしっとケロ吉は座った。ケロ太はその横にすてんと座る。
「ケッ、ちっとも見つかんねぇや」
「ケケッ。そいつぁ困ったもんだな」
「困ったなんてもんじゃあないよ」
「なかなかうっとうしーんだよなぁ、この雲も」
ケロ太より大きい自分の雲を、ケロ吉はもちもちと触る。『おませ』の早かったケロ吉は、このメンドウな通過儀礼を一年も前に終わらせていた。
「ホントはいるんじゃねーのケ? 好きなヤツ」
「おれが教えてほしいよ」
「ケロ子とか? ケケケッ」
「ケケッ、よせやい」
「珍しいやつだと、相手が人間とかもいたな。思わん相手かもしれんぞ、よぉーく考えてみたんケ」
人間か。そいつは本に物好きだ。……だとすると、もしかして本当に、お空の白い千切れ雲なのだろうか。ケロ太はぞわぞわした。もしそうだとしたら、ケロ太はそいつの悲しみを癒やすために、空を飛ばなきゃならないってことだ。
「ないんケ、心当たり。そのことばっか考えて、胸がきゅうんとするような」
「……分からん」
「ケケ、ケロ太のぼんやりにも困ったもんだぜ」
ケロ吉がケケと笑うと、わさわさと茂みが鳴った。川面がさわさわと波立つ。ケロ太の雨がしゃわしゃわと流れる。今日は風が強かった。
そのことばっか考えて、胸がきゅうんとするような。……よくよく探してみれば、今までだってさんざん探してきたというのに、なんとなくないでもなかった気もしてきて、ケロ太はぼんやりと考える。分からないけど。考えすぎて、生み出しちまった、妄想か。妄想と現実の違いも分からなくなってたんじゃ、いよいよやばい。見上げる。千切れ雲が今日もそこにあった。白くて、形を変えながら、音もなく右手に流れていく。うーん、けれど、何か違う。やっぱりあれは親友であって、恋の相手なんかじゃないはずなのだ。うーん、だったら、なんなのだろう。
そのとき、いっとう強い突風が吹いて、ケロ太もケロ吉もぶっとばされた。
わあああああ。ぼちゃん。二匹は川に落ちた。あたふたとカエル飛びで岸辺に戻る。ケロ太はちびっこい方だけどケロ吉なんかはまあまあでかい、それをぶっとばすなんて凄い風だ。二匹はずぶぬれの顔を見合わせて、ケケケケケッと笑った。
そのときだ。
ぴかっ。ずがん。
二匹はその場でカエル飛びした。
物凄いフラッシュ。物凄い衝撃。何が起こったのか分からない。分からないけど、なんだか尻がびりびりする。また顔を見合わせようとして、あっ、とケロ吉は、ケロ太の雲を指さした。
ぴかっ。ずがん。
再び二匹はカエル飛びした。
「ケケケケケッケケロケロリ、ケケケケロケロケロケロ太おまえ!」
ぴかっ。ずがん。
カエル飛び。
「おまおまおまえ! おまえの雲!」
ぴかっ。ずがん。
カエル飛び。
「おまえの雲、カミナリ雲になってるぞ!」
ぴかっ。ずがん。
鳴り止まない。ケロ吉の言うとおり、長いことしとしとざんざん降っていたケロ太の誰かの心の雲は、突然真っ黒なカミナリ雲になり変わった。これはたまらない。カエル飛びでケロ太は川原を逃げ出した。カエル飛びは大得意で、そんなに素早くすっ飛んで行くのに、カミナリ雲はぴったりついてくる。まあケロ太が背負ってるから当然だった。
ぴかっ。ずがん。
こんなもの背負ってるけれど、ケロ太はカミナリが苦手だ。ケロ太は、というかケロマツは皆苦手だ。電気のびりびりが苦手なのだ。そもそも雲がカミナリ落とすなんて聞いてない。ケロ太の雲に雨を降らせてた心の持ち主が、カミナリ落とすくらいのものすっごい勢いで荒れているのだ。雷雨。豪雨。暴風雨。雲はむくむく膨らんで阿呆みたいに荒れ狂った。主のケロ太などお構いなし。
ぴかっ。ずがん。
正直ケロ太は死ぬかと思った。どっかに足をひっかけてうつ伏せに倒れた瞬間に、背負ってる雲がカミナリ打って、ケロ太は打たれて、死ぬに違いない。というか死ぬだろう。間違いなく死ぬ。電気は苦手中の苦手なのだ。そんな危険なものを背負って母ちゃんや父ちゃんや他のケロマツのいるとこに行くわけにもいかず、とにかく人ッケのない方へ、ケロ太はカエル飛びで逃げた。うおおおおお。ごろごろびしゃん。カエル飛び。飛べったら飛べ。ケロ太の携えるカミナリ雲はいつしか嵐になって枝やらなんやらをへし折っていた。ごおお。べきべき。ぴかっずがんずどんどしゃん。カエル飛び。もうどうにでもしてくれという気持ちに五分もすればなってきた。死ぬかと思ったというよりああ死ぬんだわと思い始めた。どこで死のうかと考え始めた。べきっびゅおおんどんがっしゃんずがどんどじゃーんぴかぴかぴかりんずっどんどん。カエル飛び。ふと浮かぶ。高原。お花畑。甲高い空。赤と黄色のまだらのお花。白くてはぐれの千切れ雲。そうだあそこだ。もうすぐ力尽きるというところだったけれどケロ太は渾身のカエル飛びで急ぐ。カエル飛びすれば自分の風にあおられてどこかへ吹き飛んでしまいそうだったがそれでもケロ太はカエル飛びした! カエル飛び。カエル飛び! そしてカエル飛び! からのカエル飛び! これぞ男のカエル飛び!
狂ったカミナリ雲を背負ったまま燦々と晴れ渡る高原にたどり着いた途端、ついにケロ太は力尽きた。
着地損じてずしゃっと倒れる。うつ伏せに。すかんと冴えた日差しを遮ってケロ太の雲が被さった。ああ死んだ。おれ死んだわ。さらば愛しの世界。最後にすんと息を吸う。土の香。草の香。花蜜の香。ああこれだ。思わずにんまりとしちゃう。ここに来たかったのだ。雨が降り始めてから、ずっと、ずっと。最後にここまでこれてよかった。最後にここにいれて、本当によかった。ケロ太は息を吐いた。それからまた息を吸う。土の香。草の香。花蜜の香。そうそう、これこれ。これなんですよ。吐いて。また吸う。それから吐いて吸う。吐いて吸う。
かくして、いっこうに、ケロ太にカミナリは落ちなかった。
……何度も何度も瞬きをしてから、ケロ太はそっと首を捻る。青い空。白い雲。そっと仰向けに寝転がる。青い空。白い雲。さっきとは別の。さっき見えてた白い雲は、ケロ太の雲で、それは今ケロ太が背中に下敷きにしているのだった。
青い空。白い雲。
そういえば雨も止んでいる。
青い空。白い雲。
誰かの心の雨雲はどこへいった。
――ああ、ついにまた来てくださったんだわ、と誰かが言う。ぺんぺん草を鳴らすような小さな小さな声だった。ケロ太は顔を横に向ける。そこに一輪揺れていたのは、ケロ太の好きだった、きれいでおいしい、赤と黄色のまだらのお花。けれども秋も近い。風も強かった。花びらの一枚が、欠けてしまっていた。
それでも。
「あなたが来てくれなくなったものだから、わたし、とっても悲しかったのよ」
お花が言う。いや、そのお花に隠れている、小さな小さな生き物、妖精のような生き物が、顔を真っ赤にしてケロ太を見ている生き物が、言う。
ああ、なるほど。すとんと腑に落ちて。ケロ太はケケッと笑う。
おれが恋をしたのは。