8.イチジョウの嘘【四月一日 リューエル本部にて】
8.イチジョウの嘘【四月一日 リューエル本部にて】
昨日の午前中頼んだ業務がまだ終わってないとはどういうことだ。三十分もあれば終わる仕事だろうが。しかも今、競馬新聞読んでたろ? 鞄に隠したものを出してみろ——で、詰めた五十代の小太りの部下が半笑いで吐いた言葉が、これである。
「う、う、うっそー! 終わってないなんて嘘だってえ! 頭がかたいなあイチジョウ副隊長は、今日はエイプリルフールだよお?」
結果、胸倉を掴んで怒鳴りあげて、そのあと第七部隊長からお咎めを受けるのは、なぜか俺なのである。理解できない。
「嘘ではありませんでした。彼は一昨日のプルリル異常発生関係のデータ入力を認識していながら着手していませんでしたし、競馬新聞も読んでいました」
「嘘かどうかも競馬新聞もこの際いいんだよ、副隊長。肝心なのは、君のその、ついカッとなっちゃうところがねえ」
大勢の前で叱ると逆効果? 怒鳴ると隊員が萎縮する? そもそも顔つきが怖いんだから、優しい言葉遣いを心がけるように? うるせえカッとならない方が明らかにどうかしてるだろ。隊長がその体たらくだから第七は成績が上がらないんだ。隊長席から自席に戻る途中でゴミ箱を蹴飛ばしてやりたかったが、後が面倒なので我慢した。自席に戻るのはやめて煙草を吸いに行くことにした。
第七部室のドアを蹴り開けると、廊下にアヤノが立っていた。
「やあ副隊長、今日もご機嫌ナナメかい? 俺のかわいいグレイシアを少しモフらせてあげようか」
「おい」
「ぐえっ」
入れ違いに第七部室へ入りかけたアヤノの、襟首を掴んで、廊下へと引き戻す。
「暴力反対!」
第七部隊所属の初老どもは科学部からの流れ者が多く、このアヤノも例に漏れないが、見せかけとしてもやる気の有無と旧知の仲という点が違う。部室の扉が閉まったことを確認して、俺は声を潜めた。
「……エイ……」
ん? なんだったか。
「エイプル……パ……エイプルリ……ル? エイ……プ……ル……って何だ、教えろ」
「……えっと、ごめん、なんて? ンフッごめちが笑ってなブフッ」
嘘をついてもいい日。呆れたもんだ。尚更腹が立ってきた。
「おやおや、イチジョウ副隊長。今日も喫煙に精が出ますね」
吸殻入れとベンチと自販機だけ置かれた簡素な喫煙所に、珍しい顔がやってきた。第一部隊副隊長のウラミ。非喫煙者だが、自販機の前に立つと、小銭入れを開きはじめた。自販機なんかどこにでもあるだろうに。
「キノシタ隊長のお守りは暇なのか」
「毎日わがままを聞くのに大忙しで優雅に煙草を吸う暇なんかありませんよ、全く。さっきだって嘘泣きがどうだとか、私はこぉーんなに忙しいのに……」
指がもったいなさそうに、ココアとミルクティーの間を右往左往している。
「そっちはまたタマ隊長と揉めたんですか? 顔に出てますよ」
「あの人は揉め甲斐もねえ」
「揉め甲斐とか言わないでください。我々もとっくに中堅なんですから」
悩みに悩んだわりには、ありふれた微糖コーヒーのボタンを押した。ガコンと落ちてきた缶を拾って、その場でカコンと開栓する。飲んでいくのか。暇じゃねえか。
「まあ、あなたはちょっと気が短すぎますから、せいぜいよく学びなさいよ」
「それより第七に若い奴を入れてくれよ」
「あなたが教育するって言うんですか。とんだ乱暴者の集団になりそうだ」
「今の第七は年上ばかりで腹が立つ」
「年上に対して無条件に腹を立てる考え方のほうを改めたらどうです」
ったく、どいつもこいつも。吸い殻を皿にぐりぐりと押しつけながら、このまま戻ったらあのクソオヤジの脂肪の乗った後頭部に平手をかましてしまうかもしれないなと思った。あと一歩、何か憂さ晴らしが必要だ。そういやさっき憂さ晴らしになりそうな話を聞いたんだった。
「おいウラミ」
「はい?」
吸い殻に視線を落としていたウラミが、缶コーヒーに口をつけたまま、はたと顔を上げる。
「俺、リューエル辞めるわ」
その手から、す、と缶コーヒーが抜けた。
すとーん。かごっ、と落下した缶コーヒーが、微糖の液体をアスファルトにぶちまける。喫煙所が屋外でよかったな。
「何してんだよ」
反応がない。缶コーヒーに気を取られていた俺は、はたと顔を上げる。
缶が抜け落ちたことにも、気づいていないのか。円柱形の物体を握っている右手の形のまま、コーヒーを飲んでいたはずの口をはくはくと金魚みたいに瞬かせて、数拍、やっとウラミは言葉を返した。
「ーーな、な、な……なんで、そんなに思い詰めるまで、相談してくれなかったんですか……ッ!」
声を上擦らせ、顔を赤らめ、目まで若干潤ませはじめ。……キノシタ隊長と話をした嘘泣きってのは、組織の下僕を辞めさせないためのテクニックのことだったのか?「や、その……なんでかって言うとだな」気まずくて嘘の上塗りをはじめてしまった。エイプリルフールとやら、訂正はどうやるのが慣例なのか。アヤノに聞いときゃよかったな。