月蝕


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おまけ
【番外】アコガレノヒト
*4・黒煙終了後〜5・恋するテレポーテーションの間のお話です。
 広い心でお読みください。













 この気持ちは、きっと、誰にも分かってもらえまい。
 ミソラは椅子に腰かけていた。ぷうっと頬を膨らしていた。ハギの酒場の店内の一角、カウンターに頬杖をついてご機嫌斜めの金髪の横で、町でピエロと称される捨て子の彼は実に面倒げな顔をしていた。
「機嫌直せって、いい加減」
「だってぇ」
「だっても糞もねぇっつうの」
「歩けるのに!」
「大人しくしとけ。自分で怪我したんだから仕方ないだろ」
 むーっと唇を尖らせながら、ミソラはぶらぶら足を揺らす――その右足首は包帯できつくきつく固定されて、ぴくりとも曲がらない仕様となっている。
 もう二週間もそうしていた。諸々あって捻挫をしてからというもの、店主と師匠の圧力によって赤い屋根の下のみを生活範囲と限定されて、一歩たりとも出歩くことを許されない身で――いや、外出禁止令が降りた翌々日にこっそり遊びに出てまた足首を痛めた前科があるので、それからか。ハギ家の住人とポケモンたちの監視の目が厳しくなったのは間違いなくあれ以来であったし。
 ミソラは唸る。ああ暇だ。かつて経験したことがないくらいに。決して狭い家ではない、それはよく分かる。けれどももう大分住み慣れてしまったからして、今監獄と化しているそこには退屈以外の何物も存在しないのだ。ボールを開けばリナが出てくるが共に駆けまわることはできないし、師匠のハリは大概物静かで、ハヤテは不用意に飛びかかってくるのでバランスを崩すととても危険。メグミとは接触したこともない。ヴェルは撫でると楽しいけれど、結局五分もすれば飽きた。
 この家に、アトラクションがないのが悪い。ミソラはますます不機嫌になった。おばさんはきちんと構ってくれるしおいしいものも出してくれる、けれどいつだって急いでいるみたいだ。師匠なんか、ずっと在宅である弟子に不用意に絡まれるのが嫌なのか、いつもより外出がちにさえなっている始末。話し相手になってもらおうとすると露骨な逃げ方をされたりもした。まあ、そういう人なんだというのは正直諦めもついたし、慣れっこでもある、でも暇してる同居人をわざわざ放置するような真似はやっぱり酷いと思った。
「だから、俺が来てやってるじゃん、わざわざこうやって」
 そう、そこでこの友人なのである――むっつりしかめ面のままミソラは顔を上げる。隣の席でやっぱり頬杖をついているのは、何物にも代えがたい貴重な暇つぶし相手であった。
 通常の生活においてだって、タケヒロは大切な友達だ。ぷらりと外に出ればいつでも遊んでくれる相手がいるというのは本当にありがたい事である。ポケモンたちを引き連れて話をしたり、ピエロごっこをしたり、情報通の彼と町をぐるぐる探検したりするのは、とても楽しい。でも、それも、毎日酒場の変わらぬ景色のちんみりとした空間の中なら、全くもって話は別だ。同じバカ話をしてたって、なんというか、趣が違う。
「外で遊びたい」
「だーめだ。お前が出ていかないように、俺見張り頼まれたんだからな。おばさんに」
「じゃあなんか面白いことしようよ」
「だーからさぁ、『バーテンダーと客ごっこ』しようっつってんじゃんかさっきから」
「それ面白くないもん」
「やってみないと分かんねぇだろっ」
 そう言って仮想のシェイカーに颯爽と手を掛け、気取った表情でシャカシャカ振る恰好をしているタケヒロの横で、ミソラは相変わらずむすっとしているばかりであった。けれど……『何か面白いこと』というのが空から勝手に降ってくるのを口を開けて待っているだけ、というのはどう考えても滑稽だ。みっともない。面白いことは、自分から掴み取りにいかなければ。例えば……そう、読書はどうか。自室の本棚へと、ミソラは一瞬思いを馳せた。
 小難しいタイトルと、小難しいどころではない内容の本たちが(お世辞にも整然と、とはちょっと言えない状態で)並んでいるあの本棚。実はこの二週間の間に、あそこに見える本という本は全て一度は抜き取って、ページを捲り済みなのだ。どれが僅かにも読みやすそうで、どれに図解が多かったかは、なんとなく覚えている。けれども、どの本も遂に本腰を入れて読むに至らなかったのは、途中で睡魔に襲われて、高いところから取って戻せなくなった本たちに囲まれながらベッドで眠りに落ちているところを、帰宅した師匠に見つかったからだったような……
 ハッ、と突然、タケヒロは表情を強張らせた。
「そうだ……」
 シェイカーを振る手を止め、それをコトン……、と効果音を声にしながら机上に置くと、少年は友人と向き合った。
「レンジャーの姉ちゃんちだったら、連れていってやらんでもないぞ……あそこまで俺が背負って行って、ちょっと喋って帰ってくるだけなら、おばちゃんだってなんの文句もないだろ……」
「レンジャーさんち行きたいだけだよね、タケヒロ」
「ば、ばっか違うって! だって可哀想じゃん、お前歩けるんだろ、歩けるのに家の中に缶詰なんてさぁ、だからここは俺が一肌脱ごうヨォシ任せろ」
 さっきと言っていることがかなり違うが、この際動機なんてものはどうでもいい。久々に日の光を浴びれるのだ。環境が変われば、気分も晴れるに違いない。開けっ放しの扉から吹き込んでくる夏風は、ミソラを必要以上に煽り立てた。
「じゃあ、行く」
「よし行こう、善は急げだ。まずは自力で歩いていけよ、途中から姉ちゃんの家まで俺がおぶってやるからな。帰りは俺がまずおぶって、そんで途中からはお前が自力で」
 平たいものでぱこんと脳天を殴られて、いっづと唸りながらタケヒロは振り向いた。
 そして、そこに居た人物――若干呆れて見下ろしている痣の男を見とめて、ぎゃああああっと叫びながらカウンターに身軽に飛ぶと、その上を猛ダッシュで駆けて店の隅っこへと避難した。
 大きなビーダルの背中に隠れながら、それが獣ならば全身の毛を逆立てているであろう激昂の眼で威嚇してくる捨て子の彼を、トウヤは冷めた目で流し見る。確か今日も昼前から外出していたはずだが、一体戸の呼び鈴も鳴らさずにどうやって店内に侵入したのか……と考え、吹き込む夏色の風を思い返してミソラが一人納得する間に、次に男はその子を見やって、無言で、その頭もぱこんと叩いた。
「あう」
「あのな、出ていきたいなら好きにしろ、但し何があっても僕は迎えに行かないぞ。絶対に行かないからな」
 分かったらこれでも読んで大人しくしてなさい、と子供たちにすれば微妙に噛み合わないことを言いながら、男は二人を殴った『平たい何か』をミソラの前に置いて、憮然として階段の方へと向かっていく。
 ウウーッと本当に威嚇するような声を上げているタケヒロも気にしつつ、ミソラは『平たい何か』――つまり一冊の本を手に取った。記憶にない表紙だ。というか、あの本棚にあるようなものとは、なんだか表紙の趣向が違うような……何気なく開いてみて、ミソラは思わず声を上げた。
「小説ですか!」
 ぴっと歩を止めると、トウヤは煩わしそうに振り向いた。
「そんなに驚くことか」
「だって、部屋には小説なんて一冊も置いてないじゃないですか」
 まぁ読まないからな、と、師匠はちょっと語勢を弱める。未知の興奮に感激さえ覚えながら、ミソラはばらばらとページを捲った……カッコが並んでいる。新鮮だ。これなら読める。すらすら読める。しかも、挿絵まで入っている!
 ぎゅうっと抱きとめて、ミソラはきらきらした目を男に向けた。
「わざわざ買ってきてくださったんですね、私のために!」
 ありがとうございます――と口をつきそうになったところで、平然とした顔で、トウヤは首を横に振った。
「いや、貰い物なんだ。前僕が体調を崩した時に人に貰った本で、読まなかったから今まで忘れていたけど」
 すらすらとそう言うと、左手に抱えていたいかにも堅苦しい感じの数冊を持ち直して、男は二人に背を向けた。
 ……颯爽と去っていった大人を、丸椅子に腰かけたままのミソラと、ヴェルの背後からそろそろと出てきたタケヒロは、神妙な面持ちで見送った。片眼を開けてそれを眺めていたヴェルは、暑いあっちにお行き、とでも言うようにぼすっと尻尾でタケヒロを叩いて、くわぁと欠伸をしてまた眠りにつこうとしている。
「ち、畜生……ビビらせやがって……」
 んでなんだそれ、と近づいてくるタケヒロに促されるまでもなく、ミソラはその表紙へともう一度目をやった。作品タイトルは『憧れの人』。ハードカバーの表紙には、ふんわりとした温かなタッチで、橙色のまるっこい生き物が一匹ちょこんと描かれている。
「アチャモだな」
 問いに、ミソラは頷いて返した。アチャモのつぶらな黒々した瞳と目を合わせてから、いくつかページを捲っていく……行間が広い。文字だって大きい。それが児童文学であるという点は、ミソラの目にも明らかだった。
「なぁ、何ていう本だ? どんな話だ? なぁ」
 興味津々と覗き込んでくるタケヒロの声に、頷く余裕もミソラにはもうない。プロローグを追いながら、目の前に展開されていく新たなる世界に、ミソラはあっという間に取り込まれていった。
 物語は、緩やかに、秘めやかに始まった。主人公『アチャモ』の、誰かを一途に思い続ける、胸のきゅうっと縮まるような切なくて愛しいモノローグから、アチャモととある人間との素朴ながらも運命的な邂逅を描く第一節、『虹の降りた朝』へ――
「――おい、何読み始めてるんだよ! つまらん! 俺が字読めないの知ってんだろッ!」
 生まれてこの方、タケヒロは教育というものを受けたことがない。捨て子の粗野がぐんぐんと肩を後ろから揺らすので、文学少年になりかかっていたミソラもさすがに腹を立てた。静かにしてよっと怒りながら振り向くと、本の隙間から、薄っぺらなものがひらりと落ちた。何かしらのメモのようだ。タケヒロはすぐさまそれを拾い上げて、振り回しながら暴れている。
「じゃあこれ読め! 声に出して読め!」
「なにそれ、今いいじゃんそんなの」
「俺がつまんねーだろーッ」
 喚いているタケヒロの手から仕方ないなぁとそれを奪い取って、どれどれ、とミソラは目についたままを声に出した。
「えーっと、『あなたをずっと見ていました』」
「……は?」
「だから、『あなたを』……」
 ふ、とその文字列の意味を理解して、ミソラも動きを止めた。
 一瞬の沈黙が流れて、静かになったせいで逆に何事とヴェルが目覚めた。二人は見つめ合って、瞬きして、もう一度その『メモ書き』に目を落とした。本はもうカウンターの上に置かれてそっちのけになっている。
「……『あなたをずっと見ていました』」


 メモの全容はこうだ。
『あなたをずっと見ていました お慕い申しておりました
 あなたのその 涼やかなまなざし りんとした立ち姿を
 ずっと見つめてまいりました
 このようにしか 言葉もつづれぬ 弱くおくびょうなわたくしを
 あなたの世界が 映しているなど とてもかなわぬ夢ですが
 お許しください わたくしは
 まことのように さしのべられた あのあたたかい手のひらを
 忘れることなど できません
 お受けとりください たとえ 伝わらなくとも
 わたくしは あなたが好きで あなたはわたしの アコガレノヒト』


 ……読み上げ終えて、二人は黙し、それをじっくりと咀嚼した。










 どどっと階段を駆け上がってバァーンッと勢いよく戸を開けると、机の前に座り込んだトウヤが、小難しい感じの本を開きかけたままの体勢で固まっている。
 ミソラも、釣られて駆け上がってきたタケヒロも、運動量のせいだけではなくばくばくと鼓動する心臓に、若干息が上がっていた。鬼気迫る様子の不審な二人を、トウヤはわずかに身を引いて、なんとなく怯えた表情さえ滲ませながら静観する。
「……なんだお前ら」
「あ、あああ、あの、あのあのお師匠様」
「お前ッこの本誰に貰ったんだァーッ!」
 ミソラの言葉を遮るようにタケヒロが絶叫して、あまりの気迫にトウヤがちょっとびくついたところで、その奥に体育座りしているノクタスがフッと笑った、ように見えた。例のアチャモ本をぶんぶんと上下に振り回しているタケヒロの横で、ミソラは青ざめた赤ら顔で震えながらこちらを注視している。時を刻む音が聞こえるくらいの張り詰めた緊迫空間の中で、その問いの答えを用意しながらも、トウヤの頭上には純粋なクエスチョンマークが浮かんでいた。
「……だ、『誰に貰ったか』?」
 二人は勢い余って首が吹っ飛ぶくらいには激しく頷いた。
 またもやの沈黙。トウヤは幾度となく瞬きを繰り返しながら、不意に後ろの従者を一瞥した。そしてゆっくりと振り向いた。子供たちの顔は、ひどく紅潮してまるで子鬼のようになっている。
 男は難しそうに目を細めると、机の上に伏せていた本を取り、くるりと座り直してこちらに背を向けてしまった。
「誰だっていいだろ、そんなの……」
 ――その回答は、二人をますますヒートアップさせるのに十分すぎるものであった。


 その後機関銃のように大声で捲し立て続けたタケヒロを羽交い絞めにして二階から引き摺りおろし、まだぎゃあぎゃあ言っているそいつを宥める唯一の術としてミソラは女レンジャーの家へ向かった。狭い暗い彼女の家へ招き入れられると、荒馬は随分としおらしくなったが、燃え尽きたような表情で何かぶつぶつ呟いてもいた。
「どうしてあんな……どうしてあんな奴に……」
「――つまり、お兄さんが貰って読まなかった本の間に、それをくれた誰かからのラブレターが挟まっていたと。そういう訳ね」
 消沈している一人は置いておいて、例のメモ書きを指に挟んでひらひらと弄んでいるレンジャーにミソラは頷いた。全く気づかれもせずにそのまま他人に譲られて発覚したのだから、なかなか珍妙な事件である。面白いことが空から勝手に降ってきたので、ミソラは実にハイテンションであった。
「ロマンチックな人ですよね。小説の間に挟んで、なんて」
「まどろっこしすぎて気づかれないんじゃ仕方ないでしょ。てかこれ、本当にあの人に宛てられた手紙なの?」
 高窓から差し込む光に紙をかざすと、その辺を浮遊していたチリーンがするっと女の首に巻き付いて、興味津々と眺めはじめた。
「『涼やかなまなざし りんとした立ち姿』って……書いた人、現実が見えてるのかしら」
「私はそれほど的外れでもないと思います!」
 この家に入ってきたときからずっと輝きっぱなしの双眸を見やって、レンジャーは少し肩を竦めた。
「よく出来たお弟子さんですこと」
 にしても男みたいな汚い字ね、となじられながら戻ってきた手紙を、ミソラはもう一度眺めてみた。こういうの、ラブレターって言うのか。拙くも粛々と、一字一字丹念にきっちり綴られたその文字列からは、それに込められた思いの丈が伝わってくるようだ。きっとそういうものにあまり馴染みのない人生を送ってきたのであろう、大層なものを抱え込んで、ミソラはなんだかそわそわした。
 そんなことよりもあんた、外出禁止令出てたんじゃなかったの? ――平然と両脚で起立しながら生き生きとしているミソラへの問いを、レンジャーはなけなしの慈悲をもって胸にしまった。
「体調を崩してた時に貰ったっておっしゃってたので」
「ほう」
「いつかなぁ……だって本をあげたくなるほど動けない時って相当ですよね、『死閃』の時に長い間寝込んだみたいなことは前おっしゃってたので、その時かなぁと思うんですけど」
「じゃあ三年前くらいか」
「そんなに気付いてもらえなかっただなんて、可哀想だなぁ。ずっとお返事を待ってるとしたら……」
 楽しそうにミソラが語るほどに、部屋の隅にしゃがみこんでいるタケヒロは益々暗くなり、遂には耳を塞ぎ始めた。
「あんな奴が……なのに、なのにどうして俺は……」
「これ、誰が書いたのか、調べることってできるでしょうか」
 椅子を勧めると大人しく着席したミソラに対して、どこからか取り出したお菓子の包みを女は進呈する。
「本人に聞けばいいじゃない、この本誰に貰ったのか、って」
「それが、そんなの誰でもいいだろって言って教えてくれなかったんですよ! なおさら怪しいですよねっ」
「はぁ、それは確かに怪しいわね」
 金髪の目の前に自分も腰掛け、焼き菓子をひとつ食みながら、レンジャーは視線を斜め上にやって眉間に皺を寄せる。
「三年も前……」
「分かりそうですか」
「うーん、その頃はまだ、あの人とそんなに親しくなかったからなぁ、私」
「そうでしたか……」
「あ、別に今も親しくはないけど」
 少し落胆したミソラの後ろを、チリーンが飛び跳ねるような上下運動で移動していく。……もう少し遊んでやるか、とレンジャーは不意に指を鳴らした。
「ま、面白そうだしちょっと考えてみよっか。そのためには、もっとヒントが欲しいかな」
 彼女がそんなことを言うので、ぱぁっと花が咲くようにミソラはまたしても活力を得た。
「レンジャーさん探偵!」
「おっ、探偵ごっこね。ではでは、助手のミソラくん。現場に残されたそのメモから、何か手がかりが読み取れるかな?」
 ――珍しくレンジャーがごっこ遊びに乗っているのに、文字が読めない自分ははみ出しにされるばかりで、タケヒロはますますむくれていった。友人のそんな様子は露知らず、ミソラは慌ててメモ書きの上に目を滑らし、そして難しい顔で思考する。
「『ずっと見ていました』、なので」
「うん」
「相手は以前からココウに住んでいる可能性が高いと思うのです。旅の人ではなく」
「なるほどね」
「ということは、今もココウにいるかもしれないし、だったら私たちもその人と話ができますよね。それから……『まことのように』? まことのように、って何でしょう」
 ミソラの言葉に、レンジャーは一瞬きょとんとした。
「……あ、そうか。ミソラちゃん、まだ」
「助手のミソラくん、です」
「はいはい。助手のミソラくん。ということはつまり、君はまだ読んでないのかね?」
「何をですか?」
「だから、この本に挟まってたんでしょ?」
 机の端に放られていた『憧れの人』と題される小説を、レンジャーは手に取った。
「そういうシーンがあるのよ。『まこと』って、アチャモが恋する相手」
「なるほど。……レンジャーさん探偵、本読んだりされるんですね。意外です」
「どういう意味、それ」
 助手の頭に極めて柔らかく手刀を打ってから、探偵はぱらぱらとその本を捲った。
「けっこう有名な作家よ、私は好きじゃないけど。この本も半年前くらいにヒットして、特に『カイロでいいから愛してください』っていうアチャモの台詞はかなり話題に……」
 自分で言ったことに自分で躓いて、レンジャーは不意に口を閉ざした。
 ……喋り相手が急に黙考を開始したので、ミソラは手持無沙汰になった。部屋の隅に座り込んだままのタケヒロを見やれど、彼も彼で一人床板に指を当てて、しきりに見えない絵を描き殴っている。ミソラはもう一度、前へ視線を戻した。レンジャーは本の裏側――印字の値段を隠すようにぺたりと貼られた値札をなぞり、へぇ、と呟く。彼女の中で、何か合点がいったようだった。
「……レンジャーさん、どうして好きじゃない作家の本を読まれたんです?」
「え? あー、貰ったのよね、私も。別の町のミッションで救助した人がわざわざここまで訪ねてきてくれたから一応読もうとはしたんだけど、やっぱり肌に合わなくて、半分くらいで売っちゃった」
 そこまで言うと、あ、その可能性もあるのか……、と女はまたひとりごちた。
 一人で勝手に解決されると、助手とはいえミソラも面白くない。けれども、ここで答えを聞いてしまうのは違うような気がして、うっすらと湧き上がってきた悔しさをバネにミソラは再度例の手紙へ視線を落とした。
「えーっと、次は……『手』を『さしのべ』なければならなかったということは、その人は、助けられなければいけないことがあったということで……つまり……」
「あいつが人間なんか助ける訳ねえじゃん」
 タケヒロが呟くと、場は急激に底冷えした。
 ……少年はどきりとした。延々と自分を疎外して話が進むから、横槍を入れたかっただけなのに。はっとしたような面持ちをついとこちらに向けてきた金髪の友人と意中の女とに、何か想定以上に悪いことを言ったのか、と自分の発言を省みた。だども、そんなに押し黙られるようなことを言ったとは、とても彼には思えない。人間なんか助ける訳ねぇ。確かに、それまでの心持ちのお陰でかなり低いテンションからの発言ではあったが、例えば「人間なんか助ける訳ねぇジャン!」みたいな具合の弾けたテンションでの言葉であれば、それもそうね、ドッ、と鉄仮面女からひと笑いくらいは取れてもよさそうなものであったが、
「……と言うことは……――、相手はポケモン、な、の……!?」
 打って変わって若干怖気づいたような表情でミソラにそう言わせる為のものでは、まったくもってないはずなのに!
 冗談だよバカ、と撤回する隙もなく、でもポケモンって字書けるんでしょうか、と友人の焦った声が飛んだ。書ける訳ねぇだろバカ、と突っ込みを入れる寸暇もなく、そういう事例も聞いたことあるわよ、とレンジャーの至極真っ当な回答が返る。いやいやいや。ここにきてタケヒロが初めて見るくらいの真顔を貼り付けている女レンジャーは、つまり完全に遊びの様相で、馬鹿正直なミソラの前にいい加減なストーリーをでっちあげようとしているらしい。
「姉ちゃんそういう事言ったらミソラ信じるって」
「や、本当にいるにはいるのよ、そういうポケモン。元から賢い種族の本当に賢い個体とか」
「じゃあ、じゃあ、ココウに住んでいる凄く賢いポケモンっていうと、かなり限られてきますよね!」
 勢いよく食いついた魚を豪快に引き上げる釣り人が如く、女もまた生き生きとしていた。
「そうだ、『憧れの人』ってポケモンが人間に恋する話だもの。自分の恋心を物語に託して送ったんだわ、なんてセンスのあるポケモンなのかしら」
「うわあっそうですよ! 絶対それです!」
「だとすれば、手紙の中の『たとえ伝わらなくとも』って、種族の壁、言葉の壁を越えられなくても……ってこと?」
「わあああー!」
 興奮のあまり前のめりになって負傷中なはずの足をジタバタさせているミソラの後ろで、なんなんだこいつら、とタケヒロは額に手を当て天を仰いだ。チリーンがゆるゆると泳いでいった。
「叶わぬ恋と知りながらこんな素敵な手紙を渡してきたポケモンの思いに、三年間も気付かないなんて……ああっ、お師匠様も罪作りなオトコですね!」
「そうね、この思いは絶対に伝えてあげるべきだわ。この手紙を誰が書いたのか、必ず突き止めなくちゃ」
「ですよね、私もそう思います。そのためには……そうだ、もっとこの話をちゃんと読んだら、何かヒントが見つかるんじゃないでしょうか」
 レンジャーから返却された本の適当なページをぱっと開き、そこに目をやって、はた、とミソラは動きを止めた。
「……あれ? 『アチャモくん』……?」
 ぽつん、と零された声は、間抜けな響きで室内を制した。タケヒロがようやくミソラをまっすぐ捉えると、上気していたミソラの顔は、みるみるうちに元の白い肌に戻っていった。
「……主人公のアチャモって、雄だったんですか」
「そうよ」
 ちなみに『まこと』って女の子ね、とレンジャーが敢えて言わなかったからなのかどうなのか――異邦児は目を白黒させて、現場には不穏な空気が流れはじめた。





 一旦なぞらえてしまったが最後、ミソラの中ではもう完全に、「三年前に師匠がどこだかで手を差し伸べたココウ在住である賢い種族の中の更に賢い且つセンス溢れる『雄の』ポケモン」という手紙の書き手像が出来上がってしまっていた。
 時刻は夕方に差し掛かっている。呼び鈴が鳴らないようそっと扉を押し開けると、薄暗い酒場の店内には人間の形はひとつもなく、でっぷり太ったビーダルが一匹、そしてこちらを見て大きな目をくりくりさせるガバイトが一匹いるだけであった。これはチャンスだ。手招きし、後から来たタケヒロに扉を開けているよう指示すると、ミソラは忍び足で店内へと入った。
「ねぇ、ヴェル」
 丸くなっていた茶色い毛の塊が、のそりと顔を上げる――このビーダルがかなり昔から酒場に飼われていることを、ミソラは知っている。特に二階の住人に察されないように声を音を殺して、子供は獣の前に座り込み、例のアチャモの表紙を提示した。
「三年前くらいにね、この本を、お師匠様にプレゼントしたポケモンがいるはずなんだけど、知ってる?」
 蜂蜜色の夕陽の揺らぐ中で、ヴェルの表情は、ぴくりとも揺らがなかった。考えてくれる様子もなく、またぬるりと大きな毛玉に戻って、背中をゆったりと上下させ始める。知らないのか。となると後は、師匠とずっと一緒にいるハリなら知っていそうだが、あれと話をするにはその前に師匠と接触する必要があるし、何よりあの子は主人の肩を持ちそうだ……とミソラが思案している間に後ろで首をもたげた生物が、ギャッ! と大声で返事をした。
 驚いてわぁっと声を上げ、ハッとミソラは口を塞いだ。二階から物音はない。彼もまた寝ているならば幸いだ。本の送り主を探っていると知られれば、あの手この手で妨害してくる可能性だってある……振り向くと、至極嬉しそうなニコニコ顔で、ガバイトのハヤテは太い尻尾をぶんぶんと振り回している。しぃっ静かに、とミソラは人差し指を唇に当てて、潜めた声でハヤテに尋ねた。
「……ハヤテ、知ってるの?」
 小竜は大きく二度三度頷いた。――しめた! あの頃はまだよちよち歩きの子フカマルだったと聞いたことがあったような気もするが、それでも覚えていたって別に不思議ではないではないか。その子のところへ案内できる、と問うと、さっきの言いつけはもう失念したのか、ギャッ! と再び大声を上げて、のしのしと戸口へ歩き始めた。楽しそうに揺れるハヤテの背中を追って、ミソラとタケヒロも中央商店街へと繰り出した。
「けど……」
 獰猛さの欠片もない表情で闊歩していくドラゴンを、町の人々は少しばかり警戒するような面持ちで眺めている。子供たちはそんな様子にも気づかないまま、あの手紙のことばかり思っていた。
「よく考えたら、あの本をポケモンに……雄のポケモンに貰ったとして、それだと僕たちに隠す意味がよく分からないよね」
「いや、あのな、お前なぁ」
 夕日に染まった頭髪をがしがしと掻きながら、タケヒロはミソラを見やる。
「ちょっと決めつけすぎだと思うぞ?」
「そうかなぁ……」
「俺はココウの噂話には詳しいけど、字書けるポケモンがいるなんて聞いたことねぇし。いろいろ不確定要素が多いっつーかさ、そもそも本当にラブレターなのかよそれ」
「うーん……」
「いろんな可能性を考えてみるべきじゃね? その方が真実を知った時のショックも小さくなるし。例えばなぁ、相手が普通に人間で、女で、しかもめちゃくちゃかわいかったとか……いや、これはないな、ありえないな」
 うーん、と再度唸り声を上げたところで、タケヒロの視線が再び前へと飛んだ。
「あ、あれレンジャーの姉ちゃんじゃね?」
 ミソラも顔を向けると、とある店舗の軒先の前に、見慣れた顔の女が一人突っ立って、じっとこちらを眺めている。それも数十分前、夕飯の時間も近いからと言われて追い出されたあの家で、ついさっきまで見ていた顔。いつもの赤い制服姿ではないけれど確かにレンジャーさんだ、でも、大通りでばったり出くわすなんてことは今までなかったから、あまり出歩いたりはしていないものと思っていたが……レンジャーの姉ちゃん! と近づきながら大声でタケヒロが名前を呼ぶと、人前でレンジャーって叫ぶな、と私服の袖から手刀打ちがかなり強めに脳天に入った。
「いっでぇ!」
「レンジャーさん、どうしてこんな所に? ……あれ」
 レンジャーが何か言うよりも早く違和感に気付いて、ミソラはそちらを見やった。……ハヤテが立ち止まっている。相変わらずぶんぶんと尻尾を振りながら、ここだよ、と言うようにその顎が得意げに指し示す先は、なんと、レンジャーが立っていた目の前の店ではないか。
 ちゃんと案内出来たよ、凄いでしょ! とでも言いたげに鼻息荒くすり寄ってくるハヤテの額を適当に撫でながら、ミソラは目を丸くしてレンジャーを見た。
「もしかして、ここが分かってて先回りしたんですか……?」
 フン、とハヤテと似たような得意げを浮かべた女に、ミソラはやっぱり目を輝かせた。
「さすが、レンジャーさん探偵!」
 果たして、そこは古本屋であった。……本屋。先の仮定と異なる何らかの可能性がミソラの頭に浮上する前に、彼らの視界に一匹のポケモンが映り込む。それはすらりとした体に純白の衣を着せたような、ともすれば大人の女性のようなフォルムを持った美しいポケモン。子供たちがそれに見とれているのをよそに、きりっとした優美な赤目のそのポケモンは、片手に持った埃払いで軒先の陳列をはたきながら、時折スッと念のオーラを纏うと、散らばって倒れている本をあるべき場所へとふよふよ移動させている。
「サーナイトね。エスパータイプのとても賢いポケモンで、優秀な個体だと複数言語の読み分けなんかもできたりする。文字が書けても別に不思議じゃない……へぇ、こんなのがココウにもいたんだ」
「……お、男か? これでも男なのか?」
「雄か、でしょ。……聞いてみないと分かんないな」
 レンジャーがぼやいた瞬間に、店の奥からエプロン姿の人間が歩き出てきた。
 はっ、とタケヒロが顔を赤らめ、慌ててミソラの後ろに隠れる――出てきた女性は年の頃二十歳かやや上か。少し高めの身長に、サーナイトにも劣らぬすらりとした体躯、かと思えば品よく豊満な胸元、そしてあどけなさを残しつつも唾を呑むほど端麗な顔立ち。ココウでなくともかなりハイレベルな女性であった。古本屋の店員にしておくには惜しい、とタケヒロはまず思い、ミソラは純粋に憧れた。レンジャーはなんとなく目を逸らした。
「ガーデ、今日はしまっちゃうからもうその辺でいいよ。……あら?」
 古本屋の彼女は店先に突っ立っている金髪碧眼の子供に目をつけ、思わずといった様子で顔を綻ばせる。
「まあ、かわいい! 酒場でお世話されてるって子よね。名前はなんって言ったかな、えぇと」
「ミ、ミソラです……」
「そうそう、ミソラちゃんだ! お姉さんあなたと話が出来て嬉しいわ。今日はお買い物? 何か欲しい本があるの?」
 膝を曲げ、目線を合わせて微笑みかけてくる綺麗でかわいくて気さくで親しみのある優しそうなその女に、もはやタケヒロだけではなく、ミソラまでどぎまぎしはじめた。
 名前を呼ばれただけではまだサーナイトの雌雄は確定できない訳であるが、そんなことはもう二人の眼中から完全にフェードアウトしてしまっている。少し遠巻きに、呆れ顔でそれを眺めているレンジャーの横で、ハヤテは小首を傾げていた。色々尋ねられて、あの、あの、と口をぱくぱくさせているミソラの後ろで、タケヒロは拳をわなわなと震わせる。そして、我慢ならずに飛び出した。
「おいお前!」
「うん?」
 ほとんど怒鳴るような調子でも笑顔を崩さない古本屋に、タケヒロは完全に面食らった。
「お、お前なぁ……!」
「――お師匠様のこと、どうお思いですか!」
 問いたいことを、先にミソラが問うてしまったので、タケヒロはますます面食らった。
 質問の意味が分からなかったようで、女はしばらく固まっていた。なぜか主人の話が出たので、ハヤテは楽しそうに体をゆさゆさと揺らし始める。サーナイトは瞬きして、金髪碧眼の子供を見やった。子供は凄まじい表情をしていた。それはその手前の黒髪の子供も同じであった。
 ……あぁ、トウヤくんのことか、と女は手を叩いて、そのまま手の指を組み合わせ、それを頬に添え小首を傾げて満面の笑顔。
「素敵な人よね、憧れちゃう!」
 ――その時、雷に打たれたような顔をしたのは、金髪ではなく、黒髪であった。
「だってあの人すっごく決断力があると思うの、お店入ったらパーッと見てササッとタイトル買いするんだもの、立ち読みしてるとこなんか見たことない! 私なんかどれ読もうかなーこれにしよっかなーってかなり迷って時間無駄にしちゃうのに、ほんと凄いなぁ羨ましい。しかも読んだらパパッと売ってくれるでしょ、もうお店にとっては本当に都合の良い、じゃなくて素敵な『お客さん』っていうか、あぁそういえば今日は珍しく」
 ポン、と肩を叩かれて、女ははたと言葉を止めた。
 肩に手を置いたのはサーナイトであった。あれ、と言葉がひとつ零れて、風に流れた。そこにはもう、金髪の子供も、黒髪の子供も、ガバイトも、その脇にいたはずの女性客の姿も見えなくなっていた。





 素敵な人よね、『憧れ』ちゃう!
 ……あのワードは決定打だったよな、と考えながら、ミソラは階段を上がっていく。あれを聞いた瞬間にタケヒロが脱兎の如く逃亡したのも無理はなかった。まぁポケモンではなかったし決して雄でもなかったが、手紙の文面『あなたはわたしのアコガレノヒト』、加えてハヤテがあの店に誘導した点を考慮すれば、(少なくともミソラの中では)もう完全に犯人を捕らえた、と言って過言ではあるまい。その犯人が、あれだけ素敵な女性であればもう、タケヒロはおろか、ミソラまでなんだかショックであった。裏路地でポッポ達の嘲笑を受けながら家屋に額を打ち付け続けるタケヒロの激しく昂る背中を見ていると、ミソラの中にも熱いものが何やらふつふつと湧き上がる、そんな気がした。
 帰宅直後、おばさんと師匠と夕飯を取りながら、ミソラは一人気まずい思いをした。頭を使ったからか、少し疲れてもいた。今日ミソラを案内したんだよー偉い偉いー? とでも言いたげなハヤテに師匠がじゃれつかれている間に、さっさとミソラは風呂を終えて、髪を乾かして、寝る体制に入ろうとした。すると、今まで延々と忘れ去っていて、その時になってようやく復活してきたものがあった。――つまり、足首の痛みだ。
 温めて悪化したらしい。ミソラは眉を寄せた。……完全に忘れていたな、と自分の行いを悔いながら、でも忠告を聞かず遊びに出て騒いで痛めました、なんてとてもじゃないが言うことはできない。じくじくと鈍痛で寝れないので、ベッドに横たわりながら、何か楽しいことでも考えよう、とミソラは一旦は目を閉じた。けれどもすぐに開けた。そんなことよりも良い暇つぶしが、そこにあることに気付いたのだ。
 『憧れの人』。師匠に貰ったその本が、ようやく本来の役目を果たす時が来た。寝っころがりながら枕元に本を広げると、今度こそ冷静な気持ちで、ミソラは物語を追い始めた。
 主人公はアチャモの男の子。心無い人間に捨てられ、死にかけていたところを一人の人間に救われるところから、恋物語は幕を開ける。人間不信に陥ったアチャモと、両親に認められるためひたむきに努力を続けるトレーナーの少女、まこと。ジム戦を巡る苦悩と挫折、学ぶ勝利の喜び。大切な旅仲間との出会い、そして爽やかな別れ。生まれて初めて満たされていく所属と愛の欲求、それでも心を開けないアチャモに少しでも寄り添おうと、まことは献身的な働きかけを続けるのだが――、

『やめて、アチャモ……そんなに力を使ったら、アチャモ、病気が悪く……』
『いやだ! まことはぼくなんかのために、薬草を取ってきてくれようとした……素直になれなかったぼくに、手を差し伸べてくれたんだ……! そんなまことを、大好きなまことを、こんなところで死なせるなんて、ぼくは、ぼくは、……まことの、ポケモンだから……!』

 ――雪山で凍えているまことをアチャモが命の限りを尽くして温めるラストシーンでミソラが号泣している、トウヤが自室の扉を開けたのはまさにそんな瞬間の事であった。
 鼻水をすすりながらミソラは師匠を見上げ、トウヤはそれに苦笑して、邪魔だったな、と呟きながらベッドに背を向けた。脇で黙々と自分の寝床を作っているトウヤにはそこからは目もくれず、ミソラは十分ほど集中して終わりまでしっかり読み切った。
 感慨深げにぱたんと本を閉じても、全く止まる気配のない涙と鼻水。不思議な気分だった。自分がどうして泣いているのかよく分からなくて、けれど一人と一匹の健気な愛情に、ひどく胸打たれたということは知れた。敷いた布団の上に転がって相も変わらず小難しい本を広げながら、トウヤはその様子を面白そうに眺めていた。
「そんなに感動するのか? それ」
「はい、あの、あの……お師匠様も読むべきです、絶対読むべきです」
 ミソラが手渡した本を手に取って、大して興味もなさそうな様子を全面に押し出しつつも、男はぱらぱらとページを捲った。
「お前それで、今日どこ行ってたんだ」
「あ、えっとその、ごめんなさい……レンジャーさんのところと、それから……」ミソラはちら、と男の顔を盗み見た。「本屋さんに行きました」
「本屋ってあの、散髪屋の向かいの古本屋か」
 鎌を掛けたつもりであったが、寝転んだまま途中の挿絵に目をやっている師匠は「あそこの店員、少し鬱陶しいんだよな」と、淡泊にそれだけしか言わなかったので、ミソラは意表を突かれた。それに対してミソラが、はいともいいえとも、でもすっごくかわいいですよね、とも返すことがなかったのは、悪いことに本の間に挟みっぱなしにしていた例のメモ書きが、ひらりと滑って彼の手元へと舞い降りていったからであった。
 あっ、と声を上げて、ミソラは慌ててそれへ手を伸ばしかけたが、いや、これもそう、あるべき人のところへ戻るラブレターの定めであったのかもしれない。そういう運命なんだと決めつけて、ミソラは事の次第を見守ることとした。師匠は黙ってそれを拾って、目も通さず本に差し戻そうとした。けれども、すんでのところで手を止めた。文字が入っていったのだろう。
「……なんだ、これ」
 低く男は言う。ミソラはまだ何も教えなかった。きょとんとしながら、手元へ引き戻したそれを、トウヤは暫く眺めた。じっとじぃっと眺めた。そして顔を顰める。横向きになっていたのを仰向けに転がり直して、橙色の照明にかざしながら、また眺めた。その顔色の変化をミソラは内心わくわくしながら見つめていたが、その期待とは裏腹に、男は極めて慎重な顔つきで、その文面を噛み砕いている。
「……『涼やかなまなざし』、『りんとした立ち姿』」
「なんだと思いますか?」
 我慢ならずミソラは尋ねた。師匠はちらりと弟子に目をやると、もう一度メモへと視線を戻して――はっ、と顔色を変えた。
「分かった」
「そうなんです、今日いただいたその本の中に」
「ハリだ、ハリへの手紙だ」
 ――ベッドから滑り落ちるとかそういう衝撃はミソラにはなくて、ただ、は? と心からの声が零れるばかりであった。
 師匠は咄嗟に起き上がって、机の上に放ってあったボールの中で、一番傷が入っているものを選んで開放した。控えめな閃光と共にベッドの上にちょこんと腰かけて現れたハリは、心なしか、呆れきったような目をしている。お前一体全体どこの男をたぶらかしたんだ、と従者へかなり真面目に尋ねている師匠に、まず何から声をかけるべきか、ミソラは真剣に思案した。
「お、お師匠様……」
「ミソラ、この手紙どこにあった?」
「だからあの、挟まってたんですけど」
「挟まってたって」
「その本に……」
 本、と一瞬動きを止めて、閃いたとでも言うように手を打ちながらトウヤは少し声を張った。
「――あのサーナイトか!」
 奇しくもそれはミソラ達が最初に導いたものと全く同じ結論だったのであるが、彼がどういう思考回路を持ってその答えを捻出したのか、ミソラには理解が及ばない。
「確かにあの店に行くとなんとなく見られてるような気がしてたんだ、そうだ、あのサーナイト、そういう事か」
「あの……」
「次からはあの店に行くときは絶対ハリは出さない」
 一人で意気込んでいるトウヤに、何故サーナイトなのか、もしくは何故ハリなのか、どちらから先に尋ねるべきかミソラはかなり悩んだ。
「……確認なんですけど、あのサーナイト、雄なんですね?」
「ああ。それはあの人が話していたからよく知っている」
「えっと……なんでハリだと思われたのでしょうか」
「それはだって」トウヤは険しい顔で、ラブレターをひらひらと弄んで見せた。「涼やかな眼差しで凛と立ってるポケモンなんて、うちにはハリ以外にいないだろ」
「ですから、ええとなんと言えばいいのか……ご自身の事だとはお思いにならないのでしょうか」
「ご自身?」
「お師匠様に宛てられた手紙だとは……」
 間髪入れず、嘲るようにトウヤは笑った。
「誰が僕にこんな洒落たことすると思うんだ?」
「本屋の」
「それ以前に男の字だろう、どう見ても」
 レンジャーさんもそんなこと言っていたな、とミソラはふと思った。けれど、その決めつけは危険である。先入観は身を滅ぼす、みたいなことは夕方タケヒロとも話したばかりだ。何より、自分が味わったような興奮を師匠にも味わってほしくて(別のベクトルには相当上がっているが)、ミソラはぐいと身を乗り出した。
「ですが、お師匠様!」
 こちらは決定的な証拠を掴んでいるのです! いいですか、あの古本屋のとってもかわいいお姉さん、こんな風に言っていたんですよ、びっくりしないでくださいね、あの方、お師匠様のこと、とっても素敵で、憧れの――ミソラがそれらの台詞を師匠に浴びせられなかったのは、トウヤ、ちょっと手伝って頂戴! とハギのおばさんの年季の入った声が、階段の方から響き渡って来たからであった。
 店は閉まっているが、重い荷物でもあるのだろう。はぁいと間延びした返事をして、ミソラの言いかけたことに特別興味もない様子でトウヤは部屋を出ていった。寸前で『おあずけ』を食らった形となったミソラは、その衝動をベッドで体を捩らせて発散した。頭はクリアだったはずなのに、色々な情報が入り込みすぎると、処理部隊がパンクして、急に回路がぼんやりしてくる。興奮した熱に当てられたみたいだった。静かすぎるのも災いであった。ハリの見つめている中で、ミソラは、脱力したように目をつぶると、そのままこてっと眠りに落ちた。


「――誰だッ!」
 芯のある声に叩かれてミソラは飛び上がった。
 真夜中だ。照る月は窓枠の中にはなく、ぼんやりした闇の狭間にちらりと星が瞬くばかり。窓が開いている、夜風が帳を撫でている。布団を跳ね壁の際、ベッドの端まで逃避した時には、先に声を上げたトウヤはもう、ハヤテとメグミのボールを掴み窓枠に飛び付いた後であった。自室にいれども眠りの浅く、覚醒の素早いのは旅人――いや浮浪人の性か。普段は起こしても起きないのに。
 外の気配を察すが一転、反射の速さで男は身を引いた。が、銀砂を裂いて振り下された一閃が早かった。咄嗟構えた右腕に一打、払い退けるよりも先に戻された細い脚は窓桟を踏み、そして踏み込み。上から降ってきた小柄な人影は、コンパクトな挙動で身を振ると、室内へ正面突破と斬り入ってくる。ついでとばかりに放たれた回し蹴りにもトウヤは守りに徹した。戸口付近にハリの黄色い瞳が光ったが、それが動くに至らない。敵方の着地する音と振動、発信源はミソラの目の前であった。近い。思わず悲鳴を上げた。迫りくる恐怖に固く目を瞑った。そして、その次に襲った刺激は――光、であった。
 ……熱くもなく、決して痛くもなく。ただ眩しさに半ば混乱しながら、細くミソラは目を開ける。
 そして、そこに。照明に映された彼らの部屋の真ん中に、平然として立っている『彼女』と、ばっちりと目を合わせるのである。
「……レンジャー、さん……?」
 寝起きで状況を把握できないままの発話は、ひどくふらついていた。
 ……沈黙。電気紐を掴んでいるトウヤと、ベッドにへたったままのミソラとは、ここ一番の怪訝とした表情で中央の人物を眺めていた。何があったの、と階下から聞こえるかなり動揺した叔母の声に、三拍くらい間をおいてから、す、すいませんええっと、あのですねハヤテが寝ぼけて、と苦しい弁明をトウヤは放った。騒動の発生源をきっと睨みつけると、謝罪に向かったのか小走りに部屋を出ていく。それらの間、一悶着起こした直後とは思えないすまし顔をレンジャーがずっとしているので、なんだかおかしくなって、ミソラはくつくつと笑い始めた。
「レンジャーさん……」
「こんばんは、ミソラちゃん。起こしてごめんね」
「どうしたんですか、一体」
 ちょっと思い出した事があって、と言いながら、レンジャーはベッドの脇に置いてあった『憧れの人』を手に取った。それでわざわざ夜中に襲撃してくる意味は分からなかったが、善は急げという事なのだろう、多分。ベッドの上にすとんと腰を下ろしたレンジャーは、ばらばらと本のページを捲り、しばらく行った所でぴたりと止めた。
「ああ、これこれ。本当にそうだったんだ――見て、ほら」
 『染み』が付いているでしょ、と。指摘にミソラは目を丸めた。確かに、本の中頃でページの上部に、コーヒーのような黒い飛沫の後が残っている。ごく小さく、読むのに不便は全くないが、後ろ数ページに渡ってまでそれは移ってしまっていた――本を閉じ、女は子供と顔を合わせる。
「救助した人に本貰ったって言ったでしょ。読んでたら途中でこの染みが目についたのよ。人へのお礼にわざわざ使用済みの本なんて渡す? なんか気味悪くて、それで半分しか読まずに売っちゃったの」
「……という事は、えっと、つまり?」
「この本、私の」
 本を胸に抱いて、レンジャーは得意そうに微笑んだ。
 ……ミソラはしばしぽかんとした。未だ冴えない頭をフル回転させて、事を整理しようとする。この本は彼女が貰ったものであると言う事が、今証拠つきで発覚した。しかし、その本は実際にはミソラがトウヤから譲り受けたものだ。そしてトウヤはその本を、別の誰かから貰っている。それにラブレターが挟まっていたという事は……つまり……?
 お前人の迷惑ってものをもう少し考えろ、と通常より更に低いテンションでトウヤが戻ってきた瞬間、ミソラは勘付いて声を張った。
「――お師匠様にラブレターを書いたのは、レンジャーさんだったのですか!」
「は?」「断じて違う」
 とぼけたトウヤの声に被せて、女は否定を強調した。
 そもそもあんたが下手な嘘つくからこういう勘違いが起こるのよ、とレンジャーが例の本でトウヤの顔をぴしっと指すと、嘘? と二人分の声がシンクロする。全く状況の呑み込めないトウヤは面倒げに視線を移すが、その体勢で寝ていたのであろう、戸口の脇に膝を抱えて座っているハリはもううとうとと目を細めはじめた。嘘ってどういうことですか、とミソラが問うと、レンジャーはベッドから立ち上がり、顔の横までその本を上げる。
「お兄さん、これ『体調を崩した時に人に貰った』そうね」
「え? あ、ああ……」
「それっていつの話?」
 男が回答につまったのに気付いているのかいないのか、三年前じゃなかったんですか、とミソラが口を挟んだ。
「私てっきり『死の閃光』の頃かと……」
「あー、そうだな。そうだった」
 取ってつけたような答えを彼が提示すると、本当に馬鹿ね、とレンジャーは鼻で笑った。
「今年の初めに出版されたこの本が、どうして三年前に存在してるのよ?」
 ――この本の事を『半年前にヒットした』と女が言っていたことを、ミソラはその時になって思い出したのであった。
 ……あ、と男は小さく零した。やはり意味がよく分からなくて、ミソラはまた目を大きくする。ということは、あるはずのない本をその『誰か』は所有していたという事で、つまり、ええっとどういう事だ――?
 ミソラが結論にたどりつくのを待たずして、レンジャーはあっさりと二人に正答を突きつけた。
「誰かに貰ったなんて大嘘。あそこの古本屋で買ったのね、私あそこに売ったんだもの。私が売った分をお兄さんが買ったって言うのは凄い偶然だけど……どうせ、ミソラちゃんにお金使ったことが知れたら、この間みたいにまた面倒なことになるとでも思ったんでしょ。勘違いもいいとこ」
 言いたいだけ言うと、レンジャーは窓枠に手を掛け、とんっと桟に足を置き、
「そもそもあんたがラブレター貰おうだなんて百年早いわ。出直して来い」
 飛び乗ると、突然夜空に舞い上がってきたチリーンの『念』に包まれて――ふっ、と浮き上がった女の姿は、窓の上方へと吸い込まれて見えなくなった。
 ……嵐の後の静けさが、下手に明るい室内を流れていく。ミソラはやや控えめに、トウヤの様子を窺った。トウヤもミソラを見、だからどうしてそこで僕がそんなもの貰うっていう話になるんだ、と低くぼやいた。いろいろ言いたくて、でもひとまずとりあえず、弟子は首を傾げてみせた。





 ――ところで、レンジャーさんは、あのラブレターの宛て先が自分であったという事に、果たして気付いているのだろうか?
 その問いは、ミソラの心の中に永遠の謎としてしまいこんでおくことにする。なんとなく切り出しにくかったというのもそうだが、その事実を彼女に認識させたところで、だったら何か? と一蹴されてしまうのがオチな気がしてならないのだ。他人に興味がなさそうというか、人とのつながりが希薄そうというか、ミソラにはこの女がつくづくそういう人に見える。ミソラ達以外の人間と話しているのなんて少なくともミソラは見たことなかったし。彼女のこの住まいに人の影があるとすれば、ファックスから大量にぶら下がっている仕事関連の何らかの資料か、どこだかの土産物と思しき大量のお菓子くらいなものである。
 大人というのは秘密主義者だ。自分の事は自分で話してくれないと、何も知ることができないではないか。例えばそう、そんな手紙を人に貰って、レンジャーさんの気分はどう? ロマンチックな男性って、好みですか? 好きな人とか、実はいたりもするのですか? ――その質問がなぜ躊躇われるのかとか、プライベートゾーンとか、余計なお世話とか、そういうことをミソラが学ぶのは、まだしばらく先の話である。
 けれどまあ、レンジャーさんのあれこれに興味があるのは自分よりタケヒロだろうな、とミソラは隣を一瞥した。
「いやー、そりゃそうだよなぁ。あんな奴がラブレターなんか貰える訳ねぇもん。そりゃそうだよ。あーバカらしっ」
 この世の終わりみたいな顔をしていた昨日とは打って変わって、友人は非常に機嫌がいい。すっかり定位置になりつつある部屋の隅に体育座りして、尻尾をくねらせ暴れるチリーンを抱きかかえてご満悦である。
「いやぁ、よかった。めでたしめでたしだ」
「でも推理外れちゃったのは残念だなあ」
「まあ一番最初のところから全部間違ってたんだから、仕方ねえよ」
 いや、それも気付くべきだったのだ。『憧れの人』を手に入れた経緯を、あの師匠があんなにすらすらと、まるであらかじめ用意していた台詞のように(ように、というか多分そうだったのだろう)語ったのは不自然であったし、そもそも昔貰った本を抱いてどうして家の外から戻ってくるのか。あの時別の本も持っていたことを思い返しても、彼が嘘をついていて、実際は古本屋で見繕ってきた数冊のうちのひとつであったことくらい、探偵助手なら容易に察せられなければいけなかった。
 なかなか難しいものだな、と思いながら見上げれば、わざわざ夜中に殴りこんできて事を解決に導いた探偵は、相変わらず眉間に皺を寄せながら、机上でペンを走らせている。
「そういえばミソラちゃん、足の方はどうなの?」
「今朝も病院に行ったんですが、あと三日くらいは大人しくしていろと」
 なんか、治るまでの期間、ずるずる延びていってないか? タケヒロの素朴な指摘に、ミソラは情けなく笑って返した。安静になんかしていないのだから、無理もない。
 じゃあもうしばらく暇になっちゃうのね、と言いながら女はついと立ち上がると、今しがた何か描きつけていた紙を中型の機械に飲みこませた。
「レンジャーさん、今の、お手紙ですか?」
「そうね。似たようなもんかな」
「誰へ?」
 期待に応えなくてごめんなさいね、と言うようにレンジャーは苦笑した。「ただの仕事先」
 暇なら手紙でも書いてみる? と彼女は出し抜けに言う。引き出しから取り、手渡された可愛らしい便箋に、心が少し躍った。手紙か。ペンを握り、さあ何を綴ろう? お世話になっているおばさんへの日頃のおいしいご飯への感謝でも、あの打ち解けきれない師匠への日頃の不満と注文もいいかも。もしくは古本屋のお姉さんに宛てて、お近づきの印に一筆、というのはどうか。
 ……素敵な暇つぶしを見つけたミソラの横で、ついでに筆記用具を渡されたタケヒロは文字の代わりに絵を描いた。ポッポを二羽、かなり慣れた様子でさらさらと描き終えると、何やらそわそわとしはじめる。レンジャーがやってきてそのらくがきを見、ほう、センスあるじゃん少年、と言って目の前に座った。ちょっと赤らめた顔をタケヒロは彼女に向けた。
「なあ、レンジャーの姉ちゃん」
「なあに?」
 浅く息を継ぎ、軽く拳を握って。
「……ラブレター書ける男と、書けない男だったら、やっぱり書ける男の方が好きか?」
 ――直球なのに枠外にすっ飛んでいくタケヒロの質問に、ミソラは思わず顔を上げた。
 大いなる不安と期待に彩られた少年の顔は、まっすぐレンジャーを捉えていた。は、と疑問を呈した後、きらきら光る子供の無垢で真剣な眼差しにやられて、女は二度三度瞬きをする。それから、その横の外人のわくわくしている楽しげな表情に、やはり眉根を寄せる。彼女の背後、テーブルの上に音もなく着地したチリーンは、にやり、と歯を見せて笑んだ。
 それぞれに温度差のある時間は、やや間延びして流れていく。
「……別に、ラブレター書けるから好きってことはないけど……」
 なんとなく煮え切らない調子で女が答えると――ヨッシャ! と突然叫んで、タケヒロは勢いよく立ちあがった。
 ぽかんとして二人が見守る中で、俺帰るわっと片手を上げるとタケヒロは疾風の速さで去っていった。ばたんと扉が閉まった後に、ひゃっほおおおっ、みたいな至極嬉しそうな甲高い奇声が屋内までも響いてくる。
 ミソラはけらけら笑った。そしてその後、タケヒロがそうして去っていってよかったと、心の底から安堵することになるのであった。なぜならそうすることによって、答えの一番重要な部分を、彼は聞かずに済んだのだから。
 黙した扉に腕を組み、でも、と女は、こんな風に言葉を継いだ。
「ラブレターも読めない男は、正直問題外かな」

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とらと ( 2021/02/13(土) 19:14 )