【花見企画2020】
好きなものは毎日どんどん増える。
得だな、とちょっと思うのだ。失った記憶のことは気にはなるけれど、記憶を失ってしまってる分、ミソラには「はじめまして」がいっぱいだ。おばさんみたいに五十年とか、あるいはトウヤみたいに二十年程度でもずっと人間をやっていたら、新しいものに出会う機会なんてそうそうないんじゃないだろうか。ミソラは多分、体は十年くらいは生きているけれど、知識の量はほんの数ヶ月分にすぎない。毎日は発見の連続である。だから、好きだな、楽しいな、というものにも、次から次へと巡り会える。ミソラの毎日には飽きている暇がない。
例えば、お日さま。冷たいソーダ水。ころころ鳴る鈴の音色。横倒しのドラム缶に座って、タケヒロとしょうもないことを言い合っている時間。リナを抱きしめたときの首筋のにおい。通りに並んだプランターのヤヒの成長を観察すること。ゆっくりお風呂に浸かること。唐揚げ。ハンバーグ。ケチャップライス。夜、ベッドで目をつぶったあとの、サイドランプのあたたかな灯りと、本の頁を捲る音。
それから――
「空が綺麗だな」
視線を宙へ上げながら、トウヤはぶらぶらと歩いていく。
「……空ぁ?」
「花を見に来てるのに空を見る馬鹿があるか」
「ああ、でも、ちょっと分かる。なんか、ぼんやりしてて、綺麗」
眉根を寄せたタケヒロが、笑い飛ばすグレンが、それとなくフォローするアズサが、つられたように顔を上げる。ので、ミソラも何気なく空を見上げた。
――視界いっぱいに、咲く、咲く、咲く、透きとおった花びらの海。
どうだ、『桜』って花なんだぞ、U公園は花見の名所なんだ、とグレンが後ろ歩きに先導する。彼が妙に上機嫌なのは、既にどこかで数杯引っ掛けてきているからだ。酔っ払い自体は歓迎されるものではないが、今回ばかりはお手柄である。真昼間からへべれけで梯子先を探していた彼が、ココウ路地裏で偶然見つけたなんとかホールという不気味な穴(話すと長いので、経緯は省略する)に、それも偶然通りかかったハリを悪ノリで押し込んだ。――という呆れた事件が起きなければ、こんな景色は拝めなかっただろう。
モンスターボールに入るときのように穴に吸収されたハリは果たして帰ってこなかったし、報告を聞いたトウヤは本気でそいつをぶん殴りかけた。が、十年以上兄貴分をしているグレンだ、トウヤをあしらう手腕と言ったら大したものである。俺が連れ戻してくるからまあ見てろと颯爽と禍々しい穴へ飛び込み、そうかと思えばあっと言う間に戻ってきて、「ハリに場所取りをさせているからな、今すぐ行くぞ、酒だ弁当だ」と訳の分からぬことを喚きはじめ、パートナーを人質に取られた弟分は訳の分からぬまま唐揚げを揚げて飯を握った。それを見ていたミソラが「私も唐揚げ食べたいです」と言ってハリ救出作戦への参加を請い、じゃあタケヒロも呼ぼう、せっかくだからアズサも呼ぼう、とあれよあれよと人が集まり、いつの間にハギの酒場からビールケースを持ち出していたグレン(よく考えなくても窃盗である)のよおし花見に出発だという音頭と合図に、みんなで光の渦に飛び込んだのである。流石の行動力は、ココウの粗暴な若者たちを束ねているだけはある。……というか、酔っ払いの底力は凄い。
まあ、いいのだ、経緯は。グレンが昼間からべろんべろんに酔っ払っていたお陰で、ミソラたちは、ココウじゃ絶対にお目にかかれない天国のような光景に出会えたのだ。
U公園と呼ばれた場所には、たくさんの人とポケモンがいた。
さまざまな格好の人、さまざまな種類のポケモン。同じ桜の木の下で、ひとつとして同じ光景はない。桜の花の中に、色とりどりの別種の花が咲き乱れているみたいにも見える。おかしな格好で『龍の舞』を舞って皆を笑わせるドロンチや、枝の間をふわふわ動き回って色に紛れいてるピッピにプリン。技を使って局所的に晴れさせたり雨にさせたり忙しないポケモンたち、桜によく似た花びらを開いてダンスを披露するチェリムたち。普段は恐ろしい雰囲気のゴーストポケモンたちも花飾りをつけて楽しそうだし、レジャーシートを広げ、色とりどりのお弁当や、おいしそうなお菓子を食べながら談笑している人たちもいる。ベビーカステラの屋台からは甘くて良いにおいがして、こんもりとした桜の枝ではまんまるしたヤヤコマがきれいなさえずりを聞かせていた。
皆、楽しそうだった。『花見』と言うほど花を見ていない、メインは楽しく騒ぐこと、みたいなグループも多いけど、どこも楽しそうなのは確かだ。綺麗な花を見るのに、感動するなら分かるけど、楽しい、っていうのは不思議だな、とミソラはちょっと思う。多分、花そのものの綺麗さよりも、花の咲く季節がやってきたから、みんなと一緒にそれを迎えたから、きっと彼らは楽しいのだろう。
だから、ミソラも楽しかった。
ひらりひらりと花弁が流れ、スズがばくんばくんとそれを食べる。ツーとイズは枝から枝へと飛び回り、桜の花を啄んでは花蜜へ舌鼓を打っている。隣を歩かせているリナはアッチコッチと興味を引かれ、どっかに行っちゃわないか心配だ。でも、その鼻先にぺたんと花びらが貼りつくのを見ると、かわいくって、ミソラは思わず笑顔になる。
ハリは結構早い段階で見つかった。桜の木の下に無言で体育座りしている悪タイプの周りにはちょっとしたスペースが生まれていて、持参したブルーシートをそこに広げた。お弁当を開けて、みんなでおにぎりと唐揚げを食べた。
謎の穴を通って春爛漫の地に迷い込んだということ自体が特別なだけで、その場所で、取り立てて面白いことがあったわけでもない。俺が間近で見せてやるよとアズサに見栄を切ったタケヒロがよじよじ木に登りはじめ、ミソラも真似して登ろうとして怖くなって降りられなくなって(リナは落っこちた)、ハヤテに助けてもらった。グレンに煽られてビールを飲んでエンジンのかかりはじめたトウヤが、「ノクタスも良い相手に出会ったら花を咲かせるんじゃないか」と興奮気味に自論を唱え、それを聞いていたハリの被り笠の棘に花びらが引っかかっていて可愛かった。ピエロ芸をお代がわりにカジッチュ型の飴を貰ってきたのを、タケヒロがアズサにプレゼントしようとして、「今は受け取れないかな」と言って断られた(ガラル地方の噂話なんて、タケヒロは知る由もないのである)。誰か歌でも歌えよ、と言い出しっぺのグレンが、せっかくだからカントーの桜らしい歌をとリクエストされ、気恥ずかしそうに歌いだした詞が「菜の花畑に……」から始まっていて皆で笑い転げたとか、起こったのは、そんな他愛もないことばかりだ。食べて、飲んで、話して、笑って。物語と呼べるほどの大きな抑揚はなく、でも、優しい春の陽気に、ぽかぽかと心と体が暖かい。
この大きな公園で、花見をしているたくさんのひとたちが、みんなぽかぽかしていればいいな。
楽しげな喧騒を眺めて、ミソラは柔く口の端を緩めた。
楽しい時間はあっという間に過ぎていく。むしろ、あの謎の穴が無くなったら帰れなくなるかもなのに、少し長居が過ぎてしまった。レジャーシートを畳む作業は切ない。シートに付いた花びらを払ってしまうのは、夢の終わりの心地がする。けれど、出てくればいいのに、とメグミのボールに景色を見せてやっているトウヤの足取りはまだ覚束なくて夢見心地で、やれやれと背を押して歩くグレンの方が帰りは数倍しっかりしていた。
日が暮れていく。なんでもない特別な一日が終わっていく。人やポケモンたちの宴はまだ続いていた。ライトアップされはじめた幻想的な桜の向こうに、宵口のまるい朧月。
「おい、次、菜の花畑な、グレン」
「偉そうに弄るんじゃない」
「次があるのね、楽しみ」
アズサがほろりと溶けるような笑みを浮かべる。所属も年齢もでこぼこの、変な面子と言えばそうだが、まあ、次があるのも悪くはない面子だ。楽しみですね、とミソラも笑う。
そらがきれいだなー、と、声はふわふわ。まだ顔の赤いトウヤの目が、吸い込まれるように暗がりゆく空を見つめる。道端の幹にぶつかりかけて、ハリが軌道を修正した。
「春の空って、いいよな。春の空が一番好きだ」
また、揃って空を見上げる。
昼間の楽しさを名残惜しむ、もどかしいほど淡い夕暮れに。
ミソラは、ふと思いついた。訊きたいことが喉まで出かかったが、恥ずかしいので訊かなかった。だが、ミソラが恥ずかしくて聞けないことを、アズサが代わりに訊いてくれた。
「お兄さんって、ミソラちゃんの目の色を、空の色だって思って、ミソラって名前をつけたんでしょ」
女はいたずらっぽく、または夕暮れの肌寒さを逃れるように、小さく肩を竦めて問う。
「想像したのは、いつの空?」
「え?」
ぽやんとしたトウヤの顔がこちらを見下ろして、ばっちり目が合う。
胸の内にある期待を自分自身で茶化すように、ミソラはちょっと唇を曲げた。
「……そりゃあ……」
彼は、追想するように、じっと双眸を覗き込み。
「ミソラを拾った日の空だろ」
……そう言って視線を泳がせたトウヤを、クッ、と顔を背けたグレンが笑う。
曖昧に溶けゆく空合いに、ささやかに響きあう笑い声。何も面白くないだろとわたついている師匠の横で、ミソラは唇をもにょもにょさせた。ぽん、と胸に咲く花は、さんざん目にした桜色。ぽかぽかになって心に春がやってきたから、ミソラにも花が咲いたのだ。
好きなものは、こうやって毎日どんどん増える。
春の、楽しかった日の空の色。