9−3
宿代の請求書と対峙した師匠は気持ち悪い半笑いを浮かべたし、金額を盗み見た弟子など声を上げて笑ってしまった。品の良い女将が砂埃まみれの荷物を受け取ろうとするのを全身全霊で断っている師匠の後ろを、弟子は唇を噛んで笑いを堪えながらついていった。決して広くはないが明らかに趣高い和室に通されて、すごい、やばい、と二人が部屋をうろついている間に、夕飯に呼ばれた。あっ素泊まりじゃないのかと物凄い早口で師匠が言った。どおりで。呟く顔が完全に引き攣っていた。
絢爛な屏風の座す宴会場はいくつかの低い間仕切りで分けられていて、その一角に通された。座卓を挟んで向かい合って、座布団に小さく正座した。既に食事が並んでいた。
蓋がされたままの小さな釜、澄んだお味噌汁、鮮魚や漬物の美しい小鉢。瑞々しいカットフルーツ、得体の知れない色の練り物。具の入っていない鍋、生野菜、そして――生肉。
「……マジか……」
トウヤが完全にトウヤらしくない感想を述べて、さっきからずっと笑っているけど、もうミソラも笑うしかなかった。語彙が溶けるとはこういうことを言うのだと思った。
四面楚歌、袋のミネズミ。ここでは高級旅館に追い込まれたドブ暮らしのミネズミである。酒を勧められたトウヤがそういう玩具のようにコクコク頷いたあと、お鍋に火をつける女将の手元を、二人はひたすらに凝視した。ぐつぐつ音を立てるただのお湯の前で、二人はひたすらにおろおろした。他にも何組か客が居たが、どいつもこいつも上等な身なりで、金持ちオーラを漂わせていて、端的に言うと、どう考えても『場違い』である。砂漠から放り込まれてきたままの若い男と金髪の子供が見事に青褪めていることなど、まるで眼中になさそうだ。
すぐにお酒がやってくる。ビールじゃなかった。ハシリイで見たような、小さいコップの強いやつだ。トクトクと注がれる透明な液体を二人はやはりひたすら凝視して、ごゆっくり、と微笑む女将に二人はやはりコクコク頷いて、彼女が去るのを見送った。
見送ってから、同じタイミングで、料理を挟んで顔を寄せた。
「これ、お肉のお刺身ですか?」
うすっぺらい生肉を指してミソラが問うた。さすがのミソラも出来うる限りの小声に努めた。トウヤはいたく険しい顔をしていた。暫し固まってから、至極ゆっくりと、首を振った。
「……ぜんっぜん……」
「……」
「分からん……」
「分からんって……」
「肉を刺身で、なんて流石にあり得なくないか……?」
「でもお魚は食べますよね生で」
「そうは言ってもな……」
「ハヤテなら生肉も喜んで食べるのでは……」
「いいかこんなところで絶ッ対にボール開けるなよ」
「あ、そうですよね人が食べられないものなんか出しませんよね。せっかくだし食べてみましょうか」
「待て早まるな、野菜もあるから、多分こう、鍋、に……?」
「入れ……?」
「……?」
「……」
「……あっ、よし、思いついた」
絶対ボールを開けるなよ、と念を押してから、トウヤは席を立ってしまった。
やってきた女将にお手洗いの場所を問うて、その方向に去っていく。残されたミソラは緊張のあまり拳を握って生肉を見つめ続けていた。だが、やがて、いやすぐに――腹の虫が鳴りはじめた。辛抱ならなかった。箸を伸ばした。
黄金に光る天ぷらの、さっくりとした衣を歯が割り進めると、舌の上に柔らかなナスが、とろりと熱く溶けだした。塩が引き立たせるナスと油の混じりあった甘みが口一杯に広がった。ミソラは思わず頬を抑えた。
「分かった、分かったぞ」
すぐに戻ってきたトウヤが別客の偵察結果を報告してくれた。鍋に野菜を入れて、お肉も入れた。釜から炊き込みご飯を掬いあげると、こんがりとおこげがついていた。ほこほこと湯気があたたかい。旅程中のさもしい食生活を思うと、安宿に尽く空きがなくてよかったと喜ばざるを得なかった。腹の底から幸せだった。
幸福を噛みしめているミソラを、ちびちび酒を舐めながら、トウヤは楽しそうに眺めている。
「僕のも食っていいよ」
そら、始まった。米で頬を膨らませながら、心の中でミソラは毒づく。この頃の彼の常軌を逸した食の細さは、ミソラの不安の種のひとつだ。今日も、全くゼロではないが、やはり箸が進んでいない。
「高いんですから、食べなきゃ損ですよ」
目に余る痩身を案じる気持ちは、誰の財布から出てると思ってるんだ、と茶化した声が一蹴する。
「ちゃんと食ってるよ。けどそれだけじゃ足りないだろ、お前」
「私が食いしん坊みたいじゃないですか」
名残惜しげに刺身皿を空にしたミソラの方へ向かいから、すす、と同じ器がやってきた。ミソラはごくりと唾を飲む。うまそうだ。否、絶対うまい。
「……いやいや、食べてくださいって」
「本当はメグミに食わしてやりたいんだけどな。あいつ魚が好きだから」
「お刺身なんて滅多に食べられないんですから、食べたらいいじゃないですか」
年上相手に生意気かもしれないが、決して間違ってはいないなず。ちょっときつめにミソラが言うと、トウヤはばつの悪そうな顔で笑った。それからお猪口をくいと干して、自分で続きを注ぎ足した。
「苦手なんだ、実は」
話の流れがよく分からず、ミソラは首を傾げる。
「はい?」
「刺身」
「お刺身? 苦手なんですか」
「ものすっごく、な」
「はぁ。……、……、えっ!?」
思わず大声を上げていた。トウヤが慌てて唇の前に指を立てた。
苦手。刺身が。……言われて思い起こすのは、勿論あの日の食卓だ。ハシリイから電話がかかって来た夜。貴重な刺身を前にして、一枚も食べていなかった、ビールしか飲んでいなかった。あんな贅沢品でさえ口にしないなんて、本当に碌に食わなくなったと思っていた。だが、あれがただの好き嫌いだったとするならば、ミソラが真面目に気に病んでいたことは何だったのだ。何だったと言うか、『とんだ杞憂』、だ。
けれど、といまいち腑に落ちない理由に、ミソラはすぐに辿り着いた。――それでは、年一回のご馳走と張り切って刺身をこしらえていた、ハギの笑顔はどうなる。
「そうなんだよな」
問えば苦笑して、彼は肩を竦めた。やはり強い酒なのだろう、既に頬が赤らんでいる。
「あれ、毎年ワタツミから送られてきて、生の魚なんてココウじゃ食えないっておばさんは喜んで刺身にする。言っちゃ悪いが、僕はあの日が毎年苦痛だ。正直、肉も魚も苦手なんだが、まだ我慢して食えるんだ、でもどうしても生モノだけは」
「おいしいのに……?」
「おいしいも何も、食えたもんじゃないよ、気味が悪くて。その辺の生き物を削ぎ落として食ってるのと同じだろ?」
「え、じゃあ、まさかずっとメグミに食べさせてたんですか?」
「メグミだけじゃないぞ、ヴェルも大好物だ」
手品の種明かしをするような笑顔だ。どうも嘘ではないらしい。呆気にとられて、ミソラはなかなか言葉が返せなかった。
「……あの、私、お師匠様に『食わないと強くなれない』とか言われて、野菜食べれるようになったのですが」
「そうだったな。偉い、偉い」
なんてトウヤが開き直ると、大人のくせに、と怒る力さえ失せてしまう。
ミソラが笑うに笑えないのは、半分ハギへの同情心だった。随分前、ハギから『トウヤの食べ物の好みが未だに分からない』という話をされたことがあって、あの時は、好き嫌いを言いまくっている自分を子供に感じて恥ずかしくなったが。こうして見れば、果たしてどちらが子供なのか。
「苦手なら苦手って、言えばいいんですよ」
その方が、多分おばさんも喜ぶ。正直な感想を漏らせば、そうだよな、と彼は一旦譲歩してから、
「……うん。でも、言えないよ」
そんな言葉を返してきた。お鍋の中ですっかり縮みあがった肉を摘み上げながら、一拍置いて、低く吐息を溶けさせた。
「……僕みたいなのを、預かって、なんの得にもならないのに、ちゃんと育ててくれた。その上わがままなんて……」
その肉を、ミソラの鍋に移してくる。すぐに拾い上げて、仕方ないから、ミソラは自分の口へと運ぶ。だからといって、好きでもないものを、おいしいと言わなくたって。そこまで気をつかわなくったって、と思ってしまう、これは、ミソラの、わがままなのだろうか。
ココウ中央通り沿いの、二階建ての、赤い屋根のあの家は。ミソラの家だ。それは当たり前のことだから、預かってもらって、育ててもらって、なんて、まだ心の底からは、感謝できずにいるのかもしれない。
「私、わがまま言いすぎですかね」
ぽつりと呟いた子供の向こうで、ほんのちょっとだけ寂しそうに、男は微笑んだ。
「言っていい。もっと言ってもいいよ。もっと言えばよかったと、今でもずっと思ってる」
ミソラは顔を上げた。ぱっと見れば分かるくらい、もうトウヤは酔っていた。後ろに片腕をついてお猪口だけ携えて、伏せがちな目はとろんとして、もうじき閉じてしまいそうだった。弛んだ口元が紡ぐ声は、けれどいつもの彼の声だ。耳に馴染むその音は、すうっと奥まで入り込んで、そっと琴線を撫でてくる。
なんだか、無性に苦しかった。あの家への恋しさが、急に心に降り積もり始めた。
「……そうですかね」
小鉢を引き寄せて、トウヤの分のお刺身を、口に運ぶ。ミソラは多分、味音痴だ。ココウで食べたのとよく似た味がする。だからあの晩、電話を受けるトウヤを見ておばさんと笑いあっていたことや、タケヒロと三人で布団を並べて寝ようとしたこと、大雨の帰りに、トウヤが恥ずかしそうに頭を拭かれていたことが、勝手に思い出されてしまう。
聞いてみたい。『家族』という言葉に、自分たちは嵌るのだろうか。
居候としての距離感は、どこに正解があるのだろう。
「もっと甘えても、いいんですかね」
「その方がいいんだ」
後押しするように、彼は頷く。
「僕がもっと、子供らしく甘えられて、わがままを言えていたら、ちゃんと、ヨシくんの、かわりに、……親子になれて。おばさんはもっと楽だったろう」
気付かぬうちに、部屋は静けさに包まれていた。ほとんどの客は戻ってしまったようだった。郷愁と自嘲が複雑に入り混じった声が、前を向いた。夜鳥みたいな深い音が、しんと胸の真ん中に届いた。ミソラ。きちんと座り直して、呼んだ彼に、ミソラもまっすぐ顔を上げる。
おばさんに髪を切ってもらおうとした、あの夕暮れ。
あの時ミソラを押し潰そうとした、実体のない不安の塊。訳も分からず泣き出した自分を、後ろから抱きしめてくれた感触。昔息子が『いた』ことを、ミソラに語り聞かせてくれた声。
それで、僕は、何を思っていたのだったか。
「お前はちゃんと、おばさんの息子になりなさい」
目を見つめながら、トウヤが言う。
ミソラはすぐに目を逸らす。
ずるい、と、思った。
それは、あなたが求めていたもので、あなたが叶えられなかったものだ。
だから今度は、僕にそれを押しつけるんだ。
……ずるいや。そんなの。
「負担重すぎですよ、それ」
そんなの、受けてやらない。ちょっとふざけさせた言葉をトウヤは笑ってくれた。耳の端まで真っ赤だった。なのに、酔ってぽやぽやしてればいいのに、
「でもな、本当だぞ。もっとおばさんに甘えたらいいし、遊ぶばっかりじゃなくて、店の手伝いもちゃんとして……」
急に説教じみて、そんなことを言い出すものだから、
「――僕が店の手伝いなんかしたら!」
なんだか癪で、堪らなくて、声が大きくなってしまった。
本当に、宴会場は静かになっていた。向こうでお皿を片付けていた女将さんが、はたとこちらに目をやった。腫れあがった吹き出物が弾けたような感覚だった。どろりとした膿は存外に強く噴き出して、自分が彼に対して、タケヒロと話をするように『僕』と言った、それだけのことにも驚いて、ミソラは口を押えていた。トウヤはお猪口を手にしたまま、ぽかんとしてこちらを見ていた。静かだった。沈黙がどんどん身体に染み込んでいくと、自分がこの人に、何を言おうとしたのか、何をずっと、ずっとずっと言いたくて言えないでいたことを、勢いで言おうとしていたのか。客観的に分かってしまった。
言ってしまえば、終わってしまうと思っていた。
無意識に怒らせていた肩が、すとんと落ちる。笑ってみた。けれど、誤魔化しきれなかった。
「私がお店の手伝いなんかしたら、お師匠様、やることなくなっちゃうじゃないですかあ」
冗談めかして言った言葉の、真意に、トウヤは気付いたのではないだろうか。彼は言葉を失いかけた。変に笑おうとして、何か冗談で返そうとして、長らく何かを言い淀んだ。こちらはニコニコしているのに、ニコニコしていたはずの向かいは、どんどん色を薄くしていく。まるで叱られた子供みたいに、それまでの楽しさが零れ落ちていく。
それでいい。そうやって、自分の間違いに気付けばいい。
「……僕は、」
「だめですよ」
釘を刺して、笑ってやる。本当に叱られたトウヤが、失笑して閉口する。黙らせてやった。よし、よし。
「わがまま言います、おばさんにも。お師匠様にも」
なんだか、せいせいした。自分勝手に、無断で居場所を明け渡そうとする彼に、一矢報いてやった気がした。
「タケヒロと遊んであげなきゃいけないので、お店の手伝いは、ちゃんとお師匠様がしてください」
だから、あなたは、家を出ていくことなんかできない。
お店の手伝いなんか、出来るようになってやるものか。一人前になんか、なってやるものか。手放してなんかやらない、まだまだ、甘ったれた弟子でいてやる。……自分が言ったことがあまりにも可笑しくて、くすくす笑うと、トウヤも笑った。歯を見せて、痺れつくように破顔して、それからまた、お猪口にお酒を注ぎ足した。
「飲みやすいな、この酒」
「あんまり飲まないでくださいよ」
「うん」
のろりと頷く動作がもう十分に酔っ払いなのだが、まあ、あとは風呂に入って寝るだけだから、よしとするか。
「うまいなあ」
しみじみと、トウヤが言った。
幸せに耽った声だった。お腹いっぱいであたたかくて、ミソラも幸せだった。
*
揺らめく月影、星の海。金の小舟は進んでいく。
心地よい冷気だ。胎内のような、温もりだ。肩まで身を沈め、端まで到達する。青色のライトを灯らせて、小舟はほうと息をつく。そして、少しだけ決意が要って、決意をしてから、勢いをつけて、立ち上がる。
ざぶんと、波打つ。白い肌を、光がぬらつく。瞬間、そこで待ちわびていた悪戯な風が、さっと全身を包み込む。身震いする体を抱き、それでもきゅっと爪先を立てて、石垣の向こうを、覗きこむ。
ヒガメの夜は、真っ暗、ではなかった。眼下の街並みは爛々と輝き、ヒガメ峡谷の輪郭もまた、きりきりと浮かび上がっていた。視界両側から伸びる鋭い稜線は、点々と星の撒かれた空を、ばっさり切り落としながら果てまで伸びる。まるで夜空は、額縁に飾られているみたいだ。
ミソラはふと微笑む。なんて明るい夜なのだろう。
不思議だった。銀砂に埋め尽くされたココウの空よりずっと星は少なく、底の見えない漆黒が支配しているはずなのに、心細さを感じない。その不思議さを、清冽な空気と共に、肺に満杯に吸い込んでから、……急いで湯の中に体を沈めた。信じられないほど寒い。三秒も立ち上がっていれば、髪の毛が凍ってしまいそうだ。
露天風呂。女将さんの言葉をそっくりオウム返ししたトウヤの表情を思い出すと、また笑いがこみあげてくる。大浴場しかないと言うので遅い時間を狙って来たが、正解だった。貸し切り状態だ。立ってるだけで目立ってしまう容姿の二人なのだから、そうでなければ居心地が悪い。
屋内でのんびり体を洗っていたトウヤが、ガラス戸の向こうで大層訝ってこっちを見ている。手招いてみた。渋々と引き戸を開けて、吹き込んだ風に一瞬身を引いて、小走りで駆けてきて、慌てて右隣へ滑り込んだ。
手も足も伸ばせるお風呂なんて、記憶を失う前から換算しても初体験ではないだろうか。なんともまあ、癒される。外気は異様に冷たいが、浸かっていれば極楽だ。心がほっと安らぐと、どっと溢れてくるものがあって、思わず溜め息をついていた。……ああ、疲れた。疲れ果てた。本当に本当にクタクタだ。慣れない状況にはしゃぎすぎて、おそらく無意識に緊張もしていて、自分の疲労具合にさえ、ちっとも気付けなかったのだ。
風呂をあがれば、今日は、久々に、布団で寝れる。ふかふかの布団に思いを馳せる。はやく布団に包まれたい。最高に気持ちが良いだろう。……なんて考えながらとろとろと眠りにつきかけて、船まで漕いでいたのだろうか、ここで寝るなよ、と笑われた。もう上がるかと問われたけれど、寝たいけど立ち上がるのも億劫な、この抗いがたい怠惰の泥濘に、もう少し沈んでいたかった。
それ以外に特に会話も無く、辺りは水音と、時折遠い鳴き声のみの、心地よい静謐が満ちていた。黙っていても、気まずさはなかった。むしろいっそうしあわせだった。ぼうっとする。全身が水中を揺蕩っているような、ひどく緩慢とした気分だ。また睡魔に負けそうになって、ふと思いついて、右隣へ、こっそり視線をやってみる。
ミソラの横で、トウヤは空を見上げていた。
湯船の縁に背を預けて、斜め上方を見つめていた。睨んでいるとか、放心しているとかではなくて、もっと緩やかに焦点を結んで、じいっと見とれているように。濡れた黒髪や、色づいた頬が、金色の月の光を孕んで、ひっそりと淡く艶めいていた。ミソラが見ていることに、てんで気付かなかった。何にだろう、何か、とても美しいものに、心を奪われてしまったように、茫然と、夜空を見つめ続けていた。
視線の先を追ってみたが、月と散らかった星以外には闇が広がっているだけで、そこには何もなかった。もしかしたらミソラが見つけられないだけで、彼には鳥ポケモンでも映っているのかもしれない。もう一度、隣へ目を戻してみて、ちっともこちらを向かない茶褐色の彼の瞳が、水面の反射を移して、ちらちらと朧に瞬いているのを、眺めていると、ああ、と、すとんと、体の中に落ちてきたことがあって。なんだか妙に納得してしまって、ミソラは頬を弛ませる。
……この顔が。
この横顔が、好きなのだ。
面と向かっているより、多分、横顔が。別に、整った顔立ちではない。頬を這う痣さえなければ、どこにでもある若者の顔だ。けれど、だから、傍にあると、きっとミソラは安心する。この人がいると、ミソラは落ち着く。大丈夫だと思えてしまう。優しくされると、きゅうと胸が締め付けられて、なんだか切なくなってしまう。何もなくたって構わないから、ただ傍に居たいと、思えてしまう。
同じ部屋に住んでいるのだ、着替えている所を見たことがない訳がない。飯を食わなくなっただけじゃない、出会った頃より、彼は随分と痩せたのだ。肋骨に添わせて皮を貼りつけたような胸元を見ると、気の毒と言うよりもう不自然で、このまま飯を食わなければ、ふっと蝋燭を吹き消すみたいに、本当に掻き消えてしまうのではないかと、たまにミソラは恐ろしくなる。意味もなく悲しくなってしまう。そうだとずっと言いたいのだけれど、けれどもやはり、それは『ヒト』の形ではあって。彼の普通の『ヒト』でない部分は、その不自然さを、いつも簡単に隠蔽する。
ミソラの目の前に、今、力無く垂らされた、彼の赤黒い左側がある。
痣、と言うけれど。その色彩を見つめていると、ミソラには、取って付けたように思えるのだ。何か別の生き物から引っこ抜いて、くっつけたみたいに。左腕、肩、首筋を通って、頬骨の下まで。きっぱりと人の色から決別する肌色は、醜い。酷くて、たまに目を逸らしそうになる。けれどその肌は、触れてしまえば、ごくありふれた柔らかな肌で、血が通って、当たり前に温かい。まるで呪いに冒されたようなそれを、化け物だと言う、タケヒロの気持ちも、分からなくはないけれど。
最近は、こんな風に考えている。
この腕が――僕とこの人が出会ったあの日、降り掛かる呪いを引き受けて、僕を、生かしてくれたのだと。
普段はシャワーしか浴びない人だ。出会った頃の関係なら、長風呂になんか付き合わず、一人で部屋に戻っただろう。けれど、彼は、別にミソラに優しくしてくれるようになったのではなくて、一番最初から優しかった。見知らぬ自分を助けてくれて、出会い頭のわがままに、渋々付き合ってくれていた。
本屋で考えていた、あの仮説が正しいなら。こうも考えられるのだ。『殺したい人を見つけた自分が、殺しきれなくて、殺されかけて、そこをトウヤが助けてくれた』――ミソラの殺したい人は、もう既に、この世にはいないのではないか。『この人が殺してくれたのではないか』。
真実は分からない。きっとトウヤは教えてくれない。けれど、そう思っていてもいいなら、そう思っていることを許されるなら。
うんと楽になれる。彼が隣にいるだけで、ミソラは幸せになれるのだ。
トウヤも眠いのではないだろうか、緩やかに瞬きをして、気だるげな視線が手元に落ちる、それからようやくこちらに気付く。見られていたことに驚いたのか、はたと丸くなる目に、ミソラは素知らぬ顔で問いかける。どうかしましたか。こんなにもまじまじと観察して、どうかしているのはこちらなのだけれど、一点を見つめていたトウヤ自身にもどうかしている自覚があったのだろう。恥ずかしそうに笑った。いや、と言葉を濁しながら、また少し手元に視線を落として、それからもう一度、顔を上げた。
「……月が」
ミソラももう一度、視線の先を追いかけて、今度こそ、同じ景色を見ることができた。
「……月が、きれいだな、と思って……」
独り言のような声が教えてくれる。
夜が明るく見えた理由を、ミソラはやっと理解した。視界の真ん中に浮かんでいるのは、まんまるの、大きな大きな満月だった。薄らたなびく雲を纏って、寒々しい暗がりの空に、たったひとつで浮かんでいた。しんと黙り込んでいるのに、一方で何かを見守るような、冷たく柔らかな、冬の光だ。この峡谷も、その奥深くも、森も、砂漠も、ココウの町も。眠る獣の毛並の影まで、全部ひとしく照らしている、くっきりと冴えた、橙の月。
微かに口元を引き結んだトウヤが、あの月に何を見ているのか、ミソラには分からなかったけれど。
膝を抱える。耳障りの良い水音がする。両手を椀にして、水を掬いあげ、さらさらと隙間から落としてみる。波立った水面に映る月が、散り散りになって、また戻る。
「……お師匠様は」
「ん?」
「私にとっては、月みたいな存在なんだと思います」
ミソラの落とした声を拾って、トウヤは意味も分からない様子で、きょとんと金髪の頭を見つめた。それから乾いた笑い声をあげた。
「何言ってるんだ、ミソラ」
「そのままです」
「寝ぼけておかしくなってるぞ」
当の本人はそう軽口を叩くけれど、きっと自覚もないんだろうけど。
思い返せば、口元が緩む。決して彼は太陽ではない。熱くはないし、眩しくもない。静かで、あたたかで、優しい思い出ばかりだった。記憶のない、身寄りもない、真っ暗闇のミソラの世界だ。分厚い雲の合間から、急に光が見えた。縋らなければ生きられなかった。彼風に言うなら、なんの得にもならなかったろう、それでも傍にいてくれた。いつしかほうと明るくなって、だんだん賑やかにもなって、人と獣と寄り添いながら、照らし出された景色に立って、ミソラはその大切な光を、今日までずっと見ていられた。
そして、この月は、――朝になって、夢から醒めると、いなくなってしまうのだ。
唇が震える。もう、顔を見れなかった。揺れる水面ばかり見つめていたけれど、普通の表情を取り繕えているのか、全然自信がなくなっていた。
この時間は。この幸福なミソラの時間は、記憶を失う前の『僕』にとっては、ほんのひとさじの、まばたきをする瞼が触れて、はなれるくらいの。それこそ、夢みたいな時間、なのだろうか。
目がさめたとき、夢のことは、だんだん忘れていってしまう。
忘れまいと願っても、思い出そうと努力しても、忘れていってしまうのだ。
ささやかな祈りを込めて、少年はそっと、瞼をおろす。膝を抱き、温かなお湯に回帰する。水の音。風の音。いろいろなものに包まれている。旅先でも、ココウの町でも。不安なこともある、苛立つこともある、うまくいかないこともある、けれどミソラの今このときが、どうしようもなく好きで、大事だ。ソーダ水の、瓶の底の、いつの間にぷつぷつと湧いた泡が、底を離れて、震えながら、あっというまに瓶をのぼって、やがて水面に辿り着いて、ぱちんと、弾けて、消えてしまう、なにもかも一瞬でなくなってしまう、あんなふうに。失いたくない。忘れたくない。ミソラの今を満たしている、手放しがたい、冷やかさも、温もりも。それが夢でも構わない、構わないから、醒めないでほしい。ずっと夢を見させてくれれば。
それだけで。
もう、なにも、いらない。僕は、幸せだ。
……ミソラが詳しい話をせずに、黙り込んでしまったので、トウヤは若干呆気にとられて、目を閉じた横顔を眺めていた。
月、と言うのは。
馬鹿らしい、笑ってしまうくらい、あまりにも美しすぎるけれど。
けれど、可笑しい、言い得て妙だと。
それからまた、空を見上げて、――あの、大きな大きなあの月を、もう一度世界の中央に置いた。
「どうして月が光っているか、知ってるか」
声に触れられて、金の睫毛がふわりと開く。
トウヤはまた月を見ていた。ミソラは小さく首を傾げた。ポケモンなら熱心に観察しているけれど、彼に景色を楽しむような感性があったとは。知らなかったというか、なんだか変だ。ちらりと表情を窺う。しんとしている。激しくはないけど、穏やかでもない。
なんだろう、かすかに違和感があった。
彼が、見ているのは、本当に、月、なのだろうか。
「……なぜ?」
問うと、トウヤはどことなく嬉しそうに話しはじめた。
「本当は、光っていないんだ。太陽とか星とか、自分で光れるやつっていうのは、エネルギーがあって、熱がある。月は冷たい。自ら光るほどの力はない」
「でも、光ってますよ」
「あれは、実は、太陽の光なんだ。太陽の光を反射して、光っているように見せかけている。偽物の光だ」
へぇ、と感嘆の声を上げながら、再び両手で水を掬いあげる。
ミソラの手の中に、偽物の光が映り込んで、きらきら密かに揺れている。
「知りませんでした……」
「……じゃあ、」
――手をひらくと、白い指の隙間から、月は零れ落ちていく。
「月蝕のことは?」
ミソラは顔を上げた。
大好きな横顔は、静かに綻んでいた。
「月蝕?」
「ああ。太陽と月が、僕らの住んでるこの星を挟んで、一直線に並ぶとするだろ。すると、太陽からの光を受けた、星の影に、月が入っていく。月は反射で光っているから、月面に影が落ちると、端からだんだん光が欠けていくんだ。欠けた部分は、赤銅色に見える」
「しゃくどういろ……」
「暗い赤色だ」
一言ずつ丁寧に説明してはくれたが、いまいちぴんとこなかった。ミソラの晴れない表情でそれを察したのだろう、あとで図解してやるよ、とトウヤは笑った。よく笑う。機嫌が良いというよりは、まだまだ酔っ払っている。そんな感じに。
「とにかく、珍しい現象なんだ」
「なるほど」
なぜこんな話をしたのだろう。聞いてしまいそうになったが、ひとつそれらしいことを思いつくと、野暮な問いかけは胸にしまい込むことができた。ミソラが変なことを言ったから、トウヤも変なことを言い出したのではないだろうか。自分の言葉が彼と共鳴したのだと思うと、心がふやけたような気持ちになる。
愛おしかった。隣の人が、明るい夜が。見知らぬ場所でぽつぽつと会話する、この、なんでもない、特別な時間が。
「きれいですか?」
「え?」
やっとトウヤが顔を向けた。
目があった。嬉しくて、ミソラはもう一度問いかけた。
「赤銅色の月は、きれいなんですかね」
ミソラの言葉に。
トウヤは何故か、泣きだしそうに、顔を歪めた。
ふいと目を逸らして、お湯で顔を洗った。一瞬だけだった。幾分さっぱりとした表情で、浮かべた笑みは、覚束なかった。浮き上がった関節が、軋む音もなく動く。そっと拭われる左腕。
月光がきらきらと、水と一緒に流れ落ちる。彼の、醜い、赤銅色。
「……どうだろうな、僕は、見たことがないから」
でも、と男は付け加えて、また空を見上げた。
そこには月があった。満月はどこも欠かすことなく、煌々と輝いて、夜空を暖めていた。
「でも、――僕にはそうは思えないな」
風呂あがりの廊下で、二人の男性とすれ違った。
何か会話をしていたが、眠気でいよいよ意識朦朧としはじめたミソラには、殆んど聞き取れなかった。「イチジョウ」という名前だけ耳に入って、どこかで聞いたこともある気がして、けれど思い出せそうにもない。
トウヤは足を止めた。
がやがやと楽しげに話しながら、声は遠ざかっていく。すれ違った若者が不意に立ち止まったことになど、全く気付かなかっただろう。
……振り返る、トウヤの表情が、頬はまだ赤らんでいるのに、凍り付いていた。角を折れて彼らが見えなくなった先に、見てはいけないものを見たような顔で、魅入られていた。
半目を擦っていたミソラに、その表情の意味など、分かるはずもなかった。
「……お師匠様?」
ミソラの問いかけに。
トウヤは返事をしなかった。