1−8
「あの方は、お師匠様のお母様でしょうか」
「いや、まあそういわれればそうだが……あれは僕のおばだ」
「ならば私は、おば様とお呼びすればよろしいでしょうか」
砂にまみれたコートを一通り払って窓を閉めたトウヤは、おば様、と呟いてから、部屋の真ん中でおろおろと首を回していたミソラをひとまず座らせた。
二階のトウヤの自室はそこそこの広さが確保されてはいるものの、ベッドと本棚と小さな机、あとは壁際に沿って荷物が適当に積まれているその部屋は、どこを取っても雑然としている。ミソラは机の上に伏せてあった読みかけの本を手に取ると、目をしばたかせて、すぐに元通りに戻した。
「僕はおばさんと呼んでいる。ミソラもその方がいい」
「おば様というのは変ですか」
「変だな」
それからミソラが黙って見上げる目の前で、トウヤはてきぱきと着替えを済ませた。締め直したトレーナーベルトにモンスターボール三つを引っ掛け直し、リュックの中にしまっていた洗濯物も全て取り出して、最後にマフラーを再び巻き終えると、出てくると呟いてバタバタ階段を下りていった。
彼の一連の動作をただ呆然と見守っていたミソラは、足音が聞こえなくなってからようやく、わたわたと立ち上がって窓を押し開けた。眼下には賑やかな声が飛び交う雑踏がある。直後、真下にある朱色の屋根の影から現れた黒髪の頭を見て、ミソラは身を乗り出した。
「お師匠様! 待って下さいお師匠様!」
振り向いたトウヤの眉間には、僅かにしわが寄っていた。行き交う人の多くがその声に顔を上げ、異国の風体に驚き、そして『お師匠様』と呼ばれた男の方を一瞥する。その視線を居心地悪そうに受け止めたトウヤは、一言「すぐ戻る」とだけ残して、足早に立ち去ってしまった。
そうして取り残されたミソラの中に、ふいに煙のような寂しさが漂い始めた。
しばらく商店街の賑わいに目をやっていたが、それにも飽きて、もう一度机の前に座り直す。……お師匠様はまだだろうか。すぐ、とはどのくらいの長さのことを言ったのだろう。大海原のど真ん中でひっくり返った小舟のような心持で子供は思案を重ね続ける。下支えする思い出のない、何もかもまっさらな世界のミソラにとって、その難破船を拾い上げたあの男の存在は、海路を照らす一点の光のような大それたものになりつつあった。
そんな思いで見回しても、気の紛らわせそうなものは目の前に伏せられた本しかない。仕方なしにそれをもう一度手に取って、なんだか難しそうなタイトルをちらりと見てから、適当なページを開いてみた。
手のひら大の紙の上に、所狭しと羅列された文字の山。先ほどと同じようにそれを元に戻したくなったミソラは、文字の上にかかった影が、ふいにゆらりと動くのを見た。同時に左頬を生温かい風が撫でた。ミソラはびくりと振り向いて、飛び込んできた光景に思わず目を丸くした。
くりくりしたいたずらっぽい瞳と、腕よりもずっと長い尻尾を持つ、薄紫の体毛に覆われた小猿のような体――おながポケモンのエイパムがそこにいる。鼻の頭がくっ付きそうなほどの至近距離にミソラが思わず身を引くと、エイパムはミソラの手から本をぶん取り、ぱらぱらとページをめくって、ぽいと投げ捨ててしまった。
「ねぇ、いつからいたの?」
突然現れた絶好の暇つぶし相手に、ミソラは目を輝かせて尋ねた。機敏な動きで本棚に飛び乗り、そこに雑然と置かれている雑貨の数々を物色し始めたエイパムは、ミソラの質問に、ただにやりと歯を見せて返した。
「お前も魔物? 『技』というのが使える?」
ポケモンか、と言い直して、ミソラはそっとエイパムに近づいた。その毛並みは薄汚れていて、地肌の露出した尻尾の先の部分は傷が目立つ。決して栄養が足りているとは言えない骨の浮いた体つきで、後頭部には指先ほどの禿げもいくつかこしらえていた。
不憫な気持ちよりも好奇心の方がずっと勝っている様子でエイパムに顔を近づけたミソラは、その足が蹴り飛ばしたものを額にくらって短い悲鳴を上げた。埃っぽい床に落ちたそれは、対照的に軽やかな音を立てて転がった。
「鈴だ」
赤い紐が申し訳程度に括られた、白くて小さな鈴だった。すべすべしていて、混じり気のない透き通った真っ白。拾い上げようと伸ばした指は、素早く突き出された小さな薄紫に阻まれた。ミソラが手を引っ込めた隙に、エイパムは掴み取ったそれを尻尾の先に引っ掛けて、キャキャッと陽気な声で笑うと、すぐさま開けっ放しの窓から喧騒の方へと飛び出していった。
「あっ!」
ミソラがもう一度窓から外へ顔を出した時には、あの鈴のリンリンという上品な音色は賑わいの中、エイパムの影は家々の屋根から屋根へと飛び渡って小さくなっていく。
ミソラは慌てて階段を駆け下りた。先の廊下を曲がり、店のカウンターに飛び出すと、そこにはかがんでいた女店主の大きな尻があって、それにどしんとぶつかった。ぎゃっと声を上げたミソラは、同じく奇声を発して前によろけた女店主にひとまず謝ってから、すぐにドアの方へと走っていく。
「ちょっと、あんた、どこへいくんだい」
「紫色で小さいマモ、ポケモンが、棚から鈴を」
「まあ、またあのエイパムかい。いいのよ鈴くらい、トウヤにもちょっとくらい痛い目を見させないと」
「でも、でもお師匠様の大事なものかもしれません!」
「お……お師匠様?」
おい、どこぞの国のお姫様かと思ったら、ろくに仕事もしねぇ小汚い若造のことを、お師匠様だって? 笑わせるねぇ――既に頬に赤みを差した先ほどの客がそれを言い終わる頃には、勢いよく開けられたドアは元の位置に帰って、鐘の騒ぐのもとうに終わってしまっていた。