月蝕
8−7
 朝が来た。

 朝が来た。仄かに光る蒼穹があった。分厚い底に薄墨を流した、引き千切ったような雲の切れ間。すんと青ざめて、物悲しくて明るくて、あの子の睫毛の下から覗く、それは美しい空の色だ。透き通った朝日が貫く。雨に洗われて滲んだ町を、闇の残り香を、斬り裂いていく。苛烈だった。まるで有無を言わせない、痛いほど強い、輝き。
 真っ白い眩しさに、焼き切れて、灰と化しそうな気怠さに。トウヤはじわりと瞼を下した。
 おそらく朝もまだ早い。甘やかな二度寝の誘いに、身を委ねてもいいはずだ。寝返りを打ち、目を閉じる。睡魔は駆け足で戻ってきて、慈悲深い表情で脳を包む。ふわりと。従順に体を沈めれば。随分埃っぽい、日が眩しい、でも、いいや。春の綿雲に埋もれたら、こんな心地なのだろう。するすると意識が抜けていく、ひとときの快楽。思考は溶けて、なんの力も無くなりかけて――「んが」、と低い寝言が聞こえなければ、そのまま暫く眠れていただろう。
 容赦なく直撃する日差しの真ん中で、トウヤははたと目を開ける。
 身を起こしたのは、相も変わらず汚い家だった。洗濯済みなのかも定かではない服の山、出しっぱなしの冬物布団。それに埋もれて眠りこけていた自分。妙な姿勢で寝ていたから、身体がきしきしと痛んでいる。ぼんやりと首を捻る。窓際の棚まで物に溢れて、その散乱の一番上に、三つ並んだモンスターボールが朝日に鈍く輝いている。傾いて今にも落ちそうな置時計。もう動けない秒針が、悲しげに盤に貼り付いている。
 ベッドの横に、雪崩れた服だかゴミなのだか釈然としない小山があって、友人はそこに寄り掛かっていた。低い鼾を不規則に立て、すぐには目覚めそうもない。
 ……はて。なぜ僕は、グレンの家で寝ていたのだろう。
 引き摺り出そうとした昨晩の記憶は霧でもかかったかのようだ。思い出せないということは多分泥酔していたのだろうが、何故この家で飲んでいたのか。大男の呑気な顔を見ながらトウヤは暫く考えていた。けれど考えれば考えるほど、とある感情が邪魔をして、じきにどうでもよくなった。そもそもここで飲むことにいつも理由などなくて、あったって本懐ではないじゃないか。無意識に頬が弛む。胸をふくふくと膨らませる、この単純な感情だけが、ここで寝ていた意味でいい。
 ――しあわせだ。腹の奥からこみあげる、そんな実感が、不思議なくらいに懐かしかった。よく覚えていないが、昨日の晩は、きっと楽しかったのだろう。頻繁に数人集まっていた頃みたいに、騒いで笑って、潰されて寝て、ついでに夢でも見たんだ、多分。だからこんなに、夢心地にふわふわして何も考えたくなくて幸せで、いっそこのまま死んでしまって構わないなんて、思っているんだ。……寝よう。やっぱり。もういいや。どうせこいつも、昼くらいまで起きないのだろう。……再び横倒しになる、けれど。かちり、と不意に嵌りこんだ歯車が、目を閉じることを、思考を放棄することを拒ませる。自分はともかく、グレンは? 一体どうしてこんなところで寝たのだろう。いつもベッドは使わずに、ソファを寝床にするじゃないか。
 ぐるぐると歯車は、彼らの日常は、また音もなく、回り始める。
 朝が来た。だから平凡な一日は、誰が頼むでもなく、おのずから幕を開けるのだ。
 動かした視線の先で。
 長くしなやかな金色が、陽を浴びて 、ちりちりと淡く煌いていた。
 ゆっくりと一度、瞬きをする。祝福じみた朝日の中。
 シーツに包まれた小さな体、投げ出された白い脚。柔に閉じられた瞼、頬、作り物のように綺麗な寝顔。その横、今にも転げ落ちそうな体勢で寝ている少年のことも目に入れて、静かに、身体の隅々に染み込ませるように、トウヤは記憶を辿っていく。ビールケース。霧雨。夜のココウ。スーツ、魚、電話のむこう。浮ついていた爪先が、ひたりと地面に触れる、冷やかに現実を呑み込んでいく。
 けれど、僕は、『生きている』。
 ……やっぱり、夢も見たんじゃないだろうか。うんざりとして寝癖を掻いた後頭部に、誰かに触られていたような感触を蘇らせる。それはおそらく、小さな子供の手で、――ならば、おねえちゃんの夢を見たんだろうな、僕は、また。
 あのきれいな手に撫でられた頭には、まだ少し、くすぐったさが残っている。
 ベッドから這い出ようとした時、指先がひやりとしたものに触れた。それもまた、動かしようもない現実のひとつだ。転がっていた褐色の小瓶を摘み上げ、日に透かし見た瞬間だった。
『トウヤ』
 溜め息にひっそり紛れ込んで、頭の中に声が響く。
 小さな鈴が鳴るように、微かで軽やかで。柔らかなタオルのように、さらりと撫でて、癒してくれる。くすぐったさに目を細める。小瓶の丸く光る輪郭が、揺れる。眩い朝が、彼らの世界を包んでいる。
『よく眠れた?』
 くすくす、ころころ、と。ささやかで愛らしい笑い声。
 胸の内側に直接入り込むような彼女の声が、昔は少し苦手だった。それを察していたのだろう、『話しかけてくること』自体は今まであまりなかったのだ。ところがこの頃は、こうして不意打ちのように声を投げてくる。よく分かってる、自分自身より彼女の方が、僕の心を知っているんじゃないだろうか。呆れ気味に笑んで、からっぽの小瓶を、――元のように戻して、トウヤはモンスターボールへ手を伸ばした。
 おはよう、メグミ。
 心の中に一言、彼女のためだけの挨拶を浮かべる。





「リューエルのこと、『ポケモンを使って怪しいことをしてる危ない集団』、って、思ってるかい?」
 その集団に属する男性が、始終にこやかな笑顔で言うのだ。どこか脅迫じみてさえ感じて、エトはうんともすんとも言えなかった。
 深い緑のキャンプテントが寄り集まっている。どこまでも続く白い砂地、砂漠の中の通用路だ。『リューエル実務部第七部隊』と名乗る連中の昼食の輪に、エトは交えられている。小部隊の構成員は二十代から四十代、ざっと十人ほどだ。制服のない彼らの装備はメーカーもてんでバラバラで、共通項と言えば左腕の腕章のみ。金色の糸で豪奢な装飾が施されたそれ以外に、威圧感はまるでない。趣味同志で集まってぶらり放浪を楽しんでいる、そんな朗らかささえ漂うようだった。
「いやいや、いいんだよ? 最近そういう噂が立ってるの、知ってるんだ。俺達の仕事は手際とツラの良さが肝、ってところがあるから、ちょっと困ってるんだけどね」
 中でも一等お喋りな『アヤノ』と名乗るこの男は、鉄缶で煮えるスープのおかわりを器へ注ぎながら、飽きもせずエトに話しかけてくる。穏やかな口調と柔らかな物腰、だが眼鏡の奥の微笑みは『あまりにも良い人』を醸し出していて、正直、少し、胡散臭い。見栄のような警戒心はなかなか解けそうもなかった。
「……噂は、聞いたことありますけど。『お尋ねポケモン』を捕まえて、謝礼金を貰ったあとは、訓練して野に返すと言いながら裏で実験材料にしてるとか」
「そうそう、そういう感じだ。科学部の一握りが悪さをしていたようでね、それも昔の話なんだが。捕獲調査だけを担当する俺達みたいな実務部にすれば、いい迷惑だよ。まあ、そういう噂を湾曲させて流してるのは、リューエルが活躍すると仕事が取られて都合の悪い……例えばポケモンレンジャーみたいな連中だろうと、踏んでるんだけどね。俺は」
 アッチチ、と器に口を付けては離す、虫も殺せなさそうな柔和な笑顔。湯気で眼鏡が曇っている。そうなんすか、と軽く頬を掻きながら、エトはそれ以上何を言っていいのかも分からなかった。
 リューエル、と言えば。あまり関心のないエトでも、色濃く頭に残っている事件がある。今年の『水陣祭』の舞台前日、薄暗い路地裏。襲いかかってきたチラーミィを蹴りつけ、狼狽する子供に、彼は刃物をちらつかせた。姉や妹と接するのと変わらなかった、平生の彼。まだ目の前に鮮烈に蘇るあの光景、あの声と音は、未だにエトを混乱させる。『どうして僕を、リューエルの人間だと思ったんだ』『だって、それは、お前、団員しか持ってないはずの』――そして。
「ちょっと、おじちゃん」
 隣の人が口を挟んで、どきりと胸が鳴った。
 薄い唇が、あむっと乾パンを食む。のに、そんな可愛げな仕草は似合わない、すらりとした長身の女だった。一行の中ではとびきりラフな恰好から、伸びる華奢な腕、しとやかな指先。自分の姉もそうだったが、旅先だからだろうか、化粧っ気の薄い人だ。けれどごく自然に整えられた綺麗な顔立ちは、――どことなくトウヤに似て――決して派手ではないけれど、目を留めさせる美しさがある。
 そしてその綺麗さは、あらゆる場面で、『綺麗』の器からころり簡単に転がり逃げる。
「こういう言い方するから、印象悪くなるんだってば。レンジャーさんらとも穏便に行かなきゃ、ねっ?」
 見目の良い歯を剥き出して笑い、小首を傾げ、重い艶のある黒髪をぱらりと揺らす。
 もくもく片頬を動かしながら、舞い踊る火の粉のような、煌びやかな笑い声を立てる彼女――それが一見する静けさよりずっと華やかに見えるのは、忙しなく色を変える表情のお陰で、奔放な言葉遣いのお陰で、またエトのような若い男の真横で、堂々と胡坐をかく逞しさにも所以するのだろう。
 なんとなく、なんとなくだが、雰囲気と実態が、異様にちぐはぐ。『黙っていれば美人』を地でゆく人、というのが、彼女に抱く印象だった。
 『ワカミヤ ミヅキ』。道中死にかけたエトを助けた、リューエル隊員の女の名だ。
「ほらまた。仕事中におじちゃんはやめろって言ってるだろ? ミヅキ」
「私だってふくたいちょーって呼んで敬って欲しいんですけど」
「分かりましたよ、仕方ないな。……まあでも、副隊長殿の言う通りだ。とにかく俺達は、どんなに変な噂が広まろうと正々堂々と仕事をするだけ。君も、家に帰ったら『リューエルの素敵な紳士淑女に大変良くしていただいた』としっかり宣伝してくれよ、エトくん?」
 にこやかに指を立てるアヤノ、そして同じくにこにことこちらを見るミヅキの間で、エトはいっぱいっぱいに首肯する。そう――命の恩人が美女だろうが知人の血縁っぽかろうが、実際はそれどころの事態ではない。エトは今、この人たちに『大変良くしていただい』ているのだ。
 誰にも明かさず、行き先も告げず。……正確には姉には見つかってしまったが、家出してきて早三日。馬車に揺られて一昼夜、ヒビを経由し、船のあるワタツミを目指していた途上だ。たてがみをひらめかせる獣の群れにあっという間に取り囲まれ、頼みのヒナ――チコリータは灼熱の海に飲み込まれ、苦し紛れに投げつけたバッグは、瞬く間に炭と化した。長年貯め続けてきたありったけの持ち金や、旅道具、身分証、その他諸々の大事なものを、全部まとめて無に帰した。そしていとも容易く落としそうになった自分の命を、間一髪で救われた。
 船に乗れない。胸を席巻するのはその受け入れがたい事実だけで、あとはまるで夢の出来事のようだった。死にかけたこと、そして自分のせいで火傷を負ったヒナのこと、それらよりも優先して先行きに絶望していること。そのうえ真横の女性に気を取られてしまっていることも、自身の冷血さを浮き彫りにする。けれどこの凄惨な現実へ意識が向いていかないことは、ある種の逃避行動なのだろうと、エトも薄々勘付いていた。
 甘かったのだ。何もかも。……突貫の勢いさえあれば、どうにかなると信じすぎていた。
 浅く溜め息を付く少年を、ひょいと女が覗きこむ。
「ねえねえエトくん、今いーくつ?」
 低く落ち着いた声質が、随分とおちゃらけて若ぶっている。それが彼女の素のギャップなのか、落ち込んでいるエトを励まそうとしているのかは、まだ判断がつかなかった。
「十八です」
「じゅうはち! 若っ。そっかあ、へぇー」
 大袈裟に驚くと、見定めるように上から下まで観察して、にやにや、にやにや。たじろぐエトを見てアヤノに苦笑が滲む。
「若いのが羨ましいって? 二十四歳のお嬢ちゃんが」
「違いますぅー、ねえおじちゃん、トウヤが今、こんくらいなんじゃないかなあ、もしかして」
 突然出てきた名前に、ぎょっと心臓が飛び跳ねた。
 堪らずスープに口を付ける。緊張というスパイスが味の全部を殺している。エトがびくびくしていることに、二人は気付かなかった。おいおい、弟の歳を忘れたのかい、とアヤノが笑う。んな訳ありますか、たったひとりの弟よ、とミヅキが笑う。話が振られないように祈りながらも、エトは高鳴る胸を抑えられなかった。
 やはり、『弟』。姉ちゃんがいるなんて聞いた記憶もないけれど。
 トウヤと親族なら、我が家との関係性を知っているかもしれない。数珠繋がりに出身が割れる可能性もある。自宅がハシリイだと知られれば、『大変良くしてくれる』彼らのことだ、ご丁寧に送り届けてくれるだろう。それは御免だ。だから彼と自分の関係は、今ここで白状する訳にはいかない。
 でも。……そう、このきれいな人が。
 こんなところであれの血縁者に会うなんて。奇跡か運命みたいじゃないか。ならば言ってみたい気もした。その人と知り合いなのだと。あんたの弟に勝手に張り合って、ムキになって、自分は大きく成長して、最終的には背中を押されて、家を飛び出してきたのだと。
 トウヤ。……トウヤ。どうしよう、俺。失敗したよ。全部焼いちまったんだよ。そうやって縋れる人はここにはいないし、ココウなんて田舎町、どこにあるのか見当もつかない。そして今、全部失ったような顔をしているエトの前に、かわりみたいに、ミヅキという人が現れたのだ。
 名前に反応したのは、エトだけではなかった。少し離れたところで、一人で飯を掻き込んでいた人物が顔を上げる。短い髪、くっきりとした精悍な顔つき。大柄の男だった。
「年齢じゃなくって。トウヤってうんとチビすけだったでしょ、だからこんくらいかも」
「あっはっは、そうか。ミヅキ、そりゃあおったまげるぞ、実物を見たら。我らが隊長よりちょっと高いくらいだ」
「えーっ? まっさかあ。ウソウソ、絶対嘘ですよ」
 その時だ。ミヅキ、と太い声が飛んでくる。一足先に食事を終えていた件の部隊長が、テントの内から顔を覗かせた。
「ヒビの獣医師と連絡が取れた。チコリータの容体を説明しろ」
「さすがイチジョウ隊長、あざまっす!」
 すぐに立ち上がり、躍る黒髪がテントの向こうへ吸い込まれていく。
 自分たちの為に病院を探していたのだということを、そこで初めて知った。心配いらないよ、と不器用にウインクするアヤノ、こちらに頷いてから再び中へ戻ったイチジョウへも、エトは小さく頭を下げる事しかできなかった。
 病院、という単語が頭へ沸いた途端、漠然とした不安は急に体積を増し始める。ヒナのことを放って行くことなんてできない、病院に連れていったって金も無い。結局のところ、やはりハシリイに帰るしか残された道はなさそうだ。今頃家はどうなってるだろうか、カンカンだろうな、じいちゃん。つうか、カッコつけて振り切ってきたマリーや姉ちゃんに、どんな顔して会えばいいんだよ。
「――『フジシロ エト』と言ったか」
 諦めかけたエトの隣、さっきまでミヅキがいた場所へ、どすん、と誰かが座り込んだ。
 先程の男だった。近くで見ると体格の良さが際立った。軟弱な己と対称的な屈強さは、姉を孕ませたあの男にも共通している。太陽を彷彿とさせる明け透けで力強い、ばっちりとした大きな目。どことなく不躾な雰囲気だが、姉の彼氏と違うのは、それが何故か嫌ではないという点だった。
「そうですけど」
「フジシロと言うと、ハシリイの姓か?」
 あまりにも唐突な彼の言葉に、思わず目を見開いてしまった。
 その顔を多分、今度はアヤノも見たのだろう。きょとんとしてこちらと男を見比べている。ばれたか、まずい、いや、待て、まだ大丈夫。確かにハシリイには多い姓だが、他の町でだって、そこまで珍しくもないはずだ。――そう狼狽している自分が、ちっとも諦めていないらしくて、なんだかもう笑えてしまう。
 否定に至る前に、目の前の男が破顔して、ぽんと細い肩を叩いた。
「そんなに怯えなくていい、取って食ったりせんから。ミヅキにも隊長にも内緒だ、なあ、アヤノさん」
「まあ、ゼンくんがそう言うなら」
「……ちがい、ます」
「違ったか、そうか。悪かったな」
 ゼン、って言うんだ。『シマズイ ゼン』。だが誰も苗字じゃあ呼ばんから、ゼンと呼んでくれたらいい。そうとだけ自己紹介して、ゼンと名乗る男はこちらの耳元へ顔を寄せる。
「実家から逃げたなら」
「だから違いますって」
「ははは。……もしそうなら、苗字は捨てた方がいい。案外足がつくものだ。俺もそうだから、分かる」
 そう小声に聞かせて、ニヤリと笑う。同じ穴の貉。エトだけに見せた悪戯っぽいその笑みに、なんだか少し、安心した。気付けばエトは頷いていた。





 どたどたと階段が鳴る。駆け出してきたミソラは素早くカウンターを走り抜けて、飛びつくように戸口へ向かった。
「お師匠様もお昼までには来てくださいね、絶対ですよ!」
 そう喚いて開け放つドアから、爽快な風が吹き込んだ。肌寒さにトウヤが身を震わすのもお構いなし、行ってきまあす! と高らかに叫んで、曇天の下へ飛び出していく。いつだかやった鈴の音がドアチャイムに紛れ込んで、りんりんと跳ねながら遠のいていく。……気を付けて、と手を振ったハギは、その勢いに呆れ気味だ。獣のように早食いして身支度を整え外出する、手際の良さには付け入る隙もない。
「朝早くから出ていくんだね」
「早く試合を始めれば、インターバルを長く取れますからね。リナをゆっくり休められる」
「またスタジアムに行ったのかい? よっぽどポケモンバトルが気に入ったんだねえ。一体誰に似たんだか」
 頬を撫でる叔母の軽い嫌味に、トウヤは苦笑いするしかなかった。
 片付けられないからあんたも早くお食べよ、と言いながら奥へ下がっていくハギを見送り、厄介者へ目を落とす。用意されていた朝食だ。湯気の消えたご飯、汁物、目玉焼き。いかにもうだつの上がらない表情で、汁物椀を引き寄せる。目を瞑って、眉を顰めて、まるで苦い粉薬でも流し込むように一口二口飲んで、置いた。それから後方へ目をやった。
 ノクタスのハリ、ガバイトのハヤテ、オニドリルのメグミ。三人とも朝餉を終えて、空の給餌皿を前にこちらの様子を窺っている。最近この主人思いの連中は、残飯処理に非協力的だ。かわりに普段トウヤの朝飯を食ってくれるのはニドリーナのリナなのだが、今日は既にミソラが連れて出てしまった。となるともう、ピンチヒッターは一人しかいない。
「ヴェル」
 叔母に気付かれぬよう、囁き声で、友を呼ぶ。……のっそりと顔を上げる、肉の布団のようなビーダル。おいでおいでと手招きすると、随分と嫌そうな顔をしてから、ハリ達の方を一瞥、そしてこちらへやってきた。
 洗濯機が回る音は、まだしてこない。おばさんは暫く戻ってこない、今のうちだ。せっかくよそってくれた米を目玉焼きの上にひっくり返して、それを皿ごと床に置いた。さあお食べ、ヴェル。
 ふんふんと鼻が近づいていく。半開きだった目が匂いに丸く開いて、食い物を前に輝いている。なのにどういう訳か一向に口を付けようとはせず、こちらをちらちらと窺うばかりだ。
「食ってくれよ。うまいぞ」
 皿を口先へ押し寄せて、促す。ヴェルは顔を上げた。鼻を鳴らすのをやめた。まるで何か言いたげに、いや、むしろ咎めるように、じっと男を見つめ始めた。
 ……睨みあいに押し負けて、トウヤは小さく息をつく。汁椀をまた手に取った。一気に飲み干して、不味そうに具を噛みながら、ヴェルの前で椀を傾げる。空っぽだろ、ほら。
 人間より長い長い鼻息を吐いてから、やっとのことで、食いしん坊が飯に喰らい付いた。

 ごうごうと洗濯物が回る音がする。きれいに空いた皿と茶碗を、ハギが疑いなく洗い始める。あんたねえ。まだ少し嫌味っぽい声に、給餌皿を片付けながらトウヤは少しびくりとした。ばれたか。口の周りについた米粒を、ヴェルが舌を回して舐めとっている。
「あんまりミソラちゃんに、危ないことをさせないでおくれよ」
「え?」
 振り向くと目が合った叔母の表情は、真剣に心配げだった。先の話の続きだ。話の中身の割に安堵して、トウヤは小さく肩を竦める。
「手持ちを鍛えることは、身を守ることにも繋がりますから」
「そうは言ってもね」
 ハギはトウヤから視線を逸らした。伏せられた瞳が、洗い物へ落ちる。
「……あの子も、ポケモンを連れてスタジアムにばかり通っていたから」
 その『あの子』が、死んだ息子を指しているのだと理解するまで、トウヤは少し時間を要した。
 気を付けて見ておきます、と吐いた自分の言葉は、まるで上辺を撫でていた。ハギは満足気に頷いたが、自分の声のあまりの寒々しさに、悪心がするようだった。寒い。腕を撫でる。いつも熱を持つのにこんな時に凍えるような、色の変わった左腕。するりと赤い光が差して、メグミが勝手にボールへ戻る。寄ってきたハヤテもボールへ戻した。一つ目のボールも取った。開閉スイッチを押そうとして、ふとハリの目を見て、……やめて、ボールは元の位置へ。カウンター奥の廊下に向かうと、重い足音がついてくる。
 ごちそうさまです、と呟いて、叔母の背後を通り過ぎた時だった。
「あんたもだよ、トウヤ」
 立ち止まり、顔を向ける。少し照れたような、温かい微笑みに直面する。
「ミソラちゃんが来てから、あまりフラフラ出ていかなくなったでしょう。旅は楽しいんだろうけど、おばちゃん、実はほっとしてるんだからね? トウヤが危なっかしいことをしなくなった、って」


 声が蘇る。
『私、自分が突拍子もないことを言ってるって、分かってるんです』
 タケヒロもやめろと言うし、グレンさんもよく思っていないようだし、普通はそうなんですよね。揺すり起こして、さっさと友人宅を退散して、自宅へ戻る道すがら。寝ぼけ眼を擦りながら、ミソラはそうトウヤに聞かせていた。
『気味が悪いって、思うんですよ。私のことを、みんな、きっと。……でも、お師匠様は、こんな私でも許してくれた。優しいですよね、お師匠様。お師匠様だって、多分『普通』に思ってるはずなのに。それでも私のやりたいようにやらせてくれる。応援してくれる』
 優しいですよね、お師匠様は。口を開こうとした男へ、押し付けるように、子供は繰り返した。
『私、目標達成したら、必ず恩返ししますから』
 にへっ、と、とろりと、蕩ける空色。朝日の中で、微かに紅潮した頬は、艶やかな光を湛える。


 ――よしてくれ。優しくなんかないんだ、ミソラ。
 さっきの汁物を胃液ともどもぶちまけて排水溝へ見送ってから、便所を出て。階段を上がる、自室の戸を開ける、ハリがそこに待っていた。物言わぬ視線を浴びながら、押入れを引く。膝をついて中を漁り、目的の物を引っ張り出した。
 みんな大好きポケモンフード、ペレット型、特大粒。ノーマルタイプ用。お徳な増量パッケージ。
 さあ、始まりました、楽しい朝ごはんの時間です。
 ……一握り、ざらざらと、机に広げる。ポケモンフードにも各社様々な取り揃えがあって、趣向を凝らした商品が数多く出回っている。種族によって様々に要求される栄養素や食の好みを、タイプやタマゴグループなんかでざっくり分けて、それぞれの専用食として開発されるのが一般的だ。生き物の理に適っているから、ポケモン達に食わせる分にはタマゴグループ別のブランドを選ぶのだが、タイプ別の商品の方がだいたいは安価で手に入る。中でも最も安いのが、オーソドックスなノーマルタイプの餌だ。味だけなら、あらゆる会社のあらゆる味を一通り試した身から言えば、フェアリータイプ用のポケモンフードが一番『食い物らしい味がする』。フルーティな味付けの焼き菓子として売られていても不思議ではない。けれどフェアリータイプ用は需要が少なく高価な上、うちにいないから、買うと怪しまれかねない。ノーマルなら、まあ自分の手持ちでないとは言え、ヴェルがいる。なんとでも言い訳出来る。
 机の上に転がっている、草の汁と腐ったオボンと獣の匂いがする塊を、少し眺めて。トウヤはふと思った。ポケモンは給餌皿を床に置かれて、地べたに座るか這い蹲って餌を食うのに、どうして人間は食卓に飯を並べるのだろうか。
 黙って、机から足元へ、てきぱきとペレットを並べ変えた自分の主を、案山子草はひたすら無表情に見守っている。
 這い蹲って、食べるべきか。胡坐をかいて視線を落として、トウヤはしばらく真剣に悩んだ。けれどそこまでは倣わなくともと思い直して、手に取って、茶色い固形物を躊躇いも無く口に入れた。
 がり、がり、もそ、もそ。……ノーマルタイプの混ぜこぜの味は、正直よく分からない。味覚は日に日に朧になっている。忽ち口内の水分が奪われれば、舌の上に砂っぽいざらつきばかりが残って、それが物凄く不味いことは分かる。けれど飲み込んでしまえば、それで終わりだ。いくら不味くてもポケモンの餌なら、ヒトの飯みたいに、食うこと自体に罪悪感は伴わない。吐かなきゃいけないとも、思わない。
 ろくに飯が喉を通らなくなったのは、十日ほど前だろうか。ポケモンフードを色々と味見したのはずっと昔で、それこそ十一か十二の頃だろう。ハリに一番うまいものを食わせてやらなければ、の一心で、スタジアムで得た小遣いであらゆるポケモンフードを購入し、一緒に試食を繰り返していた。なんでお前まで食うんだよ、変な奴だな、と、グレンは呆れかえっていたが。あの興味本位がまさか役に立つ日が来るなんて、さすがに思いもしなかったろう。
 ポケモンフードは、味は薄いが高カロリーだ。燃費が良いのは自分の長所で、朝少しでも腹に入れれば、夜まで十分に活動できる。……視線は痛いけれど。十粒ほど食って、食いきれず残りを袋へ戻すトウヤに、ハリはじわじわと目を細めていく。昨晩の弓張月のようだった。
「そんな冷たい顔するなよ、ハリ」
 腐っても主人だろう、お前の。ああ、いや、『家族』、と言ったのか、確か、僕は。お前のことを。昨日は睡眠不足も極限に上り詰めていて、全て思い出せている気もしない。一睡できた今は、いくらか思考もクリアだった。
 家族なら、冷たい顔もするだろう。嫌そうな素振りも見せるだろう、だって家族だから。自分と同評価を下される身内が、ヒトの食い物を拒絶して、安くて臭いポケモンの餌を食っていれば、当然嫌にもなるはずだ。
 家族ならな。そりゃあ、そうだろう。袋を押入れの浅い場所へしまいながら、ふと手を止めた。
 両親が生きていたら、今の僕を見て、どんな顔をするのだろうか。
 その想像がおかしくて、トウヤは一人で笑ってしまった。やっぱり嫌だろうか、情けないと言うだろうか。母さんは多分、言うだろうな。みっともないと怒るだろうし、泣くかもしれないし、叩かれるかもしれない。でも、父さんは、きっと笑ってくれるだろう。げらげら笑って、腹を抱えて笑って、さすがは俺の息子だと、涙が出るほど笑うだろう。そうやってひとしきり笑い飛ばしてから、僕に聞くんだ、絶対。それでどれが一番うまいんだ、って。父さんにも食わせてくれって。嬉々として言うに決まってる。それを聞けば、母さんはまた怒って、下手したら父さんも殴られるんだ。
 ああ、――絶対そうなる。おかしいな。立ち上がって、ぽんぽんと上機嫌に頭を撫でられたハリが、また無表情に彼を見上げる。トウヤは部屋の向かいの、ミソラが使うベッドの下に手を突っ込んで、畳まれたゴミ袋を取り出した。
 広げて、ばさりと空気を含ませて、座る。部屋の角の本棚、その横の物置棚。今日はここだ。思い出がある分手が掛かりそうで後回しにしていたが、今ならなんだか景気付いている、行ける。
 手始めに、無造作に並べられている写真立ての中から、青いフレームを選んで取った。
 色褪せた、うすっぺらい紙の中で、大好きな父と母に手を取られて、無邪気に笑う、九歳の子供だった自分。
 父さんは、母さんは。今の僕を見て、一体何を思うのだろう。
 一瞥して、すぐにゴミ袋に放り込んだトウヤに。ハリは静かに目を見開いた。
 ――ある日砂漠の真ん中で、とてもきれいな子供を拾った。拾った子供は、すくすくと育って、「誰とも知らない人を殺したい」と言い出した。父さん、僕はそれを手伝うと言ったよ。母さん、僕はそれに指導をつけたよ。『人殺し』に加担する、醜くて、身勝手極まりない、酷で残忍なあなたたちの息子を。見て、何を、思いますか。
 ひとつひとつ、確認もしなかった。色とりどりのフレームの中。ハリや、ハヤテや、たまにメグミも写り込んでいる、色々な場所に行った記憶、そこで見たもの、聞いたもの、笑ったこと、怒ったこと、感じ入ったこと。すべて掴んで、囚われる前に、袋の中へ。放り込んでいった。消し去っていった。なかったことにしていった。
 優しくないよ、優しくないんだ。ミソラ。胸の中で、うわ言のように繰り返したって、黙っていれば意味はない。そう勘違いさせる行動をとり続ける限り、懺悔は力を持つはずもない。ミソラ。気付いてくれよ。見限ってくれよ、頼むよ。早く。お前が慕ってる『師匠』と言う奴は、本当に屑で、下劣な悪魔か、鬼のような化け物なんだ。
 撮りすぎだ、写真。数冊のアルバムごと全て突っ込んだ。その下の棚、旅先で買ったり貰ったりした置物や人形なんかも全部、流れ作業で廃棄していく。十年近くかけてぐちゃぐちゃに詰め込んだ思い出たちは、ものの数十秒で空っぽになった。
 黙って、呼吸をするのも忘れるように、膨らむゴミ袋に見入っているハリは。微かに震えている、ようだった。
 アルバムとか写真立てとか、ミソラが要ったと言うだろうか。中身だけ捨てて、譲ってやるべきかもしれない。そういえばあいつも、ハシリイで楽しそうにカメラを構えていたじゃないか。カメラ。ふと思い出す。棚の一番上に、砂埃を被った使い捨てカメラが置いてある。それも手に取って、少し眺めてから、机の上に移動させた。早めに現像しておかないと。
 ゴミ袋はまだ余裕がある。あとは何を捨てるべきだろう。座り込んだまま、本棚を見上げた。以前に比べれば、ほとんど空に近づけた本棚。ミソラがこれからトレーナーとしてやっていく時、必要になりそうな本だけを選んで残してやったつもりだ。
 『あの日』を機に、少しずつ進めた身辺整理は、いよいよ終盤に差し掛かっていた。
 ためになるものを残しながら、この部屋から、できるだけ痕跡を消すために。前任の『部屋の主』が、僕にそうしてくれたみたいに。
 仮に。このまま順調に、僕の痕跡が全て消えたら――僕がこの部屋から消えてしまえば。いや、そうでなくても、これから事がどう転んでも、おばさんは悲しい思いをするだろう。ヨシくんのときの、それに近い苦しみを味わうだろう。その元凶のすべては僕で、だからこそ、僕は行動しないといけない。誰かに与える悲しみや、迷惑は、最小限に留められるよう、一刻も早く、ここから動き出さなければいけない。
 誰も待たない。精算を迫られている。おまけみたいなこの人生の、白か、黒かを。
 昨日の電話を思い出した。大丈夫だよ私幸せになれるよって。今更じゃん、仕方ないじゃん、って。ねえ、だから、トウヤも幸せになってよ、絶対だよ、約束だよ、なんて。
 あの、馬鹿が。脳裏にあの声が過ぎった途端、急激な脱力感に襲われて、ベッドに倒れて、顔を覆った。
 カナ。……散々無責任なことを言いやがって。
 ああ、いつからだ? いつから勘違いしていたんだろう。幸せになど、なれるものか。なってやるものか。例えば全てから解放されて、こんな世界から晴れやかに飛び立てたって、天国の両親のところになんて、端から行けるはずもなかったんだ。
 おねえちゃん。呻き声が、指の隙間から漏れる。あなたは、何を言うだろう。何か言ってくれるだろうか。僕を怒ってくれるだろうか。僕を、笑ってくれるだろうか。
 その、どちらにしたって。――変わらないのだ。結末は。どうやったって足掻いたって、最後に僕は、ぐるぐると、頭から落ちていくだけなのだ。
 十歳の僕が待っている、あの月の夜と、地獄の底へ。
 落ちていく、だけなのだから。


■筆者メッセージ
***拍手レス
>めめさん
ワ〜ありがとうございました……!!本当に励みになりました……!!
十うん年付き合ってるのに互いの事をよく知らないトウヤとグレン、そこに『絆』があるのかどうか。でも知ってることだけが、『絆』の中身なのかなあ。友達ってなんだっけ、そんなグレンとトウヤ間・また全部を知りたいタケヒロとミソラ間の「友人観」の違いが今章のテーマにもなってるので、そこも楽しんでいただけたら幸いです。グレンのことをやっとクローズアップできて私も嬉しい!
トウヤの闇が深いかどうかは……ちょっとよく分かりませんが笑、トウヤのこともミソラの謎ももーちょっとで話が進められるはず!
なんだか転げ落ちるように話に混じり始めてしまったエトのことも頭の隅に置いておいてやってくださると幸いです!よろしくおねがいします!

***ありがとうございました!
とらと ( 2016/09/14(水) 00:12 )