7−7
ユキに貰った鎮痛剤は果たして効いているのだろうか。じくじくと痛む右手首に左手を添えれば、異様な腫れと熱気が嫌と言う程感じられる。じきに痛みが治まることを祈りながら、アズサはホルスターからキャプチャ・スタイラーを取り出した。
一度は投げ捨てた自分の『商売道具』。ポケモンレンジャーにとれば、その手の平大の機械は自分の証でもあり、半身とも言える存在だ。ぞんざいに扱ってごめん。あんなの本心じゃなかった。もう一度、チャンスを下さい。……無言で無機物に問いかけながら、痛めた手首に装着する。取り付けるだけでたちまち走った激痛に、すぐにベルトを緩めざるを得なかった。
不安と絶望が、たちまち胸を侵食していく。装着感が普段と違いすぎる。行けるのだろうか。……そんな憂いを煽るような獣の、そして耳馴染みあるクオンの声が、決して遠くない場所で響く。グレンという男が合流したのだろう、また戦況は動き始めたようだ。と同時に聞こえてきた階段を上がってくる足音に、アズサは顔を向けた。
床に点々とついている足跡は、自分のものだ。埃の積もった廃屋の二階。隠れ場所に据えていただだっ広い空間を、そろりと覗きこむ目が六つ。強張っていたタケヒロの顔は、こちらを見るなり安堵を滲ませ、それから慌てて勇敢を着飾った。
「大丈夫か? アズサ」
「……ええ」
ポッポの二羽を肩に乗せたまま、ヘルメットを被った少年がおずおずと部屋に侵入してくる。どうして、と聞こうとして、一人で答えを導いて女は苦笑を浮かべた。多分タケヒロはいまいち話を理解していなかったのだろう。アズサの『特技』を利用して場所を悟られず奇襲をかける、そのためにアズサを一人にする、という話だったのだが。
けれど、構うものか。むしろ都合がいい。正々堂々と正面切って対決することが、一番望ましいはずなのだ。……やっぱ心配でさ、と小声に隣へ腰掛けたタケヒロの視線は、窓の方向へ吸われがちになっている。薄暗い部屋に唯一光を導くガラスのない窓は、戦況を目視する唯一の手段でもある。
「薬効いてんの?」
「正直、いまいち」
「まぁ、アズサがキャプチャしやすいように俺達がなんとかするからさ。心配すんなよ」
頼もしく笑顔を見せる非戦闘要員の少年に、アズサも小さく頷いた。
特技――『波動を消せる』ということに気付いたのは、養成学校に上がる直前だ。森羅万象全ての物に存在するべき『己の波動』を、自分の意思で極限まで薄くする。波動使いのクオンと幼い頃から一緒に居たからこそ身に付いた、いまいち実用性の低い特技。しかし、クオンを通じて父親に、何を考えているのか全て筒抜けという不利な状況を脱することが出来たのは、当時はとても大きかった。クオンは何でも分かってくれる。兄のような、頼もしい拠り所。けれどすべてが見通されるのは、時々怖くて、心を開いてばかりではいられなかった。
タケヒロの波動の存在で、ここに自分がいる事に、クオンは気付いただろうか。また唸りが聞こえた。地鳴りのような低い声も。何のポケモンだろう。心当たりがいくつも浮かんでくる、鳴き声ひとつで種族まで当てるには勉強不足が否めない。グレンがどんなポケモンを連れているのかは、結局聞かず仕舞いだった。
来たはいいものの、タケヒロはそれ以上何も話さなかった。隣で膝を抱えて真一文字に口を結んで、戦う気満々の武装でいながら、顔つきがひどく緊張している。ポッポ達がそんな主人の方で悠々と毛繕いをしている。それがおかしくて、見ていると何だか癒されて、胸に渦巻いていた重い感情も気付けば少し和らいでいた。
「自信ないな」
リラックスさせてくれた相手に、勝手に言葉が零れる。元から大きな目を更に大きく丸くして、タケヒロは顔を上げた。
「何言ってんだよ、今更」
「……自慢じゃないんだけど、こう見えても私、レンジャーの養成学校に居た頃は、いつもトップの成績だったのよ。キャプチャや格闘訓練の実技も、勉強の方も」
急に何を話しているんだ、みたいな顔は、彼の両肩のポッポ達だ。背後に轟音が迫る。技のぶつかり合いが起こったのだろう。一瞬身を震わせ、ぱちくりと目を瞬かせてから、視線を逸らして、タケヒロは膝を抱え直した。
「真面目そうだもんな」
「高学年になってからは、キャプチャできないポケモンなんていないと思ってたし、実際キャプチャできなかったこともなかったわ。失敗するかもしれない、なんて思うの、これが初めて」
浮かれていると言われればそうなのかもしれないが、才能には恵まれた方だ。鍛錬も人一倍怠らなかったから、自信を持って口にさえ出来ていた。訓練生の中では自分が一番キャプチャが上手い、と。……またクオンの声が響く。本気を装って吼えているけれど、違う。それがよく分かるから歯痒かったし、可能性の低さを見せつけられる気分になる。
「クオンが負けるところなんて、想像できないもの」
その時だ。――景色がぶれた。跳ね上がるように地面が揺れる。廃屋が軋む音がした。天井から降りしきる砂礫。ぎやあああッ、と隣の悲鳴が、つんざくように響き渡った。
空を飛んだことは、あるにはある。嘘みたいな跳躍力を持つガバイトの背中に跨って、だから、本当に『空を飛んだ』と言えるのかどうかは微妙だ。正真正銘、鳥ポケモンの背に乗って飛ぶのは、だからこれが初めて。――ハヤテの時と変わらずの恐怖体験に叫びたい気持ちは、しがみついているのがグレンのポケモンだったから一応我慢した。
眩しい。天で輝く火の玉へ突き進んでいく。かと思えばそれが頭上を通り越して背後に回って、浮き上がりかけた体は背後の胸板に受けとめられるからまだ安定感はあるが。ミソラと、それを抱き込むようにするグレンを乗せた彼のウォーグルは、尋常でない速さで上昇した後物凄い勢いで旋回した。体中を前から圧迫する風、風、風の壁! 景色なんて見れたもんじゃない、猛烈に流れる視界の中でバリバリと異音が響いているのはなんとか分かる、けれども。けたたましい轟音を奏でているのは、グレンの放った新手――ヨノワールの一発目だ。
「どうだ、俺のヨノワール自慢の『地震』は」
「バカか、町中だぞ、人がいたらどうするんだ!」
歯を食いしばって耐えているミソラを支えながら目下を視認するグレンに、メグミに乗って同じく空に避難したトウヤが叫んだ。そのために人払いしたんだろ、と面倒くさげにぼやく戦闘狂の声は、多分ミソラにしか聞こえていない。
したたかに頬を打つ風がやや弱まった。ウォーグルがようよう減速してくれたので、ミソラも何とか下を覗けた。強い風が、沸き立つ砂埃を押し流していく。ヨノワールも近隣被害を考慮して少しは加減したのだろうが、彼を中心に径十メートルに渡って平らだった空地は変わり果てた様相だ。ルカリオはその輪の中に立っていたが、遠巻きに見てもすまし顔。喰らったが効いていないのか、あるいは避けられたか。
「バケモンじゃねえかあいつ」
グレンの独り言が心底楽しそうに聞こえるのは、多分気のせいではない。
「よし、次だ」
「おい話を――」「ちょっと触んなヘンタイ!」
トウヤの小言はそんな甲高い声に遮られた。
緊迫して上空を旋回しながら、場違いな台詞に様々な視線が集められる。最もぎょっとしていたのはトウヤだった。メグミの背から即座に身を起こした彼の向こうに、小さい人影が見えた。ポニーテールが滅茶苦茶に風にはためく。メグミの背には、実はユキも乗っている。
「はなれろおっ、ばかっばかっ」
「引っ付いてきたのそっちだろ、暴れる、な」
あっ。その瞬間、誰に何の断わりも無く、メグミが翼を振りかざし左右に身を捩らせながら華麗で大胆な縦旋回を披露した。ぎりぎりしがみつくので一杯なトウヤが助けられるはずもなく、同乗者は問答無用ですっ飛ばされた。
「ぎゃー!」
そういえば、メグミはお師匠様以外の人を乗せるの嫌いなんだっけ。そういう記憶が過ぎった途端、だった。
尻と内臓が浮き上がった。
「ひっ――!」
正真正銘尻が浮いて内臓も上に持っていかれた、いやそんな感じがした。ユキの悲鳴を掻き消すぐらい泣き叫びながらミソラはウォーグルにしがみついた。急降下急降下急降下。抱き込んでくれる背後から笑い声。いやいやいやいや。と思っているうちにほぼ減速無くウォーグルが地を掴んだ。もう少しで口から体の中身が躍り出ていきそうな衝撃。為す術無くミソラはその背から転がり落ちた。そのままぐったりしている年少者さえ置きっぱなしで自分は華麗に飛び降りて、こちらを見据えるルカリオにグレンはびしっと指を指す。空中での男女のいさかいの間、この人だけはバトルのことだけ考えていたらしい
「『重力』」
はぁっ!? ――師匠の短い抗議は空から。ヨノワールが大きく両手を広げると、身構える暇もなく見えない力に押し付けられてミソラは地面に這いつくばった。足から頬から髪の先まで、ぎりぎりぎりと底への力がかかる。動け、な、い。下から吸引されているような感覚だ。固定された視界に上からメグミを収容した紅白球が降ってきて、続いて生身の師匠が降ってきた。いや、磁石に引き寄せられる金属のような勢いで固い大地に激突した。
地震に破壊された地が、凄まじい重力にバリバリと悲鳴を上げる。ルカリオが初めて見せる険しい表情で片膝をついた。男はにやりと笑む。地面にへばりついたまま指先さえ動かせないミソラも、向かいに落下したユキのあんたら自由すぎかという叫び声も強打した腰を押さえて悶えるトウヤも、結局眼中にないらしい。行くぜヘルガー! グレンが叫ぶ。彼にだけ重力が掛かっていないのだろうかというくらいの機敏さで、拳を握った両腕を引き、
「『煉――」
高く吼えるのは従者ではなく主。コオッとヘルガーの喉奥が輝く、空気が一変する程の高エネルギーが渦を巻く、爪が地を穿ち身を支持する。グレンは片腕を前に突き指を開放した。ここぞとばかりの決めポーズ。
「――獄』ッ!」
熱波が放射される。重力に縛られたルカリオの目に、ほんの微かな焦りが見えた。
――『煉獄』。ミソラは目を見開く。決めポーズの滑稽さからは想像もつかない、這いつくばっていなければ確実に腰を抜かすくらいの大技だった。
空の色が変わる。浄化の輝きを帯びた業火が何十メートルにもせりあがっていく。天が焼き焦がされる。蒼穹の瞳に映り込む圧巻の紅。見惚れるように子供は息を呑んだ。逆らう気力も打ち砕くような迫力、おぞましい熱量の向こう側に、ルカリオの姿は完全に呑まれてしまったのだ。あれは鋼タイプだ。炎の技には弱いはず。この攻撃をまとも受けようものなら、さすがのルカリオも……すごい、と思わず呟いた途端に、グレンが振り返った。背後の地獄めいた凄惨さからはほど遠い、嬉しげで得意げな満面の笑顔。
「どうだトウヤ、俺のヘルガーは!」
悪友の戦友にそう言った。トウヤは即座に答えた。
「後ろ!」
「お?」
炎の壁から飛び出した敵手が、あまりの唐突さに為す術もないヘルガーの腹を高く蹴り上げた。
早業だった。顔を戻したグレンの目前、打ち上げられたヘルガーの懐へ入ったルカリオが、その腹へ渾身の『インファイト』を叩き込んだ。
ゴーストを得ていたはずのヘルガーから折り重なるように鈍い打撃音が轟いた。グレンが即座にボールを取り開閉スイッチを押したのは、最後の蹴りが深く決まって、唾を吐きながら吹き飛ばされたヘルガーが民家の壁に激突する直前。赤い光が完全に脱力したヘルガーを呑む、舌打ちと共に振り仰いだ先で目にするのは、続けざまにヨノワールと対峙したルカリオの一手。『波動弾』と同じ要領で構えた両手を引くが、空間に形成されるはそれと異なる黒い影。
「うおっ――」「シャドーボールだ」
続いて取り出した退避用のボールも、トウヤの警告も遅すぎた。力強い咆哮と共に、渦を為す闇色の塊がヨノワールの胸へと打ち込まれた。
ドスッ、と技が刺さり、巨体がガクリと震える。不気味な一つ目が光を失い、霊体が音を立てて地面に伏す。砂塵が巻き上がる。また一撃だ。それもボールに戻しながら、火傷の追加効果は、と後ろから問うトウヤに、敗戦一方の男は無言で首を振る。口内に隠し持っていたのか、何らかの食い物を噛み潰しているルカリオに、火傷の素振りは見られなかった。
「『見破る』も対ゴースト技も持ってて隠してやがったか……」
「遊ばれてるな」
しかも炎技のダメージさえ、動きに支障をきたすほどではないようだ。『重力』の収束と共に再び繰り出されたウォーグルと、ヨノワールを収納したボールを眺めてから、またグレンがこちらへ振り向く。圧倒的な敵を前に絶望さえ匂わせる、唖然とした表情――から一変、まるで子供のようにきらっきらと目を輝かせながら、
「ゾクゾクしてきた……!」
そう言ってのけた。トウヤだけでなくミソラも呆れ始めた。
見てないで加勢しろ、の声がようやく掛けられる。好き放題な戦場にトウヤが送ったのはノクタスのハリだ。相性的にはかなり不利だが、その周りに纏わりつくようにお化け南瓜が飛び始めれば、状況は変わりうる。どこからか滑るようにやってきたバケッチャのステファニー……いや、
「あれ」
ミソラは目を丸めた。
「なんか、前より大きい?」
「いっけーマーガレット! 邪魔は任せて!」
フィールドの向かい側から声が聞こえる。どうやら別の個体らしい。
ルカリオが動く。ハリの脇を抜け迫られると、マーガレットと呼ばれたバケッチャは逃げるように浮かび上がった。追って更に高く跳び、打ちこむ『バレットパンチ』。ちゃああ、という悲鳴と共に打ちのめされたバケッチャが落ちる、同時にルカリオの背後で閃光が瞬く。裏拳を打ち込みながら振り向いたルカリオの目の前に、またしても繰り出されたバケッチャが、更に膨張して身構えていた。
でかい。拳の一撃ではびくともしなかった。っぢゃあ、と野太い声を上げる特大サイズのバケッチャに、再三放たれるバレットパンチ、その背後にハリが迫った。
「宿り木!」「くらえっ、宿り木の種ぇー!」
トウヤとユキの指示が重なった。本当にやるのか、とグレンが笑った。――中くらいのとでかいのと、どこかからまた滑るように現れた一番小さいステファニーと、そしてハリが、一斉に大量の種子を吐き出した。特大サイズを踏み台にしてジャンプし、豪雨の如く四方八方に降り注ぐ無数の弾の全てを躱すと、宙返りながらハリに一手を浴びせようとする。阻止したのはウォーグルだ。
「ブレイブバードォッ!」
拳を振るい叫ぶグレン、猛りを上げ黄金色の光を放ちながら鋭く滑り込んでくるウォーグルに、宙にいるルカリオは回避と言う選択肢を持たない。素振りを見せないと言えダメージは蓄積しているはずだ、もしかして行けるのではないだろうか……そんな淡い期待は、ものの見事に、打ち砕かれた。
さすがに『波動使い』と言ったところだろうか。動きを完全に見切られたのだ。軽く体を捻り嘴の直撃を回避、下から伸ばした腕が両翼の根を掴むと、そのまま背負い投げの要領で、技を発したままのウォーグルを下方へ、叩きつけた。
果たしてその落下点に、ハリと三匹のバケッチャが居た。――ステファニー! リリアーヌ! マーガレットおおお! という叫びはユキのものだ。ぎりぎり飛び退けたハリの後方で、小バケッチャと特大バケッチャ、そして二匹目の中サイズバケッチャへと『ブレイブバード』が突っ込んだ。
お化け南瓜を巻き込んで、猛禽が大技を携えて地に特攻した。爆風さえ起こってミソラは足を踏ん張った。奇声が四つくらい折り重なった。クレーターを開けるような衝撃を伴う大惨事、あの勢いで頭から地面に激突していく反動を想像して戦慄するミソラと、なんだ今のどーなってんだ畜生と敵方の離れ業を前に興奮を露わにするグレンと。まだ起き上がろうとするウォーグルにとどめを刺さんと接近したルカリオは、傍で目を回しているバケッチャ三体に駆け寄っていく女を見て、即座に攻撃を中断した。
「今だ!」
トウヤが突いたのはその隙だった。
突き出された両腕から放たれるミサイル針。その針のいくつかの先に、ブレイブバードの内に更に空中に撒いていた『宿り木の種』が引っかかっている事にはルカリオも瞬時に気が付いた。ルカリオの僅か数メートル左手には、バケッチャを抱き込む生身のユキ。左右に振り分けながら乱射される高速の針を、弾き返すではなく、後方に跳んで避けようとした――その足元。
踏みつけた瞬間、一番最初に撒き散らしていた『本命の』宿り木が、その足裏に食いついた。
掛かった。正直成功するとは思っていなかったその場の全員、誰もが驚いて目を瞠った。急激に伸長する芽が蔓が、絡みつくように足を這い上がっていく。振り解けない寄生植物が、動きを拘束するようにルカリオを絞め上げ始めた。
*
乱入したユキを巻き込んで、六人で作戦会議は続行される。
『重力』のさなかにキャプチャすることが出来るなら簡単であるが、キャプチャに使用するディスクの動きさえ重力に止められては意味がない。代わりにトウヤが提示した『ルカリオの動きを鈍らせる方法』は二つあって、その一つ目がハリの『宿り木の種』だ。と言ってもそれほど動きを制限することが出来る訳ではないし、成長する宿り木に長く拘束されてくれるとは考えにくいが、ある程度疲弊させた後ならキャプチャする隙くらいは作れる可能性もある。問題はそれを引っ付ける方法だ。
「こっちの作戦は『波動』で読まれて全部筒抜けになるからな。『宿り木の種』みたいな遅い技は簡単に避けられるだろう。お前ら得意の『ミサイル宿り木』も、意表はつけるかもしれんが直線軌道だ、狙いがバレれば躱されてしまう」
「ルカリオって空飛ばないですし、逃げ場がないくらいたくさんばら撒いたらどうでしょうか」
「技を使える回数にも限りがあるからなあ」
ミソラの提案に難色を示すユキに、いや、とトウヤは腕を組んだ。
「ばら撒いて、地雷にしておく手はある。うちの宿り木は撃ってから発芽能力を失うまでかなり耐える方だ」
「じゃあルカリオが宿り木の事を忘れた頃に、ばら撒いた場所に連れていければ……」
「よくわかんねぇけど、そんな間抜けな方法に引っかかるのか?」
タケヒロの声に、大男がそりゃそうだと声を上げて笑った。笑われて萎縮するミソラの一方、僕も上手くいくとは思わないが、と保険を掛けた上で、けれどトウヤの表情はそれなりに真剣だ。
「ルカリオを誘導する手はゼロじゃないかもしれない。勤勉で、生真面目で、融通が利かない。君には甘くて……」冴えないがどことなく生き生きとした双眸は、アズサを捉えてから、その横にちょこんと腰かけるユキとステファニーへと滑る。「ヒトには絶対に危害を加えない。そうなんだろ?」
「おい、ユニオン幹部の前で下種い事はやめとけ」
くつくつと笑うグレンに、トウヤはまさかと言って苦笑するだけ。ミソラの理解が及ぶ前に、師匠はさっさと話を切り替えた。
「とにかく、判断力を低下させることは不可欠だ」
グレンが自信ありげに頷く。
「ダメージを溜めて疲労させる、ここは俺が引き受けよう。つーか俺にやらせろ」
「そんで、ユキのバケッチャ軍団でハロウィン攻勢をしかけて、クオンを混乱させる!」
手を上げて宣言するユキに、ちゃあ! と気合満々に敬礼するステファニー。微笑ましくそれを見て、ふとミソラは声を上げた。
「そういえば、バケッチャは『宿り木の種』使えないのですか?」
「ん?」
「三匹もバケッチャを持っていらっしゃるのなら、ハリと合わせて四匹で取り囲んで使えば、ほぼ確実に当てることが出来る……のではないでしょうか……」
作戦会議なんて高尚なものに自分みたいな素人トレーナーが口を突っ込んでいいのだろうか、ユキのきょとん顔を見ながら段々萎んでいくミソラの声を聞き、ステファニーが頭の房を揺らしながらユキの顎を見上げている。全員の視線を浴びながら、ユキは暫く『きょとん』を続行し、ステファニーを一瞥した。それから、ぽん、と手を叩いた。
「ミソラちゃん、天才」
「使えるのかよ」
少年の冷静な一声にうんうんと何度も頷き、目を輝かせて身を乗り出す。
「やろーよ、取り囲み宿り木大作戦! ユキ、アズのために力になれたら、すごい嬉しい!」
「まあ、簡単に避けられるのがオチだろうけど」
「無計画に特攻するよりは悪くない。まずは俺のポケモンでルカリオを連中で取り囲めるための手筈を――」
「ま、待って」
久々に声を上げれば、一斉に注目が注がれる。……それらの視線に若干困惑した様子も見せながら、わいわいと騒いでいた連中の言葉の全てを制して、アズサは一人だけに声を向けた。
「ユキ。だめよ」
へ? ――またきょとんとしてユキが小首を傾げ、バケッチャも体を傾げて、沈黙はまずい雰囲気に流れ始める。楽しんでいるのかどうなのか、どちらにしろ盛り上がりつつあった連中の中で、当の本人だけは相変わらず浮かない表情をしたままだった。なんで? と問う友人に、他の面子へ気後れするのか、アズサはやや音量を絞る。
「相手が誰だか分かってないわ」
「分かってるよ、サダモリ長官のルカリオでしょ?」
「だったら、あたしの言いたいことも……」
「それも分かってる。お偉いさんのポケモンに技掛けたらさすがにまずいっしょ、って感じ? へーきへーき、ユキ、ユニオンでは結構おてんば娘で有名だから」
けろりと笑って手を振るユキに、また表情を固くする。
「……おてんばで有名、って……だからって仕事放り出してこんなとこに来て、幹部に攻撃して任務妨害して、許されるの? 自分の立場とかも、考えないと」
「でも、ユキ、アズのために来たんだよ、『こんなとこ』まで。アズを助けなきゃ、仕事抜け出して来た意味ない!」
言い切ったユキの目の真実味が、その感情の温かさが――多分、彼女には重たすぎて、向けていた視線がずるりと落ちる。
居心地が悪くて、誰かと目を合わせたくてミソラが見たタケヒロの双眸は、じっとアズサに据えられて動かなかった。それもちょっと険しい表情で。少し遠くに視線を移すと、離れてカウンターに腰かけているトウヤとは一瞬目があったが、それも逸らされてしまった。結局アズサに向けられた彼の目は、やはりどことなく険しい。
「……やっぱりだめよ、ユキ。これは……私とお父さんの勝負だから」
まだ迷いのある呟きは、けれど少しずつ強みを増した。到底納得できないと怒り出しそうな雰囲気のユキに、何も言わせない速さで、あんたたちも、とアズサは周りを見渡した。
「そもそも手を貸してもらうのが間違ってる。協力しようとしてくれてありがとう。でも、ここから先は一人で、やれるから」
「なっ、なんでだよ? 俺は別に」
思わず立ち上がったタケヒロに、女は少し笑む。知らない顔だった。彼女のそんな寂しげな顔を、今までミソラは見たことがない。
「ありがとう、ピエロくん。大丈夫よ。これは私のミッションだから、私一人で受けるのが道理。……それに、ユニオン幹部になんて、本当は下手に名前を売らない方が良い」
「じゃあ聞くが、お前さん一人で勝算はあるのか?」
グレンの口調が幾分攻撃的なのは、多分ルカリオと一戦交えるチャンスが無きものにされかけているからなのだろう。アズサは怯まなかった。タケヒロに話しかけるのとは違う凛とした姿勢で、
「負けたら、それが私の実力です。ユニオンに連れ戻されても文句は言えない。どっちにしろ、このミッションが終わったら、私はポケモンレンジャーを」
言うけれど。そこまで来ると行き詰まって、結局視線が下がる。
「……辞める、だから」
「そんなのダメ!」
「ちゃんと聞いて」
噛みつくユキを宥めても、この場には今反発の意思で自分を見ている人ばかりだ。それぞれの目を一通り見ながら、言葉をどう選び取ればそれらを説得できるのか、アズサは静かに狼狽えていた。
「だから助けてもらったって、そもそもこのミッションには意味がない。私があの人と決着をつけるためだけのキャプチャよ、それが成功しようがしまいが、あんたたちにはなんの損得もないわ」
「いや」
ぼそり呟くのは、少年。
「アズサがレンジャーをやってて、ココウにいて、あの家で今まで通り俺と話をしてくれれば、少なくとも俺は得をする」
――言っていることはよく分からないが、上げた顔は極めて真剣だ。それを聞き、アズサの瞳が若干揺れたのを、ミソラは見たし、グレンが顔を背けて口を押えたのも見た。この人は本当に笑いのツボが浅いと言うか。
「……しないわよ、何言ってんの」
「するぞ? めっちゃ得する。具体的に挙げようか?」
けれどグレンが笑いを堪えたから、空気は妙に重たくなった。攻めるようなタケヒロの口調にアズサは顔を上げられなくなった。なんとか人に立ち向かっていた視線は、手元へ落ちて上がらなかった。タケヒロが唇を噛む。本当に真剣だった。ぎゅうと握られた拳が、震えているのが悔しいからだと、隣にいるからミソラには分かる。
「な、アズサ――」
「……悪いけど!」
だから、彼女も真剣だった。酒場に声が響いた。相手をびくりと震わすほどに、声は強かった。
「……ごめん。名前で呼ばないで……」
そして、語尾が霞んでしまうほど、弱かった。茫然と立ち尽くすタケヒロを見たくないと言うように、片手で目元を覆って、それから振り切るように手を離す。吹っ切っても、振り切れない表情。それでも言葉はまた強まる。見慣れない危うさをまとっていた表情に、いつもの勝気が繕われた。
「ねえ、どうして今まであんたたちに、名前教えなかったか分かる?」
微笑みは、でも繕われただけ。見かけ倒しの口早な台詞は、上っ面を滑るだけ。
「馴れ合いたくないのよ。あんたたちを信じられないし、信じたくもなかった。だから名前を呼ばせないし、あんたたちの名前も呼ばない」
「名前を呼ばない?」
トウヤの声に、だってそうでしょ、と女は笑う。その人を突っぱねる為の笑みに、普段の余裕や、時折見せる妖艶さは微塵もない。見ているのが辛かった。赤くなりつつあるその瞳が、また今にも泣き出してしまうのではないかと。
「あなたのことはお兄さんって呼ぶし、ピエロくんのことも名前で呼んだことない。ミソラちゃんは」
目が合った。一拍間が開いた。ひたすらに言い淀みながら、それでも流れ出していった言葉を、彼女は止めなかった。
「本当の名前じゃないでしょう? ミソラ、って」
――本当の名前じゃない?
ふ、と息が止まる。ひややかなものが喉から胸元へ、流れ落ちていくようだった。そうか。『ミソラ』は、お師匠様が『僕』に付けた、後付けの名前。
怪訝と、或いは不安げに、アズサを捉えていたいくつもの視線が、その時だけミソラに集まった。ぎくりとして案ずるように、記憶喪失の子供を映した。でも、そんなことを言われて、そんな目で見られたところで、ミソラはちっとも傷ついていなかった。なぜだろう、と考えて、アズサの顔を見て――なるほど。答えはすぐに出た。
「レンジャーさん……じゃない、アズサさん」
名前を呼ぶだけなのに、彼女の方が、まるで怯えているみたいだ。どうしてこんなに冷静でいられるのか、ミソラにもよく分からなかった。にっこりと、いつも通りの愛嬌で笑える。向こうで口を噤んだままのトウヤを一瞥してから、アズサの目をしっかりと見据えて、
「私はミソラです。……あと、そんな事言ったって、私はアズサさんのこと嫌いになれませんよ。アズサさんはいっつも私に優しいから。私よりも、そう言ったアズサさん自身の方が、ずっと傷ついてるじゃないですか」
己の発した言葉の酷さに――言ったそばからそんなに傷つかれたら、残念だけど涙も出ない。自分より悲しんでくれる人を目の前にして、悲しむ気持ちを起こせない。ミソラの言葉を聞いて、トウヤは黙って表情を崩して、タケヒロも口の端を上げながら真面目に頷く。ああ、この人は、優しい人だ。だから、こんなことを言われたなら、またそうやって泣きそうに唇を歪める。また顔を覆いながら、いやいやをする子供みたいに、首を横に振る。
「何でそんな事言うの。私は、あんたたちのことが嫌いなのよ」
「私は嫌いじゃないのですが」「お、俺もどっちかっつうと好きだし」
「嫌いって言う人を助けようだなんて、馬鹿みたいじゃない」
そういう風に言えば、巻き添えにしたくないから嫌ってもらおうなんて薄っぺらい魂胆が、透けて見えてしまうのに。
「労力と時間を払って、傷つくかもしれないし、ポケモン達もクオンに傷つけられるかもしれない、その上なんの得もしないのに、どうして手を出してくるのよ」
「だってほっとけないですもん、ねっお師匠様!」
「え? あ、ああ……」
「だから得するっつってるだろ、ほっといたらアズサどっか行っちまうかもしれねえんだろ、それって、それって凄く遠いところなんだろ」
「あたしが遠くに行ったって、あんたには関係ないでしょう」
「ある! 大ありだ!」「ありますよ、ねっお師匠様!」
「え、あ、ええっと」
一人で熱くなって何故か泣きそうになっているタケヒロと、ひたすら師匠を巻き込もうとするミソラと反応できないトウヤと、噴きだすまいと必死に耐えているグレンと、極めて真剣に親友を見つめるユキと。思い通りに動かない子供たちの感情に、こみ上げるものを堪えるように、アズサは唇を噛む。顔も向けられず目も見れず、本当は受け入れたい温かさを傷つけることを躊躇って、
「信用してないあんたたちには手伝っていらないって言ってんの、分かんない!?」
思いに反した思いの丈を、机の上に吐き捨てた――その時。
「――うっせえ知るかァーッ!!」
腹の底から噴火した怒声が、建物を震わすくらいに、酒場中に響き渡った。
吼えられた当人がはっと目を見開いて、身を引くくらい怯えて固まる。吠えた当人は、テーブルを猛烈に叩いて、うああああっと意味もなく叫んだ。ミソラが半ば茶化している間、タケヒロは実は本気で怒っていた。例えば昨日、大好きなねーちゃんに彼氏がどうとか、大嫌いなアイツと付き合ってるがどうとか、そんな出来事の何よりも、本気で彼は激昂していた。だからミソラも、トウヤもユキも、遠巻きな立場から笑いかかっていたグレンさえも、何が起こったのかすぐには理解できなくて固まっていた。――タケヒロは一人でぼたぼた泣き始めた。本気で泣き始めた。また遠吠えのような泣き声をひとつ上げて、それからアズサをびしっと指さした。
「いいか! 俺は!」
叫ぶ。もう感情はセーブできなくて全く制御も利かなくて、口から溢れるままだった。
「もう名前を知ってんだ、だから、アズサって呼ぶからな! 信用とか、知るか! っつか、もう馴れ合ってるだろーが! とっくに、信じてるし、損とか得とか、ホントどうでもいいし、とっくに、俺は、俺は」
鼻水を啜る。ひずんだ目元から、赤く火照った頬を、透明な涙が伝う。拭いもしなかった。嗚咽が漏れて、咳き込んで、それでも叫び足らずに必死に息を吸って、
「俺はアズサがいたら、いるだけで得なんだよ、うれしいんだよ、それがなんで分かんねぇんだ! だから、だからアズサが困ってんなら、俺は、助ける! いいな! いらなくても、だめっつっても、助ける! そんで、ココウにいて、いてほしい、できれば、だって、お、おれ、ひ、っぐ」
真っ赤な顔で、真っ赤な目で――まっすぐ見上げてくるミソラを見て、いつの間にか真剣な視線をくれるトウヤも見て、それからまた、アズサを見て。
「お、れ、おまえらと、いるの、すきだ……」
それだけ零して、やっと目を拭った。そしてすとんと着席した。
どうしようもない空白が流れる。……けれど、居た堪れない恥ずかしさと嬉しさで、胸がじんわりとする。口を噤んで、ちょっと目を見開いてミソラは師匠を見た。トウヤもいつもより目が大きくて、今多分『おまえら』の中に自分が含まれていたらしいことに、相当びっくりしているようだ。茶々を入れてはいけないから、二人とも何も言えないけれど。グレンは口の端を上げながら黙って肩を竦めて、わお、と小声でユキが呟く。それからはタケヒロの鼻を啜る音だけが響いて、アズサが迷うように言葉を口にしたのは、しばらく経ってからだった。
「……あんたがどう思ってても、あたしは……」
頑なだな。視界の奥でトウヤが苦笑したから、ミソラもちょっと顔に出てしまったかもしれない。茹であがった顔色のままで、タケヒロはアズサを見ながらむすっと唇を尖らせた。
「じゃあ言うけど、本当に邪魔だって思ってんなら、なんでいっつもいっつもお菓子とかお茶とか出してくれんだよ」
ずっとタケヒロを見なかった彼女が、はたと目を合わせた。
「……それは」
「邪魔なら、そうやって長居させるようなことしなきゃよかったじゃん。何しに来たのと早く帰れは耳にタコができるくらい言われてきたけどさ、門前払いされたことは……い、一回しかねえぞ」
「一回あるんだ……」
ミソラが思わず呟いて、タケヒロは無言で隣の太腿を叩いた。
別の意味で顔を赤らめて、コホンと咳払いして、一息。純粋な双眸が、惑う双眸を、がっちりと捉える。落ち着きはしたけれど、熱はしっかり帯びている。
「俺達との付き合い、ほんとはまんざらでもなかったんじゃねえの。俺はそう思ってた」
その時、その言葉だけでタケヒロが急に大人になったみたいで、ミソラは何となく背筋が伸びる。アズサの視線が、またタケヒロから逃れた。逃げる場所などもうないのに、また手元へ落ちて。
「ピエロくんの思い込みでしょう」
「……そうかよ」
やや落胆気味に、タケヒロはそれだけ返した。ただの不機嫌になったタケヒロと、すっかり消沈したアズサを囲んで、また酒場に沈黙が訪れる。
*
隣で固唾を呑むタケヒロに見守られながら、素早くディスクを装填し、キャプチャ・スタイラーを構えた。
もくもくと繁茂する『宿り木』に動きを縛られる、その一瞬。狙いを定める。けれど思考を掻き乱すように手首に激痛が走った。痛みが焦りに繋がった。放たれたキャプチャ・ディスクは、微妙に狙いを外した場所へと、まっすぐ向かっていった。
祈りは届かない。着地角度を違えたディスクは着地と同時に地に弾かれて、無様にルカリオの足元を跳ねた。失敗した。あの人たちが自分の為に作り出したチャンスを、私が無下にした。冷たい絶望感が背筋を撫でた。しかも、ディスクに搭載された自動復帰機能は、逆にルカリオへこちらの位置を知らしめる。
クオンがこちらを向いた。赤い瞳と目が合った。あっ、とタケヒロが声を上げる。キャプチャ仕損じた自分を映す、クオンの同情するような悲しい目が、これ以上ないほど痛かった。
絡む蔦を切り裂き、青い人獣は『神速』に爆ぜる。こちらへ飛び掛かってくる影が腕を構えた。破壊すれば勝利が確定する、スタイラーへ狙いを定めた『グロウパンチ』――頼りない悲鳴を上げながらそれでも自分の前に立ったタケヒロを、気付けば庇うように、レンジャーは掻き抱いていた。
窓辺へ足を掛けたルカリオが一足に襲い掛かってくる。部屋の奥まで退いて、きつく目を瞑るしかできなかった。
短い咆哮が屋内に轟く。続いて、二度の打撃音の応酬。――来ない。はっとしてアズサは目を開けた。
窓から差し込む光をバックに、二体が対峙する。身構えながら、徐に右拳を振るルカリオ。『グロウパンチ』を代わりに喰ったノクタスは、それでもいつもの笑ったような無表情で、毅然として二人を守っていた。
*
「……一つ提案がある」
長い長い静寂を終わらせて、トウヤは立ち上がった。
まだ若干泣きっ面のタケヒロと、随分疲弊したアズサを含めた全員の視線を集めながら、気まずさを裂いて男は歩く。一人遠巻きに見ていたカウンター席からミソラたちの座る円卓の方にやってきて、手近な椅子に腰かけた。
それぞれの顔をぐるりと眺めて、一息。何を始めるのだろう。……きょとんとして見つめるミソラと目を合わせ、ふと表情を崩した。
その後は、極めて真面目な声で。場にも、その人にも似合わないことを、彼は語りはじめる。
「夢の話をしよう」