月蝕
7・はぐれものの四人−1
 とうに夜は更けた。窓の外には、極めて細い弦月が、冷やかな顔をして浮かんでいた。
 静謐な時が過ぎてゆくのを、見送り続けて、もう幾らが経っただろう。眠ることも、目を瞑ることも、ずっとできずにいる。暗みが飲み込んだ世界の上で、心まで同化してしまえるならば、あっけないほど楽なのに。今はそれが許されない。
 寝息がおさまった頃合いを聞いて、一人は起き上がる。視界の端に、細く散らかった金糸。飾り気のない部屋に美しく光る、長いままの居候の髪だ。ベッドに横たわるミソラの頬は、相変わらずに白くて、泣き腫らした目の回りだけが、夜闇の藍にくすんでいる。
 ミソラが思い出した全てのことを、トウヤに話した日の晩だ。顔を見ると蘇る、痛ましく嗚咽する声。その幻聴と決別し、そっと立ち上がる。あえて鞄にしまいこんでいたボールから自分が見えないことを確認して、トウヤは部屋を抜け出した。
 十二年間、数限りなく往来した廊下。暗闇でも分かる。軋む階段の、ひとつ、ひとつ。存在を確かめるように踏みしめて、階下のつきあたりを曲がる。とっくに消灯した叔母の寝室。そのはす向かいの戸を開けながら、慣れた動作でスイッチに触れた。かちん。寂しい音を立てて、狭い内部に明かりが灯る。その中に、期待したものを期待したように目にする。無感動に見下ろしながら、トウヤは静かに、息をついた。
 すぐに、鎮静していた腹の底から、不快感はやってきた。
 よろよろと蹲り、縋るように手をついて、衝動に任せて胃の内容物を吐瀉する。むせかえる臭気が悪さに拍車をかける。ひとしきりえずいてからも、身を起こす気力が戻るまで、かなり時間を要した。
 酷く頭が重い。便所の電気を消してからも、視界が奇妙に眩しく感じられた。歩み出る酒場の台所。無機質な銀の流し台に、暗く映り込む己の影。口をゆすいで、少し水を飲んで、まだ不明瞭な意識のままで顔を上げる。一番奥のベンチで、ヴェルは丸くなって眠っている。
 部屋に戻ろうと、廊下を行って、ついさっき歩いた階段の前で、トウヤは立ち止まった。
 見えない二階。ミソラがそこに眠っている。『お師匠様、私』『私、誰かを殺すためだけに、ずっと生きてたんです』壮絶な泣き声を上げながら、ミソラはそう言った。泣き疲れて、普段あんなに待ちわびているのに、夕飯のひとつも口にしなかった。目の前の恐ろしさから逃れるように、昏々と、夢の世界へ落ちていった。
(……目の前の)
 生温かく、浅い闇は。確かに、ここにある。
 その温度に晒されたまま、投影された黒い輪郭へと、真っ白な手が、伸びてゆけば。
(恐ろしさから……)
 ……景色が、次第にぶれ始める。内側から悪寒が湧き上がってくる。トウヤは早足に便所へ戻って、喉へと指を突っ込んだ。
 舌の根を押しこむ、身悶えする臓器から液体だけが逆流する。閉じた瞼の裏が眩しくて、熱い。体は鉛のように重いのに、思考は宙に浮くように朦朧として、まるで夢の中だった。
 台所と便所を何度も往復して、水を飲んでは戻す、それだけをしつこく繰り返した。身の内を洗い流すように。気の済むまでそうして、咳き込みながら振り返る。なにもない廊下。なんの音もない、叔母の寝室。そしてもう一度、決して長くもない階段を見上げて――顔を背けて。裏庭と繋がる廊下へ、足は自然と向いていった。
 屋内よりも外の方が、今は少し明るいみたいだ。不思議と酷い眩しさは薄らいだが。戸を閉め、座り込む。涼やかな夜風は、少しは気分をましにした。
 肺の汚らわしい空気を入れ替えるように、深く息を吸い、ゆっくりと吐く。……裏庭を囲う建物の形に、四角く切り取られた天に星空。細やかな銀砂はおびただしく闇を埋め尽くして、緻密な光を放っている。それに取り囲まれる、弓なりの月。あの一番大きくて、自分に近しく見える光は、実は、『偽物』の光なのだ。
 消え入りそうなその細さへ、手を伸ばしかけた時だった。
 ギィと開きはじめた背後の扉に、声を上げる程トウヤは驚いた。それから、開いた戸の隙間からぬるりと鼻の頭を出した、そのポケモンの姿にも。
「ヴェル……」
 零れた声があまりにも沈んでいて、顔を見せてきた老ビーダルの飄々とした小さな目へ、トウヤは自嘲気味に微笑んだ。戸を開けて少し待ち、トウヤが家の中へ戻らないことを理解すると、ヴェルはゆっさりゆっさりと巨体を揺らしながら裏庭へと歩み出てきた。
「どうした?」
 小さく声を掛けても、返事は無し。とても眠そうな顔をしている。けれど多分、どうした、と言いたいのは、お前なんだろうな。少し安らいだ気持ちで首を撫でると、温度をくれるように、身を寄せてくれた。寝起きだからだろうか、気持ち高めの体温。硬い毛並をさすると、ヴェルの瞼がだんだんと下がっていくのを、懐かしい気持ちでトウヤは見つめていた。
 いつだったろう。こんなことが、昔にもあった。……いつ、じゃないか。それこそ頻繁に。おばさんの前では言えなかったけれど、来たばかりの頃はどうしても夜が寂しくて、寝れなくて、毎晩のようにすすり泣いていた僕のところに、ヴェルはこうやっていつも来て、ずっと傍にいてくれたっけ。
 ――さっきとは別のものがこみあげてくるのに、気付きたくなくて、ごまかしたくて、また空を見上げた。あの頃と同じに見える空が、まだ、ここから見えている。家族と一緒にいられた、あの町から見上げていた、あの頃と同じ星空が。
 この空を、ココウで最初に見上げた日から、随分と長い時を過ごした。
 だめだ。歪みかける口元を、無理矢理笑わせても。堪えられそうもない。せめて二階の部屋を一瞥して、電気が消えていることを確かめた。
 頭を撫でる。ヴェルは億劫そうに目を開き、ゆっくりとこちらを見上げた。
「……ハリには言うなよ?」
 半分は真剣に、残りは冗談交じりに。ヴェルは頷きはしなかった。また瞼を下しながら、大きな尾を動かして、後ろからトウヤの背を撫でた。
 温かい。そう思った途端、感情が堰を切った。目元を押さえて俯くトウヤの、震え出した肩を、尻尾が優しく包み込む。
 涙が止まらなかった。





 それでも、それからしばらくは、日々は当たり前のように過ぎていく。
 ミソラは相変わらずトウヤの部屋で寝起きしているし、トウヤは相変わらずポケモンばかり構っている。ミソラは度々タケヒロと顔を合わせて遊んで、度々暴走するリナに引っ張り回されて、二日に一度はレンジャーの家へ用もなく出掛ける。トウヤも今まで通り、ココウスタジアムで小銭を稼いだり、ぶらぶら飲み歩いたりして、夜には必ず帰ってきて、たまにおばさんに尻を叩かれては渋々店を手伝う。就寝前には必ず二階の部屋で顔を合わせて、話もして、小難しい本を読み始める師匠をちょっとだけこっそり眺めてから、ミソラは目を閉じて、一日を終える。普段通りの一日。
 一見変わり映えのない、平和な日常は、二人の前を滔々と通過していく。
 少し変わったと言えば、ミソラが以前より真面目にポケモンの勉強をしはじめたことと、トウヤがあまり寝坊しなくなったこと、それと――彼の本棚から少しずつ、本が消え始めたことくらいだった。


 事件が起こったのは、暑さが大分和らぎ始めた頃だった。
「お前が髪切らなくて、良かったかも」
 手元に集まったピエロ芸の『投げ賃』を眺めながら、タケヒロは真剣な表情で呟いた。大道芸の稼ぎの極意は、とにかく注目を浴びること。だから長い金髪みたいな目立つ個性は非常に大きな武器になるのだ。タケヒロとポッポが歌って踊る時と、それにミソラが加わる時では、実際に投げ賃の量が驚くほど違う。まぁ、きっと目立ち度よりも、『かわいさ』の効力が物凄く大きいのだろうけど。……そんな蛇足は置いといて、タケヒロは友人に感謝を告げる。だだをこねて切れなかった髪が役に立っていると言われれば、ミソラもまんざらでもなさそうだ。
 肩をすくめて小首を傾げば、しゃらんと揺れるきらきらの髪。邪気のない笑顔と相まって、その眩しさにはなかなか慣れない。
「いつでも手伝ってあげる」
「手伝いって言うか、仕事だけどな。ホラ、約束通り七対三で」
 集めた紙幣を適当に鷲掴みにすると、タケヒロはミソラの手に握らせた。
「本当に貰っていいの?」
「別にいいよ、俺だってそんなに金に困ってるって感じでもねえし。お前なんか欲しいもんでもあんの?」
 ざっくばらんな自分と対照的に、相方は真剣に紙幣の枚数を数えている。二回通し数え終わると、タケヒロの問いにミソラはやっとこさ頷いた。
「モンスターボールが買いたくて」
「は? もう二匹目が欲しいのか?」
「リナは強いけど、いざって時に一匹だけじゃ戦力不足でしょ?」
 同時に繰り出される笑顔は、『いつでも手伝ってあげる』の時と全く同じ無邪気さだ。いざって時ってどんな時だよ。それにポケモンのことを戦力って。渋い顔をすれど、タケヒロは何も言わない。
 『あの日』以来、ミソラは今までと外面は変わらないけれど、こういう物騒な言葉を時たま口にするようになった。
 あの時、レンジャー宅の階段で見たあのミソラの様子は、タケヒロの中で軽くトラウマと化している。ポケモンの戦闘利用を是としないにも関わらず、ミソラの節々の危うさにタケヒロが口を出さないのはそのせいだった。毛繕いに余念がないポッポ達を見下ろしながら、不機嫌のやり場もなさそうにぼりぼりと頭を掻く。それから金をポケットに突っ込んだ。
「んで、これからどうする?」
 適当な場所に結んでいたリナのリードを解きながら、ミソラはにこやかに振り向いた。
「バーテンダーごっこしよ、うちに帰って」
「またそれか。なんか最近遊び方がワンパターンになってきたな」
「でもソーダ飲めるよ?」
「確かに……」
 でもそんなごっこ遊びばっかやってもなぁ、なんか他に面白いことねぇかな、と首を振って――元から大きい目を、タケヒロは更に大きくした。
 通りの人波に、一際鮮やかな赤。ポケモンレンジャーの隊員服だ。しかし、いかにもご機嫌な足取りがおどらせている後頭部の『尻尾』は、タケヒロの知っているレンジャーの髪型では到底作り得ないものである。
 そもそも、あの人はよっぽどのことがない限り、悪目立ちする隊員服で大通りを歩かない。そんなに嬉しそうにぴょんぴょん跳ね回ったりも、するとは思えない。……タケヒロが凝視しているのでミソラも気付いた。リナさえ鼻先を向ける。量の多いポニーテールをゆさゆさ揺らしながら町をゆく『レンジャー』は、ふっと顔を向けて足を止めると、とんとんとステップを踏みながら数歩後退。その店の軒先に飾ってあるフリフリした洋服を、食い付くように眺めはじめた。
 それからまた、花柄の舞い散るようなうきうきオーラを全面に放出しながら、スキップで北の方へ立ち去って行く。姿が見えなくなると、二人は顔を見合わせた。
「やっぱ姉ちゃんのとこ行こうぜ」
「うん。バーテンダーごっこより面白そう!」


 けれど、二人を待ち受けていた光景は、決して面白いものではなかった。
 鈍い音が響く。右から左へ動いた拳。風を切るその一撃が、目を見開いた女の頬を捉える。殴られたレンジャー――無論、ミソラたちがよく知っている――は短く悲鳴を上げて、腕を突きながら床に倒れる。相手は五十代くらいに見える男だ。それにしては屈強に鍛えられた肉体は、真っ赤な隊員服に包まれている。
 目の前で展開するそんな光景は、全てスローモーションのように思えた。
「――な、」
 刹那フリーズした後、理解が及べば、一瞬だった。怒りに震えた両足が勝手に、タケヒロを家の中へと弾き飛ばした。
「何やってんだ――ッ!」
 夢中でふりかざした拳は目標物を打たなかった。ぱしんと軽々受け止められる感触に身が凍る。受け止めたのは、獣の手だ。
 割って入ったポケモンは、タケヒロが反射的に身を引くと、男を守るように両手を広げた。人と犬を織り交ぜたような青と黒の容姿。腕と胸に鋭い棘を携えている。
 動けないタケヒロの後ろで、倒れたレンジャーへミソラが駆け寄る。レンジャーは赤らんだ片頬へ手をやった。顔つきからはいつも通りの強情が見えるが、言い負かすのが達者な口は固く結ばれて開こうとしない。
 対して男の双眸は、冷め切っていた。
「何だ? この子供は」
 吐き捨てるように問う。タケヒロも、ミソラも、何が何だか分からなかった。レンジャーは答えない。頑なに男を睨み続ける。
 数秒の沈黙の後、聞く側の胸をえぐるような深く長い溜め息を、男は彼女に差し向けた。
「口も利けないのか。……育て方を間違えたな」
(――『育て方』?)
 違和感にミソラは眉根を寄せる。つまり、この人は――けれどその正体に気付く前に、フォン、とポケモンが喉を鳴らした。開きっぱなしの戸の方を見やって、男も頷いた。
 状況が動き出す。赤い隊員服の男が、赤い隊員服の女へと歩み寄っていく。ミソラはめいいっぱい睨みをきかせ、タケヒロはじりじり後退しながらも彼女との間を譲らなかった。
「アズサ」
 低い声が、前触れもなくその『名』を呼ぶ。彼女は答えない。男は構わなかった。
「明日迎えに来る。ユニオンへ戻るぞ」
 それだけ言うと、タケヒロのことも、ミソラのこともまるで眼中にないというように、彼らの横を素通りしていった。


 ルカリオは目には見えない『気配』のようなものを捉えることが達者なポケモンだ。話を立ち聞きしている不審者が外にいたことくらいは、何なく知ることができただろう。だから家を出てきた男が、戸口のすぐ脇にいた人物を見て全く驚かなかったことも、別に不思議ではない。従者であるルカリオが教えていたというだけの話だ。
(けれど、『気付かれていると相手が知っていたこと』にさえ、それほど驚かないとは……)
 それを察知できるルカリオの能力と、その複雑な情報を主に伝達する知能、そしてそれを受け取るトレーナーの技量の卓越した高さが、暗に示されている。
 ……トウヤは平然を装いながら、それでも緊張の色が隠せない顔で小さく会釈する。その頬にべったりと這う痣を見やると、男はやっと僅かに驚くような様子を見せた。その後は会釈を返すこともなく、早々にその場から立ち去っていった。
 できればまだ、家の中には入りたくない。去っていく背中を見ながらトウヤはしばらく突っ立っていた。ミソラとタケヒロが事を鎮静化するのを待ちたかったが、聞き耳を立てていても、様子は変わりそうにない。そうなるとトウヤの胸に沸いてくるのは自分自身への不甲斐なさばかりだ。
 心を入れ替えてトウヤが戸をくぐった時、レンジャーはまだ床に座り込んだままだった。
 声を掛けあぐねる。右手首へ重ねられた左手の指の細さや、爪の光り具合なんかに一瞬見入ってしまった。俯く彼女は誰にも目を合わせない。部屋を見渡せば、床に散らばった大量の紙。机と椅子も乱れている。
 レンジャーの傍へ青い顔をしてしゃがんでいたタケヒロは、トウヤの顔を見るなり、みるみる頭に血を昇らせた。
「お、お、俺……」
 声を震わせながら立ち上がる。拳をぐっと握りしめると、突然玄関の方へ駆け、
「あいつをぶん殴ってくる……ッ!」
 部屋から飛び出そうとした。その襟首を、背後から、手を伸ばしてトウヤは掴んだ。
 そんなに勢いづいているのに、とても軽い体だった。片腕で引っ張り戻すと、なんでだよッ! と悲鳴を上げる。逆に掴みかかられて、揺すられても、ほとんど痛みがない。激情に襲われている彼の腕にはほとんど力が入っていない。
 トウヤはされるがままで、何も言えなかった。おそらくミソラも気付いたのだろう、それが戸惑ったようにタケヒロを呼ぶと、直後にレンジャーがやっと口を開いた。
「いいの。ごめん、ピエロくん」
 はっとするほど弱々しい声。三人の視線が集まる。俯いたまま、微かに見える口元だけが、自嘲的に、薄く笑っていた。
「あれ、私の父親だから」
「……は?」
 頭の処理が追いつかないのか、タケヒロの口も、なぜか笑うように歪む。
「親……?」
「そ、私の父親。で、レンジャーユニオン――すべてのポケモンレンジャーをまとめる組織の幹部。所謂『偉い人』ってとこ。分かったでしょ、私がなんで仕事もせずにポケモンレンジャーやれてるか。全部親の力よ。偉い親がバックにいるから、なーんの努力もしなくたって、やりたいようにできてるの。最低でしょ」
 すらすらと述べる彼女の声には、どこか晴れやかささえ宿っていた。一瞬言葉を失い、でもっ、と否定しようとしたタケヒロが、また押し黙る。悔しげに唇を噛んで俯く。
 何となく定番になってきた『四人』の間には、こんな空気が流れていたのだろうか。いつも口数の多い二人の黙り込む顔を見て、トウヤはそんな居た堪れなさを覚える。今まで、この微妙な関係性を取り持たせてきたのは、何だったのだろう。ずっと集会所を提供してきた彼女という受け皿の所以だったのか?
 レンジャーの傍らで萎縮しきっているミソラが、不安げに見上げてくる。トウヤは努めて冷静な声で問いかけた。
「ミソラ、台所の場所が分かるか?」
 空色の瞳が、ぱちぱちと瞬きをする。
「はい?」
「何か冷やすものを取ってきなさい。氷水を張って、布巾か――」
「ちょっと」
 制止をかけようと顔を上げたレンジャーと、やっとトウヤは視線を交えた。
「右の、手首だ」
 面と向かって発した声は、想定よりも語気が強い。レンジャーが押される以上に、ミソラが肩を縮めた。そんな声を出す自分に内心少し驚きながら、修正をかけられないままトウヤは続ける。
「倒されでもしたのか。痛むなら放っておくな」
「……平気、このくらい」
「このくらいじゃないだろ、自分の体のことが自分で分からないほど君は馬鹿じゃないはずだ。それに君の場合、利き腕は」
「私は」
 また左手が、手首を庇うように右を包み込む。その手の甲に、ぽたりと、雫が、落ちた。
 泣いている。――瞬間、声に出せない衝撃が、三人を余さず貫いた。
「馬鹿よ。私は。なのに皆、買い被ってるだけで……」
 声が霞む。語尾は言葉にならなかった。赤みの差した彼女の目が、強く瞬きをして、また一筋を押し流した。透明な涙がとめどなく、目頭から、目尻から零れて、頬を伝っていく。左手でごしごしと目元を拭う姿はあまりにも無防備で、男たちはただただ瞠目して、互いの顔を見合わせるしかなかった。
 顎から滴った雫が、座り込んだままの腿に落ちる。赤いショートパンツに黒い染みがいくつも出来ていた。「そんなことねぇよ……」だなんて励まし方しかできないタケヒロさえ今に泣き出しそうで、ミソラはおろおろと頭を動かし、助けを求めて左方を見上げる。その視線をうだつの上がらない顔で受け止めると、四人の中で一番年上であることを、トウヤは初めて意識した。
 女が鼻をすする度に、沈黙の気まずさが浮き彫りにされる。急かされるように発せられるトウヤの声には自信のなさが見え隠れした。
「君の利き腕は、商売道具だろう」
「違う」
「違わない。……君はポケモンレンジャーで」
「そう呼ばないで」
 左手が動く。手慣れた動作だった。左腰に携えているホルスターの中から商売道具――キャプチャ・スタイラーを引き抜くと、そのまま右腕に取り付けるべきその機械を、左手で高く振りかざした。
 強く叩きつけられたはずのそれが、案外軽い音を立てて跳ね飛んで、コロッと床に転がる。その一連をじっと眺めてしまうと、何も言えなくなった。
「もう」数秒、それを見下していた女は、いくらか顔を冷ましていた。「やめるわ。ポケモンレンジャーは辞める。だからあなたたちとの関係も、これでおしまい。出ていって」
 涙の痕を拭いながらとは思わせない、他人事の低い声。居心地の悪い静寂が彼らの間を流れた。その中で、最後に勇気を振り絞ったのはタケヒロだった。
「出ていけって、んなこと――」
「いいから。一人にして。お願い」
 歩み出た先に存在する、厚い隔たりに触れて、少年の臆病が顔を見せる。
「お願い……」
 小さく零れた言葉はそれっきり、何も聞こえなくなった。しばらく立ち尽くしていた彼らの前で、彼女が何かを伝えることも、それっきりなくなってしまった。





 高い空に、うっすらと白雲が棚引いている。この辺は春から夏場に掛けては殆んど毎日が快晴だから、雲を見るのも久しぶりだ。移り変わってゆく季節を知って、トウヤは軽く溜め息をついた。それを耳聡く聞きつけたタケヒロが、ミソラを挟んだ向かい側でむっと顔を上げる。
「んだよ」
「何が」
「……なんでもねぇっつの」
 歯切れが悪い。自分と不機嫌に挟まれているミソラが憐れに思えるくらいだ。
 結局何も出来ずにレンジャーの家を出、とぼとぼと三人並んで帰路に着く道すがら。いつも楽しく騒いでいる子供たちがあんまり沈みきっているので、何か話題を振った方がいいのだろうか、と年長者意識が気を揉んでいる。言葉を間違えないようにしなければ。そうも思いながら、トウヤは頭を掻いた。
「……みじめだな、僕ら」
 目の前で泣き出した女の子に対して、言う通りにすることしか出来なかった男三人。
 冷たい無言が返ってくる。ほら、やっぱり間違えた。またついてしまいそうになる溜め息を押しとどめながら、トウヤは気まずく歩き続ける。右腰の従者たちのボールにぺたぺたと触る。おい、なんとかしてくれ。返事は戻らない。
「親ってさ」
 その時、普段とはまるで別人の暗い声で、タケヒロが話し始めた。
「親、って、あれが親なのかよ」
「あの父親か?」
 頷くタケヒロ、おや、と小さく反芻するミソラ。ポケモンレンジャーがココウに来ている、と耳にしたトウヤが彼女宅の前の路地へ入った時は、丁度ミソラとタケヒロが彼女の家に駆けこんでいく瞬間だったから、それからの会話については一通り承知している。トウヤは少し答えに悩んだ。
「確かに顔は似てないけど」
「そうじゃねえよ、あいつ、だって姉ちゃんをぶったし、返事しなかっただけで育て方間違えたとか……」
 一人、歩調が速まる。タケヒロは口早に喋りながらずんずん前へ進んでいく。次第に手前へ見えはじめる背中を、ミソラとトウヤは、黙って眺めていた。
「親だからって、あんなこと言っていいもんなのかよ、親って……子供は親の操り人形か? 信じられねぇ。思い通りにならなければ間違えた、って、なんつうか、無責任っつうか……ありえねぇだろ、親ってだけで、産んだってだけで他は何も偉くねぇのに、それでいて……あいつら、作って捨てたり……」
 ふと立ち止まる。いつの間にか上がっていた肩から力を払うように揺らし、あっけらかんと声色を作り変えて、あーあっと言いながら頭の後ろに腕を組んだ。
「やっぱ俺、親なんていなくてよかったや。いてもめんどいだけだし? むしろいなくてラッキーかもな」
 その姿勢のまま踵を軸に、くるっとターン。
 振り向いたタケヒロの顔は、笑えてなどいなかった。目に光はない。口角は上がりもしない。お調子ぶっているのは声だけだ。真剣で、そしていつになく堅い眼差しが、まっすぐにトウヤの隣を見据えた。
「な、ミソラだってそう思うだろ」
「……え」
「タケヒロ」
 嫌いな声に、今日のタケヒロは意地で向き合ってくる。トウヤは小さく首を横に振った。
「それは違う」
「何がだよ」
「親が全部そうだ、って決めつけるところだ。お前、自分のことはともかく、ミソラの親のことなんか知らないだろ」
「でもお前だって、そう思ってんだろ? 親なんか、って」
 踵を返すと、あくまでぷらぷらとした歩調で、タケヒロはまた歩きはじめる。
「俺知ってんだぜ。お前も捨てられたんだろ、親に。それでココウに来たんだろ」
 ……え、と小さく、ミソラが呟いた。慮るようにそっと見上げてくる。
「その気味悪ぃ痣のせいで親に捨てられたって。聞いたぞ、俺」
 心をどこかに置き忘れたような、暗い暗い少年の声。誰がそんなことをタケヒロに聞かせたのだろう。直球に投げられた言葉に、トウヤが最初に抱いた感想がそれだった。黙って歩いていくタケヒロ。怖々とこちらを窺っているミソラ。
 乾いた路を踏みしめる音だけが、不規則なリズムで連なっていく。
 どう否定しようか、それを考えた。考え終わる前に、僕は、と声が先に出る。僕は。次に考え至ったのは、こいつ『も』捨てられたのだと思い込んでいるタケヒロにそれを伝えていいのかということで、その次に――自分は捨てられた訳じゃないと、本当に否定できるのか、ということだった。
 だって、あの人たちは、迎えになんかこなかった。顔を見せにもこなかった。それどころか、電話さえ、向こうからはほとんどよこさなかった。
「……やっぱり捨てられたのかな」
 その可能性からは、長らく目を背けてきた。しかし、それをどこかで受け入れられるようになってしまった自分がいることにも、トウヤは薄々勘付きつつあったのだ。いつの間にか、僕は捨てられてたんだろうな。多分そうなんだろう。
 口にしてみると、実に湿っぽい響きだ。何も返さないタケヒロの後ろを、何を言う気にもならずについていく。けれど、彼らの纏う不味さは、もう一人の胸の中までずぶずぶと浸食し始めている。
 りん、りん、と微かに聞こえる鈴の音。いつだかミソラにくれた鈴は、ミソラの肩掛け鞄のどこかにまだひっついているようだ。軽やかなその音が、だんだんと鈍さを増していく。
「私も捨てられたんでしょうか……」
 そんな声は、高いけどやはり沈んでいる。さっきまでトウヤの顔色を窺っていたミソラが、今はぼんやりと足元に視線を吸われてしまっていた。
 青天の下を、じめじめした空気を引き摺って歩いていく。そうか。三人が皆、揃いも揃って。奇妙な感傷に浸るトウヤのベルトで、カタカタとモンスターボールが揺れる。ハリのボールだ。甲斐性のない主人の為に重い腰を上げる様子が、痛いくらいに伝わってくる。
 切り替えなければ。申し訳程度の年上根性がまた首をもたげる。
「そんなことより、レンジャーだ」
 トウヤがちょっとだけ張った声に、そうですね、とミソラがすぐさま援護を放った。
「レンジャーさんがレンジャーやめるって」
「それは好きにすればいいけど、やめるからって僕らと縁を切ることはないよな。別にあいつがレンジャーだから付き合ってた訳じゃない」言いながらトウヤは首を傾げる。じゃあどうして、僕はあんな気まぐれ女と今日まで付き合ってきたのだろう。
「レンジャーさんが、レンジャーをやめたら、あの、私」気合を入れるように両拳を握るミソラには、微笑ましささえある。「レンジャーさんのこと、何て呼んだらいいのか分かりません!」
「確かにな」
「何って、そりゃあれだろ、お前」
 ついにタケヒロが振り向いた。
 頬がかすかに赤らんでいる。いらついていたのを恥じているのか、それとも別の理由だろうか。不機嫌そうではあるが、声のトーンはさっきまでと相当異なっていた。しどろもどろ。そんな感じだ。
「あ、あの、そりゃ、あず、……」
「アズサさん!」
 拳を握りしめたまま、ミソラが高らかに呼ぶ。
「アズサさん、ちゃん、アズサちゃん……さん……」
「あ、アズサねーちゃん……あずねーちゃん……」
 何となく気恥ずかしそうに連呼する子供たち。それを真剣に見下ろしながら、トウヤは腕を組み、二人を置いてぼちぼち歩きはじめた。
「……普通、だな、アズサって」
「だよな!? 俺も思った!」
 タケヒロが猛烈に振り向いた。
「俺びびったもん、普通すぎて、アズサって、まじかよ超普通じゃんかわいいじゃんって」
「あいつがあんまり自分の名前言いたがらないからてっきり」
「そう、そう俺めっちゃ変な名前なんだろうなと思ってた、もしくは外人とか」
「本当は男とか……」
「ああっ俺もそれ思ったことある!」
「胸ないしな、あいつ」
「な! そこ! そこなんだよな!」
 激しくかぶりを振った後、ミソラの白い目に気付いてタケヒロは口を閉ざした。それから忌み嫌っているはずの人物と一瞬盛り上がった自分を省みてますます顔を赤らめる。
 更に沈黙が訪れる。ぼりぼり髪を掻きむしっているタケヒロと、何か考えている様子で歩いていくトウヤの背を見、ミソラはぽつりと呟いた。
「レンジャーさんのために、私たち、何をしたらいいんでしょうか」
 そしてまた、沈黙。晴れ渡った空の下、薄汚れた町並みを三人は黙々と歩いていく。それでも、てんでばらばらだった彼らの矢尻は、その一言で方向を揃えつつあった。



 ――そんな様子を、高みから見つめる影が二つ。
 指で作ったフレームの間に、三人の姿を収める。肩に乗っかる小さな相方と頬を寄せ合いながら、遠ざかっていく彼らをしげしげと眺めていた。
 にししっ、と笑う。喜びが過ぎて我慢ならないと言った風に。指を解き、腰かけていた甍からひょいっと立ち上がると、髪量の豊かなポニーテールがぴょこんと跳ねた。
「みーっけ、と」
 蒼穹と流れる白雲に、赤い制服のコントラストが冴える。

とらと ( 2014/05/29(木) 15:01 )