6−5
『あの日』というのは、いくつもある。
例えばひとつは、電話で両親の訃報を聞いた日。その前は、遠ざかる故郷と両親とを、馬車の荷台から見つめていた日。その前は、この醜い『しかえし』の痕が、体に刻まれた日だ。その前が――僕が、取り返しのつかない『いたずら』をした、あの日。
立ち止まるべき瞬間が、どれほどあったのだろう。引き返せる瞬間は、きっとたくさん、あったはずだ。そんなのは、ずっと前から、分かっていたはずなのに。満月の夜。そっと僕の手を引いてゆく、あの白い手を。あのとき、どうして、手を離せなかったのだろう。とても怖いことが起こるのだと、分かっていたはずなのに。
無我夢中で駆ける。何から逃げているのか、追われているのかも、よく分からなかった。ただひたすらに細い路を走り抜けた。いくつかの目が、僕を捉えている。世界が歪んでいる。よく、分からない。
分からない。分かるはずもない。父さんが『殺された』? 何を言っているんだ、あの人は。そんなばかげた話があるか。だって、そうだろ、アヤノさん。事故で死んだと言ったじゃないか。そう電話越しに伝えてきたのは、あなたたちでしょう?
忘れもしない。寒い冬の日だ。帰宅した薄暗い店の電話口で、おばさんが泣き崩れているのを見たときの気持ちは。おばさんがそんな風に泣いているのを見たのは、死んだおばさんの『あの子』の話をしたときだけだったから、だから何となく、物凄く、嫌な予感がして。
スグルさんとキョウコさんがお亡くなりになりました、なんて、事務的な声で。電話の向こうを恨むことも許さないような、心無い声で。大好きだった人たちが。いつか会える日を、そのときを、心待ちにしていた人たちが。もう三か月も前に、知らないうちに死んでたなんて、僕がどれだけ悔しくて、寂しくて、冷たい気持ちに襲われて、それを誰にぶつけていいかも分からなくて、泣くこともできずに孤独に震えていたことを、叫び出したかったことを、死んでしまいたかったことを。忘れることなんてできないのに。
変だろ。思い出せないんだ。不慮の、なんて聞かされた、父さんと母さんを殺した事故の内容。あんなに憎かったはずなのに。あんなに、どうしようもなく、恨めしかったはずなのに。どうしよう。どうして思い出せないんだ。どうして忘れてしまえるのだろう。
違う。そうだ。僕は、聞こうともしなかった。
だって、その事故の中身が全部『嘘』だと、すぐに気付いてしまったから。
――閃光を発する物体が足元に刺さる。破裂した地面を避けて転がり込みながらトウヤはボールを放った。ハリ、と呼ぶ声は最早悲鳴にも近い。飛び出したノクタスは無表情に貫くような眼光を灯して、即座に両腕を掲げた。
飛び掛かる攻撃対象はエテボース。発射されたミサイル針はしかし、その薄紫の胸元を勢いのままに貫通していく。影分身、呼び起こした技名と対応策をリンクさせながら立ち上がり振り返る、背後、物陰から飛び上がったそっくり三体の尾長猿。後ろだと叫ぶ、跳ねるように地を蹴ってハリが向いた。
「『騙し討ち』!」
必中技だ。影には惑わされない――飛び掛かろうとしたハリの瞳がふと大きくなって、向き合う三匹にリーチ圏外から掲げた腕を振るった。放つは黄土の針。三体分の幻影を掻き消していく。
技が発動しない。一瞥したハリの目を見てそうだと悟った。どこからか『封印』を掛けられたか。術者の気配を探るも叶わず、草色の従者と背中合わせに敵を迎える瞬間には、幾重にも分裂したエテボースの『影』にぐるりと取り囲まれていた。
息を整えながら、首を回す。全く同じ顔をした数十体のエテボースがこちらの隙を窺っている。違和を見つけようとも無駄だった。見事な『影』だ。……いつもすまし顔をする背中側が今日は『物凄く怒っている』から、トウヤは不思議と冷静さを取り戻していた。
息を抜き、止める。
目を閉じた。
距離を詰めようと、囲む敵手が歩み出る。
一歩。ざり、と微かに地を鳴らす音は――ひとつだけだ。
トウヤは瞼を上げた。
得体の知れない笑いが、腹の底からこみあげてくる。
引きつった笑い声を立てながら、前へ出た。影たちがややたじろぎ、ハリが微かに顔を上げる。
なぁ。心の内で、語りかける。無防備に信じていることは、どれほど楽なのだろう。自分が受け入れられていると、信じていられたら。
ホウガを出た頃から、身を預けられるものを、ずっと欲していた。そういう顔をして近づいてくるものに、だから、気を許してしまえた。だけど、その優しさの裏側を、いつか目にしてしまうとしたら。信頼の方向が、一方通行かもしれないと、気付いてしまうとしたら。そんな不安定な物しか、寄り添えるものが、この世には、存在しないとするならば。それなら、なぁ、せめて。
右手を、静かに掲げていく。ぴんと伸ばした人差し指は、輪をなす影たちの、頭の高さを越え、
「騙すなら――」
廃屋らしい向かいの建物の、割れた窓辺を指し示した。
「もっと上手に騙してくれよ」
ハリ、と呼ぶ。今度は平生の声だった。地を蹴るノクタスの形相に、囲っていた影たちが一瞬にして消え去った。窓の奥からエテボースが一体躍り出てくる。はったりだ、という呼びかけに、飛び掛かったハリは素早く攻撃姿勢を取る。
「不意打ち!」
鋭い一声、ぐんと速度を上げたハリは一体目の『影』をすり抜け、その先で二股の尾を掴み待ちかまえようとしていた本体に激しいタックルを喰らわせた。
敵方は潰れたような奇声を上げ、鈍い音を立てて壁に突した。――勝負は決したようだ。大猿は地に伏し動かない。無感動にそれを見下ろしているハリの、月色の瞳が、滑るように主を睨む。小さな肩が、僅かに震えている。
微かな罪悪感が揺れた。トウヤは歩み寄って、帽子の頭を撫でた。
『封印』を仕掛けてきた方の行方も知れないし、ポニータやゼブライカといった移動手段を携えているはずのアヤノ達が追いついてくるのも時間の問題だ。どこかから見張られている可能性も考慮しながら、なるべく安全に、人通りの多い場所へ戻る方法を探る。闇雲に走ってきたから道が分からなくなりかけているが、ココウの近場とあって、ある程度勝手の分かる町だ。悪目立ちする不安定な『テレポート』を使わずとも、見える建物の記憶を辿れば知っている場所へ出るだろう。他愛もない話を立ち聞きしていただけだし、宿まで戻ってしまえば、連中が手荒な真似をしてくることはまずなくなるだろうが……とにかく移動しようと決めて、そこから離れかけた矢先だった。
うつ伏せに倒れたままのエテボースの後頭部に小さく毛の禿げた個所を見つけて、トウヤはふと目を止めた。
「こいつは……」
――世界が暗転する。何かに強く殴られたと思った時には足が地面から離れていた。吹き飛ばされ、目まぐるしく回る視界の中で黒い闇の中にうごめいた青を捉える、あのポケモンは。ぎりぎり受け身を取りながらも地面に打ち付けられた。『水流』に押されて襲撃現場から離れていく、同時に押し寄せる痛み。だがそんな痛覚さえ、どこか遠のいて感じられる。一挙移動に現実味が薄い。
自分が元いた場所に黒い『煙幕』が蔓延っている、そこから衝撃音と共に飛び出したのはあの青く大きな敵影だ。キングドラ。その体がしなりながら傾いていて倒れる、その後ハリが煙幕を脱してくる。敵に一撃入れたようだ、さすが、と安堵できたのは、ほんの刹那。
全ての感覚が、一度に戻ってきたようだった。――眩しい。思わず目を覆い身を捩った。続けて脳を絞られるようなけたたましい頭痛、そして左腕を発端に沸き上がる猛烈な熱と重さ。混乱の中にいつかの記憶がフラッシュバックする。煙幕。そうだ。まずいことになった。
飛びかけた意識を強引に呼び戻すのは、肩を掴み揺すってくるハリの仕業だ。向こうでキングドラが身を起こすのが見えた。咄嗟、二つのボールの開閉スイッチを同時に押し込む、ハリが吸い込まれ、代わりに放たれた閃光はガバイトを形作った。動揺した声を発する小竜の首を、トウヤは夢中で掴む。ハヤテはすぐに駆け出した。
一足地をつく度に酷い眩暈と頭痛が襲う。今にも切れそうな精神をなんとか繋ぎ止めたのは、ハヤテの励ますような鳴き声だった。首をきつく抱く。従者が自分のために切り裂いていく風がしきりに頬を打つ。自責で、潰れそうだった。
ココウと似たような乱雑さで入り組む路地をハヤテは駆け、水流は幾度となく襲ってきた。トウヤが何を指示しなくとも、後ろに目が付いているかの如く、そのすべてをハヤテは躱してみせた。ぐんぐんスピードが上がっていく。キングドラを引き離していく。
少し太い路地に差し掛かったとき、快走を続けてきたハヤテのリズムが突然乱れた。
ギャッと高いハヤテの悲鳴、その直後何かを跳び越えるように前のめりにすっ飛ぶのに、今のトウヤが対応できる訳もなかった。あっと言う間に首に回した腕が抜け、宙を舞い、地に叩きつけられるように転がった。慌てて戻ってきたハヤテが動けない主人の服を咥えて、無理矢理背中に乗せようとする。それにしがみつきながら、トウヤは振り返った。
元来た道と今の場所を分断するように、先の太い路地に、大きな炎の壁がせりあがっている。
息を飲む。自分を積み終えたハヤテが更に走り出しても、まるで追っ手を阻んでくれたようなその炎から、目が離せなかった。
「――ゼン! 何をしている!」
怒鳴る誰かの声が聞こえた。リューエルのミッションと交錯したのかもしれない。その思いつきと、瞳に焼き付く炎の壁、そして『ゼン』という馴染みのない響きに――妙な『懐かしさ』を、覚えた。
頭と、左腕の鮮烈な痛み。意識が吸い込まれていく。ハヤテの声はもう、トウヤを現実に呼び戻せない。
ゼン。誰だったろう、思い出そうとするほどに呼び起こしてしまうのは、父と母の顔だった。最後に二人の見たのは、ホウガを離れる時だ。スピードを上げて町を去っていく馬車を追いながら、父は叫んでいた。必ず迎えに行く、必ず迎えに行くから待ってろと。懸命に、血を吐きそうな大声で。荷台で膝を抱えながら、十歳だった自分は、それに小さく頷くことしか、出来なかったのに。
目の奥に、熱さがこみあげてくる。
来なかったじゃないか。迎えになんて。本当に信じて待っていたのに。
『あいつもまさか、実の子供に殺されるとは夢にも思っていなかったろうな』
――本当にそうなのか。
また一層に深い闇が、トウヤの眼前を覆い始める。
(……おねえちゃん)
思い出す。あの白い手を。泣きながら笑う彼女を。無情に遠ざかっていく、あの軽快な足音を。
どうして。
どうして、どうして……。
*
『鍵は開いている』――モモの言っていたことは、本当だったのだ。
ミソラが抱えてきたアチャモドールに、特に興味を示したのはレンジャーだった。ぬいぐるみ好きなんだ、と言われて、ミソラは首を傾げる。ミソラも一応こういう年齢の男の子だ、ぬいぐるみが好きだと答える事にはかなり抵抗がある。でもこのアチャモドールは多分、好きだ。そう言うと女は頷いて、二階の寝室にポケモンドールがいくつかあるから見せてあげる、と提案してきた。彼女の寝室を拝めることを喜んだのはタケヒロの方だったけれど。
狭くて急な階段は薄暗くて、踏むときしきしと板が鳴った。上の方は日光を取り入れて明るい、光の方へ進んでいるような感覚だ。先頭を上がっていくレンジャーの後を、はしゃぎ気味のタケヒロが追いかけていく。ミソラはアチャモドールを抱えたまま二人についていった。
レンジャーが自室のドアを開けたのは、ミソラが階段の最後の段を上ろうとしていた時だった。開いたドアの隙間からチリーンが滑り出てきて、レンジャーの肩を、タケヒロの顔の横をすり抜け、その後ミソラの左肩に激突した。
あっ、とバランスを崩して後方に倒れかけたのを、すぐさまタケヒロが引っ張り上げた。ミソラは危うく尻餅をついただけで済んだけれど、離してしまったアチャモドールが、ぽんぽんと跳ねながら階段を転がっていった。
(……あ)
転がり落ちて、階段のふもとに仰向けに沈黙したアチャモを、乱れて顔に掛かった長髪の合間から、ミソラは見ていた。
(……そう、こんな感じに)
古びた木目の階段が、『薄汚い硬質な鈍色』へと、折り重なっていく。
夢の中にいるようだった。現実から遠ざかるときのトウヤは、こんな景色を、見ているんだな。他人事にそんなことを考えられたのは、その景色から逃れるべきだと、本能的に感じたからだ。
――いいのか。
モモが、いつかと同じ言葉で、ミソラに問うた。
――見ちまっていいのか。
(ちがうんだ)
違うんだよ。ゆっくりと瞬きをする。目の前にあるのは、レンジャーさんの家の、二階への急な階段だ。ポケモンドールや、タケヒロが見たかった彼女の部屋が、その先にミソラを待ちわびている。
けれど。
カナミの時も、そうだった。長さと髪型。そんな雰囲気。似ているのは、それだけ。
扉を開くのは、ほんの些細なきっかけだ。
そして、開いた扉を閉めるには、一瞬にも、力と時間が、必要なんだ。
(だからもう、見てしまったよ)
じわりと涙が溢れてくる。死んだように動かないアチャモドール。黒い目がミソラを、じっと見ている。
許さない。あの人が、そう言う。許さない。絶対に許さない。泣きながら、嗚咽を漏らしながら。
『あいつが』
『あいつが殺した』
『あいつが殺したのよ』
『あいつが、私の――』
顔を覆って泣いている。『僕』はその前に正座していた。唇を強く噛んでいた。悔しくて。大好きな人が泣いているから、とてつもなく悔しくて、唇を強く噛んでいた。
その人のために何ができるか、『僕』は考えていたのだ。その人の笑顔を見ることが、『僕』の一番の楽しみで、その人を笑顔にすることが、『僕』の一番の意味だった。『僕』の、唯一で、すべてだった。
『僕』が何かを言うために、口を開く。ミソラは耳を塞ぎたかった。それでも聞こえてしまうのだろう。『僕』はミソラの手を取って、ゆっくりと溶け込むように、ミソラと同化を始めたのだ。
『お願いです、どうか、泣かないで。私が』
『僕』は、ミソラは、本当に、その人のことが大好きで、そんなことを言うことを、だからちっとも、ためらわなかった。
『私が、そいつを殺します!』
チリーンにぶつかられてへたり込んだミソラは、階段の下に落下したアチャモドールを眺めて、そのまま動かなくなってしまった。
部屋からリーシャンのドールを手にしてきたレンジャーが、ミソラちゃん? と声を掛ける。寝室の中を覗こうと必死に首を伸ばしていたタケヒロも、そこでようやく友人の変化に気付いた。背を向けてじっと下を見つめている。昨日の今日だから本調子ではないのだろうとタケヒロも思っていたから、どうにか気を紛らわせてやりたいと考えていたのだけれど。
ミソラが声を発したのは、タケヒロが隣に座り込んで、どした? と肩を叩いた瞬間だった。
「殺さなきゃ」
ぽつりと呟く。空色の瞳は前を見据えていた。
不気味な静けさが、その一言に潜んでいた。
「……は?」
肩から手を離すか、タケヒロは随分迷った。結局手を置いたまま女へと顔を上げた。リーシャンドールを抱いたまま、きょとんと金髪を見つめている。彼女は昨日の散髪事件のことも知らないのだ。
青い瞳が蓄えた涙が、はらはらと、白い頬を伝い始めた。ミソラはどこかを見つめたままだった。耐え切れず、タケヒロはもう一度肩を揺すった。
「どうしちゃったんだよ、お前」
「……タケヒロ」
友人は顔を上げた。涙が流れているのも不思議なくらい、その瞬間は普通の表情だった。けれど、ぽたぽたと涙が落ち始めると、見かねるくらいに、顔がくしゃくしゃに歪んでいく。
名前を呼んでくれたことに、タケヒロは一瞬安心した。けれどミソラは止まらなかった。
「殺さなきゃ、殺さなきゃ、殺さなきゃ」
呟きはじめる。不可解な恐ろしさにタケヒロは手を離してしまった。
表情は、困惑するように、そんなこと言いたくないというように、ふるふると何度も横に振られた。それでも唇が動く。呪文のように紡ぎ続ける。殺さなきゃ、殺す、殺さないと、殺さなきゃ。がたがたと体が震えはじめる。横に膝をつき、レンジャーが無言で抱き寄せると、ミソラはされるがままに胸に顔を埋めた。
「殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなきゃ殺さなくちゃ……ああ……」
金髪の後頭部を柔らかく撫でられる、ミソラはしがみついて、声を上げて泣きはじめた。レンジャーは黙って抱きしめていた。吠えるような泣き声が胸を鷲掴みにする。友達を『恐ろしい』と感じたこと、不穏に高鳴る自分の心臓の上に、タケヒロは手を添えるだけで、何も言えなかった。
ある晴れた夏の日の、昼間の出来事だった。
やっとの思いで宿に辿りついて、電話を借りて記憶していた番号を打ち込み、呼び出し音を聞きながら、何を問うべきか、トウヤはまだ悩んでいた。
案ずるように体を寄せてくるハヤテの向こうで、宿の主人が不審な面持ちでこちらを見ている。相当酷い顔をしているのだろう。止まない頭痛と左腕の熱に意識を朦朧とさせながら、相手が早く応答してくれることを願う。体調を回復させる為に薬を飲めば、副作用で半日動けなくなってしまうのだ。
電話を取った。もしもし、と問いかけると、聞き慣れた女の声が食いつくように言った。
「お兄さん!?」
声を張るな、頭が痛い。そう返す余裕もなかったが、それよりも切迫した相手方の様子に、第六感がざわめいた。丁度よかった、と漏らす声に被さるように、別の声を受話器が拾う。トウヤか! ――この声は、タケヒロか? あいつが自分の名前を呼ぶなんて、いつ以来のことだろう。
何かあったのだ。想像する前に、ミソラに代わってやれ、という声が聞こえてきた。嫌な予感がする。受話器を手に取ったのだろう相手は、酷く声を詰まらせていて、なかなか言葉を紡げない。
焦燥らしい感情が、トウヤの中に渦巻きはじめた。ハシリイでの一件を思い出す。ミソラを揺るがしうる様々な事が立て続けに起こっていて、それをそのまま置き去りにキブツに出てきていたことに、トウヤは今更気づいたのだ。
自分の不調を押し殺し、何があったか話せるか、と出来るだけ優しい声色に努めて、トウヤは呼びかけた。お師匠様、と苦しげな声が返ってくる。少し間があってから、振り絞るように、ミソラは言った。
「……思い出したんです」
――その言葉の、ミソラだけが持たせられる本当の意味を解すると、トウヤは息をつめて、隣のハヤテと目を合わせた。
「早く帰ってきてください……」
やっとのことでそれだけ言うと、わんわんと泣きはじめる。昨日のくだらない思いつきがふと頭を過ぎった。まさか、そんなことは。それでも固く目を瞑ってしまう。電話を代わったレンジャーにすぐにココウに戻る旨と、ほんの少しだけ時間がかかるから、それまで傍にいてやってくれ、と残して、トウヤは電話を切った。
立ち上がる。ぐらつく薄暗い視界の中を、ハヤテに支えられながら、借りた部屋へと戻っていく。包帯だけ巻きなおそう。少しは、立て直せるかもしれない。――やるべきことだけに意識を狭めて、トウヤは前を向き直した。
いつか、今日と言う日が、僕らの『あの日』になるのだろうか。そんなことを、頭の端に思いながら。