月蝕
5−6
 二日目だ。
 タケヒロはじっと考えていた。そういえば、何日くらいで戻ってくるのかと言う肝心な点について、ミソラに聞きそびれていた。それはまぁ、ミソラが見た目通りのひ弱だったなら今日くらいに根を上げて引き返してきてもおかしくないが、あれは運動音痴だけれど、意外と根性はある。多分無事目的地に到達して、目標を達成して戻ってくるだろう。片道で十日だの三日だのと言っていたが、もしその達成目標である「ナニナニという食べ物を買って戻ること」をクリアしてすぐさま帰ってきたとしても、最短で六日はかかるという計算になる。六日。ミソラとほぼ毎日顔を突き合わせていたのは出会った春先からこの夏までの短い期間ではあったが、それでも六日会えないとなると、なかなかの寂しさがこみ上げてきた。
 会えない寂しさよりも気になるのは安否だ。一回町を出て酷い目に遭っているから、外の環境の厳しさはタケヒロだって知っているつもりだ。そしてあの男、あのポケモン狂の化け物の実力をタケヒロは認めちゃいない。そりゃココウで二番目なんだから多少の心得はあるのだろうけど、いざという時にミソラを守ることが出来るのかどうかと問われれば、答えはどうだ。知るもんか。
 ただ、全く以てつまらないのは、レンジャーの姉ちゃんがその話に思いの外に乗ってくれないことである。あの人強くないけど別に弱くはないわよ、と若干評価されるのを見ると、つまらないのは当然である。つまんねぇ。ああつまんねぇの。
 用事もないのに来ないでよ邪魔、といつものように罵られながらも、椅子を引いて菓子折りを出してくれる女の気遣いにまた甘える。腰掛けると視界に入るのは、テーブルの上に飾ってあるレモン色の花だ。普通なら花瓶に生けられることなんてない雑草なのだけれど、タケヒロが持ってくれば、こうして姉ちゃんは飾ってくれる。透明な細いグラスに、自己主張せずともはっと目を惹く可憐な花、その素朴さが良いじゃないか。俺が持ってきたものを飾ってくれてる、と考えるとまた、ちょっとにんまりできた。
 どこかのお土産なのだろうか、ピンプクを模した大判のサブレを食べていると、さっさと帰ってと言いながらご丁寧にお茶まで出してくれた。
「姉ちゃんち来るといつもいろんなお菓子出てくるよなー」
「食べ物目当てで来てるんだったら次から出さないけど」
「そうじゃねぇけどさ。こういうのって買ってんの?」
 お菓子好きなの、と言う追っての質問には答えず、だいたい貰い物、とだけレンジャーは返した。タケヒロの目の前の椅子にすちゃっと座ると、そこで仕事だろうか、何やら資料チェックを始める。二人っきりだ。下手をしないよう、出来うる限りの精悍な顔つきに努める。
「貰い物ねぇ。誰から?」
「色々」
「仕事仲間とか?」
「まぁそんな感じかな」
「お菓子好きなんだ」
「使えない物貰うよりはいいでしょ」
 確かに。素っ気ない返事でも返事をくれることが嬉しくて、そんな自分の単純さがなんだか愛おしくさえある。ポケットに突っこんでいるボールの中から二対の冷たい視線を感じながら、更に、と頭の中でタケヒロは都合のいい考えを巡らせて。この女に俺なんか、花とかいう全然使えない物を贈って、受け取って飾って貰ってるんだぜ。どうだ。羨ましいだろ。
 部屋の電話が鳴り出したのは、そうやってタケヒロが悦に浸っていた時だった。二人揃って顔を上げる。あの無難な黒色の電話に目をやると、先日ばったり遭遇してしまった彼女の泣き顔が、自然と呼び起こされてしまうようだった。
「出てよ」
 予想外の展開に、へ、とタケヒロは顔を戻す。
「俺が?」
「うん。早く」
「え? 誰?」
「仕事先じゃない? いいから」
 いいのか? ――でも彼女の頼み事なら、断る道理などあるはずもない。立ち上がり、慌てて電話に駆け寄って、これどうやって使うんだっけ、耳にあてればいいんだっけ。タケヒロはかぱっと受話器を取った。
 んでどうしたらいいんだ――受話器を押し当てて直立しているタケヒロの耳に直接響いてきた声は、
『もしもし――』「ッうわあぎあああああああぁぁぁ!?」
 突然受話器を放って物凄い速さでタケヒロは逃げ出した。ヘッドスライディングさながらの勢いでテーブルの下に潜りこんだ。花瓶グラスが揺れた。うわっと、とレンジャーがそれを支えた。怯えながら上げた顔の目と鼻の先に女の足があった。ああこれはだめだだめなやつだ、慌ててテーブル下から這い出して。螺旋を描くコードに繋がれた受話器は、宙をぶらんぶらんと揺れている。
「何してんのよ、何文明の利器にびびってんの」
「だだだ……だ、だだだって……」
 受話器を当てた右耳を震えながら掻きむしっているタケヒロの目線の先で、揺れる受話器からかすかに聞こえてくる――だ、誰だ? タケヒロか? その声質でレンジャーは納得した。
「お兄さんか」
「と、鳥肌……めっちゃ鳥肌立った……」
 ぶつぶつになった自分の腕を撫でながら、名前も聞きたくないレベルの人間の声を耳元で直に聞かされた拒否反応の凄まじさにタケヒロは戦慄した。仕方ない、とレンジャーが立ち上がりかけた瞬間に、受話器の声が高めの質へ切り替わる。おーいタケヒロー、と。出てよ、とレンジャーは今度は顎で促した。タケヒロは足腰も覚束ないまま這っていき、ようよう受話器を取った。
「ミソラか……?」
『タケヒロ! レンジャーさんちにいたんだね、二人で何してたの?』
 腹立たしいくらい嬉しげに弄ってくれるミソラに、ばっかうっせえよ! とタケヒロは受話器に本気で叫ぶ。向こうから聞こえてくるのはミソラと、名前も呼びたくないあいつの自分を小馬鹿にする笑い声。楽しげにやってるのが尚の事腹立たしかった。
「何電話してきてんだよ、勝手にやっとけよもう」
『そんな事言わないでよー、でもごめん、せっかく二人っきりだったのに』
「だからうっせぇっつってんだろッ!」
「あんたがうっさいわ」
 背後から釘を刺されて、はっとタケヒロは固まる。自分の耳元で響くミソラの声、女に聞こえてしまったのではあるまいか?
「そ、そっちはどうなんだよ、困った事とかないのか、あいつと二人で」
 話題を振った途端に、えっ、とミソラの戸惑いが窺えたのが、慣れない顔の見えないコミュニケーションというのもあってなかなか面白い。
「おう何があったんだよ」
『そ、そんな事より――』
「話題逸らすなって」
『あのね、タケヒロとレンジャーさんにお土産を買って帰ろうと思ってて』
 お土産! ぱあっと笑顔が開花して、一瞬前のことは完全に頭から消えてしまった。
「なにくれんの?」
『えー、秘密だけど、すっごいカッコイイよ』
「おぉっ」
『ペナントっていうんだけど、知らないでしょ』
「知らない!」
『期待しててよー』
 実物を見たタケヒロがちょっとだけがっかりするのはもう少し先の話である。
 なんの用事かさっさと聞いてよ、と急かされて尋ねる。友人の声の弾みようにかまけて忘れていた。つい昨日話したばかりなのに、話ができるだけで嬉しいなんて、なんだか変な感じだ。心配しすぎるとこうなるのか。
 あー用事はね、と無駄にうきうき色のミソラの声。
『レンジャーさんへのお土産なんだけど、今二種類で迷ってて』
「姉ちゃんへのお土産の話だってさ」
 振り返ると、レンジャーがこちらを見ながらサブレのピンプクを真っ二つにへし折っていた。
「どんな?」
「どんな? って聞いてる」
『えーっとね、ティーシャツで』
 お師匠様が選んだんだけど、と付け加えられて、タケヒロは若干眉間に皺を寄せた。
『片方は白で、真ん中にどーんとマリルがいて、飛んでて、どはつしょうてん! って叫んでる』
「どはつしょうてんってなんだ」
『それでもう片方がね、なんか森が描いてあって、シャツの裾のところから、ツチニンががばぁって出てきてるっていう』
 イメージは湧かないがとにかくそのままを説明すると、レンジャーは面倒そうに椅子の背もたれに寄りかかって、
「どっちがマシか聞いて」
「なー、それってどっちがマシ?」

『なー、それってどっちがマシ?』
 右手に受話器を握って、左手を男にやんわり握られた状態で、ミソラは必死に平静を取り繕おうとする。えっと、と呟いて、すぐ近くにいる人を見上げて。レジスター脇に陳列してある奇怪なストラップをテラと共に真剣に眺めるトウヤへ、声をかけなければ。努めていつも通りに、明るく、明るく。
「お師匠様、タケヒロがどっちがマシかって聞いてます!」
 え? と見下ろしてくる距離も、普段より物凄く近く感じる。
 シャツです、と説明すると理解して、並べて展示してある二枚をふいっと見上げる。それから、それらに巡り合った時と同じく、普段なら在り得ないくらいの実に幸福な表情を浮かべた。
「どっちも凄くかわいい……」
「どっちも凄くかわいいって!」

『どっちも凄くかわいいって!』
「どっちも凄くかわいいらしいけど」
 間を取り持ってレンジャーに伝達すると、それってお兄さんの意見でしょ、と突き返される。仕方ないのでミソラの意見を求めると、暫くうんうん唸ってから、あっけらかんとしてこう答えた。
『……どっちもどっちかな』
「どっちもどっちだってさ」
「じゃあどっちもいらないからおいしそうなお菓子買ってきてって言っといて、なるべく日持ちするやつで」
 一蹴だ。ざまあみろ、とタケヒロは心の中でガッツポーズを決めた。けれど、そこでレンジャーの家に来ると毎回お菓子が出てくる理由を少し察してしまって、そうするとなんかやっぱり、ちょっと、悔しい。


 怒髪衝天ティーシャツの入った紙袋を満足気に提げるトウヤと、手を繋いだまま店を出た。誰へのお土産にするのだろうか。体格の良いグレンがマリルのシャツを着ている姿も面白そうではあったが、そういえばトウヤ自身も、ちょっと理解に苦しむようなセンスのシャツを家では頻繁に着用している。
 テレポート対策の連結作戦で除けにされてしまったハヤテはボールの中に戻って、二人と二匹でぶらぶら町を散策した。ココウにはない大きな本屋だとか、精緻な細工のきらきらした装飾品のお店とか、時計屋さん、先程みたいな観光客向けの店。専らペットになるのだという小型ポケモンを売っているお店では、チコリータという愛くるしいポケモンが閉じ込められている檻の前で三十分くらいトウヤは悩み続けて、結局貧乏が憎いとぼやきながら名残惜しそうに後にした。
 左手に慣れない熱を感じ続けて、最初はぎこちなく――それこそ自分は男だと無駄に意識してみたり、私は男なのでこういうのは何かおかしいのではないでしょうかと進言しようとしてみたり、そもそもこれはトウヤの体を張ったボケであって即座に突っ込むべきだったのではないかと悶々としてみたり、でも例えばはぁちゃんの言うように彼がお父さんとか、若しくはお兄ちゃんみたいな立場だったとしたらそんなにおかしくもないか、なんて無理に納得してみたり――していたミソラも、そのうちに吹っ切れて、このおかしな状況を楽しまなければと思い始めた。
 トウヤは機嫌が良かったし、ミソラも諸々の理由でとてもハイテンションだったから、ノープランでも特別暇はしなかった。主人の気を引こうとぽんぽん尻を跳ねさせてみたりくるくる舞い始めたりするテラに比べれば、リナも(ハヤテの一件以来)随分大人しくて助かる。空いていた安めのレストランで遅めの昼食を取って、よく食べると苦笑されながらパフェまで食べて、満腹の眠気にちょっとうつらうつらとしながら手を引かれていたら、おいしそうな饅頭を売り歩いている人に巡り合って。餡子入りのはふはふした触感をリナと半分こにして、もっと満腹になって、また手を取られて歩き出す。慣れてくると、それが当たり前みたいになってきて、――こんな風に誰かに手を引かれていたことが、昔にもあったのだろうか。不思議な哀愁が胸をくすぐった。手を取りながら、トウヤはまた、何を思っているのだろう。
 店のあるところはだいたいこの辺で終わり、というあたりでトウヤがふと足を止めたのは、酒と書かれた店の前である。酒場ではなくて、酒瓶がずらりと首を揃えて整列している酒屋さんだ。つい昨日までいた家の酒場を、もはや懐かしくさえ思う。
 誰かに買って帰るのかと思いきや、ハシリイは酒は不味いからな、と呟いてトウヤは歩き出した。
「ごはんはおいしかったですけど」
「酒は酷いよ。ここの連中はアルコールだけ強ければいいと思っている」
 ココウの出身者もかなり酒には強いが、ハシリイの人間はそれを遥かに凌駕するのだという。水同然に飲みまくるあの人たちとの宴会ではいつも記憶が吹き飛ぶまで飲まされる、とトウヤは愚痴っぽく言った。
「じゃあ昨日の事覚えてないんですか」
「何かしてたか、僕」
「い、いえ……」
 ミソラの引きつった顔を見て何か察したようだったが、それ以上は何も問うてはこなかった。
「そういえば二日酔いしなかったですね、『薬』のお陰ですか」
「そうだな」
「結構飲んでたみたいでしたけど」
「飲めって言うから頑張って飲んでるんだよ。あの毒みたいなやつを……」
 笑いかけて、その『毒』という言葉に聞き覚え、何か引っかかるものを覚えて――ふと思い出したことがあって、ミソラは黙ってしまった。
 どうしよう。穏やかだった胸がざわつきはじめる。色々聞いてみる、と決めていたことが、不意に喉の向こうへ押し寄せてきたのだ。するとして、何から始めればいい。せっかく楽しくしている、そういう風に自ら持ってきてくれたのに、暗い話をして雰囲気を損ねてしまうのは怖いと言うより、凄く、申し訳ない。……でも、今なら。今しかないかも。混み入った話も、この距離なら、できないでもない気がした。
 いつか聞きたいと、ずっと思っていた事だ。遠慮しない、遠慮しない、と心の中で唱えながら、ちょっとだけ気合を入れて顔を上げる。
「前、スタジアムでバクーダと試合をした時に、調子を悪くされたことがあったじゃないですか」
 突然の話題転換――それも良い思い出ではないだろう、トウヤはこちらを見下げて少し顔色を曇らせた。その後に待ち受けていた事件を思えば、ミソラに取ってだって決して思い出して快いものではない。
 遠慮しない。勇気を出せ。このくらいの話なら、他の『聞きたいこと』よりか、全然大丈夫。なんてことはない。
「あの後、バクーダのトレーナーさんが私に話してくれたんですけど……」
 ――翌日、一人でスタジアムに立ち入って、控室でひとりぼっちになっていたミソラの、肩を叩いてきた男の顔。
「毒を盛ったんじゃないかって、スタジアムのトレーナー達に疑われてたそうなんですよ」
「は?」
「あの……私、もしかしたら、その毒って……」
 その時、握っているトウヤの右手が、痙攣するように戦慄いた。
 どきっとした。口が止まる。余所を向いていた顔をもう一度戻すけれど、トウヤの目はもう、ミソラを捉えていなかった。変わらぬ調子ですたすたと歩きながら、どこか遠く、前方の一点を、その位置で釘でも打たれたかのように微動だにせず見つめていた。見つめているか、何も見ていないかも、しれない。あれ。何か変だ。とても続きを言い出せなかった。そんなに悪いことは言ってないはずだ。でも――ぎゅ、と手を強く握り込められると、冷やかな動揺が走った。
「そんな卑怯な事しないよ」
 不意に視線が、うろたえるように足元へ下がって。
「……一体誰に?」
「は、はい?」
「誰に毒を盛ったって言うんだ」
「え? えっと、ですからお師匠様に……」
「――僕に」
 すっ、と瞳孔に色が戻って、トウヤはミソラが見たことのない――何かに怯えるような表情で、こちらへと目を合わせた。
「あ、あぁ……そういう事か」
 そうか、と小さく繰り返す口の動き。戻ってきたと思ったら、また顔色を悪くしはじめる。手はまだ微かに震えているようだった。何が起こったのか、自分が何かまずいことを言ったのか、分からずにミソラはただただ見上げていた。どうしよう。暇そうにひっついていたテラが、気遣うような音色を立てて覗き込む。リナもきょとんとしていた。黙っている間に、トウヤはまた視線を外し、まっすぐ前を見つめながら、どんどん青ざめていくばかりだった。
「……お師匠様?」
 声を掛けた途端だった。足が止まり、ふっと左手が自由になった。急に苦しげに顔を歪めてトウヤは左手で口元を抑えた。それからミソラを一瞥し、待ってろ、と言うように右掌を見せると、テラをひっつけたまま手近な店へと駆けこんでいった。
 時限爆弾。ぽつねんと取り残されて、ミソラはふとそれを思った。師匠の消えた背中を探して、なかなか戻ってこなくて、軽くなった掌を見つめて。座り込んで、リナを抱いた。いつもの獣の匂いがして、少し、落ち着く。
「……リナ。僕、店の手伝いなんか、できるようになりたくない」

■筆者メッセージ
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↑5−6裏 裏については5−1の作者コメ欄をご覧くださいませ

『あんた、ちょんなに『ぶりっこ』ちて、楽ちいの?』(本文より抜粋)
とらと ( 2013/02/03(日) 18:05 )