月蝕
3−6
 昼の刻はゆうに回り、浩々たる青空に一点輝く火の玉は、徐々に西へと傾きつつある。
 じりじりとスタミナを削っていく日射に、開いた口からため息が漏れる。逃げるように民家の床下に入り込み腰を下ろすと、湿った地面と、セメント材の冷たさが心地よい。騒々しい俗世の片隅に、安らぎの泉を見つけたような気分だ。こみ上げていた緊張を束の間吐き出すと、小さな体にどっと疲労感がのしかかってきた。
 鳥の鳴き声が聞こえてくる。どこからか人間たちの談笑も、遠からず見える、強い日差しの揺らめきも。町はいつもと変わらない。何も変わらないじゃないか。……疲れに思考が淀むせいで、判断力が低下していく。このまま眠ってしまえばよい。薄ら暗い安息が、誘いの言葉を囁いている。もういいよ。眠ってしまえ。顔に貼りついた汗を拭うと、それがちょっと目に染みた。そうしてとろんと瞼を下ろした。
 そうだ、夢でも見てしまおう。あの、赤と白との小さな球に、自分の体が、光になって吸い込まれていく。そんな些細な夢――

 ――まどろみからエイパムを引きずり起こしたのは、それも鳥ポケモンの鳴き声だった。
 興味よりも気怠さが勝って、エイパムは目線だけそっちによこした。暗がりにいるエイパムの方を、日向に佇む一羽のポッポが、品定めするように睨んでいる。
 ポッポは短く声を立てた。エイパムは半開きの目でその伝達を聞き終えると、ふるふると首を振り、もう一度目を閉じた。ポッポはまた、二言三言そこに投げ込んだ。バサバサと翼を振るった。
 やれやれとでも言うように、エイパムは目を開け、腰を上げた。


「お、来たか」
 顔を覗かせていた方向から、一羽とそれを追う一匹の影が近づいてきた。タケヒロはそれを手招きし、顔を引っ込めて、後ろでそわそわしているミソラにも座るように促す。ミソラとタケヒロと、せわしく鼻を鳴らしているニドリーナのリナ、遅れてやってきたポッポとエイパムとが、倉庫の影、路上からは一目では見えない場所にこそこそと丸くなった。
 なんとなくへこたれた顔をしているエイパムに、「俺たちに任せとけ」とタケヒロは親指を立てて自信満々の笑顔を見せた。対して不安げな表情を浮かべるミソラは、でも、これからどうするの、と弱気な音色で問いかける。ミソラは、エイパムには何度かいたずらを仕掛けられたし、生身にスピードスターを浴びせられたこともあった。けれど、そのスピードスターで助太刀を貰ったこともあったのだ。このニドリーナを助けた日のような正義感が子供の胸に湧かない訳ではなく、守ってあげたいという気持ちは無論ある。それなのに――小猿へと伸びる魔の手の正体が、あの得体のしれない組織で、不気味な微笑を浮かべたあの男で……と考えるだけで、無鉄砲になりきれなくなってしまう。敵うはずもないという臆病が、暗雲となって行く手を阻んでしまうのだ。
 どうするったって、どうにかするしかないだろ、とタケヒロはちょっとだけ語気を強めた。
「とことん逃げる! 逃げるっきゃない」
「い、いつまで?」
「あいつらが諦めるまで」
「逃げ切れるかな……?」
「逃げ切るんだよ。夕方には出ていくんじゃないかってレンジャーの姉ちゃんも言ってただろ」
 それでも心許なげにしているミソラの前で、タケヒロはすっくと立ち上がり胸を張った。
「心配すんな、下手に走り回らなくったってしばらく隠れてれば大丈夫だ。隠れ場所なら、俺たくさん知ってるぞ」
 ピーピーと高い鳴き声が注いでくる。一方向を嘴で何度も指し示しながら、偵察していたもう一羽のタケヒロのポッポが舞い降りてきた。
「近づいてきたみたいだな。よし、行くぞ」
 きょろきょろと首を回しているエイパムを抱き上げると、タケヒロは路地の方には戻らず、竹の垣根の朽ちて穴になった部分を、体を捻ってくぐり抜け始めた
 そこからの道のりは、さすがに子供の隠れ道だった。細径をジグザグと抜け、家々の戸口に面した通路をコソ泥見習いの気負いで走り、瓦礫の砦はひとまず登頂、やってくるリューエルの腕章をした見知らぬ人間をかわすために土管の中を這い、スパイよろしく曲がり角ではさっと身を翻し、なにやら梯子をのぼったかと思うと、気が付けば屋根の上、慣れた様子でさっさと行く一人に、もう一人はへっぴり腰で瓦の上を渡り、従わせているはずのニドリーナに置いてきぼりにされ、友人に呆れ顔で手を引かれながら半泣きで家々の間を飛び越え――記憶にある分には生まれて初めての大冒険に、ミソラは息が上がりっぱなしである。
 休憩、とぼやきながら腰掛ける甍(いらか)は、当たり前だが雨風に黒く汚れている。同じく真っ黒になった自分の掌と比較するように、ミソラは目の前の景色を眺めた。今乗っているような瓦張りの屋根というのはそうそうなくて、そこに窮屈に並んでいるのは、踏めばたちまちに穴の開きそうな錆びたトタンの波打つ屋根だ。東を望めばまだ家らしい家もちらほら見えるが、日の傾く西側へと目を向ければ、土台から傾いているのではないかと思われるような、見ているだけで酔いそうな光景もたくさん存在する。これがタケヒロの、あの捨て子たちの、そしてエイパムの生まれ、また生きてきた場所なのだろう。……もう一度東を振り返る。自分の住まわせてもらっているハギの酒場の赤い屋根は、ここからは窺うことはできなかった。
 いくつかの黒い鳥影が、夕方へと歩みを進めゆく空を行き交っている。あれのどれかがリューエルのポケモンで、エイパムを探してるのかも分からねぇな、とタケヒロが物騒なことを呟くので、ミソラは渋々と腰を上げた。少し足が痛み始めたが、二日三日延々と歩かされたトウヤとの最初の遠征を思えば、これくらいなんのことはない。
 タケヒロの言葉を聞いて、今はその肩にひっついているエイパムは、空を見上げながら首をすくめていた。――自分たちのポケモンではない、とあの子供たちに言われたことを、エイパムは知っているのだろうか。あれが彼らの本心ではないことくらいミソラにも十分察せられたけれど、エイパムがあの時気絶していなかったとしたら、今この小猿はこの景色に、何を感じているのだろう。
 そこからまたしばらく、彼らはそろそろと屋根の上を歩いた。そして急にタケヒロは、エイパムを連れ立ったまま、そこから何食わぬ顔で飛び降りた。リナも迷わず飛び降りた。――高い場所に一人残された運動音痴は、長い長いため息をついた。

 派手に悲鳴を上げながら落下してきたミソラをなんとか受け止めると、バッカ大声出すんじゃねぇよ、とタケヒロは小さく釘を刺した。
「ここは俺の第三秘密基地だ。周りは他の家に囲まれてるし、出入り口も『上から』を除けば一つしかない、それも外からじゃ普通は気付けねえよ。ここならひとまずは大丈夫だ」
 そう言うと、フーッと満足気に息をつきながらタケヒロは木製の長椅子へと腰掛けた。ミソラもその隣に座った。思いの外涼しく、そして静かな場所だった。吹き抜けの空には、からんとした青だけが単調に広がっている。……とりあえずは気を緩めてもよさそうだ。
 四方を建物に囲まれたがらんどうのこの空き地が、彼のとっておきの隠れ家なのだそうだ。先ほどの基地よりこちらは随分広く、小洒落た家具や化粧台(ピエロになるために使うのだろうか)、また衣装棚らしきものまでたくさん置いてある。リナが興味深そうにひとつひとつを眺めて回っていたが、今のミソラにはそうする気分にはなれなかった。
 二人から少し離れた場所に、エイパムはへたりと座り込む。ミソラはしばらく、黙って足をさすっていた。
 動き回って、晴らしたつもりだったもやもやは、じっとしているとすぐにまた両手を広げて、心臓のまわりを包み始める。そうすると、甘いケーキを食べ過ぎた時のように、腹に淀みが滞って。引っかかっていた懸案が、口をつかずにはいられなくなる――ねぇ、と幾分低いトーンの問いかけは、四方囲まれた壁に反射するでもなく、埃の中に吸い込まれていった。
「よかったのかな」
「何が」
「……だって」
 言い出したはいいものの、そこで元気をなくしている当事者の手前、言葉はなかなか喉を通っていかなかった。
「……エイパムは、ものを盗んだり、壊したり、町の人たちも困ってる……悪いポケモンで」
 それを捕獲するために動いているリューエルを、二人は今邪魔している。
 聞こえているのかいないのか、エイパムはこちらに背を向けて動かなかった。ポッポ二匹の控えめなさえずりがいくつか行き交った後、しばらく重たい沈黙が流れた。ずるずると視線を地に落としていくミソラの横で、タケヒロは難しい顔で腕を組み、解いた。それからがしがしと頭を掻いた。
「本当にそう思うのかよ」
 ぶっきらぼうな言い草は、怒っているようにも、言い聞かせているようにも聞こえた。
「こいつが悪いポケモンだって。思うのか?」
「……ううん」
 ミソラは首を振った。じんわりと締め付けられて、胸が苦しい。……それでも、口にしてみてよかった。自分の発言を自分で否定することで、後悔しないための踏ん切りがついた。心を縛り付けていた枷から、ようやく抜け出すことができた。
 ポッポたちがパタパタとやってきて、タケヒロの膝の上にとまった。その翼を撫でながらタケヒロは続けた。
「悪くねえよ。少なくとも、エイパムは何にも悪くない。悪いとすればあの盗っ人連中だ。エイパムはただ、あいつらに従ってただけで……あいつらの喜ぶ顔が、見たかっただけでさ」
 お前、ボールで捕まえて欲しかったんだろ、と問うと、エイパムはゆるりと振り返った。ぼんやりとこちらを見つめた後、寂しげな表情で、こくんと頷いた――さっき、エイパムが盗んできたボールを換金する、と子供たちが言った時の表情の変化はそのせいか。少し前にも、ミソラのボールをエイパムに盗られそうになったことがあった。……こんな事態をなんとなくにも予想していたのだろうかと思うと、いたたまれない気持ちになる。
「ボールっていうのは、ポケモンとトレーナーっていう関係を示す一番の形だからさ。……あいつらとずっと一緒にいたかっただけなんだろ? なぁ?」
 エイパムは大きな瞳でこちらを見、唇を噛みしめ、ぷるぷると肩を震わすと――ぱっとむこうを向いてしまった。ミソラとタケヒロは顔を見合わせ、お互いに頬を緩めた。
「……俺、元々はあの盗っ人連中の仲間だったんだ」
「え、そうなの?」
「赤ん坊の時にココウに捨てられて、あのグループの人に拾われて育ててもらった。世話になった人たちは大人になって町を出ていったから、今はいないけどな」
 思わず感嘆の声が漏れた。ミソラに会うとき、タケヒロと言えば決まって一人だ。他の同世代の友人の話なんて聞いたこともなかったし、あの子供たちの話なんか本当に嫌そうにしていたから、タケヒロがそれと共同生活をしていたなんてミソラには想像もつかない。
「なんで仲悪くなっちゃったの? なんで今は一人で……」
「い、今は関係ねぇだろ、それは」
 少しあたふたとしてから、タケヒロは強引に話を戻した。
「あいつらだって似たような事情の捨て子たちだ。本当にちっちゃい時から、ずーっと一緒に育ってきてる。だから結束力は人一倍なんだ。エイパムだって同じだよ。そんなあいつらが、仲間じゃない、なんて心の底から言う訳ない。絶対言う訳ないんだ」
 二人の視界の端で、しばらく家具の下をじっと覗きこんでいたリナが、ふと顔を上げた。片方しかない耳をぴくぴくと揺らすと、飄々とした顔色を、僅かに揺るがせ首を傾げた――その間にタケヒロはミソラを真っ直ぐ見、また若干声を荒げる。
「そもそも、俺たちだってずっと盗みを働いて暮らしてきた訳じゃなかったんだぜ」
「どういうこと?」
「森だよ。ココウの周りが昔は森だったってミソラも知ってるだろ。そりゃあたまには盗みもしてたけど、森があった頃は、だいたいはそこで自給自足って言うかさ、悪いことしなくたってちゃんと食えてたんだよ。それが、『死の閃光』――リューエルの仕業で森が消えて、突然食うもんがなくなった、生きるために俺たちはゴミを漁ったり、それでもダメで結局、盗みに走るしかなくなっちまったんだ」
 力説するタケヒロが立ち上がって、膝にとまっていたポッポたちが慌てて飛び立った。エイパムは落ち着きを取り戻したようで、興奮している少年を不思議そうに眺めていた。ミソラはちょっと圧倒され、その中で一匹、リナはふいっと空を見上げた。
「悪いことだってのは俺たちだって分かってた。でもそうじゃないと死ぬってところだった。どうしようもなかったんだよ。盗みに頼って生活しなくちゃならなくなったのは、元を辿ればリューエルのせいなのに! ……そんなことも、多分、あの大人たちは知らないんだ。それを一方的に引き裂こうなんて……」
 タケヒロは声を低めた。ミソラは息をつめる。目の前に握られている少年の拳が、怒りにぶるぶると震えていた。
「……許せねぇ。絶対に許せねぇ」
 キャン、と高い鳴き声が響いた。二人ははっと顔を上げた。リナの見上げていたところ、頭上の四角く切り取られた空に、スッ、と何かが躍り出て、次の瞬間、そこに現れた透明な塊が彼らめがけて降り注いできた。
 ――降り注いできた。立て続けに放たれた『氷の礫(つぶて)』がヒュンッと空気を裂きながら二人の足元に刺さり、エイパムの尻尾を掠め、化粧台を文字通り木端微塵に粉砕した。その木片が飛び散る間にミソラはただただ悲鳴を上げ、タケヒロはその友人の腕を掴み、エイパムの首根っこを掴んで駆け出した。
 二人がもといた長椅子の上に、スタッ、と小柄な獣が着地した。淡い雪色を基調としたしなやかな体躯、長い耳をぴんと立て、精悍な目つきと、顔の横に『おさげ』のような長い体毛を垂らしたポケモン――新雪ポケモンのグレイシアは、優美ながらも鋭い眼光で、目の前の人間とポケモンを睨んだ。
「なんでここがばれたんだ?」
 敵の姿を確認し、驚きのあまり腰を抜かしかけているミソラを引きずるようにしてタケヒロはグレイシアの逆方向へと後ずさっていく。その方向には壁しかない。グレイシアが大きく息を吸った。おそらく屋根の上からであろう、聞き覚えのある男の声が無情に響いた。
「『凍える風』!」
「ふっ吹き飛ばし!」
 キラキラと輝く敵意のこもった冷気の風を、ポッポ二匹が同時に放った突風が元の方向へと押し戻す。吹っ飛んだグレイシアの体が向かいの壁面に打ち付けられ、煽られた『凍える風』によって夏の秘密基地が白く凍り始めた。今だ逃げろ、とタケヒロは叫んで駆け出した。けれどもやはり、その方向には壁しかない。
「――うおぉぉッ!」
 強烈なタックルをかますと、派手な音を立てて、その壁自体がいとも容易く吹き飛んだ――簡単には気付かない出入り口って、これのことか! 驚嘆するミソラを秘密基地から引っ張り出し、エイパムを肩に乗せ、ポッポ達にもう一度吹き飛ばしを指示すると、二人は吹き抜けの秘密基地から隣の建物へと移っていく。
 先は倉庫のようなだだっ広い廃屋であった。明け方のような薄暗闇に、放置された機械や廃材が散在している。半開きのままで錆びついているシャッターを指さし、こっちだ、とタケヒロが動き出した瞬間、コツン、と爪先に何かが触れて、ミソラは思わず踏みとどまった。
 ――モンスターボールだった。どこからか二人の足元へ投げ込まれた紅白球を見、ミソラは理解が及ばず、とっさに動けたのはリナだった。落下の衝撃で今にも中身を解放しようというボールを、ニドリーナは素早く、力いっぱい蹴り飛ばす。鋭い放物線を描いてすっ飛んだ先、ボールが上手くホールインしたドラム缶の中で、白い光が派手に弾けた。窮屈な空間へありえない恰好で解放されてしまったポニータのくぐもった悲鳴が轟き、ドラム缶がひとりでに倒れた。
 同時にポッポの警戒音が鳴り響いた。振り返りざまに襲いくる獣に、タケヒロは身構えることさえままならない。『電光石火』で少年の肩から目標物を強奪すると、グレイシアはその勢いのまま、そいつを地面へ叩きつけた。
「エイパム!」
 ミソラの声は、倉庫中に幾度も反響した。呻き体を捻るエイパムの両肩を前足で強く押さえつけ、グレイシアは見た目にそぐわぬ形相で歯を剥く。整った体毛が一斉に逆立ち、遠巻きにも分かるほどの冷気が周囲を白く濁らせた。
 その『氷の牙』が、今にもエイパムの喉元を捉えようとした刹那――飛びかかったリナの『二度蹴り』が、グレイシアの額にヒットし鼻を掠めた。軽いステップで身を引いたグレイシアの前で、すっ、とリナの目の色が変わった。
「いいぞ! やっちまえ!」
 あたふたと見守るだけのミソラに対して、手元に戻ってきたポッポ達をボールに収めながらタケヒロが叫んだ。
 グレイシアが姿勢を下げた。開いた口の奥で、コォッと青い光が迸った――同時に、リナの体の周りを、突然赤い光が取り巻いた。いくつかの光の球が踊るように飛び交うと、すぐに主の体へ舞い戻り、そして――リナが高く吠えた。グレイシアが僅かに萎縮した。
 こちらの発動が一瞬早かった。リナの体から四方へ弾き出された赤い光の衝撃波がグレイシアを正面から打った。水色の体躯が宙を舞った。吹き飛ばされながら放たれた『冷凍ビーム』は見当違いな方向へ直進し、天井に輝く氷の軌道を描いた。二つの光の応酬が、一瞬屋内の輪郭を描いた。
 そのまま地面に打ち付けられたグレイシアは、その場で起き上がろうともがいている。ダメージはかなり大きかったか。
 握っていた掌に、気付けば汗が滲んでいた。冷気で埋め尽くされていた倉庫内を、今度は熱が席巻している――変だ、おかしい。ニドリーナは確か、炎タイプの攻撃技なんて覚えなかったはずだ――踵を返し、いつもの飄々とした顔で駆け寄ってきたリナに恐る恐ると触れる前に、タケヒロがミソラの腕を引っ張った。
「なにやってんだ早く行くぞ!」
「う、うんっ――」



 叫び声がした。
 幼い子供の声だった。絞り出すような枯れた声が、血の滲みそうな潰れた声が。幾重にも幾重にも、折り重なって響いていた。
 曲がり角に当たった途端、飛び出してきた小さな影が、腹にどすんとぶつかった。
 六、七歳に見える女の子だ。腹に顔をうずめたまま、汚れた手はぎゅうと服を掴んで離さない。ゆっくりと屈んで、ようやく目線が合った。幼気な表情は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃだった。
「……ポケモンレンジャーさん?」
 少し困惑した顔で。鼻をすすりながら、女の子はそれだけ問うた――赤い隊員服に身を包んだ女レンジャーは頷き、どうしたの、と優しく尋ねる。
「……たすけて……」
 悲しみに歪んだその瞳から、じわりと滲んだ透明な光が、またひとつ、ふたつ、と頬を伝って滴り落ちた。
「ロッキーがつれていかれちゃう……あたしの友達なのに……大事な友達なのに、あたしたちのせいなのに、このままじゃつれていかれちゃうよ」
 そうして嗚咽を漏らし始めた女の子を追うように、数人の子供たちが現れた。子供らしからぬ途方に暮れた表情で、少女と彼女の姿を眺めた。
「なんでロッキーだけ悪いの、ロッキーとずっと一緒がいい、なのに……どうしたらいいのかわかんない……っ」
 覚束ない足元に、小さな海がぽつぽつと生まれた。
 微かなため息に口元を濡らし、震える背中をさする彼女の、閉じる瞼の裏で――その子と、あの日の自分の姿が、あまりにも自然に寄り添っていく。
 ――同じだ。もう、狂おしいほどに。
 そっと頭を撫でた。泣きじゃくる少女の赤らんだ目を、覗きこむように彼女は見た。触れることもためわれるほど凛とした声で、歌うように零した。
 そうしている彼女に、ポケットの中の依頼書など、なんの重石にもならなかった。
「あるわ――ひとつだけ。その子を取り返す方法が」





「あっ、おっ、ト……――お、おい! お前!」
「お師匠様ぁ!」
 ココウ裏通り西南部、自宅へ戻る道すがら。
 そう呼ぶ声に振り向き、必死の形相で猛進してくる子供二人とポケモン数匹を見て、トウヤはあからさまに嫌そうな顔をした。
「何だ、一体」
「ナイスタイミングだ!」
 来い、来い、と叫びながら脇を駆け抜けていくエイパムをひっつけたタケヒロ、それに半ば引きずられていくミソラを一度呆然と見送ってから、渋々といった様子でトウヤも追って走り始める。
「何してるんだ」
「あの、え、エイパムを」
「話は後だ! とにかく後ろから来る奴を……」
「後ろ?」
 振り返ろうとしたトウヤの腕を、急カーブして細道へ折れ曲がったタケヒロが無茶苦茶に引っ張った。殆んど倒れ込みながらそちらの道へ転換すると、また子供たちは全力疾走で逃げていく。
「後ろから来る奴をどうにかしてくれ」
「何が来るんだ、見えなかった」
「なんだっていいだろ!」
「あのな……、そもそもなんで僕が」
「相手リューエルだぞ! 俺たちがどうなってもいいのかよ!」
 やけくそめいたタケヒロの叫びに、尚更関わりたくない、と不満を垂れながらも、トウヤは自らのモンスターボールへと手を伸ばした。
「どんなポケモンだ?」
「なんかこう、えぇっと水色の、ホラあれだよ、ホラ!」
「耳が長くて、尻尾も長くて」
 要領を得ない二人の説明に、男の声色に若干呆れが加わる。
「タイプは?」
「分からん」「氷の技を使っていました!」
 首を捻ったタケヒロ、ぱっと目を輝かせ即答したミソラに対して、トウヤはますます顔色を悪くした。
「……『氷』?」
 トレーナーベルトに三つ並んだモンスターボールの、一つ目と二つ目――ノクタスとガバイトの球の上を、掛かる右手が右往左往と行き来する。
「はい氷です」
「氷……氷、」
 迷った挙句、一つ目のボールを掴みかけたその時、
「ごちゃごちゃ言ってんな! 一応ココウで二番目のトレーナーなんだろ!」
 タケヒロのその煽りを受け――つい先刻、女にモテるだどうだの話で散々からかい倒して帰った、あの悪友の顔を浮かべて、
「――だッ、」
 急ブレーキをかけ、素早く後ろを振り返りつつ、
「誰が『二番目』だ!」
 手前から三つ目のモンスターボールを、一寸の迷いなく抜き取った。
 よし後は任せた、と言いながらタケヒロは次の角を左に折れた。その瞬間肩に乗ったエイパムが遠心力で飛ばされかけて、タケヒロはミソラの手を離し両手で慌ててエイパムを支える。引っ張ってくれるものがなくなってミソラはバランスを崩しかけたが、そのおかげで、一度元来た方を振り返ることができた。
 未だ姿の見えない敵が、騒がしい足音を近づけてくる。人が二人並んで歩けるかどうかという小道の中央、こちらに背を向けるトウヤは、ボールを握った右手をすっと引き、
「――メグミ、」
 今まさに飛び出してきた敵影へと、開閉スイッチを押し込んだボールをかざした。
「――サイコキネシス!」

 その時足を止めていなければ、ミソラはこの日、何も知らないままで終わっていただろう。
 彼の選び取った、三つ目のボールの中身――メグミと呼ばれるオニドリルは、そんな技覚えるはずもない。そんなこと、疲れ切ったミソラの脳裏には、掠め通りもしなかったのだから。

 目が眩むような鋭い光が、一瞬視界を遮った。
 向かいの十字路から、水色の敵影が飛び出してくる。ミソラは暫し呆気にとられた。ボールから解放された光が形作ったポケモンは、主の先に指示した通りに、すぐさま念のオーラを纏った。
 額に乗せた大きな真珠と、バネのように巻いた尻尾。身構える痣の男の傍ら、ボヨンボヨンと飛び跳ねながらグレイシアと対峙したのは、そんなユニークな特徴を持つ、黒くて小さなポケモンであった。

とらと ( 2012/03/16(金) 20:36 )