月蝕



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月蝕
1・眠る岩山−1
 白けた岩肌の向こうには、町の賑わいの影が、青空にぼんやりと浮かんでいる。
 雲はない。暑くもなく、寒くもない。ただ、点々としか草花の生えるのを許さない岩盤は日光を少なからず反射するから、少しだけ眩しい。うっすらとした馴染みの町を眺める視界の端でもぞもぞと動き出したものは、美白効果を謳う化粧品が尻尾を巻いて逃げ出すほど真っ白な肌に、星の光を映したような金色の長い髪の毛を称えていて、やはり、少しだけ眩しい。
「行っておやり、ハリ」
 その金髪の小さな背中を見て、マフラーで口元を覆った男は傍らのノクタスに命じた。黄色の両目をぎょろりと動かし、口辺をかたどるように開けられたいくつかの穴は微笑んだ形のまま、ノクタスはこくりと頷いた。
 男は興味を無くしたように視線を外して、左手に巻かれた包帯の両端を結ぶ作業に取り掛かった。
「僕よりかはお前の方が、いくらか優しい顔をしているだろう」
 ノクタスはのそりのそりと近づいて、そっとその子の表情を覗き込んだ。ぽかんと口を開け、呆然といった様子でどこかを見つめる双眸は、その背後に広がる空のように、澄みきって青い。
 ノクタスは僅かに黄色の瞳を大きくした。それはこの『ハリ』と呼ばれるノクタスが、無表情の中に驚きを表す仕草の一つだ。何せ、男と共にこの地方をいろいろと見て回ってきたハリも、金髪碧眼などという人種には初めてお目にかかったのだから。
 子供の方も、ハリを見て目を丸くした。ただし、その驚きは「ワーオ!」などというもっともらしい形では形容されなかった。うわ、わ、と声を漏らしながらずりずりと後ずさりして、それから岩の出っ張りに腰掛けている男を発見して、またしばらく呆然として。それから、突然あっと目を見開いて叫んだ。
「魔物!」
「魔物だって?」
 全く関心がない素振りをしつつも律儀に返事した男は、慣れた手つきで包帯を扱い、余った端をしばっていく。それから子供の真剣な眼差しを肌に感じて、あぁ、と呟いて手を止めた。
 男は初めて子供と向き合った。
 それで、少し戸惑ったように右手を泳がせたあと、おもむろに、首から鼻の頭まですっぽりと覆っていた紺色のマフラーを下げて、その顔を見せた。
 小麦色の肌に黒髪と、焦げ茶の瞳――この辺ではごくありふれたなりをしている彼が、そこの子供と同じく他とは異端だったのは、左の頬から首の方にかけて、赤黒い痣がべっとりと這っていることだった。
「魔物ってのは、もしかしてあれのことかい?」
 子供は彼の容姿には大して驚いた様子も見せず、その顎が示した方向に振り返った。
 誰からともなく、それからほんの少しの間、各々が自分の動くのをやめた。
 その時子供が、その光景をどんな感情を持って迎え入れたのかは、男にもハリにも分からない。
 ただ子供は息を呑んだ。立ち上がり、見えない何かに導かれるように数歩歩いた後、そのくらいの年頃の子にとって何か神秘的で得体の知れない、例えば蝶の羽化するのを見守るように息を詰めて、じっと動かなくなってしまった。
 ごうごうと風が鳴った。薄汚れたコートの裾がはためき、黄色の瞳がしぼめられ、金色の髪が乱れて注ぐ光を通した。岩と岩との間に押しやられた草花が揺れ、粉塵が舞った。そして焦げた臭いが鼻を掠めた。
 そこには、大きくて、真っ黒に焼き尽くされたものがずしんと横たわっていた。
 何もない岩地とすかんと晴れた空の下、炭と化した表面に無数の亀裂を入れたそれがしんと動かない異様さは、誰ともなく、ひっそりと組み上がった奇妙なオブジェのようで。
 翼だったらしい部分は砕けて地面に落ち、顔だったらしい部分にくり抜かれた二つの凹みは、こちらを睨んでいるように思えた。
 普通の人間だったならば恐怖を喚起させただろうに、子供は恐れるでもなく、真っ青な瞳でそれとにらめっこして、ぽつりと呟いた。
「……これは、私が先ほど襲われそうになった魔物ですか?」
「そうだ」
 子供がこの地域の言葉を流暢に話すのに僅かばかし驚きながら、男は今度こそ包帯の端を結び終えて、もう一度ぼやけた町の姿を見た。
「メグミが手加減の仕方を忘れてしまったことを、僕は忘れていた……」
 ハリがじっと見守る中で、子供はしばらくその死骸と向き合って、後に一つだけ感想を零す。
「……すごい」
 小さな声は、きらめく埃の群れの中へとあっという間に飲まれていった。

とらと ( 2011/04/24(日) 11:06 )