月蝕



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月蝕
15−13

 ワタツミを発つ前にもう一度オリベの家に寄っておきたいと言い出したのはミソラだったが、トウヤにも、会って確かめておきたいことがあった。前回それ目的で訪問し、結局聞きそびれてしまった、トウヤの両親の死に関する真相である。
「――間違いありません。君のお父さんとお母さんは、四年前の十二月七日、ココウ近郊での爆破実験に巻き込まれて亡くなりました」
 早朝と呼ぶにもまだ早い、夜明け前の来訪にも関わらず、オリベは二人を招き入れてくれた。
 旅荷を詰め込んで膨らんだリュックに、重い防寒着。冬山を越えるための装備も、この家の冷たさの中ではどこか心許なく感じる。灯りのない応接間が、しかし、不思議とほの明るかった。トウヤとミソラを座らせて、オリベは夢の波間を漂うような声で語った。
「惜しい……才能でした。君のお父さんは、本当に素晴らしい研究者でした。リューエル科学部は現在、強化剤や高速回復装置の開発において、トップ企業に三年遅れを取っていると言われています。この三年という歳月は、ワカミヤスグルという才能を失ってからの時間を投じていると言わざるを得ません」
「何故、父と母は、爆発に巻き込まれなければならなかったのですか」
 トウヤの問いに、オリベはかすかに微笑みを浮かべ。
 それから、視線を下げた。表情を隠すような動きだった。対峙するトウヤの喉に、腿の上に置かれた拳に、緊張が走っているのを、隣からミソラは見ていた。けれどそのときのオリベの動きには、トウヤが感じているそれ以上の、鈍い覚悟にも似た何かが、纏わりついているように見えた。
「……子供を」
 絞り出すように、オリベは言った。
「彼は……子供を作るべきではなかった。息子を愛さねばならないという思いが、科学者たる彼を狂わせてしまった」
 身を固くして、ミソラは横を見上げた。
 トウヤは毅然とした表情で、まっすぐオリベを見つめていた。
「……トウヤくん、君が。リゾチウムへのアレルギー症状を起こして、ホウガを離れなければならなくなった。あれ以来、ワカミヤくんは、あんなに熱心に打ち込んでいた強化剤の研究チームを離れ、アレルギー症状の治療薬の開発に没頭するようになりました」
 ミソラに御伽噺を語り聞かせたときの、相手を言いくるめることに絶対的な自信を抱いていたのが嘘みたいな態度、声。朽木の喉が上下するたび、ミソラは知らない人を見る気になる。それはただの望郷のようでもあり、卑屈めいているようでもあり、また、長い逃亡生活の果てに自白を始めた草臥れた犯罪者のようでもあった。
「彼はすぐに成果を出し、一時的に症状を抑制する薬の開発に成功した。だがそれは強い副作用を伴うもので、彼は開発を止めなかった。それどころか、この手の強化剤が蔓延すれば、息子のような体質を持つ者が苦しむことになると主張して、販売に反対すらしはじめた」
 列挙して、一度、オリベは細く息を吐き切った。
「我々にはワカミヤくんの力が必要だった」
 藍色の孤独が、声の冷ややかさを際立たせる。
 続きを、オリベはなかなか話さなかった。ゼンマイ仕掛けの人形が動力を失って動かなくなったかのようにも見えた。長い空白が、形を持って、喉奥に押し込まれてくる感覚をミソラは覚えた。トウヤも息が詰まって急かせないのだろうかと思ったが、それは違った。
 夜闇の中で、トウヤの双眸は、まるで冴え切ったナイフのようで、決してオリベを離さなかった。
「ルディを拾ったとき、私はとあるポケモンを追い求めていたのです」
 沈黙に促されるように、オリベは話を再開した。
「十一年前……当時はまだ未開の地とされていた北方の異国の雪原の奥地に、あるポケモンの噂を耳にしました。遠国では『知識の神』と評されるほどの、特別な力を持つ種です。ほとんど一年間を費やして、私はそのポケモンを探し出し、捕獲に成功した。それをホウガに連れて帰り、私は」
 皺だらけの両手で頭を抱え、呻くように。
「君のお父さんから、君という記憶を奪いました」
 トウヤは、男を見つめ、身じろぎのひとつもしなかった。
「彼だけではない。君のお母さん。それから彼女の連れていたバクフーン。他にも、ワカミヤくんに息子の存在を知らせるような者があれば、尽く、君に関する記憶を消していった。
 他者の記憶を操作することができるなんて、俄かには信じ難いでしょう。ですが、ワカミヤくんは、以降リゾチウムの研究チームに戻り、生体爆弾の研究に及ぶ様々な功績を残している。それが、何よりの証拠です」
 オリベは顔を上げた。
「トウヤくん。私を、恨めばよろしい」
 力を滲ませた口調は、まるで言葉とは裏腹の、恨みごとのようにも聞こえた。
「言い逃れすることは何もない、君から家族を奪ったのは、間違いなく、この私だ、だが」
 表面だけ掬えば、開きなおりのよう。けれどもこの顔、この声を受けて、誰がそんなことを言うだろう。非難めいた、糾弾めいた険しい表情の面のむこうから、
「君という存在が、私が愛した彼という人を、この世から消し去ってしまったことも、また、事実なんだ……」
 隠しようもない、大きな本物の苦しみが、声のふるえになって溢れていた。
 君さえ。嗄れた声が、萎びていく。君さえいなければ。振り絞るように、やっと呟いて、オリベはまた頭を垂れた。
 随分と小さく見える体を、ミソラは見下ろしているしかなかった。彼に育まれた情緒が、熱い感情を喉元までせりあげて、それらは泡のように弾けて消えた。
 ミソラの記憶の中でミヅキが、オリベのことを『海』だと評した。ミソラの知っているオリベは、確かに常に、凪いだ海のような穏やかな、ミソラの幼さからすれば少し穏やかすぎるくらいの表情をしていた。広大で、星の数ほどの命を育み、耳心地のよい音を立てて浜に寄せ、真冬の外気より少し生温く、遠い山の上から見下ろせば鏡のように平らな海。けれどミソラは、この街で過ごした短い時間の中で、その海が、執拗に岸壁を殴りつけるさまも見てきた。
 夜の海。空や陸との境目もないような、果てのなさ、惹きつけられるあの怖さだ。刻まれた皺の奥にひそむ、白く濁った彼の瞳に、底のない真っ暗な執念を見た。深遠で、耄碌とは程遠い、目が眩むようなそれを前にして、ミソラは不意に気がついた。
 ――確かに自分は、この人の息子なのだろう、と。
 何か、言いたかった。何も言えなかった。ミヅキを笑わせるために、誰とも分からない人を殺すことを厭わなかった自分に、一体何が言えるだろう。じゃあ、トウヤは何を言うだろう。怖かった。覚えていなくとも、心の奥が知っている、大事な人が、大事な人に非難されるところに、これ以上立ち会いたくなかったのだ。
 大事な人を愛したいだけなのに、どうしてか僕たちは、縺れて、傷つけあってしまう。
「……僕は」
 トウヤの声が、一滴、ぽつりと夜の闇を揺らした。
「リゾチウムのアレルギーを発症したあと、ココウという町に住む叔母の家に引き取られ、そこで暮らしました」
 ひとつずつ手繰り寄せるように紡がれる、昔話の語り口。不安なとき、声を聞くと、よく心が静かになった、あのトウヤの声だった。オリベの告白に、彼が平静でいられるはずがないのに。ミソラは、隣へと顔を上げて、
「その家に、養育費と薬瓶が送られてきていました。僕がココウに住みはじめてから、両親が亡くなるまで、九年間。定期的にずっとです。父の名義で届いていましたが、父が僕のことを、……覚えて、いなかったとすると、」
 その横顔を見て、ふわと目をあけた。
「先生が、送ってくださっていたのではないですか?」
 トウヤは、少しだけ、笑っていた。
「……顔を上げてください。あの薬に、僕は何度も生かされました。僕を生かしてくださって、ありがとうございました」
 頭を下げる。
 丸まったオリベの背が、大きく震えた。やがて震えは嗚咽に変わった。
「すまなかった……すまなかった……」
 港町の片隅の、忘れ去られたような古い家の内側に、懺悔はしんしんと降り積もった。
 硬質化して埃が被り朽ちかけていた怒りや憎しみの、こわばりが崩れた裏側には、深い後悔と、確かに安堵が見え隠れした。『覚えてさえいればいいのです』。オリベはミソラにそう言った。『ルディが彼らのことを、覚えて、愛している限り、彼らは生き続けるのです』。どんな気持ちで、あの話をしたのか。それを全否定したミソラの言葉を、彼はどう受け取ったのか。育ての父のことをなんにも思い出せない子供の言葉に、彼はどうして、救われたような顔をしたのか。けれど、もし、その老いた背が淡く光を帯びるのが、彼にとって救いにあたるなら、ミソラは少し救われる。
 オリベの体が、光の粒に包まれていた。
 ああ。やっぱり。胸が引き千切れそうにミソラは思った。随分前から勘付いていた。けれど、心のどこかで、そうと認めたくなかったのだ。
「……ナミ?」
 トウヤの疑問符と共に、ミソラの視界にも現れた。海の神様のもとへ導いてくれたあのカラカラ。どこから入ってきたのだろう、透きとおったその体は、すいと浮かびあがると、オリベの頭上へ移動した。
 バトンのように回転させた骨棍棒の先に、浅緑の光が宿った。
 光は、炎のように燃え上がり、一陣の渦を巻いて、オリベの体を取り囲んだ。
「……!」
「先生っ、」
 ミソラは立ち上がった。光を増していく炎の向こうで、オリベはこちらを見ていた。苦しげな顔ではなかった。憑き物の落ちた表情だった。彼は手を伸ばした。ミソラはそれに触れようとした。二者の間を隔てるように、カラカラの導く炎は燃えあがって、オリベの全身を飲み込もうとしていた。
「私、ホウガに行きます」
 突き動かされるように叫んでいた。けれどうまく言葉が続かない。
「見にいきます、私が育った場所を。あなたのこともきっと思い出します。それで……私……っ」
 舐め尽くそうとする炎の中に、濁ったような彼の目が垣間見えた。
 光を映して、とても澄んでいた。
 ミソラを映して微笑んだ。
「ルディ。ルドルフ・シェーファー。私の、いっとう美しい獣」
 微笑みが炎の後ろに呑まれる。
「ミヅキちゃんを救ってください」
 ――熱も、風もない、不思議な色をした幻想の炎が、夢のように消え去ったあと。
 オリベはもう、そこにいなかった。影も形もなかった。骨棍棒に灯した弔いをくるりと回して消したカラカラは、一瞬こちらへ目を向け、あの悲しげな頭蓋骨を、小さく頷かせて見せた。
 そのまま、煙のように消えてしまった。
「……嘘、だろ?」
 座ったまま腰を抜かしているトウヤは、ゴースグラスを外したり掛け直したりしながら、窓の外と老爺が『見えて』いた場所を何度も何度も見比べている。ミソラは静かに室内を見回した。水の出ない蛇口。止まったままの時計。水差しの中に、それだけやたらと生々しい生花。……ここにミヅキがやってきた証。
 窓脇に、それを使っていた誰かに景色を見せてやるように、ぽつねんと置かれた車椅子。
 そばに屈んで、肘置きに触れてみた。生前のぬくもりが、この厳冬の中で、ほんの少し、残っているような気がした。まるで、ミソラがこの家に来るのを待ってくれていたかのように、まだ、ほんの少しだけ。


 *


 オバケなんて非科学的なもの見えてたまるか、と言いながら、ゴースグラスを踏み潰したトウヤの膝がしばらく震えていたのが、あんまりにもおかしかった。
 日の出が近いだろうか。空は段々と青みを帯びはじめている。目指す北方の山脈の形は闇の中にまだ見えない。歩く堤防の西手には、絶えず波が打ち寄せて、独特の水音を響かせていた。
 新品の防寒着。履き慣れた靴。真新しい潮風の匂い、先をゆくトウヤの背中。トウヤと、そしてミソラの故郷へ向かう、ちいさな旅のはじまりだった。
 ワタツミに滞在したのはたったの五日間だ。最初は怖くて仕方なかったゴースまみれのこの街も、発つとなるともの寂しい。ワタツミの、霞がかった空気の中に、ミソラの大切なものが、静かに眠っているような気がした。
 それも少しずつ遠ざかっていった。
「結局、ヨシくんさん来てくれなかったですね」
 霊園と小屋のある岬を振り返りながら、ミソラは呟く。目を覚ましたとき、ヨシオの姿はなかった。デスカーンもいなかった。憎たらしい人だし生意気な口も利いてしまったが、お見送りくらいはしてくれてもよさそうなものだ。ヨシオの手持ちだったドラパルトだけが、あの百点満点の笑顔で、いつまでも手を振ってくれた。
 前を向き直ると、トウヤも振り向いていた。ただし岬ではなく、ミソラの感傷を見下ろしていたのだった。
「あいつはもう出てこないよ」
 彼はそう言って、ちょっと意地悪に口角を上げた。ヨシオに似た顔だった。
「……なぜ?」
「言ったろ。オバケなんかいないんだ」
 からかって、また堤防の上を歩きはじめる。ミソラは首を捻って隣を見上げた。懲りずにミヅキの姿でいるメグミが、ふふふ、といたずらっ子のように笑った。
 世界は少しずつ朝に近づきつつあった。途中、薄暗い海上にダダリンを見た。ミソラを見送ってくれているらしかった。あれ、神様なんですよ、と教えてやると、ただのダダリンじゃないか、とあっさり否定された。「えーでも」「海なんだから、ダダリンくらいいるだろ」そう言われると、錨をグラグラと振り子にして合図を送るゴーストポケモンは、神様とは程遠い俗っぽさを持っている。
「キャプチャして友達になったんです」
「あのデカいのをか? 凄いな、お前」
「でも、友達になれるんだから、神様なわけないですよね」
 隣に追いついたミソラを、トウヤはちらりと見下ろした。
「ポケモンはどれもただのポケモン、人間はただの人間だ」
 特別な力を持って追われているメグミへ、目配せして、重い旅荷を背負い直しながら彼は笑む。
「神やオバケ相手では無理でも、ただのポケモンや人間なら、倒す方法はある」
 何か含みを持たせた、印象的な笑みだった。


 空が白みはじめてくると、切り刻むようだった風の冷たさも、幾分和らいで感じられる。
 それがミソラを追いかけてきたのは、くっきりと輪郭を得たレイ山の稜線から、朝日のてっぺんが覗くか覗かないかというときだった。
 鳴き声を初めて聞いたかもしれない。涼やかで、伸びやかな、ソプラノの愛らしい声だった。朝靄の向こうからやってきたドラメシヤは、すっかり定位置になったミソラの首筋へするりと巻きついた。遊びに行くんじゃないんだよ、と咎める前に、平たい口へ咥えていたものを、す、と差し出してきた。
 この真冬に、どこで見つけたのだろう。白く細長い花弁のついた、小さな小さな花だった。
 友人が、砂漠の町で苦労して野花を見つけては、アズサの家へ足繁く届けていた。餞別を受け取って、ミソラはちょっとさみしく頬を緩める。
「また遊ぼうね」
 くりくりとした目が、ニコリと笑った。ドラメシヤはまた一鳴き、綺麗な声を聞かせると、ミソラの元を離れていった。空をすいすいと泳ぎ回り、そのまま西へと舵を切った。まだ藍色の深い西の海岸線へ向かって、元気よく飛び去っていった。
 小さな霊竜の影は、どこまでもどこまでも遠ざかって、やがて白波に紛れて見えなくなった。
 手のひらに乗っけた贈り物を、人差し指と親指でつまむ。すぐぐちゃぐちゃにしてしまいそうだが、萎れるまで連れていこう。視界の真ん中に、花をくるくると回してみる。
「……あの」
 その花を見つめていると、不思議と、錨が離れたような感覚がした。
「……私、ワタツミに来てから、ずっと考えてたんですけど……」
 トウヤが目をくれる。もう、トウヤは、あの怖い顔はしていなかった。やや不恰好な短髪を潮風に揺らしながら、静かな、揺るぎのない茶褐色で、ミソラの空色を見下ろした。
 どうしても喉につっかえていた疑問が、その顔を見て、つるりと出ていった。
「……タケヒロって、本当に死んだと思います?」
 トウヤはほんの少し目を丸めた。
 どきどきしながら、あくまで世間話みたいに、ミソラは続きを打ち明けた。
「だって……私、あのとき、タケヒロの胸の真ん中に、大きな穴が空いて、穴の向こうの景色まで綺麗に見えてたような気がするんですけど……そんなことって、あり得ますか? 人間の体に綺麗に穴が開くって。アサギがどんな技を使ったらそんなふうに穴が空くのか、いまいちピンとこないですし……」
 どぱん、どぱん、と波の音が、足の下から聞こえてくる。
 ……トウヤは、ミソラに答えはくれなかった。ただ彼は少しだけ笑ってみせた。伸ばした左手、赤黒い痣の左手が、ぐしゃぐしゃとミソラの頭を撫でた。
「行こうか」
 ミソラは黙って頷く、彼は黙って背を向ける。
 何も言わずに、二人はまた歩き出す。
 静かで、穏やかで、風の冷たい、透きとおった朝だった。青みがかった薄明の先に、厚い雪雲を被った山脈が、少しずつ色を帯びはじめていた。



 ――約束の日まで、あと四日。


■筆者メッセージ
ここまでお読みいただきありがとうございます。
15章・心の雫はこのお話で完結です。大変お疲れ様でした!だいたい15万7千字くらいありました。多分最長の章になったと思います。オバケまみれの港町という舞台で、とらえどころのない寂しさを書きたいと思っていた章でした。なかなか難しい話になったような気もしていますが、少しでも楽しんでいただけるところがあれば幸いです。
長かった月蝕も、遂に残すところあと2章……あと2、3章!(曖昧)これはひみつなんですが、次章、16章は、初期構成では最終章に該当していたお話ですので、私は最終章だと思って書きます。ちょっと時間がかかると思いますが、今年中には開始したいと思いますので(長!)、よかったらまた見届けにきてやってください。よろしくお願いします!
とらと ( 2021/08/01(日) 19:31 )