15−12
岬の霊園の小屋の地下には、手掘りの狭い洞窟があって、そこはヨシオの趣味収集品でちょっとしたダンジョンになっている。
あまり探検しなかったな、と、キャプチャ・スタイラーのライトで照らしあげてミソラは思った。左右に据えられた歪な棚の木箱には、大量の技マシンが収まっている。それ以外にも、固くて食べられそうにないきのみが箱詰めされた段ボールや、ウソッキーにそっくりな土偶、古代語が刻まれた石の板。魚の鱗らしいハート型は、光の加減でピンク色にきらきらとする。ワタツミに来たばかりの頃、大きな石に宝石が埋まっているのが綺麗で見つめていたら、それはメレシーの死骸だと教えられて腰を抜かした。以来、この洞窟もお墓の一部みたいなものだと思ってあまり長居しないようにしていたが、探せば掘り出し物がありそうだ。
急勾配のでこぼこ道をへっぴり腰で下っていると、よく見知ったカラーリングがつやりと光って、目が留まった。
「……モンスターボールだ」
手に取る。赤と白のごく一般的なボール。不思議なのは、上蓋の曲面に顔が映り込むほど綺麗に手入れされていることだった。埃を被ってほったらかしにされているその他多くの品からは、やや異彩を放っている。
首元に襟巻きみたいに巻き付いていたドラメシヤが、するりと離れて、ミソラの手の中のボールへ平べったい額をぶつけた。
「あっ」
開閉スイッチが押し込まれ、かぱり、とボールが開く。
驚いて手放してしまったボールが開いたまま墜落する。コツン。落ちて、少し転がって、洞窟の凹凸に引っかかって止まる。……開いただけだった。捕獲網は出ず、ドラメシヤが吸い込まれることもなかった。ほっと胸を撫で下ろす。開いたのに捕獲網が出ないということは、使用済みのボールなのだろう。
ドラちゃん、ボールに興味があるのだろうか。……タケヒロのピエロ芸が専らモンスターボールを使った曲芸だったのを思い出して、少しどきりとする。どことなく面影のあるドラメシヤは、落っこちたボールのまわりをくるくると回った。それから、うーんと首を傾けて、ミソラのもとに戻ってきた。
ボールで遊びたいのではないらしい。首へ元通り巻き付きながら、お伺いを立てるようにミソラを覗き込む顔は、どちらかといえば、
(……捕まえて、欲しかった……とか?)
「墓泥棒ちゃん、はっけーん」
気配も前触れもなく耳元に吹きかけられる声。
「ふぎゃ!」
驚いて足を滑らせて尻餅をついた。
「あうっ!」
ぬるぬると伸びていった黒い手が、件のモンスターボールを拾い上げ、丁寧に蓋を閉じて、丁寧に元の位置へ戻した。それからボールをちょいちょい指さし、二本目の手を持ってきてバッテンマーク。触っちゃいけなかったらしい。デスカーンは困り顔だ。それに腰掛けているヨシオの方は、強打した尻を押さえているミソラの涙目をへらへら笑っているけれど。
「急に近づかないでください……っ!」
「そんなに驚かんって普通、面白いわあ、あはは」
「なんですか墓泥棒って、私したことないですよ泥棒なんか……」言いながら、鞄の中のアズサのスタイラーのことを思って、ミソラはちょっとずつ語気を弱めた。
「自覚もないのはマズいな。結構高いんだよ? 技マシンって」
ああ、そっちか。確かに、海の神様へキャプチャを挑みにいくにあたって、いくつか技マシンを拝借した。でもまさか使い捨てだとは知らなかったし、そもそもあんな非常事態に姿をくらませていたヨシオも悪いし……。
「……出世払いでお願いします……」
「言うて、俺のじゃないしなあ」
素知らぬ顔で足を組む幽霊から衝撃の発言が飛び出してきた。それは流石にマズい。
「冗談ですよね?」
「そもそも地縛霊に技マシン集められるわけなくない?」
「前ニドクインになったらこんなに技が覚えられるよって教えてくれたじゃないですか!」
「だからって勝手に使っていいって言ったっけー俺」
「じゃあ誰のなんですか、一体」
「心の広い人だといいねえ」
トウヤに似た、トウヤよりまだ血の気のない顔でニヤニヤ笑っている。からかっているだけだと思いたい。海外の食品らしい古びたパッケージをしげしげと眺めていたメグミが、ミヅキの姿で『ふふふ』と笑った。
「てか、ゲットするつもりなら、新品のボール買ってくればよかったのに」
顎で示される。にゅ、と体を伸ばしたドラメシヤと、ミソラは再度目を合わせる。
両手でつかまえて、抱き上げてみる。ほとんど重みを感じない、霊体の竜。にっこりとこちらへ笑いかけてくる顔に、やはり、不思議な親しみを感じる。
友人の顔をじっと見つめて、ミソラは少し口の端を緩めた。
「……リナは、進化して強くなりました。おかげさまで技もたくさん覚えましたし、これからもどんどん強くなってくれると思います。でも、私自身は、まだトレーナーとして未熟です」
心からの言葉だった。様々なポケモンやトレーナーと出会ったり、戦ったり、色とりどりの経験を積み重ねていくたびに、己の未熟さを思い知る。
「だから、手持ちを増やすのは、まだ早いのかな」
ドラちゃんが仲間になりたがってくれているとしたら、少し申し訳ないけれど。卑屈ではなく、前向きな意味で、先に自分自身を一人前のトレーナーにしたい。
ミソラの表情が明るいのを見て、ヨシオは呟いた。
「ミソラはトレーナーの素質あるよ。ポケモンが皆よく懐く」
「……え?」
内容に聞き覚えがある。それに今まで『ミソラちゃん』と呼ばれていた気がするのだけれど。
「キャプチャするのがうまいのも、ポケモンの方が、お前と友達になりたがってるからなのかもな」
まるで、別の誰かと話してるような。
……『別の誰か』が誰なのか、すぐに思い当たって、ミソラは目を瞬かせた。スタイラーのライトが照らし出す光陰のくっきりした洞窟の中で、薄ぼんやりとしたヨシオの顔が、少しだけ笑った。誰かみたいな静かな表情だった。心の中を見透かされたような気がして、どぎまぎして、それから、こう思った。――この街にきてから考えた、たくさんのこと。あの人には、気後れして聞けなかったけれど。全然違うのに少し似ている、この人になら。
「……ヨシくんさん、『心の雫』って知ってますか」
オリベが語った、遠い昔のお伽噺。死者の魂が宝玉に変わって、生き残った者へ力を貸した。
――彼への想いこそが、宝玉を持つ者に力を与えるのです。
ミソラはそれを否定した。死んでまで貸してくれる力なんかいらないと言った。そんなことをするくらいなら、死んで欲しくなんてなかった……けれど。
――死者を想う気持ちがあるならば、『死』とは決して、終わりではないのです。
もし、向き合うことが、本当に、友人のためなのだとしたら。
「人は、死んだらどうなりますか。ゴーストタイプに生まれ変わったりするって本当ですか。死んだ人は、見守ってくれますか。私に力をくれるって思いますか……」
溜め込んでいた悩みが堰を切って流れ出して、流れきったところで、はっとする。
ヨシオはデスカーンに腰掛けたまま、静かな、微笑みを湛えた、とっても意地の悪そうな顔で、楽しげにミソラを見上げていた。
……かああ、と顔に熱がのぼってくる。性悪おちゃらけオバケ相手に何を真面目に問うたのだろう。
「やっぱりいいです!」背を向けて歩きはじめた。この人と話してもろくなことがない。
「いいの? ほんとー?」足音もなくついてくる声があからさまにニヤニヤしている。
「……あの、今訊いたこと、あの人には秘密にしてください」
「どーしよっかなぁー」
この人嫌いだ、と照れ隠しに頬を膨らませながら、坂をずるずる滑り落ちる。下りきった先にちらりと見える砂浜の白が輝いている。
「でも、『心の雫』なら知ってるよ」
「え?」
にゅ、と伸びてきたデスカーンの黒い手が、ミソラの土色の肩掛け鞄の留め具を外して、中を漁る。
「はい、どうぞ」
その手が取り出した、薄緑色の鉱石を、ミソラは両手で受け取った。
『月の石』のような進化石と呼ばれるものは、およそポケモン一体分の進化に作用する特殊な放射性物質を秘めていると言われており、その放射能は進化が完了すると失われる。タケヒロがミソラにくれた餞別は、今はもうただの石ころだけれど、確かにリナを進化させ、トウヤの窮地を救ってくれた。タケヒロのことに、向き合うと向き合わざるとに関わらず、タケヒロはミソラに力をくれた。
「死後の世界なんかさ、真っ暗で、なんにも楽しくなさそうじゃん。だから現世に冷やかしにくるのかも」
ミソラの横をすっと抜かして、デスカーンとヨシオが洞窟の出口へ向かっていく。ミソラは綺麗な石ころを握りしめて、肩に乗っているドラメシヤと目を合わせた。それからヨシオを追いかけた。
雑多の敷き詰められた暗闇の先に、ハヤテとリナの鳴き声が聞こえる。ごうと潮風が吹き込んでくる。ヨシオの言う、真っ暗な死後の世界を少し思った。僕の信じる天国はそんなところにはないと思った。やっと足元が平らになるところまで降りて、ミソラは浜へ走り出る。
薄雲が棚引く夕刻の空が眩しかった。
「……ヨシくんさんは、魂は死んだらどこへ行くと思いますか?」
金色の日射しの中で、ヨシオはニヤリと歯を見せて笑って、それから彼方へ指先を向ける。
瑞々しく光を弾く、紺碧の大海原が、その彼方へ横たわっている。
*
買い物中にリューエル隊員、しかもロッキーの件で顔見知りの男と鉢合わせてしまったことは、ミソラとメグミふたりの秘密にすることにしていた。どうせ翌朝には出発するのだし、あの人もミソラには気付いていないようだったし、今のガラガラ声のトウヤにいらぬ心配をかける必要はないだろう。
「……治った」
オボンの剥き身を一房口に放り込んだトウヤが、ひとつふたつ咳払いをしてから、喉を擦ってそう呟いた。
空色の目玉がこぼれそうになる。確かにいつもの声だった。数秒前までろくに会話もできなかったのに。
「……嘘でしょ?」
「凄いな、オボン……」
「オボンが凄いのか、ポケモンの体が凄いのか」
浜辺に鎮座する棺桶の上で、仰向けに寝転んでいるヨシオ。「炎症くらい、ポケモンだったらオボンで一発完治なのにね」と提案したのは彼である。
「どういう意味だよ」
「前向きに考えよう。うまく行けば、トウちゃんは人間とポケモンのハイブリットとして地上最強の肉体を手に入れられるかもしれないぞ」
「嬉しくないな……」
「一昨日のあなた、地上最強どころか、コイキング以下でしたけどね」
トウヤは苦笑いした。あれだけ叫べば溜め込んだものも吹き飛ぶだろう、随分さっぱりした顔をしていた。
岬の小さな浜辺には金色の夕日が満ちている。ワタツミで見る最後の夕焼けだ。こうして沈んだ太陽があといくらも昇らないうちに、ミソラはホウガに住んでいた過去の自分と対面して、そしてミヅキとも再会する。大きな転機になるのだろう。そのあとは……ココウでまた暮らすのだろうか、おばさんの家に帰れるのだろうか。目を移すと、トウヤはリュックサックを漁って、何かを取り出したところだった。
彼はミソラに鋏を手渡し、髪を切ってくれないか、と頼んだ。
どうなっても知らないですよ。言って、肩の下までかかっている黒髪を指で梳いて、一思いに切り落としていく。いつだったか、体の後ろで鋏を持たれるのが怖いから長らく散髪に行っていないと言っていた。無防備に晒されている首筋に刃先を当てないように気をつけながら、その首に果物ナイフを振り下ろした晩のことを、ミソラは何度も思い出した。洞窟から持ってきた汚い鏡を抱えながら右往左往するハリがおかしくて、ミソラは何度も笑ってしまった。
ハリが心配するのも無理はなかった。散髪センスの欠片もない。
「……うーん、なんか変かも……」
「短けりゃ何でもいいよ」
「デスカーンに仕上げてもらいますか?」
いや、と苦笑される。なんだか幸せそうにも見えた。
「お前がいい。お前が切ってくれ」
ゆっくりと、そうしていくのも気付かないくらい、夜は音もなく近づいてきて、慣らされた目は髪のはじく黄昏の淡い輪郭を捉える。ハリと相談しながらミソラはちょっとずつ体裁を整え、トウヤは他愛もない話をする。「そういえばレンジャーから連絡があったぞ、お前が買い物に行ってる間」「えー、いいなあ。ヒビで通話したときも私寝てましたよね。なんであなたばっかり」「間が悪いよな、あいつも」「アズサさんもしかしてあなたのこと好きなんじゃないですか?」「……それあの子の前で絶対言うなよ」「えーっ、なにトウちゃんデキてるの? 俺と言うものがありながらーっ!」「盗み聞きしてたろが、お前」
進化直後ということもあり、一日トウヤに任せていたリナの様子。石のパワーがもたらす進化は何かと不調が起きやすいが、気遣うのが馬鹿らしいくらい順応していて感心した、と手放しに褒められて、自分まで嬉しい。
「特に、技の出来映えは流石だ。どのタイプの技も技マシンで習得したとは思えないほど器用に使いこなしてる。どこかの誰かさんとは大違いだ」
同じくらいの体高になったニドクインと浜辺デートをしていたガバイトが、振り向いて、ギュウウと情けない呻り声をあげた。トウヤの隣に座っているメグミが、くすくすと笑う。
「でもハヤテも強くなりましたよね」
「ああ。誰かに手本を見せてもらったんじゃないかってくらい、急にコツを掴んだな」
違いますよ、と返すと、トウヤは目線だけこちらへ上げる。
「あなたがおかしくなったとき、一人で『流星群』の練習してました。ハリはあなたを元に戻そうとして必死でしたけど、ハヤテはあなたがちゃんと元に戻るって、ハリたちがなんとかしてくれるって、信じてたんだと思います」
自分の役割がなんなのか、理解しているから、今自分がやるべきことへ割り切って取り組むことができた。ミソラがハヤテと出会った頃は、バトルするたびに怒られていた、あれから考えると随分と見違えた。
ミソラが指摘しなくたって、そんなこと、主人はとうに分かってるだろうけれど。トウヤは照れくさそうに微笑んで、海岸線へと視線を戻した。
肩についた髪屑を払って、四方から確認する。どうでしょう、とハリの鏡を見せてみたが、トウヤはそれに目もくれずに立ち上がった。左手でがしがしと髪を掻いて、ミソラを見下ろして、頷く。うん、やっぱり短いほうが似合ってる。
「お前も強くなったよ。ミソラ」
言うだけ言い捨てて、ハヤテの方へ歩いていく。ミソラはぽかんとしてその背を見て、ちらりと横へ目を向けた。ハリがこくんと頷いて、その後ろで、メグミも楽しげに首肯してくれた。
ズボンのポケットに捻じ込んでいた、『月の石』だった石ころに、そっと触れる。
「……もっと強くなりたいです。もっと強くなるために、私、どうしたらいいですか?」
太陽はすっかり水平線の向こうに沈み、東から順に覆い被さる闇の手前で、夕雲が赤く燃えている。
トウヤは肩越しに振り向いて、少し表情を崩した。影の差す茶褐色の瞳の中に星屑のような光があった。
「何のために強くなる。僕を殺すためにか」
おどけて躱す口調の彼に、
「大切なひとたちを守るために」
ミソラは、まっすぐに、衒いのない言葉で答える。
ざざ、ん、と波が音を立てて、引いていく。浜風の冷たさが、無闇に燃え上がろうとする心を研磨してくれる。星屑を、目蓋の裏に、トウヤは少しだけ隠した。それから、ちゃんとこちらへ体を向けて、繰り返した。
「お前は強いよ。本当にそう思ってる。頼りにしてる」
波のように、とりどりの感情が押し寄せて、きゅ、と手のひらを握りしめた。
「……ありがとう、ございます」
一拍の沈黙。こみあげてくる言葉を、飲み下そうか悩んで、決心した。ミソラは顔をあげて、遠い目を見て、息を吸って、
「あ、じゃあ俺が強くなるためのアドバイスしてあげよっか? トウちゃんが教えられることは最早なんにもないようだし」
横やりを投げつけられて、吐き出した。危ない、またオバケの前で真面目な話をするところだった。
「そうは言ってないだろ」
「ヨシくんさんって強いんですか?」
くるりと背を向けてトウヤが逃げた。目を据わらせて取り合ってしまったミソラに対して、ヨシオは人差し指を立て、こんな話をしはじめた。
「身体能力を引き出す上で、もっとも強力な感情って何だと思う」
「……感情?」
トウヤの後頭部を見て首を傾げていたハリが向き直り、メグミが目を瞬かせる。感情の死んだ顔をした棺桶ベンチに座ったまま、ヨシオは胡座をかいている。
「何をするに於いても、体の調子ってメンタルの状態に左右されるだろ?」片手をメガホンにして、遠ざかっていく従兄弟へとややボリュームを上げる。「例えば、お前の憎き姉上と筋肉ダルマのバクフーンを、グーで殴りに行くときに、お前の無い腕っ節に一番力を込められる感情とは何か」
つまり、何を考えているときに、一番パワーが出せるかってこと?
直近で、真冬の海に飛び込んでダダリンを振り回していたときのことを、ミソラは考えた。勝手に死んでしまいそうだったトウヤのことを考えていた、急にいなくなってしまったタケヒロのことを考えていた。彼らの『死』を肯定して、正当化しようとしたオリベのことを、考えていた。
「……絆?」
「愛」
リナとハヤテを指さして、トウヤが真面目くさった声で言う。本気なのかふざけているのか。「その顔で言う? 笑わせるわあ」とヨシオは幽霊の足をじたばたさせた。「ていうか二人とも、それ、感情って言わなくない?」
『怒り』だよ、とヨシオは企みめいた顔で語った。
「怒りってのは、極めて原始的な感情だ。敵に傷つけられたら怒りを感じる、餌や棲処を奪われたら怒りを感じる。敵と戦うため、あるいは逃げるために、怒りの感情によってあらゆる身体機能が攻撃的に励起されるようにできてる。ヒトもポケモンも皆そうだ、どんな綺麗事言ったって、火事場の馬鹿力が出せるのは、そりゃ、怒ってるときだ。強くなりたきゃ、ミソラ、お前は怒りゃいい」
――勝手に死んでしまいそうだったトウヤに、自分は怒っていた。
押しつけがましい持論で言いくるめようとしてきたオリベに、ミソラは怒っていた。急にいなくなってしまったタケヒロに、タケヒロが急にいなくなったときどうすることもできなかった自分に、弱くてこんなにもちっぽけな自分に、怒っていた。
一昼夜叫び声をあげていたとき、トウヤが怒っているように見えた。彼もまた、何かに怒っていたのかもしれない。ミソラはちらりと視線をやる。帳を下ろしていく夜闇の中で、とても清冽に見える、今のトウヤの表情を。
僕らを取り巻いていた鬱屈した闇を、霊たちとの戦いで、僕らが振り払えたのなら、その拳には、確かに怒りが宿っていた。
「でも、使い方を誤るなよ。怒りに任せてぶん殴りゃいいってもんじゃあない。『逆鱗』のままに攻撃してりゃ、混乱して自滅するだろ?」
幽霊が、生けるものたちへ釈然と笑む。
「怒りを込めて振りあげた拳の、振り下ろし方が大事だぜ」
エールを、どう受け取ったのか。トウヤは軽く目を細めて、それから、ばしん、とハヤテの背を叩いた。
「一戦するか、ミソラ。お前たちが強くなったか確かめよう」
「……いいんですか? 明日出発なのに」
「じゃあ、技一発ずつってのはどうだ。正真正銘の力勝負といこう」
狭い浜辺で距離を取るため、靴を脱ぎ捨てて放ったトウヤが、ばしゃばしゃと波の中を歩きはじめる。
いつもの彼なら、今までのトウヤなら、絶対こんなことはしないだろうに。……のしのしとやってきたやる気満々のリナを前に、ミソラはヨシオへ視線を移す。ヨシオは楽しげに、ミソラへぐっと拳を見せて、それからデスカーンごとすいっと岩壁へ移動していく。
遠浅の、ほとんど夜になった黒と白の波の中で、トウヤとハヤテがこちらを向いた。
どんな顔をしているだろう。きらきらと目が光っている。少し笑っている、僕が切ってあげた不格好な髪が、せわしなく潮風に揺れている。ココウスタジアムの、あの大雨の中、ニドリーナだったリナを叩きのめした日、彼はどんな顔をしていたのだったか。あの頃、とんでもなくちぐはぐだった僕らの心は、今きっと同じ場所を目指している。ミソラがぐっと歯を食いしばり、口角をあげて笑っているのと、彼は同じ顔をしている。
リナの背に手を当て、ミソラは叫んだ。
「……兄さん!」
宣誓が、暗闇をまっすぐ突き進む。
「もう、何も心配いりませんよ。またあなたがおかしくなったら、私たちがキャプチャして、正気に戻してあげますから」
ややあって、波と一緒に戻ってくる声。
「……人間をキャプチャするのはやめろって、レンジャーが」
「やりますよ」
声を遮って、
「何回でも、そうします」
砕ける波の音が、いくつも、轟く。
「……気が狂うぞ」
「なら、一緒に狂いましょうよ」
ミソラは両手を広げて叫ぶ。
「地獄の底までお供しますから、手を繋いで踊りましょう!」
ハッと笑う声が聞こえた。
闇の中で、見慣れぬ好戦的な目が、それでもミソラをがっちりと捉えた。
「ミソラ、リナ! 行くぞ!」
そう、願わくば、どこまでも。
「……はいっ!」
「『流星群』!」
一声、指示と共に、ハヤテの両脚が、真っ黒な海を蹴り上げた。
ぐんぐんと天へ突き進む濃い蒼空の竜の体が、赤い輝きを帯びはじめる。向かう上空へ数え切れぬほど現れた、岩石に似たエネルギーの凝固体が、一斉に爆発的な炎に包まれる。「見ていないと技を操れないから視線を切ることができない、技の起動から終了まで本体が無防備になってしまう」致命的な欠点を、空へ飛び上がって、隕石と一緒に攻撃対象へダイブすることで、なんとか短期間に克服してみせた。これはもう、『流星群』より『ドラゴンダイブ』が近いのではないか。
広い暗いはじまりの夜空から、いくつもいくつもの輝かしい流星が、一陣の竜になって、地上のミソラたちへと迫る。
タイミングを計りながら、ミソラはそれを見上げた。燃えあがる無数の美しい光だった。ぴかぴか、きらきら、めらめらと。今、ミソラの青い目の中にも、こんなにたくさんの星屑が、映って輝いているに違いない。
腕を伸ばす。びし、と指さす。脚を踏ん張って身構えたリナの、呼吸にあわせて、ミソラは命じる。
「――『破壊光線』!」
光と光が激突する。
ものすごい飛沫と衝撃波が、彼らの憂鬱を吹き飛ばしていく。
*
ヴェルを死なせてしまったことを、その夜、トウヤは初めて言葉にした。
「あの畜生がねぇ……」
聞き手の幽霊の、らしからぬ感傷に満ちた呟き。岬の縁に腰掛けて、岩礁に打ち寄せる海を見ていた。獰猛に白波を砕く海に、トウヤは一度飲み込まれかけて、引っ張り上げられた。ヴェルがこの海に無慈悲に叩き落とされたとき、手も伸ばしてやれなかったのに。
「……うーん、そう簡単にくたばるとは思えんな」
ヨシオは目を据わらせて吐き捨てた。言い草に笑いが漏れる、笑ってしまえるということは、自分はあの出来事をほんの少しでも過去にしたのだろう。薄情には違いないけれど、囚われなくても、振り返ることならいつでもできる。
ミソラは小屋の中でもう眠りについている。夕暮れに覚えた興奮を、真冬の夜風で鎮火させなければ、トウヤは寝付けそうになかった。可哀想に寒さに震えながら寄り添っているメグミは、赤と白の竜の姿で、くわあと欠伸を垂らしている。トウヤは小さな頭を撫でながら、棺桶の冷たさへ背を預ける。
十三年前にハギの元から家出したとき、ヨシオがなぜヴェルを置いて出ていったのか、理由までは知らなかった。愛獣を危険に晒したくないという親心があったのか、彼が母親に感じていたのと同様の鬱陶しさを覚えていたのか。
「死んだとしたら、肩に憑いてそうだけどね。ババア譲りの心配性だから、アレ」
まあ憑いてたとしてもトウちゃんには見えんか、と彼はケロリとして笑う。怒れ怒れという癖に、彼はちっとも怒らなかった。ほったらかしにしたとは言え、可愛がっていたポケモンをみすみす見殺しにして逃げてきた従兄弟を、恨んだってよさそうなものなのに。
「憑いてないといいけどな」
言い訳のようだな。でもこの男に対してなら、トウヤは続きを言うことができる。
「ヴェルは確かに心配性だったから、たくさん迷惑をかけたし、死んでからくらいのんびりさせてやらないと。父さんも、母さんもそうだ。草葉の陰からなんて言うけど、見守ってくれていない方がいい」
無垢な竜の、明るい月の色をした大きな目が、トウヤを見上げる。
その目を見下ろしながら、トウヤは続ける。
「幽霊って、見たい人の願望なんだろ」
トウヤは、オバケが怖い。恨まれているに違いないものにわざわざ会いたいとは思わない。いてほしいと思わないから、だから、僕には幽霊が見えない……多分。
「ヴェルや、父さんや母さんが、僕の前に化けて出たとしよう。それが僕に何か言うとして、それは全部、僕の願望が、言って欲しいことをまぼろしに好き勝手言わせるだけだ。恨み辛みを言い募って、僕の自虐心を満たさせるか、もしかしたら、耳障りのいい慰めばかり聞かせるか。馬鹿馬鹿しいだろ。そんなもの、僕は聞きたかない」
メグミが微笑んで、目配せする。
視線の先で、あたかも無邪気な子供のように、ヨシオは顔を覗き込む。
「俺はどっちさ?」
その顔を、どこかで出会ったようなその顔を、じっと見つめて、――ふと、思い立って。
野暮ったいゴースグラスのつるを、両手で摘まんで、トウヤは外した。
裸眼で捉えるワタツミの岬で、どこかで見たようなその男が、楽しげに唇を動かしはじめる。
「お前が必要とするときに、俺はいつでも現れる」
苦笑する、トウヤの唇が、同じ形に小さく動く。
「『三人で海へ漕ぎ出そうなんて、俺は思っちゃいなかった。お前がいるから帰れなくなっただなんて、ちっとも思っちゃいなかった。お前があの家にやってきたから、ババアが探しに来なくなって助かった、ワタツミで俺は幸せだった。死ぬまでずっと幸せだったし、死んでからだって毎日楽しい』」
死ぬのが怖いって? バカな奴! 俺を見て、まだオバケ怖いって思うのかい?
お前は、生きるしかないんだ。まっとうに生きていくしかないんだ。お前がまっとうに生きさえすりゃ、頃合いを見て、迎えに来てやる。そのときは、ここで楽しく暮らそうじゃないか。
――温いものが、頬に触れて、トウヤは顔を上げた。
メグミがすりすりと顔を擦り寄せた。それから、大きくて潤んだ金色の目に、じっとトウヤの双眸を映した。
美しい夜の包み込む、ワタツミの霊園の岬の縁に、ヨシオはいなくなっていた。
……トウヤは振り向いて、視線を下ろす。ひとり残されたデスカーン。ボールを持っておいで、とトウヤはそいつに言った。デスカーンは捨て犬のような目でトウヤを見上げた。トウヤは少し悩んでから、とんとん、と自分の頭を人差し指で叩いてみせた。
「最後のチャンスだぞ。次に会うときには、多分、逃がし方を忘れてる」
しばらくして、渋々、という様子で、彼は洞窟から紅白のモンスターボールを持ってきた。
ヨシオが自ら買ったボールで捕獲したのがドラメシヤ一匹だったことは、ボールの所有者情報から既に調べがついていた。ハギ家に毎年送られてくる鮮魚の正体の捜索にあたり、最初に疑ったのがヨシオの生存だったので、そのあたりはすぐに手をつけた。
――辿り着いてみて、不思議だった。ヨシオに捕まえられたでもない、ヨシオを殺したポケモンが、ヨシオの死んだ場所で、どうしてしょぼくれているのだろう。
数日前、デスカーンがボールを綺麗に分解して組み立てているのを見たとき、トウヤはようよう得心が行った。捕獲したポケモンに立ちどころに言うことを聞かせるモンスターボールの洗脳制御機構は、非力な人間の掛けられる強力な呪いのようなものだ。ヨシオは、おそらく、その手でデスカーンに呪いをかけることはしなかった。デスカーンが自らしたのだ。流れ着いた廃品の中から中古のボールを見つけ出して、それを修理して、ボールマーカーもどこかで手に入れて。彼は自分自身で、ボールの中に収まった。
「まさか、ヨシオも、お前が勝手に捕まえられていたとは夢にも思わなかっただろうな」
ボールの制御機構がなくたって、ゴーストとは思えないほど、最初っから人好きのポケモン。ヨシオと一緒に船に乗りたかったのだろう。デスカーンのことをただの寝室にしかしないヨシオに、ちゃんと仲間にして欲しかったのだろう。悲しい事故は、ほんのいたずらのつもりだったかもしれない。あるいは、置いていかれる寂しさが、怒りに変わって、衝動を堪えられなかったのかもしれない。
デスカーンの棺の中でぐうぐう眠るバカの方が圧倒的に悪いのは自明なのに、軽はずみで殺めてしまった自分の行いを、デスカーンは責め続けた。
一度小屋の中に戻り、ボール分解用のキットを取り出す。小屋の中にヨシオの手持ちだったドラパルトがいて、こちらを見ていた。笑っていた。黙って笑い返して、デスカーンの待つ岬に戻った。
「今から、魔法のように楽になるぞ」
本当かは知らない。だが、そうでなければ救いがない。デスカーンに片手で支えさせて、左手でボールの分解をはじめる。
『逃がす』ためのボールの処理は、知ってさえいれば簡単だ。だが誤作動で逃がしてしまわないように、手数がやたらと多く、知識がなければ難しい。いくらボールの部品を細かく取り外せたって、一度掛かった呪いは、簡単には外せない。
けれど、もし洗脳が働いていなかったとしても、彼はここで呪われ続けていたかもしれないな、とも思う。軽はずみな行動でモモを殺して、大好きな家族をめちゃくちゃにしてしまったトウヤには、彼の苦しみが少しは分かる。
「……あいつ、もしかしたら、お前に殺して欲しくって中で眠ってたのかもな」
じっと手元を見つめるデスカーンに、こんな慰めが、通じるかどうか。けれど彼の旅立ちに、未練を断つための、ほんのささやかなはなむけを、送ってやることができればいい。
「そうでもしなきゃ、海の向こうまで飛んでいけないって、あいつ、きっと分かってたんだ」
ボール下部の内側にある回路をドライバーの先でいくつか弄ると、かしゅ、と小さな音が鳴って、デスカーンの体が一瞬赤く明滅した。
処理の終わった旧家を、旧主に示してから、トウヤはそれを海へ放る。
ちっぽけな赤と白は、真っ黒い大波に呑まれて、すぐに見えなくなった。
「これでよし。じゃあなデスカーン……、」
声を掛ける、間もなかった。既にデスカーンはそこにいなかった。ボールの制御機構というのは実に罪作りな代物だ。逃がしてしまえば、即座に洗脳を解かれる。奪われた野性を取り戻したポケモンは、ヒトという愚かな生き物の元を離れ、あっという間に小さくなっていく。
笑いが出た。はなむけなど、送るまでもなかった。
「次は、長生きな主人を見つけろよ!」
何者にも縛られることのない自由な夜へ。
弾んで、回って、有頂天。壊れた墓場の花畑で、浮かれきった棺桶が、喜びの舞を踊っている。ああ、悪くはない眺めだった。明朝へ向かっていく夜のふちで、トウヤとメグミは、すっかり見えなくなってしまうまで、彼の門出を見送った。