月蝕


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月蝕
15−11

 約束の日まで、あと五日。

 ……と言うのも、『あと六日』の二十四時間は、寝ている間に露と消えてしまったのである。ミソラは生まれて初めての徹夜に結構ダメージを受けていたし、トウヤも一日中叫んで暴れて深刻な自傷ダメージを負っていた。『あと六日』の朝になって、やっとトウヤが正気に戻って、そこから二人とも死んだように眠った。起きたらその日の夕方が来ていた。暇だ暇だとわめくヨシオに飯を作らせ、たらふく食って、また寝た。そのまま『あと五日』の朝に至った。
 『あと六日』の間に、何が起こっていたのかなんて――ワタツミ市街地のはずれで若者たちが誰かのために戦ったり、岬にほど近い海でドラゴンが雷に打たれたり、旅館の窓からエテボースが押し入ったり、霊園入り口の人だかりの真ん中にリューエル第一部隊長が墜落したりしたことなんて、トウヤには知る由もない。どころか、ゴースがこの小屋に大挙して押し寄せてきたことすら、彼は知らないままである。
 高級霊園が、二晩のうちに焦土と化していた。
 どうしてそうなる。開いた口が塞がらないとはこのことだ。丸二日をワープしたトウヤにここで何が起こったのか、誰も教えてやらなかった。正確に答えられる者が誰もいなかったとも言い替えられる。
 あの夜、何が起こったか。――手を引かれて、海の底へ歩いていって。真っ暗な場所で、トウヤはミヅキを殺すため挑んだ。怒りに支配された、醜い竜と化した体は、何度もアサギの炎に焼き尽くされ、それでも何度でも立ち向かった。
 夢の中でしたこと、そこで見たもの、聞いたこと。考えたこと。よく覚えているし、忘れたくないとも思う。けれど、現実世界に対して正気でなかったのには変わりない。何があったやら。リナが進化しているし、ハリもハヤテもドラパルトすら傷だらけ。デスカーンは白々しいが、よく見たら疲弊の色がある。トウヤにはトウヤの戦いがあったのは事実だが、戦って勝利を収めた皆に一人取り残されたような、複雑な気分だ。
 結局、今回の事件を経てトウヤが得た知見と言えば、――自分が正気でいられる時間は、思ったよりも短いかもしれない、そのくらいのものだった。
「……おっ、だいぶ書けるようになったじゃん。ヌメラの這った跡から象形文字くらいには進化したんじゃね?」
 痣の赤黒い左手で、紙に鉛筆を走らせ続ける。
 ポケモンに冒されていく病状について、「観察記録」をつけようかとは、ハルオミに冗談めかして言ったことだった。けれど、いつまでも冗談にして目を逸らしてもいられまい。一昨日の状況に、直接的な原因と呼べるものも見当たらないのだ。いつまたああなってもおかしくないし、それが今でないとも言い切れない。
 今日のことを振り返ることができない明日が来る――それも、そう遠くはないうちに。でも、今ならまだ、砂の山のように崩れていく自己を、紙に模っておくことができる。
「ねーなに書いてんのー? 武勇伝? 武勇伝? きちゃなすぎて可哀想だから、俺が代わりに書こっかー? ……あ、できないこと言うなって思ったでしょ。デスカーンなら出来るかも。なあお前、人間の文字書けんの?」
 日時、症状。考え方や嗜好の変化。見たもの、起こったこと、それに対する肉体的、精神的な反応について。クチートに右腕を噛み千切られ、メグミに治させた日までの記憶を、順に掘り起こして遡っていく。今できること、できないこと。できなくなっていくと考えられること。科学者だった父の血の所以か、記録しておくべきことはたくさん思い浮かんだ。左手でそれを書き尽くすのは骨が折れるが、骨を折ってでも書いておかねば。文書に残しておけば、こんな人生でも、いずれ役立つかもしれない。
「……え、まじで書けんの? ウケんだけど。どれどれ……」
 日射しがほのかに温かく、穏やかな静けさに満ちた朝だ。
 窓の向こうに見える霊園。粉砕された墓石は手つかずのまま。そのうち誰かが片付けるのだろうか。今は人影どころか、幽霊の影も見当たらない。ナゾノクサが何匹か、ぴょこぴょこと植わる場所を探している。
「ねートウちゃん聞いてー、デスカーンがタスケテって書いてるー。俺たちこれから筆談でもっと仲良くなれるかも。アハハ」
 爆弾でも降り注いだような墓地の惨状――この男がやったんじゃないのか? 違うのか? 正直、そうとしか考えられないのだが――を見て、ふと思い立った。そうだ、自分が自分でなくなったあとのことを、誰かに頼んでおかないと。
 紙を捲る。少し考える。
 まず……手持ちのポケモンたち。
 ハヤテはリナと一緒にいたいだろうから、ミソラへ。ハリは、トウヤが最も信頼を置いているポケモントレーナーのもとへ。ハリはあいつが嫌いだから嫌がるかもしれないが、まあ、嫌なら好きにするだろう。あいつのヘルガーとはそれなりに仲が良さそうだったし、案外うまくやるかもしれない。
 メグミは、きっと野生に帰してやったほうがいい。メグミが野生に帰れるところまで面倒を見るのが、今のトウヤの責任だ。
 自分が正気を失ったまま存命していたとしても、ポケモンの所有者情報をすべて譲渡先に移してほしい旨。自分の体が何かしらの研究に活用できるなら、それを厭わなくてもよい旨。それ以外の、僕の持っている少ない財産はすべて、自分を育ててくれた叔母へ。……思いついた順につらつらと並べながら、こういう書面のことを俗になんと呼ぶのか、唐突に思い当たって、筆が止まった。
 ヨシオがデスカーンとじゃれていることをちらりと確認してから、なんとなく書面を隠しつつ、続きをしたためていく。……叔母への積年の感謝の言葉。亡くなったヴェルのこと。それから……ミソラ。
 自分がいなくなったあと、ミソラはどこで何をするのだろう。
 軽快に言葉を吐き出していた頭が、答えを言い淀む。まあ、あいつの人生だからな。すっかりちびてしまった鉛筆で、僕がごちゃごちゃと綴らなくたって、自分で自分の道を歩むだろう。
「ミソラは、トウちゃんのポケモンじゃないからね」
 ヨシオが念を押した。当たり前だろ。分かってるよ。


 昼過ぎになって、どたどたと足音が響いてきて、そいつがしきりにドアを叩いた。
 ノクタスのハリ、ガバイトのハヤテ、ニドクインになったリナ、それからヨシオのドラパルト。浜辺で自主練習中のメンバーが揃い踏みだ。特に慌てた様子ではなく、むしろ皆、どことなく嬉しげな表情に見える。
 トウヤがいるのを確認すると、ギャッギャッと鳴きながらハヤテが走り去って、他のポケモンたちも続いた。来い、と言っているらしい。見せたいものでもあるのだろうか。
 外に出ると、小屋の近くに集まっている四人の視線が、みな空を見上げている。
 トウヤも追って顔を上げた。
 ――悠然と、旋回している。薄曇りの青空に、大きくてしなやかな一対の翼。
 息を呑んだ。
 その見事な鳥影は、あまりに見事すぎるので、ちゃんと記憶に刻まれている。
 大地の方が着陸を歓迎するような見惚れる所作に、似合わぬ風圧が襲い来る。体高一コンマ五メートルの巨鳥が、浜風に冠羽を靡かせつつ、クルルと軽やかに喉を鳴らした。
 ピジョット――ハガネールでの逃走劇の最中に世話になった、レンジャーユニオン本部付きの鳥ポケモン。確か名前はレジェラと言ったか。僕のことを覚えているだろうか。いや、それよりも、どうしてここが分かったのだろう。……『ユキにもらった髪留め』で括った長髪が風に揺れる。思わぬ再会に呆然としたあと、あのときアズサがしていたことを思い出して、トウヤは形ばかりの敬礼を返した。
 レジェラはレンジャーユニオンで『伝書係』と呼ばれる仕事に就き、現地で活動するレンジャーに通信文や補給物資を届ける役割を担っている。流麗に光沢する翼の付け根に、彼は荷物を背負っていた。包みを開けるように促してくる。興味津々なポケモンたちに見守られながら、トウヤはお届け物を開封した。
 赤のカラーリングの、キャプチャ・スタイラーがひとつ、中から出てきた。
 それだけだった。どうすればいいのだろう。困惑して顔を見やると、レジェラは威風堂々の格を保ったまま、その場で毛繕いをはじめてしまった。
 わらわらと寄ったポケモンたちが、なんだなんだと覗き込んでくる。落ち着きも遠慮もない性格のまま図体だけデカくなったリナが、手を伸ばして、勝手にボタンに触れた。あ、と思っているうちに液晶画面が起動した。右下に示されている所有者情報欄には、なるほど、『貞森 梓』の文字。
 画面が切り替わった。『着信中』。発信者が非通知になっているのは気になるが、このタイミングで掛かってくるのだから、そうなのだろう。
 すぐにスピーカーが喋りはじめた。
『ハーイ、痣のお兄さん』
 やはり。
「レ」
 呼びかけようとして、
「ン、ん゛ッ! げっほっ、ごほっごほっ!!」
 トウヤは盛大に咳き込みはじめた。
『え、なに』
「……ッ、ごフッ……けほっ……はあっはあっ……」
「ちょっと、大丈夫? あっはっは!』
 夢の中でアサギと戦っていた間、現実世界のトウヤは一昼夜にわたり渾身の力で無駄な叫び声を上げていた。最も凄惨なダメージを残したのは、何を隠そう喉である。嗄れているどころか、まともに口を利くことすらままならない有様だ。
『待って待って、お兄さんよね? 何? 風邪? 嘘でしょこんな大事なときに』
「っ、だっ、……い、じょっ、えっうぇっ……がほっがほっ……!」
 ヨシオのちょっかいはスルーできても、電話で無言とはいかない。だが喉に空気を通すことさえ慎重にせねばならない状態では、喋ろうとするたびに派手に噎せ返ってしまう。背を丸めて涙を溜めてスタイラーを握りしめて咳き込みまくっている主人の背中を、ハリが大きな手でよしよしと撫でた。ギャッギャッギャ! とハヤテが代わりに返事をし、グワァンビャア! と随分太い声に変わったリナが続ける。ちりんりんりんちりちりーん、と向こうでチリーンのスズが答えた。
『ちょっと、しっかりしてよリーダー。ミソラちゃんは? いないの?』
 来たるべきホウガ遠征に向けて、ミソラはメグミと一緒に買い出しに行ってもらっている。
「ひっ……、ひゅーっ……」
『……外出してるのね?』
 電話越しでも波動が読めたりするのだろうか。
『他に喋れる人はいないの?』
 小屋の中、窓から、ヨシオがニヤニヤしながらこちらを見ていた。背後からデスカーンが彼を恨めしげに睨めつけていて、トウヤも彼を恨めしい気持ちで睨めつけて、綿毛を揺らすような細い息で「いません」と答えたが、ほとんど音にならなかったので通じなかった。
 いや、しかし、そうだ、言わなければならないことがある。ヒビでのことだ。ヒビで起きた、アズサの友人であるタケヒロとハルオミ、彼らの手持ちたちを巻き込んでしまった、あの件の話をしなければ。――トウヤはなんとか発話を試みようとした。だが喉から声を出そうとして息を吸った瞬間には既に息を発射していた。
 なんの色気もない男の咳とハヤテの騒々しい声とリナの騒々しい声と、騒音ばかり聞かされ続けて、せっかくレジェラさんを使ってまで接触を試みてくれたアズサの胸中はいかに。クスクスクスと笑うドラパルトは気持ちよさそうにぷかぷか浮いて、レジェラさんは優雅に鳩胸を張っている。
『……うーん、埒が明かないわね……』この娘にこの手の呆れ声を吐きかけられたのはいつぶりだろう。いっそ清々する。『悪いけど急いでるの。いまワタツミの公衆電話から掛けてる、ラティアス関連のミッションで流石にやんちゃしすぎたからクオンに監視されてて、なんとか撒いてきたけどすぐに見つかっちゃうし……あ、クオンって覚えてる? ルカリオよ、私の父のパートナーの』
 事務連絡に集中すると決めたらしい。トウヤの返事は待たず、『ミソラちゃんが元気にしてるのは知ってるわ』とアズサは口早に続けた。
『元気にキャプチャしまくってるもの。貸してあげた私のスタイラー、あれ訓練生用だけど、キャプチャしたデータって全部ユニオンに飛ぶからね。あのね、お兄さん、人間をキャプチャするの絶対にやめなさいって伝えて。推奨されてないっていうか、人間をキャプチャするように出来てないから。貸した私が怒られてるから』
 それは既に伝えた。正気に戻してくれたのは助かったがお前に何かあったら困るから二度とするなと叱ったら、「人間をキャプチャするのはもう三度目ですので大丈夫です」と威張り返されたのでげんこつを入れた。
『ユキから伝えてあると思うけど、今、ユニオンはあなたを捜索してる。ポケモンに体を再生させたうえ、高速回復装置にまで入った人間を、野放しにしとけないって言い分』
 アズサはその捜索隊には加えられていないが、実質的に同行を余儀なくされているという。
『居場所まではまだ特定できてないみたいだけど、捜索隊に波動使いのクオンが加わった以上、もう時間の問題よ。見つかって連行されたら、研究所に軟禁されるのはメグミちゃんじゃなくあなたになるかも』
 冗談じゃない。笑ってしまってまた咳き込んだ。そろそろ酸欠を起こしそうだ。ゼエゼエ言っている通話相手に、『大丈夫?』と笑い混じりの労りが聞こえる。
『リューエルとレンジャーユニオン、どちらからも逃走し続けるのは正直無理よ。ただ、どちらの組織にもあなたやメグミちゃんを拘束する正当な理由があるようには思えないわ。お兄さんがメグミちゃんを守りたいのは分かってる、だから具体的な方法を練りましょう。……と言っても、今は話し合える状態じゃないか』
 トウヤの咳を聞きながら、アズサはウーンと少しだけ唸った。
『どこかで落ち合いたいけど……ワタツミじゃ危ないか。次の目的地は決まってるの? イエスなら一回、ノーなら二回ノックして』
 人差し指の関節でスタイラーのマイク付近を叩く。こん。
『南?』
 こんこん。
『北』
 こん。
『クロセ山脈か。あ、まさかリューエルの本部に乗り込むつもり?』
 リューエルの本部は山脈の更に北東、百キロ以上先の谷間に位置する。そんな野蛮なことは思いつきもしなかった。こんこん。
『じゃあ他に、北には……』アズサが考え込んでいる。目的地は田舎だし、現在は地図にも載っていないかもしれない地名なので無理もない。こんこんこん、とトウヤは三つスタイラーを叩いた。『……三音? 三音の町? ワタツミより北にある……ルロー……イツカ……ホウガ。そうか、旧ホウガ工場!』
 こん!
『でも、もう閉鎖されてるんでしょ? 何しに行くの? お墓参りとか?』
 こんこん。これを推理させるのは流石に厳しい。
「み……ッ」
 と言いかけてだめだった。蹲って死ぬかというほど咳き込んでいるトウヤを、ヨシオが指さして笑っている。ぎゃっぎゃっぎゃぎゃおぎゃお、ぐわぉうぐわぉう、とハヤテとリナが代わりに説明してくれたが、それを聞いてなのかどうなのか、
『み、って言った? ……ホウガと言えば、お兄さんもそうだけど、ミヅキさんの出身地でもあるわよね。そして、ミソラちゃんはミヅキさんと繋がっていたんだから……そうか、ミソラちゃんのルーツを探しに行くんだ!』
 こん! ――なんて察しの良い娘なのだろう!
『楽しそう!』アズサは声を弾ませた。こんな危なっかしいときに、わざわざド田舎まで宝探しにいくことを、彼女なら絶対に面白がってくれると思っていた。『いいなあ、私も行こうかしら。まずはクオンの目を盗んで逃げるところからね』
 りんりんりん、と賑やかな鈴の音も聞こえてくる。アズサが加わってくれるなら百人力だ。ハリと目を合わせて頷きあった。なんだか希望が見えてきた。
『じゃあ、ホウガで合流しましょうか』クオンや他レンジャーの目をかいくぐった後、レジェラの支援を借りながら追いかけてきてくれると言う。彼女はできると言い切った。サボりにかけては並々ならぬ自信を有しているらしい。『お兄さんたちが明日の朝出発して、明後日の午後にはホウガに到着できるとして……』
 俄然快調になっていたアズサの声が、突然、止まった。
『……待って』
 明らかに声色が変わる。電波越しに緊張感が伝わってくる。公衆電話でかけている、と言っていたな、街角にクオンの姿でも見つけたのだろうか。
 咳どころか身じろぎすらしないように、トウヤは次の言葉を待った。急に喋らなくなった機械に、ギャギャ? とハヤテが首を傾げて鳴いたので、鼻先を叩いて黙らせた。
 アズサはいくらも沈黙した。そのさまは、ありありと目に浮かんでくるようであった。ワタツミの小洒落た街角の、縦長のガラスボックスの中で。受話器を握りしめた彼女が、額に薄らと汗を滲ませながら、何かを見詰めている……目を見開いている……顔色を変え、唇を震わせ、その光景に見入っている……長い長い空白ののち、遂にアズサが、噛み締めるように呟いた言葉は、

『……グレンさんがいる……』

 あまりにもあまりにも拍子抜けで。

『……い、いるの……あんなに大きい人めったに居ないし多分そうだと思う。そこのカフェテラスに、三人で……グレンさんと、あと』
 まるでポケモンリーグ決勝戦直前のフィールドで向かいあう選手を実況するような緊迫感。アズサはごくりと唾を呑み、続ける。
『……すごく……、カッコいい人がいる』
 カッコいい人がいる。
 カッコいい人がいるらしい。
『ちょっと髪が長めで、茶髪のハーフアップなんだけど、あっ男の人よ? でもすごく綺麗な顔、色が白くて……』なぜかアズサはそのカッコいい人とやらの情報を共有しはじめた。声から興奮が滲んでいる。『私と同い年くらいかも。え、誰だろう? 芸能人かな? あ、でもリューエルの腕章してる。リューエルってあんなカッコいい人がいるんだ、えー』
 アズサの声が聞いたこともないくらいソワソワしていて、端的に可愛かったが、そうじゃない。おいおい、急にどうした。そんな話をしてる場合か? 急いでるんじゃなかったのか? クオンはいいのか? 言えないのである。誰か代わりに伝えて欲しい。トウヤは顔を上げた。小屋の中で、ヨシオが腹を抱えて悶絶していた。
『あ、えっと三人目の人は二人の向かいに座ってるの。話をしてるんだけど、あんまり親密そうな感じじゃない……あ、グレンさんが立ち上がって……その人を殴った!』
 もう何が何だか分からない。
『カッコいい人が何か怒って……あ、行っちゃう。どうしよう、カッコいい人も行っちゃう! どうしよう、どうしよう……私……追いかける!』
 え?
「まっ」て、が出なかった。吐くかというほど咳き込んでいる通話相手にアズサは一切構わなかった。
『あ、あの、そうなの! そう、私グレンさんと話をするから』
 どうして追いかけるのかなんて訊いてないのに、アズサは勝手に弁明をはじめた。
『お兄さん、グレンさんと仲直りした方がいいと思う!』
 僕とそいつを君がイケメンと知り合うための言い訳に使わないでくれませんか――言えるわけもない。言えても言わなかっただろう。ガシャッと受話器を置く音が、最後に聞こえた。通話終了。液晶が最初の画面に戻る。
 顔か。結局、顔なのか。まあ……あの子が楽しいなら……いいけどさ。この腑に落ちない気持ちは何なのか。最初に誑かしたのはこちらのくせに、散々誑かされたような気持ちになって、トウヤはレジェラを見上げた。スタイラーを回収しにぴょんぴょん近づいてきたレジェラが、プルルル、とちょっと腹の立つ顔で囀り、背後でハリが鼻を鳴らした。





 茶髪ハーフアップの色白のイケメンを引き連れた、一コンマ九メートルの大男が、三人目の男をぶん殴った現場にて。
「……お?」
 派手な音を立ててぶっ倒れた男を見下ろして――シマズイゼンは、疑問符を浮かべた。
 ワタツミの、小洒落たカフェのテラス席。白木の丸いテーブルを三人で囲んで腰掛けて、先ほどまで会話を楽しんでいたはずなのに。気付いたら、うち一人がひっくり返って倒れている。椅子が向こうのテーブルのその向こうまで吹き飛んでいる。女々しい格好で頬を抑えて、アキトという名のその男は涙目でこちらを睨んでいる。そして、ゼン自身はいつの間に立ち上がっていて、いかにも右拳を振り下ろしたような格好をしている。そしてその右拳がじんじん痛んでいる……これらの関連性を考えて、ゼンは更に首を捻った。
「おっとォ……?」
 何がどうしてこうなったんだったか、意識が数秒分ぱったり飛んでいるのは確からしい――いや、飛んでなどいないか。ただ頭が真っ白になって、何も考えられなくなっただけだ。
 昨日逃がしたヤミラミの捜索中、エトが偶然見かけた男が、エトの姉であるカナミを捨てて逃げた例の婚約者だって言うから、声をかけたら。流れでお茶をすることになって。話を聞いてみたら、もう別れただの、俺には関係ないだのとシラを切りやがる。関係ないとは言うが、カナちゃんの腹には子供が、と説得を試みようとすると、突然トウヤの名前を挙げて、元彼を毎年家に泊まらせてるような女がどうこうだの、本当は誰の子供なんだか分かりゃしないだのというような卑怯な駄々をこねはじめたので、
「す、すまん! つい」
 そう、ついつい、カッとなって、ぶん殴ってしまったんだった。
「そいつがカナちゃんを抱いたことがないのを知ってるもんでな……」
 だって、彼女から結婚報告の電話が来た日、そいつはビール瓶をケースで抱えて、ココウにある俺の拠点へやってきて、ミソラやタケヒロの前で飲んだくれながら「一回くらい抱いときゃよかった」と連呼したんだぞ。あのうだつの上がらない男に、人の女を寝取るなんて、んな度胸があるもんか。……しかし、自分が他人のためにここまで怒れるとはな、とゼンは驚きを通り越しうっすら感動すら覚えた。十年以上友人をやっていたのだから多少の入れ込みはあるだろうが、赤の他人を貶されて我を忘れるほど激昂するとは。
 驚きと言えば、こちらもである。
「――ふざけんなっ! ふざけんなよクソ野郎!!」
 追い打ちを掛ける勢いで、掴みかかりまではしないまでも立ち上がって叫ぶエト。
「俺はずっと分かってたんだお前が根性ひん曲がったクソ野郎だって、何が誰の子供なんだかだ! 子供ができたから恐ろしくなって逃げ出したんだろ、分かってんだよ小心者が!!」
 誰だ、と言いたくなるほどの熾烈な罵り。
 彼を知る他の面々がいたら目を丸めていただろう。ゼンもまた、この若者のことを、正直言って、金持ちの箱入りのお坊ちゃんだと思っていた。重いものも汚いものも持って歩いた試しのない、素直で従順で品の良いボンボンだと。それは嫌悪でも蔑みでもなくて、ただこの綺麗な家出少年が一人で渡り歩いていけるほど、世の中は甘くないだろうな、と思っていたくらいで。
 けれど、昨日の戦いぶりを見て、その印象は変わりつつある。
「姉ちゃんが、姉ちゃんが今どんな思いで……っ!! あのなあ姉ちゃんは働き者で、いつも笑ってて、ウザいけど頼りになって、ハヅキやジジババの相手も文句も言わずやってっ、お前みたいなゲスにだって文句の一つも言わねえで、なのにそこに付け込んでお前はッ、のうのうとこんなところで女作ってッ」
 顔を真っ赤にして、目に涙を溜めて、震える拳を握りしめて、唾を飛ばしながら怒っている。
 痛快だった。エトの姿も、離れたところで見ているアキトの連れの女が、引き気味で様子を見るだけで助けに入りもしないのも。自分の無意識がぶん殴って、そのあと思わず「すまん」と言って堪えた感情が、エトのその顔、その声で、一気に昇華されていく。
「恥ずかしくねえの!? 俺は恥ずかしいよお前みたいな奴見てるとッ!!」
 そして、こうも思うのだ。――大切な人のために激情を露わにしながら、つう、と熱い涙を伝わせる、その心根が眩しいと。まっすぐに誰かを思うことができる、その得がたい心根のままで、どうか大人になって欲しいと。
「てめえみたいなクズに姉ちゃんはやらねえ、こっちから願い下げだ!!」





 イチジョウがミヅキの姿を捉えたのは、その昼過ぎのことだった。
 頭の後ろで結わえた黒髪、すらりとした首筋、白い肌にひどく端正な美しい顔立ち。ようやく見つけ出した彼女は、ワタツミのトレーナーグッズの売店と思しき店の軒先で、子供サイズの防寒着を吟味していた。隣には長い金髪の子供が立っていて、服をあれこれと指さしている。首元には一匹のドラメシヤがマフラーのように巻き付いている。
 表情に任務中のような雄々しさはない、明らかに油断しきっている。アサギも出していないし、今なら暴れ馬の手綱を握り直せそうだ。所在と状況をアヤノに無線連絡した後、溜息を吐きつつ、イチジョウはそちらへと歩きはじめた。
 ――ミヅキの将来の夢がなんだったか、知ってるかい?
 午前中、アヤノとした会話が、ふと思い出される。
 オリベという名の元ホウガ研究所職員の住居へ、朝から訪れていた。廃墟に片足突っ込んでいるゴーストタウンらしい建物。住人はいないのに、庭の草は抜かれたばかりの様相で、屋内の窓やテーブルにも拭き掃除された跡があり、水差しの生花はまだ新しかった。ミヅキが足繁くここに通っていたという情報は、同じく旧ホウガの出身であるアヤノからのものだ。
 「ポケモンの医者になりたい」と言っていた十代のミヅキのことを、イチジョウは少しだけ知っていた。奥の子供部屋らしい寝室には場違いな携帯獣の医学書が置かれていた。勤勉さが窺える書き込みは、すべて彼女の筆跡だった。
 ――ミヅキの最初の手持ちの子が、ちょっと病弱でね。ああいう病気のポケモンを救いたいと言っていた。頭が悪いとは言わないが、バトルの才の方が際立っていたから、親は反対してたがね。高等課程を出たあとは実務部で働きながらも、暇さえあれば勉強していた。
 四年前までの話か、とアヤノは呟いた。ココウ近郊で行われたバンギラスの爆破実験で、彼女の両親が事故死した。その後は実務部の仕事に熱を入れ、あっという間に実績を積み重ねていった。
 ――止めてた両親がいなくなったんだから、実務部を辞めて、医学の道に進んでもよかったと思わないかい? 俺は少し不思議だったよ。ミヅキはあのとき、どうしてリューエル実務部で頑張ろうと思ったんだろう。
 知らなくてもいい、とイチジョウは己に言い聞かせる。
 ひととき仕事を共にしただけの彼女の人生や、その内面に、触れてみたとて、一体何ができるのか。
 金髪の子供はオリベの家に暮らしていたミヅキの知り合いだと聞いている。その子供と並んで、この服だ、あの服だと見せ合っている女の表情は、イチジョウの見てきたどの表情よりも、柔らかく、優しいものだった。十代の頃の、医学書とにらめっこしてはこちらに微笑みかけていた、あの頃の少女の顔をしていた。そこにいるのは、イチジョウの知っている、リューエル実務部第七部隊の彼女ではない。そしてきっと、この顔こそが、彼女の素顔なのだろう。
 自由の翼をもぎ取って、連れ戻さなければならない。
 彼女のためだ。歩みを止める。イチジョウが、一番間近で見てきたミヅキは、いつも充実した顔でアサギと共に任務をこなし、早く出世したいと語ってはあくせくと動き回っていた。
「……副隊長」
 やや距離を保ったまま、声を掛けた。
 振り向かない。無視である。
 雑踏の中で、きゃっきゃと笑いながら、服を体に合わせたりしている。聞こえなかったのか?
「おい、副隊長」
 無視である。
 見事なまでのガン無視だ。
 カチンときた。そもそもそれほど気が長い性分でもないのであった。自分がどれほどこの奔放娘に振り回されているのかを思って、イチジョウは腹に力を込めた。
「……ミヅキ!」
 人波の中で、声を張ると。
 まず、金髪の子供が反応した。金色の睫毛に縁取られた蒼穹がまん丸に見開いていた。それから、二拍ほど遅れて、ようやくミヅキが振り向いた。金髪の頭へ視線を下ろしたあと、ゆっくりと、ゆっくりとこちらへ目を向けた。……ぽかんとした顔で。誰に呼ばれたのか分からないとでも言わんばかりに。ふざけた真似をしやがって。
「戻るぞ、ミヅキ」
 イチジョウはずんずんと近づいた。こちらの顔をしげしげと見あげ、「あっ、ロッキーを捕まえた人……!」と流暢な現地語で子供が言い(男は聞いちゃいなかったが)、ミヅキが子供の後ろへ隠れた。二人はコソコソと囁きあった。――個人間のテレパシーが他者に聞き取れるはずもないが、『メグミ』と『ミソラ』はこんな話をしていた、「言わんこっないよミヅキちゃんの格好するから!」『どうしよう、お買い物楽しくって、ミソラの髪を黒くするの忘れちゃってた』。
「あの辞表もどきなら、アヤノのポニータに食わせたぞ」
 イチジョウはごくごく真面目な顔つきで、『金髪の子供』と『ミヅキ』に詰め寄る。
「どうして逃げた? なぜ辞める? 科学部のポケモンを奪って逃げて、ごめんなさいで済むと思うのか。お前がなんのつもりだか知らんが……」
 寄れば寄るほど、『ミヅキ』が怯えた顔で後ずさる。
 ……怯えた顔で。勝ち気な彼女が、恐れという感情が欠落しているのではないかとさえ思わせる彼女が、幼気に震えて眉を下げ大きな瞳を潤ませている。そんな顔、イチジョウは一度たりとも見たことがなかった。想像しろと言われてもつかなかっただろう。――熾烈な勘違いが状況を迷走させはじめた。つまりイチジョウは、「二人きりで家族ごっこをするだのしないだのという話をして、思わず娘か恋人にするように頭を撫でてしまい、その直後に失踪したミヅキ」が、本当に「自分のことを怖がって逃げた」のだという現実を、ここで突きつけられたのである(現実であるのかはさておき)。
「……い、いや……本当は分かっているつもりだ。俺のことが、嫌になったんだろうが……」
 一歩、二歩、とこちらも後ずさって、イチジョウは距離を取り直した。無論、覚悟はしていたことだ、だが私人である前に彼女の上司として、イチジョウにはミヅキを連れ戻す責務がある。
「……科学部から盗んだものは、せめて大人しく返すんだ。アサギも所有権は科学部にあって、お前はそれを借りているだけだぞ。元は肉親のポケモンだろうと、勝手に連れていったら窃盗だ」
 言葉はミヅキには一切響いている様子がない。むしろ話せば話すほど、ますます恐怖を募らせている。今にも泣き出しそうな表情だ。そんな顔をするなら端から怒られることをするな、と、イチジョウは正論を言えなかった。そんな顔が、あの夜の己の愚かな行動に起因することに、極度に自覚的だからである。
「……一緒に謝る。一緒に謝るから。今ならまだ顛末書程度で許してもらえるかもしれない。だが、これ以上事が大きくなれば、お前が努力してきたことが……」
 自分になせる最大限の優しい声で、最大限の譲歩で、必死に説得を試みる、イチジョウに対して、
「そ……そんなんだから……」
 反応したのは、ミヅキではなく、金髪の番犬の方だった。
「そんなんだから、ミヅキちゃんに嫌われたんじゃないんですか……!?」
「……!」
 番犬の――リューエルに見つかった焦りでパニックを起こしかけているミソラの、咄嗟に考えたデタラメが、思わぬところでイチジョウの急所を突いた。イチジョウがまた二歩三歩と後ずさる。ミソラはここぞとばかりに舌戦に打って出た。――ロッキーの仇だ。ロッキーの仇はタケヒロの仇でもある。タケヒロの死とはこの人は多分関係ないが、同じリューエル隊員なのは間違いないし、ここで引くわけにはいかない!
「みみミヅキちゃんのこと本気で思ってるならっミヅキちゃんの気持ちをちゃんと考えてくださいよ、あなたは自分の考えが正しいって決め込んでそれを押しつけてるだけじゃないですかっ」
 そうだそうだ! あのとき涙ながらにロッキーと別れなければならなかった、捨て子グループの子供たちの声援が聞こえるようである。ロッキーは確かにココウで盗みをして住民を困らせる悪いポケモンだった、だけどロッキーは捨て子たちと一緒にいたくて、一生懸命生きようとしていただけだった。最後には捨て子たちはなけなしのお金でモンスターボールまで買ってきて、ロッキーをちゃんとボールに入れて、一緒に罰を受けようとした。だのにこのおじさんは、それを邪魔してさっさと捕まえて、ただ危険だからって自分の考えばかりでロッキーを子供たちから引き離して、当事者たちの思いにはちっとも目を向けなかった!
「ミヅキちゃんは悪いことをしたかもしれないっ、でもそうしたことにだって、ちゃんと理由があるはずです、だってミヅキちゃんは優しいから、理由もなく悪いことなんかしない! あなただってミヅキちゃんと一緒にいたなら分かるでしょ!?」
 この場合の『ミヅキちゃん』は全部『ロッキー』に読み替えられる。
 半分武者震いする足を必死に奮い立たせながら、いつしかミソラは、この場しのぎの口車ではなく、本気の本音の本心で、男の心にぶつかっていた。
「良いとか悪いとかって、大事かもしれないっ、だけど!! でもっそれだけじゃなくてっロッキー、じゃなかったミヅキちゃんが本当は誰といたかったのか、誰といるのが本当にミヅキちゃんのためだったのか……っ、ちゃんと向き合ってくださいよっ!!」
 甲高い声が、真っ昼間のワタツミ市街地に響きわたる。
 ミソラ、目立ちすぎ、と、背中に逃げ込んでいるメグミがくいくい服を引っ張ってくる。ぜえはあと肩で息をしながらミソラは必死に男を睨みつけた。イチジョウはずっと、ミソラの顔から目を逸らそうとはしなかった。――この人、多分普通に良い人なんだろうな、と、その顔を見てミソラは思った。これだけ叫び散らかせば相当に視線を浴びてしまっているのに、彼はそれらを厭おうともせず、真剣に子供の言葉と対峙している。
「……どうして、君が怒るんだ」
 随分と威勢を萎ませた、ミソラの人生最初の敗北相手だったリューエル第七部隊長イチジョウへ、
「――怒って何が悪いんですか!! 私だって怒りますよ!!」
 ミソラは怒鳴りあげていた。
 一昨日の晩、子供扱いしてすかそうとした、オリベの優しい顔がミソラの頭に浮かんでいた。


 ……『ミヅキ』と『金髪の子供』が手を取り合って駆けていくのを見、「あっ……!」と言ってイチジョウは手を伸ばした。だが、その伸ばした手を、虚空だけ掴んで引き戻した。虚空を掴んだ握り拳を額に当て、苦悶の呻き声を上げる三十代半ばの男の姿を、道行く人々が若干遠巻きに眺めていたが、イチジョウは気に掛けもしなかった。
 完膚なきまでに叩きのめされた。それも当のミヅキではなく、連れの子供の説教に、である。
 確かに、イチジョウはこれまで、ミヅキの本意を知ろうとはしていなかったかもしれない。彼女が何故『ごめんなさい』という書き置きをして第七部隊を去ったのか、自分の行為の恥ずかしさを増長させられた怒りのばかりに、正確に推し量ろうとしなかった。だが、だからこそ、彼女の内面と向き合うことは、怖い。そうする資格が俺にあるのかとか、その先に何があるのか、彼女と自分の間に流れる何かが変わるのだろうかと、考えてしまうごとに。なかなか足が動かなかった。だが、あの迷い犬をこのまま野放しにしていては、最後に傷つくのは彼女なのだと、心底案じている、それこそが、自分自身の本心には違いなかった。
 くそっ、と悪態を吐いて、イチジョウは走り出した。


 果たしてミヅキはすぐに見つかった。
 一本曲がった角の先に、ミヅキと金髪の子供がいた。そこにあるトレーナー向けの洋服屋から出てきたばかりだった。ミヅキは見慣れない防寒着を着ている。服を着替えるくらいのことで、この目を欺こうという算段か。
 先の子供の懸命な声が、何度も脳裏を反芻する。
 今度は距離を測らなかった。背を向けて歩き出しかけた二人――よく見ると、金髪の子供の首元にマフラーのように絡みついていたドラメシヤが消えている――に、イチジョウは叫んだ。
「待て、ミヅキ!」
 ぱっ、と、今度はミヅキが先に反応する。
 こちらを見、あからさまに顔をしかめた。よく見る彼女の表情だった。
「げっ、隊長!?」
「お前は」
 手首を掴んだ。
 その横暴さからすれば、少し信じがたいくらいの、細くて柔こっい手首だった。
「お前は、第七部隊が好きだろう」
 見開いた目の奥へ、訴える。
 ――ミヅキは口も開いて固まっていた。思いがけない邂逅や、彼の言葉だけではない。男の目を見て、驚いていた。無愛想を絵に描いて貼り付けたような見知ったはずの隊長の目に、不安や、動揺、興奮と、そして実直な熱っぽさが、ありありと浮かんでいるのを見て。
「お前は上に認められているし、将来がある。目を掛けてくれる人もいる。好きなら、逃げる必要がどこにあるんだ。あの組織で、やりたいことがあったんだろ」
 痛いほど握られる手首を、振り払えない。
 瞳孔のふるえが分かる距離でまっすぐにぶつけられる声に、ミヅキは完全に面食らっている。
「けれど、もし、それが耐えられないと言うのなら……俺も、リューエルを辞める、だから」
 イチジョウは息を継いだ。ためらいは微塵もなかった。
「一緒に生きよう」
 その、短い言葉に。
 ミヅキは小さく唇をわななかせて、細く息だけが、隙間からあふれて、
「何を身勝手なと思うだろうな。お前に嫌われてるのはよく分かった。だがな、俺にだって、抗う気概くらいはあるんだ。この先お前を邪魔する者が現れれば、遠慮無く俺を盾にすればいい、だから」
 そう言う、本気で言う、冗談など言えようもないその男の、
「俺に、お前を守らせてくれ」
 そのあまりにも真摯な双眸に、
「……――っ!!」
 ミヅキは、一瞬、見開いた目と、顔を真っ赤に火照らせて、
 ものすごい勢いでイチジョウの手を振り払った。
 その手を腰まで滑らし、地面に叩きつけるようにしてボールを開放した。バクフーンのアサギ。隣に朧な顔で突っ立っていた金髪の子供も引っ掴み背に飛び乗った。驚異的な早業だった。
 脱兎の如く逃げ出したミヅキを、「待て!」と再度叫んで、イチジョウはすぐさま追いかける。立ち会ってしまった通行人が、あれ色々大丈夫か、と微妙な面持ちでその背を見送る。
 韋駄天の勢いでアサギが加速し、飛ぶように路地へ入り込む。「ミヅキ!」と名を呼びながら、追って夢中で角を折れた。
 一隊の長ともあろうものが、あまりに愚直すぎた。
 そこでミヅキが待ち構えていた。
「ッ!?」
 腕を、掴まれた。さっきまで掴んでいた手首に掴まれている。体が浮いた。靴底が地面を掠った。勢いを利用され、しなやかに壁へと叩きつけられる。イチジョウに武の心得はあるが、それはミヅキも同じ事だった。男社会でのしあがっていくために、男より鍛えていたと言ってもいい。
 何が起こったのか理解が追いつかないイチジョウが小さく呻く間に、ミヅキは彼の頬へ手を触れて、
 背伸びをして、
 彼の乾いた唇へ、己の唇を押し当てる。

 目を瞠る。ほんの刹那。

 顔が離れた。遠のく。揺蕩うような影が差した。混濁する世界の真ん中で、彼女はかすかにこちらを見つめた。微笑んだような、昔見たあの優しい少女の顔を、していた、と思う。それから、手が伸びてきた。女性らしい細長い指が、柔らかく、愛おしげに、男の目元を覆い隠した。


「さよなら、隊長」


 声だけが残響して、意識は暗闇へ沈んでいく。









「……ジョウくん! イチジョウくんってば!」
 そう揺すられて、飛び起きた。
 昼間だった。街中。固い路面の上。不覚を取ったか。周囲を見渡す。ワタツミ市街地。そうだ確かにワタツミにいた。第一部隊の反撃か? まさか、連中の動向は掴んでいたはずた。目の前にアヤノが座っている。敵襲に遭っている様子はない。
「くそ、何があった」
 イチジョウは即座に問うた。
「何って」アヤノが困惑を浮かべる。「こっちが聞きたいよ。一体何があったんだい?」
 覗き込んでいるのは同僚だけではなかった、エテボース、グレイシアにポニータ、いずれもアヤノの所持ポケモン。どれも無傷で、アヤノにも自分自身にも、それらしい外傷は見当たらない。腰のホルダーを確認した、手持ちたちのボールは無事だ。他の所有品も。
「呼ばれた場所に来てみたら、倒れてるから驚いたよ。ゴースのガスに巻かれたんじゃないかと街の人たちは言っていたけど、君がそんな初歩的なミスをするとは思えない」
 確かに、アヤノを呼びつけたような記憶がある。
 だが、何のために呼んだのだったか。何かの任務中だったのではないか。ずきり、と脳に締め付けられるような痛みが走って、イチジョウは軽く顔を歪めた。どこかで打ったらしいが、それにしては不可解な痛みだった。
「他の隊員はどこにいる? ゼンやエトは」
「え? ヤミラミの捕獲を完了したから宿に戻ると言っていたけど……呼ぶかい?」
 そうだ、ヤミラミ。ヤミラミの捕獲任務は、若い隊員たちに任せて、自分は……何をしていたのか。
 なぜ、こんなにも焦っているのか。
 何かを……追いかけていた、という感覚が、唐突にわきあがってきた。走っていた、何かを掴んだ、何かの名前を呼んだ。だが、それが具体的になんだったのか、どんな大きさでどんな形でどんな色をしていたか、注意を及ぼそうとすると、妙な感覚に襲われる。
 ――何も、ないのだ。その場所に。
 虫食い、なんて生易しいものではない。元からないのだ。音も、温度も、空間も。時間さえも。
 例えるならば、それは新月の暗さではなく。そもそも夜空に月がなくて、月というものがこの世にあった、その知識すら、消えてしまったかのような。
「……あっ、そうだミヅキを見つけたって言ってたろ」
 光明の差したような顔を、アヤノはした。
「ミヅキはどこに行ったんだ?」
 頭痛を堪えつつ、イチジョウは彼に顔を向け。
 間髪入れずに問い返した。
 引っかかる様子も、考える素振りも見せなかった。
 いつも通りの、彼の、度が過ぎるほど真面目な顔だった。

「『ミヅキ』とは誰だ?」


とらと ( 2021/06/13(日) 18:53 )