月蝕



小説トップ
月蝕
15−10

「ゼンくん。――君は、一体何者だ?」
 ミヅキ失踪の前夜。
 アヤノが、彼にそう問うた。レンジャーとの秘密裏の繋がり、ターゲットであるトウヤの利になるように動いていることが看破され、窮地に追いやられたはずだった。
 隣に立っていたから、エトは知っている。その男が、一拍の後、ハッと息を吐き捨てた仕草を。そして、昂然と笑んだ顔を。
「友人ですよ」
 あのとき、ゼンが発した、単純明快な答えのことを。
「俺は、あのどうしようもないきょうだいの、ただの友人のひとりです」





 清々しい朝だった。
「エト。お前、なんのためにリューエルに入った」
 隣で煙草を吸っているゼンが呟いた。岬の霊園に結集した魑魅魍魎の大群を、辛くも追い払った、その早朝のことだった。
 木陰から見守る視界の先に、ふたつの影があった。いつの間に小兎から怪獣に進化したのか、水色の獣と、夏に会ったときと変わらない異国情緒の子供。美しい金髪を燦々ときらめかせながら、一心不乱に岬へと向かっていく。
「ハシリイを発って、カントーに向かう途中だったんだろ」
 難しい問いだった。エト自身、どうしてこんなところにいるんだっけ、と時々考えてしまう。渡航のためワタツミ港に向かっている途中で、野生のポケモンに襲われた。そこを通りかかったミヅキ、バクフーンのアサギに助けられ、助けられついでにリュックを燃やされて……
「……船のチケットがなくなった、から」
「んなこと聞いてるんじゃない。チケット代を工面したいなら、他に方法はいくらでもある。そりゃ払いは悪くはないが、リューエルの、実務部の、それも末端の第七部隊に志願入隊なんて、あのとき誰も勧めやしなかった」
 低い声に紫煙を燻らせつつ、金髪の子供が去っていくのを、ゼンはじっと見送った。鈍い陰りを帯びた眼差しは、昨夜の乱戦の折とはまるで別人だ。それは、エトを詰問していると言うよりは、自分自身に問いかけるような声だった。
「……俺は」
 脇目もふらず駆けてゆく金色の眩しさに、エトは少し目を細める。
「……ミヅキさんがいたから、第七部隊に入った、のかな」
 恩人であるトウヤと彼の姉の間にある確執に、勘付いたから、いや。
 姉によく似た顔で、不幸そうに笑うミヅキに、なぜか背を向けられなかったから。
 ゼンさんは、と問い返すと、彼は不意に立ち上がった。踵の裏で煙草の火を揉み消すと、そのまま背を向けてしまった。
「強くなりたかったからだよ。俺は、それだけだ」
 一切の迷いなく、迷いを裏側へ押し込む声。日向で微睡んでいたチコリータをボールへ戻し、エトはその背を追いかける。
「本当に、トウヤに会わなくてよかったんですか」
 『友人』はきょとんと目を瞬かせ、それから気恥ずかしそうにはにかんで、シッシッと追い払うように手を振った。

 ワタツミ北西部に位置する高級霊園は、海に面した絶景も相まって、とりわけ人気の高い墓地だ。趣向を凝らした豪奢な墓石からは眠る人々の資金力を窺わせる。エトの父母、曾祖父などフジシロ家の先祖の墓も、実はこの霊園に存在した。エト自身、何度も訪れたことがある。
 夜半、「ワタツミ北西で人気がなくて隠れ家がある場所ってどこだ」と怒鳴り込んできたゼンに即答できたのは、それらしい光景が記憶にあったからだった。
「しかし疲れたな」
「徹夜っすね……」
 重い体を引き摺るように、並んで市街地へと下っていく。レイ山の稜線から覗きはじめた朝の日射しが沁みるように眩しかった。
 昨日の晩――もしかしたら今日になっていたかもしれないが、たった今トウヤがキノシタに襲われて大ピンチ、という情報を掴んでゼンが戻ってきたとき、エトは安宿の寝具のかび臭さに悩まされて寝付けずにいた。
「もう少し早く所在が分かればよかったんだがな。追跡は例の知り合いに頼んでおいたんだが、トウヤの上着に仕込んでおいた発信器が焼却場に向かったそうで」
 存在に勘付き、捨てられたか。だがレンジャーってのも侮れんもんでな、とゼンは肩を竦める。
「気付かれるのも見越して、予備で仕込んでおいたんだと。その予備がいかんせん小型だから、精度に難があるらしい」
「……知り合いの人って、レンジャーユニオンの、確か広報部員……」
「諜報部員の聞き間違いかもしれん」ゼンは愉快そうに頬を緩めた。「あの連中、案外姑息だぞ。髪留めに仕込んだと言っていた」
「髪留め? トウヤが?」
「ミソラが使うんじゃないか」
「ああそうか」
 丘を降り、少しずつ家々が増えてくる。小さなゴースたちが、屋根の下からキョロキョロとこちらの様子を窺っている。
 少し顔を上げると、北の方角に、岬の様子はまだくっきりと見えた。滞空するゴーストが一匹、エトとゼンとを見下ろしていた。朝日に目をしょぼしょぼとさせ、透明になって消えていく。
「ワタツミ方面に逃げたと聞いたときから、嫌な予感はしてたんだ。強力なゲンガーを連れてるキノシタは、この街に蔓延るゴースどもを情報網として利用できる。ワタツミに入った時点で、蜘蛛の巣に掛かったも同然だ」
 トウヤは『見えん』から、その辺の想像はつきづらいだろうがな――ポケモンバトルを語るときのゼンの饒舌さは、ポケモンを語るときのトウヤの調子の良さにちょっと似ている。
「あいつ、ゴーストタイプのポケモンを『生き物』として他のポケモンと同一視しやがる。見える、見えんに関わらず、恐れがないのが一番厄介だ。念のためヨノワールに張り込ませといて正解だった……ふあ、ぁ」
 霊が尾を引くガスごと吸い込みそうな大あくび。ポストの影に溶けかけている大目玉を、無造作に踏みつける足の裏。……大跨ぎで影を避けて歩きながら、この掴めなさも似ている、とこっそり思った。ゼンにしろトウヤにしろ、考えていることが微妙に常軌を逸している瞬間がある。
「ゼンさんだって、怖がらないじゃないっすか」
「そりゃあな。俺は悪タイプは得意だから、ゴーストには優位を取れる」
「いや、そこじゃなくて……罰当たりなこと平気でしますし」
「罰当たり?」
「えっ」
 ついさっき、美しい霊園を『岩雪崩』でめちゃくちゃに粉砕したではないか。
「おお!」
 ゼンは顔を明るくし、ぽん、と手を打った。
「そうか、どおりでさっきから、ゴースがやたらと」鉢植えの後ろから。隘路の奥から。とんとんと踏みならす石畳の、その靴裏の接地する影から。やたらに濃い藍に白すぎる目玉。何故かどこからでも目が合う黒目が、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ……「俺のほうを……見……」
 語気を弱めないでくれ。なるべく日陰に焦点を合わさないように歩くエトに、ゼンはひょいと視線を下ろした。
「どうする?」
「嘘でしょ……何も考えずにぶっ壊したんすか……」
「バトルのこととなるとどうもなあ! がっはっは」
 鷹揚に笑っている大男。頼もしいのは結構だけれども。――半ば呆れて見上げるエトに、ゼンもようよう察したのか。豪快な笑い声から、しなしなと、覇気が吸血されていく。
「……笑ってる場合じゃないか」



 そう、怖いのは、幽霊ばかりではないのであって。
「すみませんでしたー!」
 弾みがつくほどの勢いで下げられた若年二人の頭のてっぺんを、まだ寝癖がついたままのイチジョウが、渋い顔で見下ろしている。これは怒っているというより、処理が追いついていないときの表情だ。
「……墓を……なんだって?」
「墓を破壊……くく、破壊したんだね! お墓をね、ハカをハカい、ぶふっンッごめんっ」
 後ろで勝手にツボを突かれた中年オヤジが口を押さえて笑っている。第七部隊宿泊の安宿。報告すべきイチジョウと同室な時点でアヤノにからかわれることは覚悟のうえだが、弱みを握られた今となっては余計に憎たらしく思えてくる。
「いやあ面白いねゼンくん、俺は一目見たときから分かってたよ、君が面白い人だって!」
「暴れ馬が逃げ出したと思ったら、次はこれか。お前はミヅキのお目付役じゃなかったのか、ゼン?」
「私には荷が重いとお伝えしていたはずですが……」
 トカゲの尻尾切りに利用され、気に掛けていた部下に逃げられ。災厄真っ最中のイチジョウに相談するには、いささか気の重い話である。「何基だ」と彼は額を摺りながら言った。「何基壊した。俺の首一つで足りるんだろうな」
「ざっと、百……二百……」
「ッヒャー! イチジョウくんの生首がいくつあっても足りないなあ!」
 イチジョウが黙って指を鳴らすと、大喜びしているアヤノの顔にどべしゃっと墨が引っかかった。シャワールームから吻部だけ見せているキングドラ。アヤノが抱いていたグレイシアが驚いて飛び降り、エテボースの足元に逃げ込んで背を丸める。エテボースは呆れ顔で、可愛い先輩をよしよしと宥める。
「私の首も使ってください」「お、俺のも……」
「貴様ら如きの首に価値があると思ってるのか」
 返す言葉もない。
「ただでさえ最悪の状況なのにこれ以上厄介ごとが増えるとは……」イチジョウのデカい溜め息。
「すみません……」巨体を折り曲げて平謝りのゼン。
「そうだよぉイチジョウくんはただでさえ恋心で頭がいっぱいなんだからぁ」ぱちん。どべしゃっ!
 大変なことになるとは思っていたが、思っていたより大変なことになるかもしれない。器物損壊……賠償責任……並んだ生首……実家へ迷惑……いやでも、でも、とエトは頭を振った。モノよりカネより、大切にすべきものがあるはずだ。そう、自分たちはあのとき、魔の手からそれを守るために勇敢に戦ったのだ。
「でも、ゼンさんがああやってゴースを倒さなかったら、トウヤたちが!」
 言って、大人たちの三者三様の視線を集めて、怯む。ああやってゴースたちを倒さなかったら、トウヤやハリがやられて……いただろうか。他に方法はなかったのだろうか。
「……や、えっと『岩雪崩』を使わないとどうしようもなかったかどうかは正直微妙なんすけど、それは結果論って言うか……でも相手もスゴい数だったから、その……」
「エト……」
 庇っているともいないともつかない言い訳をするエトを見下ろすゼンの後ろで、アヤノが宿備品のタオルを真っ黒にして顔を拭った。それから眼鏡を丹念に磨きつつ、「『岩雪崩』ねぇ」と呟いた。
 額に手を当て、俯いてじっと考え込んでいたイチジョウが、静かに顔を上げる。
「……墓を破壊するのに使った技は、『岩雪崩』だけか」
 くたびれきった眼光が、一周回って、異様な輝きを帯びはじめていた。
「ウォーグルの『岩雪崩』と、カバルドンの『地震』ですね」
「『岩雪崩』……『岩雪崩』は……」
 ないものを無理矢理捻り出すような声。イチジョウはぶつぶつと呻くように述べ立てた。
「……岩に模倣したエネルギーの凝固体を落下させる技だ。模倣であって、実物ではない。技を使って一定時間経過するか、使用者が戦闘不能、あるいはモンスターボールに収容されたあと、エネルギー消失と共に岩も消滅する。そうだな」
「はい」
「『地震』は実務部では習得を推奨されている技で実際に使用者は多い。また技としての『地震』によって生じた構造物の亀裂や損傷を、他の技や経年劣化によって生じる損傷と判別するのは難しい……ゼン、エト、お前たち」
 顔を上げたイチジョウは、見る者の臓腑を鷲掴んで竦ませるような、謎の凄みを有していた。
「墓を破壊したのが自分たちだと、証明することができるのか?」
 その感情に、名前をつけるならば、まさしく『怒り』が相応しい。
「……!」
 その怒りが、自分たちに向けられたものではないことを、ゼンもエトも確信した。見合わせたお互いの顔には驚きと興奮が滲んでいた。眼鏡を掛け直したアヤノが、嬉々として言う。イチジョウくん、君、まさか!
「――すべての責任は、第一部隊長キノシタにある」
 よって、本日、ここから起こる一連の事象は、ココウの任務失敗の責任をイチジョウに押しつけたキノシタへの、完全な私的報復である。





 第七部隊、出動!
『――第七部隊から本部管理室へ。ヒトサンマルマル、只今より通常任務を遂行します。ワタツミにおける本日の通常任務は二件』
 無線機からイチジョウの抑揚のない声が響いてくる。エトはそれを耳に入れつつ、昼間のワタツミ市街地を全力疾走で駆け抜ける。
『市民より害獣通報を受けたヤミラミの捕獲任務、ランクC』
 ――街行く人足の間をすり抜け、肩を頭を蹴り飛ばし、アクロバティックな動きとクレイジーな笑顔で逃走を図るヤミラミ。小さな右手に捕まれているのはきらきら光るネックレス。
『近海にて船舶へ加害する不明野生ポケモンの調査、ランクB』
「おらあ!」
 ゼンが釣り竿を振るう。しなる竿の先から飛び出した錘(おもり)――、否、赤色のカラーリングのモンスターボールが、大スイングしながらヤミラミの横っ腹へ接近する。ひらり『見切』って躱すヤミラミ。そう簡単にはいかないか。
 リールを回しつつ竿を引けば、ボールは手元に戻ってくる。投げた分だけ使い捨てになりがちな捕獲用ボールを回収して再利用できる、新作アイデア商品だ。経費の少ない第七部隊には都合が良い。この安っぽい竿で、大型船底に穴を開けるという巨大深海生物を釣ろうと目論んでいるのでは、決してない。
 ゼンは力で圧倒するバトルスタイルを好んでいる。姑息な補助技は柄に合わず、手持ちにもほとんど覚えさせていない。軒先を人波を、とちょこまかと動きまわる小型ポケモンを捕獲する手立てがあるとしたら、エトのチコリータ――ヒナの『甘い香り』で動きを鈍らせ、その隙にボールを当てる、くらいのものである。だが相手が速すぎて、その『甘い香り』さえ当てられないときた。
「障害物がなければな」
 ちょっとだけ声を弾ませて、ゼンは腰からモンスターボールを外そうとする。「街壊さないでくださいよ!」エトが吠えた。
 解放されたウォーグルにゼンが飛び乗り、鷲爪がエトの肩を掴む。間もなく上空へ連れ去られた。生まれて初めて飛ぶ空の感触は、生まれて初めてそれらしい『仕事』に取り組む生真面目な若者の心には、今は入り込む余地がない。
「『マジカルリーフ』!」
 ウォーグルの頭によじのぼったヒナが威勢良く鳴き、頭の葉っぱをサイレンのように振り回す。細路に逃げ込もうとするヤミラミを、七色に光る葉が追い立てる。当初の予定通り、建物の少ない港南部へ。
 開けた場所に出た。
 身を隠す場所を探すように、ヤミラミがおろおろと首を回す。
「突っ込め!」
 すっと頭を下げたウォーグルがひとつ羽ばたき、風塵の衝撃派を伴ってヤミラミへ接近する。ヤミラミは逃走を諦めたのかこちらへ振り向き、姿勢を下げて――得意のゴースト技がノーマルタイプを持つウォーグルへ通用しないことを、本能的に知っているのか――狙いを背の上のヒトへ合わせた。
 ウォーグルの攻撃を半身で躱し、くちばしを蹴りつけ、振りあげた腕が、ゼンの握る釣り竿を捉える。
 ヤミラミの『はたき落とす』!
 安物の竿がべぎゃんと折れ、グルグル回ってストンと地面に突き刺さる。
 それを見てピャピャッとヤミラミが笑った――笑うだけの油断があった、だからもう一人の刺客の行動に、彼は一瞬気付くのが遅れた。
 そう、釣り素人には制御困難なジョークグッズ同然の捕獲用具なんて、端から『釣る』のが目的だ。
 一足先にウォーグルの爪から解放されていたエトが、教科書通りのフォームで振りかぶる。握られたボールのカラーリングは黄。敵が無傷でも捕獲確率は高い。
「くらえっ!」
 振り下ろされた右手からまっすぐ放たれたボールが、ヤミラミの鼻っ面に突き刺さろうとした――瞬間だった。

「『エアカッター』!」
 開口接続部から真っ二つ、上下に分裂するボール。

(――来た!)
 エトが、ウォーグルから降り立つゼンが、瞬時に目配せを送りあった。

「あーあ。流石は末端部隊、Cランクの雑魚相手に高価なハイパーボールなんか使っちゃって……」
 透明な刃に破壊されたボールの残骸へ足を掛け、踏みにじりつつ、クイと口角を上げる男。
 リューエル第一部隊、副隊長のウラミは、若い頃からキノシタの腹心として巧く立ち回り続けている。さながらマンタインにへばり付くテッポウオと揶揄されることもあるが、副隊長の名は伊達ではなく、本人も相当の実力者である。
「昨日、キノシタ隊長の作戦を邪魔したのは君たちですね?」
 役者のような気障な顔をした男が、確信的な笑みを伴って、ゼンとエトとを蔑んだ。
 深夜の出来事だ。人影もなかった。見られていないと言い切ることも不可能だが、それでも顔を判別できるほど視認された覚えはない。……というゼンの見立てを、「甘い」と一蹴した人物がいた。イチジョウだ。用心深すぎる性分とはそりが合わないと、ゼンはあまり気に留めなかったが。
「私のクロバットが、君たちを『見た』と言ってるんですよ」
 上空の太陽を遮るように、音波で物質を捉える巨大蝙蝠が、ウラミの右手に従って躍動する。
 ひとつ舌打ちし、ゼンがボールホルダーに手を掛けた。
 前へ出たチコリータのヒナと共に、エトも身構える。
「……きつくお灸を据えるようにと、仰せつかっているものでねぇ!」
 這うように逃げていくヤミラミには目もくれず、クロバット、そして放つ二体目を、ウラミはこちらへ差し向けた。

 ――キノシタは、執念深い男だ。今日もラティアスを捕獲するために動くだろう。そして昨日の作戦の敗因であるお前たちの元にも、必ず制裁を加えに来る。

 イチジョウの予想は当たっていた。腹心のウラミを寄越すのでは、というところまで、完璧な見立てだ。おかげで手持ちの下調べも済んでいる。繰り出されたゲッコウガはウラミのエース格。優位を取れるポケモンも入れてきた。
「行くぞ、クワガノン!」
 ボールの破裂光を食い破るように、藍と黄の大顎が現れる。ゼンの手持ちの中では若い部類だが、高火力のアタッカーだ。
「なるほど、そちらがシマズイ隊員ですね」
 ウラミが下卑た笑みを浮かべた。
「三十匹以上のポケモンを所有登録している大軍型のトレーナーだが、一匹一匹の育成は甘く、戦術に長けているでもない。任務帯同経験も少なく、特筆できる功績はゼロ」
 調べがついているのは向こうも同じか。一瞬だけ眉によぎらせた男の動揺を、ウラミが見逃すはずもない。

 ――ゼン、気をつけろ。混乱の不意を突けた昨夜の騒動と、今日の作戦を一緒だと思うな。

 任務開始前、イチジョウはそう冷徹に制した。

 ――お前が第一部隊長キノシタの手持ちを討てたのは、まぐれだと思え。

 何を。腹の底に沸とした感情が、ウラミのにやつきでまた首をもたげる。
「『十万ボルト』!」
 顎の間から、空を破くような音と共に高電圧が放たれる。まずは牽制、だが牽制に留まらないダメージを与えられる。どう出る。躱すかボールへ引っ込むか、防御技を使ってくるか。見据える敵方には動きがない。
 姿勢を低く取るゲッコウガ。まだ動かない。何を待っている?
「『撒菱』」
 信じられない技名が聞こえて、ゼンは息を詰めた。
 前方。素早い動きで菱を散らせるゲッコウガが『十万ボルト』の光に飲まれ、抜群の威力に悶絶する――はずだった。
 一拍置き、雷撃を突破してくる忍びの青。
 その先に見えるウラミの嘲笑。
「『アクロバット』」
 翻った青が目にも止まらぬ速さで鞘翅へ一撃を加え、更に蹴りつけて高々と空へ『飛び上がる』。
 ゲッコウガは無傷、に見えた。『十万ボルト』を食らって、無傷? まさか。
「追うな、ウォーグル!」
 嫌な予感が従者を退かせた。『守る』、あるいは『畳返し』か。違う、防御する挙動なんて見えなかった、電気技の威力を軽減する実でも持たせていたのか? ならば、
「クワガノン、『虫のさざめき』」
「ヒナ、『マジカルリーフ』だ!」
 上空から直線的に降下してくる標的へ、回避のしづらい音系の技と、草の必中技が襲いかかる。どちらもゲッコウガには有効な技、だが、
 ――ほぼ勢いの削がれなかった『飛び跳ねる』の両脚が強かに直撃し、クワガノンが重い羽音をぶれさせた。
 ゼロではない。だがやはり効きが浅い。
 『守る』? 二回連続で? 『飛び跳ねる』の挙動と重ねて? そんなことが可能なのか?
「ッ『電磁砲』!」
 動揺を振り切る、敵が接近してきた好機を無駄にはしない。
「『穴を掘る』」
 すんでのところで回避したゲッコウガが、草いきれを巻き上げながら地中へ身を隠す。小賢しい!
「もう一人の君はフジシロ隊員ですね。入隊してからまだ間もなく、一般家庭の出で戦闘経験に乏しい、手持ちは可愛いチコリータ一匹で、それも入手から日が浅いと来た」
「よく回る口が――」
「おっと、挑発に乗っている暇があるんです?」
 チコリータの足元が崩れ、飛び出してきたゲッコウガに突き飛ばされて地を転がる。クワガノンの特性は『浮遊』、他に場にいるのはウォーグルとチコリータで、標的はチコリータに決まっていた。ゼンはエトにそれを教えて、回避行動を取らせるべきだった。
「『電磁砲』!」
 他者を慮る余裕などない。『穴を掘る』の間に顎に電撃を溜めていたクワガノンの高威力の一撃は、攻撃後の隙を的確に捉え、確かにゲッコウガにヒットした。
 だが、やはり、まったくと言っていいほど効いていない。
(レベルの差、なのか)
 だとすれば、到底勝ち筋など――ゲッコウガの召喚した『岩石封じ』に四方から押し潰され、力なく地に落ちたクワガノンを見、一瞬引いていきかけた血の気が、
「――ゼンさん、『変幻自在』だ!」
 頬を叩くようなエトの声に、一気に芯へ引き戻された。
「奴はいま岩タイプです!」「『馬鹿力』ァ!」「『影討ち』!」
 三者の声が一気に響き、急降下したウォーグルの屈強な爪は、するりと影に溶け込んだゲッコウガの肩を掴めなかった。
 『変幻自在』、技を出す直前にその技のタイプへと自身の性質が変化する特性。技が四種類に縛られる公式戦ならともかく、ルール無用の野良試合では、厄介が過ぎる!
 目にも止まらぬ速さで移動した影から、チコリータとエトの前へと、忍蛙が躍り出る。
「しまっ……」
 ゼンはまだ次の手を決めあぐねていて、
「『守る』!」
 エトは的確に指示を飛ばし、先制技を受け流し、
「クロバット、追撃を」
「『光の壁』!」
 視界の外から強襲した『エアカッター』すら、うまく威力を殺してみせた。
 余裕綽々に笑むウラミが、顎を挙げて拍手を送る。
「これは愉快だ。経験の浅いフジシロ隊員の方が、よほど冷静と見える」
「……ゼンさん!」
 連撃をなんとか耐えきったチコリータと共に、訴えかけるようにエトが見る。
 言いたいことは分かっていた。

 ――いいか。正面から戦って倒せるなどと、断じて自惚れないことだ。

 ゼンの性格、バトルを前にしたときの性質を、短期間の付き合いでイチジョウはよく把握していた。だから痛いほどに釘を刺された。

 ――引き際を誤るな。お前たちの役割は、注目を集め、時間を稼ぎ、戦力を分散させること――

「だが、些か背後が疎かですね」
「!」
 バトル中のアドバイスは明らかな侮辱行為だが、そうと気付く暇すらなく。
 ゼン、エト、同時に振り向いた先に見たのは――ヒトの子ひとりくらいならゆうに飲み込んでしまいそうな、涎糸引く巨大な『口』。
 その『不意打ち』が、もう少しで、ゼンの首筋を掻っ捌くところだった。勇敢にも間へ飛び込んだウォーグルを、ボールの赤光が吸い込むのがあと一瞬でも遅ければ、上下から食い込んだ鋭利な牙が血飛沫を上げさせていたかもしれない。
 クチート。ゼンの時が、エトの時が、一拍、止まる。ウラミの所有ポケモンのリストには載っていなかったポケモンだ。と言うことは――

 ――戦力とは、キノシタの手持ちのことだ。ウラミを寄越した場合は、キノシタは必ず自分のポケモンを連れさせる。あの男は他人を一切信用しない――
 
「……お前か」
 ぞくりと総毛立つ声に。
 エトは思わず横を見た。その男の顔を見上げた。大男の精悍な横顔は、敵方の妖精らしい可憐さと、息衝く鋼の大顎を睨みつけ、――エトのこれまでの人生に於いても、未だ目にしたことがない、人を殺せそうなほどの強烈な怒気に、支配されていた。
「お前か、トウヤの腕を食い千切ったのは……ッ!」
 震える唇が業火の底から絞り出した声が、エトの心臓と共鳴する。
 開放音と共に光が炸裂する。飛び出したヘルガーは既に莫大なエネルギーを溜めていた。退却すること、時間稼ぎをしなければならないこと、一瞬前によぎったイチジョウのあらゆる正論が、噴出する炎に焼き尽くされる。『オーバーヒート』。クチートが笑う。笑いながら火に包まれたクチートの顔がどろどろと溶け、技の射程とはまるで見当違いな場所で、本体がケタケタと嘲笑をあげる。『身代わり』。完全なタイミングで防がれた。見え透いた大技だ、当然の結果としか言いようがない。
「『水手裏剣』」
 背後、まったくの死角から、ヘルガーの後頭部に突き刺さる。一度、二度、三度。エトは振り向き指さした。
(こいつらが)
 距離を取らなければ。
(こいつらが、いなければ)
 倒さなくったっていい、それが命令だ。なのに。
「『葉っぱカッター』!」
 攻撃技を命じていた。傷ついた体で踏ん張ってヒナが頭の葉を振り回す、水タイプに戻ったゲッコウガの身を次々と葉が刻みつけた。滑るようにやってきたクロバットの『クロスポイズン』を『守る』で受け流し、生まれた一瞬の隙に、叫ぶ。
「『甘い香り』ッ」
 ぶわあ、と胞子めいたものが一気に広がる。
 逃げるための技ではない。相手の注意を引き寄せ回避能力を鈍らせる技、己の位置を知らしめる技。
「ゼンさんもう一度!」
「『煉獄』……ッ!」
 『水手裏剣』耐えきったヘルガーの泣きの一発が、今度こそクチートの本体を捉えた。
「やった……っ」
 エトが呟き、
「避けろッ!」
 ゼンの指令は悲鳴じみていて。
 目が眩むほどの光の奥から、何かが、ひどく攻撃的な何かが、いくつも飛び出してきて、真っ正面からヘルガーへ直撃した。『ストーンエッジ』。
 鋭く尖った物体をいくつも体に突き刺したヘルガーが、よろめいて、倒れる。ゼンはすぐさまそれを吸い込み、次のモンスターボールを手に取る。

 ――引き際を誤るな。

 イチジョウの声がして、どくん、とエトの心臓が脈打つ。
 ヘルガーは、ゼンの手持ちではエース格だ。そして『煉獄』の焦土の先では、クチートが余裕げに舌なめずりをしている。
「能力低下の反動技を無駄撃ちするからですよ」
 神経を逆撫でする声と共に、ひゅんっ、と耳元を風が抜けた。
「ヒナ……っ」
「『雷の牙』!」
 チコリータの前にどしんと現れたカバルドンの牙が、クロバットの『毒々の牙』と交錯する。慌てふためくチコリータの背後から襲いかかるクチートを、飛び込んだアブソルの『辻斬り』が後退させる。二者に庇われたヒナは、独断で『日本晴れ』を発動した。戦況のど真ん中に突如現れた灼熱の光球は、カバルドンの横っ腹へクリーンヒットしたゲッコウガによる『ハイドロポンプ』の威力を殺した。
「いいぞ……!」
 ゼンが吠え、
「よく喜べますね、それしきのことで」
 ウラミが嘲笑う。
 エトの脳裏には警笛が鳴り続ける。
 『炎の牙』、『火炎放射』、カバルドンとアブソルの放つ苦肉の策は遊びのように跳ね回るクチートに簡単に弾かれ、『リフレクター』を張るヒナの頭上には『クロスポイズン』が降り注ぎ、躍動するゲッコウガが多彩な技で翻弄する。
「カバルドン『噛み砕く』……ッ」
「では『グロウパンチ』」
 一撃、次いで素早く二撃目を叩き込まれたカバルドンが倒れた。
「『サイコカッター』ッ!」
「残念、『辻斬り』」
 エスパー技を無効化したゲッコウガの素早い一閃が急所を突き、続く『グロウパンチ』は打点が見えないほどの早業だった。どんどん加速している!
 苦しい表示で敵方を睨みつけ、アブソルはそのまま崩れ落ちた。ゼンがそれらをボールに戻し。
 ボールを戻した両の手で、迷いなく次のボールを掴んだ。
「ゼンさん」「ヨノワール! オーダイルッ!」
 無理だ、と続けようとしたのを遮るように、彼は名を呼ぶ。飛び出した二体が果敢に立ち向かう。引き際は。どこだったのだろう、もう分からない。『光合成』で立ち直ったヒナが、その場に似つかわしくない幼い鳴き声を響かせて、戦線に加わろうとする。
「ハッ、噂通り、手数ばかり多いんですね」それまであくまで悠然と構えていたウラミがやっと苛立ちを見せた。「野良犬風情がよく吠える!」
 すっ、とこちらへ顔を流したゲッコウガの、赤い目が、光った。
 視界がぶれる。
 脳が揺さぶられるような感覚。
「……うっ、ぐ」
 目が眩み、虫唾が走ったが、呻いたのは横だった。両手で頭を押さえたゼンが、数歩、よろめいて、膝からその場に崩れ落ちた。
「ゼンさん!?」
「……ぐおおああああ……!」
「どうです? 『神通力』の味わいは」
 悪魔のような男が笑った。
 限界だ、とエトは思った。このままでは本当に負ける。隣に立ってるだけで嘔吐きそうになる念の力を、ヒトの体が直接食らえばどうなるのか、分からないエトではなかったし、オーダイルが、ヨノワールが、焦り技主を攻撃しようとしてクロバットに阻まれ、目を歯を零れ落とさんほど剥き出しながらそれでも敵方へ向かうゼンもまた狂気的であったし、「かみ、く、だ、」ようよう絞り出した技名が、応えたオーダイルの攻撃が、「『グロウパンチ』ィ!」いとも簡単に先攻を取られて、弾かれるのを見て、
 やるしかない、
 やるしかない、と、腹を括った。 
「ほらほらほらァ、」高揚しきったウラミの声が高らかに響く。面の皮の剥がれきった、人道を外れた化け物の声が。「主賓の相手もしなくっちゃあよォ!」
 シャアァ、と顔に見合わぬ威嚇音と共に、がぱりと開いたクチートの大顎が、鋭い牙が、果敢に大地を踏みしめる小さなチコリータへ襲いかかる。
 無我夢中で、エトは地を蹴った。





 海上は大嵐である。
 狂ったようにのたくる波間を飛沫上げ駆ける水上バイクの舳先には、雨粒が叩きつけ続けている。煙る視界の右手側、ワタツミ市街地の方向には鈍い太陽光が拝める、この荒天は局地的なものだ。バトルに精通しておらずとも、このような異常現象を前にすれば、近くでポケモンが暴れているのだと容易に察しがつく。戦い慣れた者なら尚更のこと。
 六メートル超の巨体が、竜の横暴な羽撃きが、海面を荒れ狂わせる。少しでも操作を誤れば、小舟程度簡単にひっくり返されてしまうだろう。
 深海に潜む害獣指定ポケモンの調査――という名目で単身海へ繰り出した第七部隊長イチジョウの目には、ギャラドスとボーマンダ、二体分の、強烈な殺気が映っている。彼らと比較すればあまりにも矮小な、生身の人間への殺気が。
 ワタツミ北西部の霊園はここから東へ一キロ程度。渦中のワカミヤ弟が海辺の小屋に潜伏しているのは、ほぼ間違いないと思われた。小屋から見て西部は霊園、残り三方は小さな砂浜と海に囲まれている。手持ちはラティアスを除けばノクタス、ガバイトと、『波乗り』を習得できる種はいない。海上から攻撃を仕掛けられた場合、必然的に防衛線が下がる。海抜二十数メートルの岬の高低差的不利を考慮に入れたとしても、昨夜、西部の陸地から攻めて失敗していることを鑑みれば、自分ならば――海側から攻める。
『なんのつもりで、邪魔をしているのか知らないが――』
 ショルダーに固定した無線機から聞こえてくる男の声。
『身の程を弁えるべきだったな。第七部隊の蝿どもが』
 ギャラドスが長い体躯をしならせて激しく海上を叩きつける。ワタツミ港で借りた小型バイクは、専用ボールに格納した電気ポケモンのエネルギーにより駆動する、比較的オーソドックスなマシンだ。手持ちのゼブライカにより『充電』された機動力を調整し、あえて間一髪のタイミングで木っ端微塵を回避して、技の練度を確認する。『パワーウィップ』。自然状態のギャラドスは、まず習得しない技。二体ともキノシタの所有個体と見ていいだろう。いや、三体か。
『貴様がこうして、凶暴な『野生ポケモン』の対処に手こずっている間にも――』
 左手のハンドルに据えられているレバーを引く。野生ポケモン対策として船首に搭載されている電流放出装置から発せられた稲光が、ぐにゃりと折れ曲がり、海へ吸い込まれていく。特性『避雷針』。淡水生のアズマオウは、この海域には棲息しない。
 キノシタが狙っているはずのワカミヤ弟が携えるポケモンたちで、電気技に注意すべき種はいない。この電気技対策はおそらく、イチジョウのゼブライカを意識してのもの。
『お前の可愛い部下たちは、今頃クチートの胃の中だ』
 キノシタは、まず目障りな第七部隊を屠り、その後にターゲットを処分する算段だ。
 ギャラドスは一度暴れ出したらすべてを破壊するまで止まらないと伝えられるポケモンだ。またボーマンダは、己の行く道を邪魔するものを、刃のように固い羽ですべて真っ二つにすると言う。己を不快にさせるものを尽く焼き払わなければ気が済まないキノシタと、これらの横暴さは通じる。
 水中から踊り出した一体のツンベアーが、吐息で海上を瞬時に凍てつかせた。その氷の床に飛び乗って、張る胸から放出する無数の『つららばり』。被弾したボーマンダが咆哮をあげ、仰け反るようにして炎を放つ。ツンベアーは即座に海中へ逃げ込む、非効率のヒットアンドアウェイ。寒冷地の海を生息域とするツンベアーは生来泳ぎは得意だが、水タイプではなく、足元の悪い状態では技の精度が格段に落ちる。
 攻撃力に乏しい従者の方には、敵は重きを置いていないようだ。ギャラドスが海面を抉るように放つ『アクアテール』は、水中ではなく、明らかに水上バイクを狙いにきている。
 右手のレバーを引きアクセルを全開にする。体を倒しながらハンドルを切り急旋回で距離を取る。防戦一方なのは認めざるを得ない。
『此度の作戦、貴様は読みが当たったと喜んでいるかも知れないが……』
 そう、不気味なほどに、当たりすぎている。ゼンたちの元にウラミが現れ、海を張っていた自分の元へキノシタの手持ちが現れた。まるで自らの意志と思い込みながら、風に押し流されていたかのように。
『行動を読まれていると分かりながら、貴様の思惑通りに動いてやった理由を教えてやろうか』
 ギャラドスの放つ『暴風』のさなかに、血のように赤い『ダブルウイング』が迫る。動力源のゼブライカが溜めた電力を矢継ぎ早に射出するが、やはりすべて海中に吸い込まれ牽制としても意味を成さない。重心を下げ急激に加速させ、波間へ潜りこむようにボーマンダの左翼を避けた。風圧に押される。紙一重。
 ――スパンと切られた濃緑色の腕章が、風になぶられて飛んでいく。
『この荒れた海上でなら、死因の偽装方法に事欠かないからだ』
 一瞬だけ、イチジョウは腕章を目で追った。
 一瞬だった。すぐに目を切った。
 分厚い暗雲に、叩きつける雨嵐、時折見える稲光。『氷柱落とし』、『火炎放射』。入り乱れる闇と光、飛び交う音と衝撃の中で、ギャラドスが悠々と『竜の舞』を踊る。
 イチジョウは一度、ハンドルから手を離し、左腕を二度三度振るった。水を吸って重くなった仕事着も、リューエルの所属を示す腕章がなければ、随分と軽く感じられるものだ。
『若くから組織に心血を注いできたそうだが、その組織に裏切られ、冷たい海の底へ沈められる気分はどうだ?』
 キノシタの声が昂ぶって震える。興奮したときの彼の常。
『笑いぐさだなあイチジョウよ!』
 海中に逃げようとしたツンベアーを、『ドラゴンテール』が、弾き飛ばした。護衛のなくなったトレーナーを飛竜二体が挟み撃ちにする。目に見えるほどの禍々しい赤と黒のエネルギーが渦巻いた。属性は――竜。
『海の藻屑と化して死ね!』
 キノシタの指令と共に。
 右手、左手が、同時に迫る。悪鬼の如き形相。熱。音、鼓動。繰り出されるは竜の『逆鱗』か。肌の焼けるようなプレッシャーに、イチジョウは視界の中央を見据え、短く息を吸って。
 僅か、唇を動かした。



 海辺に立つ旅館の上階で、キノシタは満足そうに椅子に仰け反った。
 司令塔を崩せば、他の隊員も総崩れになるだろう。部隊長イチジョウの対処には、念を入れて己の配下を三体も投入した。昨夜ゲンガーと相対したナントカという隊員も、ウラミにクチートを与えて直々に潰しに行かせたのだから、脅威にはなるまい。副隊長のワカミヤミヅキは若手では最も勢いのある手練れだが、現在は組織に離反して失踪中だと言うじゃないか。
 邪魔者は片付いた。あとはじっくりターゲットを捕らえるのみ。
 昨夜の大量の霊どもを使った攻撃で、ターゲットも相当疲弊しているはずだ。随分と生き恥を晒したいようだが、今度こそ確実に仕留めなければ――思案しながらも、実際、キノシタの脳裏に、ココウ襲撃時当初の目的であったラティアスの文字はほとんど残っていなかった。あったのは、ココウ農村部はずれの小屋で、自分の首を絞め落とし、手足を縛って納屋に転がし麻袋を被せて逃げるという最上の侮辱を働いた、ワカミヤトウヤという若い男のこと、その背後に見え隠れする亡き母親の影だった。
 そろそろウラミから報告がある頃だろう、と腰を上げかけた矢先、ベッドサイドの卓上に置いていた無線機が受信の赤色灯を灯した。
『キノシタ隊長』
 雑音が酷く、声の識別は難しい。
 誰からの無線通信であるのか、キノシタは判断を誤った。
 だから次の言葉を理解するのに、幾分時間を要した。
『お話はそれだけでしょうか』
 ……冷たく光る無線機に、吸い寄せられるように、目が止まる。
 声質で、誰と判断できようもない。実際、キノシタはその通信相手と、直接会話したことはほとんどなかった。先まで無線通信していた折も、通信とは名ばかりで、一方的に詰っていただけだった。
 そう、先ほどまで、誰と『話』をしていたのか。自身の行動を辿って。
 キノシタは目を瞠った。
「なん……だと?」
『お言葉ですが……あなたのポケモンたちが海の藻屑と化す前に、ボールへ戻してやった方がよろしいかと』
 抑揚のない声が淡々とそう述べ終えたとき、無線機の向こうから、銃声のような爆音と、何かが海面へ墜落する水音が、立て続けに響いてきた。



 ぷかぷかと浮きながら土手っ腹を見せているのはドサイドン。海中に潜ませる避雷針役としてはあまりにナンセンスだ。仕留めてきたキングドラが、ゆっくりと揺蕩いながら、水上のイチジョウへと近づいてくる。
 ボーマンダを十分に引きつけた絶好のタイミングで開いたボールから、飛び出したゼブライカの『先取り』。ツンベアーが与えたダメージも考慮すれば余裕で落とせる計算だ。
 ギャラドスが放った方の『逆鱗』は、ボート上のイチジョウへ確かに打ち込まれた、だから攻撃後に隙が生まれた。巨大な『雷』が、その隙を天から貫いた。
 攻めに転じてから勝敗が決するまで、ほんの数秒の出来事だった。
 ……痙攣しながら波間へ浮かんでいるギャラドスの上で、ラムの実を噛み砕いたゼブライカが苛立たしげにたてがみを振るう。バイクの動力源にされていたのだから、あまりいい気はしていないだろう。
 舐められたものだな、と、その相棒を見ながら思う。二十年以上、バトルの腕前だけを頼りに、この腐敗した組織を生き抜いてきた。
 いくら相手が格上と言えど、トレーナーの指示なきポケモン相手に、今更負ける気はしない。
「……キノシタが臆病で助かった」
 ココウで縛られていた件で、作戦を手下任せにし自らは安全圏から指示を出す質に拍車が掛かっていると見える。見える位置から指示を出されていたらこうはいかなかった。手品の種に気付かれて、別の技で攻められただろう。
 ――胸の中央、分厚い上着の中から、ぴょこりと顔を出す妖精が一匹。
 ドラゴンの技を無効化するフェアリータイプのフラエッテが、今やっと眠りから目覚めたような顔で、きょろきょろと辺りを見回した。



 投げつけた無線機が壁に掛かった絵画の額縁を割っていたが、キノシタは気づきもしなかった。
 どういうことだ、俺のポケモンが三体も、第七の屑如きに倒されただと? そんなことはあり得ない。事前に収集していた第七部隊員の調査票を引っ張り出し、イチジョウの所有ポケモンの項を睨みつける。だが敗因の見当をつけるより先に、ハッタリの可能性があると思い至った。
 宿は海に面していて、窓からは海や例の岬を遠くはあるが見通すことができる。キノシタはずかずかと窓へ近づき、錠を回し、押し開けた。
 ――開いた隙間へ、ここぞとばかりに、大きなクリームパンか太った果実のようなものが差し込まれた。
「ッ!」
 咄嗟に窓を閉めようとするが、遅い。いくら豪腕な人間だとしても、ポケモンの力には大凡の場合で敵わない。バルコニーの死角に潜んでいたエテボースが、更にもう一本の尾を隙間へ挟み込む。窓を隔てた無言の押し問答が、じりじりと「開く」へ傾いていく。
「――おお、勤勉ですなあ部隊長殿。第七部隊の面々の情報を、こんなに調べ上げておいでとは」
 聞き慣れない声がした。背後だった。
 驚いて振り向き、その隙にエテボースのロッキーが、窓をすぱんと開け放った。その窓の外からなだれ込んでくる手筈のものは、既に室内にいるのだけれど。
 先ほどまでキノシタが腰掛けていた椅子に、アヤノがふんぞり返っていた。膝で丸まっているグレイシアを優雅に撫でつつ、眼鏡を上へずらして書類を顔へ近づけたり離したりしては、わざとらしく感嘆する。
「おっと、これは俺の調査書だ。どれどれ、元科学部医療班主任……」
「貴様、どうやって入った……!」
「団内規定を大幅に逸脱した実験を独断で強行、実験用個体七十匹に甚大な損害を与えた翌月に、実務部一般隊員へと異動。実質的な左遷である、と。本部の連中も頭が固い、人類の進歩のために犠牲は付きものだと思われませんか?」
 ずかずかと窓際から戻ってくるキノシタに、悠然と足を組み替えて笑む。グレイシアがくわあとあくびを見せる。――クチート、ギャラドス、ドサイドン、ボーマンダ。キノシタの手持ち六体のうち、四体が出払っていることは確認済み。ゲンガーは昨夜の戦闘で負傷しており、もう一体は屋内で易々と繰り出せない大型種。
「実はね、最近素晴らしいものを見つけたんですよ」束ねた書類を丸腰のキノシタへ、アヤノはひらひらと差し向けた。「ポケモンの技を使って人体の一部を再生させ、両者生存しているレアケースだ。『ポケモンの回復技の再生医療への応用』、俺の悲願なんですがね、志半ばでこのように道を断たれましたから。どうしても、その人物に接触したい」
 ですからねえ、隊長殿。やや勿体ぶるようにして、アヤノは顎をしゃくった。
「余計なことをされると困るんです」
 ――ひたっ、と。
 石と呼んで差し支えない材質のものが首元に触れ。キノシタは、さぞ驚いただろう。驚いただろうに、飛び上がって叫んだりと無様を晒さないのは流石だな、とアヤノは内心で感心した。背後からむぎゅっと首に回された二本の銅色の太い腕が、三色のライトをハッピーに煌めかせたから、これから何が起こるかすら察知していたかもしれない。
「ゼンくんから借りたんですけど、この子、男前が大好きでねぇ」
 いや――言葉も出ないだけだろうか。新種の知的生命体から放たれる緑色光に呑まれる直前で、キノシタの口がようやく「あ」の形に開くのを見た。アヤノは朗々と解説を加える。
「イケメンを見つけて興奮すると、すぐテレポートしちゃうんです」
 あー、と続いたはずの悲鳴は、どこへ。
 ……オーベムと共に消え去った哀れな男の残光に、アヤノは苦笑する。やっぱり記憶を改竄しておくべきだっただろうか。いやでも、この極めて不器用なオーベムの記憶改竄能力はせいぜい三秒くらいしか持たない、とゼンも言っていたし、どうにしろ無理な話だろう。
「俺も懲戒処分かなー? こりゃ」



 ところ変わって、岬の霊園。
 西端の小屋と墓地を隔てた真反対にある霊園入り口には、規制線が張られていた。午前中に発覚した高級霊園の大被害は、昼過ぎには相当の騒ぎと化していた。
 ワタツミ自警団の制服を羽織った数人が、住民たちに詰め寄られている。彼らの後ろには、騒動を聞きつけた野次馬や、金持ちの墓が倒壊した胸のすく光景をひと目拝みたい暇人が、ちょっとした人だかりを形成していた。
「あのデスカーンは危険だから、どうにかしてくれって言ったのに!」
 先祖の墓があるらしい住民の一人が叫んだ。岬の先に住み着いているデスカーンは、やたらめったら強いうえ人間を寄せ付けないことで有名だった。
「どうして野放しにしておいたの、駆除してくれとあれほど」
「そうだそうだ、昔だって、あの小屋で子供が殺される事件があって」
「確かまだ十二歳だったのに、可哀想に」
「リューエルでもポケモンレンジャーでも、依頼すればよかったじゃない!」
 たじたじの自警団員たちが目を見合わせる。小屋で身元不明の子供が死んでいたのは確かだが、それがデスカーンの仕業と断定はできなかった。ポケモンレンジャーも、リューエルも、状況を確認しには来たものの、人嫌いしている以外はおとなしい個体で危害を加えてくる様子もない、と消極的な仕事ぶり。ゴーストタイプのポケモンは、ポケモン関連団体にも総じて厄介がられるものだ。
「それに……あのデスカーン、ボールマーカーがついているどこぞのトレーナーの所有物だそうで。そうである以上、現行犯でもない限り、勝手にどうこうはできないと」
「じゃあそのトレーナーをここへ連れてきなさいよ!」
 ヒートアップした住人たちがいよいよ掴みかかりかけた、そのとき。
「待って。本当に、デスカーンの仕業かなあ?」
 子供らしい澄んだ高声が、喧嘩を遮った。
 野次馬たちが、海が割れるように、さっと道を開けてゆく。――気取った歩き方で現れたのは、身長一コンマ四メートルあるかないかの、声質に相違ない子供だった。大きなリボン付きのゴムで結わえたポニーテールが愛らしい。ただ、これが普通の子供ではないと一目で分かるのは、彼女が真っ赤なカラーリングのレンジャー隊員服を身にまとっているからである。
「被害状況を見てきたけど……ポケモンレンジャーの中央組織、レンジャーユニオン所属の私の見立てだと、デスカーン一体の攻撃ではこうはならない」子供のレンジャーごっこではないことを強調するためにわざわざ所属を示して、彼女は続けた。「デスカーンの攻撃技なら、墓石や舗装にはもっと別の打撃痕が残るはず。この状況はむしろ、ものすごい数のゴースが、一斉に大暴れしているような……」
 ゴースという言葉に、一同がざわつく。墓の下に眠る先祖がゴースと化して飛び回ると信じるからこそ、ワタツミの住民たちはゴースを過度に恐れないのである。
「ちがうちがう、あなたたちのご先祖様は悪霊になったんじゃないんです」少女レンジャーがぱたぱたと手を振った。「ゴースって基本的には群れを作りません、そしてこの規模の被害はゴース一匹ではとても出し得ない」
 そこで、ゲンガーです、と少女は指を立てた。
「ゴースの最終進化形であるゲンガーって、すべてのゴーストポケモンの始祖だと言われてる。だから影響力もすごい。ゴースたちって、相手が見知らぬゲンガーだとしても、ゲンガーの言うことならなんでも従うんです。あなたたちのご先祖様を、操ったゲンガーがきっといる。皆さんのご先祖様、誰かに利用されたんですよ」
「一体、誰に……?」
 聴衆が身を乗り出して続きを急かす。そうですね、と少女レンジャーは考え込む素振りを見せた。
「……ここまで大きな被害……ワタツミ中のゴースとゴーストが集まって暴れたくらいの被害だ。流石のゲンガーでも、普通の個体なら、ここまでの数を使役することはできないはず。そうなると、ゲンガーは特別に強い個体……例えば、リューエル実務部第一部隊のキノシタ隊長が連れてるゲンガーなら、町中のゴースたちを操れるかも……」
 これ以上ないタイミングだった。
 自警団、住民、野次馬、少女レンジャーの輪の頭上に――いきなり出現した男性が、野太い悲鳴 をあげながら墜落してきたのは。
 地上より随分上だったが、怪我まではしない高度だったのはオーベムの慈悲か。住人を巻き込みながら墜落した男が恨めしい顔で空を見上げたとき、キュートでお茶目なオーベムのテラは、くるりと一回転してアイドルばりの決めポーズを披露した。そのまま『テレポート』で退場した。
 かくして、騒動の中に突如として現れた新たな登場人物が、内心の動揺を見せまいと咳払いをして立ち上がった。鷹のような鋭い眼光で周囲に威厳を示そうとはしたが、
「何事ですかな。私はリューエル第一部隊長キノシタです、必要とあらば力になりましょう」
 場所が場所、タイミングがタイミング、登場の仕方が仕方すぎて、誰も威厳にひれ伏さない。
 どころか、胡散臭いものへ向かう視線が四方八方から突き刺しはじめる。
「どういうことです?」「あなたがやったのか」「説明してもらいましょうか」
「……?」
 登場早々、見知らぬ人々から怒りの形相を向けられて、流石のキノシタも面食らった――その立派な背広の中央に、「昨晩私がゲンガーに指示してお墓をめちゃくちゃにさせました」と書かれたペラ紙が貼りられていることには、まだ気付かない。
「シラを切るつもりか!」
「全部お前の仕業なんだな……!」
「待ってください、一体なんの話だ」
「失礼ですが、昨晩は何を?」
「昨晩? 昨晩は部下と一緒に宿にいた!」
「あなたではなく、あなたのゲンガーですが……」
 焦って辺りを見回す。――よく目立つ真っ赤な隊員服が、すったかたと喧噪を離れようとしていた。かと思えば、くるりと翻り、一瞬こちらへ顔を向けた。まったく見知らぬ顔。確かにリューエルとポケモンレンジャーは友好的な組織ではないが、個人的恨みを買った覚えもない。
 少女が、いかにも少女らしいあどけなさで、べっ、と赤い舌を見せつけた。
 彼女と、ココウ、かつてココウにいた第七部隊員との関連性なんて、キノシタに想像がつくはずもない。





 第一部隊副長ウラミは驚愕していた。
 キノシタの手持ちの中でも凶悪と名高いクチートの、下顎に足を、上顎に手を掛け、呻りをあげながら、こじあけている、顎と牙がチコリータの頭蓋骨を粉砕するのを、食い止め、押し戻している、それも貧相な白腕の、いかにも根の弱そうな若者が。そのあり得ない光景を、目の当たりにして、驚愕していた。そのクチートの顎がいかに怪力で、手のつけられない鬼神であるかを、知っているからこその驚愕である。
 エトが、クチートの顎を押し開けていた。
 ヒナを食おうとしたその凶刃に、自ら腕を突っ込んで、じりじりと開かせようとしていた。
「まさか……」
 顎を抑えられているクチートもまた、目を見開いていた。
 先ほどまであれほど揚々と暴れていたのに、怯えて力が抜けてしまっている。
「――オーダイル!!」
 エトの蛮行が僅かに、だが確かに隙を生んだ。
 オーダイルが、飛んだ。『アクアジェット』の巨体がまっすぐゲッコウガへ迫った。ゼンが咆哮した。ゲッコウガがウラミを見た。指示を仰ぐ従者に、ウラミは瞬時にこう計算した――ゲッコウガが直前に使った技は『グロウパンチ』、よってゲッコウガは現在格闘タイプ。オーダイルが覚える技で格闘に有利を取れるのは、『燕返し』しか見当たらない。オーダイルは射程距離に到達したあと『アクアジェット』を解除し『燕返し』を打ち込むはずだ、この技を受け流すためにゲッコウガが選ぶべき技は。
「『岩石封じ』――」
 ウラミが技名を命じたのと、まったく同じタイミングで。
 がぱり、と顎を開けたオーダイルの、巨体が、びぐんと脈打って。
 ――現れた岩々を粉砕するかの如き威力、全身全霊至近距離からの『ハイドロポンプ』が、岩タイプと化したゲッコウガの腹の真ん中を貫いた。
「……!!」
 ウラミは奥歯を軋ませ。
「いいか! 俺たちはァ!!」
 激痛の伴う額を抑えながら、ゼンが吠えた。――ウラミの思考を読み切ったわけではなかった、高速で移ろう戦況のさなか慣れぬ読み合いで敵うはずもなかった、ただ、ゼンとゼンのポケモンたちは、力で捻じ伏せることを生業に、幾多のフィールドを駆け抜けてきた。
「相手が姑息な手を使おうが! ちょこまか逃げ回ろうがなァ! 相性差も覆すパワーで、叩き潰すだけなんだよ!!」
 怒濤の攻撃を踏ん張り耐えているゲッコウガ、地を踏みしめて死力を放出し続けるオーダイル。長い、長い攻防だった。だが、ぎりぎり、圧倒的にレベルの高いゲッコウガが持ち堪えるかに思われた――もう一匹の小さな戦士が、その身に力を溜め終わるまでは。
「ヒナ……行け……!」
 クチートの顎を苦悶の表情で押し上げながら、エトが命じた。
 随分前に発動した『日本晴れ』の朽ちかけの火球が、光の粒となって吸い込まれていく。高々と掲げた一枚葉が、燦然と輝いた。繰り出された、葉っぱポケモンの体格に見合わぬ極太『ソーラービーム』――渾身の一撃が、遂に、難敵にとどめを刺した。
 忍蛙の細い体躯が、膝から地面へ崩れ落ちる。
 エトも、ゼンも、喜ばなかった。二人とも戦う者の目をしていた、瞬時にもう一匹の敵へ注意を向けた、牙ではなく顎の甲で柔らかく人間を撥ね除けたクチートが、それでも伸びてきたエトの手を振り切り、たった今大技を出し終えて隙だらけの二匹へとかかった。
「一匹倒したくらいで、勝った気になるなよ」
 言いながらウラミの顔には明らかな焦燥があった。
「雑魚はッ、」
 『じゃれつく』がオーダイルの巨体をいとも簡単に叩き潰し、
「何匹集まっても、」
 振り向きざまの『アイアンヘッド』がチコリータの小さな体を彼方へぶっ飛ばし、
「雑魚なんだよォ……ッ!」
 クロバットと対峙していたヨノワールの背後から、猛烈な『噛み砕く』が、襲いかかる。
 抜群の攻撃を食らった霊体が、くぐもった悲鳴を轟かせ、ゆっくりと傾いて、地面へ伏せた。戦闘不能。
「……ハハハッ! そら見ろ――」
 そして、すっかり気取るのを忘れた顔で指さし笑ったウラミのその、指の先で、笑顔で振り向いたクチートが、

 その笑顔のまま、まっすぐ倒れた。

 ぼすん、と、前のめりに、自らの大顎の下敷きになって倒れ伏した。
 そのまま動かなくなった。

「……。……、……っ」
 ウラミが、口をはくはくとさせる。――『道連れ』。理解は遅れてやってきた。
「待ってたんだ、死神を無警戒に倒してくれるほど、お前が調子に乗るのをな」瀕死のヨノワールをボールへ戻しながら、ゼンが仕返しとばかりにせせら笑う。「次々ポケモンを撃破するのは、気持ちよかっただろ?」
 手持ちたちを気分良く倒させていくことで、あえて敵を勢いづかせた。『道連れ』を習得するポケモンも流れ作業で倒してしまうほど、勢いが冷静を欠かせるまでに――そんな無茶な作戦があろうか。ポケモンはほとんどが自我を持った生物だ、瀕死になれば命の危険もある、まして指示役の人間よりどれもよほど強い。戦闘意欲の高い鍛えられた個体であるほど、無造作に倒されるよう命じられて、易々と受け入れるとは思えない。
「そんな、馬鹿なことが、出来るわけ――」
 ――出来る、のか。この男には。
 ウラミが饒舌を詰まらせる。
 多種多様のポケモンを育て上げ、そのすべてに忠誠を誓わせ、纏め上げ、群れの長として君臨する、彼だからこそ、この非常識な作戦がまかり通る。
 次のボールを手に取った男が、不敵に笑った。その顔に油断も慢心もない。
「さて、ウラミさんよ。次はどんなポケモンで楽しませてくれるんだ?」
 得体の知れない恐怖感に、ウラミが尻込みしたのは、確かだった。
 部隊長の愛獣をボールへしまい込み、クソが、と悪態をつく。だが、まだウラミには無傷の手持ちが四体も残っていた、実力差は歴然だ。選んだボールを、投げるために、体の後ろへ引いた手が、
 そこで止まった。
 ――ぞく、ぞく、と、悪寒がせりあがる。
 目の前の大男の背後から、幾十もの闇と、目玉が、こちらを見詰めるのと、目が合ったのだ。
 まさか、まさかこの大量のゴースたちすらも、彼が使役していると言うのか?

『――おい、ウラミ! どこで油を売っている!』

 無線通信が入ったのは、丁度その瞬間だった。
『例の墓地の入り口だ! さっさと来い!』
 よからぬことに巻き込まれているらしい。この場を離脱しろという指示は、恐怖に息を吹きかけられているウラミにとっては、僥倖とも思われた。
 クロバットをボールへ戻し、今回は見逃してやる、と絵に描いたような捨て台詞。
 背を向けて走り去っていくウラミを見――どかっ、とゼンは尻餅をついた。
「いっ……でぇ、んだこれ……!」
 頭を抱えてのたうち回る。『神通力』による損傷は後できちんと看ておいたほうが良さそうだ。
 チコリータの『甘い香り』に誘惑されて集まったゴースたちが、真の墓荒らしがうめき苦しんでいる姿を見、どうやら報いは受けているようだぞ、とふよふよ喜ぶ。そのまま散り散りに去っていった。
「だ、だだ大丈夫、っすか」
 言って近づくエトのほうも、足がガクガク震えて洒落にならない。結局ゼンのそばにへたり込んでしまった。ヒナが近づいてきて褒めろと擦り寄る。それを撫でる手も笑えるくらい震えていた。
 なんて締まらない幕引き。勝ったのに。……ああ、ああそうだ勝ったのだ!
「……あっはは!」
 苦痛に顔を歪めながら、ゼンが大声で笑いはじめた。
「やった、やったぞ、エト……!!」

 ――仇を討たなきゃいけねえな。

 任務開始前。ヤミラミを待ち伏せながら、ゼンがぶつぶつと語りはじめた。もしイチジョウさんの読みが全部当たったら。ウラミとかいう奴が出てきて、キノシタのポケモンを連れていたら。
 あのとき、ゼンが誰の仇を取るつもりだったのか、エトは履き違えていたのかもしれない。
 ――前、ココウにいた頃、嘘みたいに強いルカリオと戦ったことがあったんだ。
 彼は突然、エトに思い出話をした。
 ――正攻法じゃまったく歯が立たないくらい、強い相手だった。俺のポケモンたちは正直手も足も出んかった。だが、あいつは、トウヤは、そのルカリオを出し抜くために、自分から『インファイト』を食らいに飛び込んだ。
 エトが目を瞬かせる。そういう顔になるよなあ、とゼンは愛嬌のある顔で笑った。
 ――ルカリオは、高名なポケモンレンジャーの手持ちで、人間を大切にするようにとことん躾けられていた。だから、不用意に人間を攻撃させることで、動揺を呼び、隙を作れるとトウヤは考えた。
 酷い博打っすね、とエトは返した。ゼンは深く頷き、
 ――だが、確かに勝った。
 と、懐かしそうに目を細めた。
 ――正攻法で敵わん相手には、そうでもしないと、隙を作れん。……そこでキノシタだが、奴のクチート、人間を食うことをトラウマとして植え付けられるまで、こっぴどく仕込まれているはずだ。そうでなきゃ、キノシタは、ヒトの血の味を覚えたクチートを、団内規定で殺処分しなくちゃあならん。
 今のは独り言だ、と最後に吐き捨てたゼンの奇策を、ゼンが本当に実行したらどうしよう、とは思っていた。だが、自分が実行することになるとは、正直夢にも思わなかった。
 ――夢にも思わなかったことを、やってのけたのだ。
 一歩間違えばズタズタになっていた両手を見る。ついこのあいだまで、ペンや本ばかり握っていた手だった。何事も及第点に触れられるが、何を望んでこなしても、いつも、なにかが足りなくて、自分を満たしてくれるどこかへ、逃げたがっていた手だった。
 握りしめ。静かに天を仰ぐ。
 激しく鼓動する心臓のひびきが、心地よく、エトの全身を満たそうとしていた。


とらと ( 2021/05/25(火) 21:13 )