月蝕


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月蝕
15−8

 約束の日まで、あと七日。

 その日はよく晴れていて、窓辺から清々しい朝日が差し込んでいて、岬のオンボロ掘っ建て小屋には、叫び声が響いていた。
 本当に、突然、始まったことだった。ついさっきまで隣で眠っていたトウヤが、シーツを跳ねて、大声をあげた。驚き固まったミソラを垣間見たあと、弾かれたように立ち上がり、出入り口の戸に体をぶつけ、二度三度ぶつけて錠を壊して、表に走り出していった。
 ボールを叩き割る判断がミソラに咄嗟にできたのは、ほとんど奇跡みたいなものだ。
 飛び出したハリがすんでのところで取り押さえた。あと一瞬遅ければ、トウヤの体は崖を通り越して、波浪が砕ける岩礁へ飲み込まれるところだった。
 酷い剣幕だった。ハリとハヤテが力を合わせてシーツでぐるぐる巻きにしたトウヤは、吼えるようにわめいて暴れ続けていた。まったく言葉が通じない。何を言っても伝わらないし何が言いたいのかも分からない。
 ヒビでアサギに襲われたときも、トウヤが人じゃないものに変わったような瞬間があった。あのときと同じだった。『逆鱗』を使っているときのハヤテみたいな。そうじゃなければ、悪霊に取り憑かれたみたいな。
 メグミは擬態することも忘れて怯えていて、デスカーンは薄暗い部屋の隅でじっとしていて、ヨシオはいなかった。ヨシオがどこにもいなかった。地下の洞窟も浜辺も霊園も走り回って探したが、見当たらない。
 昨晩、トウヤが冷蔵庫の前で生肉を口にしていたあの冗談みたいな光景を、ミソラは何度も脳裏によぎらせた。声を掛けると、ぼうとした目でしばらくこちらを見上げてから、ふと我に返って、咳き込むように、口にしたものを吐き出した。寝惚けていた、と引き攣った顔で笑っていた。あのとき何かすればよかったのだろうか。それとも、もう手遅れだったのだろうか。

 朝ごはんの時間。見よう見まねで卵とソーセージを焼いてみた。腹が減っているんだろう、何か食いたくて暴れてるんだろうと、響く怒鳴り声に背筋を震わせながら二人分朝食を用意した。目玉焼きは目玉が潰れてしまったが、はじめてにしては良い出来映えだった。お皿を持って近づくと、ミソラごと皿を跳ね飛ばそうとした。それを見たリナが牙を剥いてトウヤに飛びかかって、ハリの一撃で壁まで吹き飛ばされて伸びてしまった。意味の分からない罵声を浴びせられながら食べるごはんは、ちっとも喉を通らなかった。
 それでも、じきに正気を取り戻すだろうと思っていた。
 アサギのときは、何をしなくても、すぐに元のトウヤに戻ったからだ。
 外に出て、ドラパルトとお墓掃除をして過ごす。今日もむしれる草はほとんどなく、気持ちの良い風が吹き抜けて、ドラメシヤは投げられたがって絡みついてきて、小屋からは叫び声が聞こえていた。快晴の下、気分よくお墓参りにきた人たちが、顔をしかめて小屋を見ていた。近寄ろうとする人はいなかった。いつもならお墓に話しかけてのんびりと過ごす人が多いのに、今日は皆足早に帰っていく。心の落ち着く霊園は、ゴーストまみれの街中よりも不気味な場所に様変わりした。

 昼ごはんの時間。戻ってみると、テーブルの上にパンと潰れた目玉焼きとソーセージはそのままの形で残っていた。ミソラの顔を見て、ますますトウヤは叫喚したが、別にミソラが特別嫌いなのではなくて、そこにいる全員に対して敵愾心を持っているように見えた。シーツで蓑虫にしたトウヤをハリが押さえつけていて、デスカーンは隅っこでしんとして、メグミは耳を塞いで丸くなっていて、やっぱりヨシオはいなかった。朝とほとんど変わらない光景。
「……何を言ってるか分からないの?」
 メグミはこくこくと頷くだけ。
 暴れる主人を押さえ続けるハリが、棘の生えた右腕を振り上げては、主人の頭へ振り下ろそうとして、躊躇って、震わせながら腕を下げる様を、何度も目にした。トウヤはあんなにお気に入りにしていた案山子草に向かって唾を吐いて怒鳴り散らした。簀巻きにしてなきゃ手を上げていただろう。
 外に出て、昨日こっそり買って隠していたビスケットを食べた。すごく楽しみにしていたのに、期待したほどおいしくはなかった。

 ハヤテが一番冷静だったかもしれない。昼前から浜で『流星群』の練習を再開していた。ひとつふたつと空に現れた火の玉が海面へ墜落していくのを、目を覚ましたリナと一緒に訳もなく眺めたが、ずっと叫び声は聞こえていた。

 もう一度、ヨシオを探した。このタイミングで消えたのだから事情を知っているかもしれない。ドラパルトに訊いてみたが首を横に振られた。デスカーンは赤く光る目でミソラを見上げ、素知らぬ顔をするばかりだった。
 地下の洞窟をくまなく探した。ヨシオの収集品で溢れかえっている洞窟は、最初に歩いたときは宝探しみたいにわくわくしたのに、叫び声が反響しているだけでまるで地獄の混沌だった。
 昨日並んで腰掛けて眺めた海を、一人で見つめた。岸壁に波は大きく小さく打ちつけて砕けた。大きいときの波は、少し怖い。海が怒っているみたい。海がこの岬に何度も波を叩きつけるのは、岬を非難してるようにも見える。岬を、だろうか。岬にいる誰かを、だろうか。
 海の底には神様がいる、とメグミが言っていた。体から自由になった魂は、海の底の神様に会うためにワタツミへ旅をしてくるらしい。
 海の神様は、この岬に、なんの文句があるのだろう。
 昨日何を話したっけ、と、ミソラは懸命になって思い出した。霊園のはしっこまで逃げても、ミソラの耳の中にこびりついてしまったみたいに、叫び声はどこまでも聞こえてくる。思い出そうとするたびに叫び声に掻き消されそうになる。このままじゃ、記憶の中のトウヤの声が、全部叫び声で上書きされてしまう。
『いいよ。行こう。面白そうだ。ホウガなら、一日あれば着く』
 いつ出発するんだろう。約束の日に間に合うだろうか。
『……お前の髪は細いから、あんな風にはならないかな』
 散髪をする時間もいるのに。いっそこの時間を使って、自分で短く切っておこうか。ヨシくんさんの家にハサミがあるかな? 荷物の中にあったっけ。ナイフならあるな。短くするだけならナイフでもいいか。あの果物ナイフ。ココウで、一度、トウヤの首へ突き立てようとした……
 ああ。だめだ。
 嫌なことばかり思い出す。
『じゃあ、ミソラ、お前、僕が自棄を起こしたら』
 トウヤの苦しい笑い方。
『いざってときは、お前が僕を殺してくれ』



 長い、長い、一日だった。



 じきに夕闇がやってきた。ハヤテを鍛えて、ホウガでミソラのルーツを二人で見つけて、ココウに戻ってミヅキと戦うために、無駄にできない一日が、暮れていく。夕日は見えなかった。霊園の小道をゴースたちが漂い、フワンテが海の向こうへ流されていく。ハヤテの『流星群』が見当違いの遠洋に向かっていく。
 小屋に戻る。デスカーンはじっとしている。ヨシオの姿はない。メグミは隅っこで震えている。
 トウヤを見るなり、リナはまた飛びかかって、ハリは今度は止めなかった。トウヤの額から血が出ていて、シーツが点々と赤く染まっていた。ハリが殴ったんだろうと思った。殴ったところで、何も変わらなかったんだろうと思った。リナは飛びかかりはしたが、何もせず、ミソラの足元に戻ってきた。ミソラはリナをボールに戻した。
 すっかり嗄れきった声で、それでも引き絞るように、血を吐くような凄まじさで、トウヤは何かを叫んでいた。何かを訴えようとしていた。そんなに怒ったって、誰にも伝わらないのに。
 ああ、怒っているんだ、と、やっと理解した。理解したけれど、それだけだった。
 夜ごはんの時間。かぴかぴになってしまった朝の目玉焼きを頬張る。とっておきだったはずのビスケットも、気付かぬ間に食べ尽くしてしまった。
 分厚い雲に覆われた月も星もない夜空に、もうほとんど声にならない叫びが、届かず、喉元で潰えている。ハリはくたくたになっていた。自主練習から戻ったハヤテが交代しようと右往左往したが、ハリは主人を押さえつける役を決して譲ろうとしなかった。ハリがくたくたになっているのに、人間のトウヤは、人間だろうと思われるトウヤは、まだ渾身の力を振り絞って、ハリを撥ね除けようとしている。
 布団に入ってみたが、寝られるわけがない。
 けれど他に夜風を凌げる場所もない。
「×××××! ×××××××ッ!」
 絶え間なく続く潰れて破れた怒鳴り声。
「××××××××ッ! ××××××××ッ!!」
 痛くて苦しくて泣き叫んでいる悲鳴にも近い掠れた声。
 ……はっとして飛び起きた。夜風も音も遮断して寝られる場所がひとつある。デスカーンの体の中。ヨシオはデスカーンから離れられないと言っていたじゃないか。そうか、ヨシオは、トウヤがうるさいから、ずっと棺桶の中に閉じこもっていたんだ。そうだったんだ。そうに違いない。
「デスカーン。ヨシくんさんを出して」
 朝から少しも動いていないデスカーンにすがりついて、ミソラは言った。
 デスカーンはまた赤く光る目でミソラを見た。
「中に、いるんでしょ。ねえ。開けてよ」
 デスカーンはじっとミソラを見つめた。からかっているのでも、無視しているのでもない、ただただ、籠の中の実験動物が餌を食べるのを観察するような、感情の見えない視線だった。
「お願いだから……助けてよ……」
 撫でても、揺すっても、びくともしない。
 棺桶の蓋は重すぎて上がりそうもない。息を弾ませながら、デスカーンを見つめた。デスカーンはじっとミソラを見ていた。協力的でもないし、非協力的でもない。ただ、ミソラを見ている。
 開かせばいい、と閃く。力尽くこじ開けられないなら、自発的に開かせるしかない。そうだ。そうだ。それしかない。
 テーブルに放り投げていた肩掛け鞄に手を突っ込んで、引っ張り出した。
 金色の懐中時計。――ヒビを離れるときに、死ぬ間際の、これから自分が死ぬとも知らないタケヒロが、ミソラに贈ってくれた餞別。
「食べたいでしょ」
 デスカーンの目が、やっと意思を持って、ミソラの手の中を捉えた。デスカーンの好物は金塊だ。金ではなくても、金色で金属なら、食べるんじゃないか。震える手でデスカーンの赤い目の前へ持っていく。ミソラが手を左右に振ると、つられるように目が動く。
「これ、あげるから。食べていいから。蓋を開けて。お願い」
 デスカーンの視線が、金色から、ミソラへと、すいと移動する。沈黙。焦燥が募る。苛立ちが募る。デスカーンは、じっとミソラを見上げている。
 見定められているような目つき。
「……開けてよっ!」
 怒りに震える声でミソラは叫んだ。
 蓋が僅かに浮き、黒いスライムのような手が、目にも止まらぬ速さで飛びだした。ミソラは懐中時計を高く放り投げ、蓋と棺の隙間に両手の指を差し込んだ。
 全身全霊で持ち上げる。動かない。びくともしない。黒い手が宙で金色を掴んだ。流れるような動きで手が口元へそれを運んだ。ミソラは呻り声をあげ、一気に力を込めた。すると、あっけないほどの軽さで、ぱかり、とデスカーンが蓋を開いた。
 棺桶の中は、からっぽだった。
 空洞以外には何もなかった。
 ……震える息を吐きながら、ミソラは空虚を見下ろした。デスカーンの顔のあたりから、ガリッ、バキ、グシャ、と、咀嚼音が聞こえてくる。タケヒロが託してくれた希望がぐちゃぐちゃになって潰れる音。断末魔じみたトウヤの声が、一瞬遠のいていた声が、またミソラの耳に、戻ってくる。
 破砕音。咀嚼音。ばたんと蓋の閉まる音。隙間風。ハリの息遣い。ハヤテの甘え声。嗄れたトウヤの叫び声。うるさい、うるさい。メグミが耳を塞いでいる。僕だって耳を塞げればいいのに。ああそうか、塞げるのか。僕は耳を塞げばいいのか。


 自分の心が潰れる音を、だから聞き逃した。


 小屋を出たミソラを、誰も止めなかった。
 ドラメシヤだけが、何も理解していないのか喜んでついてこようとしたが、強い口調で制止すると、しょげた顔で闇の中に溶けて消えた。

 深夜のワタツミは、色とりどりの光に溢れている。
 煌々と光るアーク灯。看板を縁取るネオンライト。庇に並べて下げられたランタン。不気味さはなかった。明るくて、穏やかで、冬の夜なのに仄かな温さすら感じさせる。
 闊歩する人はほとんどいない。どれだけ明かりを灯しても完全には追い払えっこないから、夜のワタツミは誰も出歩かない。
 明かりの届かない場所を縫うようにして、影が行き交っている。それはゴーストポケモンの形だったり、ヒトの形だったり、あるいはゴーストじゃないポケモンの形だったりする。はっきりと輪郭のあるものもいれば、歩くたびに煙が尾を引いて少しずつ霧散していくものもいる。
 ミソラは歩く。ひとりで歩く。気配に満ちた通りの真ん中を、ひとりきり歩いていく。
 前を後ろを、たくさんの声が行き交う。笑い声。泣き声。企みめいた声。賑やかだ。でもその声や音は、透明な水か空気みたいなもので、耳を塞ぎたくなったりはしない。
 口を引き結んで、まっすぐ歩く。
 歩いていく。
 何かとすれ違う。見えないものが通り過ぎる。たまに体の中をすり抜けていく。
 不規則な場所に灯っている明かりはランプラーの灯だった。
 ダストボックスに背凭れて、ジュペッタがひとりで酔いどれていた。
 隘路の奥からムウマージが優しい笑顔で手招きしていた。
「……あんまりお金持ってないから」
 手を擦り合わせていたサマヨールとポットデスが、残念そうに薄らいでいく。
 皆、どこか、浮き足立ってる。
 顔のない細長い影が、そよ風に吹かれるような速さで歩んでいる。不気味なのに、なんだかひょうきんに見えるのは、なぜなんだろう。死ぬときは大なり小なり苦しかったろうに。死んだら楽になるということは、幽霊の世界には、悲しみも苦しみもないのだろうか。だからゴーストポケモンたちは、皆楽しそうなのだろうか。
 ヒトの子供のような声が泣き叫んでいるのが聞こえて、目をやる。
 いつの間に、公園に来ていた。誰もいない公園の隅で、トウヤに懐いていたあのカラカラが、顎を上げ天に向かって大声をあげて泣いていた。
 眺めていると、見られていることに気がついたのか、はたと泣き止む。こちらを見ている。
 じっ、と見つめ合う。
 ゆらめくように時が流れる。
「……幽霊だって、泣きたいときくらいあるよね」
 例えば、ゴーストたちの空騒ぎは、不安なことがあると途端におしゃべりになる僕たちの空元気に似てるかもしれない。カラカラはこくんと頷いた。


 歩いた。どんどん夜は更けた。中心部の街灯りが遠ざかる。ミソラの後ろには、頼んでもない護衛よろしく、カラカラがついてきてくれている。
 空を見上げた。厚い雲に覆われている。月は今、どのくらい欠けているのだろうか。
 日常が完全にひっくり返った、ミヅキのことを思い出したあの夜、ヒガメ峡谷の夜空は満月だった。身の丈に合わない宿に泊まって、露天風呂に入って、トウヤと二人で月を見上げた。
 トウヤが月みたいだと、ミソラは彼に言った。ミヅキは昔のミソラに、自分のことを月だと言った。ミソラには月がふたつある。忘れていた満月の明るさに、よく似た形のものを押し当てて、月に見立ててしまった。月をふたつにしちゃいけなかった。月は夜空にひとつだけと決まってる。きっと、月がふたつになったから、ミソラの世界は壊れはじめた。
『どうして月が光っているか、知ってるか』
 満月を見上げながらトウヤはそう問うた。
『あれは、実は、太陽の光なんだ。太陽の光を反射して、光っているように見せかけているんだ。偽物の光だ』
 自分は偽物だと、彼は分かってほしかったのだろうか。
『……じゃあ、』
 そのあと、どうして、あんな話をしたのだろうか。
『月蝕のことは?』


 オリベの家は真っ暗だった。
 当たり前だ。真夜中だ。一人でオリベに会いに行った日が、とうに一昨日になっている。
 門を開ける。抜きっぱなしで積み上げた草が夜風に震えている。地面から少しだけ浮いているカラカラが、ぼうと後ろをついてくる。
 ノックをすることにためらいはなかった。
 ややあって、室内に明かりも点かぬまま戸が開き、オリベがそっと顔を出すのにも、驚きはなかった。
「ルディ」
 腰を屈ませて目線を合わせ、目尻を下げて、オリベは微笑んだ。
「……どうしましたか?」
 小さく震えながら、ミソラは息を吸った。
「知りたいことがあって、きました」
 彼は、ゆっくりと首肯する。
「いいですよ」
 ミソラはまっすぐに問う。
「ワタツミの海に、神様は、いますか」
 オリベは微笑んでいる。
 ミソラはその目の奥を見つめる。
「人は、死んだらどうなりますか。魂は、どこへ行きますか」
 ややあって。
 オリベは静かに頷いた。
 それから、こんな話をした。
「ルディは、『心の雫』を知っていますか」





 ハヤテが咆哮した。
 一瞬、狂人が増えたかと錯覚したが。ドラパルトがハヤテを追って小屋を飛び出し、沈黙を貫き通していたデスカーンすら地下道への扉を破って飛び込んでいったのを見、ハリも異常事態を察知する。押さえつけている主人は嗄れきった声で何かを訴え、弱々しく咳き込み、いよいよ力尽きかけていた。
 は、ハリ、と、怯えきったメグミが、震える腕で窓を指した。
 ――窓の外、小屋をすっぽりと覆う闇が、闇がユラユラと嗤っている。
 メグミに主人を押しつけた。擬態を、と命じた。すがりつくメグミを振り払い開けっぱなしの扉から表へ出て、判断を誤ったと悟る。
 幾百、幾千の目玉が、瞬く間に視界を埋め尽くす。
(『黒い眼差し』……!)
 目を背けたが遅すぎた。

 いつか聞いた邪悪な笑い声が、夜の岬に響き渡る。





 ミソラは夜の砂浜に立っている。
 波の音がする。寄せては返し、砕け、戻す波の音。絶え間なく響いている。足の裏が冷たい砂の感触を掴んでいる。足の間を、墨汁のような黒い海が、さっと駆け抜けては、引いていく。空を見上げる。月もない、星もない。水平線の彼方で闇と闇が溶け合っている。暗闇は敬虔に世界を包む。波が足首を浚うようにまたやってくる。暗く冷たい海の黒に、白波の綾が浮かび上がる。


 ミソラは波の中を歩きはじめる。


とらと ( 2021/03/13(土) 19:29 )