月蝕


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月蝕
15−7
 約束の日まで、あと八日。

 次こそはナゾノクサだと思って引っこ抜いたら、これも本物の雑草だった。ドラパルトが綺麗にしている霊園とは大違いだ――真冬なのに汗を垂らして庭掃除を敢行しながら、ミソラはふと顔を上げる。ワタツミ上空に広がるのは、今日も陰鬱な曇り空。
 とはいえ、墓掃除には、絶好の日和かもしれない。
『抜いた草、どうするの?』
「まとめて燃やすよ」
『……めぐみ、燃やす?』
 控えめに問うてくるのは、今日は見慣れたオニドリルである。
「燃やしてくれるの?」
『破壊光線でなら、燃やせるけど』
 抜く前より汚らしく見える散らかった枯れ草を見下ろしたあと、二人揃って、隣を見上げる。
 ワタツミ南西の海岸近く。庭つきの小さな一戸建ては、見れば見るほどオンボロで、近くで『破壊光線』なんて撃ったら跡形もなく吹き飛びそうだ。
 抜いてみると結構な量になった雑草を、鋤(すき)に振り回されつつ庭の端に寄せる。ひと夏くらい放置しないと茂らないんじゃないかという量だ。ルディとやらは、昨日までここに住んでいたらしいが、お手伝いはしなかったのだろうか。
『燃やす?』
 燃やしたがるメグミに加え、転げ回って遊んでいたリナとドラメシヤが、目を輝かせて見上げてくる。リナは炎タイプの『目覚めるパワー』を使えるけれど、こういう草を燃やさせるには不向きな技だ。『炎』というよりは『熱』に近くて多少の爆発力もある、火のついた枯れ草が四方八方に吹き飛んで家が大火事になりかねない。
「……えーと……」
『火の粉』とか『火炎放射』とかが使えればな、と汗を拭って、覚えられるんだよな、と思う。
 ただし、進化後の話だ。ニドリーナは進化すると多種多様な技を習得できるようになる。昨晩ヨシオが技マシンを並べながら教えてくれた。目移りするラインナップの中には、『破壊光線』に加え『火炎放射』も含まれていた。
 ――『冷凍ビーム』に『十万ボルト』はもう使えるんでしょ。『火炎放射』まで覚えちゃえば、いよいよ広範囲に刺せるねぇ。
 先進地域の大会では『技は四つまで』という決まりがあるが、旅なら手数は多いほど良い。ヨシオの論調は夢があってわくわくした。
 ――リナはそれなりに使いこなすだろうな。問題はトレーナーのほうが持ち技を扱いきれるかどうかだ。
 トレーナーが誰なのかは敢えて名指しせず、トウヤは呆れ気味にぼやいた。一理ある。正直『進化させれば』という時点で、自分より大きなポケモンを制御できる自信は皆無だ。
 ――でもさあ『波乗り』が使えれば、船に乗らなくても海を渡れるよ?
 トウヤによく似た目で、甘えるようにヨシオはミソラを覗き込んだ。
 ――『シャドークロー』があれば、おばけだってもう怖くない。あとは『泥棒』覚えさせときゃ路銀に困ったとき便利だぜ? それにほら、この『ネコにこばん』ってのは、技を使うほどお金が貯まるという世にも奇妙な代物でぇ……。
「よい……しょっ、とぉ!」
 根の深い雑草を力尽く引っこ抜き、勢い余って尻餅をつく。
 リナとドラメシヤ、二匹こっちを見て笑っている。メグミはすっと目を逸らし、ぷるぷると体を震わせた。……やっぱり馬鹿にされないトレーナーになるのが先だろうか。



 オリベの家に向かうことを、ミソラは誰にも伝えなかった。
 一晩考えた策はこうだ。「墓掃除に行ってきます」。オリベの家を最初に「墓」と表現したのはヨシオなので、嘘つきはヨシオでミソラは騙された側、よって嘘はついてない。とはいえ、「墓掃除に行ってきます……ドラパルトが行くからいいって? いえいえ、私が行きますよ。そうだ、ついでに食材の買い出しに行くので遅くな……ついていくって? このくらいひとりで大丈夫です。お店の場所が分かるのかって? それは、ええとですね」と苦しい言い訳具合だったので、おそらく言わなくたってバレている。
 やってきたミソラを、オリベは温かく迎え入れた。何も聞かなかった、疑問すら抱いていなかった。彼にとって、『ルディ』がこの家にいることは、帰ってくることは、至極当たり前のことなのだ。
 どろんこになった手を洗おうと庭の蛇口を捻ってみると、果たして水は出なかった。表へ回って、玄関を開ける。お手洗いってどこですか、と訊きかけて、危ない危ない。それじゃ僕が『ミソラ』であって『ルディ』でないことがバレてしまうな。けれど、不思議と、そうなることをあまり恐れていない自分もいる。
「あの、庭の蛇口が壊れてるみたいなのですが……」
 オリベはいつ見ても、奥まった薄暗い場所にある安楽椅子に腰掛けている。
 日当たりのいい窓辺に置いてある車椅子は使っていないにしては綺麗で、昔それを使っていた人に庭を見せてあげているみたいだ。
「掃除はもういいですよ、ルディ。ここに座っていてください」
 オリベに言われると、穏やかな口調なのに、なんとなく言うとおりにしようと思える。
 安楽椅子のそばにあるローテーブルと揃いのソファに、ミソラはおずおずと腰掛けた。
 話しかけられるでもないし、お茶もお菓子も出してくれない。オリベが起きているのかどうか疑わしい瞬間もある。こうして二人でいると、ミソラは少し緊張した。まるで品定めされているような、今から口答テストでも執り行われるかのような。人見知りしない、とまでは言わないが、自分はこんなに物怖じする性格だったろうか。
 そわそわと首を回す。話題になりそうな当たり障りのないものはないか。居間の奥にシンクが見えるが、料理をしている痕跡がないのは既に確認していた。
「あ、あの……」
 口を開くと、必ず彼は微笑んで、興味深そうに耳を傾けてくれる。
 なのに、どうしてビクビクしてしまうのだろう。分からない。
「何か食べたいものはありませんか? ……あ、私は作れないんですけれど、料理の上手な知り合いがいるので、今度作ってもらって持ってきます」
 傍目に見れば、同居人が同居人に言うにはあまりに不自然な言葉だったが、オリベがそれを気にすることはやはりなかった。
「気を遣わなくとも、大丈夫ですよ。ルディは良い子に育ちましたね」
 ……ぽぽぽ、と頬が熱くなる。褒められると、純粋に嬉しい。赤くなっているのが恥ずかしくって、「自分の部屋の掃除をしてきますっ」と席を立ってしまった。
 ――嫌われなくてよかった。自室の扉を閉めて息をついて、ひどく安堵する自分がいた。オリベのことは嫌いじゃない。だけど、あの得体の知れなさを、妙に恐れてしまっている。
 一度、ひとりで、オリベやこの家と向き合ってみたかった。トウヤがいると、どうしても甘えが出てしまう。それにトウヤが言っていた「先生は僕を警戒している」という話が本当なら、トウヤがいないときのほうが情報を引き出しやすいかもしれない。
 けれど、いざ一対一で向き合ってみると、何もされていないのにじわじわと刷り込まれる気がしてくる。自分は子供で、何も知らなくって、あの人に刃向かえるわけなんかなくて……。
(……よし、探そう)
 切り替えるために、ぐ、と両拳を握った。自分の問題は自分で解決してみせる。忘れた過去を紐解くヒントが、この家のどこかにあるはずだ。
(『ルディ』。庭の草むしりすらしない怠け者。僕だったら、ちゃんと手伝いできるのに)
 昨日ひっくり返した机の引き出しをもう一度漁る。日記でも出てきやしないか。
(なのにミヅキちゃんは、その子を連れて出かけていった)
 その場所は僕のだ、と、心の中で小さいミソラが吠えている。
(オリベに読み書きを教えてもらってたって言ってた。本当かな? 『書き』を学んでいたなら、使いかけのノートくらい出てきてもよさそうなものなのに……)
 落書き帳すら見当たらない。あるのは、ちびて色も揃っていないクレヨン。カラフルな指人形(どれも人間の、あるいは架空のキャラクターで、ポケモンを模した人形ではない)。トランプは折れたり曲がったりでよく遊んでいたみたい。なのに、どれも引き出しの奥や棚の中に、角を揃えて行儀良く収まっている。まるで、最初にしまわれた位置から一歩も動いていないかのように。
 窓の外からリナとドラメシヤが覗き込んでいる。雑草の山を指さしている。「勝手に燃やさないでね、火事になっちゃう」と窓越しに声をかけると、伝わっているのかいないのか、二匹まとわりつきながら離れていった。
 家の中にヒントがないなら外で遊んでたんだろうか、とも考えた。でもひとしきり草むしりをしてみて、やっぱりピンとくるものは何もなかった。
 だめだ。……どさん、ベッドに倒れ込み、天井を見上げる。考えれば考えるほどこんがらがってくる。そもそも何を探していたんだっけか。自分がこの部屋にいた証拠? この部屋にいた記憶なんかないのに? この部屋は、ルディの部屋なのに?
 何か手掛かりが、欠片でもあれば。ファンタジックな児童文学ばかりつめこまれている本棚に目を移す。「お前、最初、ポケモンのことを『魔物』だと言ったよな」。手掛かりらしいものといえば、本くらいか。でも本棚は昨日も調べたんだよな、と顔を背けて。
「……あ」
 学習机の上に、ブックスタンドで立てられた本があるのに目を留めた。
 一冊はやはり児童文学。けれどもう一冊は、子供部屋に置くにはいささか堅苦しい背表紙の――携帯獣学の、専門書だ。ちょうど、トウヤの本棚にあって、ミソラが開けては閉じていた感じの。
 この部屋に、ポケモンが語られている本を初めて見た。
 開いてみる。医学書だ。炎タイプに特有に見られる難病について記されている。内容は理解できそうもなかったからこそ、気がつけた。
(……しおりが挟まってる)
 分厚い本のほとんど終盤に。
 他の本にはなかった特徴だ。宝の地図を発見したかもしれない。胸の高鳴りを押さえつつ、ミソラはその箇所を開いた。
 やはり、何が書いてあるのかさっぱり分からない。少しがっかりして早々に読解を諦めた目が、自然としおりのほうに移る。しおり、と呼ぶにはちょっと情けなさすぎる、無地の紙を長方形に切り取っただけのペラ紙だった。そのペラ紙の、ど真ん中に、黒いペンで、ひとつだけ。
 いびつなマル印が、書かれているの、目にした途端、

 ――これが何だか分からない? センスがないなぁ、まったく。

 空虚なモノクロだったこの部屋に、温度が、匂いが、鮮やかなほどの色彩が、一斉に咲き乱れる。

 ――月だよ、月。ミヅキの『月』。ひと目見たら分かるじゃん。
 ――分かりませんよ。ただの丸ではありませんか。

 瞬く間に、呑み込まれていく。からかわれて頬を膨らせむくれていたのが、まさに今このときであるかのように。

 ――月を描くときは、三日月とか、どこか欠けているように描かれたほうが、月だって分かりやすいですよ。
 ――でも、三日月より満月の方が、大きくて明るくて綺麗でしょ?
 ――ミヅキちゃんは大雑把だから、三日月の繊細な美しさが、きっとお分かりにならないのです。
 ――それでも、おいしそうなのは満月のほうでしょ?
 ――普通は、おいしそうかどうかで、月の魅力を判断しませんよ。

 普通がどうなのかなんて、本当は知りようもなかった。ミヅキを通して見る世界こそが、世界のすべてだった。

 ――私が月だから、ルディのしおりは太陽ね。

 ミヅキはそう言って、もう一枚のメモの切れっ端に、簡素すぎる太陽の絵を描いた。医学書と一緒に立て掛けられていた児童文学のほうに、太陽のしおりは確かに挟まっていた。

 ――私が太陽なら、先生は何ですか?
 ――そうだなあ、先生は、海だよ。海。
 ――アサギは?
 ――アサギは、森。
 ――それじゃあ、

 舌っ足らずな自分の声が、目の前にある優しい姉の顔に、問いかける。


 ――モモちゃんは?


「探し物は、見つかりましたか」
 穏やかな潮騒のような声が、いつのまにか傍らにあった。
 部屋は静かで、色彩はなく、彼女の匂いもしなかった。ミソラが見つめていた月と太陽のしおりを、オリベはそっと覗き込み、目を細めた。
「ルディはその本が好きでしたよね。何度も何度も読んでいました。魔物や魔法のある世界に、想いを馳せるのが好きな子でした」
 その本に登場する魔法士見習いの主人公は、おそろしい魔物を使役する大魔導師の先輩を「お師匠様」と呼んで慕った。
 ミソラはゆっくりと部屋を見回す。違う、と思った。窓の位置。壁の色。何もかも違う。ここは、ミヅキがしおりを描いたあの場所ではない。
 そうか。そうだ。やっと理解した。
 『僕はこの場所に住んでいなかった』。
「この本、引っ越しするとき、一緒に持ってきたんですよね」
 恐れはどこかへ引っ込んで、口は勇み足にすらなりかけた。振るった鎌が空振りした場合のことなんて考えなかった、ほとんど確信に近かった。
 オリベは少しきょとんとして、それから首肯した。
「もうひと月もすれば、一年になりますね。月日が経つのは早いものです」
「先生、あの」
 本当にそう呼んでいたかどうかなんて、どうでもいい。
 そのときミソラの前には、オリベでもミヅキでもなく、トウヤの顔があった。思いつきを確かめて、早く報告したかった。オリベが恐ろしいからでも、一人が不安だからでもない。一歩謎解きに近づいたこの興奮を、誰よりも、トウヤと共有したい。
「モモちゃんって、どこにしまったんでしたっけ?」
 困ったように小さく笑んで、オリベは答える。
「ホウガの家に置いていくと、言ったのはルディではありませんか」





 『流星群』の難しいところは、頭上に隕石を発生させてからそれを墜落させるまでにかなりのタイムラグが生じる点だ。
 大昔の解説書には大方『天空から隕石を降らせる』等あたかも宇宙から隕石を引っ張ってきたかのような書き方がしてあるが、実際には隕石……に近しいとされる物質が高度数十メートルに『湧いて出てくる』。それが火の玉になって墜落するのを直撃させてダメージを与える。余談だが、自重以上の重量を持つ物質を発生させるメカニズムについては浪漫のままだ。グレンのウォーグルが『岩雪崩』を使えるが、鳥であるウォーグルが岩を出現させる原理なんて、解明される日が来るのだろうか。
「――ひゃっほおおおおおおおう!」
 デスカーンをサーフボードにした従兄弟が、海上を猛烈なスピードで迫ってくる。
 不思議な不思議な生命体の神秘をトウヤはひとまず追い払った。目下の問題は厄介な親族と、隕石を発生させたハヤテがどでかい石像と化すことだ。
「ハヤテ右!」
 跨っているガバイトの首を抱えてぐいんと引っ張る。かなり遠方にどざんどざんと墜落した『流星群』をご丁寧に見届けたハヤテが、ハッ、と正気を取り戻した。
 すんでのところで横っ飛びに避ける。七十キロ以上の黄金の棺が物凄い勢いで通過していく。棺桶って海水に浸けてもいいのだろうか。金だからいいのか――やや腰を落とし両手を広げ、バランスを取る真似事をしている怨霊・ヨシオは腹が立つほど楽しげだ。
「そんなんじゃ伝説のサーファーことヨシオ様には当てられないよーん!」
 もちろんサーファーだった歴史はない。ハヤテが憤怒して地団太を踏むが、波打ち際だったので巻き上げた飛沫は全部トウヤの顔にかかった。
「うえっ」
「じゃっもう一回いきましょっか! 『流星群』はPP少ないから何度も練習できないぞ、もっと集中しなきゃあバカ竜」
「勝手に仕切るな!」
 技が完了するまで体が硬直する、という仕様ではないらしい。流星の向かう先を目で追わないとうまく狙いを定めらず、ついつい気を取られてしまうようだ。隕石から視線を離すととんでもないところに墜落する。かといってじっと軌道を見守っていると、あっさり懐に飛び込まれる。高威力かつ広範囲だが命中率が思わしくない、という解説書の意味がよく分かった。
「目は逸らさなくていい。発動させたら、後ろに退いて距離を取るんだ」
 実践ならハリの『綿胞子』等でフォローもできる。当のハリは砂浜でのほほんとして見守っているが。
 宙を飛んであっという間に沖へ出た棺桶が着水する。手足で健気にパドリング(波を掻き前進)するデスカーンの背後から波が迫る。「テイクオフ!」元から立っているヨシオが叫び、デスカーンは華麗に波に乗った。重心を下げて波を掴み、鋭いボトムターン(波最下部旋回)からのオフザリップ(トップ180度ターン)。華々しくスプレー(水飛沫)が舞う。
 コオォ、と吼えたハヤテの頭上高くに、赤く燃える火の玉が現れる。三個、四個。上出来だ!
「退け!」
 踵で体側を叩くと指示が通った。頭上と波間の標的の両方を視界にとらえたまま、ハヤテが後方へジャンプする。がくん、と体がふれて思わずハヤテの首へしがみついた。ハヤテの跳躍力が凄まじいことを失念していた。
 しがみつけなかった。手が滑る。
 体表が濡れていることも右手に力が入らないことも失念していたらしい。集中していないのはトレーナーもだ。
 どしゃあと水中落下した主人を残してハヤテは後ろへすっ飛んでいく。目を開けると天に揺蕩う波模様が見えた。澄んだ青色の世界。きらきらと踊る泡。真冬の極寒の海水温! 足どころか尻の着く水深だが背中から落ちたので冷静を欠いてしまった、空いた口から塩水がなだれこんでくる。慌てて顔を上げえずいた後ではもう遅かった。ズレたゴースグラス越しに見える波がそこまで迫っていた。正確無比なカットバックでボードを加速させたヨシオの顔も。
 ――『竜の息吹』で波を変えられるか? いや、間に合わない、『ドラゴンクロー』で、
 ハヤテへの指示を考えたのではなかった。
 体が勝手に前へ出ようとしていた。右手を振り上げようとしていた。
「え?」
「吹っ飛べっ『シャドーボール』!」
 真っ黒な塊が突然現れ目の前に墜落し、衝撃で海水ごと吹き飛ばされた。
 宙を舞いながら、呆気にとられる。
 ――今、僕は一瞬、自分を『ポケモン』だと錯覚した。



 遠浅で助かった。砂漠の海で暮らしていると泳ぎ方を忘れてしまう。
「……このデスカーンって、出来ないことあるのか?」
「あるよ、あるある。例えば俺を成仏させることとか」
 震える体を温めて小屋から戻ってくると、デスカーンがモンスターボールの修理を完成させていた。
 アサギに罅を入れられた、ハヤテとメグミのボールだ。共に損傷は上蓋のみで、買い換えが必要な程ではなかった。ワタツミ市街の中古材屋で格安で買ったボールマーカーなしの中古ボールを分解し、外した上蓋を元のものと取り換える。ジョイントの組み立て方さえ知っていれば簡単な修理だが、十日以上を要したイズのボールだって難しい修理ではなかった、今の右手の状況なら時間が掛るだろうと踏んでいた。
 メグミのボールを開閉してみる。――ケチのつけようがない仕上がりだ。開閉スイッチの反応など、前より具合がいいのではないか。
「ラティアス、逃がされてない? 腐ってもゴーストだからね、こいつ」
「腐ってるもんか。完璧だ」
 サーフボードであり、腕の立つ料理人でもあり、寝具でもあり、椅子でもある。やることだけやらされたら、後は王様の尻に敷かれている。哀れなデスカーンを労ってやりたかったが、生憎労ってやれるものを何も持っていなかった。いつか純金を食わせてやるよ、と出来もしない約束をした。ゆびきりげんまんを求められた。念のため断っておいた。
 岬崖下の浜の端では、白波の中でハヤテとハリ、それにドラパルトが二対一の組手をしている。あれは極めて人間に友好的な子持ちゴーストだが、案外レベルが高い。身内同士で訓練するよりは、良い練習相手になってくれるだろう。
「ドラパルトのやつ、楽しそー。たまには草むしりじゃないこともしたいんだろうな」
 戦況を眺めるヨシオの尻の下から物言いたげに伸びてくる視線。気付かないフリを徹底しながら、トウヤは頷く。ポケモンには戦闘本能がある、とは、トレーナーの残虐な行いを肯定するための言い訳ではなく、彼らと一緒に暮らしていると常々感じさせられることだ。どんなに非力なポケモン、またはどんなに温和な性格のポケモンだって、技を使っているときは目の輝きが違う。生き延びるために戦うことを強いられるから、力を振るうのを好むよう遺伝子にプログラムされているのだろう。
 なら、ポケモンと混じった人間はどうなる?
 ハヤテが『ドラゴンクロー』を振りかざし、ドラパルトが『高速移動』で退いて躱す。『不意』を『討』とうとしていたハリが即座に『ミサイル針』へ切り替えて牽制する。
 ――戦いたい。
 彼らを見ていると、トウヤは胸が騒ぐ。座って見ているのが歯痒い。大声で叫び出したくなる。それは、暇さえあればココウスタジアムに通っていたトレーナーの性とはまったく違う。体の内に溜まったのものを吐き出さなければ気が済まない、という類いの、衝動的で浅ましい欲望だ。
 サーフボードに轢かれかけたとき、一瞬沸きあがった原始的な感覚は、まるである種の麻薬のように、脳内をちらつき続けている。――切り落とした自身の足をミミロルの『癒やしの願い』で再生させた男は、最後には発狂して投身自殺した、とハルオミが言った。違ったのではないか。彼はきっと、ミミロルのように軽やかに空へ『飛び跳ねる』ことができると錯覚し、心のままに窓辺から発ったのではないか。
「……そういえば、オリベ先生について、少し思い出したよ」
 気を紛らわそうと、話題を変える。『先生』をつけて呼ぶ方がしっくりくる名前だった。
「姉さんが懐いてたってのは本当だ。モモを診せに行ってたんだ、生まれつき体が弱かったから」
 故郷はポケモンの病院があるような都会ではなく、研究所の大人たちは病気のポケモンがやってきたらとりあえず腹を捌いてみそうな人たちばかりだった。学校の携帯獣学の先生は、ポケモンの健康相談ならあの田舎でもっとも信頼に足る人間だ。
「朧だが、僕も一度ついていったことがあった気がする。モモが死んだ後も交友が続いていたんだな」
「お世話になった『先生』が赤ちゃんの世話に困ってるって知って、ミヅキ姉ぇはベビーシッターを紹介したわけだ」
「アサギは僕らきょうだいを育ててるから、ヒトの子供の世話には長けてる。ルドルフ・シェーファーはアサギが育てた三人目の赤ん坊ってことになる」
「嬉しいねえ、きょうだいが増えたよ」
 茶化すヨシオに、昨日ワタツミ市街で三きょうだいに間違われ、不服の面持ちでトウヤを『兄さん』と呼んだミソラの様子を思い出す。……いや、同一視するのは早計か。
「ミソラとどういう関係なのさ、その『ルディ』とやらは」
「こっちが訊きたいよ」
 ルドルフ・シェーファーがそのままミソラだとすれば、オリベの家を離れる際、自分がいなくなったことがバレないように、身代わりを残して出ていった――あるいは、赤ん坊は元から双子だった、と考えてもいい。
「そういえば、ミソラが『兄弟がいた気がする』と言ったことがあって……」
 閃きに興奮しかけて気付いた。その兄弟がなんなのか、既に紹介されている。
 ――この子がモモちゃんです。
 ハガネールの背の上で、アチャモドールを抱きしめながら、ミソラは真面目な顔でそう言ったのだ。
 ――モモちゃん、私のことを『兄弟』と呼んでいましたから。
 しかもそのアチャモドールは、トウヤがハヅキの誕生日プレゼントに買って渡しそびれたのを、ミソラが勝手に引っ張り出して私物化しているものだ。明らかにミソラの経緯とはなんの関係もない、けれど。
 ――このアチャモドールが、『守る』を使うの?
 困惑したアズサの問い。
 ――いえ、これは、依り代で……。
 言いながら、自分で戸惑っているような顔をするミソラ。
 ――このあたりにいます。
 己の小さな胸を、とん、と押さえた手。
 ……額を押さえて海の果てを睨みつけるが、水面は静かに揺れるばかり。手の届く範囲に、解がある……気がするが、それはゴースのガスみたいなもので、そのままでは正体が掴めない。なのに、おそらくオリベは全容を知っていて、それを好きな形に造型することすらできる。
「……なあ、ミソラを育てたのはやっぱり先生だと思わないか?」
 言いながら、なんだかこれは投げやりだぞ、とトウヤは自身に呆れを覚えた。
「なんでさ」
「そうじゃなきゃ、あんなに懐かないだろ」
「そうかい? 俺にはパパと感動のご対面を果たした、って顔にはまったく見えなかったがなあ」
「でも、今日も会いに行ったじゃないか。それも僕にわざわざ隠して」
 ヨシオはトウヤのこんがらがった思考の結び目をひとつずつ解きほぐすような話し方をする。彼にちょっかいを出されていると、自分が本当に吐き出したいことが、知らぬ間に手繰り寄せられてくる。
「姉さんと同じだ。年季が違うんだ。半年ちょっとの付き合いの僕より、ミソラは姉さんや先生を選ぶ」
 そのことに苛ついているのだった。
「おいおい、嫉妬は見苦しいぜ」
 ヨシオはからからと笑った。『ドラゴンアロー』を片方ずつ食らって二体同時にひっくり返っているハリとハヤテを眺めながら、確かに。嫉妬なんか、する意味があろうか。する権利が、あるだろうか。
 記憶を失う前のミソラが、オリベと穏やかな生活をしていて、その生活に戻れるのなら、それは素晴らしいことだ。トウヤとミヅキの喧嘩に巻き込まれて誰を殺すだのと言っているよりは、よほど幸福に違いない。――そうだ。そうだ、僕は手を離してやるべきだ。自由にさせてやるべきだ。もうこんな悲しいことはやめにしよう。僕はあの子の手を離して、遠い場所から幸せを願おう。
 小さな家の扉が開いて、先生がミソラを出迎える。
 僕の隣に立っているミソラが、お伺いを立てるように、僕の顔を見上げてくる。僕は頷く。手の中にある小さな手が、するりと抜けて、先生のほうへ向かっていく。
 さようならミソラ。
 末永くお幸せに。
 からっぽになった右手へ、僕はなんとなく視線を落とす。
 ――さみしくなるな。
 単純明快すぎて馬鹿らしい感情を右手の内に握り潰そうとした。できなかった。空想の中のそれほど、トウヤの右手は強くモノを掴めないのだった。
「なあ、家出するとき、怖くなかったか」
 その手で額を押さえて問うた。
「僕も家出したかった。するべきだった。ココウにいたら迷惑がかかるって、あの頃本当に分かってた。なのにできなかった。怖くて踏ん切りがつかなくて、色んなことを言い訳にした。だから皆を巻き添えにして、たくさん辛い目に遭わせてしまった」
 いつも一人になりたかったのに、いつも手を離すべきだったのに、いつだって誰の手も離せなかった。誰のことも信じられなかったのに、誰のことも信じたがっていた。
 あの日、ちょこちょこと後ろをついてくるミソラをあんなに煩わしいと思っていたのに、いつの間に、こんなに心を寄せてしまった。
 ヨシオは涼しい声で答える。
「俺は誰にも頼らなかったから、海の向こうまで行けなかった」
 トウヤは顔を上げた。
 あくまでノーダメージの様相で、ヨシオは飄々として言い捨てた。
「不安ならさっさと迎えにいけば? 帰る気があるかは知らんけど」
「……そんな話はしてない」
「帰ってこなくても文句は言えないよね、トウちゃんの手持ちじゃないんだから。それともあの子の耳の穴にはボールマーカーがついてるわけ? 取られるのが嫌ならさ、ちゃあんとボールに入れとかなきゃ」
 私をモンスターボールに入れてください、と大真面目に頼み込んできた、いつかの姿が思い起こされる。
 振り返ってみればあんまりにも愛らしかったあの顔を、目蓋の裏に鮮やかに映して。「入れときゃよかったな」と、トウヤは小さく苦笑を浮かべた。





 トウヤの両親の死の真相を聞く、というそもそもの目的が未達だと二人が思い出したのは、その日の夕方になってからだった。
 海の向こうに晴れ間があって、橙色の光が海上を伝って浜へ、そして岬の上まで伸びてくる。行儀良く並ぶ墓標の長い影を踏まないように、ぴょんぴょん跳ねながらミソラは歩いた。物干し竿に掛けていたシーツを回収していたトウヤが、丁度こちらへ振り向いた。
「次の目的地、ホウガにしませんか?」
 なんて言い方をすると、まるで自由に旅を謳歌しているみたいだ。
 トウヤは目を瞬かせる。思えば、ミソラは今までトウヤの背中を追うばかりで、自分からどこぞに向かおうとはしていなかった。だから驚かれても仕方ない。
 岬の端に並んで腰掛けて、暮れていく海を眺めながら、手に入れてきた情報を伝えた。モモは、きっと今もホウガに『いる』。自分は大切なモモを、なぜかホウガに置き去りにした。ミソラが住んでいたホウガの家に、きっと何らかの答えがある。
 ミソラが得た情報で、もしかしたらトウヤは、ミソラが気付いた以上のことに簡単に気付けるのかもしれない。でも、ミソラもミソラなりに、誰に言われるでもなく、誰に呪われるでもなく、今度こそ自分の頭で、たくさん考えて戻ってきた。
「ココウでミヅキちゃんに会えるじゃないですか。私、そのあと、自分がどうするか分かりません。相変わらずあなたと一緒にいるかもしれないし、ミヅキちゃんについていって、あなたとはお別れになるかもしれません」
 背後にいたリナとハヤテが、互いの目を見合わせる。
「その前に、自分のこと、ちゃんと知っておきたいんです。どんな暮らしをしてて、どうして家を出たのか。どうして記憶を失って、砂漠に倒れてたのか。……あの、どうしても今じゃなくてもいいのは、分かってます。ミヅキちゃんとの約束まで日数もないし、ハヤテの特訓もしないといけないですし……でも、あの」
 斜陽の眩しさに伏せられていたトウヤの目が、言い淀んだミソラの双眸へ、ふと流れてきた。
「それを確かめにいくとき、できれば、あなたに一緒にいてほしい、です。だから、今じゃないとだめなんです」
 波の音が、空白を抱擁する。
 ミソラはじっとトウヤを見上げ、トウヤは、ちょっと毒気を抜かれた顔で、まじまじとミソラを見下ろした。
 ややあって、返事をする直前に、彼は頬を緩めた。
「兄さん、って呼ぶの、やめたのか」
「……呼んでほしいなら呼びますけど……」
「あなたよりはマシだよ。お師匠様よりもまだ良い」
 西日に濡れた彼の顔が嬉しげにはにかむ。
 提案してみてよかった。その顔を見てほっとした。この旅は、きっと良い旅になる。
「いいよ。行こう。面白そうだ。ホウガなら、一日あれば着く」
「ココウには間に合うでしょうか」
「当日までにワタツミに戻ってきて、またテレポート便を脅して瞬間移動すればいい」
「アズサさんいないのに脅せますかね」
「ハリに睨ませればなんとかなるよ」
 洗濯籠を抱えている悪タイプに睨まれる。二人でくすくす笑った。
 久々に、日光を浴びた気がする。きらきらの太陽が、ゆっくりと溶けて海の向こうに消えていった。特に何を話すでもないまま、それを見送った。緩い風がさわさわ吹いて髪の毛の揺れるささやかな音がして、たまに大きな波が砕ける音が賑やかにした。
 少し頭を垂れたトウヤが、眼鏡を外して眉間を摘まむ。それから髪を解いた。量のある黒髪がわさりと肩に垂れかかった。
「お疲れですか」
「いや、……うん、まあ少し」
 眼鏡がな、と彼はぼやいた。
「安いの買うからですよ」
「ワタツミ、良い街なんだが、疲れるよな」
「ハシリイでも似たようなこと言ってましたね」
「そうだったか」
「表情筋が疲れるって」
 ふは、と顔が綻ぶのが、髪の毛の向こうにちらりと見える。
「ココウが一番だな」
「……分かります」
「なんだ、可愛げのあることも言えるじゃないか」
「……そっちこそお疲れでテンション高いですね」
 お互い、ちょっと黙り込んで。
「疲れてるのか、憑かれてるのか」
 ミソラはさっと振り向いた。背後に伸びている細くて長い方の影が、揺らめいて見えたのは、きっと気のせいだ。
「くだらないこと言ってないで戻って休んでくださいよ」
「うるさいだろ、あいつが」
「眼鏡掛けなきゃ聞こえないんでしょ?」
「無視してると、それこそ憑かれそうじゃないか……あ、でも、ミソラが相手してくれるのか。それなら無視してもいいな」
 そんな会話でも、対等に扱われた気がして嬉しくなる。……あと何度、こうして他愛ない話ができるのだろう。
 立ち上がり、小屋へと戻っていく。海風が眼前へ押し流す前髪を彼は鬱陶しそうに掻き上げた。
「出発する前に切らないと」
「結局切るんですね」
「ミソラのもついでに切ってやるよ」
「えー、下手だったじゃないですか」
「お揃いにしてやるのに」
「あなたとですか? 嫌に決まってるでしょう」
 並んで歩きながら、伸びてきた手が、さらりとミソラの髪の毛を掬う。
「……お前の髪は細いから、あんな風にはならないかな」
 あんな風、が、――サーカス前日に髪を切ってもらっていた友人のことを指したのだと、不意に気がついて。
 こみあげかけた悲しみを、ミソラは無理に呑み下した。
 前を向かなければ。
 立ち止まってる暇も、振り返っている暇もないんだ。
 考えなきゃいけないことがたくさんあるんだ。
 だから、今は、前を、向くんだ。










 トウヤは夜の砂浜に立っている。
 波の音がする。寄せては返し、砕け、戻す波の音。絶え間なく響いている。足の裏が冷たい砂の感触を掴んでいる。足の間を、墨汁のような黒い海が、さっと駆け抜けては、引いていく。空を見上げる。月もない、星もない。水平線の彼方で闇と闇が溶け合っている。暗闇は敬虔に世界を包む。波が足首を浚うようにまたやってくる。暗く冷たい海の黒に、白波の綾が浮かび上がる。
 行こう、と誰かが言って、見えないものに手を引かれる。
 トウヤは波の中を歩きはじめる。水平線へ向けて進む。一歩一歩歩くたび、冷たさが皮膚から沁みこんでくる。
 無茶だよ、と口からこぼれる。あまり泳げないんだ。声は音にならないが、いくつかの声が返事をする。
『行くしかないんだ』『自然なことなんだ』『仕方のないことなんだ』
 仕方ないなんだな、とトウヤは思う。
 海はだんだんと深くなる。しびれるような冷たさに、意識がだんだんと重くなる。ふと、空を見上げた。月も星もない真っ暗な空が、ひどく、明るくて、目が眩む。砂漠が恋しい、と思う。空は輝いていて、歩む海は真っ暗で。導かれるように歩いていく。次第に海は深くなる。次第に空は遠くなる。 
『行くしかないんだ』『恐ろしいところなんだ』『もう後戻りはできない』『でも、君が選んだんだ』
 何かを言おうとして口を開け、真っ黒な海水が、一気になだれこんでくる。
 いつしか水の底を歩いていた。真っ黒は口から鼻から耳から目からどんどん流れ込んで体を埋め尽くす。息ができなくても苦しくはなかった。見上げても、そこに空はなかった。あぶくも立たなかった。
 真っ暗だ。
 もう帰る道も分からない。
『君が選んだんだ』『進むしかないんだ』『暗くて寒い』『大丈夫、怖くはない』『恐ろしいところなんだ』『生きているものは、どうせいつか死ぬのだから』
 死ぬのか? と問うた。
 無数の声が一斉に答えた。
『死ぬ』『死ぬとも』『死ぬ』『君が選んだ』『死ぬ』『死ぬ』『死ぬんだ』『行くしかない』『死ぬ』『死ぬ』『怖くはない』『死ね』『死ぬんだ』『死ぬ』『死ぬ』『死ぬ』『しぬ』『死ぬ』『死ね』『死ぬ』

『それとも、そんな醜い体で生きていくのか?』

 両手を見る。
 固い鱗に覆われた、己の手が、音もなく闇を握りしめる。

 ――そうだよ。僕は生きなければ。





 嫌な夢を見たな、と思いはしたが、何の変哲もない両手を見つめているうちに、どんな夢だったか忘れてしまった。
 シーツが洗ってもカビ臭かったことも、隙間風がぴゅうぴゅう吹いてうるさかったことも、掘っ建て小屋がそもそも寒すぎることも、目を覚ました理由ではなかった。のそりと身を起こすと、半分寝ぼけたままの心地で、トウヤは辺りを見回した。隣で背を向けて寝ているミソラ。手持ちたちは、皆ボールの中。用心棒にハリを出して寝ようとしたが、小屋があんまりに寒いので、可哀想でボールに戻していた。
 ドラメシヤはミソラのそばでくるりと丸まってこちらを見ている。デスカーンとドラパルトの姿がない。ゴーストタイプのポケモンだ、夜中に出かけることもあるだろう。
 昼間に海に落ちたあとから、ずっと寒気を引き摺っていた。ゴースにでも憑かれているかもしれない。まあ、小物なら、毒に巻きさえしなければ、夢くらい食わせてやってもいい。ゴースグラスを探そうとしたが暗くて手元すら見えなかった。諦めて、静かに寝床から抜け出す。
 目が覚めた理由は簡単だ。
 妙に腹が空いていた。
 体がポケモンに近づいている証拠だろうか。最近は食ってもなかなか食った気がしない。ドラゴンってのは体を維持するだけでもコストがかかるのだろう。頻繁に飯をせがまれては一蹴していたハヤテには悪いことをした。寒さに弱くなった点といい、燃費が悪くなった点といい、ドラゴンタイプの欠点ばかり出ているような……そもそもメグミは小食なのにな……。論理的思考はとろとろと溶けて、何か食わないと、という一点に置き換わってしまう。
 でも、恐怖心までは溶けなかった。ポケモンフードはうまいけれど、できれば食いたくない。ポケモンに近づいてしまう気がして。まだ、死にたくはない。生きなければ。生きるために、食わなければ。空腹感のあまり軽い眩暈さえ覚えながら、よろよろと台所に辿り着き、冷蔵庫を開く。
 湿気た明かりの中で、様々な食材が乱雑な色彩を放っている。ミソラが買ってきたものだ。肉も野菜も乳製品もある。魚ばかり食わされるから色んなものを買ってきたのに、ヨシオが魚ばかり調理するので、晩には少し怒っていた。
 パック詰めされた肉を手に取る。豚の小間切れだ。意外と金遣いが渋いところがミソラらしい。
 トウヤは嫌いな食べ物が多い。ミソラより多いかもしれない。肉も魚も苦手だ。切り分けてパッケージされている冷たいそれが、元々していた姿のことを、無意味と分かってるのについつい想像してしまう。
 少し前まで、苦手だっだ。
 苦手でありたいと思っていた。
(……うまそうだな)
 まだ夢うつつを彷徨っている惚けた目が、ごちゃごちゃと敷き詰められた赤と白のまだらを見つめる。ごく自然な反応として、わき出た唾を、飲み下す。
 爪を立てて、引き裂くように、トウヤはラップを破いていった。意識があったともなかったとも言えない。確かにあったのは、『飢え』という名の本能だけだった。



 隣が寝床を抜け出したことにミソラは気付いていた。
 どのくらい経っただろう。長いな、とひとたび思うと心がざわついてしまっていけない。目を開けた。台所の方向に仄かに明かりが見えた。台所の照明は点いていない。ということは、冷蔵庫の明かり? こんな時間に夜食だろうか。
 寒いしオバケ怖いしで、深く寝付けずにいた。寝る直前にヨシオに脅かされたダメージも大きい。ミソラは仕方なく身を起こした。
 なんて呼ぼう。少し悩む。
「……兄さん?」
 返事がない。勇気を出して呼んだのに。
 眠い目をこすって立ち上がる。海風が吹き付けて時折小屋がガタガタ言った。ちょっとこわくて、目が冴えてくる。火を通さずにつまみ食いできるようなもの買ってたっけ。またポケモンフードでも食べてるんだろうか。
 開けっぱなしにした冷蔵庫の前でしゃがみ込んでいるトウヤの背は、伸びっぱなしの髪の毛が乱雑に跳ねて散らかっているぶん、見知らぬ獣の背中みたいで。
 人間の形をしたその手が、鷲掴みにしているものが、だから一瞬なんなのか分からなくて。
「……何、してるんですか」
 すぐに止められなかった。見れば分かることを、馬鹿みたいに問うていた。
 今度こそトウヤは振り向いた。
 ――流れた前髪の下から覗く、いつも通りの顔をしたトウヤの、半分開いた口の端から。赤身の生肉が、ぼとり、と一切れ、こぼれ落ちた。



とらと ( 2021/03/07(日) 00:02 )