1−15
我に返ると、枯れ草色の草原の中に立っていた。
海岸に寄せた波がさっと引くいていくように、ミソラの頭は急に熱を失っていった。一体ここはどこなんだ、と首を回す自分が、なんとも滑稽なものに思えた――背中の方向にあるココウの町の影は、まるで幻のように薄らいでいる。どれくらいの時間走り続けていたのかなど、ミソラ自身にも分からなかった。
もう一度進行方向へと目をやる。腰まで届きそうな刀状の草本の海が、滑らかな水平線の向こうまで、見渡す限り続いている。渇いた空には染みの一点も見当たらない。だだっ広いドーム状の世界をくるりと見渡して、ミソラは肺の淀んだ空気を吐き出した。
視界を遮るものはない。隠れる場所などどこにもない。なのにトウヤの姿は見当たらない。
外はいろいろ危ないからね、という酒屋のハギの声が、ふいに思い出されて遠く反響する。それから、その子供の思い出せる、一番最初の記憶が頭をよぎる。襲い来る凶暴な巨鳥の姿。自分はそれに対する術を持っていない。
「……どうしよう」
か細い声は、広漠な平原の景色の中へと溶け落ちていく。
戻ろうか、と一瞬マイナスに傾いた思考を、ミソラはぶんぶんと振り切った。行かなければ。そうだ、行くんだ、行くしかない。ヴェルを追い払ってしまった手前、このまますごすご帰ることなど、どんな顔してできるものか――!
「いくぞっ」
勇んで踏み出した右足に、こつん、と何かがぶつかった。
その瞬間、耳をつん裂く高音と、続く切りつけるような突風が、ミソラの体を吹き飛ばした。
何が起きたのか分からなかった。土が舞い枯草が踊った。尻餅をついた前方を、大きな塊が飛び上がった。鳴り響く不快音に歪んだ瞳の中で、空中の黒い影が太陽光をギンと弾いた――そして、衝撃波のような猛烈な陣風が、金髪の頭の横を突き抜けた。
息を吸う暇もなかった。地につけた右手のわずか数寸先に群れていたはずの植物たちが、刹那の後に、ぐちゃぐちゃに切り刻まれて散らばっていた。ぶれる視界の中央、震えて見える二対の翅から狂ったように音を撒き散らすポケモンが、その赤い複眼の中の光が、確かにこちらの姿を捉えた。テッカニン、森に棲むポケモンとして百科に載っていた名前、それを思い起こしたところで、錯乱する頭ではなんの対処のしようもなかった。
竦んだ足が動かない。腕に力が入らない。凍りついたままの人の子を前に、テッカニンは怒れるまま、吠えるような羽音を上げ、素早い動きで斬りかかった――その時。
ミソラを襲ったのは、その鋭い両の爪でも、唸りを上げる風の刃でもなく、網膜を焼く強烈な輝きであった。
一閃。轟音と、熱と、軽い風圧が、瞬く間に皮膚を打った。
ミソラは思わず瞼を閉じた。今度こそ、何が起きたのか本当に分からなかった。続く甲高い音波は強烈に脳を揺るがし、軽く吐き気を催すほど。響く誰かの声、どさりと何かが落ちる音。ギィッと喉から絞り出したようなか細い悲鳴は、しかし幻聴であったかもしれない。
それから草原は静かになった。状況を飲み込むまでに、特に途中に聞こえた怒鳴り声の意味を解するまでに、ミソラはしばらくの時間を要した。「やりすぎだ」、と、確かにそう叫んだのは……
おそるおそる開いた目の中に映り込んだのは、呆れたように、途方に暮れるようにこちらを見下ろしている、探した人の姿だった。
何も言えなかった。ミソラは座り込んでいた。どくどくと鼓動の早まっているのにも、自分の膝が震えているのにも気づかないまま、ただひたすら茫然として、トウヤの方を見上げていた。
「……僕は急ぐんだ」
溜め息に乗せた低い声が、地を駆ける風に流されていく。入れ替わりにどこからか焦げ臭い空気が運ばれてくる。彼の後ろに悠然と佇んでいるオニドリルのメグミを見て、ミソラの中でテッカニンの黒い影が、数日前に荒野で出会った巨大な炭の塊と重なった。
ものを言わないミソラに痺れを切らしたか、トウヤは早口に、一人で町へ帰れるか、と問うた。ミソラは黙っていた。機械的に瞬きだけを繰り返す空色の瞳をしばらく見つめて、トウヤは諦めたように顔を逸らした。平然として立っているメグミを一瞥すると、次に腰に三つ引っ掛かったモンスターボールへと視線を落とす。若干の間の後、その二つ目を選んでぽいと放り投げた。
ぽん、という軽い音の後、白い光とともに解放されたガバイトのハヤテは、きょとんとした顔で二人と一匹を眺め比べた。
「ハヤテ、悪いがこいつを連れて帰ってくれるか。お前は留守番だ」
主の言葉に反射的に鳴いて返事をしたハヤテだったが、その言葉の意味がいまいち飲み込めないのか、その場につっ立ったままきょろきょろと顔を回している。
ミソラも同じように、最初は理解が及ばず、ぽかんと口を開け固まっていた。ちらりとトウヤはこちらを見、すぐに目を背けた。風が薙ぎ、沈黙していた草原が鳴いた。聞き分けのない子供を見るのは、何故かどこかで、憐れむような視線であった。
その時、ミソラの胸の中で、熱を帯びた感情がむくむくと膨れ上がり始めた。
熱かった。熱は喉元をせり上がり、頬を火照らせ、脳までいとも簡単に燃やした。それは先程までその足を動かしていた焦燥感とも、寂しいとか悲しいとかそういった類のものとも全く似つかないもので、
「……立てるか」
そういってやれやれと差し出された男の右手を、力いっぱい払いのけたくなるような――あえて名前をつけるならば、やるせない『怒り』にも近いような、そんな激しい高ぶりであった。
「嫌です!」
それで腹の底から叫び声を上げたミソラに、今度はトウヤの方が顔を引きつらせて固まってしまった。
「私は帰りません! 何度連れ帰されても、絶対戻ってきます! だから連れていってください!」
そこまで聞くとトウヤは眉をしかめ、黙って手を引いた。喚き始めたミソラの前で、トウヤはもう一度ベルトのモンスターボールへと視線を動かした。目を留めた一番手前の傷の多いボールは、カタ、と控えめな主張を見せた。
三番目を手にとってメグミをボールの中へ戻すと、トウヤはミソラとココウの町に背を向けてさっさと歩きはじめた。
「引きずってでもそいつを連れて帰れ!」
「嫌です! 絶対帰りません!」
だんだん距離の広がっていく二人の間で、ハヤテはおろおろと体を揺らし続ける。
「連れて行ってくださらないのなら、私はここから動きません!」
ミソラのめいいっぱいの抵抗の声に、トウヤは小さく悪態をついて振り返った。
「死んでも知らないぞ!」
「嫌ですッ」
草影の中から帰ってきたのは、ほとんど悲鳴のような震えた声だった。続いて、死んでも動きません、と訳の分からない宣言が飛んでくる。今にも泣き出しそうなミソラの様子に、ハヤテは懇願するような瞳でトウヤを見、一つ目のモンスターボールがガタガタと大きく騒ぎ出す。一陣の風が弾くように草むらを揺らし、その中に金色の小さな頭が見え隠れした。
「置いていかないでください!」
その子供の言葉に、男はほんの一瞬だけ、瞳の奥を滲ませる。
それからもわんわんと騒ぎ続けるミソラの前で、トウヤはしばらく立ち尽くしていた。
長い溜め息をついてから、軽く唇を噛む。『三日後の夜には現地を離れること』、というココウの女レンジャーの言葉を小さく反芻する。三日。目指す場所はさほど遠くはない。連日の特訓でハヤテは疲れが見えているし、扱いの難しいメグミに乗って長距離飛ぶ気にはならないが、わざわざポケモンを乗り物にせずとも、歩きで十分に辿り着ける距離だ。
だからといって、こんな所で立ち止まっている暇はない。自身に問いかけるように、トウヤは考えを巡らせる。決して安全な旅路であるとは言えないが、さて、僕は人ひとり守れないような鍛え方をしてきたのか? ――そんな風に結論へたどり着こうとする自分に、くしゃくしゃと髪を掻いてから、甘いな、とトウヤは小さく毒づいた。
「……早く立て。本当に急いでるんだ」
それまでより随分語気の弱まった言葉だったが、それはミソラの顔をぱっと持ち上げさせるには十分すぎるものだった。
充血しかけた双眸と目を合わせて、トウヤはもう一度長く息を吐きながら、向かう方角へと振り返った。ボールの中のポケモンが急に大人しくなって、それへと呆れたように視線を向ける。大きい足音と小さな足音が速いリズムで近づいてくる。ミソラはトウヤの斜め後ろにつくと、あんなに図々しかった態度はどこへやら、今度はどことなく気まずそうに、おずおずと彼の顔を見上げた。
「……あの、えっと……」
トウヤはミソラへは視線をやらずに、ふいと顔を上げ、表情を隠すように紺のマフラーを持ち上げて、ひとつぼそりと呟いた。
「……死んでも知らないぞ」
捨てるようにそれだけ言って歩調を早めたトウヤを追いながら、ミソラはふと振り返った。二人の後ろをのしのしとついてくるハヤテは、どことなく嬉しそうな様子で、主の背中を見つめている。――許してくれたんだ、と確信した瞬間、ミソラは喜びのあまり口元の弛みかけるのをぐっとこらえて、代わりにリンリン揺れている鞄の鈴を握りしめた。
「はいっ!」
巨大な鉱物の群れが、轟音を響かせながら大地へと崩れ落ちた。
白けた岩盤から粉塵が舞い上がった。あ然としているミソラに寄り添って立つハヤテが、鋭い目つきでひくひくと鼻を鳴らす。低く構えているノクタスのハリが、その後ろのトウヤが睨む中、地に伏している鼠色の岩たちが、ぎこちない動きで連なって動き出した。
もうもうと立つ砂煙の向こうで、全長十メートルはあろうかというとてつもなく大きな影が、地面を細やかに振動させながら身をよじるように移動していく。
しばらくその様子を見つめていたトウヤだったが、前方のハリがすっと肩の力を抜くのを見ると、小さく息をついてミソラたちの方を振り返った。
「行こう」
すぐに歩きはじめた男に、ハヤテはいつもより控えめな大きさで返事をし、すたこらとその後を追いはじめた。ミソラは地響きのする方へ目を奪われていたが、向かってきたハリにちょいと額を押されて、しぶしぶといった様子で背中を向けた。
「お師匠様!」
「大声を出さないでくれ。また刺激してしまう」
「あのポケモンまだ動けるようですけど、あのままで大丈夫でしょうか」
「あぁ、いくら頭の悪いポケモンでも、一度力の差を見せつけてしまえばしばらくは襲ってはこないよ。ましておいしくもなさそうな相手だ」
「イワークは人を食べないのですか」
「さぁな」
不安に顔を曇らせたミソラがもう一度振り返ったその時、岩蛇の影がぬっと大きく動いたかと思うと――ゴゴゴゴゴ、と建物を打ち壊すような爆音が続いて、大地が激しく身震いし、転がった石ころが踊るように跳ねまわった。
ミソラは思わず近場のハリに飛びついた。小石がばちばちと爆ぜ、足首に痛みが走った。草色の胴をぎゅっと抱きしめると、大きな手がぽんぽんと頭を叩いた。
揺れは次第に収まっていった。ふと我に帰ったミソラが顔を上げると、ハリはいつもの笑ったような形の顔でこちらを見下ろしている。帽子のようなものの影が、黒く開いた目元に差していた。ミソラは慌てて体を離した。
「イワークが地面に潜ったんだよ。奴らは穴を掘って暮らしているんだ」
平然と解説すると、トウヤは大して興味もなさそうにまた歩きはじめた。先程までの所に岩蛇のシルエットはなく、より白く淀んだ砂煙が立ちのぼっているのみであった。
のっぽのノクタスに今度は背中を押されて、恍惚として固まっていたミソラも慌てて後を追いはじめた。軽快な鈴の音が、遠のく地響きに混ざって渇いた空気を彩った。
「しかし体の大きいイワークが増えたな。あの様子だと、今のはまだ生まれて半年も経ってない。そうだろう」
イワークに『ニードルアーム』の一撃を叩き込んだハリがこくんと頷くと、ミソラは間髪いれずに口を開いた。
「なぜ分かるのですか」
「なぜって、見た目とか、音とか」
「音ですか」
「ハリが殴った時、それからあれが倒れた時。イワークってのは、成長するにつれて鉱物の組成が変わって体が重くなるんだ。今のは成体より随分軽い音だった」
「……お師匠様は、音だけでそんなことが分かるのですか」
「この辺にはイワークが多いからな。十年もうろついていれば嫌でも分かるようになるよ」
あんなイワークが成長して、この間の山みたいなハガネールになるんだろうな、とトウヤが呟くと、ハリは再びこくりと頷いた。
それから、二人と二匹は黙々と歩き続けた。燦々と輝いていた太陽が地平線へと傾きはじめ、空を席巻していた青色が段々と白み赤らみ、白けた岩石砂漠が茜に染め上げられるまで、二人と二匹は本当に、一言も口を聞くことがないまま、砂利の上を進み続けた。
最初こそ何か切りだすべきだろうかと落ち着かなかったミソラも、沈黙に慣れてしまうと、考え事に耽って自らだんまりを決め込みはじめた。
(何のために花を植えるのか? ――知らない誰かが、優しい気持ちになれるから)
昼間の酒場での得体の知らないもやもやが、またしても小さな胸を圧迫していく。
(ならば、自分が彼を追ってきた意味は? 何のために無理を押しきってまでついていくのだろう?)
勢いで追いかけてきてしまったが、その意味は果たして何であろうか。何か意味があるのだろうか。いや、何か意味を作らなければ。彼の旅にとって、自分の存在が何か意味を持つためには? ……そうだ、役に立てばいい。でも一体、何の役に立てるというのだろう。
そこまで考えたとき、夕暮れの砂漠を飲み込む静寂が、ミソラの頭の中の点と点とを繋ぎ合わせた。
そうだ、話し相手になるというのは? 楽しくて一人旅をしているにしろ、砂漠は延々と味気ない景色の繰り返しだ。話し相手のいない道中はつまらないのではないだろうか。ポケモンはものを言わない。いや、ハヤテならまだ意思の疎通もできそうだけれど、ハリなんて鳴いたところさえ見たことがない。
でも、思い返してみれば、初めて出会った日でさえ、彼の方から話しかけてくることはほとんどなかった気がするな、とミソラは前方の男の背中に目をやる。ずっと一人で旅をしているのなら、黙っているのが当たり前になっていてもおかしくはない。案外彼も考え事を楽しむ質(たち)なのかもしれない。ならば話しかけても邪険に扱われるだけだろう。
さて振り出しに戻ってしまった、と下げかけた視線を、ミソラはもう一度跳ねあげた。トウヤの横をえっちらおっちら歩いているハヤテが背中に背負っているのは、黒色の大きなリュックサック。
「お師匠様」
トウヤは首だけこちらへと回した。
「荷物を持ちます」
そこでハヤテも振り向き、目をぱちくりさせてミソラを見た。トウヤはその様子を一瞥すると、息を抜くように微かに笑ってから前へと向き直った。
「重いからいいよ」
「でも、それを持っていると、ハヤテはいざという時にすぐ戦えないのではないですか?」
「見た目より重いぞ、ミソラじゃ持てない」
「持ってみないと分かりません」
「背負わせていて困ったこともないんだ。大丈夫だよ」
ミソラは一度言葉を詰まらせたが、すぐに持ち直して声を張った。
「私も、何かお役に立ちたいです!」
再び訪れた静寂の世界で、ざくざくと地面を踏む音が虚しく消えていく。
しばらくの後、トウヤは前を向いたまま、その言葉にそっけなく対応した。
「待っていてくれれば、一番良かったんだが」
鈴の音が消え、足音が急に二つになり、すぐに一つになった。トウヤは自分が今口走ったことを頭の中で噛み砕いて、僅かに顔色を変えて振り返った。
ハヤテはやはり落ち着きなく、きょろきょろと前後へ首を回している。ミソラは男の方を見つめたままぎゅっと口を結んでおり、その後ろに亡霊のように立っているハリの眼光が、凍て付くような鋭さをもってその主へと突き立てられていた。
瞳を潤ませ始めたミソラよりもその後ろからの気迫に押されて、トウヤは足元へと視線を泳がせた。
「……いや、まぁ、旅は道連れとも言う」
弱々しいその答えに、従者のハリはふっとせせら笑うように僅かに顔を上げた。それを従える立場であるはずのトウヤはひとつ睨むだけ睨み返して、何の言葉もよこさなかった。
ミソラは元来た道を振り返った。夕闇に溶け落ち始めた西のなだらかな地平線、その上にココウの影はどこにも見当たらない。段々と思い通りにならなくなってきた両の足が、歩んできた道のりの長さを物語っていた。今更後には引けないのだ。
その時突然肩に何かが掛けられて、ミソラは驚いて振り返った。いつの間に背後へと近付いていたトウヤは、しかしミソラとは目を合わせず、ただ至極控えめに、とん、とその背中を押した。
「気温が下がりきる前に、もう少し行こう」
そうして返事も聞かずに歩きはじめた。ハヤテは主の顔を見て、やはり嬉しそうに太い尻尾を揺らしながら、のしのしとその背を追いかけていく。ミソラはそれらを見、それから自分の肩へと意識を移す。そこに掛けられた、自分にはかなり大きすぎる上着へと、ゆっくりゆっくりと手を触れた。
ハリは相変わらず黙ったまま、子供の様子を覗き込むようにしてそこにいた。それに見守られながら、ミソラは口をつぐんだまま、その袖へと手を通した。
太陽の沈んでいる向かいの方向では、紺色のマフラーを首の後ろで結んだ男が、指先まで包帯の巻かれた左の拳で、傍へと寄ってくる青い小竜の頭を小突いている。
もう一度、真正面からハリを見る。いつも笑っているような、でもどこか恐怖感を煽るような緑色のその顔が、ちゃんと微笑んでいるように、今は少しだけ思えた。
上着の前を閉め、ミソラはハリに笑いかけると、今度は返事をせずに、男の背中を追いかけ始めた。