月蝕


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月蝕
15−2

「ねえ」
 声は届かない。
「待って……」
 足も、動かない。痛めつけられきった身体は言うことを聞かず、急く心ばかりが追いかけて追えなくて、どこにも行けないことをただ自覚するだけで。
 なのに愛しい人の影は、両手を軽く広げ、楽しそうに、羽ばたくように、なだらかな丘を駆け下りていく。
「待ってってば……」
 ――だんだん、確かにこうだったかも……とミソラには思えてきた。具体的に思い出したわけではないが、構図がしっくりくる気がするのだ。自分は満足に動けず、指を咥えて焦がれるだけ。 翼を持っていて鎖にも繋がれていないミヅキだけが、いつも自由に大空へ飛び立って、気の向くままに戻ってくる。身動きの取れないミソラはミヅキが来るのを待っている……。
 ただ、あの頃と決定的に状況が違うと思われるのは――フラフラと先に行ってしまう女性に対して、ミソラは別に恋慕も憧憬も抱いていないという点である。
「――メグミ!」
 ミヅキの姿を模したラティアスが、キョトンとして振り向いた。
 ひらけた場所だった。風にうねる枯れ草の群れ、頭上は一面の雲り空、夜明け間近なのも相まって世界はまだ薄暗い。薄墨を流したような朝ぼらけの中に妙に克明に浮かびあがる、艶めく黒い髪、白い肌。薄い桃色の唇と瞬くアーモンド型の瞳。腹が立つくらい愛おしい顔をしている。いや、愛おしい顔を勝手に使って好き勝手に振る舞うから、なおのこと腹立たしく思えてくる。
「もう、置いていかないでよ! ちょっと休憩しよう、僕一歩も動けない」
 ミソラがどしゃんと座り込むと、メグミのミヅキ――ミヅキのメグミ? が不服そうな顔をする。いつまでその格好してるんだろう。
「一晩じゅう歩き続けたんだもん足が痛くてしょうがないよ」
『……日が昇ったら、悪い人に見つかるかも』
「分かってるよ、分かってるけどさあ……」
 マッサージのつもりなのか、放り出したミソラのふくらはぎをリナが前足でふみふみとする。その頭を撫でてやる手も疲労で乱雑だ。ポケモン二対人間一、多数決で負ける状況になってみて、人間の身体能力的な不利を嫌でも思い知らされた。
 長い長い地下道を六時間かけて踏破した先に、確かに暗闇の果てはあった。そこは所々突き出した岩と草木しかない坂の途中で、あとは砂利の細道が斜面に沿って伸びているだけ。
 ただ、静かで寂しい場所だった。
 夜と朝の間を吹き抜ける強い風に髪が揺れる。山の上だからか風が強い。山、と思って振り向くと、確かにそこは山だった。背にしている山の向こうに、おそらくヒビがあるのだろう。山ひとつぶんの地下道を一晩かけて歩き切ったのだ。
 山を超えたからなのか、季節をひとつ逆回ししたという具合に、風は穏やか。まったく寒くないとまでは言わないが、強風が吹きすさんでいるのにそこまで辛さがない。山頂の方は白んでいるがここらには雪も見当たらなかった。枯れ草が不気味に揺れ、ザワザワと葉の擦れる以外はしんとして、フワンテがいくつか草むらの上を漂っている。風に乗って流されたり、抗って滞空したりしている。
 顔を戻し、眼下を眺めて、不思議な景色だな、と思う。
 砂利道の先は眼下の街に繋がっているらしい。星を均等に撒くつもりが間違って零してしまったみたいに、明かりがそのあたりに密集している。
 そして、灯のある先は、まったくの無の世界だった。
 何もないのだ。街の光も、山の凹凸も。視界を一枚の絵画だとすると、中央にある街を境にした上半分が、ばっさり切り落とされているようにすら見える。まるで、そこが世界の終わりで、あの境界線を越えれば二度と戻ることは出来ないという具合に。
『……まだ?』
 音のない声が飛んでくる。逃避行の同行者は突っ立ったまま待っていた。テレパシーにもきちんと『退屈だ』という感情が乗せられるのだから器用な竜だ。
「これから行く場所って、どのへん?」
『……えーっと……』
 メグミはくるりと身を返して、やや首を傾げ、それからすっと指をさした。
『……あのへん?』
 白く細い指先は、まっすぐ地平の彼方を指している……ように見える。
「……ねえ、飛んでいかない? その方が早いし安全だと思う」
『……めぐみが乗せるの……?』
 ひどく不安げな顔をされた。ミヅキの顔でミソラを拒絶しないでほしい。
「でも、前も逃げるときは乗せてくれたよね? さっきだって、あの人の後ろに僕乗ってたし」
『あれは……乗せないと……トウヤがこまるから』
「今だって僕がずっと座り込んでたら最後に困るのはあの人だよ」
『……めぐみだって疲れてるんだけど』
 まあ、地下道を移動中、ポケモンたちをボールに入れずに侍らせていたのは、怖いからひとりになりたくなかったミソラのわがままに他ならない。
 歩くしかなさそうだ。はああ。どでかい溜め息をついて立ち上がる。ふとももがぷるぷるして膝ががくがくした。みゃっみゃ、とひ弱な主人を励ますように、リナはくるくる駆け回ってから下り道を先導しはじめる。
「あーあ、せめて鳥ポケモンがいればなあ……」
 ハガネールの上からびゅうんと滑空したときみたいに、山の下までひとっとびなのに。前腕にひっついているキャプチャ・スタイラーをこんこんと叩きながら、でもレジェラさんと飛んだのは怖かったな、と回想する。ミソラも両肩を鷲掴みして滑空するピジョットの背にはタケヒロが乗っていた。あのとき、タケヒロすごく落ち込んでたんだっけ。ハガネールの上や下で、あるいはヒビの街の中で、自分たちはとても重大な問題に直面し、それに体当たりで挑んでは、皆で勝ったり負けたりした。先の見えない閉塞感に抗おうとして懸命にやってきたつもりだったけれど、あんなのは、圧倒的な暴力の後には、なんの意味もない時間だった。
 投げやりになったって意味がない、とも、ちゃんと思う。
 でも、じゃあこの荒みきって萎びた気持ちで、どうして前向きになれるだろう。
 すいー、と目の前を横切っていく感情のなさそうなフワンテにすら、なんだか嘲笑われているような気がする。メグミが困りと呆れ半々で見ている。せめて頬を膨らませて機嫌の悪さをアピールしながらミソラはずんずん進み続けた。またフワンテ。羽ばたきもせず空を飛べるなんてなんとも優雅で羨ましいことだ。ミソラだって、両手に風船を掴んで浮いて、お伽話みたいに、すいーっと山のふもとまで降りられればいいのに……。
「……」
 振り向いた。
 なぜかこの山にはフワンテばかり、無駄にウヨウヨと漂っている。ミソラが浮かぶには風船は何個必要だろうか。二匹、三匹、四匹……
『……ミソラ……?』


 山のふちからきらりと朝一の日が差して、ミソラの紅潮した頬を照らした。
「――きーもーちいー!」
 ストレス発散の大声が、四方八方なんにもない空にどこまでも突き抜けていく感覚。ミソラは両足をぶらぶらさせあははあははと大笑いした。足をどれだけ振り回しても何も邪魔をするものはない、なぜならミソラは空高くを遊覧飛行の真っ最中だからだ。
 六匹のフワンテのひょろりとした足に両手首を巻かれたまま、バンザイの格好でのんびりと西へ漂っていく。動きが遅いからキャプチャは容易だったし、あの街まで連れていってとお願いすれば素直に聞き入れてくれた。フワンテ側が掴んでくれるので紐を握る力すら要らず、翼がないので恐ろしいほどのスピードも出ず、なんの労力もなく快適に街へ近づいていく。ポケモンって最高だ、いや、キャプチャって最高だ!
『……本当にだいじょうぶ……?』
 オニドリル姿で隣を飛んでいるメグミが浮かない様子で問うてくるが、背中に乗っているリナはご機嫌に尻尾を振っている。へいきへいき、ちゃんとキャプチャ成功したから、とミソラは余裕をアピールした。思いつきを本当に実行できて、それをすべて自分の力で成したのだから、実に気分爽快である。ミソラの気分とともに夜明けを迎えた世界もだんだんと明るみを増していく。
「僕、やっぱりキャプチャの才能があるかも!」
 まともな訓練を受けたわけでもない、しかもまだ子供なのに、六匹同時にキャプチャして言うことを聞かせるなんて。自分の才に自惚れてしまう。
「ポケモンのことも結構勉強して、そのへんの子より詳しくなってるし。本当にレンジャーになっちゃおうかな」
 緑色のキャプチャ・スタイラーはミソラの細腕によく馴染み、無許可で持ち出した盗品だなんてことはもうすっかり忘れてしまった。得意になって不用意に足をぶらつかせるミソラに対して、メグミは意味深に三白眼を向けてくる。
『……ポケモンに詳しいひとは、フワンテといっしょに飛ばないと思う』
「え?」
 メグミの言葉の意味を――いや、フワンテという種族にまつわる有名な逸話をミソラが思い出すまで、数拍の間。
 ……いやいやいや。そんな、まさか。あの世に連れていくなんて、いくらゴーストと言ったって迷信にもほどがあるし……興奮に火照っていた体が、朝の日差しを浴びているのに次第に寒く感じてきたのは、変な汗をかいたからか、それとも高度が増しているからか。街に向かって降りているはずなのに、おや、おかしいな、だんだん街が小さくなる気が……
「……お、お、おお下ろしてええぇ……!」


 *


「待って、待ってよ」
『ちょっと……』
「さきさき行かないで、お願い」
『……あんまりべたべたしないで……』
 普通に嫌がっているメグミにしがみつく。不貞腐れを通り越して完全に懇願に成り下がった。往来の片隅でへたりこみ、握っているのは人間の手のように視覚では捉えられているが、感触は硬い羽毛の生えたラティアスのひらべったい腕である。
 街へ接続する道にフワンテしかいなかった時点で察するべきだったかもしれない。
 ワタツミは、端的に奇妙な街だった。
 煉瓦造りの建物が多い。通りが狭くてごちゃごちゃしているところがココウとちょっと似ているが、こちらは貧しいから汚いと言うよりも、年季の入ったくたびれ方で、情緒があるという言い方もできる。なかなか良い雰囲気の街だった。壁伝いにツタを這わせている家などは可愛いし、そうでなくても緑が多い。軒先にプランターを並べている家もたくさんあった。ミソラは植物の知識はてんで持ってないけれど、ヤヒだけは判別がついた。ぎざぎざとした緑色の葉の間に赤い小ぶりの実をお星さまのようにちらつかせている。あれは毒があるけれど、それを見るたび、胸の締め付けられるような柔い感傷を覚える――それはいいとして。
 問題はそこに暮らしているものたちである。
 民家の陰で竦んで動けないミソラの前を、地元民らしきおばあさんがゆったりゆったりと歩いていく。
 丸まったその背に、二メートルはゆうに超える灰色の靄のようなものがたちこめて、ず、ず、とおばあさんに引き摺られつつ、音もなくあとをつけていく。
「……あ、あれ……」
 朝日の中で輪郭がはっきりしないが――おそらくは幽霊の類い。
「……ポケモン……?」
『さあ……?』
 よく見ればそんなのばかりだったし、よく見なくても沢山いた。人間に紛れて普通にサマヨールとすれ違うし、日陰に目を向ければでろんととろけた謎の塊はヒトモシだった。やたら視線を感じるなと思ったら枯れ木に見えたのはオーロットだった。妙なところに置いてある石だなと思っていたらミカルゲだった。陽気なおじさんが開いている骨董市だぞと思って見てみると中世っぽい剣や欠けたカップとやたら目が合う。これはゴーストタイプではないが、ミソラより小さな子たちがフワンテ片手に遊びまわっている公園で、カラカラが一匹しくしく泣いているのも意味深だ。
 ゴーストまみれの街、ワタツミ。
 暮らしている人たちが平気でいるのが信じられない。むしろこの人たちが正しく人間かどうかも信じがたい。
「ご、ごっゴーストタイプのポケモンって命吸い取ったりするとかいっぱい書いてあった気がするんだけどさ」
 民家と商店の入り混じった庶民的な風景ををへっぴり腰で進んでいるミソラは、常にメグミの手を自らの方へ引き続けている。こんなところでひとりにされたら流石にたまったもんじゃない。ボディガードにように先を歩いてくれるリナも右往左往して落ち着きがなく、リードがあれば付けたいくらいだ。
「なんでここの人たち普通にゴーストと暮らしてるのこわいんだけど」
『……ここのゴーストたちはみんなおなかいっぱいだから』
「いっそうこわいよー……」
 ひとたび気になり出すと、普段は目にも留めない些細がだんだんと存在感を増してくる。
(……なんか、見られてない……)
 気、がした。
 道行く人間やポケモン、特に人間の方から、存在を無視されているような……。
 死んだのだろうか。メグミの手を握りしめてびくびく歩きながら、くだらないと思いつつそんな妄想に耽りはじめる。フワンテに連れていかれかけたとき本当に死んだのかもしれない、あれは彼らのいたずらで結局は街まで連れてきてくれたけれど。いや、実はもっと前から……地下道の暗闇を延々と歩き続けている途中に、僕は疲れ果てて……それとも、地下道で目を覚ましたときには既に。ということは、その前、男の人をキャプチャして倒れて……というよりヒビのポケモンセンターの前で……タケヒロが殺されたときに、実は……
 そうだったらよかったのにな――という退廃的で価値のない感情が、形をなす前に驚いて引っ込んだ。
 通りがかりのカーブミラーに映り込んだ、ミヅキに手を引かれて歩く子供の姿、を見て、完全に引っ込んだ。
「……い、ま……」
 ミソラはぎこぎこと顔をあげた。ミヅキの顔がきょとんと見下ろす。
「……変なもの、見たかも……」
『へん?』
「み、み、ミヅキちゃん、じゃないメグミと手を繋いで歩いてた子が」
 明らかに自分ではなかった。
 髪が黒くて短くて、肌の色が濃い、虚ろな顔をした男の子が、ミソラがいるべき場所を歩いていた。
 メグミの手を握っている手がじんわりと嫌な汗をかいている。メグミは黙り込んだ。じっと一点を見つめたまましばらく同じペースで歩き、こぢんまりした喫茶店の大きなショーウインドウを行きすぎながらそれを見て、ああ、と頷いた。
『トウヤ』
「え」
『ほら』
 自分がいるべき場所に立っている男の子と、もう一度目を合わせる。
 そこで虚ろな、というより喜怒哀楽のない顔でぼんやりこちらへ目を向けているものは――確かに、前に写真で見た子供の頃の痣のないトウヤ……に見えなくもなかった。
 なるほど。金髪碧眼の自分と比べれば、平々凡々なトウヤの容姿は視線を集めないだろう。
「……なんで……?」
『だって、一緒に歩いているならきょうだいのほうが、自然』
 どうやらこれも幻影能力によるものらしい。
「……驚かさないでよぉ……」
 こわがるのに疲れすぎて、もう毛虫くらいの声しか出ない。手間なことをするならいっそ透明にしてくれればいいのに。とはいえ、ちょっと過敏に怯えすぎだな、とミソラは自分のびびりを恥じた。ユキのバケッチャたちだってゴーストだったけど、悪さなんて全然せず、むしろ生真面目なくらいだった。人間の魂を吸ったっておいしくもなんともなさそうだし、ゴーストポケモンのこわい迷信なんて全部嘘に決まっている。
 ひとりで強がっていると、リナが突然唸りはじめた。
 何があるのかと思って見てみると、何もなかった。道と壁しかない場所に、まるで親の仇を見たりと言わんばかり短い牙を剥き出しにして、夢中で唸りをあげている。
 さっそく心が折れそうだ。
「あ、あのさあ……」今にも無に飛びかかりそうなリナをどうどうと宥めつつ、自分の顔から血の気が失せていくのを感じる。「……僕たちが向かってるのって……ヨシくんのところ、なんだよね?」
『そう』
 トウヤの言うヨシくんとは、ハギのおばさんの一人息子のことで、とっくの昔に死んでいるはずの人物である。
 彼の気が狂ってしまったのだとばかり思っていたが。これはもしかすると、もしかするのかもしれない。僕今日中におしっこ漏らすかもしれない、と弱気が極限まで達して、一周回って、ミソラはぺしんと頬を叩いた。この歳になって(自分が何歳なのだが正直知らないのだが)おしっこ漏らすやつがあるか、今はひとりだぞ、僕がメグミを守らないと! しっかりしろ、ミソラ!
 ひやり。
 と、首筋に冷たいものが触れた。
「ぎやああああ!」
 絶叫。容姿が目立たなくたって突然叫べば誰でも目立てる。決して多くはないが早朝のワタツミの注目をいつも通りに集めたのも構いなく、首にひっついて絡み付こうとする軟体を、掴み、ミソラは勢いよく投げ捨てた。
 べしゃん! と、地面に叩きつけられる。にょろりと細長い、薄緑色の小さなポケモン。一目で巨大な芋虫かと思って戦慄したが、すぐに上体を起こして振り向いたそれの、そのひらべったい顔、くりっとしたきらきらの両目と目を合わせて。
 胸に不思議な風が吹き込んだ。

 ――タケヒロ?

 どうしてそうだと思ったのか、まったく分からないまま、次のインパクトで直感は霧散して消滅した。その虫のような蛇のような、小竜のようなにょろにょろのポケモンの、尻尾が透けていることに気付いたのだ。
 足が無く、宙に浮き、にょろりとして尻尾が透けている、その姿はまさに。
「お、おば、」
 しかも何を思ったのか――にょろにょろのポケモンは、たったいま地面に叩きつけられたことが嬉しくて仕方ないとでも言い出しそうな満面の笑顔で、再びミソラに飛びついてきた。
「おばけええええええ!!」
 さして素早くないそいつを掴んでもう一度遠くへ放り投げ、ミソラは半狂乱で走りはじめた。
 転がるように坂道を下っていく。もう嫌だ、何も見たくない、頼むから心の平穏が欲しい。半泣きで走り抜ける右手で井戸端会議する主婦たちのまわりをゴースがぐるぐる回っていて、左手の民家の軒下にはびっしりとカゲボウズが貼りついていた。
 一瞬振り向くと、メグミとリナはちゃんと追いかけてきていた。
 そして二匹の隣をくだんのにょろにょろが嬉々とした様子で追いかけてくる。
「なんなのー……!」
 斜面沿いに立ち並ぶ住宅街を抜けて平地に辿り着けば、街並みは更に趣のあるものへと変化してくる。道路はまっすぐではないがそれなりに広く、赤土色を基調とした街並みは古めかしいがどれも頑丈そうな造りで、一目で立派と分かる建物が増えてきた。人の量は多くないが、せかせかとした様子もなくむしろ朗らかで、旅人風情のものも結構見かける。山の上よりは緩やかだがそれでも強い風が生温く顔に吹きつけたとき、なんだろう異様な匂いが鼻を掠めた。生臭いような、目に沁みるようなしょっぱい匂い。けれど不思議と嫌な気のするものではなく、むしろミソラはこの匂いを知っているような気がしたし――それがいっそう恐ろしいような気もしてきた。
 確かに通行人は少ない。しかし人の量以上に騒々しさを感じるのはなぜだ?
 さっきから幼児の笑い声が四方八方から響いているのも気のせいなのか?
 路地に入り込み、更に左へ折れて、ミソラはまた別の驚きを覚えた。
「おし――」
 黒い髪、紺色のマフラー、薄手の土色のコートを羽織った人物が、こちらへ振り向く。頬に痣。左手に包帯。
 なぜ自分たちより先に?
 などと最早気付く余裕もない。
「助けてください!」
 背後へ滑り込み身を屈める。こちらを一瞥し(そのとき垣間見た彼の顔を見て、引っ掛かるところは確かにあったが、その違和感を見逃してしまった)、軽く頷いて、トウヤはミソラの来たほうへ向き直った。
「ハリ、」
 コートの内側、トレーナーベルト"右"腰のホルダーから取った紅白のボールを、彼は"右"手で放る。
 ミソラはまだ気付かない。
「『わたほうし』!」
 飛び出した頼りの案山子草が、突き出した棘付きの両腕を振ると、撒かれた大量の粒が空気を吸い込み一斉に膨張した。むくむくとかさを増し狭い道路を埋め尽くす。
 奪われた視界の向こうから、うおっ、と声がして、ミソラはようやく、あれ、と思った。
 それは確かに人間の、成人男性の発声に思えた。あの緑のにょろにょろの小さいのが野太い声を出すなら別だが。
 違和感にようやく立ち止まった心が、次いで光景の奇妙さに気付く。
 ――何だ? トウヤの髪が妙に長い。
 綿を押しのけるようにして現れたものが、人間で、大人の男で、しかもリューエルの腕章をしていたものだから、駆け込んできたリナを抱きしめてミソラは固まってしまった。
 やってきたリューエル隊員は綿をぺんぺんと払いながら、訝った様子でこちらを睨む。逃げようにも足が竦んで動けない。不思議なのは、凍りついているミソラとは対照的にトウヤが泰然と構えていることで、そしてリューエル隊員の方もこちらに飛びついてきたりはしないことだった。
「すみません」
 トウヤが先手を打って謝った。
「技の練習をしていて……」
「……こんなところで?」
 被り笠が首肯する。バトルフィールドでもなんでもない街中の路地の一角で、あまりに苦しい言い訳をする青年と従者の姿を、男はじろじろと舐め回した。
 まるで、トウヤの後ろでへたり込んでいるミソラとリナのことなど、目に映ってすらいないかのようだ。
「何かお急ぎでしたか? 邪魔をしてしまって申し訳ない」
「あ、ああ……君、赤い竜を見なかったか? この路地に逃げ込んだはずなんだが」
「赤い竜。リザードンですか? 僕も見たいな。野良なんです? それとも逃げ出したとか?」
 不躾に食いつきはじめた若者に男は厄介そうな顔をして、危険なので見かけたら近づかずリューエルに連絡を、と言い残し、連れのポケモンと共にその場を去っていった。
 男が完全に視界から消えたことを確認して、息を吐き、トウヤがミソラたちへと振り向く。
 違和感が、形を得はじめた。あらためて眺めるトウヤの顔が、微妙な差だが、やや幼い。目にかかる長さに伸ばしている髪は似合っているとは言いがたかった。その目がミソラとは目を合わせず、ミソラの背中側に向かう。やはり、ミソラがそこにいることになど、まるで気付いていないらしい。
 ミソラも振り向いてその場所を見てみた。
 何もない――ように見えていた場所。鏡が割れるように景色がバラバラと砕け、手品か間違い探しか、全く同じ景色の中に赤と白が加わった。竜だった。全身ボロボロのひどい有様で、トウヤとハリに対しても露骨な警戒心を見せている。だがもう透過するだけの余力もなく、身動きもとれなさそうに見えた。
 メグミとトウヤが出会ったとき、メグミはリューエルに追われていたのか。
 目の前で繰り広げられる出来事を、傍観者として、ミソラはすんなりと受け入れていた。
「カクレオン……じゃないよな、流石に」
 興味を示しながらも一定の距離を保ちつつ、腰を下ろして、トウヤは目線を合わせる。
「ひどい怪我だな。連中にやられたのか?」
 淡々とした口調でかける声にも、メグミは歯を剥いてますます唸り声をあげた。それを見守るミソラの脳内に、あたかも元から知っていたのを思い出したかのような自然さで、知らない情報が流れ込んでくる。――メグミはこの日まで、感情を生身の『感情』として伝え合う術でしか仲間とのコミュニケーションを取ってこなかった。テレパシーが使えるからこそ『言葉』というものを持たなかった。だから、多くのポケモンが理解できる人間の操る言葉の意味を、このときは理解できなかった。
「……うーん、薬も碌なのが……このまま放っておくのもな」
 荷を漁っているトウヤの後ろから、ハリがゆっくりとメグミに歩み寄ろうとする。その足元から転げ出るように、ハヤテ――フカマル時代の丸っこいハヤテが、ギャッギャッと今と同じ騒々しさで走ってくる。メグミはいっそう毛を逆立て、ハリがハヤテの球体を蹴飛ばして制した。
 これは頼りにはならないが悪い人間ではない、とハリが言った。
 そうだよ、たまにごはんの時間忘れるけどおいしいお肉もくれるしね、とハヤテが言った。
 彼らの言語を解読できるわけもないが、そう言ったのだとミソラにもなんとなく知れた。ハリが今度は腕を振り下ろしてちっこいハヤテの脳天を叩き、ハヤテが舌を突き出して怒る。漫才をはじめる彼らを前に、メグミは困っている。メグミは長いあいだ、他者には、特に人間にはあまり関わり合いにならないようにと教えられてきた。しかし目の前の彼らは異種族なのに仲がいいうえ、人間をすっかり信用している。
 おいハリ、とトウヤが鞄の中から取り出したものをハリへ投げ渡す。
 乾燥オレンのように見えた。唸るメグミの足元へ、それをハリがてんてんと並べた。
 食え。少しは元気が出る。ハリが訴える。その後ろで懲りないハヤテが、食べないならおれが食べちゃうもんね、と言いかけて、またハリに手刀を食わされている。メグミが鼻先を近づけ、用心深く匂いを嗅いでいるのを、トウヤはじっと見つめている。
 躊躇するメグミに、ハリが言った。
 わたしの主人はポケモンに毒は食わさない。
 ミソラははっとしてその顔を見た。ノクタスの無表情な表情から、読み取れるものは何もなかったが、ハリはもう一度繰り返し、強い口調で言い切った。
 絶対に、毒だけは食わさない。
「元気になるまで、しばらく匿ってやろうか。僕もリューエル――あいつらのこと嫌いなんだ」
 トウヤの言葉に、メグミは乾燥オレンを食みながらまっすぐ目を見据えて返した。言葉が分からずとも、そうだ、メグミには心が分かる。
 兄を探さなければならないことが、感覚として、あるいは視覚的なイメージとして、ミソラの内側になだれ込んでくる。
 青い……竜。赤いのと空で交錯し、赤いほうが、拗ねたようにして離れていく。その隙に人間たちに襲われ、命からがらに逃げ延びた。きっと兄は心配しているし、すごく怒ってもいるだろう。
 トウヤはふわ、と目をひらいた。従者たちへ視線を送ってから、三人一緒に、狐につままれたような顔でメグミをまじまじと観察した。突然テレパシーなんか送り込まれたら、ポケモンの摩訶不思議にいくら親しみがあったって、誰だってこうやって驚く。
「……分かった。なら、僕たちも探してみよう」
 そうこなくっちゃ! とハヤテがはしゃぎだす。ハリも大きく頷いた。その時点でメグミにはまだ困惑があったけれど、見知らぬ者に温かい感情を向けられたことが、じわり、と身体中の痛みを癒すようだったのは間違いない。
「きょうだいは一緒にいたほうがいい、とまでは言わないけど……自分が悪いと思ってるなら、なるべく早めに謝ったほうがいい。なんなら、僕も一緒に謝ってやるよ」
 くしゃり、彼の不器用な笑顔を見て――あの人も謝りたかったのだろうな、と、腰の抜けた姿勢のまま、ミソラは小さな感傷に耽った。
 気がつくと、視界にはリナとミヅキのメグミ、それからあの緑のにょろにょろおばけ以外、誰もいなくなっていた。
『……落ち着いた?』
 走り疲れて息をあげている子供を案ずるよりは呆れた様子で、ミヅキの顔が覗き込んでくる。ミソラの腕の中にいるリナも目を瞬かせているから、どうやら同じ幻覚を見ていたらしい。視界の一部だけでなく、視覚をまるごと奪って過去の出来事を追体験させるようなこともできるのか。この能力の高さを思えばリューエルが欲しがるのも頷ける。
『こわがらなくても、トウヤすぐ来てくれるよ』
 にょろにょろおばけが飽きもせずまとわりついてくる。それを冷静に剥がして睨みつつ、怖くなんかないよ、とせめて不貞腐れてみせた。



 風が吹くたびに感じていた異様な匂いの正体に辿り着いた。
「僕、もしかしたらあれに乗ってきたのかも」
『……?』
「だって、あの船、きっと外国に行くんでしょ?」
 大きな船。そして――海。
 港には、あのハガネールを思うくらいの巨大な船が停泊していた。少し離れた堤防の上からでも圧倒されるスケールで、付近をたくさんの人やポケモンがありんこのように行き交っている。何度も振り返ってしまうほど、なぜか惹かれる光景だった。
 海を目にしたとき、わあ海だ、と思いこそすれ、雪が積もっているのを見たときほどの興奮はなかった。おそらく記憶を失う前に海を見たことはあったのだろう。
『前を向いて歩かないと、落ちるよ』
「落ちたらメグミが助けてよ」
『……ミソラって、トウヤがいないと、わがまま』
「うるさいなー」
 とは言え、落ちたらひとたまりもなさそうだ。堤防から見下ろす左手には、海が絶え間なく押し寄せては乱暴な飛沫を立ている、波を砕いては引く様はまるで堤防への『捨て身タックル』。海の底などちっとも見えず、ミソラが泳げる保証もなく、華麗に泳いで難を逃れるよりぶくぶく沈んでいくほうが性に合っているとさえ思える。
 視線をあげると、どこまでもどこまでも続く海の向こうに、海と空の境目がある。実際にはその更に向こうに、ミソラみたいな肌色の人が住む外国とやらが存在する。けれど堤防から見渡す限りでは、その切れ目に空と海が吸い込まれ、呑まれて消えていっているみたいだ。
 山の上から、世界の終わりを見た気がした。あのとき何もないように見えていた場所が、まさに海だったのだ。分厚い曇り空の下の、波の起伏に闇の濃い場所と薄い場所があるだけの、黒く、暗い、終わりのない海。
 海の向こうには外国があるとして、海の底には何があるのだろう。
『神さまがいるよ』
 メグミがぽつんと言ったのは、ミソラの心の声を聞いて答えたかのようだ。
『海の中には、神さまがいる』
「どんな神様?」
『たましいは自由になると、みんな神さまに会いにいくの』
 ミソラはふと顔を戻す。
 ミヅキの横顔が、彼女らしからぬ消え入りそうな孤独を帯びて、冷たい海に向かっている。
「魂が自由になるって?」
『からだから、自由になる』
 つまり、死んだら、ってこと?
「空じゃないの?」
『……空?』
「死んだら、空に」
 天を指差しながら、この分厚い曇り空をなんとか掻き分けて越えた先に、本当に天国はあるのだろうかと思う。
「……どっちでもいっか」
 ポケモンにはポケモンの信仰があるのかもしれない。ちょこちょこと前を歩いているリナが静かだった。ちらちらと海へ視線を投げながら、片方しかない耳をそばだてて波の音を聞いている。
 海辺のワタツミにゴーストポケモンが多いのは、神様に会いに行く旅の途中なのだろうか。ゴーストタイプは厳密には「おばけ」ではなく「死者」でもなく、「生物」に近いとされるらしい。ならば神様に会うためにはるばるワタツミまでやってきた魂を、取って食っているから、と考える方が、きっと合理的ではあるが。
 でも仮に、前者だとすれば。
 首元に巻きついて、先ほどからソワソワした様子のにょろにょろおばけ――ドラメシヤだ、やっと名前を思い出せた――の顔つきを、あらためて観察してみる。ひらべったい顔に、まんまるでキョロキョロとよく動く、好奇心旺盛な瞳がふたつ。
 この目が、似ているのだろうか。
 だから、君を見て、あの懐っこい友人の笑顔を、思い出せたのだろうか。


■筆者メッセージ
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とらと ( 2020/11/04(水) 21:36 )