14−2
この瞬間を、どれほど夢に見てきたことか。
「会いたかった」
十三年ぶりに聞く声が記憶より低くて掠れがあるのを、トウヤは知っていたような気がした。最後に口を利いた晩にはもう喉をやっていたんだったかもしれない。モモが死んでしまってからは四六時中泣き続けていた。あの事件より前の彼女は、野花を揺らす風のような軽やかな声をしていたはずだ。
「大きくなったね。びっくりしちゃった。そりゃそうか、だってもう十年以上経ってるもんね」
あの澄んだ音色を、こうして耳元で、昔はいくらでも聞いていられた。
父母があまり傍にいなかったからかもしれない。同年代の普通のきょうだいよりは仲が良かったと今でも思う。どこへ行くにも一緒だったしあらゆる物や気持ちを共有した。姉をからかう上級生をハリを携えて懲らしめたし、平均よりちびだった弟を、ミヅキはよく抱きしめていた。幼子同士がするように、ポケモンとじゃれついていた庭で、下手くそな花冠を乗せた野原で、子供部屋のベッドの上で。
漫然と過ぎ去った年月は瞬く間に巻き戻されていく。
二つ並んでいたベッドはあのあとどうなったのだろう。
「……大きくなったのに、なんか懐かしい、不思議」
独り言のような感慨が頭の裏から聞こえる。背後に回った掌に髪を梳かれる感覚がする。
必ず抱きしめ返していた腕にまるで力が入らない。
「でも、ちょっと痩せすぎじゃない? ハギおばちゃんにちゃんと食べさせてもらってるの?」
ぽん、ぽん、とぐずる子供をあやす手つきで頭の裏を叩かれるたびに、子供時代に、引き摺り込まれていくようで、トウヤはそれに抗えなかった。
――どこかの街角で、あるいは野道で、荒野に聳える岩陰から。もしも偶然に出くわしたら、何を話そうと考えていた。会えない期間が伸びていくだけ想定するシーンは増えた。オープンテラスのあの席に。早足に行き過ぎる馬車の荷台に。姿を探しては空想する。追いかけて、腕を掴んで、一言目に何を言うか。あの人がどんな顔をして、そしたら次に何を言おうか。あなたのいない世界で僕が生きてきたことを、その日々にいつだってあなたを思い続けていたことを、どう伝えるのがいいだろう。変わらないのは、どのシチュエーションでも、先に姿を見つけるのは常にトウヤの方だった。砂漠の砂の数の雑踏にたったひとりのきょうだいを見出すのは僕だ。不思議と確信を持っていたし、自分なりの根拠もあった。
だって、あんなに悲しんで傷ついていたおねえちゃんが、僕を探すはずがないから。
「でも、会えてよかった。トウヤを探してたんだよ、今」
姉が優しく抱擁し、頭を撫でて言葉を掛ける。
この状況に返すべきものを何一つ見出せない。
思考という思考が機能を停止し、頭はこの世の黎明の如く真っ白で、その白さはトウヤの中に異様な感情を掻き立てる。
「ねえ、トウヤ」
身を離し、両腕へ手を添えたまま間近に覗き込む目の色を見て、理解した。
――恐怖だ。
この状況を、全細胞が拒んでいる。
「おねえちゃん、トウヤに教えてほしいことがあるの」
微笑み。よく研がれた包丁のように整い切った美しい面立ち。
動作を忘却した体の芯で、ずぐ、ずぐ、と心臓の鼓動が不気味に重い。
硬質な陶器のような唇が柔らかく開閉する。目が離せない。
「いい子だから、答えられるよね?」
「……うん」
操られたかのように、勝手に喉が震えた。
長い歳月に埋没していた条件反射がそうさせた。
ミヅキは満足そうに微笑みを深くして、小首を傾げながら、甘い声で弟に問うた。
「ラティアスはどこ?」
……――――ッ!
音のない音が脳髄を貫き、トウヤは咄嗟に右足を振り上げ、その場へ強く叩きつけた。
地面が隆起する。足元に潜ませていた伏兵が石畳を粉砕して現れる。『穴を掘』り抜けた従者の首をトウヤは無我夢中で掴んだ。竜の滝壺から躍り出るように一息に姿を現したガバイトは、主人を拘束していた見知らぬ女を飛び退かせ、食いかかる宿敵の攻撃も間一髪で回避した。
「走れ!」
一歩二歩三歩。跨る背が力強く躍動する。身を捻り伸ばした指先が地面に転がるボールへかかる。掬い上げ開閉スイッチを押し込む。トウヤの名を『呼んだ』火傷まみれのハリが消える。パシュッと音を立てボールが光を呑み干してそれをボールホルダーへ引っ掛け、トウヤは決して姉の顔を見なかった。ハリの回収を完了すると両腕でハヤテの首を抱き両腿で身を挟んで叫んだ。
「走れ! 走れ!」
怒涛の勢いで色が流れ路地を駆け抜けて大通りへ出た。信号待ちをする人の群れを半ば弾き飛ばし自動車のブレーキ音が甲高く響く。響いた時には遥か背後だった。石畳を踏み割るほど強打した竜の足裏が――長い浮遊感のあと――次には二階建ての屋根を、掴む。跳躍。屋根から屋根へ。賽の目状に整然と開発されたヒビの街並みの、上空を無秩序に飛び抜けていく。視界の奥が眩しい。除雪の行き届かない郊外の砂上の雪の白だ。街の雑踏へ隠れるか郊外へ向かうか一瞬決断を躊躇した、その一瞬に。
「待って!」
街の上を駆けているはずの自分たちの更に上。声は泣き出しそうに注いでくる。
「トウヤお願い! 話を聞いて!」
空だ。ピジョットの鳥影が追いかけてくる。
それだけではない。目下の路地に火を噴く背中が垣間見えた。
外へ、と指示する声が震える。メグミとミソラを逃がすための時間稼ぎなら一歩でも遠くへ誘導することは正しい選択ではあったが、そこまで考える余裕はまるで残っていなかった。恐怖。恐怖だけだった。鼓動は今や全身が心臓そのものであるかのようで、限界を超えた緊迫はひと突きにされるだけできっとバラバラに砕け散る。
ハヤテの全速力が一段と凄みを増した。建物が徐々に疎らになり雪の気配が深くなる。
「ねえ、大事な話なの、お願いだから、いい子だから」
『――遊びに行こうよ』
そう言って、生白い手を差し出してきた、あの満月の夜。
モモが死んでから、味のしない月日が流れて、あれはトウヤの誕生日だった。誰一人にも祝われない生まれてはじめての誕生日だった。真夜中の、二つベッドが並んでいるのにひとりしか使っていない子供部屋に、彼女はやってきて、手を差し出した。笑顔だった。ほんの数日――それでも子供にとっては永遠とも思われる長い間、見ることの叶わなかった、優しいおねえちゃんの顔だった。
十歳になったばかりのトウヤは逡巡しながら手を取った。
冷たい家を抜け出して、真っ暗な畦道を二人で歩いた。寒い夜だった。いやに明るい夜だった。不安で、怖くて、手を握った。手は握り返してくれた。でもあのとき不安だったのは、怖かったのは、その手のひらだったのだ。あんなに悲しんでいたおねえちゃんが僕に優しくするわけがないと分かっていた。それなのに手を差し出されたことを、不気味だとちゃんと気付いていた。
あの手を取らなければ、深夜の薬物工場に連れ込まれ、気の狂った実験体の檻に閉じ込められることもなかっただろう。
その末に薬物アレルギーを発症し、故郷を去らざるをえなくなることも、なかったのかもしれない。
でも、何度あの夜を繰り返しても、自分は手を取るだろうと思う。それが制裁だったからというのもあるけれど、どうしても、信じてみたくなってしまうと思うのだ。誕生日に、久々に声をかけて、笑顔を見せて、手を差し伸べてくれた大好きなおねえちゃんのことを。いつか元に戻れることを、じきに許してもらえることを、身勝手に信じてしまえると思うのだ。
体に強い衝撃が走り尻が浮き吹き飛ばされぬようトウヤは必死にしがみついた。ハヤテは雪を蹴飛ばしていた。街を抜けた。右手へ左手へと炎が飛んでくる。左右へ振られるたびに背後の足音が迫ってくる。
「私の上司が処分を受けるの、ラティアス捕獲の失敗の責任をキノシタから押し付けられて」
声がはっきりと耳に届いた。ピジョットに乗るミヅキは殆どハヤテに並走していた。
「彼から何もかも奪うような酷い処分なの、でもラティアスがいれば、きっと撤回してもらえる!」
背後に獰猛な息遣いが迫る。
「お願い」
不得手の足場にハヤテが苦悶の唸りをあげ力を振り絞ろうとする。
「大切な人なの」
『本当に大切な人だったのね』
ふと蘇ったのは、アズサの声だった。
『ねえ、ミソラちゃん。ミヅキさんは敵討ちをしてほしいって、お兄さんを殺したら笑顔になるって、本当に言ったの? それを聞いて、ミヅキさんのことを『素敵な人』だと、本当に思ったの?』
『でも、でも、ミヅキちゃんは、あのとき壊れたみたいに泣いていて』
立て続けにミソラの主張が頭を過ぎる。ハガネールに乗っていたときだ。トウヤの隣で、ミソラは必死に己の正しさを訴えていた。
『許さない、絶対に許さないって……』
『だって、大切な家族をなくしたんですもん』
「――私からこれ以上何も奪わないで!」
ミヅキの悲痛な叫び声に、ミソラの投げ捨てるような声が重なる。
『ご両親がいっぺんに弟に殺されたなんて、そんなの、誰だっておかしくなるに決まってます』
「ハヤテ」
トウヤは従者の耳元へ口を寄せた。
「『穴を掘る』を使うんだ」
大きな目が驚愕の様相でこちらを見る。
口早に繰り返した。
「『穴を掘る』だ。いいな、いくぞ。いち、に、の、」
パン、と地を蹴ったハヤテの体が雪原に向かって前傾する。
青い背を踏み台に、トウヤは横へ跳んだ。瞠ったミヅキの双眸の自分が鬼のような形相をしていて、それがぐんと大きくなって、焼け爛れて血塗れの左手が、異様な力で、彼女の腕を握りしめた。
曇り空に雪景色。そのひと以外あらゆる色を見失うのは気狂いの幻想などではない。
ピジョットの背から姉を道連れに振り落とし、そのまま地の底へ、したたかに叩きつけた。
雪の沈む鈍い音がした。
かはっ、と息を吐いた彼女へ馬乗りになり、全体重を込め、両腕で、両肩を押さえつけた。
「いっ」
小さな悲鳴と反発力。
「……っ」
ぎりぎりと両腕に力を込める。
痛みに首が振れ白銀の上に乱れた髪が黒く散る。
目の前の美しい姉の顔が歪んでいる。
醜い己の白濁の呼気が、息苦しさに喘ぐように、切れ切れに空へ攫われていく。
何故、こんなことをしたのか、自分自身でも分からなかった。
背後で咆哮が聞こえた。ハヤテが一矢報いていた。『穴を掘る』の奇襲を浴びたアサギが仰向けに倒され、なんとか抑え込まんとする竜の体を跳ねかけて、もう一体に抑えられる。いつの間にボールから飛び出したハリがアサギの顎を上へ向かせた。噴く炎はあらぬ方向へ向かっていき背中の爆発は雪を溶かし、水に威力を阻害される。決死の力で押さえつけようとするノクタスとガバイトにのたうって抵抗するバクフーン。
親代わりの獣と同じに、仰向けに押し付けられている姉の顔に、己の影が差していた。
冒涜的に鳴り続ける心音を耳の側に聞きながらトウヤはそれを見下ろしていた。
腕の力はすぐに失せていた。
ミヅキは、毒気を抜かれた顔で、長い睫毛を瞬かせた。
沈黙が流れた。背後で三体がもがく音が、膜に隔てられたひどく遠い世界に思える。トウヤは肩で息を繰り返していた。錯乱ともつかない激情の瞬発的な波が引くと、体の至るところにある猛烈な痛みがぶり返し、脂汗を噴き出させ、それがミヅキの顔に滴り落ちないか心配に思った。彼女は、美しかった。間近で見るほどに作り物のような美しい顔をしていた。まるで無垢な少女のようにぽかんとこちらを見上げる姉は、動悸の荒れ果てた自分とは真反対で、呼吸していることも疑わしいほど恐ろしく涼しげな顔をしている。
その顔が、絵画のような笑みを浮かべた。
「もう、男、なんだね」
――ドクン、と全身の血管が脈打つ。
ああ、今や。
こんなにも華奢な肩だ。
こんなにも細い首筋だ。
騙されてはいけない。
騙されてはいけない!
「姉さん」
自らの意思でまともに発した、再会の一言目は、十三年かけて慎重に積み重ねてきたシミュレーションの段階を、百も、二百も飛び越えていた。
「どうして父さんと母さんを殺したんだ」
どこかあどけなさすら残す、儚げな表情が。
罅入って崩れる、のか、凍りついていく、のか、どちらが正しかったのか。トウヤはその変化に十三年分の歳月の流れを一気に見通したような気がした。そして、おそらく、向こうにとってもそうだったのだ。抱きしめれば昔のままの呼び方で呼んだ十歳の少年のままの弟が、殺気紛いに飛びかかってくる姿に、二人を隔てる途方もない時間の谷を目の当たりにしたはずだ。
昔のままの姉と弟で、再会できるはずなどなかった。
「は?」
弟の影を浴びながら、姉は嘲るように冷笑した。
「あんたが殺したんでしょ」
*
駆け込んだ路地で不意に男とぶつかった。ぱさぱさに水気の抜けた作り物の金髪にヤニのへばりついた男。謝りもせず走り去ろうとしたミソラの髪が、ぐいと背後へ引っ張られた。芋虫のような太い指が金糸を束ねて握っている。「来い!」吐きかけられた息が酒臭かった。薄暗い地下階段の方へ引き摺られながら、ミソラは鞄に手を突っ込んだ。
アズサの訓練生モデルのキャプチャ・スタイラー。返し忘れたのではない。制服と一緒に返すふりをして、故意に盗んだ。
素早く装着し、ディスクを放つ。ラインは瞬く間に幾重の輪を成す。ミソラごと男を青白い光が取り囲み、狭まって弾ける。怒声に殴られてもディスクは止まらない。
「忘れてください」
何もかもが怖かった。
でも何が怖いのかなんてもう分からない。
「忘れてください」
不意に男の手から力が抜けた。
指の間から髪が抜ける。へたんとその場に座り込んだ男はうろのような目をして虚空を見ていた。ミソラはそれに構わなかった。ルリコをキャプチャしたときと同じ、病的なまでの動悸と、酷い虚脱感に襲われながら、よろよろと再び歩きはじめる。
瞬きするたびに蘇る。
タケヒロの顔。
ゆっくりと倒れていく友人の顔。
――逃げないと。
――早く逃げないと。
がくりと膝が折れたとき、透明なメグミに抱きとめられて、ミソラの意識はそこで途切れる。
*
ポケモンセンター前の異様な人だかりに、嘔吐きそうになるほどの不快感を覚えた。『第六感』なんて生易しいものではない。常人の目には映らぬものを、なるべく映さないための『蓋』さえ貫通して、それは視界に映り込む。
色だった。
熟れすぎた果実のようなどす黒い赤の波動の霧が、あたり一帯に漂っている。
アズサは思わず口許を塞ぐ。害のない毒ガスが蔓延しているという表現が妥当だ。こんなにも濃密で膨大な波動を目にした記憶があっただろうか。他者の波動を吸い込むことに身の毛のよだつ思いをしつつ、ムクホークに下降を命じる。まさに規制線が張られている最中で、その内に消防隊やポケモンレンジャーも入り乱れているらしいのは分かるが、波動の濃霧で景色すら曖昧だ。――消防隊? 眉根を寄せる。一体何がどうなっている?
ここを拠点にしているホシナはどこだ?
人混みの中でも自分を見つけて、すぐに駆け寄ってくるはずだ。
自分と同じ隊員服の人を捕まえて、名乗りと敬礼をする。何を問う前に、彼は顔をしかめながら、顎でセンター入り口を示した。
「どうもバクフーンが暴れたらしい。今、別働隊が追ってるが」
――バクフーン。
愛鳥を奪われた少年の姿が過ぎる。
示された方向へ、アズサは目を向けた。やはりよく見えないが、波動の色に紛れて、ヒビの美しい舗装の上には不似合いな人工色が見えた。ビニールシート。何かを覆っている。背筋を這い上がる第六感を押し退けながら、波動の受容体の『蓋』を開け、シートの奥を見極めていく。
漂う毒々しい紅色の霧の向こう、薄い膜の下に横たわる、万物が持つ、変質しても変わることのない固有の波動色を見て――
*
「あんたが殺したんでしょ」
姉の口が、滔々と語り出す。
「バンギラスの爆破実験。知ってんでしょ? ココウのあたりでは『死の閃光』とか呼ばれてるらしいね。ホウガの研究所が作ってたヨーギラス爆弾の進化系、強化剤を長期間大量投与したバンギラスを爆発させてリゾチウムの飛散状況と環境の反応を見るってやつ」
父親がそれらしい研究に携わっていたことは知っている。
だが、そこから先は――トウヤにとっては、正面切って来るであろう凄惨たる真相の衝撃に身構えていた彼にとっては、真後ろから軽く肩を叩かれるような、そのくらいの、あまりに思いがけない顛末だった。
「でも、ココウにあんたが住んでた」
と、ミヅキは続けた。
「リゾチウムにアレルギーのあるあんたが。爆風浴びたら死ぬだろうあんたが。父さんその頃には研究メンバーから外されてたから直前になるまで知らなくて、猛反対したけどもう止まらなくて、あんたを助けるために、止めるために、母さんと一緒に試験場に忍び込んで」
一息。
「爆発に巻き込まれて」
――眼前に、あの夜の光が鮮やかに迸り。
マグマのようにあぶく立っていた全身の血流が、徐々に冷え、固まって、トウヤは感覚を失っていく。
「あんたがさあ。ココウでのうのうと居候を続けてたから、だから二人とも死んだんだよ」
知らなかったの? 嘘でしょ。
姉は冷めた顔で続ける。
「あんたのせいで死んだんだよ?」