月蝕


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月蝕
13−11

「バトルしようぜ!」
 と、元気いっぱいに切り出すのは、ココウスタジアムでポケモンを殴り合わせる輩たちを野蛮だと非難し嫌悪していた、あの少年なのである。
 パーティーの翌朝。いつもの公園にはどっさりと雪が降り積もり、時間が早いこともあって除雪も済んでいない状況だ。とはいえ雪にも飽きたというか、大はしゃぎで雪合戦していたヒビ初日の興奮は既に遠い昔である。毎日慌ただしくて時が経つのも忘れていたが、この街にやってきてから、もう十二回目の朝だった。
 バトル嫌いの友人は仁王立ち、その肩にピジョンのツーがこの胸を借りろと言わんばかりに張っている。どう反応するべきか分からず、ミソラはとりあえず眉をひそめた。
「……グレンさんみたいなこと言ってる……」
「タケヒロがそんなことを言い出す日が来るとはな」
 茶化すトウヤは今日は異様に寒がって、ベンチで身を縮めている。それもドラゴンポケモンの性質が現れてきているからなのか、単に屋内に篭もっている期間が長すぎたのか。先が思いやられると言えばそうだが、汚いコートにマフラーに、寄り添うノクタスにガバイトに、三つ目のボールも携えている全く普段通りのトウヤが、一緒にいるという事実は、ミソラをちょっとは安心させた。
「いいだろ? どうせアズサが来るまで暇なんだし」
「暇だからって、らしくないよね」
「俺もツーもかなり強くなったからな。あと、専属ピエロとして働くのに、技の使い方のバリエーションを広げたいんだ」
「なんか……エラそう」
 根無し草が口を尖らせると、大金持ちの住み込み雇い人はけらけらと笑った。パーティ終了後、ホシナ組組長のタケチカ老人へ自ら売り込みをかけに行き、その場で契約と契約金を勝ち取って、宣言通りに借金を完済してみせた。笑っちゃうほどの抜け目のなさは、ココウの町で子供ひとりきり培った世渡り術の所以だろう。
「リナはどう?」
 一匹雪上を跳ねて遊んでいたニドリーナが、みゃっ! とやる気満々の返事をくれる。ミソラも承諾した。別れ間際の最後の最後にもうひとつ思い出を作れるなら、それに越したことはない。
 センターで大人しくしてろと言うハルオミを「じっとしてられるか」と振り切り飛び出してきたのはタケヒロだ。最初からミソラとバトルすることが目的だったのかもしれない。
「ルール・フリー、各一体、道具の使用は禁止、一方が戦闘不能になった時点で試合終了」
 審判のトウヤが淡々と仕事をする間、一応形式どおりにリナを戻し、ミソラは前方を見やった。同じくツーを収納し、そのボールへ、じいっと目を落としてから、タケヒロは顔を上げた。
 試合前から既に勝ち誇っているような、自信に満ち溢れた清々しい笑顔。
 ――最後の思い出作りなんて、違うか。これで最後じゃない。僕たちは、会おうと思えば、またいつでも会えるんだよね。寂寥感なんて一滴も纏わない友人の様子を目の当たりにして、ミソラも少し吹っ切れた。
「試合、開始!」
「先手必勝の『電光石火』だ!」「いくよリナ、『冷凍ビーム』!」
 同時に投げ込まれた赤白球が二つ、雪のフィールド上で同時に弾ける。
 先手を取るのは『電光石火』だが、相性でも威力でも『冷凍ビーム』の方に利がある。光を振り切って飛び出したツーは、現れたリナが口内に冷気の光を溜めるのを見て、すぐに軌道をずらした。放出された『冷凍ビーム』は翼のかなり横を通過した。公園の疎らな木々の間を縦横無尽に撹乱し、ビームの追跡を切り抜ける。
 リナのスピードでツーに技を当てるには、この技は有効範囲が狭すぎる。ならば。
「できるだけ広範囲に『十万ボルト』――」「させるかよ! 地面に向かって『風起こし』!」
 立て続けの指示に、タケヒロがついてくる。バトルのことなんて何にも知らなかったタケヒロが。
 ミソラは少し驚き、そして、ふっと心臓の温度があがったような感覚を覚えた。
 ツーが威勢良く翼を振るう。びゅうと鳴る風はリナではなく、かなり手前に吹き付けて――昨晩の新雪が舞い上がって、吹雪か白い煙幕になって風下のリナとミソラを襲った。
「寒いよ!」
「うるせえ!」
 今だ『竜巻』! ――『十万ボルト』を打ち損ねたリナに、小さな『竜巻』が向かってくる。リナは避けようと後退するが、雪に足を取られていつもの機敏さを発揮できない。だが雪を舞いあげて吸っている『竜巻』の動きも遅く、そのぶん判断の猶予があった。
「リナ、木だ!」
 トレーナーの指示に、片耳がぴくんと動く。リナは二度三度跳ねるようにして手近な木に飛びつくと、幹に爪をかけ器用に登ってみせた。あっという間にツーの上を取り、足を踏ん張って、ターゲットめがけ勢いよくジャンプ。
 地上に確かな足場がないなら、他に足場を求めればいい。そして特殊攻撃が躱されるなら、物理攻撃だ。言わずともリナが意図を汲んでくれる。長らくバトルをしていなかったのに、ココウで稽古をしていた頃より、ずっと息が合っている。
 白い息を吐いて吸う。技名を叫ぼうとする口元に思いがけず笑みが溢れる。
 ――なんでだろう、すごく楽しい。
「『乱れ引っ掻き』!」
 待っていましたと言わんばかり、目下の標的へリナは踊るように切りかかる。アクロバティックな奇襲にツーは回避行動を取らないが、それは取れないというよりも、次の指示を待っている意志の強い目つきだった。
「やべったったつ、じゃねえ『吹き飛ば』せ!」
 慌てながらもタケヒロが叫び、相棒を信じた翼が得意の一陣を巻き起こす。爪が届ききる目前で、リナは真反対の方向へとすっ飛ばされた。
 グルグルグル、回転しながら、水色の体は放物線を描き――広場の端に寄せられている雪溜まりに、ぼすっ、と上半身を突っ込む。じたばたじたばた。足だけが暴れる。ハリが目を丸め、トウヤとハヤテが声をあげ笑った。
「リナ動ける!?」
「チャンスだツー『電光石火』でもっと押し込め!」
「えっとえっと、あっ『目覚めるパワー』!」
 カッ、と赤く輝いた炎のエネルギーが一瞬にして周囲を融解させ、そこに突っ込んできたツーの一撃がむしろリナを雪の拘束から脱させた。リナが機敏に身を返す。至近距離での対峙。これなら外しようもない。ニヤリと笑ったようなリナの顔がミソラの笑みとシンクロした。
「『冷凍ビーム』だ!」「逃げんな『燕返し』!」
 タケヒロの指示の方が遅れて出たのに、『燕返し』の起動の方が早かった。ミソラは知らないが、ツーのその技は、最初披露してみせたときにトウヤに「起動が遅すぎて話にならない」と指摘されていた技だ。ピエロ芸に応用して試行回数を重ねるうちに、彼らは本当に強くなっていた。
 身を素早く翻し、刃のような右翼の斬撃を確実に懐に叩き込む。直後、リナの口から放たれた光線が飛行の属性の芯を貫き、ツーはガクガク全身を震わせる。引き千切られるような悲鳴が早朝の公園に響きわたる。
 弱点を突く一撃に、力を失った翼がそのまま雪上へ墜落し――なかった。
 接地を目前に、氷の結晶を振り払うように翼を撃って、再び大空へと舞いあがった。
 その場へ集まった全員の視線が、空へと向けられる。覆い尽くす曇天にも構わず、力いっぱいに飛翔する、頼もしい一羽の姿を映す。
「もうあのときの俺たちじゃないぜ!」
 タケヒロが拳を突き出して笑った。
 呆気にとられたミソラの脳裏に、あのときの気持ちが蘇った。
 あのとき――あの大雨の日、ココウスタジアムでタケヒロと試合をしたあのとき、戦うことは、戦わなければならないことは、本当に辛くて、苦しかった。あのときミソラは、誰かも分からない人を殺したいとばかなことを言っていて、まだ『吹き飛ばし』以外の技名すら知らなかったタケヒロは、ばかなミソラを止めるために大嫌いなバトルに挑んだ。ミソラは本当は止めてほしかった。殺さなくてもいい理由が欲しかった。タケヒロに負かしてほしかった。でも勝たなければならなかった。技がひとつ、またひとつと繰り出されるごとに、リナの命も、ミソラの命も、かんなに掛けられて少しずつ削られていくようで、もう粉々になっている自分の心を、幾重にも踏みにじって、踏みにじって……。
 あれから、悲しいことがたくさん起こった。慕っていたトウヤを殺さなければならなくなって、その首にナイフを向けた。タケヒロに殴られ、タケヒロを殴り、グレンが裏切って町を出ていった。ココウに悪い人たちがやってきて、家を追われ、イズは死んだ。どうしようもない閉塞感の中で、自分たちは、ココウにいられたときよりもずっと、たくさん話し合いをして、言い合いをして、がむしゃらに日々を生きていた。それで、今、もうすぐ別れがくるというこのときに、またこうやって戦っている。
 噛み締めて、ミソラは笑い返した。
 ひゅんひゅんと飛ぶ毒のない『毒針』が当たったり当たらなかったりする。『乱れ引っ掻き』を『フェザーダンス』で受けられる。お互い決定打を欠いたまま少しずつ体力も集中力も摩耗していく。バトルに長けていない子供二人の、幼稚で地味な試合運びだろうに、年長者の観客たちは誰も目を外さない。
 何度も試合をしてきたのに、全然知らなかった。
 ポケモンバトルは、こんなにも楽しいものなのだ。
 自陣に戻ってきたリナがゼエゼエと息を荒げている。ツーも滞空するのに翼を動かす回数が多く、疲労しているのは明らかだ。次で決めるよ、と声を掛ける。リナは大きく頷いた。
「リナ、『十万――」
「いくぜ、ツー! 俺たちのォ渾身の一撃ィ!」
 タケヒロが大迫力の絶叫をあげ、ツーが呼応して鳴く。とっておきの必殺技を繰り出すかのような勢いに、
「『力みなぎる友情のスーパーウルトラ吹き飛ばし』!」
「――ボ、ルト』ッ!」
 ミソラは一瞬気圧されてしまった。
 それは明らかにただの『吹き飛ばし』だったが、ミソラたちのとどめの一撃を有耶無耶にするには十分すぎた。足元を掬われたリナが本日何度目かという空中移動を果たし、広場から脇の遊歩道まですっ飛んでいって、うまく着地しかけたが、運悪く足元は凍っており、つるりと滑って、その先に――
「あっ!」
 倉庫らしき小さな建物が立っていて、ゴチンッ、と後頭部を強打した。
 その屋根からドサドサッと嘘みたいな量の雪が落下した。
「リナぁ!」
 返答がない。一斉に駆け寄る。慌てて雪を退け、ハヤテが掘り出したリナは、流石にポケモンだけあって致命傷には程遠いが、完全に目を回してしまっていた。
「ニドリーナ、戦闘不能」
 トウヤが覗き込み、冷静に仕事をする。エッ、とミソラが顔を跳ね上げ、
「勝った……!」
 タケヒロが両拳を高々と掲げた。
「え! えっ!? 待って、ずるいよ! 今のなし!」
「勝った! ミソラに勝ったあああー!!」
「たまたまじゃん!」
「運も実力のうちだ」
 トウヤの茶々に「あんまりですよ!」と抗議するも、ツーを抱きしめて跳ね回っているタケヒロにはまるで聞く耳がなさそうだ。
 悔しさが、せっかくのバトルがこんなお笑いみたいな幕引きなんて、という不服に押し流され、その次に、まあそれも僕たちらしいかも、なんて心地よい諦めがやってくる。最後に胸を席巻するのは、うん、いっか、楽しかったし。リナを抱き取って労う横で、見たかお前ら! 俺たちは強いぞ! とハリたちにいばっているタケヒロが、次にミソラを振り向いて、
「ミソラ、分かってんだろうな?」
 びしり、と指差してきた。
「え?」
「約束だからな。俺はお前に勝ったから、お前は復讐を諦める。忘れたとは言わせねえぞ」

『この試合で俺が勝ったら、お前は復讐をやめるんだ』
 それは、ココウスタジアムでの試合前、一方的に告げられた言葉である。
『俺も倒せねえようなやつに、人なんか殺せる訳ねえからな!』

「――えぇっ!」
 叫んだ。
 今日のこの試合に、そんな大事が賭けられているなんて、頭の端っこにもなかったのだ。
「あ、あれは……あのときだけの約束でしょ!?」
「ばぁか屁理屈言うなよバトルはバトルだぞ」
「先に言ってよ! そうしたら僕だってもっと本気でっ」
「おぉ? 本当に本気じゃなかったのかぁ?」
「あ、うっ、で、でもぉっ」
 きゅうとなっているリナを抱いたまま足をばたばたさせるミソラを、タケヒロはニヤニヤと見下ろしている。置いてきぼりの当事者は子供二人をきょろきょろと見比べ、それから手持ちの仏頂面へ目をやって、こそばゆそうに苦笑を浮かべた。
 ミソラは、この人を殺すことを、諦めるわけにはいかない。だってそれは、ミソラがミソラになる前の自分の、使命で悲願だったからだ。
 でも、それを果たすための道のりに、壁が存在するとしたら? ――まずはトウヤ自身が、彼と彼の従者たちの腕っ節で、ミソラに壁の高さを知らしめた。けれどその壁が崩れ落ちそうになりかけている今、タケヒロとツーという新しい壁が、竦むミソラの目の前に立ち塞がってくれたのだ。
「わっはは、どうだ、勝ったぞミソラ!」
 トウヤが強くなくなったって、タケヒロがいる限り、ミソラはトウヤを殺せない。どうやら、ミソラの復讐は、そういうシステムになったらしい。
 ――ばっかじゃないの、とミソラは笑った。それは、心の底からの言葉だったし、友人のそういうばかなところが、やっぱりミソラは大好きだった。





「アズ、今ヒビの北端あたりを飛んでるってさ。もう十分くらいで着くんじゃねえか」
 科学の力とサチコの愛情で回復が早急に終わった頃、ハルオミのスタイラーに通信が入った。アズサが到着したら、ワタツミという街へ一緒に出発する。その他の面々とはここでお別れだ。
 お世話になったポケモンセンターの入り口前。トウヤは大きなリュックサックを背負い、ミソラも肩掛け鞄がパンパンになるまで旅荷を詰めた。大荷物のミソラが提げていた緑の隊員服入りの紙袋を、「アズの実家に返すんだろ」とハルオミが引ったくってくれる。ミソラは内心慌てた。紙袋の中身を確認して、ハルオミがミソラの憂慮を察知する。すうと細くなった目が、綺麗な子供へ詮索を入れる。が、その子供が、天敵を威嚇する小動物のような健気な睨みを利かせると、どデカい溜め息だけ寄越して、黙って放免してくれた。
「ついにお別れだな……」
 二人の駆け引きなど露知らず、タケヒロは先ほどからソワソワしている。ミソラが目を合わせると、何やらそっぽを向きながらズボンのポケットへ手を突っ込み、「餞別な」と言ってミソラの手のひらにそれらを乗せた。
 金色の懐中時計、そして淡緑に光る宝石。
「くれるの?」
「金に困ったら換金したらいいぜ、俺にはもう必要ないからな。なんたって、これからは、希望に満ちた金持ちライフが始まるんだからな!」
 そう言って『脱・捨て子少年』は胸を張る。餞別の品が金代わりとは、なんだか味気ない感じだ。ありがとう、と心のこもっていないお礼を言い、もっと喜べよとタケヒロが怒る。横で見ていたトウヤが宝石の方を摘み上げて、曇り空に翳して眉根を寄せる。ハルオミに目配せをして、何やら二人で含み笑いをした。年長者二人で了解した何事かをトウヤは教えてくれなかった。
「ん!」
 やはりそんなことはお構いなしなタケヒロが、右手をミソラへ差し出してくる。
「握手するの?」
「するだろ、こういうときは」
 人はこうやって、お別れの儀式をひとつひとつ終わらせて、本当にお別れするのだということを、自分の心に言い聞かせるのだ。
 右手を出して、固く握手をする。握ったままぶんぶんと手を振り回して笑う。元気でね、お前もな、と言葉を掛け合う。悲しくはなかった。いっそ晴れ晴れとした気持ちだった。ミソラはいつかこの街に戻ってきて、すっかりお金持ちになったタケヒロと、またあの公園でバトルをする。リナもツーも進化しているかもしれないし、トウヤとハルオミとポケモンたちと、もしかしたらアズサもいて、しきりに声援を送ってくれる。抱えている問題をさっぱり片付けてしまった先に、そんな未来は必ずやってくるだろう。今はそれが楽しみで仕方ない。
 ミソラとの別れが済んで、もう一人へ視線を向けると、「金を貰ったから餞別はいらないぞ」とトウヤはおどけて見せた。元からねえよてめえには。幾分仲良しになったところで、タケヒロは相変わらず辛辣だ。
「じゃあ、僕からはこれを」
 トウヤが手渡したのは、昨晩、再びタケヒロから預かっていた、イズのモンスターボールである。
「そういや何したの? 直ったって言ってたじゃん」
「悪い、一旦は直してたんだが、やっぱり思い直して捕獲機能を外したんだ」
「は?」
 それは、せっかく修理したボールを、もう一度壊した、と言っているに等しい。
「なんでそんなことするんだよ」
「金持ち金持ちって言うんなら、ポケモンもケチらず新品の家に入れてやれよ。このボールは大事に持ってろ」
 一旦言葉を切って、とっておきの魔法の呪文を唱えるみたいに、トウヤはこんなことを付け加えた。
「いいかい。寂しくなったら、開けてみなさい」
 押し込みかけていた開閉スイッチから、慌てて指が離れた。
 きょとんとして顔をあげたタケヒロに、答えをやる代わりに、トウヤは左手を差し出した。
 色の変わった左手、右手よりちゃんとものを握れる左手が、握手の形で、タケヒロの返答を待っている。タケヒロは迷っていた。その手をしげしげと眺め、自分の手と交互に見やって、左手を、出すか、出すまいか、とした。悩み抜いたタケヒロが、おずおずと、左手を伸ばしかけたところで――トウヤが不意に上げた左手が、そっちも上がった右手と一緒に、タケヒロの肩を捕まえた。
 思いがけず引き寄せられて、バランスを崩した体が、目玉の転げ落ちそうなほど目を見開いている顔が、ぽすん、と男の胸におさまる。
「よく頑張った。偉かったな。本当にありがとう」
 一言ずつ、恥ずかしげもなく、短い言葉をトウヤはくれて、
「幸せになれよ」
 ぎゅう、と小さな友人を抱きすくめた。
 一秒、二秒、三秒。
 ミソラは慌てて口を抑えた。笑わずにはいられなかったのだ。そのときのタケヒロの、豆鉄砲食らった顔と言ったら傑作である。四秒間、おそらく何が起こっているのかも分からず、されるがままに抱きしめられたタケヒロの、みるみるうちに、あざやかに、オクタンみたいに、真っ赤に血がのぼった顔も、タケヒロの一番面白い顔として、ミソラの脳裏に張り付いた。
「……――や、や、やや、ややややめろォ!!!」
 全身全霊で男を突き飛ばした背後、構えていたハリにぐしゃぐしゃに頭を撫で回され、ハヤテにべろべろに顔を舐められ、ついでにサチコが全身を使って頬を擦り付け、ちょっとクールぶっているツーは呆れ顔で主人の動転を見上げている。リナはボールの中で休ませているが、興味もなさそうに身繕いをしていることだろう。うわあすっげぇ鳥肌立った、サイアクだ、うげえ、と言いながら向こうへ駆けていくタケヒロの照れ隠しを、ミソラは大声で笑った。トウヤもハルオミもポケモンたちも、皆笑っていた。ピエロ、道化師、という呼び方は、タケヒロの懸命な生き様にはいつもあまりそぐわないけれど、懸命に走り続ける彼の周りには、こうやって誰かの笑顔が溢れる。タケヒロと一緒にいる時間は、きっといつか、ルリコの心もほどくだろう。
「ハルさんも、僕らを見送ったらすぐ出発するんだろ?」
「アズを見送って出発すんだよ」
 レンジャーユニオンへの帰還指示を受けているハルオミも、同時にヒビを離れるらしい。しゃがみこんでツーをわしわし撫でながら「ヒダカさんによろしく伝えといてくれ」と言うトウヤに、ハルオミはどことなく憮然として、
「……体のこと、何かあったら逐一報告しろ」
「君は本当に良い奴だな……」トウヤはしみじみとして呟く。
「わざわざてめえに言われなくても俺が一番知ってんだよそんなことは」
「色々と世話になったな、感謝してる」
「あ? いいか、勘違いすんなよ? アズをたぶらかしたことを許したわけじゃねえからな。俺はてめえのことは大ッ嫌いだ、でもアズが、てめえらのことをせっかくできた友達だって」
 俺は、アズサとは、友達以上の関係になりたいと思ってるからな! ――遠くでタケヒロが叫んだ。新たな刺客の登場に、ああん!? と怒りの形相で振り向く。抜け駆けは許さねえぞ! 言いながら、ずんずんと歩いていくハルオミの背を目で追いかけたとき、視界の上端にあるものを見つけて、あ! とミソラは声を発した。
 指差す空、ポケモンセンターの臙脂色の屋根の向こうから、大きな鳥影が現れる。
「あれ、レジェラさんじゃないですか?」
「早かったな」
 トウヤが立ち上がる。おおい、とタケヒロが両手を大きく振り回した。建物に切り取られた空の、灰色の雲の真ん中で、ピジョットらしき鳥影は二度、三度と旋回し、ゆっくりと高度を下げてくる。その背に、確かに、人間が乗っているらしいのがちらりと見えた。目前に迫る、久々の再会に、ミソラも、トウヤも、それぞれに安堵した。



 だから、判断を誤った、と言ってもいい。



「……レジェラさん?」
 彼らの喜びに水を差すまいと、ハルオミはひとり呟いて、小首を傾げただけだった。
「伝書係のレジェラさんがアズを乗せて来るなんて、まず有り得ないんだけどな……」

 トウヤの足元から、ぱっ、と一羽の鳥が飛び立つ。
 師匠であるレジェラの登場に歓喜し、いち早く迎えに行こうとしたのだと、誰もが思った。けれどそれは違った。ツーはただ、主人の身にこれから起こる出来事を、誰よりも早く、予期して動いただけだった。

 朝の街に、甲高い警笛が轟いた。ピジョンの警報音だった。
 どん、という、大きな音が聞こえたのは、それと殆ど同時だった。

 ミソラは音のした方に振り向いた。

 そこにタケヒロが立っていた。ピジョットの背中に乗る人へ呼びかけようと、空へ向かってバンザイをしている。
 けれど、不思議な光景だった。
 バンザイをしているタケヒロの、胸の、真ん中に、ぽっかりと大きな穴が空いて、向こうにある雪の早朝の、綺麗な街並みが見えるのだ。

「え?」

 タケヒロの小さな疑問が聞こえた。
 ミソラが、ココウの捨て子ピエロの、よく通る声を聞いたのは、その一音が最後だった。



 ――ほんの一瞬の光景は、ミソラの記憶に強烈に刻み付けられた。そこから瞬きするごとにフィルムに焼き付くひとつひとつの光景が、ミソラの頭の中から、例えばついさっきの、トウヤに抱きしめられてオクタンになっていたあの可愛らしい表情みたいな、そういう優しい光景のすべてを、尽く上書きしていった。白いシャツを着ていたのに、いつの間に赤いシャツを着ている。最後の朝食を名残惜しそうにたらふく食べていたからだろうか、口から、何かをたくさん吐いた。大空へ向かってバンザイをしたまま、崩れ落ちるというよりは、木の棒みたいな固いものが倒れるような形で仰向けに傾いていったタケヒロが、何か、赤い黄色い光に包まれて、よく見えなくなった。
 いや、それは、光と言うよりは。
 炎だった。
 早朝の、雪の残る市街地で、子供が路上に横たわって、微動だにせず燃えている。

 刹那、すべての音が掻き消えていた。
 燃える音もせず、焦げるような匂いもせず、ただ、その印象的な光景だけが、今、ミソラの目の前にある。

 冬の陽炎の向こう側に、何かが動いた。
 あのハガネールと比較すればうんと小さい、せいぜい二メートルくらいのものなのに、まるで小山と見紛うような存在感を放つものが、一歩、一歩と近づいてくる。

「……アサギ?」

 知るはずもなかったのに、ミソラはそのバクフーンの名前を呟いていた。



 そこからは、怒涛だった。おそろしい情報量が襲いきて、こうやって記憶障害は起こるのだろうか、この時間のことを、後になって、ミソラは断片的にしか思い出せなくなっていた。
 耳の後ろから、空白を引き裂く、咆哮がした。それは本当にまったくもって獣の咆哮と呼ぶべきものだった。あの声が、ハヤテではなく、トウヤの喉から発せられていただなんて、何度考えたって信じられない。叫びながらタケヒロの方へ走っていくトウヤの背中を、ミソラは見ていた。それを目にしたアサギの背中から火が噴き上がるのをミソラは見ていた。『火炎放射』なのだろうか、炎は長い竜のようになって、うねりながら捻れながらまっすぐこちらへ向かってきて、眩しくて、ミソラは目を細めて、トウヤは足を止めなくて、竜は無慈悲に顎を開いた。
 トウヤの体が浮き上がった。見えない力に真反対へ突き飛ばされて、ミソラの立っているあたりまで戻され路面へ体を打ちつける。『吹き飛ばし』でトウヤを救ったツーが、飲まれた。竜に飲まれた。炎に飲まれた。小鳥を飲み込んだことすら気づかない竜はそのままの勢いでこちらへ躍りかかろうとして、突如出現した青白い光に衝突して、おびただしい量の火の粉になって砕け散った。
「逃げろ!」
 『守る』を展開するサチコの背後で、火の驟雨の降りしきる中で、その逆光でハルオミが怒鳴る。右腕でスタイラーが光っている。
 トウヤは振り絞るような声で吼えた。何を言っているか分からなかった、それは最早奇声とも言えた、意味を成さない滅茶苦茶な声だった。起き上がり、また炎の方へ飛び出そうとした主人を、食い止めたのはハヤテだった。勝ち目がないことを、この若竜が、現状で一番理解していた。暴れる主人を力ずく引き倒し、目を覚ませと言わんばかりに、獰猛な雄叫びを吐きかけた。
 ハリは、ミソラと同じように、ただ立ち尽くしているだけだった。
「聞こえねえのか、」
 ハルオミがこちらを振り返った。彼の必死の形相の向こう、火の粉が散りきった先で、アサギが地を蹴った。接近は一瞬だった。ミソラは悲鳴もあげられなかった。

「――獣に食われるんじゃねえ!」

 ハルオミの叱責が、光に、炎に、飲み込まれる。



 『煉獄』、という技を、グレンのヘルガーが使うのを見たことがある。
 すごい技だった。天まで焼き焦がすような炎が何十メートルにもせりあがっているように見えた。浄化の輝きと評される壮絶な迫力に圧倒された。今、あの、何倍もの灼熱は、これは、これでは、ただの『地獄』だ。勝手に展開したモモのバリアが防ぎ切っている意味が分からない。タケヒロや、ツーや、先程『守る』を使用したばかりのサチコとハルオミがどうなったかなど、考えたくもないし、考えるまでもないし、結局最後まで分からなかった。



 誰かがミソラの腕を引いた。
 凄まじい『煉獄』が収束する前に、その誰かは、ミソラを地獄から連れ出した。



 けれど、地獄を抜け出したこの先に、何があるのかなんて知る由もない。次の地獄が待っているかもしれない。地獄よりも酷いかもしれない。案外何もないのかもしれない。けれどもそこが、天国なんかじゃないのは分かる。だって、ミソラは、煉獄に焼かれなかったのだ。あの地獄に、タケヒロを置き去りにしてしまったのだ。



「下ろしてください」
 発した自分の声が無様なほどに震えていた。
 ラティアスの首にしがみつくトウヤの、ミソラを抱え込む右腕を、振りほどく力さえ出なかった。
「待ってください……タケヒロが……」
 冷たい風が塊になって吹き付けていた。すごい速さで空を飛んでいた。ミソラの顔はトウヤの胸の中にあった。強く押さえつけられて周りがよく見えない。おそろしく熱い彼の体温と、破裂しそうな鼓動の響きと、喘ぐような呼吸の乱れが、自分たちの、おっかなびっくり積み上げてきたありとあらゆる日々のすべてが、完膚なきまでに崩壊して、もう二度と取り戻せない、その現実を、痛々しく突きつけてくる。
 薄情だろうか。
 訳が分からなくて、涙も出ない。

「タケヒロ……!」




















 少しあとになって。
 白い光の中、空を併走する、ポッポの懐かしい羽ばたきに。

 少年は笑顔で手を伸ばした。


■筆者メッセージ
ここまでお読みいただきありがとうございます。

13章「僕にできること」はここで終了です。お疲れさまでした。
この作品は、金髪碧眼や痣の男より先に、ピエロの少年が灰になって死んでいくシーンから構想が始まったお話でした。あのときの構想よりは随分長いお話になってしまいましたが、ここからは本当に、終盤と呼べる展開に突入して参ります。よかったら、もう少しだけ、お付き合い頂けると幸いです。

14章は短い章になる予定です。今後ともよろしくお願いします!
とらと ( 2020/03/08(日) 21:39 )