月蝕


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月蝕
13−10

 サーカス興行の成功祝いと、メグミの快気祝い、それからタケヒロのお別れ会も兼ねた小さな宴が、ヒビのポケモンセンターの片隅で催された――その夜。


「待って」
 その口にもう少しで被さりかけたゼンの唇を、横から割り込んだ物体がむぎゅうと押し潰した。
「やっぱり直談判しに行く。こんなに長時間居場所が割れないなんておかしい、どこかで情報が止まってるとしか思えない」
 右手のひらとの熱烈なキスを強いられたゼンは、そのまま仰け反るようにして退去を余儀なくさせられた。胸の下からするりと這い出る身のこなしの柔らかさはまるで猫か何かのようだ。ベッドサイドに脱ぎ散らかした下着を拾い、テキパキと身につけはじめるミヅキ。熱のやり場を失ったゼンは溜息をつきながら時計を見た。二十三時時三十分。宿舎から本部棟へは直結の通用路があるとはいえ、流石に時間が遅すぎる。
「もう追うな。出るべき情報が止められてるってのは、そういうことだろ」
 嗜める声が闇に紛れる。ベッドサイドランプの浮かび上がらせる生めく姿態が、芸術的な速さで衣を纏う。豪快でいて美しい所作。
「一般隊員のゼンに私に命令する権限ありませんけど?」
「イチジョウさんに釘を刺されてる、お目付役を怠るなってな」
「上司じゃなくなるかもなのに?」
 ミヅキはケロリとして言う。隊長に下されるであろう処分について彼女なりに怒っているはずなのに、こうやって天邪鬼な態度を取るのだ。
「まだ上司だろ」
「私が出れば絶対捕まえられるのになあ。ラティアスを取り戻せば、処分も撤回されるかもしれないし」
「その望みは薄そうだがな。ラティアスを取り逃がしたことは問題の核じゃない」
 今回の処分はココウでの騒動のクレームに対するポーズであるところが大きい。なんの落ち度もないイチジョウが罰されるのは筋違いもいいところだが、それが組織方針なのだと言われれば、末端の第七部隊如きに反論の余地はないのである。
 組織の中で、自分たちはただの駒だ。人間も、ポケモンもそうだ。駒の大きさに大小があるだけで、上層部の思いつきで盤外へ放り捨てられる事実に変わりはない。右を向いて行進していく軍隊の中で、突然左を向いてみたとて、神の手に摘み出されるか、大挙して押し寄せる無数の兵に踏み潰されて終わるのがオチだ。イチジョウは、ミヅキが雑兵の大群に足蹴にされることを危惧している。
「第一はトウヤを追うかな」
「さあな。キノシタの判断次第だろ」
「キノシタ……」
 乱れかかった長い髪を、掻きあげるように、ミヅキは一撫で整えた。親の仇を相手取る狩人のような眼差しで、虚空の闇を睨みながら。





 ゼンに言わせれば、第六感などというのは実に無用な概念だ。経験上、『女の勘』などという神話は神話ではないのかもしれないし、特別に嗅覚の優れた人間もいることにはいるのだろうが、ゼンは選ばれた側の人間ではない。ただ、人間が生物である以上、マイナス方向の事象ばかりが優先して記憶されるのは生存戦略的に致し方ないことでもある。ある種の嫌な予感に苛まれていたとして、その後、特に何も起こらなかったときのことは綺麗さっぱり忘れてしまい、予感の的中したときだけ、そら見ろ、と言って、強くインプットされる。その結果、勘だの予感だのという根拠不明の感情に、実際以上の価値を置いてしまうというわけだ。
 つまりゼンは、じわじわと胸を侵食する『嫌な予感』という影を、無意味と分かりつつ、無下にすることが出来なかった。碌々話も聞かないミヅキが飛び出してしまったあと、給湯室で偶然出くわした年少者に、愚かにもそれを吐露してしまった。
「……ヒビ? に、いるんすか? トウヤが?」
 見事に不意を打たれたエトは、濯いだばかりの口元を拭うことすら失念している。
 二十三時四十五分。宿所は静まり返る時間だ。廊下を見やり、誰もいないことを確認してから、ドアを閉める。口先に人差し指を立てて声を制した。エトはコクコクと頷く。その顔には困惑が絶えない。
「え、なんでゼンさんが知ってるんですか? 誰も居場所を掴めてないんじゃ」
「ここだけの話だぞ。レンジャーユニオンに知り合いがいるんだ。情報を横流ししてもらってる」
 褐色の目が白黒した。リューエルとポケモンレンジャーは実質的に敵対関係にある。新米隊員の彼にでも背反の程度は知れるだろう。
「マジっすか……」
「実務部の直近の任務予定表は向こうに流してあるが、今後ずっと鉢合わせないように調整しきれるとは思えん。ヒビの隠れ家もじきに使えなくなるそうでな」
「トウヤは」
 エトが緊張の面持ちでこちらを見上げる。ゼンは肩を竦めて見せた。
「腕は確かに食い千切られたが、今は元通りにあるらしい」
「……え?」
「俺は忠告したんだがな……」
「忠告……?」
 ミルクの煮えはじめた小鍋の火を止め、ザラメ糖の入ったグラスに注ぐ。隠し持ってきたラム酒を回し入れ、バターを溶かして軽くステア。ダークラムとバターの香りが甘く広がるのは味気ない給湯室には場違いで、それ以上の追及を躊躇させるかのようでもあった。
「とにかく……連中がこれからどう動くかだ。ミヅキもイチジョウさんもトウヤの居場所を知らないようだが、俺程度に渡ってくる情報だ、上層部は既に把握してるだろうな」
「把握してたら、どうなるんです」
「分かればこんなものはいらんのだ」
 ホットカクテルで唇を濡らす。最近は寝酒をしないと寝付けない日々だ。
「まあ、そういうわけだから、連中は今のところは無事だ。余計な心配はしなくていい」
「これからどうするんですか? 俺協力しますよ」
「俺たちに出来ることと言えば、せいぜい祈るくらいのもんだろうな」
「……ゼンさんって……」
 濁った酒の匂いにぽつりと滴を落とすみたいに、エトが呟く。
「なんだか、いつも逃げてるみたいだ。肝心なところに触れないように」
 ゼンはどきっとして左を見下ろした。
 少年は、澄んだ頬を少し紅潮させて、じっと足元を睨んでいる。
 ……軽薄で傲慢。自己にも他者にも関心がない。シマズイゼンはそういう男だ。そうありたいと願ってきた。だが、その真相は、自己とも他者とも深く関わることを恐れている、ただの臆病者でしかない。
 第七部隊配属前のゼンのことをアヤノが『孤高の一匹狼』と言った。あれはとんだ皮肉だ。狼とは群れで生きるもので、仲間を信用できないはぐれものは、狼であることを辞められない以上飢えて死にゆくだけである。
「……キノシタがとっとと飽きてくれるといいんだが。いや、キノシタだけじゃない。あの暴れ馬もよく見張っておかないと」
「副隊長ですか」
「タイプ相性ってのがあるだろ」
 適当に話を変えながら、ゼンは踵を返した。だが、――自分の弱みを指摘され、内心では、多少の動揺はあったのだろう。だから気付かなかったのだ。
「トウヤみたいな奴は、キノシタみたいなのを煙に巻くのは得意だろうが、ミヅキには相性最悪だ……」
 ドアノブに掛けかけた指先に。
 鮮烈な『痛み』が迸る。
「――ッ!」
 反射的に、グラスの中身をドアノブへぶちまけた。ジュウ、と焼けるような音と共に、ノブが激しい白煙を上げる。ドアノブが凍りついていた。監禁されている。外に誰かいる。完璧に気配を殺して近付き、中の会話に耳をそばだてていた誰かが。
「ああすまないね、ちょっと驚かせたかな。俺だよ、俺」
 外の人物はすぐに正体を明かしてきた。
 アヤノの声だ。
 ――冷や汗が噴き出る。失態を犯した。屋内には今の会話を聞かせてはならない相手がいくらでもいたのだ。一体どこから聞かれた? いや、どこからでも同じだろう。ゼンたちが敵に利そうとし、身内を欺こうとしている程度のことは、どこから聞いたって判ぜられる。
「最初から妙だなと思ってはいたんだけどね。これはとんだ曲者だったな、ゼンくん」
 右腰に手を掛ける。トレーナーベルトを巻いてきて良かった。取っ手を凍らせているのはグレイシアだ、弱点を突けるポケモンは有している。科学部出身でバトル経験の浅いアヤノの手持ちはどれもレベルが低いし、何度か行った戦闘演習で持ち技も大方把握している。その気になれば容易に突破できる相手だ。最悪、『記憶改竄』の奥の手も使えるかもしれないが――ここはリューエルの巣窟だ。背後には完全に竦んでしまっている共犯がいて、向こうには百パーセントの正当性がある。
「エトは俺に唆されているだけですよ。俺も、リューエルに仇なそうという気はない」
「だからって与する気もないってわけだ。いやはや、人は見かけによらないね」
 聴覚に意識を集中させるが、他になんの気配もしない。どうも一人で来ているようだ。アヤノの目的が読めず、ゼンは眉根を寄せた。
「面白いから今まで野放しにしてたけど、まあ、イチジョウくんの手前もあるしね。あまりコソコソとうろつかれるのも目障りだ」
「……要求は何です」
「ん? 話が早いね。どうだい、ひとつ俺と取引をしないか。ああ、でも待て、その前に」
 いつもの柔和で朗らかな笑みに、鋭く光る眼鏡の奥。したたかな野心と探究心の果てに科学部からすら異端にされた元サイエンティストの面差しが、見えなくとも浮かぶようだ。
 アヤノは明快にこう問うた。
「ゼンくん。――君は、一体何者だ?」





 凍てつくような夜だった。

 第七部、と記された掛札の扉を開く。夕方まで会議で出払っていた部隊長は、予想通りまだ書類を片付けていた。照明の効かない深夜の実務部棟は真っ暗闇、正面のデスクの周りだけが、随分短い蝋燭の灯にゆらりゆらりと揺れている。疲労の色濃い顔がこちらへ向くと、ミヅキはニコリと笑んで返した。
「ライト使えますよ。発電機置いてたでしょ?」
 デスクの側にいる磁石ポケモンの一つ目が、他にやることもなさそうに、じとりと男を見詰めている。イチジョウは灯の下の書類へと視線を戻した。
「ポケモンにそんなことをさせるな」
「真面目ですよねー。仕事もですけど、生き方が」
 歩み寄り、隣のデスクへ浅く腰を掛ける。
「真面目で不器用。見てて癒される」
『お前を庇おうと思ったのは、理性ではなく、俺の本能がそうさせたということだ』
 あのクサい台詞を想起すると、がらんどうの心の中に、心地良い風が通り抜ける。ミヅキはそれを不思議に思いもしたし、少し煩わしいとも思っていた。
 イチジョウを相手取るときの自分はここのところ妙である。トウヤの動向を聞き出すためにわざわざ足を伸ばしたのに、他愛ない話を振っているのは不合理だ。十数年、他者と関係を築くことにまるで興味もなかったが、イチジョウの閉じた扉の向こうは、何故だか覗いてみたくなる。単にあまり関わったことのない堅物男だからだとか、からかい甲斐があるからと言うより、もっと深い部分が、この人を「違う」と判じている。
「……それ、意味分かって吸ってます?」
 燭台の脇にこんもりと積まれた吸殻の山だ。リューエルにいると度の過ぎた喫煙者としばしば遭遇するが、彼もまたその例に漏れない。
「組織からの配給品で、よそでは手に入らないけど、実は科学部謹製の依存物質が仕込まれてる。それ無しでは生きられない体にして、気付かれないうちに奴隷にしてやろうって算段」
 イチジョウはぴくりとも顔色を変えない。むしろ、話題に出されて口寂しくなったとでも言わんばかりに、手元に放っていた白い箱から筒を取り出し、指先で挟んだそれを蝋燭の赤光の中に翳した。
「……人を殺したことがある」
 ミヅキは目を丸くした。
 視界の真ん中で、男は口許に煙草を近づけた。燭の陰影が物憂げに演出しているだけで、いつもどおりの目、いつもどおりの表情。嘘は、吐けない男だ。
「町とも呼べない田舎の出だ。法で裁かれずとも私刑に処されかけていた。そこを、遠征中のリューエルに救われた」
「恩義があるから奴隷になってもいいってわけか。義理堅いね」そうせざるを得ない事情があったということなのだろう。その事情の内容にまでは強い興味も抱かない。ただ彼の、決して整っているとは言い難い顔面に大きな傷のあることに、少し説得力が増したな、と思うくらいで。「誰を殺したの?」
 イチジョウはしばらく黙り込んだ。書類を二枚、三枚と捲り、判子をついて、息を吐く。濁った煙が立ちのぼるのも、闇夜にはきれいだとミヅキは思う。
 それから、ぽつりと聞こえた。
「家族だ」
 煙から、男の顔へ、もう一度視線を戻す。
 何事もなかったかのように仕事を続けている男の顔を、じっと見つめる。
 なんだか、意外だ。この孤独で高潔な人に、『家族』という名の俗な繋がりがあることが。――そう一瞬思いかけて、ああ、いないのだな、と気付く。家族はいなくなったのだ。それから腑に落ちた。だから、私に目をかけるのだ。私にも家族がいないから。
 幽玄な闇。天涯孤独の男と女。静かな時間はしんしんと降り積もる。誰かといて、何も話さず、ぼうと宙を見つめるのは、随分久々のように感じた。それこそ、幼い頃、子供部屋のベッドに寝転がって、窓の向こうを見つめていた頃くらいまで遡るのではなかろうか。
 凍てつくような、身を刻むような、底冷えのする夜だった。なのに、温い湯に揺られているような、ほろほろと溶けてしまうような、懐かしい安心感がある。
 ミヅキはそれを知っていた。その湯に浸っていたことがあるから知っていた。あれは、傍目に見れば、本当に歪な家庭だったが、逃げ場のない自分たちにとっては、ただ一つの本物だった。
 ミヅキはイチジョウのことを何も知らない。手持ちのポケモンや、得意な戦い方を知っているだけで、彼自身の生い立ちやここにたどり着いた経緯や、趣味も特技も、好きな食べ物ですら知らない。だが、紛れもない事実として、ミヅキの中に、この男への、または第七部隊の面々への、浅からぬ好意がある。人生という長い尺度で考えた時に、第七部隊で副隊長をやっているミヅキが幸であるか、不幸であるか、言い表すなら、多分幸せなのだろう。女と言うだけで小馬鹿にされ反骨心を煮やしていた時期は、周囲と戦ってばかりで、ずっと一人だったように思う。努力と実力が認められ昇進を果たして、配属された部隊には顔見知りがいて、可愛がってくれているし、上司は自分を気にかけ、手綱を握りながらもある程度自由に振る舞わせてくれる。
 このままでいられればいいのに、と考えてしまう自分はいる。けれども、それが叶わないこと、揺るぎない確かな繋がりなどこの世に存在しないことを、自分はちゃんと分かっている。
 安心感は毒だった。
「私たち、家族になりません?」
 だから戯れにミヅキは言った。
 書類の上を走っていたイチジョウのペンが、動きを止めた。
 ――空白が流れる。炎は揺れず、影は動かず、ただ無闇に引き伸ばされたような緩慢な空白が。イチジョウは顔をあげなかった。じっと言葉の意味を考えているようだった。それが面白くて、また妙に愛おしい光景に見えてきて、ミヅキは小さく噴き出してしまった。
「あ、変な意味じゃないですよ? 第七部隊で家族になるの。あるじゃん、そういうの。結束力が大事って隊長よく言うじゃないですか」
 よくない? と訊ねるミヅキの軽薄さを、イチジョウは理解するだろう。本気でそうなりたいと願うならそんなこと言いようもないという意図を、正しく汲んでくれるだろう。ミヅキにとって最も恐ろしいことは、じきに崩れることが決まっているこの不安定な繋がりに、重きを置いてしまうことだ。いつか裏切られるくらいなら、はじめから偽物にした方がいい。
「隊長は隊長だからお父さんね。私はー、うーん隊長の娘」
「流石にそれは苦しいだろう」
 イチジョウの硬い頬が僅かに緩んだ。
「お前のような娘はいらん」
「えっちゃんが弟、アサギはお兄さん」
「母親はいないのか」
「離婚したんじゃない? 隊長仕事人間だし、すぐ愛想つかされそう」
「否めんな」
「でしょ? 現実味のあるいい設定だわ。で、アヤノさんは近所のおじさんで、ゼンはー……」
「恋人か」
「ペットかな」
 いいな、家族、楽しそう! 手を打つ自分のあげた無意味な声が、別の声を想起させた。『私とはあちゃんは半分しか血が繋がってないけれど、正真正銘の家族です』ハシリイの丘の途中でぶつけられた鬼気が蘇る。図々しくそれを名乗ることになんの疑いも恥じらいもない、あの堂々たる声色が。『私たちの方がトウヤのこと見てきたし、知ってるし、あなたなんかより絶対に家族みたいに思ってる!』――

(私にもいたじゃん)

 思わぬ声が、自分の内側から聞こえて、ミヅキは少し驚いた。

(なんだ、いたじゃん。家族。私にも)

「副隊長のお前には、先に話しておくが――」
 その間、自分がどんな顔をしていたのか分からなかったし、それを見たイチジョウがどんな顔をしていたのかも分からなかった。それはその後もしばらく確認できなかった。燭台の中の火が、なんの前ぶれもなく消えた。音もなく消えた。弱り果てた生き物の命がそのまま順当に尽きるように、瞼を下ろすように消えていった。
「俺の処分が決まった」
「……へえ」
 煙草の先の小さな火が、じりじりと身を震わせている。唯一の色味の儚さに自然と目が引き寄せられる。
「どこまで落ちるんです? 平隊員?」
「隊長職の剥奪と、すべての手持ちポケモンの所有権の放棄だ」
「それは……」
 思っていたよりも手厳しい。ミヅキは言葉を飲み込んだ。引き金の一端となった自分に慰めを寄せる権利があろうか。
「すべて科学部に所属が移るらしい。彼らには悪いことをしてしまった」
「でも科学部の所属ってことは、実務部でレンタルできるでしょ? 借りっぱなしにしとけばいいだけですよ、アサギみたいに。じきに所有権も戻してもらえるだろう、し」
 火の光る赤がすいと動いて、まるで流れ星のようだった。
 流星は灰皿と思しき場所へ墜落して、揉み消されて命を落とした。
「加えて、第七部からの除隊。実務部からも異動だそうだ」
「え、どこに?」
「どこでもない、異動先はない」
 闇の中で、黒い手が蠢いている。既に絶命した煙草の先を、何度も何度も、執拗に、手は亡骸の山へ押し付ける。
「実務部で任務に当たらないと借用許可も降りない。仕事もなければ共に鍛錬する仲間もいない、かといって首を切られるわけでもない、所謂、飼い殺しだ」
 どの状況でもあまり表情の出ない巌のようなイチジョウの声に、微かな怒りを見た。その熱に、諦念という鈍い泥が、分厚く纏わり付いていた。
 イチジョウの言っていることに、理解が追いつきはじめると、まるで理解ができなくて、頭の中が白んでくる。
「……それで組織はなんの得をするんです?」
「組織はなんの得もしないが、損も微々たるものだ。そして、キノシタの気は晴れるだろうな」
 仕事に心血を注いできた生真面目な男への拷問を、処分を下した連中は、この上なく熟知していた。
 ――ミヅキの凪に、風穴から、強烈な一陣が吹き荒ぶ。
「……えっと、それで、なんで……」身を起こした。歩み寄り、くだらない書類の積まれたデスクに向かい合って手を突いた。その両手が震えているのを止められなかった。子供の頃からそうだ。子供のまま大人になったからだ。暴走しはじめる感情を制御する術を持っていない。「なんで受け入れてるの……? なんで平然としてるの……? 昔助けられたから? 恩があるから? 忠義を尽くすって決めたから?」
 闇に順応しすぎてしまった。見たくなかった。じっとこちらを見据える彼の、表情が、まるで全てを悟り切った老人のように冷めていた。
 かあと顔が熱くなる。これでは、自分は駄々をこねる子供だ。イチジョウは、それを無駄なことだと知ってしまっている親だ。
「ねえ……嫌なんでしょ? 納得行くはずないじゃないですか。なんで納得しましたみたいな顔できるのイチジョウさんはそれでいいの? いいはずないじゃないですか!」
 ミヅキは目前へ詰め寄って叫んだ。
「怒れよ! わめけよ! 抗えよ!! イチジョウさんがそんなだと、悔しがってる私が馬鹿みたいじゃん……っ!」
 狭い部屋に、声はほとんど響かなかった。
 耳の中に残る余韻が消えたとき、他者のために身の内に燃えあがった炎にミヅキは困惑したし、その炎が消えてしまうのが恐ろしくて仕方なかった。子供じみた八つ当たりの裏に何かが隠れていることに気付いていた。それと向き合ったとき、自分がどうにかなってしまうことを、直感的に理解した。
 イチジョウは立ち上がった。
 闇の向こうから伸びてきた手が、かすかにためらいながら、ミヅキに触れた。
 大きくて、硬い、温かい手が、一度、二度、と、頭を撫でた。

 時間が止まったような気がした。

「……娘だと言うならこれくらいは許してくれ」
 至近距離に映っていたはずのものがどんなふうだったか、思い出すことができなかった。声がして、しばらくして、ばたん、と扉の閉まる音がして、ようよう、相手が立ち去ったことに気付く。真っ暗闇だった。窓の外にはこんこんと雪が降っていた。その像を水晶体で屈折させているだけの女を発電機がじっと見ていた。自分がわめき立てた声よりも、言い訳じみたあの小さな声の方が、ずっと長く余韻を残した。
 振り向いて、誰もいなかった。扉は閉まっていた。
 怒りの裏に隠れていた黒い影が、ゆらりと立ち上がった。それは半分笑ったような顔をして、右手を上げ、まっすぐこちらを指差した。影は語りかける。自分とまったく同じ声で。


 ――――私のせいだ。





 ゼンとの行為を中断して出てきたことを心底後悔していた。
 実務部棟を出て宿舎へ戻る。無人の廊下を早足に歩く。誰の声もしなかった。凍てつくような夜だった。分厚い夜の氷の底に一人取り残されたように思える。冷たくて痛い。温もりが欲しい。そんな都合のいいものは、ミヅキの世界の、どこにも存在していない。
 二十三時五十八分。ゼンの部屋に向かって足を急がせる。早く抱かれたいと思った。気のふれるまで抱かれたい。頭の中の煩雑なものがどろどろに溶け切ってなくなるまで滅茶苦茶に抱き潰して欲しかった。相手はゼンでなくてもいい。エトでもアヤノさんでもいい。見ず知らずの男でもいいしキノシタでも構わない。自分という存在が完全に正体をなくすまで徹底的に破壊してくれるなら――ああ、でも。
 でも、隊長にそうされるところだけは、どう頑張っても想像がつかない。
 宿舎は本当に静かだった。静かすぎて思考は延々と同じところを回り続けた。くだらない話題に柔らかに微笑んでくれた顔。墜落していく流れ星。伸びてきた手の少しためらった指のかたち。頭に乗せられたかすかな重みと温かさ。蘇るたびに眩暈がした。それらがすべて、すぐに失われてしまうこと。私のせいで失われてしまうこと――。
 三十分前に飛び出した部屋の戸を開ける。

 そこにゼンはいなかった。

 ――ひとり、呆然と、立ち尽くして、ゆっくりと呼吸を繰り返しながら、襲いくる暴力的なまでの孤独を、ミヅキは身の中に吸い込んでいった。カーテンに閉ざされた窓の向こう、厚い雪雲に閉ざされた空の向こうに、物言わぬ月影をミヅキは見た。あの月の夜を思い出した。牢の中に閉じ込めたトウヤが泣き叫ぶのを、置き去りにして歩いていくとき、足元を駆け抜けて、ミヅキには目もくれず、あの子に向かっていった、小さな丸サボテンの姿を。
 リューエルが逃しているにも関わらずトウヤの側にいるラティアス。
 嬉しそうに幸せそうに思い出を語り続けるカナミ。
 逃亡するトウヤの周りに複数の協力者がいること。
 ゼンとエトが自分と共にありながらトウヤを庇おうとしていること。
 モモを悼み、未だポケモンを所有できない自分のいる一方で、トウヤが三匹の手持ちを育てて、ココウで平穏に生きていたこと。


 ミヅキは振り返る。
 そこにある闇。誰もいない部屋。


(――どうして?)





 午前零時。
 その一日の始まりに、物言わぬモンスターボールを手に、ミヅキは部屋を後にした。


とらと ( 2020/03/01(日) 20:19 )