月蝕



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月蝕
13−9

 このまま何もしなければ、タケヒロがホシナ家に買われることはないだろう。
 友人はヒビに留まる手段を失う。行き場のなくなった少年は、彼の美しい望みを諦め、トウヤとミソラの逃亡に引き続き同行するかもしれない。


 踵を返し、ヒールを鳴らして、ルリコは遠ざかっていく。
 ミソラは廊下に立ち尽くしていた。かんかんと響く靴の音と、真後ろでするハヤテの鼻息と、その裏でまばらになっていく拍手。音はかわるがわるやってきてハリボテ勇者の残骸を急き立てた。タケヒロの舞台が始まっている。それとは真反対の方向へ、どんどんルリコは小さくなる。
 どく、どく、と心臓が拍動するたびに、スイッチが切り替えられて、全身の血の色がそっくり変わっていくみたいに。
 ――追いかけなきゃ。放っておこう。引き止めないと。何も出来ない。せっかくタケヒロが頑張ってるのに。仕方のないことなんだ。正反対の感情が、波のように襲い来る。そうしている間にも距離が開いていく。もうすぐ取り返しがつかなくなる。どっ、と背中を突き上げられた。ハヤテだった。鼻先がぐいぐいとミソラを押した。行け、早く、と言わんばかりに。後ろではハリが、いつもの仏頂面、それはまるで尋問にも似た気配の強い仏頂面で、ミソラの選択を待っている。
 ああ。促されて気付いた。天使と悪魔に両腕を引かれる心よりも、体の方が、本当の気持ちを分かっている。いくら背中を押されても、押されても、両足は、根が生えたようになって動きたがらないではないか。
 だが、そのとき。
 急に負荷が無くなった。ハヤテが離れたのだ。戦闘中に見せるようなステップで一歩後退した青竜が、ギャッ、と非難した先を見て、ミソラは驚いた。
 ――口内へ『冷凍ビーム』の青い光を溜めたリナが、二者の間を割って入る。
 得意の攻撃を用意しながら、姿勢を下げて唸りをあげる。それは決してミソラへではない。困惑気味の表情を見せるハヤテ相手に、リナは牙を剥き出しにしていた。
 ハヤテはリナを可愛がっている。砂漠の湖畔ではリナも気持ちに応えるような素振りがあった。この頃の二人は仲が良いはずだ、なのに――リナは、ミソラの手持ちだから、主人の意にそぐわぬことを強要しようとする相手を、敵と断じて撃退する。
 ミソラのことを、仇なす相手から、リナは守ろうとしているのだ。
(リナ……)
 目を絞る。喜びと悲しみが両方いっぺんにこみあげて、ミソラは覚悟を決めた。きっと、ハヤテは正しい。ミソラの自分本位な感傷は、決して正しくもなんともない。小悪党に仕えるリナは間違った意見に加担をする。でもその間違った意見は、ミソラにとっては、どうしたって譲れることのない、ただひとつの本物でもある。
 ミソラの譲れない本物を、ただひとりでも、誰かが肯定してくれただけで。
「ルリコちゃん!」
 廊下に反響した声に、先を曲がりかけていた少女が振り向いた。
 右腕のキャプチャ・スタイラーに手のひらを被せ、キャプチャモードを起動し、射出エネルギーのチャージを開始する。
「今から、面白いものを見せるよ」
「……本当に面白い?」
 ルリコが訝しげに目を細める。腹違いの兄にひっついて回る愛らしい妹の面影は、どこにも存在していない。
「じっとしてて」
 返事を待たず、ミソラはキャプチャ・ディスクを放った。
 撃ち出された駒は青白い光の尾を引きながら接地し、勢いを失うことなく廊下を突き進んでいく。目を丸くしたルリコの足元で、振るう腕と同じタイミングで進路を変え、桃色のミュールの外を取り囲むように円を描く。砂漠でサンドとマスキッパを、ヒビで暴れるペラップに始まり今日も多くのポケモンをキャプチャしたミソラは、動かぬ敵相手にディスクを回すだけなら十分すぎる経験値を、既に右腕に積み上げていた。
 キャプチャ・ラインの効力を上げるには、『思い』の強さと方向性が肝心になる。
『人間をキャプチャしたらどうなるんだ』
『どうなると思う? 好奇心を擽られるでしょ』
 いつかのトウヤとアズサの声。頭の中から意識的に排除する。自分に肯定的でない者を相手取るキャプチャには、僅かの気の迷いも命取りだ。
 キャプチャとは、ディスクが描く光のラインで取り囲んで縛り上げることで、撃ち手の『思い』を相手に伝え、同調させるという洗脳行為だ。撃ち手の『思い』が強いほどラインの効力は強くなり、また『思い』がキャプチャ対象の意思に近い――受け入れやすいものであればあるほど、必要なライン数は下がっていく。一周目のラインが繋がり、光のフープが浮かび上がり、真ん中に立つ対象を縛るように吸着する。ルリコは驚いた顔こそしたが、痛みや苦しみを伴うものではなく、特別抵抗するような様子もない。
 だが手応えがなかった。スタイラーの液晶に表示されるゲージは殆ど進捗を示さない。当然だ、ミソラが頭に浮かべている「ルリコに会場に行ってほしい」「タケヒロの芸を見てほしい」という気持ちは、全くミソラの本物ではない。純度の低い偽りの『思い』ではラインに力を付与できない。
(僕は、ポケモンレンジャーじゃない)
 訓練生ですらない。アズサとの練習はお遊びで、正当な指導を受けたわけでもない。プロのレンジャーでないミソラに、自分の気持ちを誤魔化すなんて高度な芸当は不可能だ。
 それでもやるしかない。ひたすらに腕を回し、スタイラーを走らせる。ミソラに許された時間の猶予は、同じ動きを繰り返す駒にルリコが飽きずにいてくれる間だ。自分の内にある思いの中から、ルリコの感情を動かすことができる思いを、すぐに見つけなければならない。
(このまま、タケヒロの芸が無事に終わったら)
 タケヒロは望みを遂げられない? 彼の復讐を果たせない? 友達として、タケヒロの夢を叶えてあげなくちゃ?
 ――違う。
(そんなことになったら、タケヒロはいなくなってしまう)
 その思いに行き着いたとき、彗星の尾のようなディスクの光が、俄かに輝きを増して見えた。
 夢中でディスクを回しながら、ミソラはその光に魅入られていた。
(いなくなるのは、嫌だ)
 キャプチャ・ラインの青い線が、炎のように燃えあがる。清冽な炎は眩い火片をあげてミソラの目の前を埋め尽くす。自分の『思い』の具現化された、青白いホムラの光芒に、ミソラの意識は呑み込まれていく。
 光の中にいくつもの景色があった。ミソラがミソラになってからのたくさんの時間を、タケヒロと共有してきたのだ。楽しいことも笑えることもあった。悲しいことも腹の立つこともあった。虚しいことも、苦しいことも、たくさん通り抜けてきた。二人がいつも同じ心でいたわけじゃない。楽しさが倍になって悲しみが半分になるなんて、そんな都合のいいことは起こらない。でも、この先ミソラが立ち向かうだろう苦難の時に、一緒に乗り越えようとしてくれるはずのタケヒロがもういないなんて、そんなの、考えたくもない。
(タケヒロと一緒にいたい)
 腕を回し、ラインが繋がる。
(ずっと一緒にいたい)
 炎は温度のない熱でルリコを幾重にも縛り上げる。
『俺たちもう友達だろっ』
 最初の頃に見た懐っこい笑顔。
『だから、ありがとな。俺と友達になってくれて』
 昨晩のしみったれた笑顔。
 ――何度、助けられ、勇気づけられてきたのだろう。
(忘れちゃうよ)
 何かに操られるように腕を振り続けると、ぼうとして何も考えられなくなる。
(一緒にいなきゃ、僕、また忘れちゃうかもしれないのに……)
 頭の中が、一瞬、真っ白な光彩に包まれた。
 気付いたときにはミソラは崩れ落ちていた。頭がガンガンと痛む。息があがる。異常に早打ちする心臓が病的で恐ろしく、思わず右手で押さえつけた。こんなに長い時間ディスクを動かしていたのははじめてだ。体の真ん中に穴の空いたような強烈な喪失感がある。キャプチャという行為に代償が生じているなんて、アズサは教えてくれなかった。
 朦朧とする意識を引っ叩いて、無理やりにでも顔をあげた。
 そこにぽつんと突っ立っているルリコは、目を丸くしたまま、呆然とミソラを見下ろしていた。
 沈黙の時間が、いくらか過ぎた。はあ、はあ、と息を吐き、祈るような思いで少女を見上げながら、一体自分が何がどうなれと祈っているのか、自分でも分からなくなってくる。ルリコは目を瞠ったまま、しきりに両手を擦りあわせた。それからゆっくりと周囲を見渡した。まるで、今まで何をしていたのか、どうして自分がこんなところに立っているのか、何も分からない、とでも言い出しそうな面持ちで。
 主人が追いかけてこないことに気付いたのか、廊下の向こうからビッパたちが戻ってくる。
 それを目にして、あ、とルリコは声を上げた。
「行かなくちゃ……」
 振り向く。
 夢から覚めて、時計を見て、寝過ごして焦ったような顔で、ルリコはミソラにひとつ叫んだ。
「ヒロ兄様の芸を見に行かなくちゃ!」
 そしてドレスの裾をつまみ、走り出した。ミソラの横を抜け、リナとハヤテとハリの横を抜け、さっき去ろうとしていたのとは真逆の方向、パーティー会場の入り口の方向へ、あっという間に走り去っていった。
 ヒールの廊下を叩く音が遠ざかり、拍手や笑い声の雑音に溶け、消える。
 ミソラは呼吸を整えきれぬまま、心臓から手を離し、右腕のスタイラーを見た。
 キャプチャの正常な成功を示す表示。その下、本来ならポケモンの種族名や健康状態が表示される部分に、『検出失敗』というエラーが出ている。

 ミソラはその場に蹲り、しばらく起き上がることができなかった。





『来ないで!!』
 室内は凄惨な状況だった。大量の書類が散らばり、何かの試料と思われる液体と試験管の破片が飛び散り、卓に据えられた液晶のひとつは罅が入ってしまっている。白衣姿の職員たちは部屋の隅へ退避し、数匹のポケモンが庇うように立ち塞がっている。ラティアス本来の姿のメグミは、『神秘の守り』のバリアの影響下に陣取って、敵愾心を露わにしている。
 今日は装置の中で強制的に眠らせていたメグミの覚醒を行うと聞いていた。起きがけに見知らぬ人間に囲まれて錯乱したのかもしれない。ドラゴンの飼い主が現れて安堵を浮かべる職員たちも、軽い人間不信の気のあるメグミには全員敵に見えているはずだ。
「メグミ、落ち着け。もう大丈夫だよ」
 安堵しているのは、トウヤ自身も同じだった。見たところメグミは元気そうだ。興奮させないようにゆっくり近づきながら、なるだけ優しく言葉を掛ける。
「ここは安全なんだ。この人たちは皆、お前を治療するために……」
『そんなことめぐみは頼んでない』
 飛んできたテレパシーに、足が止まる。
『生かしてほしくなんかなかった』
 音でなく感覚として流し込まれるメグミの意思に、いつにない嫌なざわめきを覚える。
「……メグミ……?」
 メグミは幼子のような大きな瞳で、見知らぬ誰かではなく、トウヤを睨みつけていた。目つきだけではない。メグミのテレパシーは、テレパシーであるからこそ、それが本心であることを正確に相手へ知らしめる。
 他でもない『敵意』だった。
「……何言ってるんだ」
『みんなきらい。もう一緒にいたくない。こっちにこないで』
「教えてくれ。この人たちが何かしたか?」
『めぐみのせいで、こんなことになったんでしょ』
 憎々しげな双眸が、意思を発するごと、鈍い悲しみに染まっていく。
『メグミがいるから、ヴェルは死んでしまったし、小鳥のあの子も死んでしまったし、トウヤまで死んでしまうんでしょ?』
 メグミには波動――つまり、人の心が見える。
 雪崩れ込む他者の思考が引き金となり、トウヤの中にいくつかの場面がフラッシュバックする。横倒しになったヴェルの焦点の合わない目。タケヒロの膝を抱えて眠る背中。ハルオミに宣告されたときの泥を掴むような感触と、あのあとメグミの眠る機械の横で茫然と時間を潰しながら、冷え冷えとした絶望が、ゆっくりと胸に染み渡っていったこと。起こった悲劇をメグミはすべて自分のせいだと思っている。『癒しの願い』で自滅したあとも、機械の中で眠らされている間も、眠りながら他人の心を感じ取って、自責に苛まれていたと言うのか。
「それは違う、お前は悪くないんだ、元はと言えば、僕が、」
『――うるさい! 出ていって! みんなといると悲しくなるの、もう誰ともいたくない!』
「――ッ」
 感情制御のままならない今のトウヤに、テレパシーという伝達手段はあまりに刺激が強すぎる。つらい――かなしい――いたい――くるしい――メグミの声なき叫びは鐘を狂い打つように脳内に獰猛に響き渡り、その壮絶さをまともに受けると、自我が押し潰されそうになる。目が眩みどっと冷や汗が噴き出てくる。冷静になれ。強く自身に言い聞かせた。ここで自分まで動揺を見せてしまえば、メグミの錯乱はいよいよ収拾がつかなくなる。
「メグミ……、僕は……」
『めぐみがいなければ、トウヤが大怪我することもなかった』
 お前に命を救われたんだ――継ぎかけた言葉をまるで予知したかのように、行く先を塞いでくる。
『ハリもハヤテも、トウヤのことが大好きなのに、めぐみのせいで、めぐみがいるばっかりに、一緒にいられなくなっちゃう……! ごめんね、ごめんね、ごめんね……!』
 吹き荒ぶメグミの悲しみが理性の殻を切り刻む。内側の得体の知れない衝動が、今にも皮膜を切り裂いて踊り出さんと暴れている。
 まずい。まずい。膝に手をつき、歯を食い縛って耐え忍んだ。歯の隙間から漏れる息遣いがひどく獣じみている。傘を手放して嵐に身を任せれば自分が何をしでかすか分からない怖さがあった。その恐怖感がまた自身を煽り、煽られるごとに衝動は肥大化し張り詰めていく。
 二人だけの間にある嵐を、押しのけるように、一歩、前へ歩み出た。
 メグミは怯えた目で壁際へと自身を追い込む。
『お、お兄ちゃんも……』
 アズサがラティオスと呼んだ、メグミの兄だというポケモンの顛末は、既にトウヤの知識に存在してしまっている。あえて知らせなくとも、メグミはそれを知ることができる。
『めぐみがわがままを言ったから、人間に捕まって、ひどいことをされたのね?』
 目蓋の裏に、姉の姿が浮かんだ。
 もう動かないアチャモを抱きしめる姉の姿が浮かんだ。
 トウヤがくだらない理由で壊してしまったあの優しい笑顔が浮かんだ。
 だめだ。浮遊感を押さえつける。切れかけた緒をすんでのところで繋ぎ止める。きつく瞑った目の奥で硝子片のような光がちらついた。耐えろ。堪えろ。衝動のまま感情を破裂させ、火を噴くように叫び散らせば、きっとそれまでだ。一度でも外してしまった箍を元に戻せる保証はない。
『もういいの、めぐみはひとりになる、ほっといて、お願いだから』
 さながらポケモンバトルのようだとトウヤは思った。これはメグミとの戦いだ。準伝説級と言われるポケモン相手に、今にも吹き飛ばされかけている塵の如き雑魚である。だが、こちらはポケモンではない。非力ながらポケモントレーナーだ。退路がないなら、どこかに勝ち筋を作らなければ。敵の一挙手一投足を洗え。過去に相対した難敵との共通項を探すんだ。ひとつでも弱点を見出し、的確に急所を突くことができれば、格上相手でも活路は開ける。
 戦慄く拳を握りしめ、目を開き、面を上げる。
 メグミは拒絶するように首を振って身を引こうとする。
『来ないで……』
「メグミ……」
『トウヤが苦しいのも、痛いのも、めぐみがいるから悪いの、めぐみなんかいなければよかった』
「メグミ」
『全部めぐみが悪いの、全部めぐみのせいなの』
 光明が差した。
 いつだか聞いたような言葉だ。
 ああ、――不思議な距離感だが、もう四年も一緒にいる。慣れたがらない癖に遠くへも行きたがらない愛らしい手持ち。ずっとそばで暮らしていたら、多少は似てくるところもあるだろうな。強い情動の嵐の中で、小さな感慨がよぎったとき、ふ、とトウヤは楽になった。叩きつけられて砕け散って、鋭利に尖った鉱石のような刺々しいばかりの中へ、柔らかくて形のないものが、ぽとん、と腑抜けた音を立てる。その波紋が体の内側へ広がったあと、突然、不思議な感覚が起こった。――無理に押さえつけなくてもいい。僕はこの獣とひとつになることもできるんだ。
『めぐみなんかっ、』
 聞き覚えがあったから――身に覚えがあったから、メグミが次に何を言うのか、トウヤは予感できていた。
 そしてその自暴自棄に見せかけた究極の自己保身による攻撃の、『痛いところを突く』方法は、教えられて知っている。
『めぐみなんか、死ねばいいの!』


「――馬鹿野郎ッ!!」


 だから気付けば叫んでいた。
 水を打ったように、あたりが静かになる。いや、元から静かだったのだ。事態を注視する職員やそのポケモンたちには、黙って主人を睨みつけているラティアスに、突然怒鳴りあげたトレーナー、という風にしか映っていないのだろう。逆にトウヤの視界には彼らの存在は最早映ってすらいなかった。フーッ、フーッ、と興奮しきった獣のように呼吸を漏らし見開いて睨む双眸は、赤と白の竜の姿と、その驚いて竦んだ幼い瞳しか映さない。メグミは驚いていた。荒れ狂わせていた悲しみも、自己や他者への虚しい怒りも、トレーナーからの――いつも自分を甘やかすうだつの上がらないトレーナーからの、腹の底からの叱責に、その思いがけなさに、全部吹き飛ばされたのだ。だから静かになったのだ。
「……、っ、僕は……僕はなぁ……!」頭に血がのぼっている。ポップコーンみたいに弾けて原型を留めない精神状態ではまともな言葉を発するのに幾分時間を要した。だが迷いはなかったし選択する必要もなかった。言葉は脊髄反射のように、考えるまでもなくひとりでに溢れ出していく。「僕はな……僕の、したことに……これから、ちゃんと責任を取るぞ」
『お前、僕が悪い僕が悪いって、いつも口で言うだけじゃねえか。言うだけなら誰でも出来んだよ、本当にそう思ってんならちゃんと責任取れよな』
 砂漠の中で、ハガネールの上で迎えた夜明け間近の空の下で、あの敬愛すべき少年が、トウヤにそれを言ったのだ。
「いいか。メグミ。僕は、生きるぞ。絶ッ対に、死んでやるものか。僕のせいで、僕のせいでおかしくなった、すべてのことに、ちゃんと責任を取るまで、けりをつけるまで、苦しかろうが、痛かろうが、何が何でも生き延びてやる」
 怒ってるんだか、悲しいんだか、もう自分では分からない。全部いっしょくたになった感情が垂れ流れるのに任せるままだった。ただ、ただ、トウヤは必死だった。この一秒一瞬に懸命に魂を燃やしていた。どこで何をしていても、ずっと、ここにはいないような、どこか遠い場所から俯瞰しているような気がしていた現実は、今確かにこの手の中にあり、どうしようもなく、それを握りしめている。
 胸が熱かった。訳のない涙が、つう、と頬を流れ落ちた。
「お前も、自分のせいだって言うんなら、ちゃんと最後まで責任を取れよ……ッ!」
 こんなにも、自分本位で、辻褄の合わない説教があるだろうか。
 『神秘の守り』の結界が、はらはらと崩れ落ちていく。無垢で優しい竜だった。主人の身勝手な熱意を真に受ける瞳が歪んでいた。視界を偽らないときのメグミの、ハリとハヤテとよく似た、陽だまりの一番あたたかい場所みたいな穏やかで明るい瞳の色が、トウヤは昔から大好きだった。
 声帯を震わせる本当の声で、ぴゅい、と小さく彼女が呼んだ。
 ふわりと飛んできたラティアスが、両腕で男を抱きしめる。短い体毛の下の皮膚は見た目より柔く温かかった。澄んだ水辺の匂いがした。そうして証拠を肌に得て、やっと、実感がこみあげる。
 メグミが。メグミが、戻ってきてくれた。
「辛いことを言わせてごめんな」
『……ばかね』
 やり返すように囁かれ、ふふふ、といつもの調子で笑う。
 どっと安堵すると、全身の力が抜けた。それはまるで、トウヤの方が、メグミに縋り付くような格好だった。従者に抱きすくめられながら思う。この距離なら、もう言葉も必要ない。湧きあがる思考は勝手に糸になって、額のあたりからするすると抜けて、向こうのリールへ巻き取られていく。お願いだよ、メグミ。一緒にいよう。僕と一緒に生きてくれ。そうすれば、きっと頑張れるから。僕は頑張ってみせるから。





 スポットライトを浴びると頭が真っ白になるかと思っていた。もし足が竦んでしまったら、目に映る全員の顔をメタモンにしてやろうと身構えていた。だが、恐れていた緊張は、むしろタケヒロに好影響ばかりを付与した。――目に映る世界は明瞭だった。人々の目鼻立ちや肌の色、服装、髪型、ホクロの数も、まるで元から脳内に図面のあるかのように、完璧に把握できる錯覚。すべて見通せさえすれば、何も怖いものはない。驚くほどに冷静だった。浮わつきは皆無で、むしろ地に足がついている。
 研ぎ澄まされた感覚が目的の人物を探して捉えた。片膝でしゃがみこんでいる眉目秀麗の青年と、その脇に目を伏せている車椅子の老齢男性。ハルオミは時が来たらアピールすべき人物を教えてくれると言っていた。ロマンスグレーの頭髪の病的に痩せ衰えた老人は、巨大資産グループの敏腕組長という肩書きがちょっと拍子抜けしてしまうほど、ただのおじいさんだった。人の良さそうな微笑みを、半分眠ったような顔に浮かべている。タケチカ老人の細い肩を撫でさすりながら、ハルオミが舞台の方を促す。老人は穏やかに頷いた。
 祖父が、生き別れた孫の顔を、老いぼれて曇った目に映す。
 タケヒロは、なにも怖気づくことはなかった。恥ずかしくない格好をしている自負がある。普段の暮らしぶりを思えば冗談みたいな小洒落たジャケットに、のりの効いた真っ白なシャツ、サスペンダー付きのハーフパンツ、ぴかぴかの革靴、蝶ネクタイ。今朝早くに、ハルオミの贔屓の店を営業前に開けてもらい、すべて見繕ってもらった。ボサボサで切りっぱなしだった髪の毛だって、こちらは素人ではあるが、昨晩トウヤが小一時間かけてキチンと切り揃えてくれた。今のタケヒロは、どこからどう見たって、文句のつけようのない『おぼっちゃま』だ。
『これで服を買いなさい。店はハルさんが案内してくれるってさ』
 昨晩、トウヤに握らされたのは、彼のヒビでの給金だった。タケヒロが目にしたことすらない大金だ。パーティーでの服装の相談をしていたことすら忘れていた。『逃亡資金は充分に残してるから大丈夫だ、人使いは荒いが払いはよかった』と得意げにしたトウヤに、タケヒロは顔をあげた。
『俺、この金、ちゃんと返すよ』
 トウヤも、そして隣のミソラも、狐につままれたような顔をした。タケヒロにそんな大金を返済する能力があるはずもないことを知っているからだ。気にするな、と呆れ笑いをする男に、タケヒロはごく真剣に、
『これ借りるよ。んで、すぐに返す。明後日の朝までに返すよ。俺――』
「わたくしは――」
 出迎えの拍手が止み静まりかえった会場に、少年の第一声が響く。
 前口上は、タケヒロが自分で考えた内容に、ハルオミの添削を加えたものだ。一人称などのアドバイスは、野良同然に生きてきた知恵では思いつきようもないものだった。
「ココウという、辺鄙な田舎町で育ちました」
 芸を期待する観衆にとっては、憂き世を離れるべきピエロの身の上話など、興醒めの極みかもしれない。
 だが、客たちの眼差しは一様に好意的だった。サチコのたまごの効力もあろうが、ミソラたちが会場を温めてくれていたおかげだ。
「砂漠に囲まれたその町では、スラムの道端に年端もいかない子供が捨てられ、その脇を大人たちは素知らぬ顔をして通り抜けます。親のない惨めな溝鼠たちは、徒党を組んで寒さを堪え、無い知恵を絞り盗みを働いて暮らすのです」
 堂々と、朗々と、歌うように演説する。歌は得意だ。声を出すのも好きだ。語りに引き込むための身振りも緩急も抑揚も、曲芸と同じくらいには練習を重ねた。
「わたくしもまた、その捨て子のひとりでした。乳がわりに泥水を啜り、野草を食んで飢えを凌ぎ、わたくしのような子を生み出したこの世のすべてを恨みながら、盗みばかりをして生き長らえてきたのです」
 しかし!
 空気を一閃する声は、高らかに。
「しかし、哀れなわたくしが生まれ持った、この声と、この肉体にこそ、活路を開く力は宿っていたのです!」
 勢いよく両手を広げる。
 右肘から飛び立った一羽のピジョンが、天井の高いパーティー会場を一周する。初披露の『フェザーダンス』――自分の身を守るための技としてトウヤが名前を出していたのを、ツーと二人で考えて自己流で開発したものだ――による大量の羽毛が天井付近を舞い踊る。顔を上げた観衆が目を奪われているうちに、小さな『竜巻』を発生させて、それを一枚残さず綺麗に巻き込む。大量の羽を吸い、ピジョン色、ポッポ色とも言える小さな渦となった『竜巻』は、ツーの操る風の潮流に乗り、まるで翼を生やしたかのように一目散に戻ってきて――かぱりと開封された赤白のモンスターボールの中へ、尽く収納されていく。
「わたくしは、この相棒たちと共に――」修理が間に合ってくれてよかった。イズのボールを、手のひらから優しく転げ落とし、身を反転させて踵で蹴り上げた。「盗みからは足を洗い、芸を披露し、自活する道を選ぶことができました」
 くるくる高速回転しながらまっすぐ上へ飛ぶボール。『電光石火』で戻ってきたツーが、翻り正確無比な『燕返し』で、一撃で開閉スイッチを捉えた。
 開放音、スポットライトより鮮烈な閃光と共に、圧縮収納した羽が一気に放たれて踊り狂う。
「天賦の才と申しますが、わたくしのこの才能は、天ではなく、神でもなく、紛れもなく、顔も知らぬ両親から授かり受けたものなのです」
 その中で両腕を広げるタケヒロは、今から三羽目の鳥になるのだ。
「わたくしのような卑しい身が、このような素晴らしい舞台で芸を披露させていただけることは、奇跡と呼ぶ他にありません! 夢のような機会を与えてくださった寛容なホシナ家の皆様と、わたくしに才能を与えてくれた両親に、今、心より感謝を申し上げます」
 ライトを吸い込んで白く輝く羽の中で、手を胸に、足を交差し、頭を垂れる。照明を浴び三つに別れた自身の影へ、落とした目を一瞬閉じて、深く息を吸い込んだ。
 澄みきった、美しい小鳥のさえずりのような繊細でのびやかなハイトーンを、頭の上から響かせる。
 ――翼がなくても空を飛べる。地を這う溝鼠も胸を張って生きられる。歌い、踊り、観衆を笑かし、時に魅了させながら、タケヒロは強くそう思った。二つのモンスターボールを使った演目を、ツーはすべて完璧にこなし、アップテンポな歌を奏でる喉の調子は抜群で、四肢の先端まで糸で引くように思い通りに操れる。靴を鳴らして跳ね踊れば人々は楽しげに手拍子を打ち、ツーの爪に片足を引っ掛けひょうきんな宙吊りを披露してみせれば、彼らは大きく口を開いて競うように笑い立てた。一瞬一瞬は濃密で、それでいて、本当に楽しかった。あっという間の時間だった。
「カモン、ペラップ!」
 舞台上手から飛んできたサーカス団の四羽目が、勢いよくピエロの頭に爪を立て、毛髪を毟り取ろうとする。その様にまた会場は沸くが、これは仕込みではなくペラップの癖だ。笑い声が一波過ぎたタイミングで、レパートリーの中で最もポップでハイテンションな一曲を、弦を掻くように喉から弾き出す。
 ぱっ、と飛び上がった極彩色が、嘴をひらいた。
 あのへしゃげたハーモニカが、何度も何度も聞かせまくって覚えさせた副旋律を、教えた通りに奏ではじめた。
 透き通ったボーイソプラノと、複雑な音形をした音符ポケモンの鳴き声が、絶妙なハーモニーを描き出す。かと思えば争いあうような歌声に変化し、滑稽な小競り合いに発展していく。ツーが音の間を飛び回り、二人の仲を取り持とうとする。「あんたなんてキライ!」『アンタナンテキライ!』「なんでも真似しないでヨ!」『ナンデモマネシナイデヨ!』「あんたなんて、本当は大好き!」『ワタシハベツニスキジャナイワヨ』「なんで『オウム返し』しないんだよ!?」――
 会場の後ろの方に立っているルリコが、飛び跳ねてはしゃいでいるのが嬉しかった。それを側で宥めるカヨの表情が優しいのが嬉しかった。ハルオミが顔をくしゃくしゃにして笑っているのが嬉しかった。寄り添われている自分たちの祖父が目を細めているのが嬉しかった。
『俺――ホシナ家に勤めるよ。契約金ってのがいっぱい貰えるんだ、パーティーの報酬も貰えるし、すぐに返せるからさ』
 スポットライトを浴びてきらきら輝く光景に、昨晩の光景が不意に重なる。
『捨て子の俺が金に変わるなんて、面白いだろ?』
 タケヒロはニッと笑ってみせた。目の前に座らせていたトウヤとミソラが、微妙な表情をして互いを見合わせた。
『……ごめん、タケヒロ。足手まといって言ったの、あれ、取り消すよ。だからそんな無理しなくても、一緒にワタツミに行こうよ、みんなで』
 泣き顔を引き摺っているミソラへの返答を、トウヤは黙って待っている。
 タケヒロは首を横に振った。心の中はさっぱりと晴れて、ひとつの迷いもなかった。
『勘違いすんなよ? お前たちのために金になるんじゃない。俺がそうしたいから、そうするんだ』
 ハガネールの上で過ごした最後の夜のことを、タケヒロは持ち出した。翌朝別れるアズサと長い話をしたこと。『この先何をしたいのか』、アズサが自分たちに問うたこと。
『俺、修行するって答えた。リューエルに襲われてイズが死んで、何も出来なかったの悔しかったし、レジェラさんと特訓してるツー見て刺激も受けた。強くなりたかったんだよ。でも、それって、一日二日で強くなれるなんて簡単なもんじゃない。そもそも弱いし、バトルも嫌いだし、旅とかも一番慣れてねえし』
『迷惑かかるなんて、考えなくていいよ、そんなこと言ったら僕だって……』
『別に旅がしたいかって言われたら、そうでもねえし』
 食い下がろうとしたミソラが首を引っ込める。しゅんと眉を下げた顔を見ると、多少は胸も傷んだが。
『アズサとずっといられるってわけでもないだろ? しかも、お前らと一緒に逃亡生活したところで、将来性もないしなあ』
『……確かに、将来性はないな』
 黙っていたトウヤの顔がほぐれた。考えを肯定されて、胸が温かくなった。
『俺、ココウが好きだよ。俺の性分に似合ってる。ヒビみたいな都会は嫌いだ。でも、この街で頑張るよ。裕福なヒビでいっぱい稼いで、リッチな暮らしをして、服も靴も自分で買って、髪もちゃんと床屋で切るぜ』
『そんなタケヒロ想像つかないんだけど……』
『うるせえよ。俺は浮浪のお前らが指を咥えて羨ましがるような金持ち暮らしをしてやるんだ。んで、カッコよくなって、彼女も作って、』
『アズサさんじゃなくていいの?』
『バカミソ、アズサが振り向くようなカッコいい男になるんだよ!』
 絶対無駄だよタケヒロのがバカじゃん、と、やっとミソラに笑顔が見えた。
 夢を語ると、将来を語ると、胸がどきどき、ふわふわした。あれこれとまくし立てるのをトウヤが頷いて聞いてくれた。ミソラは茶々を入れながら、夢物語を膨らませてくれた。
 ハリも、ハヤテも、リナまで、なんだか楽しげに耳を傾けてくれている。もう誰もタケヒロを否定する人はいない。じっとこちらを見上げるツーは、冷静沈着な双眸に明るい星を瞬かせて、話の続きを促してくる。
『で……芸を磨きながら、ツーと修行もして、バトルの腕も磨いて。あと、真面目に勉強もして、賢くなって、もっと働いて金を貯めて……旅できるように計画して準備して、そしたら、』
 指折りで数え切れない目標の最終到達点を、ここに宣言する。
『ココウに、イズを迎えにいく』
 ミソラも、トウヤも、頷いた。
 タケヒロも頷き、もう一度、会心の笑顔を彼らに向けた。
『見てろよお前ら。貯金して、独立して、ばかみたいな豪邸を建てるからな』
『豪邸か』『いいね』
『そしたらお前らも雇ってやるよ! 庭掃除とかでいいだろ? そのときは、』
 勝手な夢を見るのは楽しい。好きなように走り出した先に、自由な色を乗せられる真新しい世界がある。
 誰かのためだと思って動くことだって、結局は自分のためだった。けれど、誰に振り回されるでもなく、きちんと自分のために、まっすぐ前を見て生きていく未来には、きっとたくさん希望が待っている。
『俺にもこんなにすげえことができたんだぞって、めちゃくちゃ自慢してやるからな!』
 ――どこにいるのか分からないお父さんに届け。
 ――どこかで見ているかもしれないお母さんに、届け。
 遠くへ遠くへと放つ。ペラップとのハーモニーが、大きな余韻となって、心地よく会場を震わせた。汗まみれの顔を拭い、両腕をあげた。ツーとペラップを横に並ばせて、二人を称え、最後に、深く礼をした。
 万雷の拍手が、ココウの片隅で今日まで立派に生き延びた、捨て子ピエロを包み込む。
 顔を、上げた。芸のあと、投げ銭をせびるために、そのまま膝をつき土下座をしてきたが、もうそんなことはしなくてもいい。舞台の上から観衆たちを見下ろしていることさえ許される。人々は胸より高い位置で何度も何度も手を叩いていた。みな本当に満足そうな顔をしていた。会場の後ろにいたはずのルリコが、最前列にいるタケチカ老人のもとに飛んできて、タケヒロを指差しながらしきりに何かを言っていた。どうしても欲しいものを見つけたような高揚した顔だった。祖父はそれをニコニコとして聞いていた。ハルオミと目を合わす。彼は感慨深げに微笑んでいた。なんだ、お前、そんな優しい顔もできるのかよ。かあっと頬が熱くなる。
 会場の、一番後ろ、扉の前に、悪目立ちする金髪がいた。
 友は、唇を歪めていた。眉を寄せて、ぐっと堪えるような顔で、タケヒロの勇姿を見上げていた。タケヒロは拳を突き上げて応える。見たか、ミソラ。これが、正しい復讐のやり方だぞ!


とらと ( 2020/02/10(月) 23:26 )