月蝕


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月蝕
13−7

 トウヤの話は要領を得ず、翌朝ハルオミが子供とポケモンたちにした話は、ミソラには少し難しすぎた。噛み砕いて根気強く説明してくれるのに理解できなかったのは、あまりのショックに、頭から脳みそがすっぽ抜けたみたいに何も考えられなくなったからだ。トウヤがじきにトウヤでなくなる。形はそのままここにあるのに、少しずつここからいなくなる。想像しろと言われても難しい話だ。結局ミソラの中に刻みつけられたのは、ハルオミは決して使わず、トウヤも告白の一言目にしか口にしなかった言葉だった。
『死ぬかもしれない』
 ――あの人はじきに死ぬ。
 彼を殺さなければと思っていたことを、死んで欲しいと思っていたことを、ミソラは随分後になって思い出した。やはり、所詮ミソラは、『死』とか『殺す』とかいう言葉を無頓着に口にしていただけで、その実が一体何を意味するのか、何も考えてこなかったのだった。
 放心しても狼狽えても、時間は立ち止まることを知らない。メグミの退院日が決まった。サーカスの公演の翌日にはヒビを発つことになる。それまでに身の振り方を考えろよ、とハルオミに忠告された。大人としての役目を果たせなくなるかもしれないトウヤが、子連れという危険因子を脇に抱えて逃亡生活を再開することに、ハルオミはあまり肯定的でない。つまり、彼は、ミソラとタケヒロの身を案じているのである。
 信じがたいことに、あの翌朝も、トウヤは早朝から仕事に向かい、いつものように夜更けまで仕事をした。
 トウヤが仕事から戻ってくるまで、ミソラは眠ることが出来なかった。「もし帰ってこなかったら」。漠然とした不安は蠅のように付き纏う。だって、あの人がじきにあの人でなくなる、あの人がじきに死んでしまう、その『じきに』の明確なリミットを、誰も示すことができない。ミソラがあるきっかけで突然記憶を取り戻したように、そのタイムリミットが、今この瞬間に、訪れていないとも限らない。
 暗闇の戸が開き、外気と共に細長い影が部屋に戻ってくると、ミソラはその影がトウヤである証拠を探した。影は寝支度を整えると、必ず作業台に向かう。手元のライトを点け、不器用な手でボールの修理を進める。その背を見ると、ああ、今日もちゃんとトウヤが帰ってきたな、とミソラは安心して、寝たふりの延長線上で、やっと眠りに落ちていく。
 そんな日がまた何日か続いた。
 ミソラは、トウヤの帰りを待ちながら、いつも窓から夜空を見た。夜空の月は見えたり見えなかったりした。ぼうと夜を見上げていると、思い出すのは、なぜだか月蝕のことだった。ヒガメの宿の露天風呂で満月を見上げながら、彼は月蝕の話をした。この星の影を身に落とし、暗い赤色に欠けていく月。――左腕の赤黒い痣に蝕まれていく彼。本当に蝕んでいくのは人の色をした右腕なのに、何故かそのイメージが膨らんでいく。
 蝕む赤銅色が、やがて全身を埋め尽くして、そのときトウヤは死んでしまう。
 柔らかい毛布に顔を埋めて、声を殺してたくさん泣いた。涙を吸った毛布は冷たかった。現実を認めたがらない自分の矛盾を醜いと思った。だって、ミソラは、トウヤに死んでほしかったはずだ。トウヤが死んでしまうなら、それは本望であるはずなのだ。
 ミソラが泣いていることに、多分トウヤは気付いていた。
 日記は辞めた。生活リズムが合わないせいであれから口も利いていない。トウヤが何を思って一日一日を刻んでいるのか、ミソラは想像するのが怖い。黙々とボールに向かうとき、トウヤはほとんど手を止めなかった。その背はしんとしていて、以前のように右手の鈍さに苛立っている雰囲気もない。静かで、穏やかで。ミソラはそれを悔しく思う。泣いたりわめいたりしてくれればと思う。そうすれば何かが変わる気がした。変えられると信じたかった。願いたかった。でも、当事者でないミソラが泣きわめいて願ったって、まるで意味がない。何も起こりやしない。ミソラ一人が抵抗したところで、時間は無情に残酷に、トウヤがいなくなるかもしれない次の朝を連れてくる。



 ヒビを発つことをルリコに告げたのは、パーティーの前日の別れ際だった。
「――え!」
 と短い驚嘆を発し、大きな目を見開いて、ルリコはしばらく固まった。
 芸の稽古の定番になった公園には厚い雲間からの夕焼けが満ちる。ここ数日はあまり雪の降らない日が続き、植え込みの傍には、前に作った雪だるまが辛うじて形跡を残していた。タケヒロがぎゅうぎゅうに押し固めたチリーンはまだ原型が分かるほうで、ルリコが頬を真っ赤にしながら作ったイーブイは、すっかり耳がなくなり、顔は崩れ、枯れ枝で作った両手だけが黄昏の不穏へバンザイをしていた。
 意に介さない、あるいは人の言葉を理解していないビッパたちは、立ち止まったルリコを置いて先へ先へと行ってしまった。公園の出入り口には、迎えにやってきたカヨが、黙ってルリコを待っている。
「ヒロ兄様、いなくなっちゃうの……? ミソラさんも?」
 豊かな黒髪の艶が言葉の節のごとにぶれ、ダークブラウンの潤いのある長い睫毛の下の宝玉は斜陽を弾いて揺れていた。上目遣いに絞り出されたのは存外に寂しげな声だった。「なかなか言い出せなくてごめんな」と、タケヒロはほろ苦く口の端を緩める。
「次の公演の予定があるからさ」
「団長さんのご病気は? ヒビには療養で来ていたのでしょう?」
『実は、団長は』『今、大病を患っておりまして』
「ああ、あれは――」
 ミソラがでっち上げた嘘をタケヒロが清算する間、ミソラは顔をあげられなかった。得意になって吐いた嘘が、ひどい形で現実になり、その病気は金でも時間でも癒せない。
「――もうすっかり元気だからさ。そうなると公演もすっぽかせねえし」
「どうして? お金なら明日手に入るじゃない。無理に遠い街に行く必要はないわ、おじいさまに頼んでヒビで公演を組んでもらえば」
「ホラ、約束も破れねえしさ。俺たちの公演を楽しみにしてくれてる人がいるんだ」
「私だって楽しみよ?」
 ぎゅうとスカートの膨らみを掴み、
「ずっとヒビにいればいいのに……。ねえ、本当に行かないとだめなの? 行かないでちょうだい、お願いだから……」
 命乞いでもするかのような瞳が、突然、ぱっと光明を得た。
「……そうよ、うちで働けばいいのよ!」
 サーカス団をパーティーに招くことを思いついたときと違うのは、その目には、焦りが窺えることだった。
「そうしましょう。うちで雇うの。おうちにサーカスがいるなんて素敵! もちろんお金もたくさん払うわ。明日、立派に芸をつとめあげて、お爺様に認めてもらえば――」 
「ルリコ」
 タケヒロが少女の前に屈み込む。優しい兄の顔をしていた。くりくりとした目を柔らかく細め、微笑む顔は、まるで大人みたいで、ミソラが夜中に見ているトウヤの背中を彷彿とさせた。あの、静かで、穏やかな――煙のような諦めの匂い。
「お金なんて貰わなくても、また一緒に遊んでやるよ」
 そんな、見え透いた大人の慰めに、
「――またっていつ?」
 つぶらな瞳から、ぽろりと涙が零れ落ちた。
 絵に描いたような美しい雫がつぷと膨らんで、溢れる。感情をさっぱり流し去った無垢で綺麗な面立ちを、斜陽に濡れて艶めいた頬を、ひとつふたつと伝っていく。それはまるで自分が泣いていることに気づいていないような泣き方だった。目の前のタケヒロが困った顔をするのを見て、やっと気付いて、目元を拭う。手袋の先が濡れるのを見て、一瞬、憂いを纏わせる。それからすぐに笑顔を繕う。「ごめんなさいね」そこからは彼女は『お嬢様』だった。それは、遊んでいるときに見せる犬っころのとは違う、空恐ろしいほど完璧な微笑み。
「嘘よ」
 妖艶、と表現してもいい。九つの少女は妖艶に嘯く。
 まるで上等な演劇のような光景だった。
「困らせるつもりじゃなかったの。楽しい時間はいつか終わるもの、ずっと楽しいことばかりだと、本当に楽しいことが分からなくなってしまうでしょう?」
 雪被りの冬の公園。雲間から注ぐ西日の下。隙のない造形美は、それが作り物であることを強調する。強調するが、それがあまりにも美しいから、作り物だとしても惹きつける。
「ねえ、ヒロ兄様は、どんなときが一番幸せ?」
 ルリコは体の後ろで手を組み、可憐に小首を傾げて見せた。ウェーブのかかった黒髪が揺れ、日に濯がれて儚げにきらめいた。
「私は、お父様が褒めてくださるときが一番幸せなの。女の私を、お父様が認めてくださるときが一番幸せ。お父様に褒めていただけるなら、つまらないお稽古だって頑張れるし、ひとりぼっちでも平気なの」
 屈んだまま、ルリコを見上げていたタケヒロの顔に、ルリコがするりと近づいた。
 日に焼けてかさついた兄の頬に、妹はそっとキスをする。
「ヒロ兄様は、きっと幸せになってね」
 麻薬か、呪いか。
 それは清らかな毒物だった。
 少女は身を翻す。舞うように駆けて、おまたせ、と家政婦に声を投げ、その横すら追い抜いて、あっという間に見えなくなった。
 冷たい北風が吹き、ルリコの残り香を届かない場所へ連れていく。タケヒロはついさっきまで妹のいた場所へ、じっと視線を落としていた。ルリコが立っていた場所は、耽美なワンシーンの築かれた舞台は、泥混じりの残雪の靴裏に踏みしめられた、お世辞にも綺麗とは言えない土の上だった。
 足音が近づいてきて、二人は顔を向ける。
 カヨの目は、蛇みたいだと思っていた。けれど、よくよく見てみれば、蛇は思っていたよりもうんと人好きのする目をしていた。
「お嬢様とお友達になってくれて、どうもありがとうね――タケヒロさん。それから、小さなレンジャーのあなたも」
 カヨが去ってから、ミソラはタケヒロへ目をやった。タケヒロは頬をぽりぽりと掻きながら、二人の去った方向を、大人びたあの顔で見つめていた。
 その顔を見て、ミソラは不意に理解したのだ。
 ――いなくなるかもしれないのは、トウヤだけではないのだと。



 駄々をこねて我を通したことは、過去に何度もあった。
 ほとんどの場合で、相手はトウヤだったように思う。例えば死閃の爆心へ向かうトウヤに追いすがったときは、連れて行ってくれないなら死んでもここを動かないとわめいた。ココウスタジアムで勝手に試合をして危険な目に遭ったときも、叱ってくるトウヤに大声で泣き叫んで反撃した。元はと言えば、砂漠の真ん中で最初に拾われたときも、ミソラが少しもごねなければ、トウヤは子供を置き去りにして本当に行っていたかもしれない。散々わがままを通したあとに、観念したのか、絆されたのか、わがままを言わなくても旅に同行できるようになった。あれも、トウヤにとっては本意な結果ではないのだから、ミソラが我を通したも同然だ。
 その頃から考えてみると、多少は大人になったと言えるかもしれない。我を通せないことや、我を通してはいけないことを、納得は出来ずとも、今は弁えて飲み込める。
「お前、明日の夜には帰れよ」
 歯磨きを終えて部屋に戻る真っ暗な廊下で、タケヒロの声は怖かった。夕方からずっと口数が少ないけれど、思いつめたような、怒ったような顔をしていた。頭上のペラップは我関せず、汚れた窓の向こうを見ている。
「ワタシハ ニゲラレナイノヨ」
 ひび割れへしゃげた声が答える。
 早足に歩きながら、ミソラは夕暮れのことを思い出す。
『――またっていつ?』
 打ちひしがれたあの声が、ルリコの本当の声だ。
『嘘よ』
 うっそりと微笑んだあの声が、そして、ルリコの嘘だ。
「オトウサマノタメニ」
「それは、ルリコちゃんの言葉」
 闇の中で、タケヒロは鋭く光る目を向けた。
 ミソラは黙々と歩いていく。
「アイサレルタメニ」
「それもルリコちゃんの言葉だね」
 ――ルリコの部屋の鳥籠で暮らしてきただろうペラップが、人間の言葉を真似る性質で、一体誰の言葉を真似ているのか。ミソラはもう気付いていた。タケヒロも多分、とっくの昔に分かっている。
「ペラップは、ルリコちゃんを助けてほしくて、僕たちのところに来たんだよね。ルリコちゃんは、習い事とかお父さんのこととか本当は辛く思っているけど、ペラップ以外に誰にも言えずに、にこにこして振る舞っていた。ルリコちゃんの本当の気持ちを知っていたペラップは、僕たちが部屋に遊びに行ったからか、ビッパたちに話を聞いてかは分からないけど、僕たちがルリコちゃんとよく遊んでるのを知って、僕たちならなんとかできるんじゃないかって、思ったんだよね」
 ルリコの本当の母親は他界している。父親は多忙で家に戻らず、お世話係だったと言っていたタケヒロの母であるシオリも死に、遊び相手には言葉の通じないポケモンをあてがわれ、跡継ぎになるためのつまらない習い事を強要される日々。ルリコの幼心に巣食う孤独を、ミソラとタケヒロとの時間は、確かに癒しはしただろう。でも。
「でも――僕たちも出ていくんだ。明後日にはヒビを出発するんだよ。ルリコちゃんの、大切だった人たちと同じように、いなくなっちゃうんだ、僕たちも」
 戸を開ける。つけっぱなしにした電気と、暖かい暖房が出迎える。部屋の隅には搬出するサーカス道具が纏めて用意してある。明日に迫った本番のため最後の練習をしていたらしいリナが、ツーと共にこちらへ振り返り、ミソラへ駆け寄ろうとして、やめた。
 ミソラは自分が険しい顔をしていることを分かっていた。だからタケヒロへ振り向かなかった。
「僕たちじゃルリコちゃんを助けられない。僕たちがルリコちゃんに出来ることなんて、申し訳ないけど、何もないよ」
 正面にある暗い窓に、自分の姿が映っている。知り合ったばかりの年下の子に非情になれる自分の姿が。タケヒロが扉を閉めた。頭に止まっていたペラップが羽ばたき、部屋の中央へと着地した。
 ペラップは入り口へ向き直り、機嫌の悪い――そういう風に人間には見える顔で、少女の兄をまっすぐに見上げた。
「シンデシマイタイ」
 鈴の転がるような、無垢で愛らしい声が、壊れたハーモニカに重なる。
 タケヒロが唾を飲む。ミソラは俯き、拳を握りしめる。
 ――じゃあ、なんで、泣きわめいて抵抗しないの!?
「ミソラ……」
 どことなく所在なさげな声が、背後から聞こえてくる。その続きを聞きたくなくて、ミソラは頑として振り向かない。
「お前、どうするつもりなんだ。ハルにいちゃん言ってたろ、この先どうするか考えろって」
 ミソラの中で、その答えは決まっていた。迷う瞬間など一度もなかった。タケヒロも訊くまでもないはずだ、だって、この先のことは既に約束済みなのだから。
 ぴょこぴょこと視界の中にやってきて、見上げてくるリナの赤い目を見て、ミソラは一旦心を落ち着けた。怒っても、仕方のないことだ。ヒビでの生活でミソラは大人になったのだ。泣きわめいたって、どうにもならない。僕一人抗ったところで、何もできない。わがままを言っても迷惑なだけだ。みんなそうして我慢している。人の心は操れない。肝心なことは変えられない。
「……あのさ、俺」
 変えられないなら、その先を聞きたくなんてない。
「俺、トウヤについて行って、できることってあんのかな?」
 ――聞きたくなんてない。
 ぶわ、と青空に膨れ上がった雨模様を、リナが心細そうに見つめている。
「なんでそんなこと言うの?」
 言ったって仕方ないと分かっているのに、言葉は勝手に溢れはじめた。
「アズサさんと約束したじゃん。あの人のこと二人で支えてあげてねって。宿り木の種って、頼りにしろよって、タケヒロだってこの間自分で」
「あのときとは……状況が違うだろ」
「違うから、もっと僕たちが頑張らないとだめじゃん、支えてあげないとだめじゃん」
「分かってるよ、だから俺は」
「今あの人を見捨ててどうするの」
「見捨てるなんて言ってねえよ」
「言ってるじゃん」
「言ってねえよ!」
「言ってるよっ!!」
「じゃあ――ッ、俺みたいな弱い奴がついてって、何ができるって言うんだよ!!」
 タケヒロの叫びが、狭い部屋にうわんと響いた。
 暖房機の低い音が、余韻をひと呑みにする。重い沈黙が足元に満ちた。震える唇を噛み締めて、眉をへの字にして目を窄めて、ミソラはリナだけを見下ろし続けた。戦える力って大事だよ。力がなきゃ何も出来ない。自分がタケヒロに言ったことをミソラは覚えていた。足手まといだよ、僕らがいたら迷惑なんだよ、僕らのせいで皆が危険な目に遭うんだよ、と、タケヒロを非難したことも。その認識に、今も違いはない。トウヤにはハリがいるしハヤテもいる。ミソラみたいなのが一緒にいたところで、何かあったとき何かできるのかなんて、答えられない。おそらく、足手まといになる場面の方が、役に立てる場面よりも多い。
 それでも、ハガネールの上での最後の晩の、宝物みたいな夜の約束を、なかったことにしたくはない。僕たちを信じてくださいと言ったことも、撤回なんかしたくはない。……それは、ミソラがトウヤにしがみつく言い訳に過ぎないかもしれないけれど、それでもミソラは破りたくない。
「ミソラ、俺……この街なら……」
 ――ミソラは。ミソラはそうだ。ミソラには、トウヤに固執しなければならない理由があるから。
 窓の中のタケヒロは、もう所在なさげではなかった。静かな覚悟を秘めた瞳が、まっすぐに前を向いて、言う。
「この街なら、俺にもできることがある気がするんだ」
 ぱたぱたっ、と額に雫が降ってきて、リナは目を丸くした。
 痛いほど唇を噛んだ。戦慄くほど拳を握った。それでも、瞬きのたびに、次々押し出されていく涙を、止めることができない。怒りも不安も悲しみも混じってぐしゃぐしゃの顔はきっと不細工なのだろう。ルリコみたいに綺麗に泣くなんて無理だ。ましてや、泣くのを我慢するなんて無理だ。
 みんなみたいに、受け入れて我慢するなんて、泣きわめかないなんて、無理だ。僕には無理だ。
「なんでそんなひどいこと言うの……」
 しゃがみこむ。頬を舐めようとするリナを、背を丸めて抱きしめた。獣の体は温かかった。変わらない匂いがした。ミソラが何をしなくても、どんなに惨いことを言っても、ボールに捕まえられているというだけでこうして寄り添おうとしてくれる。リナのことを、ミソラは嬉しくも悲しくも思うし、それがいつかいなくなってしまう日のことを思うと、身が竦むような恐怖がする。
「今まで、タケヒロに、いっぱいひどいことしてきたの、振り回してきたの、辛い思いさせたのっ、あ、謝る、からっ、」
 絶対に大切にすると抱きしめる。でもそれも何度目の誓いなのだろう。大事なものを失うときに、瀬戸際になるまで、きっと気付けないのだ。それが本当に本当に大事だったことに。そしてまた僕は後悔する。
「一緒にいてよタケヒロ……僕と一緒にいてよ……」
 こうやって、ひどく後悔するのだ。
 羽ばたきの音がして、右隣に茶色い翼がやってくる。ツーはミソラの顔を覗き込んで、クルルと喉を鳴らして、しきりに頬を擦り付けた。タケヒロ以外の相手にあまり馴れたことをしないツーの思わぬ温かさに、ミソラはまたぐしゃぐしゃになる。結局声をあげて泣いた。赤ん坊みたいにわんわん泣いた。年下のルリコでさえそうはしないのに、駄々をこねて、わがままを言って、泣き落として我を通す以外、馬鹿で子供のミソラには、何も抵抗する方法がなかった。
「お前、好きなのな、俺のこと」
 後ろでそう言うタケヒロが、なんだか笑っているようなのが、また腹立たしい。
「好きに決まってるじゃん友達だもん」
 そんなことを返してしまう自分の子供っぽさがまた腹立たしい。
 言って、今はっきりと理解する。なんだかんだ、僕はただ、友達のタケヒロと離れ離れになりたくないだけだ。
 リナをぎゅうぎゅう抱きしめてぐすぐす泣いているミソラの横に、タケヒロがぺたんと座り込んだ。場所も時間も景色も違うけれど、ココウの裏路地で、ドラム缶に腰掛けて、飽きもせず話をしていた日常のことを、ミソラは思い出していた。馬鹿なごっこ遊びをたくさんしたことを。ごくごく喉を鳴らして飲む冷えたソーダ水のうまさを。くだらないことを言い合って、笑いあうだけのしあわせを。ツーがぱっと飛んで、タケヒロの向こう側へと移動する。イズがいないことだけを除いて、これで大体はいつもの位置。
「俺、確かに、お前に辛い思いもさせられてきたけどさあ」
「ひどい……」
「自分で言ったんだろ? だってお前とかトウヤとかと絡んでなかったら、俺今でもココウで普通に暮らしてるもん。イズもいてさ、ツーは多分ポッポのままで、ピエロ芸で適当に稼いで、飯買って食って寝て、稼ぎが良い日は菓子とかも買って。それも呑気で楽しくて平和だったけどさ」
 タケヒロは窓の見えない向こうを見ていた。
「こうやって振り返って考えると、思い出すのは、お前と友達になってからのことばっかりだよ」
 ――こみあげる嗚咽を喉で砕いた。ミソラは沈黙で続きを促した。
「ずっと一人で生きてきた。生きてきたつもりだったんだ。お前とつるむようになってから、おんなじ遊びしててもさ、相手がいるから、なんか毎日楽しくてさ……」
 懐かしげに目を細めてから、唇を尖らせる。
「そんな奴が、殺すだのなんだのって危なっかしいこと言い出すからよ」
「嫌だったよね」
「嫌だったよ。なんだよ、せっかく毎日楽しいのにさ、それを壊されていくみたいで。どうにかしなきゃって必死になって、結局どうにもならなかったけどさ……でも、俺、自分がこんなに誰かのために必死になれるんだって、知らなかったんだ。一人だったら気付けなかった。お前たちのおかげなんだ。俺、そんな自分が、今、結構好きなんだ」
 伸びてきた手が、ぽん、とミソラの頭を叩いた。
「だから、ありがとな。俺と友達になってくれて」
 あの兄みたいな大人の顔で、それでもミソラの大好きな顔で、タケヒロはミソラに笑いかける。
 思わず、本当に自分でも思いがけなく、その手をばしんと振り払って、リナを離して立ち上がり、振り返ってミソラは駆け出した。おい、みゃっ、という制止も聞かず、相変わらずぶすっとしているペラップの横を走り抜け、ドアノブを捻って突き飛ばすようにドアを開けた――開けようとした。
 ほとんど開かなかった。ドアの向こうにある何かにぶちあたった。「いでっ」という、聞き慣れた声が外からした。
「いつから聞いてたんだよ!」
 タケヒロが大口をあけて笑う。そこにしゃがみこんでいたトウヤが、腰をさすりながら戸を開けて、「さあな」と笑って答えなかった。
「トウヤ兄ちゃん、俺、」
 逃げ損ねたミソラが文句を言う前に後ろが喋って、振り返る。――おかげでやっと正面から見たタケヒロは、赤らんだ顔をして、目も潤んでいるように見えた。少しは同じ気持ちになってくれているんだと思ってミソラはまた顔をしわくちゃにした。タケヒロは笑いながらの顔を、少しだけ、ほんの少しだけ後ろめたさに歪めて、次にこんな言い方をした。
「俺、お前たちから逃げるけど、いいかな」
 トウヤは、一瞬、呆気に取られたような顔をして。
 それから、目を閉じた。何かに濡れた睫毛を下ろして、噛みしめるように笑みを浮かべて、二度三度首を横に振った。
「逃げじゃない。ここからだろ? ホシナタケヒロの『復讐』は」
「――当たり前だ!」
 ニッ、と白い歯を見せて、タケヒロは誰よりも頼もしく笑い、
「嫌です!」
 ミソラはその場に崩れ落ちて叫んだ。
「嫌です!! アズサさんがいなくなって、あなたもいなくなるのに、タケヒロまでいなくなるなんて、そんなの絶ッ対許せません!!」
 ぎゃあぎゃあと騒ぐミソラの声は、開けっ放しのドアから廊下の向こうまで響き渡る。全然笑いごとじゃないのに、トウヤもタケヒロも笑っていた。怒ってじたばた足を動かす。飽き足らず寝転がって全身で赤ん坊みたいに暴れてやった。そうやって笑っていればいい。あなたたちが笑うだけ、僕はいつまでも泣きわめいてやる。





 イヤイヤ期のエレズンみたいに怒り狂うミソラに、思わず笑ってしまったが、同時に凄まじい生命力を見て感心したのである。二、三十年ほど一気に老け込んでしまったような気持ちで時を過ごしていたトウヤには、あの光景はいささか刺激的だった。あんな問題児を野放しにして死んではだめだ。生きている以上は泥臭く生きねばならない。燃え尽きかけの活力を再燃させたミソラのことが、やや的外れな気もするが、トウヤは誇らしかった。――勿論、胸に秘めた野望を堂々と打ち明けてきたタケヒロのことも。
 イズのボールの修理を完成させた。両手が健全なら小一時間の内容ではあるが、時間が掛かったぶん、後からきた妙案を取り込めた。つやつやに磨き終えて、夜明けまでには充分時間がある。作業台の端に寄せていた紙の束を、引き寄せて、トウヤは一枚ずつ捲りはじめた。
 論文だった。ひとつは例のミミロルに足を生やさせた男に関する報告論文。残りの分厚い束は、ワカミヤスグルが短い生涯の間に残した、共著を含む数十本だ。ほとんどがイッシュ語で綴られていたが、「その歳になってイッシュ語も読めねえのかよ」と罵ったハルオミがわざわざ翻訳してくれて、見るべき場所に付箋まで貼り付けてくれている。多忙の隙を縫いまめに世話を焼いてくれる彼には、心から感謝の念に堪えない。
 ミソラもタケヒロも明日の本番に向けてよく眠っている。演者の一端であるハヤテも横で寝息を立てているが、同じく演者であるハリは、ぱっちりと月色の目を開いてトウヤの手元を眺めていた。ホウガで共に子供時代を過ごしたハリも、父親の仕事内容には関心があるのかもしれない。
「後で教えてやるからな」
 囁くと、ハリは不思議そうに首を傾げた。
 トウヤは十歳になるまでの時間を親元で過ごした。よれよれのジーンズの上に襟の黄ばんだ白衣を纏い、薬品臭と煙草の匂いを染みつかせた父が、いつも研究所に籠っているのが、格好良くて好きだった。だが好きだった父が具体的にどんな仕事をしていたのかは、知る機会もなく生きてきた。いや、調べようと思えば、簡単に調べられたのかもしれない。父親ではない、研究者個人としてのワカミヤスグルの得体の知れない本性に、どこかで尻込みしてきたのだろう。
 ハルオミの照らしてくれた父の軌跡を、歴史を、遠い地で大人になった息子が、ひとつずつ巡り、辿っていく。
 何となく察していたことではあった。彼は、やはり、ポケモンの強化剤――リゾチウムの開発に関わる研究に重きを置いていた。
 ポケモンの特殊攻撃力を増大させる有効成分の特定。各種ポケモンに汎用可能な適正濃度の検討。その依存性について。強化剤としてのリゾチウムの研究が粗方済んだ後には、その『兵器』としての転用に着目した方向性へと進んでいく。強化剤の有効成分は、高濃度で作用すると有機化合物の結合を著しく阻害する。だが『土』ならばこの限りではない。成長過程で土を大量に食らうヨーギラスの性質を利用し、高濃度で有効成分を濃縮させる。ヨーギラスの体内で極限まで濃縮された特殊エネルギーは、やがて臨界点を迎え、耐えかねた器ごと『破裂』する。この生体時限爆弾は、マルマインの『大爆発』と同等の破壊力を有し、更に飛散した高濃度の強化剤成分――ココウ近辺で、『灰』と俗称されていたそれ――を吸った生物へ中毒症状を起こさせる。この残虐非道な研究論文群に、第一著者として、ワカミヤスグルは名を刻んでいた。
 トウヤは、父親が自分と同じようにポケモンを深く愛していることを、だがその愛し方が自分とは異なっていることを、幼い頃から漠然と理解していた。だから、そこに見た父親の正体に、特別な嫌悪感は抱かなかった。
 ただ、不安には思った。アズサのことだ。アズサのチリーンはリューエルに捕らえられ、そこで強化剤の実験材料にさせられて気を狂わされた経緯がある。彼女の手持ちと彼女自身を苦しめる原因の一端を、トウヤの父親が担っていた。ハルオミが知っていたということは、友人のアズサもおそらく知っていたのだろう。仇の息子を目の前にしながら、彼女は課せられたミッションを三年も生真面目にこなしたわけだ。
 母親のキョウコに恨みのあったリューエル第一部隊長キノシタのように、トウヤのことを恨んで殺そうとしてもよかった。その方が人間の感情としては自然だ。
 けれど、彼女はこれまで、そのことをおくびにも出さなかった。


 コンコン、と控えめなノック音がして、トウヤは顔を上げる。時計の短針は頂点をゆうに過ぎた場所を指している。
 足音を忍ばせ扉の前に立ち、向こうから漏れる音に耳を澄ませる。トウヤはハリの方へ視線をやり、頷いて見せた。ハリも頷き返してくる。どうやら留守番している気らしい。
 ハピナスのサチコは、トウヤが音を立てぬよう扉を閉め終わると、ぽよぽよ体を弾ませながら寒い廊下を歩いていく。手にしているらしい懐中電灯の光が体のリズムで左右に揺れた。
「……どこに行くんだ? ハルさんが呼んでるのか」
 はっぴー。サチコの独特な声の響きは、耳の奥を幸せにする。
 部屋から離れた階段の踊り場まで降りてくる。サチコはくるりと振り向いて、いつもの優しい顔のままで、おもむろに懐中電灯のスイッチを切り、それをトウヤに向かって差し出した。
 ……いや、違う。
 スタイラーだ。野外任務のために照明機能も備わっている、赤いキャプチャ・スタイラー。 
「ハルさんの?」
 体全体を使って頷く。トウヤが受け取った途端、暗闇に溶けていた中央部の液晶が、白い光を放ちはじめた。
 「着信中」という文字とともに映し出された名前を見、心臓が大きく飛び跳ねた。
「……レンジャーか?」
 思わず漏らした声が自分の耳に帰ってきたとき。スタイラーを支える両手が震えた。体の芯が燃え上がって、内側で燻っていたものが、一斉に焼き切れていく感覚。茫然としていると、サチコが横から手を伸ばして、液晶の上で何か操作した。どうやら着信を受けていなかったらしい。
『ハーイ、痣のお兄さん』
 あまりにも聴き馴染んだ声が、スピーカー越しにやってくる。
 それだけのことで、瞬いた目蓋の内側に、鮮やかにあの顔が浮かびあがった。
「……うん」
 こみあげてくるものが多すぎて、それだけ返すのが精一杯だった。体の力が抜け、冷たい床にへたり込む。壁に背を預け、寝間着の全身を刺す寒さの中で、スタイラーを抱くように身を縮めた。サチコが暖房がわりに寄り添ってくれる。
『久しぶり。みんな元気にしてる?』
「うん」
『そっか、ならよかった。ごめんなさいね、夜遅くに』
「うん」
『なかなか体が空かなくて』
「うん」
『あ、でも、上の説得が終わったから、そろそろそっちに戻れそう。ホシナに聞いたんだけど、ワタツミに移動する気なのよね?』 
 液晶の文字が滲んで見える。ビデオ通話でなくてよかった。鼓動が煩く、頬は熱く、赤く白く発火した部分の、上昇気流を受けて、地に足つかない心持ちがどこまでも高く舞い上がっていく。
 この声が。どうして、こんなにも、僕を勇気づけるのだろうか。
『ワタツミで落ち合う? それとも、ヒビまで迎えに行こうか』
「え? え、ええと待ってくれ、どうしようかな」
 声が上擦る。何を問われているか冷静に考えられる状態ではない。思いがけない感動くらいで既にオーバーヒート気味なのも、処理能力の低下の一例なのだろう。頭がおかしくなっていることを、あまり悟られたくはない。
「……そんなことより、きっ聞いてくれよ!」
 電波の向こうでアズサが笑う。はいどうぞ、と促してくる。笑ってくれるのが単純に嬉しかった。話を聞いてくれるのも。ああ、ずるいな、僕ばかり。ミソラだって話したいだろう。タケヒロに知られたら殴られてしまう。でも、せっかくの明日の本番を寝不足で迎えさせてもいけないし、サーカスが終わってからのご褒美ってことでもいいか。
「ええと……その……」
 すっかり高揚してしまって話題の取っ掛かりを掴めない。話したいことは無数に浮かび、どれも泡になって弾けてしまう。
「まず……ハルさんは本当に良くしてくれていて……」
『え、ハルさんって呼んでるの? 変なの、うちの同期みんなホシナって呼んでるのに』
「ホシナって、呼べないんだよ。だって、だから……ほら……ええと……」
『ゆっくりでいいわよ。今、すごーく暇だから』
 ひょうきんにも宥めるような優しさに、ああ、と腑に落ちた。
 ワタツミに行くことを知っているのだから、既に聞いているだろう。トウヤの肉体と精神に起こりつつある異変のことを、この子は理解しているのだ。
 なんだ。知っているのか。そりゃそうだな。……気恥ずかしさと、妙な嬉しさで、トウヤは苦笑いを浮かべた。トウヤが隠したがることを、アズサはなんでも知っている。知られているなら、知られたくないと逸る気持ちを、いくらか落ち着けることができる。
「……ホシナ姓の奴が、もう一人いるんだ。実は、タケヒロの正体が」
『ホシナの従弟だったんでしょ?』
「知ってたのか?」
『知るはずない! ほんとにびっくりしちゃった、スズちゃんも飛びあがって驚いてたわ』
「目に浮かぶな」
 遠くから涼やかな鳴き声が聞こえてくる。あはは、と邪気のない笑い声。トウヤもつられて笑い、隣に寄りかかってくるサチコが、はぴぴ、と体を縦に揺らした。ポケモンレンジャーのパートナーという括りなら、スズとサチコも同期生だ。
「そう、タケヒロが……ああ、さっきの話だけど、できればヒビまで来てくれないか。タケヒロに会ってやってほしい」
『了解』
「褒めてやってほしいんだ」
『うん、分かった』
「それから……」
 落ち着きはじめると、周囲の様子がようよう見えてくる。一面の暗闇に浮かぶ液晶。右上に表示されている時刻は、とても十代の女の子と会話するような時間ではない。自分だけでなく、サチコの吐く息すら白く、深い夜に混ざりあう。
 あとどれだけ話せるだろう。アズサの用件は今済んだはずだ。とりとめのない話題に付き合わせて、あとどのくらい許されるか。
 先に、胸のつっかえを取ろう。
「……さっき父の論文を読んだよ」
『そうなんだ』
「知ってたんだろ。本当は」
『まあね』
 アズサは戸惑いのひとつも滲ませなかった。あっけらかんとしているが、突き放すような色ではない。むしろ。
『お兄さん、余計なこと考えたでしょ』
 こちらをからかうように。らしいな、と思って、トウヤはまた頬を緩める。
「……余計なことじゃないんだ」
『では、問題です。Aさんはモンスターボールで捕まえたポケモンに指示して、Bさんの宝物を傷つけてしまいました。悪いのは次のうち誰でしょう? いち、モンスターボールを使ったAさん。に、モンスターボールを作った誰かさん』
「傷つけられるようなところに宝物を置いておくBさんが悪い」
『Bさんがお兄さんならそうかもね』
「少なくともポケモンには罪はないな」
『それは同意』
 無線機越しの共犯者の、押し殺した笑い声が互いに漏れる。
 これ以上、何を聞くのも野暮だと思えた。トウヤは彼女の聡明さと、懐の広さに甘えてもいいのだ。もう聞かないことにするが、この件に関して、トウヤはあと二つ、彼女への質問を用意していた。どうして恨まなかったのかというのがひとつ。もうひとつは、彼女がトウヤを恨まなかったと仮定した場合の仮説だが、もしかして君は――その続きを思い出した途端、弾けた綿の実のようになって、頭の中を埋め尽くした。
 ――君は王子様の正体を知っていたんじゃないのか?
 不意に笑いが漏れかかって、トウヤは咄嗟に口を押さえた。サチコが楽しそうに覗き込んでくる。聞いたら、どうなるのだろう。どう返してくるのだろう。あの可愛らしい顔でまたぽかんとするだろうか。それとも、さあ、どうでしょう、と意味深にはぐらかすだろうか。そうしたら、僕はどう返そう。多分だけど。君の思っている男とは違うよ。僕は正直に白状するだろう。その男は口だけで……実際にあのリーシャンを取り戻したのは、おそらく、別の人だったんだ。
 君と僕らの間にある糸が、ミッションだって別によかったんだよ。でも、それを君が気にするなら言っておくけど、君に恋をした、僕と僕の弟子の友人は、君の友人の従弟だった。こんなの笑ってしまうよな。ミッションよりずっと前から、まったく関係ない偶然の糸で、僕ら絡みあっていたじゃないか。
 くくっ、とアズサが笑うので、トウヤは一瞬で空想の雲から弾き出された。
 焦った。考えが無意識に口をついて出たことがある。トウヤが何も言えずに固まっていると、ごめんなさい、と彼女が笑い笑い言った。「なんか黙ってるのが面白くって」。どうやら最悪の事態は免れた。
『やたら喋りたがるなと思ったら、急に黙るじゃない』
「……おかしいよな」
『自覚あるの?』
「あったりなかったりで……結構大変なんだ」
『あ、そういうことね。でも前からよ。ココウ時代からずっと変人ですけど、あなた』
「茶化すなよ」
『茶化しちゃダメなの? 大丈夫、ホシナは真面目すぎるけど、私は面白がってあげられるわ。その方がいいでしょ?』
 ふは、とトウヤは心底笑った。そうだった。僕がだめでも、この子なら、この右腕を楽しんでくれる。好奇の目で研究対象にしてくれる。
『じっくり波動を見てみたいなー、通話越しに見れればいいのに』
「もうただの人間じゃないから、ガックシしたなんて言わせないぞ」
『よしよし、その意気。会ったときまた色々聞かせて』
「……うん」
『しょげた声出さない! リーダーでしょ、ココウ組の』
「あ、そうだ。ココウ組、サーカス団になったの知ってるか」
『えっ! なにそれ、じゃあ私も?』
「そうだよ」
『嘘でしょ!』
 しんとした空間に、場違いな笑い声の花が咲く。
 気付けば、不思議と暖かかった。顔も、体も、指先もすべて。春の陽だまりに突然放り込まれたみたいに、この場所だけが暖かい。夢の中にいる子供たちに内心で詫びつつ、サチコの体に身を委ねて、スタイラーを包む指先に、トウヤはこっそりと願いを込める。もう少しだけ、このあたたかなときが続くように。





 そして――タケヒロの復讐劇が、遂に幕を開けた。


とらと ( 2020/01/13(月) 22:28 )