月蝕


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月蝕
13−6

 白衣を着て実験をしているなどというデタラメが口を衝いて出たとき、思わず吹き出しそうになってしまった。こうも無意味な点でまで格好をつけてしまうプライドの安さには呆れたくもなる。白衣など着ているものか。実験をしているという表現も怪しい。同じ瓶から、同じ薬品を、同じ分量だけ吸い取って移し替えるだけの作業を実験と呼ぶならそうだろうが、この作業に一体なんの意味があるのか、トウヤはそれすら知らないのだ。一番最初に指導されたときに訊いてみて、お前がそれを知って意味があるのかと突然怒鳴りあげられて以来、知識欲は滅入ったままである。
 毒物、というラベルの貼られた薬瓶を見ると、モモのことを思い出す。毒の入った餌を食って短い翼でもがき苦しみ痙攣して泡を噴いて死んでいったモモのことを、その毒を盗むために薬品庫に忍び込んだ日のことを。薬品からする独特の臭気は胃をキリキリと引き絞り、苛々と歩き回る上司が時折あげる怒鳴り声は、ヤスリになって思考力を削り取る。どちらにも、心を鈍くしてやり過ごすしかなかった。
 ピペットにチップを装着し、二マイクロリットルの薬液を吸い上げる。爪の先の半分ほどもない小さなチューブに排出し、チップを捨て、新しいものを嵌めて次へ。同じ場所で、同じことを延々と繰り返す。お陰で利き手ではない左手を扱うことへの慣れは出てきた。日が昇る時間から短針が二度天辺を回るまで掛かっていた担当分が、夕飯時を過ぎた頃にはなんとか片付くようになる。その分次の仕事が乗っかってきたが。多少の勇気を出して一日だけ早めに上がりたい旨を伝えると、やはり死ぬほど怒鳴られたが、まあ慣れたものだった。既に麻痺した体には、電磁波も痺れ粉も蛇睨みも、効果がないのと同じである。
 昨夜、子供たちと話が出来たのは良かった。二人の様子は気掛かりだし、ハリやハヤテに会えなかったのは残念だが、トウヤにとっては、機械から人間に還ったような、短い安寧のひとときだった。
 それで気が緩んだのかもしれない。今朝なかなか起き上がれず、朝飯代わりのポケモンフードを食いそびれたのもきっと不味かった。少し前は五、六粒食えば一日動けていた燃費の良さが嘘のように、最近は妙に腹が減って目が回る。ドラゴンタイプのポケモンフードは成分的に消化が早いなんてことはないはずだが、体は異様にあの生臭さを欲しがり、それが叶わないとなると、些細なことで気が立った。
 どうして怒鳴られたのか、もう覚えていない。何か侮辱的なことを言われ、カッとなったのは覚えているが、そのとき何を言い返したのかもよく思い出せない。口内に血の味が残っているので、多分殴られたのだ。その後は全く記憶にない。
 気がついたときには、トウヤは保健室で寝かされていた。
 カーテンで間仕切りされた白い空間。右腕に止血テープが貼られているのは点滴でも打たれたのだろうか。丸椅子に腰掛けるハルオミが、何やら紙の束を手にして随分と眉根を寄せている。掛時計へ視線を上げる。数時間分消し飛んでいた。慌てて起き上がろうとした体の前を、横から乗り出してきた薄桃色のものが塞いで、案外強い力でベッドへ押し戻し、布団を掛けなおす。見下ろすハピナスの顔つきは慈愛に満ちている。
「子供たちには言わないでくれ」
 最初に出る言葉がそれなのか。反射的な言動に、ほとほと嫌気が差して、トウヤは両手で目を覆った。
 あいつらは、苦しいことや思い通りにならないことを小さな身に受けながら、立派にやっているというのに。保護者であるべき自分が衝動にかまけてこのざまだ。
「様子を見に行かねえととは思ってたんだがな。近々ユニオンに戻されることになったもんで、俺も忙しくてよ」
 よほど興味深いことでも書いてあるのか、ハルオミは喋りながらも手元を食い入るように見つめている。
「すまねえな。あの部署すぐ人が辞めるんで人員不足なんだわ。お前が突然ぶっ倒れたから課長も結構動揺してたぞ」
「いや、僕こそ……うまくやれなくて……せっかく紹介してくれたのに……」
 だめだ。喋れば喋るだけ、惨めさが湧き上がってくる。
「……ありがとう、ハルさん。ミソラとタケヒロのことも気にしてやってくれてるんだってな」
 あれの兄貴面をすることで自我を保っている自身を自覚する。これではトウヤが子供たちの方に依存しているようなものだ。
 ハルオミが資料から顔を上げる。妙に険しい顔をしていた。はぴはぴはっぴ、と手をぱたぱたさせるサチコに促されると、んだな、と一旦その顔を解いて、おもむろに立ち上がった。
 カーテンの向こうに消え、しばらくして戻ってきたハルオミの手に、人間の頭部ほどもある巨大な球体が乗っかっている。
「あいつらはカレーに乗せて食うなんて邪道なことをしてたが、こいつはな塩ふって食うのが一番だ」
「……それは?」
「たまごだよ。サチコのな」
 両手で棚に叩きつけて罅を入れ、慣れた様子で殻を剥いていく。ゆでたまごだった。サチコは普段以上にニコニコしている。
「凄いな、ハピナスのたまごか。噂には聞くが……」
「食ったことないだろ? 期待しろよ、産みたては絶品だぜ」
「遠慮しとくよ。貴重なんだろ?」
「毎日産むんだ。健康状態が良いからな」
 参ったな。まともな食い物を受け付けない胃の状態はあまり改善がない。ハルオミは剥き終えたたまごを皿に乗せ、慣れた手つきで切り分けた。常識外れなサイズのたまごも、白身は普通に白く、黄身はやや赤みがかった黄色をしている。
「そういや飯食えないんだってな。アズに聞いた」
「そんなことまで話してるのか」
「だがせっかくサチコがお前のために産んだんだ、産みたてホヤホヤの茹でたてホヤホヤだ。食わない選択肢はねえぞ」
「……尚更気味が悪いんだが」
「おお、このイタイケな顔を見てそんなことが言えんのか?」
 サチコが瞳を潤ませてトウヤを見つめる。ハピナスというのは種族的にも、特殊な体毛で他者の悲しみを察知しては、目敏く駆けつけたまごと幸福の押し売りをして満足するという、異様に独善的な性質を持つポケモンだ。
 カットされた巨大ゆでたまごの一片を、結局受け取ってしまった。人肌の温かさが余計に生々しい。心身の衰弱に関わらず、トウヤが肉や魚を食いたがらないのは、味や匂いの問題ではなく、それが生きて動いていたときの姿をなんとなく想像してしまうからである。無精卵とはいえ隣に産み手がいると言われるとうっかり嘔吐きそうになる。吐かなくてもトラウマになりそうだ。
 味が分からなくなるようにこれでもかと塩を振りかける。食い物とピンク色から目を逸らし、息を止めて端っこを齧った。
 なんてことはない、ただのたまごだった。取り立てて風味があるでもなく、舌触りに特徴があるでもない、ただの白身の味だった。
 が。
「……うまいな」
 ぽつんと呟く。「だろォ?」とハルオミが嬉しげに指を鳴らした。
 驚きだった。ただの、本当にただの、塩気の強すぎるただの固茹でのゆでたまごを、こんなにもうまいと感じるとは。そもそも、何かを食って、心の底から「うまい」という感想が滲み出てくるという経験が、容易には思い出せないくらいに、実に久々のことだった。ハピナスのたまごってのはよアミノ酸のナントカ、セロトニンの分泌が云々、とハルオミが饒舌に語るのに耳が傾きもしないほど、気付けば夢中になってただのたまごを頬張っていた。別段甘いとか、旨味が強いとか、味に褒められたところはない。なのにただのたまごと塩の味で口の中がいっぱいになると子供みたいに嬉しくなる。喉を物質が通り抜ける感覚を快感と捉えられるのもいつぶりのことか。もってりと水分を奪う黄身は慌てて食うと詰まらせそうになるが、舌の上を水で浚ってしまうのも惜しい。食い過ぎて戻してしまうのも忍びなく、はやる気持ちを抑えつつなるだけゆっくりと噛み締める。
「うまい……」
 別に彼らに聞かせたいでもない、心の中だけで受け止めきれず無意識に漏れていく正直な感想を、ぽつりぽつりと何度も漏らした。
 食うほどに、生気が満たされていくのを感じる。内臓を覆う厚いヘドロがみるみる消え去っていくようだ。トウヤはそのヘドロの存在に気付きもしていなかった。全身の重さは常のことで、それが当たり前になっていた。朝から空っぽだった胃が、満たされていくにつれ、こみあげてきた思わぬ感情に、ああ、なるほど、とトウヤは納得する。――生きるということは、これなのだ。つまるところ、これが生きるということなのだ。僕は、今、ちゃんとここで生きている。
「……おいおい……」
 途中から黙って見守っていたハルオミが、耐えかねて半笑いで目を逸らした。
「出てった方がいいのか? 俺は」
「……すまん……っ」
 ――摂取したばかりの塩分を両目からぼろぼろ零し、嗚咽に抗いながらゆでたまごを貪り食う、冗談みたいな男の背中を、サチコがぽんぽんと叩いてやる。
 感情の表出に歯止めのかからない感覚は、ココウを発ったあたりから続いているだけでなく、日増しに悪化しつつあるようにも思われる。
 徐々に壊れていく自分に、トウヤは多少の自覚があった。だが自覚が起こらないときもあった。突発的に沸き起こる喜怒哀楽に脳を支配されたあと、さっきの自分は平常ではなかったな、と振り返って気付く。そして自責に苛まれる。それが故障度合いを酷くする。ヒビ初日には耐えられていたトレーナーショップの閉塞感も、今現在なら叫んで飛び出さない保証ができない。ビッパの群れがヴェルのひ孫だと知ったのが今日なら、あの場で泣き崩れていた可能性さえある。
 ほら。可愛らしいヴェルのひ孫に群がられた柔らかさを思い出せば、いよいよ涙が止まらないのだ。
「マジなのかよお前」
 ハルオミが引き気味半分に案じてくる。彼の対応はどこまでも正しかった。慰められれば気が狂うかと思うほど状況は屈辱的だ。さっきあの男に少し侮辱されて言い返したことのも、平時の自分なら考え難いことだった。痣のことがあるから、言われるのには慣れがある。実際、ホシナ家の家政婦の前では、土下座の辱めを甘んじて受けられたのに。
「情ッけない……」
「いや、なんだ……いいけどよ……」
「こど、も、たちっ、には」
「言えるか! 言わねえよ流石に。んまあ、好きなだけ食えよ。サチコも喜ぶわ」
 そう言って資料を掴み、出ていきかけたハルオミが、すぐに体をこちらへ戻す。
「どっか気晴らしにでも行ってきたらどうだ? あでも一人じゃ無理か。手持ちは子供らにやってんだろ、リューエルがいないとも限らねえしな」
 はっぴー、はぴぴ、はぴはっぴ。背後でサチコが自己主張する。
「サチコが付き合ってくれるってよ」
 はぴっぴ!
「んだよ、なんで俺まで」
「すぐ戻るよ。あんまりサボってるとまたどやされる……」
 言って、洟を啜る。手も顔もべたべただ。本当に子供じみている。そのきったねえツラで何しに戻るつもりだよとハルオミがちり紙を投げてくる。
「つまんねえ奴だな田舎者の癖に。なんかねえのか、都会でやりたいこととか」
 鼻をかんで、提案されたことを考えて、やや冷静さを取り戻す。濁った息を吐いて吸い直した。
 気張ろうと試みても、燃えかすみたいな声しか出ない。観光に来たんじゃないからな、と弱々しく言いかけて、トウヤははたと目を丸める。
「……あ」



 清冽な外気。日を浴びるのも随分久々に感じる。牢から出された囚人の気分だ。だがそれ以上に、一枚ずつ現れる懐かしい景色の数々が、トウヤの心を弾ませた。
「これも趣味か? お世辞にも良い写真とは言えねえな」
 現像したての写真をぱらぱらと流し見ながら、レンジャースーツの上に厚手のダッフルコートを着込んだハルオミが白い息を吐いている。リューエルに鉢合わせたらめんどくせえからと目深に被せられた帽子の下、慣れない眼鏡の違和感を何度も直しながら、「シャッター切ってるだけだから」とトウヤは苦笑いした。自転車カゴでぶすくれているマリル、楽しげに伸び上がっている色違いのルリリ、縁側に腰掛けているノクタスの背中。家畜と呼ばれるウールーの群れ。それから、くりくりの瞳が愛らしいリグレー。
 使い捨てカメラのフィルムは、この夏にハシリイで購入したものだ。長いことリュックの底に入れっぱなしになっていた。
「あ、これなんか、何も写ってねえぞ」
「そのへんはミソラが撮ったんだ」
 何の変哲も無い壁を正面から写した一枚。確か、トウヤにカメラを向けたミソラがシャッターを切る直前に、テラが暴走して、テレポートしてしまったのだ。
 トウヤはポケモンと景色ばかり撮りがちだが、ミソラがカメラを握っていた間には、人間も頻繁に登場する。進化したばかりのマスカを全身で抱き上げているハヅキ。水陣祭の装束のエト。小ぶりのカイスを切り分けながら、こちらに笑いかけるカナミ。
 知らぬ間に撮られていたらしい、宴会場で真っ赤な顔で眠っている自分の写真がハルオミの手の中から現れて、慌てて取り上げ握り潰した。鼻で笑ったハルオミが次を捲り、おっ、と表情を明るくする。
「アズが写ってるじゃねえか」
「ああ……それは……」
 いつだったか、みんなで、あの子の家で。
 言いかけて、飲み込む。秋の終わりの頃の写真だ。人間を撮らないトウヤが提案して、集合写真を撮ろうとしたこと。トウヤはあのときココウから去るつもりだった。その写真を思い出に残して、思い出が綺麗であれるうちに、遠くへ消えてしまおうと思っていた。だが間に合わなかった。何もかも遅く、すべてが間違いで、この光景の方の多くが自分の手で汚されて消えた。
 顎に引っ掛けていたマスクを持ち上げ、隠した唇を噛み締める。ハルオミはそれ以上何も聞かず、灰色のネックウォーマーに首を縮めながら、気怠げな様子で写真の中の彼女を見つめた。
 粉雪がちらほらと鼻先を流れる。実験室で常に機械騒音に苛まれているからそう感じるのか、午後の街には意外な静寂が流れていた。デケェし目立つしうるさいからな、と言ってサチコはボールに収納されている。いつでもにこやかな相棒がいないと、トレーナーの彼自身からは、どちらかと言えば物静かな印象を受ける。
「不思議だな」
 と、その彼が、おもむろに呟いた。
「あの男から、お前みたいなのが生まれるとは」
 トウヤは目を丸めて、物憂げな横顔へと視線を下げる。
「父を知ってるのか」
「知らねえが、公表されてる論文は全部読んだ。優秀な科学者だった」
 言葉少なな賞賛が、胸に灯を入れる。トウヤは弱り目を細めて答えた。
「僕は初等課程も出てない。優秀な血は全部姉が持ってったんだ」
「ハッ。そりゃ、嘘だね」
 対してハルオミは、口にしてしまったたまごの殻を道端へ吐き捨てるようにして毒づく。
「ワカミヤスグルの論文はどれもユニオンの研究部じゃ再現不可能だ。奴は血も涙もない非道な実験を繰り返して成果を上げた。手持ちに自殺させかけてまで腕を治療したあんたの鬼畜さは、父親譲りだ、完全に」
 長い睫毛で煽るようにして、冷めた視線を投げてくる。
「あんた既に立派なマッドサイエンティストだよ」
 思わず口の端を緩め、トウヤは小さく頷いた。メグミに治療を強制したという点に関しては誤解があるが、「父親に似ている」と言う非難が無上の褒め言葉であることは、胸の中にしまっておこう。
「ハルさんは……ええと」
「俺か? 俺は人道に反したことはしてねえよ、リューエルの科学部と一緒にすんな」
「ああ、いや、帰ることになったんだろ。ユニオンに。いつ?」
「ン、まあ三日四日ってところだな」
「急なんだな」
「悪いが、俺が出てくってことはお前らもだ。ラティアスの治療は粗方目処が立ったから、意識の覚醒がうまくいけば出てってもらうことになるぜ」
 その日程なら、タケヒロのサーカスも済んでいる。世話になったな、と返すと、ハルオミは妙な間を置いてから、「これからどうするつもりだ」と問うた。
「ワタツミに行こうと思ってる」
 あては無いわけではなかった。子供は受け入れてくれないかもしれないが、メグミのことは匿ってくれるだろう。
「海外逃亡か」
 ハルオミが鼻で笑う。確かに挙げたのは港町の名だった。それもいいな、とトウヤもつられて破顔した。有り得なくはない話だ。この期に及んで楽観的なことを言うならば、海の向こうまで逃げてしまえば、リューエルもそこまで執拗には追いかけてこないかもしれない。
「メグミは魚が好きなんだ。まずは魚を食わせてやりたいな」
「そのあとは?」
「じゃあ、海外逃亡だ」
「そのあとは」
 まるで尋問だ。絵空事にそう突っ込まれても、と思いながら、トウヤは想像する。グレンに連れ回されたり、あるいは一人であちこち彷徨いていたときも、海の向こうまでは行ったことがない。知らない場所で、子供を二人連れて、遠く遠くへ逃げ惑う日々。
 悪くはないな、と思った。むしろ夢のような話かもしれない。知らないポケモン、知らない場所を、手持ちと子供たちと見て回る。資金繰りはまた考えなければならないが、賑やかな旅になるだろう。
 アズサがついてきてくれればいいな。妄想は僅かな幸福の芽をぽんと息吹かせる。ハガネールの上で共同生活をしたあの短い時間も、色々あったが、トウヤにはかけがえのない思い出になった。みんなで喧嘩したり仲直りしたりしながら、ああいう風に暮らせたら、きっと楽しい。楽しいだろうな。考えると幸せになる。現状は閉塞しているが、未来に何一つ希望がないというわけではないのだ。
 ――本当に、本当に、それは絵空事だった。疲労と後述の病状は、事態を正確に把握することを困難にさせる。天の雲のような夢の中では忍び寄る現実の酷に気付けない。
「……まあ……あまり想像つかないけど……適当に暮らすよ」
 トウヤのあやふやな答えに、
「真面目に考えといたほうがいいぜ」
 と、ハルオミの、思わぬ深刻な声が釘を刺した。
 足元に投げ捨てていた視線を、隣の男へと上げる。雰囲気はこうもがさつなのに、実に生真面目な年下の彼は、睨むような目つきで事実だけを見つめている。
「あんたが、マッドサイエンティストだと言われて喜ぶような奴だから、言うがな」
 陽の中を漂う綿毛のつもりになっていた心が、冬の寒さに気付きはじめる。
「血液検査をしたぞ。あんたがぐうぐう寝てる間に」
「……それは人道には反してないのか?」
「いいか、真面目な話だ。その、右腕、」
 彼ともあろう人が、言い淀んで、一度唾を呑んだ。
「人間のそれじゃねえ。……いや、それは、当たり前だな。『癒しの波動』や『癒しの願い』は、ポケモンが本来持つ治癒力を一時的に強化することで組織を劇的に再生する技だ。人間の細胞如きの再生力を高めたところで、もげた腕が元どおり生えてくるわけがねえ」
 ぶつぶつと呟くハルオミが、トウヤの困惑した表情を見て、結論を早めた。
「ラティアスは、ラティアス自身の細胞――ポケモンにとって人間の細胞にあたる組織のことを、便宜的に細胞と呼ぶが――それをあんたの腕に移植し、それを変質させ、増殖させて、人間の腕に似せた『何か』を作り上げた」
 講釈を飲み込むのに幾分時間を要した。
「……僕の、腕が、生えたのではなく……」
「あんたの腕に入り込んだラティアスの組織が作り上げた、見せかけだけの模倣品だ」
 似たようなことを聞いた気がする。直近の記憶を洗って、あっ、と声をあげた。
「レンジャーにも言われたんだ。波動が二色流れていて、肘のあたりから切り替わってる、みたいなことを」
「おそらくラティアスの波動だろうな。ラティアスそのものの色じゃねえだろうが」
「それで動かないのか。模倣してはいるけど、オリジナルではないから」
 言いながら、面白いことに気づいた。
「ドラゴンタイプのポケモンフードをうまいと感じるようになったんだ! 昔は食えたもんじゃないと思ってたんだがな。そうか、メグミの、だからか」
「臓器移植で食い物の嗜好が変わる例は、人間同士なら報告があるな」
「そうか。はは、面白いな」
 身に起こった摩訶不思議を他人事のようにはしゃいでいる。他人事にしてはしゃげる程度には浮世離れした話だった。だが、真面目な話だ、と最初に釘を刺されたのは、つまりは、そういうことだった。
「面白いと感じられているうちが華だぜ」
 ハルオミの堅い声色が、一気に現実を押し寄せてくる。
「人体の細胞は日々新たなものに置き換わってるのは知ってるな? だいたい一日一兆個の細胞が死んで新しいもんに変わると言われてる」
「ポケモンは、人間よりサイクルが早いんだよな」
「そうだ。遥かに早い。人間なら致命傷に至る出血や火傷でポケモンが簡単に死なねえのは、それを補えるだけの細胞を瞬時に作り出す力が備わってるってことだ」
 彼の言いたいことを薄らと理解して、トウヤは相槌を打てなかった。ハルオミは待たずに続けた。
「あんたの体に入り込んだラティアスの細胞は、血流に乗って転移しあらゆる箇所で増殖して、人間『らしきもの』を作り上げる。じきに全身の細胞が取って代わられるぜ。もっと言や、ポケセンの高速回復装置に入れば、今すぐにでもポケモンになれる」
 一息置き。
「違うな。ポケモンじゃねえ。見た目は人間、中身も人間、だが組成は全てポケモン。不思議な新生命体の誕生だな」
 事の重大さは、彼の厳然とした表情が余るほどに伝えてくる。
 先程面白がって笑いかけた顔のまま、トウヤは、街の雑音が溶け消えていくのを感じていた。入れ替わりに、自分の鼓動のひとつひとつが、やけに耳の後ろに響く。
「……すると、どうなる?」
「調べたんだがな、いるんだよ、過去にもお前みたいなのが。殆どは大戦の負傷兵。だが一人は下肢をわざわざ切断して、大量に集めたミミロルに再生させた物好きだ。そいつの事例は論文になってる」
 今度は、覚悟するだけの猶予を、ハルオミはトウヤに与えた。顔を見上げて告げる。
「二年と持たなかったらしい」
 絶句も動転も絶望もしなかった。
 少し驚いた、ぽかんとした、くらいの表現が、その瞬間には見合っていた。
「死ぬのか」
 咄嗟に問うた声は呆気ないほど平時のものだった。他人事でないならそれは蜃気楼だった。海の向こうという響きに抱いていた遥か彼方のイメージよりも、うんと遠く、日々の暮らしには到底影響を及ばさない場所に揺らめいている。
「あんたの考える『死』とは何だ?」
 そこだけ俄かに怒ったような口調でハルオミは言った。
 その言葉は、強烈に、トウヤのぐしゃぐしゃの芯へと食い込んだ。
「呼吸の停止か。心拍の停止か。それとも脳神経の死亡か。いずれにせよ、生命活動の不可逆的な停止をあんたが死と定義するなら、安心していい、死にはしねえよ」
 自己と肉体が分裂していくらしい、と彼は続けた。
「経験した奴にしか分からねえんだろうな。衝動制御が効かなくなり、さして理由もなく怒ったり泣いたり笑ったり、幻聴や幻覚が現れたり、意識が別の『何か』に取って代わられたりする症状が出たそうだ。一種の精神病だな。獣に蝕まれ、己が己でなくなっていく、と証言してたんだとよ。じきに会話もままならなくなり、最後には発狂して高所から飛び降り命を絶った」
 持ったままだった写真の束をトウヤへ押し付け、一方的に喋って悪かったな、と最後に謝罪した。
 一番上の写真へトウヤは目を落とした。
 西日の入り込む部屋の中でたくさんの見知った顔が笑っていた。
 不可逆的に停止したあたたかい日常がそこにあった。
 ……ハリが。ハリがいなくてよかったな、と、トウヤはまず考えた。考えようとした。あとは、サチコもだ。あの優しすぎる顔によしよしと慰められていたならば、僕は駄目だったかもしれない。
「……面白いな!」
 ぱ、と笑顔を作って、ハルオミへ向ける。寒空の下、写真を仰ぐように振りながら。
「マッドサイエンティストの息子で良かった。楽しめる自信があるよ。観察記録でもつけてみようかな」
「ああ、是非ともそうしてくれ」見たくないものから目を逸らすように、ハルオミは背を向け、早足に歩きはじめる。「あんたみたいな馬鹿が二度と現れないようにな」
 トウヤは後を追った。帽子のつばをぐっと引き下げ、顎を締め、冷たい雪の降る石畳を、乱暴に踏みにじるようにして歩いた。様々な思いが頭をぐるぐるとひしめきあい、結果として、トウヤは今自分がどんな感想を抱いているのか分からなかった。ただ沈黙が怖かった。暗澹とした街の中を、黙々と歩いていくごとに、雑多な感情の向こうに覆い隠されている本物が、その正体を表してくる。
 まだその先を直視したくない。何か喋りたかった。喋って誤魔化したかった。次は。なんだ。何を言うべきだ。何を言えばいい。
「……子供たちには……」
「話すぜ。アズにもな」
 あいつらのためだ。と、ハルオミは寂しい声で言う。



 メグミの眠る回復装置の傍で時間を潰し、日が暮れてから部屋に戻ると、切り刻まれた段ボールが所狭しと並んでいた。下書きに沿って切り、フェルトペンで色を塗り、パーツ同士を組み合わせる。サーカスに使う大道具らしい。子供の工作とはいえ、なかなか良く出来ていた。
「今日、おまわりさんに果物貰ったんですよ」
 ミソラが興奮気味に報告する。公園で練習をしているところに、例の警官が私服姿で現れたらしい。金策の邪魔者で宿敵だが、ただ練習をしているだけで怒られる道理はない。ミソラもタケヒロも身構えたのだが、その人は普段とは違う朗らかな様子で近づいてきた。「お金はあげられないけど」と言って、紙袋に山ほど入ったきのみをくれた。
「追い払うの可哀想だなと思ってたらしくてさ」
 タケヒロが鼻を擦り擦り言う。照れくさそうにしている顔は、どこか誇らしげにも見える。
「でさ、いっぱいあるから、戻ってきたときにセンターの受付の人にお裾分けしたんだよ。そしたら……」
「お菓子をこんなに!」
 ミソラが手で示した場所には、大きな缶詰に入れられた焼き菓子の詰め合わせがあった。彼らの顔はきらきらとして、少し目に痛いほどに眩しい。
「このきのみも食べようかと思ったんだけど、皮が硬くて剥けないんだよ」
「……カムラの実か。珍しいな。ナイフはどこに入れてたか」
 あの果物ナイフですか、とミソラが顔をしかめる。
「ちゃんと洗ってます?」
「当たり前だろ」
 笑い、リュックを漁るのに背を向けた途端、あっさりと作り笑いが剥がれ落ちた。
 今笑えたのは奇跡だと思った。会話の内容はほとんど頭に入ってこない。色々とシミュレートして部屋の戸を開けたが、迎えたのは想定外の展開で、安堵半分、落胆半分というところだった。――ハルさんまだ話してないらしいな。自分で話せと言うことか。
 背中にのっしと体重が掛かる。背後から首を伸ばしてきたものが、頬を頬へと擦り付けてくる。獰猛な甘え声をあげるハヤテ。その斜め後ろには、普段通りの仏頂面で、突っ立って見下ろしているハリ。そういえば、この顔を数日も見ないでいるなんて、出会ってこの方一度もなかった。
「久しぶりだな、ハヤテも、ハリも……」
 上司に怒鳴られている間、どれほどその顔を見たかったことか。
 ……襲いくる情動を、トウヤは飲み下した。不安定さも原因さえ分かってしまえば、制御を常に心掛けることは、そう難しいことではない。柱が揺れるなら支えればいいだけの話だ。地盤が液状化するならば、凍らせてしまえばいいだけの話だ。サーカスに出るんだってな、凄いじゃないか。あはは。言いながらナイフを探り当て、ハヤテをどかして立ち上がる。ハリは不思議そうな目をしてこちらを見上げる。
「子守ご苦労さん。何も問題なかったか」
 頷かない。否定もしない。じっとこちらを見つめている。
 トウヤは耐えきれず目を逸らす。
 ――律すれば済むだけの話なんだ。それでいいのだから簡単なものだ。
 段ボールの端切れの上で刃を入れ、緑色のごつい殻を割る。中から現れる白い果肉を適当に切り分ける。それだけの動作が困難を極めた。もどかしさが五感を増長させるのか、濃厚で甘酸っぱい果物の香、へばりつくような焼き菓子の残り香、独特なインキの匂い。カッターの擦れる音、フェルトペンの鳴る音、ああだこうだと二人の声、些細な物音のひとつひとつ。どれもこれも、精神を圧迫する。天井の明かり。ミソラの眩しい髪色でさえも。
「ていうか、晩ごはんまだですか? 食堂行きます?」
「菓子も食ったんだろ? 相変わらずよく食うなお前は」
「余計なお世話ですよ。行かないんですか?」
「ペラップの見張りが要るだろ」
「いえ、私たち、さっき食べてきたんですよ、二人で。だから……」
 ――きのみやポケモンフードばかり食べていると、本当にポケモンになってしまいそうだ。明日からは考えよう。
 サボテンにも似ているカムラの皮の残骸を、トウヤはぼうと眺めていた。話し相手が話を聞いていないことに気が付いたのか、ミソラは口を噤んで作業に戻った。
 あのペラップは、まだ部屋にいた。ホシナ邸のそばで放してはみたものの、すぐにタケヒロを毟りに戻ってきてしまうらしい。我先にと果実に手を伸ばす子供やポケモンからは離れた場所、部屋の隅で、切れ端を嫌そうな顔で突っついている。
「カナシイ」
 そして時折、思い出したように濁った声を聞かせてくる。
「そいつ、今日ずっと言ってるんだよ。悲しいとか辛いとか退屈だとか」
 何かを拒絶するように首を振り、ぐぎゅるぷと意味のない鳴き声を喉の奥で鳴らしては、身を縮こめて沈黙する。そしてまた唐突に一言喋る。
「ツマラナイ」
「やっぱりここにはおもちゃがないから不満なんでしょうか……」
「文句言うならさっさと帰ればいいのにな」
 一日愚痴を聞かされた二人は既に心配し飽きたらしく、舞台装置の製作へと戻っていく。ポケモン同士で鳥同士のツーにも怪鳥の意図は見えないらしい。視線を向けると首を捻った。
「リナ、そこ踏んだらだめだよ!」
「そのカッター取ってくれハヤテ」
「よーしこれでいいかな」
「お前もっと丁寧に切れよバカミソ」
「タケヒロが細かすぎるだけじゃん」
 がやがやと喋りながら作業を続ける頼もしい子供たちを、トウヤはやはりぼんやりとした気持ちで、しばらく眺めた。
「僕も何か手伝おうか?」
「え? じゃあ――」
「いいですよ、手足りてますから」
「あ……ま、そうだな。お前そっちがあるだろ、イズのボールが」
 そして、こんな考えが起こった――多分、ここに自分がいてもいなくても、思うほど何も変わらないのだ。
 それもそうだな。振り返る。紅白の部品がトウヤを待っていた。必要な細工は終わったし、あとは組み立てだ。切り替えて作業台へ向かう視界の片隅に映り込む、この部屋で一番暗い場所に蹲っているペラップは、輪から外されて行き場のない迷子のようにも見えてくる。
「イキテイルノハ ツライ」
 本人の意思のない独り言は誰に相手にされることもない。
 ――そう深刻に捉える必要はないよ。胸の中で語りかけ、トウヤは黙って腰を据える。
「ん、ハリどうしたの? わあもう塗れたの? すごい上手!」
「お、ほんとだ。さすがだな」
 こっちも褒めて! と言わんばかりにハヤテがギャアギャアと鳴き喚く。うるせぇな、と言って、笑って、段ボールの端で叩き合う。子供の高い声を、あるいは相棒の聞き慣れた声を、一瞬でも、本気で不快に思った自分を、一拍遅れて把握する。そんな自分が恐ろしくなる。
 氾濫する騒音の中で、蹲って世迷言を吐くペラップは、まるで亡霊か何かのようで。
「アサガクルノガ コワイノ」
 馬鹿だな。そんなに思いつめて。
 ドライバーを取ろうとした右手が何か硬いものに当たった。かろんと言って机から転げ落ちたものへ、トウヤは視線を落とした。
 刃も出しっぱなしの果物ナイフ。果汁の乾きかけてぬらついている銀色のナイフ。
 いつか自分の肩口を貫いたそれを、右手がぎこちなく拾い上げる。
 くちばしを翼に突っ込んだままペラップが呟く。
「ウマレタノガ マチガイダッタノ」
 そう病むなよ。
 ……ペラップの声に吸い込まれかけている自分にふと気付く。意識を移した。右手のナイフ。洗わないと。机の上にそれを置く。なるべく刃を遠ざける。遠ざける手が凍えきって震えている。ハルさんの持ってきたストーブのお陰で部屋はこんなに暖かいのに。
「ワタシナンカ イナケレバイイノ」
 もう言うなよ。気を逸らそうとしても、意識は勝手に引き寄せられる。
「ココカラ ニゲダシタイ」
 言ったって仕方ないことだろ。
「キエテシマイタイ」
 言うなよ。
「シンデシマイタイ」
 言うな、
「シニタイ」

「黙れ……」
 と、洩らした音が、やけにくっきりと宙に浮いた。
 ハッと我を取り戻し、慌てて振り返る。みなこちらを見ていた。あんなに賑やかだったミソラもタケヒロも黙り込んでいた。リナもツーもハヤテもハリも。しんと静まりかえった室内で、石油ストーブの火の燃えるごうごうという低い音だけが、むしろ静けさを強調していた。
 心臓が冷えていく。いつから意識が口を突いて出ていたのかすら分からない。
「……すみません」「わり、うるさかったよな。昨日も言われたのに」
「……いや……違うんだ……今のは……」
 無意味な弁明に活気を取り戻す効力はない。気にしないで続けてくれ、と、ぎくしゃくと笑って見せても、しょげさせた顔はおずおずとこちらの機嫌を窺ってくる。
 こそこそ、ひそひそ、と小声で相談しながら、背後で彼らは仕事を続けた。聞こえそうで聞こえないその音がいっそう気に障って、身勝手な疎外感に沈んで、悲しくて、ボールの上蓋とのジョイントを締める小さな螺子は螺子穴に入らず、入れられても、左手で締めようと試みると、支えていられない右手の所以で螺子が抜けてしまう。拝借してきたマスキングテープで仮止めを試みて、上手くいかず、皺になったテープを丸めて屑入れに捨てながら、惨めで、悲しくて、トウヤは一旦目を瞑った。一体何をしているのだろう。ヴェルを死なせて、イズを死なせて、捨てた腕のせいでメグミは死にかけ、アズサに尻を拭わせて、ミソラとタケヒロに金を稼がせて。自分は碌に働けもせず、苛立ちを募らせて、挙句癇癪を起こして空気を悪くする。
 どく、どく、と心臓が鳴るたび、喉に瘤でも膨らむように、息が詰まり、酸素が足らず、視界は濁り、目の前に留めようとする意識は遙か向こうへ引き摺られていく。
 ――死ぬわけじゃない。深刻に思い詰めなくていいんだ。別に死ぬわけじゃないんだから。
『一種の精神病だな』
 ハルオミの声が蘇る。右手に力が入りすぎ、手の内から跳ね飛んだボールの下半分が、作業台を滑って、落ちて、カツンと音を立てる。トウヤが物音を立てるたび、背後に緊張が流れるのが伝わってくる。意識して、なるべく穏やかに見えるよう、落とした部品を拾い上げる。
『獣に蝕まれ、己が己でなくなっていく』
 ――それだけなんだから。死ぬんじゃないんだから。
 急く息を整えようとする。座っているだけで鼓動が早まる。思考はつれて飛躍する。人の形をしたままポケモンになれるだなんて、きっと父さんが聞いたら喜ぶだろう。喜んで運命を受け入れるだろう。あるいはあの人だって、自分の息子が人間でなくポケモンであるならば、もっと愛していたかもしれないし、迎えにだって来たかもしれない。僕自身もそれを望んでいたんじゃなかったか? 人間には辟易して、ポケモンの方がよっぽどマシだって、考えてたんじゃなかったか?
 そうだ。僕は望んでいたのかもしれない。
 少しずつ自分が自分でなくなって。
 じきに訳が分からなくなって。
 ――そもそも、どうして信じ込んでいるのか。トウヤは無理に苦笑を浮かべた。こんなお伽話を信じる馬鹿がどこにいる? ハルさんが真面目な顔をして話すから僕も真面目に受け取ってしまったが、考えてみれば、とてもじゃないが現実味のない話だ。現状に照らし合わせてみさえしなければ、到底信用できるものでもない。……現状に照らし合わせてみさえしなければ。
 長く、細く、息を吐く。ぐらつく認識を取り戻す。
『安心していい、死にはしねえよ』
 そうだ。
 そうだ。死ぬわけではない。
 だから、いいんだ。いいじゃないか。いっそ死んだっていいじゃないか。ずっと死んだような人生だと思っていたじゃないか。十歳以降の僕の人生なんておまけみたいなものだってずっと思って生きていたじゃないか。いつ死んだって別段構わないとずっと思っていたじゃないか。
 ――そのあと、ハリとハヤテはどうなる?
 ――メグミはどうなる?
 ――ミソラはどうなる? タケヒロはどうなる?
 死ぬわけじゃない。トウヤは呪詛のように呟いた。死ぬわけじゃないんだ。口の中で溶かした言葉は誰に聞かれることもなかった。真反対の意味を持って自分へ吸収されていくだけだった。机の上で組んだ手へ、その右手の一点へ瞠目し、うわ言を繰り返すトウヤの異変に、まだ誰も気がつかない。怖くはない。何も怖くはない。だって死ぬわけじゃないんだ。自分を救ってくれたメグミの分身に巣食われるなら何も怖れることはない。死ぬわけじゃないんだから。死んだって構わないんだから。
 ――右腕を。
 ――右腕を、元の位置で切り落とせば。
 知らぬ間に右手を伸ばしていた。恐ろしい発想が湧くと分かって一度遠ざけた果物ナイフを左手に持ち替えて握りしめていた。ハルさん血流に乗って云々と言っていたな。多分切り落としたところで手遅れなのだろう。僕はこのまま人とも獣ともつかない何かになっていくのだろう。だが、せめて元凶を切り落としておけば。少しでも長く保てるだろうか。
 正気を保っていられるだろうか。
 僕のままでいられるだろうか。
『人に優しい子に向かって、運命は、それほど残酷な仕打ちはしない』
 いつかの父の声。
『だから、この子は』
 息を止める。光を塞ぐ。
 左手を素早く振り上げる。




 ――――ッ!




 大きな音がして、ミソラは肩を跳ねさせて振り向いた。
 トウヤは座っていた。背を丸めて座っていた。項垂れて、拳を叩きつけたような格好をしていた。力の篭った左腕は、遠目にも分かるほど、ガクガクと激しく戦慄いている。
 左手が何かを握っていた。それはあの果物ナイフだった。
 ナイフの刃は、垂直になって、作業台へと突き刺さっていた。
「……ははは……」
 彼は三つ、力無い笑い声を漏らして、ずるりと脱力し、ナイフの柄から手を離した。
 心臓を鷲掴まれたまま、ミソラは黙っていた。タケヒロも黙っていた。ハリが足の上に乗せていた端切れを跳ね飛ばすようにして立ち上がり、トウヤの隣へ駆け寄って、背中に手を添えて顔を覗き込んだ。
「やめてくれ」
 あまりにも状況の悪いときに、もう笑いしか出ないような、そんな言い方で、トウヤはハリから顔を隠した。机に顔を伏せ、何もかも拒絶するように頭を抱えた。
「や、やさしくしないでくれ……」
 朝日に掻き消される六等星のような、消え入りそうな声だった。
 驚き怯えていたハヤテが、恐る恐ると近づいて、顔を寄せる。頬を舐めようとする。リナがハヤテの後を追い、興味本位のように横から見上げる。ツーは近づこうとしなかった。それが慰めにならないことを彼は多分理解していた。タケヒロがこちらを見るのがミソラには分かった。助けを求めるような目でこちらを見つめるのが分かった。ミソラはトウヤの背中から目を逸らさなかった。殺したかったはずの人の、弱り果てた背中から、苦しくても目を逸らさなかった。
 ハリが、その背を、ととっ、とん、とん、と、変なリズムで叩いた。
 ミソラはトウヤの弟子だったから、教えを乞うたことがあったから、その意味をすぐに理解できた。
「……『宿り木の種』」
 ぽつんと呟く。
 それだよ、と、タケヒロが弾かれたように顔を戻した。
「なあ、頼りにしてるって言ったよな、俺のこと。お前ちょっと変だぞ、何かあったなら話してくれよ、俺たちアズサにも言われたんだ、お前のこと支えてやれって」
 タケヒロが身を乗り出して訴える。
 男の両手に力が篭り、ぐしゃ、と短い髪の毛を掴む。
 隙間風のような音を立てていた呼吸は徐々に落ち着きつつあった。のろりと身が起きる。背を向けたまま、ごめんな、と、彼が言う。信じられないような悲愴な声で。
 ミソラはその顔を見たくはなかった。
 そんな顔をする彼を許せなかった。
「あの、私、もうあなたのこと、ちっとも頼りにしていませんから」
 許せない。勝手に弱るなんて許せない。だって、あなたは、強くあってくれなくてはならないのだ。そうでなければだめだ。僕があなたを殺せないのは、あなたが強すぎて、僕の今の実力じゃまるで歯が立たないからだ。それが弱ってくれてしまえば、すぐにでも、使命を果たさなければならなくなる。
 だから、敢えて辛辣な、けれど静かな口調で。
「……いえ、まあちょっと言い過ぎましたけど、頼りにしようと思ってはいませんから……別に、いてもいなくてもやっていけますけど、いなくなったら困るんです、だから」
 ミソラは憧れた背へ語りかける。

「もう少し、信じてくれませんか。私たちのこと」

 負けないと言った。
 負けないからな、と言ったではないか。

 呼吸に上下していた肩が、動かなくなるまでの、長い長い間があった。
 トウヤが体に力を込めるのが分かった。三回くらいそうして、四回目にようやく立ち上がって、こちらへ振り向き、二歩三歩段ボールを避けて歩いて、ミソラの目の前へと座り直した。ミソラは正座をし、隣に戻ってきたリナがちょんと腰掛け、タケヒロも背筋を伸ばして、その横にツーがやってきて翼を畳む。トウヤの右手にハリ、左手にハヤテ。
 毅然と双眸を構え、唇を引き結んだ男は、青白いが存外に強い顔をしていた。
 だが、もう短くはない付き合いだ。ずっと寝食も共にしてきた。大人のくせに案外泣き虫なのも分かってきた。その表情が、そう長くは続かないことを、ミソラは何故か予期していた。だから、張り詰めた心が破れる瞬間を、その直前の瞬間を、ミソラは目の裏に焼き付けた。自分が憎むべき男の顔を、絶対に忘れないように。




 ――あんたの考える『死』とは何だ?




「死ぬかもしれない」

 それが、決して科学者ではないトウヤの、出せる唯一の答えだった。


とらと ( 2019/12/28(土) 20:39 )