月蝕


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月蝕
13−5

 お仕事おつかれさまです。
 いいお知らせです。きのう、ヒビのしち屋さんには全部ことわられたと書いたのですが、前に行ったトレーナーグッズのお店で、ひとつ買い取ってもらえました。王かんみたいな形の、さびてるものです。お店の人にはことわられたんですけど、見てたトレーナーのお客さんが買ってくれたんです。ちょっとですが、足しにはなると思います。
 あのお店の、すごく高いへんなあめは、やっぱり売れのこっていました。あんなねだんじゃだれも買わないだろうなあと思いました。
 今日もるり子ちゃんとあそびました。ポケモンの形の雪だるまを作りました。たけひろはチリーンの形の雪だるまを作っていたのでずるかったです。たけひろはるり子ちゃんといると、ずっとでれでれしっぱなしです。たけひろにはないしょにしてください。
 きのうるり子ちゃんにあげたリードとすずを、返してもらおうと思ったんですが、ビッパが気に入ってしまっていたので、そのままあげることにしました。
 今日はカレーライスを食べました。ソーセージとかパスタとかポテトとかを乗せて食べるとおいしいです。まねしてもいいですよ。



 よかったですね ムダ使いしないこと
 あまり遠くまで行かないように!





 お仕事おつかれさまです。
 お金あつめ、じゅんちょうではありません。道路に商品をならべてお店を開いてみたのですが、またおまわりさんにおこられました。ピエロをするのもやっぱり見つかるのでだめです。おまわりさんという仕事の人はいっぱいいて、すぐに見つけにきます。ヒビでたけひろみたいなすて子がどうやって生きてるのかふしぎです。
 たけひろイライラしてます。おまわりさんとけんかしそうになりますが、ツーが止めてくれるのでなんとかなっています。るり子ちゃんといるときはいいかっこするので(書いた文字をぐしゃぐしゃと塗り潰した跡)おもしろいです。わらえますよ。これもないしょにしてください。
 今日、町でイーブイ見ました! うらやましいでしょ!
 サーカスのお話を考えています。はりとはやてが本当にステージに出ることになりそうです。はやてはゆうしゃが乗る馬の役で、はりはまおうの役です。ゆうしゃはわたしです。でもまだ考え中なので、かわるかもしれません。
 今日、カレーライスにゆでたまごを乗せて食べました。さち子のうんだたまごらしいです。すごく大きくておもしろかったしおいしかったし、おなかいっぱいになりました。たのんでみたらいいと思います。ごはんちゃんと食べてます? どうせまたすききらいしてるんでしょ?



 ごめんな
 サーカス見てみたいです がんばれ





 今日は、公園でくつみがきをして、たくさんかせげました!
 ハルさんとさち子がいつもよくしてくれます。はりとはやてもいい子にしてます。えんぎもうまいです。
 こっちのことはぜんぜん心配しないでください!
 今日はカレーライスにホイップクリームを乗せて食べました。けっこういけますよ!



 明日早めに戻る できれば……
 (「ホイップクリーム」の部分に下線、矢印を引き)
 ?





 ――たくさん稼げたというのは嘘だった。
 ノートいっぱいに日記らしきものを書き付けるミソラに、ある晩「そんなに書いたら読むの疲れるんじゃないか?」とタケヒロが言った。「あいつも疲れて帰ってきてんだろうし長いと大変なんじゃねえの」と。読み書きのできない彼に、タケヒロが思ってるほど読むのって疲れないんだよ、と意地悪く言ってはみたものの、重石みたいなショックにずしんと打ちのめされたのは事実だった。うまくいかない日常にカリカリして、そうかと思えば妹にデレデレしているタケヒロは、自分などよりきちんと周囲を見て、他人のことを慮っていた。
 短い返信の中に「ごめんな」と「がんばれ」を見たとき、ミソラはなんだか泣きそうになった。ミソラはそれが欲しかったのだ。ひたすらに自分の気持ちだけ押し付けて、慰めの言葉を引き出したかったのだ。なんて子供なんだろう。いつまで子供をしているのだろう。その夜は、今までで一番短い日記にした。言いたいことをすべて封じ込めれば、少し大人になった気がして。翌朝書き込まれた返事を見て、ちっとも大人になりきれていないことを実感して。
 トウヤのいない世界は、その間にも、なんだか思いがけないくらいに、滞りなく流れていった。
 今となっては恥ずかしいし、あの頃の心酔っぷりを思うと我ながら反吐が出そうになるが、ミソラはトウヤのことを月みたいに思っていたときがある。それを話してみたことすらある。記憶を失った、真っ暗闇のミソラの空に、ぽつんと灯った柔らかな光。温かな光。優しい光。お日様のように明るくはない、熱くもない、薄らぼんやりとした光は、ずっとミソラの傍にいて、安心して眠れるだけのあたたかさで、ミソラの在り処を照らしていた。
 でも、多くの人々は、月が雲に隠されているとき、それを気にも止めないだろう。もしこの世から月がなくなったとしても、気付きもしない人もいるだろう。
 トウヤがいない間、彼を置き去りにして、世界が進んでしまうような気がした。反対に、目の前の虚空にいない人のことを思っているミソラの方が、世界から取り残されていくと感じるときもあった。どちらにせよ確かなのは、ミソラの方も、世界の方も、トウヤが一人いなくなったところで、きちんと成立するということ。
 自分だって、太陽の眩しさの中にいれば、いつかはあの所在なさを忘れてしまう。
 ぽんぽん、と肩を叩かれる。曇り空のどんよりをぼうと見上げていた視線を下ろすと、月が二つ浮かんでいた。ノクタスのハリは、被り笠の下の影から、ミソラのぼんやりを見つめている。
「あ……ごめん。大丈夫」
 こくりと頷くハリの目がなんだか寂しそうに見えた。
 そうだね。何も、僕だけが会えないのではない。
 手を伸ばし、被り笠を撫でる。植物の体は冷たかった。月色の瞳がぱちくりする。
「……よし、決めた!」
 金策の案も尽き、口をへの字にして黙り込んでいたタケヒロが、急に膝を叩いて立ち上がる。小雪のちらつく昼下がり。
「服のことは、もうやめにしようぜ」
「いつもの服で出るってこと?」
「結局は中身だろ。第一印象なんて、すぐひっくり返せるさ」
 そう言って肩をグルグル回しながら、白と枯れ草のモザイクになっている芝の方へ歩いていく。ツーがひらりと舞い上がり、ギャオギャオ言いながらハヤテもその背を追っかけた。
「だよね」
 ミソラも立ち上がろうとしたが、なんだろう、うまく力が入らない。
 行き止まりで途方に暮れていても、何もはじまらない。分かってはいるのだが。
 想像した。黄ばんで継ぎ接ぎで裾のほつれた、いつもの勝負服で、スポットライトを浴びるタケヒロを。真っ黒いたくさんの顔が、一対の白抜きの目を、一斉にタケヒロへと向けるさまを。靴磨きの道具を並べておろおろしていた自分たちに向けられた、あの不審な目、あの憐れみの目、あの嘲笑のような目が、壇上に突っ立って震えるタケヒロを、貫いて、蜂の巣にしていくさまを。
 ――見え透いた結末を想像すると、どうしても堪らない気持ちになる。
 ヒビに来てからはじめての夜に、負けないからな、とトウヤが言った。負けたくない。ミソラだって負けたくなかった。タケヒロを馬鹿にしたあの家政婦を、タケヒロを捨てたあの家を、どうしても見返してやりたかった。そして、負けなかったんです、と、トウヤに言ってやりたかった。だけど、僕らは足掻けば足掻くほど、とりもちにへばりつく溝鼠みたいに、無様であることの自覚を深める。無様で、無力だ。あの人たちの前でタケヒロは恥をかく。分かっているのに、もう止めようもない。子供の僕にできることなんて、何もなかったではないか。
 ――本当に何もなかったのか。
 僕にできることは何もないのか。
 隣に座っていたリナが、んみゅ、と声をあげる。片耳を震わせ、小首を傾げ、後脚でひょいと立ち上がる。ミソラの緑色のレンジャースーツを、ちょいちょいと爪で引っ掛けた。
 はたとミソラは視線を下ろした。ミソラの注意を引いたことを確認してから、リナはひょいと何かを指差した。その方向へ碧眼を向ける。

 ペラップがいた。

「あっ!」
「えっ?」
 背後でタケヒロが振り向いた瞬間、ばっ、とペラップが翼を広げた。青に黄に緑、冬景色に悪目立ちする色彩が面積を増して更に派手になる。それはそれとして、すごぶる機嫌の悪そうな顔だぞ、と多少怯んでいるうちに、青と黄は顔の横をものすごい速さで突っ切っていった。意外と大きく力強く、髪がぶありと風圧で広がる。
 レモンイエローの鉤爪が、がっちりと黒いものを掴んだ。
 それはタケヒロの頭だった。
「あっいっで――!?」
 そして猛烈な勢いでタケヒロの頭を小突きはじめた。
「なんだこいつ!? むっ毟るなァ!」
 悲鳴が轟く。頭髪を嘴で挟んでは引き千切り、音符型の頭を振って吐き捨ててはまた毟る。ペラップは執拗だった。恨みがましく繰り返した。あまりにも唐突で意味不明な光景に、ハヤテも、相棒のツーも、完全に傍観に回っている。
 りんりんりん。耳馴染みする鈴の音。ビッパがやってきた。やはり五匹、いつの間に力まずとも立ち上がれていたミソラの足にわざとらしく擦り付きながら、よちよちよちと歩いていく。暴れるタケヒロとペラップの方へ。
 ということは。
「やっぱりルリコちゃんちのペラップだよね……」
「なんだよ、お前、やめろ、俺の髪の毛は巣材じゃねえぞ」
「もしかして逃げてきちゃったの?」
 とすればビッパたちは共謀者か。ルリコはまだ学校の時間で、ルリコが学校に行っている間は、ビッパたちはお屋敷にいなければならないはずなのだ。
「どうしよう、捕まえた方がいいのかな」
「あいででで! 禿げる禿げる!」
 だがあの家のポケモンに攻撃を加えるのは流石にマズイ。救援信号を出すミソラに、おっバトルか? とノリノリで臨戦態勢を取りかけた三匹を制して、のそりとハリがやってきた。無言でミソラの右腕を示す。
 そこには借り物のキャプチャ・スタイラーが嵌っている。
「でっでもっどんな気持ちを伝えたらいいの!?」
 ばたばたと無闇に足踏みしながらミソラは思索を巡らせる。キャプチャ・スタイラーはポケモンに気持ちを伝える道具だ。何らかの気持ちを伝え、同調させて、ポケモンの興奮を鎮める道具。キャプチャを試みるときは、ポケモンの気持ちを想像して、そこに無理なく馴染ませるような感情を表に出していくことがコツなのだと、アズサが言っていた。なかなか難しいが、半目の不機嫌ヅラで髪の毛を毟っているペラップに「あのー突然ですがお友達になりたいのですが」と持ちかけることの無謀さは、流石のミソラにも分かる。
「ええと、ペラップはストレスが溜まってるんだ」
 まずは相手の事情を想像するところから。だからって何で俺の髪を毟るんだよ! タケヒロが叫ぶ。
「そりゃそうだよね。分かるよ。だって、ペラップって音符ポケモンって呼ばれてるし、『おしゃべり』っていう技を生まれたときから覚えてるくらいおしゃべり好きなポケモンで」
「ウンチクはいいって!」
「それなのに喋れないように手術しようなんて本当にひどすぎるよね? 僕もそう思う!」
 とりあえず味方アピールをしてみる浅はかな作戦である。
 だが、ペラップは、タケヒロに怨念をぶつけるのをやめた。顔を上げ、せわしく首を傾げながら、訝しむような目つきでミソラのことを見つめはじめた。
「ペラップ、可哀想だね。舌を切られて。痛かったよね。それに、聞いたんだけど、本当のトレーナーは君を置いて逃げ出しちゃったんでしょ? ひとりにされて寂しいよね」
 ミソラの語りかけに聞き入ってくれているのか、ペラップの動きが落ち着いてきた。それに合わせてミソラの集中も高まってくる。足元で入り乱れているビッパたちの動きも最早視界に入らない。
 そうっと、そうっと、ミソラは右腕を掲げはじめた。狙いがぶれないように、左手を右肘のあたりに添える。
 相対して、中腰の姿勢で微動だにせず目をかっぴらいているタケヒロは、そうっと、そうっと、両手を頭の高さへと運ぶ。
 ポケモンたちも固唾を呑んで見守っている。犯人の降伏は目前だ。
 最後の殺し文句を用意しながら、射出スイッチに指をかける。
「それにさ、あんな小さい鳥籠の中に、入れられっぱなしの生活なんて……」
「タイクツ」
「だよね。だからさ、僕たちと友達に……」
 え?
「え?」
 この声はタケヒロ。
「ハァー! チットモタノシクナイワー」
 この、潰れた鍵盤ハーモニカに口がついて喋り出したみたいな声は。
「ええっ!?」
 ミソラは驚きのあまり射出スイッチを押してしまった。ペラップはものすごい早業で羽ばたき飛び上がり、とっ捕まえようとしたタケヒロが猿のオモチャみたいに頭上で手を打ち合わせ、そのタケヒロのおでこの真ん中に、高速回転するキャプチャ・ディスクが突き刺さった。
「あでっ!」
「ごめん!」
「イイノヨ!」
 がばっと空を見上げる。
 冬の昼下がりの曇天に、能天気な青空の翼を翻しながら、怪鳥はくちばしをぱかぱかさせる。
「タイクツキラーイ、オモシロクナーイ、マイニチマイニチツマラナーイ」
 まばらな残雪の彩る地上に、間抜けを並べて晒しながら、二人はくちびるをぱくぱくさせる。
「……しゃ……」
「しゃべった……」
「ニゲダシターイ!」
 ばっさりと翼を振るうと、楽しげに身を反転させて、ペラップはぴゅんと飛んでいった。街路樹の向こうにカラフルな色彩が遠のいていく。よちよちよちよち! と短い手足の動きを速めて、ビッパたちがそれを追いはじめた。りんりんりんりん! 遠ざかる鈴の音。
「……」
 ミソラが。
「……」
 タケヒロが。
 ぎくしゃくと、驚愕の瞳を見合わせる。
「……ええっと……とりあえず……追うぞ!」
「う、うんっ!」





「逃げんなよ!」
 と恫喝しながら、問答無用で繰り出された『メガトンパンチ』の一撃を、彼は言われた通りに受け止めた。左の頬で。
 男らしさにも様々あるものだな、と、ゼンは密かに感心する。あれだけ予備動作の長い、しかも女性のパンチごとき、正直簡単に避けられる。なんなら片手でいなせてしまうだろう。イチジョウはどちらもしなかった。助走から殴り込まれる部下の本気の右ストレートを、指示どおりにその場で待って、指示通りに顔面に受けた。結構な音がした。頭はもげたんじゃないかというほど衝撃に振れたが、肩から下の部位はまるで微動だにしなかった。平然とした様子で、スムーズに顔を正面へ戻した。絶対に痛いに決まっているのに、どこからどう見ても「痛くも痒くもない」完璧な無表情で、泰然自若と見下ろした。
「上司を殴った理由を説明しろ」
 そして冷静に問う。そっちの方が痛そうに右手を振っているミヅキは、間髪入れずにこう応える。
「腹が立ったから殴りました」
 ――ヒビより北方に百キロ程度の地理。リューエル本部、実務部棟四階、第七部室手前廊下。急峻な谷間に構えられた本部はとても景勝地とは言えず、特に冬場は寒く薄暗く、四階から眺めても味気ない殺風景が広がるばかりだ。初めて本部にやってきたエトは施設のボロさにそこそこ驚いていたが、今はそれ以上に顔を引きつらせきっている。知り合いが特に理由もなく知り合いを殴れば、引かない奴はいないだろう。
 イチジョウ、アヤノら本隊の面々との再会は、キブツでのミーティング以来となる。ココウで行われた特別作戦――ラティアス奪還を目的とした第一部隊との合同任務の顛末はこうだ。ターゲットはラティアスを所持したまま逃走。所在不明。任務失敗の責任を負わされるイチジョウの処分は決まっていないが、過去の事例と第一部隊長キノシタの激憤を鑑みるに、隊長の座を降ろされることは確実な状況。
「理性的でないな」
「じゃあ隊長は理性的に説明できるんですか? 私をキノシタから庇った理由を!」
 そして、事の発端とも言える情報提供者のミヅキは、イチジョウの命令により、遠く離れたハシリイでフジシロカナミと喧嘩をしていた。任務そのものには関わっておらず、失敗の責任を追及されることはない。
 イチジョウは今回の特別作戦における勝算の低さを見抜いていた。第一部隊長キノシタがミヅキをよく思っておらず、問題が起こった場合は責任をなすりつけて失脚させようという目論見のことも。そして、本人に何ら説明することなく代わりに泥を被ったイチジョウに、ミヅキはひどく憤慨している。
「アサギも!」のっそりと間に割り込んでくる小山のようなバクフーンにも、ミヅキは平気で食ってかかる。「アサギがいながらどうしてトウヤを取り逃がしたの? 有り得ない。まさか情に流されたんじゃ」
「やめないかミヅキ。アサギはちゃんと指令通り、発信機をつけた逃亡者を追い詰めたんだ」
 いつもの朗らかさで宥めに入ったアヤノが「それはターゲット本人ではなかったがね」と続けると、剣先のような目でミヅキを見下ろしていたアサギが、またのっそりと身を引いた。
「向こうもなかなかしたたかでね。協力者に発信機を持たせて逃げ回らせていたらしい。発信機の存在に何故気付けたのかは疑問だが」
「協力者、って、そんなの……」
 ミヅキは憎々しげに何か言いかけ、チラリとゼンを見た。会話が途切れるタイミングを待っていたかのように、エトが一歩前に出る。
「あの、トウヤは? キブツにいたってことは、一応無事ってことっすよね」
「そうだね。第四部隊の子が彼らしき人物を目撃してる。行方だが、テレポート便の店主の口を割らせるのに難儀しているそうだよ。どうもポケモンレンジャーの息がかかっているようで」
「ならテレポート便の支店のある街をしらみつぶしに探せば」
 ミヅキの提案を、アヤノは一笑した。
「そこまで労力を掛ける価値を本部が見出すかは怪しいね。どの部隊も日程カツカツだし」
「負けっぱなしで終わらせるってこと?」
「それとね、ミヅキ」
 柔和な表情のまま、眼鏡の奥だけで、アヤノは鋭く空気を操る。
「俺たちが追ってるのは『トウヤ』じゃない。『ラティアス』だ」
 ぐっと顎を引き、負け犬の睨みつけるようにして、ミヅキは押し黙った。
 本懐を看破され、僅か項垂れる女の姿を、ゼンは物珍しく思う。一度、「ミヅキは君の手に負える相手ではない」と、アヤノに忠告されたことがある。それはあながち間違いでもなかった。ゼンはこの十余年の昔馴染みのことを、容易だなどとは一度たりとも思えた試しがない。だがどうだろう。ミヅキをミヅキたらしめる、因縁の弟に対する長く語られなかった感情は、ラティアスという契機が生まれ、カナミという炎に当てられ、じりじりと炙り出されてみれば、何も難解なところはない。気にくわない弟に出し抜かれたから悔しい。そのまま見逃してやるのが悔しい。それを見破られて恥ずかしい。これだけのことを恐れていたのかと拍子抜けしてしまうほど、それはありふれた執着だ。リューエルでの彼女を現在の地位まで育ててきた、幼稚なまでの、『負けず嫌い』のその本分……、
 いや。
「でも……このままじゃ……」
 ミヅキが呻く。
 違うな。ゼンは眉を上げた。
 この女が、十三年も「いないもの」として葬ってきたポケモン殺しの弟への氷漬けの感情が、そんなに愛らしいものであるものか。
「確かにな……」
 と、唐突に、黙っていた男が口を開いた。
「なるほど。俺は、自分の行動を、理性的に説明できないかもしれない」
 最初にミヅキに吹っかけられたことを、律儀に考えていたらしい。顎に手をやり悩んでいたポーズを解くと、イチジョウの目は、正視するにはあまりにも実直だった。そのあまりにも実直な目で、彼はまっすぐにミヅキを見た。
「お前を庇おうと思ったのは、理性ではなく、俺の本能がそうさせたということだ」
 それだけ言うと、何事もなかったかのように歩きはじめ、アヤノの横を過ぎ、ミヅキの横を通り、口をあんぐり開けているエトとゼンの間を通り、すたすたと歩いていってしまった。
 一拍遅れて、ミヅキは振り返り、彼の去った方へ視線をやった。
 沈黙が流れる。気まずい沈黙が流れる。エトが大きな目を瞬かせ、顔にぽぽぽと紅を灯らせ、わななく唇を噛み締めながらゼンを見上げ、興奮の共有を求めてきた。ゼンはゆっくりと首を振った。その発言の熱烈さに、多分イチジョウは気付いていないだろう。熱烈を向けられた本人も、気付いているのか、どうなのか。
 ミヅキはぽかんとしている。
 長い廊下の向こう側へ遠ざかっていく背中だけを、美しい虹彩に映している。
 ひゅう、と、アヤノが冷やかしを吹いた。その音だけが、季節外れの蝶みたいに、居た堪れない廊下をひらめいた。





 あの借り部屋の前に、無人の室内と対面し途方にくれている男を見つけて、ミソラは今更に思い出したのである――「早く戻る」という魔法の言葉を、あんなにミソラを安心させたあの一言の存在を。
「トウヤ兄ぃ!」
「捕まえてください!」
 だが感動の再会どころではない。
 振り向いたトウヤの顔面に――凄まじい勢いで激突した尖った部分が、目玉に刺さらなかっただけ幸運だった。
 ほんの短い絶叫が廊下にわぁんと反響した。不意打ちにぶん殴られ受け身も取れず彼は見事にひっくり返り、後頭部をしたたかに打ち付けた。その一メートル先に宵闇に不似合いな騒々しい色彩がどしゃんと落下する。もがいている。しめた!
 鬼の形相をした子供たちが全速力を振り絞る。どちらも満身創痍。これが最後のチャンス。
 茫然自失のトウヤの脇を瞬く間に素通りし、ウリャア! と飛びかかる。柔らかな感触を捉える。捕まえた! カラフルはじたばた暴れ、ぎゃあぎゃあ言いながら必死に取り押さえる。ぎゃあぎゃあ言いながらゼエゼエ言っている。絶対に逃がさない。死んでも離すものか。今日の午後という貴重な時間を根こそぎ費やした捕獲劇が、今まさに完結しようとしている。
「お、おい……」
 額を抑えているトウヤが、ひっくり返ったまま、困惑に満ちた声で呼ぶ。
「あ、お久しぶりです!」
 ミソラは顔を上げた。こちらは歓喜に輝いている。
「元気だったか!?」
 タケヒロも顔を上げた。こちらも充実感満載だ。
「……なんだよ、意外と平気そうだな……」
「やべえ来る!」
「耳を塞いで!」
 かと思うと二人とも急に床に伏せ、両手で両耳に蓋をした。
 腹の下から顔が出た。音符のとさかが跳ねて出た。当然ながらペラップはめちゃくちゃに怒った顔をしている。それとばっちりご対面したトウヤが、あ、と腑抜けた声を漏らした。ひっくり返ったまま。
 極彩色のくちばしが開き、すうっ、と息を吸い込んだ。
 ペラップの『ハイパーボイス』!



 ……久々に顔を見ればこみ上げるものもあると思ったが、そんなこんなで、再会の喜びなどとは程遠い彼らの現状である。
 リナとツーは戦闘不能、ハヤテもボロボロ、ハリですら相当にダメージを負わされた。ミソラごときが言うことを聞かせられないのは無理もない話だ。その点、キャプチャの効果は絶大で、三人がかりで室内に追い込んだペラップを小一時間かけてキャプチャ完了し、「一日良い子にしておいてね」と命じれば、今やペラップは部屋の片隅で『見えない籠』の中の鳥。
「やっぱり逃げたいのかな、それとも本当のご主人のところに帰りたいのかな。どっちにしろ急に野生にって大変そうだけど」
「待てよ、ルリコのところに返してやるべきだ」
「ペラップ可哀想じゃん、せっかく逃げられたのに」
「ルリコだって可哀想だろ、ただでさえ遊び相手いねえみたいなのにその上ペラップに逃げられて!」
 身内のポケモンたちはポケモンセンターの人にお願いして回復装置とやらに入れてもらっている。閉店間近の食堂で急いで晩飯を詰め込み、パンとリンゴを手土産に急いで帰ってくると、トウヤはペラップと一緒にポケモンフードを食べていた。いや、ペラップの方は足元にペレットを並べられているだけで、口をつけようともしていない。
「ペラップがルリコちゃんに閉じ込められたままでいいって言うの?」
「そうは言ってねえだろ、ルリコとペラップが仲良くできるようにすればいいじゃねえか」
「どうやって」
「今から考えるんだよそれを」
 捕まえたのは成り行きで、何故捕まえるのかと、捕まえたあとどうするのかは、まるで考えていなかった。ただでさえ厄介な状況なのに、更なる厄介ごとをわざわざ引き込んだようなものだ。
 はぁ、と溜息をつきながら、ミソラはちらりと横を見た。
 トウヤはこちらに背を向けて座り、長机に向かってカチャカチャと音を立てている。モンスターボールの部品が転がる卓上には見慣れぬ工具が増えていた。ミソラたちが寝ている間、毎晩ひとりでこうなのだろうか。
 およそ六日ぶりに見た彼が、特別変わっているということはない。ただ、この部屋でタケヒロと二人でいることに慣れてしまっていたせいか、そこにトウヤの座る光景には、妙な違和感が付き纏った。違和感は気恥ずかしさとなってミソラの喉を絞める。日記ならいくらでも話したいことが浮かんでくるのに、いざ目の前にすると、なんともしおらしいものだった。
「……あなたはどう思います?」
「何が?」
「ペラップを逃すべきか、帰らせるべきか」
 少し黙ってから、「そもそも……」と背を向けたまま彼が言う。
「こいつが逃げ出してきたって言うお前たちの前提が、絶対に正しいと思い込まないことだ」
「どういうこと?」
「室内飼いのポケモンが何かの拍子に家を飛び出してしまって、そのまま迷子になって戻れなくなる、なんてのは、割とよくある話だよ」
 子供らの視線がペラップに集まる。傍若無人な飼い鳥は、知らぬ顔で身繕いしている。
「言葉を喋らないポケモンの考えなんて基本想像するしかないし、正確には分かりっこないだろ。そうなると、どうしても人間の都合のいいように解釈しがちだってことは、意識しといたほうがいい」
「でもペラップは、実際に喋ったんですよ。逃げ出したーい、って」
 工具を置くと、トウヤはこちらへ振り向いた。
「おい、お前」
 ひらひらと手を振って見せる。大人しくてもまるで可愛げのないペラップが、鬱陶しそうに目を向ける。
「僕の言うことを真似できるだろ」
 一拍、不可解な沈黙が流れた。
 それからペラップがくちばしを開いた。
「ボクノイウコトヲマネ……ボクノイウマネ……」
 あのへしゃげたハーモニカが聞こえてくる。おおっ! 子供たちは身を乗り出した。
「すげえ!」「喋ったあ!」
「シャベッタァー」
「あは! これ楽しい!」
「タケヒロって言え、ほら、タケヒロって」
「タケヒロッテイエ! タケヒロッテイエ!」
 目を輝かせて興奮する子供らの間から、トウヤが首を突っ込んでくる。
「家に帰りたーい」
「イエニカエリターイ!」
「な。これを聞いて、こいつが家に帰りたがってると思うか?」
 したり顔が引っ込んで、作業台へ戻っていく。ミソラはタケヒロと顔を見合わせた。イエニカエリターイ、イエニカエリターイ、と棒読みのペラップが繰り返す。その音が重ね重ね耳へ捻じ込まれていくたびに、なぜだろう、妙に気持ちが沈んでいった。するともう、昼間からあんなに魅力的に映っていたペラップが、まるで別物みたいに、つまらないものに見えるのだ。
 ルリコがペラップを黙らせたくなった気持ちが、分かりたくもないのに、ほんの少しだけ分かる。うんときらきらして見えてどうしても欲しくて手に入れたものが、手のひらに乗せてみるとただの汚い石ころだったら、その分落胆の幅も大きい。
「明日、家の近くで放してやったらどうだ。単に迷子なら戻るだろうし、逃げたいなら逃げるだろ」
「あ、そっか。そうですよね……」
 トウヤの言葉は実にそっけない。彼は落胆には駆られなかったのだろう。それは彼が大人だからだ。
 大人というのはこうなのだな、と、ミソラはなんとなく思った。大人は大回りしないのだ。いつも近道を知っている。大人というのは、子供の自分たちがあたふたと言いあって駆けずりまわって時間を浪費してやっと指先で触れられる答えを、あっという間に摘みあげて、いとも簡単に差し出してくる。それは羨ましくもあるし、自分の矮小さと比較して悲しい気もしてくるし、「卑怯だ」という理不尽な感情も湧いてくる。
「でも、もし逃げたら、ルリコが……」と、タケヒロが言いかけて、止まる。どことなく拗ねたような様子で、ペラップから顔を逸らす。「なんでもない」
「……それより、サーカス団の方はどうだ? 順調か」
 打ち合わせたように子供は口を開かない。なぜか相談しようという気は起きず、胸を張って披露できる成果は、何も持ち合わせていなかった。
 二人の浮かない顔を見て、何か得心したように、彼は少し眉を下げた。
「ごめんな。何もしてやれなくて」
 作業台の電灯を消して、風呂に行こう、と立ち上がる。
 シャワーを浴び、洗面所で歯を磨いて帰る。タケヒロと二人で当たり前に行っていた動作が、三人になると何故かぎこちない。話題はトウヤの仕事の方に流れた。白衣を着て実験してるんだよ、とトウヤは苦笑いしながら言った。研究者ごっこみたいで楽しい。確かに彼は、研究者になるのが夢だったと、昔語っていたことがある。
「大変なのかと思ってました……」
「なんだよ、心配して損したよ」
「心配してくれてたのか? 悪かったな」
 左手で、タケヒロのボサボサ頭をグシャグシャ撫でる。俺は子供じゃねえんだよ、とタケヒロは首を振った。それは多分、タケヒロの本心の声だった。
 斜め後ろを歩きながら、頭の中で、ちりぢりに浮かんでいたものが、ゆっくりと寄り集まっていくのをミソラは感じていた。ずっと会いたかったのに、話したいことが見つからないこと。悩み事を解決されると何故かやるせない気持ちになること。小さな違和感の結晶は、たくさんの異物を巻き込みながら成長し、なのにひどく純粋な色をして、ひとつの結論を形作る。
 ――自分も、タケヒロも、おそらく、トウヤがいなくてもやっていける。いや、そうありたいと願っている自分がいる。
 隣を歩きながら、自分を撫でてくれるなと、ミソラはこっそり念じていた。早く大人にならなきゃいけない。頭を撫でられなんかしたら、その決意が鈍ってしまう。
 部屋に戻る。ペラップは翼に顔を埋めるようにして眠りつつあった。僕らも寝るか、と言って、トウヤは作業台の方に向かっていく。
「いつも何時くらいに帰ってきてんの?」
「このくらいの時間だよ」
「このくらいの時間なら、私たちいつも起きてますよ」
「そうなのか? もっと早く寝た方がいいぞ」
 そうやって子供扱いをする。ミソラとタケヒロが二人でいかに立派に暮らしてきたか、大して立派に暮らしてなんかいないのに、ミソラは語ってやりたくなる。言い返したくて向ける視線の先で、トウヤは机の上に置きっぱなしにしていた褐色の瓶を取り上げて、依然動きの悪い右手で、難しそうに蓋を開けた。
 中に入っている白い錠剤を、ざらざらざら、と手のひらに開ける。
 あまりにも普通に彼がそれを行うので、その違和感を、ミソラは一瞬見過ごしてしまった。三分の一くらい残っていた瓶を空にして、瓶を机に置く。手のひらに溢れんばかりの錠剤を、上を向いて、トウヤはすべて口に入れた。
「……え?」
 指の隙間から溢れた薬が、二粒、三粒、ころころと床に転がる。トウヤはそれを無視した。気付かなかったのかもしれない。流し台の方に歩いていって、手で水を掬い、口に含んでいたものを、すべて喉の奥へ流し込んだ。
 呆気にとられて、ミソラは何も言うことができない。
「ほら、さっさと寝るぞ」
「うるせーな、俺はもうちょっと芸を考えて」
「昼間に考えろよ。ペラップが寝てるんだから静かにしなさい」
「いつもいないくせに急に出てきてクドクド言うんじゃねえ、俺たちだって昼間はなあ」
「あ、あの」
 割り込んだミソラの方へ、トウヤがきょとんとして振り返る。
 気恥ずかしいなどと言って避けていたから、正面から顔を見るのは、この日それが初めてだった。
 こちらを見ている。――なのに。
「……そ、その薬って……」
 蓋も開けっぱなしで転がしている空瓶を、ミソラは指差した。
「そんなにいっぺんに飲んで大丈夫なんですか……?」
 あれは、トウヤが、死閃の灰への過敏体質を抑えるために飲む薬だ。強い副作用があって、飲むと半日は眠気で動けなくなる。
「ああ、最近なぜか効かなくてな」
 と、トウヤはあっさりと返してきた。
「父さんがいつも送ってくれる薬なんだ。定期的に送ってくれてて、あんまり飲まなかったから結構残ってたはずなんだけどな。まあ、またそのうちに届くよ」
 ミソラは言葉を失う。タケヒロも、怪訝として男を見上げた。
 先の小さな違和感は、決して、久々に会ったから、それだけでもたらされたものではなかった、という直感が、背筋を駆けのぼっていった。空白に自分の鼓動が聞こえる。嫌な胸騒ぎがした。そのときミソラを支配したのは、疑問符でも、困惑でもなかった。得体の知れない、訳の分からないものを前にしたときの、ただの恐怖感だった。
 ――何かがおかしい。
 トウヤは顔を引きつらせて笑う。自分が言ったことが、どうして伝わっていないのか、まったく理解できていない顔で。
「……いっぺんって、何が?」


とらと ( 2019/12/18(水) 20:19 )