月蝕


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月蝕
12−8

「――上!」
 ゼンが叫ぶ。
 エトは頭を跳ねあげた。
 フジシロ家、庭先。時刻は十六時過ぎ。空は厚い灰色に覆われている。怒号に遅れること一秒。頭上、二階建ての母屋の屋根から、その刺客は、名乗りもあげずに現れた。
 人間ではない。特大カイス級の球体だ。晴天の青。月光の白。交互に見せながら回転する。この街に生まれ育った人間なら、誰もがそのシルエットを知っている。個体が特に何者なのかも、エトは一瞬で合点がいった。
 昨日新調した眼鏡を直し、右手を振るう。相棒のチコリータ――ヒナも気合十分だ。
「『鳴き声』!」
 ぐっと引き締まった表情から、ンキュルルル! と甲高い鳴き声をヒナが発する。聞く者の戦意を削ぎ落とし、攻撃の威力を落とす技だ。無論その程度で止まっちゃくれない。耳を寝かせ尾を抱えた歪なボール形態で屋根から墜落してきた一匹のマリルは、ヒナの飛び避けた地上で一度跳ね、砂埃をあげて突撃してくる。
 新米トレーナーとて無知ではない。家出をする前、トウヤが毎年残していく様々の本を読み漁り、それなりの知識は会得済みだ。
「ヒナ、耐えて『リフレクター』だ!」
 『転がる』の一撃目がヒットする。踏ん張り首を振り受け流したヒナは、ジュエリーのような首回りの植物体から、輝くエネルギーを放出する。板状に凝縮し、盾と化した淡緑の光は、急旋回して再度襲撃してきた二撃目の『転がる』を受け止めた。壁越しのダメージはゼロではない。表情を歪めるヒナへ向け、エトは次の指示を飛ばす。
「『光合成』!」
 ヒナはまた高く鳴き、全身を小刻みに震わせる。
 ゼンの立つ向こうサイドへと加速していくマリルボールは、従者のオーダイルが身構えた手前で、再びぎゅんと旋回した。ひょいとあげられた大鰐の片足の下を抜け、ヒナへ向かってくる。いかにも格上なあちらは眼中にないらしい。
 ちょっとは癪だった。とは言え、エトもヒナも、このマリルには一度敗北らしきものを喫している。
 見せてやろう。家出坊主の成長を。振り向いたヒナへ、エトは大きく頷いた。
「『葉っぱカッター』ッ!」
 旅立ちのあの日、『水鉄砲』に押し負けたのと同じ技で、三撃目の襲撃を弾き返した。
 思わず抱えた尻尾を手放し大小の球体に別れたマリルが、ぼよんぼよよんと地を跳ねる。追撃の指示に備え、頭の葉をぐるんぐるんと回転させるヒナの闘志に、「ストップ、ストップ!」とエトは慌て叫んだ。
 枯葉の吹き積もった塀のきわに、マリルはうつ伏せで埋もれていた。エネルギー源とも言われる水球のぺかぺか光っていたのが、切れかけの電球みたいに切なく点滅して、やがて途絶えた。じきに身を起こし、狭い額に枯葉を間抜けに乗っけたまま、キッと長男坊を睨んだ。だが、睨んだだけだった。起き上がり、決して長くはない足で、ぺちぺちと走り去っていった。
 潔い敗走だ。門を折れ、丘へと出ていく。
「びっくりしたあ……」
 バトル稽古中の思いがけない敵襲をいなして、エトは胸を撫で下ろした。ゼンのオーダイルに何度か攻撃を入れられて手負いだったが、ヒナのガッツのおかげで威厳を示せた。ナイスファイトと撫でてやれば、得意げに小さな胸を張る。相当に負けん気の強い個体だと、先程にも評されたばかりだ。
「ゼンさん、どうでした? 今のバトル」
 あの金髪ちび風に言えばエトの『お師匠様』である男は、眉をあげ、隣のオーダイルと顔を見合わせた。
「ン、まあ……上出来なんじゃないか?」
「本当にそう思ってます?」
「ハハ、俺だったら、端から素直に『葉っぱカッター』を連発した」
「長引かせないためですか。『転がる』、段々威力上がるんですもんね」
「いや、こればっかりは俺の性格だな。参考にはするな。身内に直接攻撃するのを躊躇っていたんでないなら、だがな」
 休憩するか、『葉っぱカッター』が雑になってきているぞ。そりゃもっと急所を取れる技だ。靴を脱ぎ脱ぎ言う背中に、エトは内心舌を巻いた。傷つけまいとしていたことまでバレバレだ。
 縁側から、家の中へと戻る。任務の空き時間にはこうして、第七部隊の先輩たちに代わる代わる稽古をつけてもらっていた。個人主義のゼンは後進指導にあまり乗り気ではないが、天才肌のミヅキによる再現不可能なアドバイスよりは、十二分に参考になる。経験を積むたび、自分の居場所を発掘できた気がして、この頃は充実した日々だ。
 だが、そんなことよりも、今は気になるものがある。
「なんで襲ってきたんだろう、マリーのやつ」
 ほうぼうに喧嘩をふっかけて回っている、フジシロ家のグレマリル。昨日は顔を見なかったが、姉の言っていたことは本当だった。二杯分の茶、そしてヒナに飲ませる水を盆に載せて呟けば、「なんとなく分かるけどな」とゼンが返事をした。それも独り言のような声だったが。
「え?」
「お前と一緒だよ」
 早速火をつけた煙草を口の端に挟みつつ、ゼンは意味深にニヤリと笑う。
 はあ、と曖昧に頷く。縁側では、へちゃりと仰向けになっているヒナが、頭頂葉をちろちろさせてエトに水を催促している。大きな図体を庭に縮こめているオーダイルが、鼻の穴からぴゅっと水を吐く。葉が濡れる。ヒナはキュッキュと喜んでいる。
「俺と一緒、か……」
 苦い匂いのする紫煙を、わざとらしく、ゼンは長々と吐き出した。
 庭先を見やる。見晴らす空の一面を、雲は重たげに垂れ込めている。昨日と一転した薄気味悪い天候に、ふと、外出中の姉を思った。
 姉ちゃん――姉ちゃんと副隊長、どんな話をしてるんだろうか。





「すみません、荷物持ちさせてしまって」
 フジシロ家の買い物を提げながら、へーきへーき、とミヅキは笑った。数日分の食材を丸呑みにしたビニール袋の持ち手が、細い指の節に食い込む。白魚のようになめらかな指先。女性目線でも見惚れるような造形美を、彼女は至るところに有している。
「力仕事には自信あるんですよ、第七部隊の人らオンナノコ扱いしませんからねー。ま、その方がやりやすいけど」
 整った見かけにしてはアンバランスな、歯並びの良さを見せびらかすような笑い方をするミヅキの乱暴な言葉や所作を、カナミは好ましく感じていた。
 義母の入院先から、祖父母の入院先へ。腹の子の手前、自転車の利便性を取ることはできない。徒歩で往復一時間半。休日のハヅキを連れた日課に、ミヅキは病室まで同行してきた。すっかり憔悴している祖父の干涸びた手を躊躇なく取り、彼女はベッドサイドに膝をついた。「きっと良くなりますよ」そう真実そうに微笑む彼女の横顔は、人工灯の下であろうと、天女のように美しかった。
 お見舞いにまでついてこなくてもいいのに。こちらの恐縮に「仕事ですから」とけろりと言ってのけるワカミヤミヅキという女は、彼女と同じ姓を名乗るカナミの見知った人物とは、なるほど、正反対のようにも思える。彼ならば、今の自分の発言は、まず間違いなく嫌味として受け取るだろう。そしてその曲解を、それとなく伝えてくるだろう。赤の他人に来られても迷惑だよな、みたいな、少し皮肉な口ぶりで。
「お仕事……ですか」
 そして、彼の不在を埋めあわせるかのようにして、その卑屈な性質に、今は自分が傾いている。
 不安とも皮肉とも受け取られかねないオウム返しの発言に、ミヅキは反応しなかった。核心に触れる勇気も持たない遠回しの詮索など、どこ吹く風と言わんばかりだった。
 食材や日用品を買い込んで回る。『仕事』という響きの素っ気なさとは裏腹に、ミヅキは手伝いを自ら買って出てくれた。ハヅキのこともすぐに懐かせた。今日のハヅキはよく笑う。エトがいなくなり、じいちゃんもばあちゃんも入院して姉は毎日ピリついて――様変わりした日常に、幼心にストレスを感じていたのだろう。普段の聞き分けのよさが嘘のように大声をあげてはしゃぎまわり、あれこれと物を欲しがった。皺寄せを受ける妹の心を他人のミヅキが開かせたことに、母親代わりの面目なさをまるで感じないということはない。だが、手を貸してもらえるありがたさの方が、今は遥かに勝っていた。
 玩具屋の店先に群れていたピカチュウの顔の風船の前で、ハヅキが駄々をこねて動かなくなる。普段はこんなもの、ちっとも欲しがったりしないのに。わがままを言いくるめる前に、ミヅキが買って与えてしまった。
「ピカチュウが迷子にならないように、ぎゅーって握ってなよ?」
 膝を折り、目線を合わせ。風船紐を持たせた小さな手を、大きな両手が包み込む。
 この人も、人の『姉』なのだ。カナミはこっそりと感慨に耽った。
 帰り道も半ばに差し掛かる頃には、雲越しの短い冬の日は、早くも威勢を弱めはじめていた。厚着の下にも肌寒さを覚えながら、三人で街を進んでいく。祭りの時期でなくても休日には賑わいを見せる色とりどりの店構えを、ミヅキは物珍しそうに眺めている。
「ミヅキさん、もしかしてハシリイ初めてですか?」
「んー、仕事では何度か、でも観光はサッパリで。ハシリイって、こう、名物とかがあるんですっけ」
「一応、カイスと地酒が有名なんですけど……」カイスが時期でないことは、ミヅキも承知のことだろう。年中栽培可能なきのみではあるが、生食用にされるものは夏場が最も味が乗る。「昼間っからお酒というのもね」
「あれ? ハシリイの人間はみんな昼間っから飲んでるって、えっちゃん言ってたのに」
 ミヅキは茶目っ気の強い笑みを零す。苛烈な直射日光を思わせるようなその笑顔は、冬空に親しんだカナミには今は少し眩しすぎた。
「飲み屋さんとか、お客さん同士フレンドリーで凄いんでしょ? 飲みくらべしたいなーって思ってたんですよー」
「ミヅキさん、お酒強いんですね」
「えっ、意外? いかにも強そうってよく言われるんだけど」
「あ、いえ……」
 言葉を濁したが、カナミが何を根拠にそれを意外に思ったのか、ミヅキは察したようだった。
 刹那、ほんの僅かに、眉を曇らせる。注意して見ていなければ、それと悟らせない気配の変化。天井のマリルの話をしたときから感じていた。弟の話題を嗅ぎとるたび、少し露骨なまでに、彼女は関心を逸らそうとする。
「フジシロさんは? 強いでしょ、ぶっちゃけ」
「妊娠してなかったらそこそこは付き合えたと思うんですけど」
 取り繕ったミヅキに、カナミも気付かないフリをした。ですよねえ、残念だなあと肩を落として見せた彼女が、次は遠方からの声に興味を移す。おねえちゃあん早く! 宙に浮かぶピカチュウがせっかちの居場所を教えてくれる。とんがった二本の耳の間に、屋台街のカラフルなアーケードが見えた。

 ハヅキが選んだのは、ハシリイ名物でもなんでもない、クレープ屋台のチェーン店だ。順番待ちの行列にミヅキも文句も言わず付き合ってくれた。
 食べる間だけでも風船を持とうかと申し出ると、ハヅキはイヤイヤして、代わりに「ルリリの尻尾に結んで」と言う。ハヅキの言うルリリとは、リードに繋いで連れているまぁちゃんのことではなくて(そもそもマスカは既に進化してルリリではなくマリルなのだけれど)、おもちゃを満載した子供用リュックのサイドポケットに突っ込まれている、手のひらサイズのマスコットのことだ。射的屋の景品出身の小さなルリリ人形は、この夏にトウヤがハヅキに贈ったささやかな誕生日プレゼントだった。本命をちゃんと用意してるけどココウに忘れてきたから、と彼は言っていたが、そういえばあれから本命が郵送されてくることはなかった。
 ハヅキはこの安物のルリリ人形をとても可愛がっていて、遊びに出るときは必ずリュックサックに詰めて連れ歩く。そのルリリ人形に、風船紐を括れと言う。せっかく機嫌よくしているのを損ねてしまうのも可哀想なので、言う通りにすることにした。胴と水球とを繋ぐゴム入りの黒い尾の部分に、白い風船紐を括る。トウヤがハヅキに送ったものと、ミヅキがハヅキに送ったものを、この指先が、堅く結びつけていく。
 違うんだよな、という感覚が、頭の中で形を成した。
 インチキ射的に撃ち落とされる的。店先でふわふわと遊んでいた風船。宴会に巻き込まれて付き合いで潰される彼。飲み屋に出向いて知らない人と飲みくらべをしたがる彼女。それはわざとらしい両極端だ。頼りない月影。厳しいまでの太陽光線。『違い』を目敏く見つけるたび、それを見せつけられているようで、無性な寂しさを覚えている。違うのなんて、例え普通のきょうだいでだって、当たり前なはずなのに。
 昨日、彼女の横顔に、一瞬でそれと察することのできた色濃い面影を見た気がしたのは、あれは気のせいだったのだろうか。なまじ繋がりを感じさせる分、彼女の印象的な表情や仕草のひとつひとつに、お守りみたいに胸に秘めていた情景が、容赦なく塗り潰されていくようで……。
「甘いもの、苦手なんですよねー」
 出し抜けに彼女が呟いたことに、驚いて、カナミは咄嗟に目を上げた。
 屋根先に掲げられたメニュー表を彼女は眺めていた。
「苦手なんですか?」
「あ、でも、ここのクレープ屋さんは結構好き。よそで何回か食べたことありますよ。モモンクレープが人気ですよね」
 カナミが何故過剰な反応を見せたのか、ミヅキは勘違いしたようだった。嫌々付き合っているのではないと即座にアピールしてくる。はあちゃんもすきだよ、とハヅキが飛び跳ねている間に順番が来て、モモンクレープを二つ注文した。くるくると生地が伸ばされる様を見つめているミヅキへと、耐え切れず、カナミはもう一度問うた。
「……苦手なんですね、甘いもの」
 発言の真意を、ミヅキは今度こそ汲み取った。
 ちらりとこちらを窺って、作業台へと視線が戻る。ホイップクリームが乗せられる。やや乱雑な手つきで、缶からカットモモンが放り込まれていく。
 それらが手早く包まれるのを見届けながら、ふと浮かべた、彼女の微笑の横顔が、美しいのに、凡庸な彼の苦笑いと、本当に瓜二つだった。
「トウヤは好きだった?」
 欲した名前を、引き出せて、気付いた。
 無理強いをしている。触れられたくなくて避けている場所を、強引に押し入って開けさせた。性悪と非難されても仕方ない。無意識にそこまで踏み込んだ自分に、急な恥ずかしさがこみあげる。私は彼らの何なのだろう。
「あの……あの人も苦手なんです。ミヅキさんと同じ」
 どうにも正反対なあなたとあなたの弟に、共通項をひとつ見出してつい喜んでしまったのだと、そこまで説明するのは憚られた。視線を逸らし、リュックの定位置へ紐付きルリリ人形を元通りしまうカナミに対して、へー、と彼女は浅いリアクションしか戻さなかった。
「あまいたまごやきっ!」
 待ちわびたクレープを受け取る姉の横で、頭上のピカチュウ風船をぼんぼん無遠慮に振り回しながら、ハヅキは声を張り上げている。
「とーやくんの、あまいたまごやき! はあちゃん好きなんだよ」
「とーやくん、たまごやきなんか作れるの?」
「うん!」
「そうなんだ、すごいねえ」
 足元でいい子にしている小マリルは、辺りに充満する甘ったるい匂いの元凶を物欲しそうに見上げている。ミヅキはハヅキの舌ったらずに応対しながら、自分のクレープをいくらか千切ってマスカに食わせた。指に付着したクリームを舐る。「甘いなー」と呟く声音はフラットで、ここのクレープは好きと言った先の言葉が真なのか偽なのか、それだけでは判別がつかない。
「トウヤ、料理するんだね」
「お世話になってる親戚の方の、お店の手伝いをしてるらしくて」
「あー、おばさんとこ、料理屋さんなんだっけ。そっかそっか」
 ぺりぺりとフィルムを剥がしながら、甘いものも昔は好きだった気がするけどなあ、と彼女は独りごちた。十年以上の歳月が彼女らの間を隔てているのだと、その言葉でやっと実感した。ミヅキは、十歳の子供のトウヤしか知らない。甘いものを敬遠しだした大人の男のトウヤを知らない。話題に出されて戸惑うのも、それはそうだよな、とカナミはなんとなく納得した。自分の知っている人の話は、彼女とは、共通の話題にはなり得ないのだ。
 でも、このミヅキと言う人が弟の名を前にぎこちなくなる、感慨ひとつも匂わせないどころか遠ざけるような喋り方をする、そのことを、今、とても残念に思っているのが、何故なのか。胸のざわめきの正体が、カナミにはまだ分からない。
 その正体に、次の瞬間、次の言葉を耳にして、唐突に突き当たった。
「流石に、こんだけ時間が経ってると、全然知らない人と言うか……」
 大きな口を開けてモモンクレープを頬張ったあと、それを咀嚼しながら、ミヅキは器用にこう続けた。
「――いないものだと思ってたし。ま、空想上の生き物みたいなものだよね」


 じきに、雪が降りはじめた。
 今年何度目かの雪。例年なら積もっていても何ら不思議はない時期だ。不気味な暗雲が頭上へ押しかけてくるにつれ、細雪は存在感を強めつつある。白茶けた枯野、すっかり落葉した裸の並木が、横柄な風に揺すられている。家へ続く、長い一本道の上り坂。先頭をゆくマスカは丸耳をぺたんと寝かせて寒さを耐え、ハヅキの背に伸びるピカチュウ風船の無味乾燥な笑い顔は、気の狂った獣のようにばたばたと暴れ続けている。
「あのね、とーやくんと、手つないであるいたの!」
 振り返り、真っ赤に凍えた頬を上げ、ハヅキは幸福な思い出を語る。
 日差しも、熱も、鮮やかな緑も、そこにいた人もいないのに、まるで笑顔の一部分だけ、あの夏をそっくり切り取った蜃気楼のように見える。
「とーやくんとー、おねーちゃんとー、はあちゃんとー……、あと、みそらちゃんっ」
 大事な宝物をひとつずつ披露するみたいに、ハヅキは名前を並べていく。
 へー、とまた、ミヅキは気のない返事をする。
 ――そうだろうな、と、カナミは思う。心無い相槌。関心を起こすのすら、彼女にとっては億劫だろう。『空想上の生き物』にまつわる遠いお伽話なんて、語られたところで、どうだっていいに決まっている。
「おねーさんとも手繋ごっか」
 『姉』を騙った女が手を差し出す。
 やや逡巡して、いいよ、と笑って、妹が手を取る。
 『いないものだと思って』いた彼の残した軌跡の上を。まるで、軽快に蹂躙するように。握り、繋いだ手を、大きく前後に振りながら。彼の知らない冬の道を、歩いていく。足跡を踏みしめていく。彼に似た静かな顔に見合わない、傲慢なその両足が。
 ……などと鬱憤を膨らす自分が、カナミにはたまらなく汚らわしいものに思われる。こんな風に、侮蔑を許される資格など、自分には欠片ほども無い。己に言い聞かせようとした。私と彼女とは関係がない。介入できる立場にはない。だって、彼と彼女の人生という物語に於いて、ハシリイというこの場所が、どれほどの意味を持ち得るだろう? 自分がただの部外者でなければ、他になんだと言うのだろう?
「とーやくんは、おうちでおるすばんしてるの?」
「ん?」
 ハヅキが問う。ミヅキが視線を下ろす。
「お留守番はしてないんじゃない? 知らんけど」
「知らないの? とーやくんのおねえちゃんなのに?」
「大人になるとねー、きょうだいでも、一緒に住んでるとは限らないんだよ。はあちゃんとエトにいちゃんだってそうでしょ?」
 言葉の意味を理解しようと、うつむき気味にして黙り込んで、ハヅキは歩き続けた。ハヅキは兄が家出したことを、自分のせいなのだと多少思い込んでいる節がある。夢を叶えるために出て行ったのだと何度も説明して一応納得させはしたが、トウヤとミヅキが別居しているという事実に、我が家の現況と重ね合わせてショックを覚えたようだった。たった七つの子供の心は、大人が思い込んでいるよりも様々なことを考えて、その小さな世界の小さな容量に、何もかもしまい込もうとする。
「あ、あのね……みづきちゃん」
 やがて顔をあげてみせる、無垢な光を絶やさぬ両目に、
「はあちゃんね、とーやくんとけっこんするってやくそくしたの!」
 ――蝋燭の火が吹き消えるように、ミヅキの表情は、すっと色を失った。
 その変容を、カナミは後ろからはっきりと捉えた。
「あのね、だって、はあちゃんとけっこんしたら、とーやくん、ずっとおうちにいるでしょ?」
 ミヅキが肯定を返さなくなったので、ハヅキは不思議そうな顔をした。
「ずーっといるってやくそくしたのに、いつもね、すぐ帰っちゃうんだよ。ずっといるって言ったのに……あのね、けっこんしたら、けっこんした二人でずっといっしょにいるんだって、おねえちゃんが言ってたの。でも、おねえちゃんはとーやくんとはけっこんしないって言ったから、だから……はあちゃんが……」
 見上げながら必死に説明しようとしたハヅキの声は、蛇口を絞っていくように段々流れを失くしていき、ぽたぽたと残滓を落とし、最後にはついに口を閉ざして、上目遣いに顎を引いた。
 そのときのミヅキは、伏せがちな長い睫毛の下に、無色の硝子玉でも嵌めているかのようだった。
 手を離す。しゃがみこむ。
 視線を合わせ、ハヅキの両肩に手を乗せる。
「トウヤくんはね、はあちゃんに嘘をついたんだよ」
 フラットな彼女の声が、まっすぐに告げた。
 ハヅキは唇を動かして、隙間風のような声を漏らした。
「トウヤくんは、はあちゃんとは結婚しないし、ずーっと一緒にもいられないの」
 肩が揺すられる。頭上で黄色い笑顔が揺れる。
「いたらだめなの」
 美しい顔が、真剣にそう訴えた。
 それを見上げている眉が、今にも泣き出しそうに歪んだ。
「……とーやくん、うそつきなの?」
「……ミヅキさん」
「そうだよ、分かった? だから、あの子のこと、あんまり好きになっちゃだめだよ」
「ミヅキさん!」
 そのとき突然、マスカがブブッと聞いたこともない唸り声をあげた。野生ポケモンが人を見て威嚇し、そして逃げ出すかのように、くるりと背を向けて走りはじめた。リードを通していた手首がぐんと持っていかれ、まあちゃん待って! と叫ぶハヅキが引き摺られ半ばで駆けていく。ミヅキは後を追わなかった。膝を押して億劫そうに立ち上がり、一目散に坂をのぼる水鼠と子供の背を、目を細めて見やっていた。
 よくしてたんですねー、と、ミヅキは言った。
 潔いほど上っ面の、いかにも嘘くさいその声は、確かに背後のカナミへと、その矛先を向けていた。
「まるで、家族みたいに。うちには電話ひとつかけてこない薄情者だった癖に、他に家族を作っていたとは」
「……それは!」
 存外に張り上げた自分の大声に、カナミははっとした。
 二の句を継ぐことができなかった。振り返り、こちらへ向けた、様変わりした彼女の双眸へ、カナミは何も言えなかった。氷のように冷酷で、硬質で、そして、惨たらしいほど美しかった。硝子の中に閉じ込められて永久に咲き続ける花の骸。砕けた仕草で親しみを演出しながら、実際は手を触れることすら許さない。今までそれと感じさせなかった明確な壁、立ち入りを認めない自己と他者との線引きを、はっきりと提示し、拒絶された。
 言いようのない悔しさが、喉をせりあがって止まる。家族? 馬鹿を言え。誰かが望んだ関係は終ぞ築かれることはなかった。来年もおいでと言う以上にも何の働きかけもできなかった。根付いた場所に咲く以外に能もない、自らが選んだ不自由だった。だから、この街で歯を食いしばり、人並みに雪嵐を耐えてきた。だが、震える拳を本気で握りしめることなんて、生まれてこのかた、あっただろうか。
 それでも、自分は部外者だ。何も知らない。何も言えない。
 すみません、と声を殺したカナミの、足元へ向けられた表情を、ミヅキはじっと見つめていた。
 雪粒はいつしか密度を高めていた。立ち止まり黙り込む両者の間を斜めに切り込む風雪は、吹雪めいて荒び、飛沫のように砂利道を跳ねる。艶やかな黒髪や上品な赤のマフラーを、そうでない色が侵蝕していく。風に流れて顔に降りかかる髪を、苛立たしげに、けれども優美に、ミヅキは後ろへと払いのけた。
「ねえ、フジシロさん。私たちが何をしに来たのか、気にならないの?」
 どっと心臓が跳ねる。
「……あの人、何を――ッ」
 そこで目に飛び込んだ光景に、思わず言葉を止めてしまった。
 マスカに引っ張られていたハヅキが、バランスを崩し、前のめりになって倒れこんだ。弾みにリュックのサイドポケットから、青色の小さなものが飛び出した。
 解放されたピカチュウ風船が強風に吹き飛んでいく。
 ルリリ人形を縛り付けたまま。
「ルリリが!」
 ハヅキが叫んだ。
 カナミより先に、ミヅキが駆け出した。
 速かった、まるで迷いがなかった。買い物袋を手放すと、大股に走り、足元の見えない草叢に躊躇なく飛び込み、ぐんと手を伸ばした。届かなかった。指先を避けるように掠めたルリリは、狂った風のなか枯野をわずかに横っ飛びし、風が弱まったタイミングで、あっという間に上昇した。
 そして――止まった。
「おねえちゃん!」
 カナミが近づいたときには、ミヅキは既に救出に取り掛かっていた。しゃがみ、ジャンプして、手を伸ばす。並木の枝、届きそうで届かない絶妙な位置に、ルリリは引っかかったまま笑っている。冬木の物寂しい枝の先に、尾の球だけで繋ぎ止められている。上空で暴れる風船に今にも持っていかれそうだ。
 少し上背のあるカナミが同じことを試した。それも届かない。数百メートル先に迫った我が家を仰ぎ、ゼンさん呼んできます、と走り出そうとしたカナミを、いいから、とミヅキが呼び止めた。
「消えたんだよ、あの子」
 気合の声をあげて跳び、振り上げた指先が、虚空を切り裂く。
 合間にミヅキが言った「あの子」が、トウヤなのだと、カナミは一瞬気付かなかった。
「探してるの。第七部隊だけじゃなく、第一部隊も関わってる。旅先の宿で、盗みに入ったんだって」
 跳ぶ。届かない。耳朶を引き千切るような風が一段と修羅場を駆り立てる。アサギがいればな、と、呟いたミヅキの声は、ちっとも惜しがっていやしなかった。
「その一件を切っ掛けに、別の盗難事件の犯人もあの子だろうということになって。偉い人たちが話を聞きに行ったんだけど、なんか揉めたみたいで、今は追われてる。逃げ出したってことは、やっぱやましいとこがあったんだろー、なっ」
 振り切った手が、あと数センチの場所を掠めた。
 カナミは愕然としていた。肋骨の内側で暴れている心臓が、現実を受け入れないための言葉が喉につっかえて止まっているのを、何度も弾き出そうとした。
「生きてるか死んでるか、って感じらしいけど、とりあえず逃げ込むならハシリイじゃないかって言うから、先回りをしてみたってわけです。うーん、でも来ないってことは、」
「何かの間違いです」
 やっと遮った声が震えていた。
 聞かなかったのかというほど、ミヅキは構わず、風船との距離を目算しながら数歩分後ろへ遠ざかった。
「やっぱ死んでんのかな。それとも、ここを思ったより頼りはしていなかったか」
「待ってください、トウヤがそんなことするはずない。揉め事なんて起こすような性格じゃないんです。まして、盗みなんて……」
 一歩、二歩、と助走をつけて、ミヅキは強く地を蹴った。
 しなるように振り上げられた右手の先が、遂に水色の尻尾を掴んだ。

「――あっ!」

 三人分の声が重なった。
 ミヅキの指に掛かった反発力は、一瞬にして消え失せた。

 嘲笑うような笑顔を浮かべたまま、ピカチュウ風船は無茶苦茶になぶられキリキリ舞いし、高く高く昇っていく。
 ルリリはどす黒い空へと連れ去られていく。
 着地し損ね崩れてへたり込んだ体勢のまま、茫然として天を仰ぐミヅキの右手の指の間には、ほんの小さな水色の球体――ルリリの尻尾の球だけが、途中で千切れたゴム紐と共に残されている。

 そのとき、なぜだろう唐突に、カナミの中を走馬灯のように駆け巡ったのは、とある三日間の光景だった。
 ――どういう流れだったろう、それまでの話をぶった切って、君が好きだ、と前触れもなく言われたこと。けれど言わせるようにけしかけたのはきっと自分だったのだ。お互い普段より浮つきながらグラスを交わした一日目。照れくさがってちっとも目を合わせてくれなかった二日目。夜更けにこっそり申し合わせて家を出て、この丘を少しだけ散歩した。あのときのぬるい風の匂い。ぶつかった手の甲がびくっと飛び退いて、それから、ぎくしゃくと戻ってきて、手のひらを取った手のひらが、汗ばんでいたし、震えていた。おかしくなって二人で笑った。それから、軽く触れ合わせるだけの、子供みたいなキスをした。
 月の大きな夜だった。
 だから、顔を離したときの、あの、彼の、――たったいま夢から醒めた子供のような、茫然とした、透明な瞳に、きらきらと月明かりが注ぎ込まれていたさまを、カナミはよく覚えている。
 ――彼の、姉の、その顔を見て、唐突にフラッシュバックしたのではない。こんなもの、思い出そうとしなくたって、思い続けてきたに決まっている。
 三日目。朝から具合悪そうに、うわの空にしている彼に、何度か大丈夫かと聞いたこと。そのたび彼が頷いていたこと。ポケモンの遊ぶ縁側に座り込んでいる背中がツチニンの抜け殻みたいだったこと。昼飯の準備をしている台所に、ふらりと現れて、突っ立ったまま、こちらを見ていたこと。ねえなんか無理してるよね、と問うたら、耐えかねて、彼はその場に蹲って、懺悔を繰り返しはじめたこと。それがまるで、母親の言いつけを破ってしまった、幼い子供のようだったこと。
 そのあと、彼が打ち明けたこと。
 どうして、どうして、忘れられようか。これまでの人生を鑑みても、桁外れに破滅的なあの惨めったらしい瞬間を、忘れられていたはずがない。昨日、面影を鮮やかに焼き付けた女の顔を目にしてから、その光景は、何千回、何万回と、呪いのように、カナミの脳裏に蘇り続けた。



 フジシロの庭に二匹目の乱入者があったのは、本格的に吹雪と化した空を見上げ、そろそろうちに戻ろうか、と言いあってポケモンを戻した時だった。
 但しそれは、一匹目のマリルのようなあからさまな敵襲ではない。色違いの小マリルは、胴に回した赤いリードを引き摺りながらどたばたと走り込んできた。リードの持ち手を握っているべき人物の、引き裂かれたような絶叫が響く。短い両手をばたつかせているマリルを一瞥したあと、エトはゼンへと了承を求めた。そして二人と一匹連れ立って、門の外へと走りはじめた。
 坂を少し下った道の真ん中で、ハヅキは地べたに座り込んでいた。ひとりだった。視線を右手にずらしていけば、連れ添いはすぐに見つかった。道を離れた枯野の海の荒れ狂った波狭間。葉を落とした木立の下で、ミヅキとカナミは対峙している。
 顔を真っ赤にして泣いているハヅキの元へ、兄がしゃがみこむ。ハヅキは言葉にならない声でしきりに何かを訴え、天へと小さな指を伸ばした。見上げる曇天の真ん中に、その『何か』は、既に小さな点となって、到底手の届かぬ場所へと消えつつある。
 なんだ、風船か、とエトは言った。
「また買えばいいだろ」
「――やだ! あのルリリじゃなきゃいやだ!!」
 火に油を注ぐかの如くだ。幼い妹にとり何がそこまで大事なのか、エトには到底理解できない。
 小マリルと共になんとか宥めようとするエトの脇に立ち、ゼンは木立の下へ注目していた。壮絶に泣き叫ぶ妹を無視して、両者は向かい合っていた。尻を叩いて立ち上がったミヅキが、椀状に窄めた右手の内に持っているのがなんなのか、気になったが見えなかった。だが、自身の右手を見つめているミヅキへと、カナミが何を言ったのかは、はっきりと聞き取ることができた。
「帰ってもらってもいいですか」
 ゼンも、ハヅキの泣き声越しに聞いたエトも、一瞬耳を疑った。
 だが、再度繰り返された語気は、聞き間違えなどを疑うことを簡単に許さないというほどに、恐ろしく毅然としたものだった。
「うちを掻き回しに来たんなら、もう帰ってもらってもいいですか」
 ――今朝方。義母と祖父母のお見舞いに行くと言うカナミとハヅキに、ミヅキは自ら同行を志願した。トウヤが接触を図ったときのためにカナミの行動を警戒するという元からの計画だったが、同行するのはエトのはずだった。出掛けるのを見送ったときは会話を交わして笑いあっていたが、あのときの朗らかさは最早、影も形も残していない。「あの子なんか苦手」と昨晩ミヅキぼやいたことを、ゼンは思い出していた。己を巣食う慣れない感情に戸惑うようなあの面持ちは、今は、苦手というよりは、明確に『嫌悪』と呼べるものを、相手に見せつけようとしている。
「忠告しとくけど、フジシロさん。あんなのを、二度と家に入れないほうがいいよ」
 ――まずい。
 目を瞬かせているエトを残し、ゼンは草原へ足を向ける。
「あのおじいさんもおばあさんも、こんなちっちゃい子まで、懐かせてるみたいだけど。本当に関わらないほうがいい。掻き回してるって言うならあの子のほうだ。みんな、騙されてるんですよ、あいつに」
「騙されてなんかいません」
「なんでそう言えるの? あの子の何を知ってるの? 年に一回、何日間かしか会わないんでしょ?」
 刻一刻と強まっていく吹雪の向こうで頑として睨み合っている二人へ近づき、おい、と片方の肩を叩いた。ゼンよりうんと小さな彼女は、その手を振り払おうとすらしなかった。ミヅキの視界は、こうなるともう完全に、目の前の敵以外のものは絶対に映すことがない。
「あの子、ヤバイんですよ。気を引くためならなんでもするんです。平気で嘘を吐くし、人を傷つけるようなこともするし、そうしている自覚すらない。二階の窓から人に向かってサボネア投げ落とすような子が、普通なはずないんです」
 早口に捲し立てるミヅキの絶妙に掠れの入った声は、他者を萎縮させる威圧感をいつも意図的に内包する。だが、今日に限っては、威嚇も効果を発揮しなかった。
「普通って、何ですか?」
 相対するカナミの目は、むしろ威力を増幅させる。
 ミヅキの方が一層不快感を滲ませた。
「普通じゃなかったとして、だったら悪いんですか?」
「……ココウ。行ったことあります? 貧しい、汚い町なんです。スラムが広がってて、捨て子がうろついてて」
 語気を荒げていくミヅキに乗じるかの如く、ごうごうと風が唸りをあげる。
「その町のスタジアムでガラの悪い連中とつるんで小遣い稼いでたのがあの子。ハシリイみたいなとこに暮らしてたらとても考えつかないような価値観を、あの子持ってるんです。縁切った方がいい。いつか滅茶苦茶にされますよ。この街では、良い顔をしてたかもしれないけど――」
「ミヅキさんこそ、よくもまあそうやって、身内みたいな口利けますよね」
「……は?」
 向こうにいたエトまでもが、思わず立ちあがって二人を見ていた。
「子供の頃しか知らない癖に」
 唾を吐くように、カナミが言った。
 ――ふ、と、隣の体温が数段あがったような錯覚に、ゼンは息を呑んだ。カナミの吐いたのは、まさに的確で鋭い指摘だった。ミヅキはココウを語ったが、あの町に足を踏み入れたことは一度もない。彼女が攻撃手として選んでいたのは、ゼンからの受け売りにすぎなかった。
「ミヅキさん、一体何歳のトウヤの話をしてるの? 十年以上会ってないんだから、まあ、仕方ないんだろうけど」
「良かれと思って忠告してるんだけど」
「ご親切にどうも、でも必要ありません。あの人に傷つけられたことはないし誰かを傷つけたこともない、貧しい町に住んでるからって粗野なところも見たことない。あのね、ミヅキさん、あの人とっくに成人してるの。人間っていつまでも子供のままじゃないんです」
「他人のあなたに分かるはずない、そんなの」
「あなたが知ろうともしなかっただけでしょ!?」
 姉ちゃんそんな言い方――と駆け寄ってきた弟の肩を、ゼンは今度こそ制した。
「ゼンさん」
「いいから」
「でも」
「――なんにも知ろうとしなかった癖に。トウヤが料理がうまいことも、甘いものが苦手なことも、お酒飲んだらすぐ暴れることも、気が弱いことも、優しいことも、知らない癖に。なんにも知らない癖に……」
 体の脇で堪えるように両拳を握るカナミを、ミヅキはまっすぐに見据えていた。眉間の間に刻まれた嫌悪の中に、だが、また、戸惑いのような小さな揺らぎを、うっすらとよぎらせつつあった。
「……悪いけど、私あの子の姉なんです。嫌でも、血の繋がった家族なの」
 上擦っていたトーンを落とし、一転、冷徹な刃物のような落ち着きを取り戻したミヅキの語りは、
「あなたの前であの子がどんな風に振舞っていたのか知らないけど、他人のあなたに見せた顔が本性だったって証明できる? あなたは知らないだろうけど、あの子は、私の――」
「知ってますよ」
 たった一言に制された。
 ミヅキは静かに瞠目した。
 唇に震わされるカナミの吐息が、風雪と一緒に流れていった。
「知ってます。トウヤが、あなたと、あなたのポケモンにしたことも。……その後あなたがトウヤにした、仕返しのことも」
 ミヅキの長い黒髪が、風に暴れて顔を隠した。短髪の下に晒されたカナミの瞳は密で鈍い光を湛え、長髪の奥を射貫いていた。ミヅキの中にある、怒りと、戸惑いとの比率が、その一瞬だけ逆転した。カナミの言葉がどれほどの動揺をミヅキの内心に食らわせていたのか、ゼンにも想像がつかなかった。
 枯草と雪と風とが隔てた壁を押し破るように、カナミが一歩二歩前へ出る。ミヅキは僅かに後ずさりかけた。かけただけで、実際に足は動かなかったが。
「……へー、知ってて付き合ってんだ、意外。で、知ってるからって何?」
「じゃあ言うけど、姉だから何? 血だけ繋がってるからどうだって言うんです? 私とはあちゃんは半分しか血が繋がってないけれど、正真正銘の家族です。あなたはどう? トウヤのこと家族だって、ねえ、胸張って言えるんですか?」
 互いに引かない。だが戦局は傾きつつある。
「さっきから何が言いたいの?」
「身内ヅラしてデタラメ言うのやめてくださいって言ってるんです。年に何日かしか会わなくったって、私たちの方がトウヤのことを見てきたし、知ってるし、あなたなんかより絶対に家族みたいに思ってる!」
「ねえなんでそこまで張り合いたがるの? なんで必死になってんの? あなたはトウヤの何だって言うの?」
 威勢を戻しかけたミヅキが、即座返そうとしたカナミの言葉を押し切って放ったのは、
「そんなだから、旦那に見捨てられたんじゃないの」
 ――昨日、フジシロ家の様子を確認してから、断じて話題には出すまいと打ち合わせていた一発逆転の切り札のはずが、
「せっかく婚約までこぎつけたのに、そうやって、いつまでも、トウヤ、トウヤって――」
「――私のことは関係ない!」
 カナミは、いとも簡単に、それを弾き返してみせた。

「今は、あなたたちきょうだいの話をしてるんです!!」

「――ッ」
 ミヅキの反撃が、声に弾かれ。
 時が、風が、一瞬止まった。
 悲壮な叫びは、子供の慟哭よりも遥かに、胸の皮膜を突き破っていった。
 至近距離に踏み込んだカナミが、ミヅキの手を取った。掴まれるままのミヅキの右手から青色の何かが転がり落ちた。ミヅキの両手を、カナミは引っ張って、自身の火照った両頬へ触れさせた。目をまんまるにして、完全に停止しているミヅキのそうまで不意打たれた表情を、ゼンはその日初めて目にした。

「こんな顔ですよ、こんな、こんな顔にすら、重ねてしまうくらい」

「毎日毎日あなたのことを考え続けて」

「いつまでもあなたに許されることができなくて」

「自分が幸せになることを許せなくて」

 握る手と手が赤かった。
 畳み掛ける目元は歪んで震えて真っ赤だった。
 だが、爛々と強烈な光を滾らせて、向かう目と対峙し続けた。

 いっぱいいっぱいの彼女の訴えに、ミヅキは、ただただ圧倒されていた。
 
「あなたに分かります? 分かりませんよね、絶対に分からないですよね。だっていないものだと思ってきたんですもんね。空想上の生き物だなんてよく言うわ。真っ当に生きようとしてきた弟を空想世界に追放したのは、あなた自身じゃないですか」
 頬から離し、両手をまとめて握り込んで、
「『電話もかけてこない薄情者』って、それは、違うでしょう……!!」
 握りしめて、乞うように、頭を下げた。
 されるがままのミヅキは、そのとき、完膚なきまでに毒気を抜かれた、赤ん坊みたいな顔をしていた。
 手を振り払ったのもカナミからだった。興奮のあまりハァハァと息切れしている女がじわじわとしゃがみこんだので、他の面々はそこでようやくカナミが妊婦であることを思い出した。事情の分からないだろうエトが昨日と同じように飛びついて、姉ちゃん落ち着けって、と支えに入る。カナミはしばらく息を荒げていた。ミヅキは両手を無意識のように揉み合わせながら立ち尽くしていた。向こうの路上で、誰にも構われず泣き止んだ可哀想なハヅキと小マリルが、きょとんとしてこちらを見ていた。少し風の弱まって、静けさを取り戻した雪が、それぞれの肩に留まっては溶けた。
 ゼンは、空を見上げてみた。灰色の雪の降りしきる空。白い粒が無限に湧いては迫ってくるのを長く眺め続けていると、体のほうが浮きあがっていって、いつしか呑み込まれてしまいそうだ。
 風船は、空に呑まれたのだろうか。
 やがて、ひとりで立ち上がったカナミが、とんでもないことを言いはじめた。
「よっしゃ、それじゃ飲みましょか!」
 がっちり、今度は片手で、右手首を掴む。へ、と間抜けな声をあげたミヅキが、ずんずんと丘の上へ引き摺られていく。
「飲み屋って言ってたけど別にうちでもいいんでしょ? エト、はあちゃんの面倒見といて。家にいるんだからそんくらいしてよね。クソジジイの秘蔵酒全部開けてやる」
「いや、何言ってんの!? 姉ちゃんは飲んじゃダメだって」
 弟の当然の指摘は全くと言っていいほど届かない。わたわたと歩調を合わせながらチラリ振り返ったミヅキの当惑に、ゼンは肩を竦めて返した。
 本当は興味あるんでしょ? もう、嫌、ってほど聞かせてあげますよ。ブツブツ言いながら大股にのぼっていく『ど』の付くお節介の背は、なかなかに良い根性をしている。こうやって振り回されているうちにあいつも気を許したんだろうかと、ここにはいない中心人物の間抜けな顔を思い描いて、ゼンはこっそり苦笑した。
「こっち七年間、私が知ってるあの人のこと、全部教えてあげますから」





 ひとりでできると主張するハヅキをマスカと共に風呂に入れてしまってから、客間で待っている間、ゼンは知っていることをエトに大方話し聞かせた。
 トウヤがミヅキのアチャモを毒殺したこと。その一件がきっかけでトウヤは叔母に引き取られ、離れて育ち、それ以来一度も顔を合わせていないこと。大人しい子供だったミヅキが、トウヤがいなくなったあと身代わりのように明るく活発な女になり、そのまま大人になったこと。パートナーが目の前で死んでいったトラウマで、未だに自身の手持ちポケモンを持てていないこと。それでも、両親亡き後も、男社会のリューエルで、この座まで戦い抜いてきたこと。
「アサギって、副隊長の手持ちじゃないんですっけ」
 エトの疑問に、ゼンは頷いて返した。バクフーンのアサギはミヅキの母親であるキョウコが所持していたポケモンだ。彼女が事故死したあとは、所有権は科学部に移り、『貸出』という形でミヅキに連れ歩かれている。
「アサギが鳴いてるとこ、見たことあるか」
 冬の短い日は塀の向こうに沈み、夜は帳を下ろしていく。指先の輪郭も曖昧になる昏い客間に、ゼンの咥えている煙草の火だけが、滲んだ光を灯していた。
「鳴かないんだ。アチャモの一件があってから、鳴けなくなっちまったらしい。
 ……無いものと思わなければいられなかったミヅキと、思い続けてきたトウヤと。どちらが傷が深いのか、俺には分からない」
 ゼンの低い声が、宵闇の藍に溶けていく。
 この部屋で、文机に向かって、山のように積みあげた本を毎晩のように読み続けていた、あの男の、柔らかな声や、言葉を、憧れを、エトはいくつも思い出した。


 いっちょあがりー、と上機嫌な声がその部屋の戸を押し開けたのは、いよいよ電気を灯してからすぐのことだった。
 身を顧みず、本気で飲みやがったらしい。家出記念日にも大層酔っぱらっていたのを思い、こいつ本当に母親になる気があるんだろうかと、エトは若干げんなりとした。――赤らんだ顔でとろけたチーズみたいにへろへろ笑っているカナミは、肩に担いできたものを、よっこらせーと床に下ろした。
 無抵抗に床に倒れ伏すミヅキ。瞼を下睫毛にぴったり沿わせて、すーすー寝息を立てている。
「こりゃ驚いた、ハシリイの人間ってのは本当に強いんだな」
 ミヅキの普段の飲みっぷりを知っているゼンが、やや大袈裟なリアクションを返す。カナミもかなり泥酔しているようで、戸の柱に寄りかかりながら、ゼンへと不恰好に首を突き出した。
「任務完了、ですか?」
「あ?」
「私が、ミヅキさんに、トウヤのことを話して聞かせた。それが目的だったんじゃない?」
 エトは驚いてゼンを見やった。姉の言葉はまるで突拍子もないのに、当のゼンはと言えば、感心したとでも言うように何故か眉を上げたのだ。
「ほう」
「だって、お見舞いについてきたのも、トウヤが来るようなことがあれば捕まえなきゃいけないからでしょ? なのに、ポケモンを一匹も持ってないミヅキさんが一人でついてくるってのは、どうも不自然じゃないですか。なーんか、私とミヅキさんとで、話させようとしてるのかなーと疑りまして」
「女の勘ってのは、どこへ行っても怖いな」
 そう言って笑ったゼンがカナミの妄言に調子を合わせたのかどうなのか、エトにはさっぱり分からなかった。が、その直後に姉が発した「以前お会いしたときから、あなた、そういう人でしたもん」という言葉には、流石に突っ込まざるを得ない。
「姉ちゃん、ゼンさんと知り合いだったの!?」
 短くなった煙草の火を揉み消しながらゼンはにやにやと笑い、カナミも共犯の笑みを浮かべて、真相を話すような雰囲気ではない。騙す側だと思っている間に騙されていたのだと勘付いて、エトは口をはくはくさせた。
 おねえちゃん、おふろあがった、とハヅキの大声が飛んでくる。はいはーい、と一旦戸口を離れかけたカナミは、くるっと反転して、また戻ってきた。
「ねえ、ゼンさん。期待されたような成果は上げられてないと思いますよ。十二年越しのきょうだい喧嘩の仲裁なんて、私じゃ流石に力不足だ。……でも、逆に、ゼンさんとエトには、私、すごく感謝しますから」
「なんで?」
「分かったから」
「何が」
 ニッとして、手をぷらぷらさせて廊下の先へと消え去りながら、カナミはこんなことを言い残した。
「正反対だと思ってたけど、ミヅキさんも、トウヤと同じように思いやりのある、とっても優しい人だってこと!」
 わっはっは、と笑い声が、次第に遠のいていく。……それが聞こえなくなったとき、転がされていた方の酔っぱらいが急にゴロンと仰向けになった。矢庭に両足を振り上げた。立ち上がるのかと思いきや、振り上げた両足の裏を、ばん! と床へ叩きつけた。
「くーっくやじいーっ!」
 起きていたのか。また騙された。
「くそーっこんちくしょーっ」
「負けたな、ミヅキ」
「負けるかーって言いたいけど試合に負けて勝負に勝ったと思ったら試合に負けて勝負にも負けてた気分……っ!」
 よく分からないことを言いながら、両手で顔を覆いつつどたばたと床を踏み鳴らしている。妊婦相手に酔い潰れたフリをしたが、それを看破されていたのが気に食わないようだった。
「もー最悪っ」
「おつかれさん」「すみません、姉が……」
「ほんとだよ、なんだよあいつ、なんだよこれホント最悪」
「話してどうだった」
「分かったわ、私だって」
「何が?」
 くつくつと笑うゼンに対して、床にひっくり返った姿勢のまま、えっちゃんがこの家を出たがった理由! とミヅキは幼子に匹敵する大声で叫んだ。多分家の隅々まで響いているに違いない。
「姉だから姉だからってなんでも我慢してうざいあの人。我慢しなかった私を遠回しに非難してるよねあれ。いやあえっちゃんよく耐えたわいまいくつだっけ? じゅうはちか? 十八年もよく耐えた、エライ」
「別に俺、姉がうざいから家出したわけでは……」
「あんね、えっちゃんはね。自由に生きれるんだってところをね、見せつけてやったらいいよ。あいつに!」
 びし! とどこだか知れない場所を指し、かーっ、と言いながら、大仰な身振りで横向きになる。
 自由、とエトは、その言葉を、そっと舌の上に転がした。
 エトの神妙な横顔を見守り、ゼンは黙って微笑みを浮かべた。
「でも、強かったなあ。思ってたより強かった。授乳が終わるまで飲んじゃダメなんだっけ? 今度は本気で飲みたいなあ」
 四肢を投げ出し、腫れぼったい瞼を下ろす。眠りに落ちていく表情は、横暴な言葉遣いにしては、幾分か満足げな緩みを、端々に蕩けさせていた。
「そのときは、トウヤの話じゃなくて、別の話ね。模範的に生きていた場合の、私の……おねえちゃんの……ね、どんな……人生をさぁ……」


とらと ( 2019/05/26(日) 23:16 )