月蝕


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月蝕
12−7

 昨晩、彼女の顔に覚えた違和感の正体を、トウヤは今更になって理解した。化粧だ。普段、その年頃の少女にしては――とりわけココウのような町で見かける類にしては、かなり鮮やかな瞼の紅、豪華な感じのする長い睫毛が、随分こざっぱりとしている。リューエルからの逃走中めそめそ泣いていたとミソラに暴露されていたから、多分そのときに落ちたのだろう。物憂げな顔で手鏡を見つめるあの意味深な光景が、単にすっぴんを気にしていただけだったのだとしたら、あんまりにも力の抜ける話である。
 若草の繁茂する水辺の一角。白砂と、青空を反射する水面が眩しい。瑞々しい光景の真ん中に、彼女はしゃがみこんでいる。黒マントの内から伸びる指先は冬陽の淡い光に映え、それが摘んでいる雑草すら、何か神聖な意義を持つ象徴のようにも見せそうだ。青々とした下草の中に花を咲かせているものがあると、トウヤはそこでようやく気づいた。情景の些細に目を配る精神的余裕など、まるで持てていなかった。
 こちらに気がつくと、アズサは顔を見せ、掲げた片手をひらひらさせた。
 タケヒロとは途中で別れたし、徹夜明けで眠そうなハリはさっきボールに戻してしまった。僕相手に、無邪気に手なんて振られても。意識するほど素の面立ちは幼く見えた。それが一挙一動を悩ませた。
 男の懊悩など露知らず彼女はひょいと立ちあがると、出し抜けに「体は大丈夫?」なんて問うてきた。
「体?」
「しつこく聞かれるの嫌よね」
「いや、別に」
 とは言っても、何を大丈夫と言えばいいのか。腕は相変わらずだし、不眠も失血も補ったわけでは無し。でも体は動くし頭もそれなりに回っているという点で言えば、大丈夫とも答えられるだろう。
「見ての通りだが」
「ツーちゃんの手前言えなかったけど、水に落ちたときゾッとしたんだから。雨水が周囲から流れ込んでここに溜まっているのなら、『灰』が高濃度に集積してても不思議じゃないわ」
 そういうことか。気付かなかった程度には全く問題ないと告げてから、トウヤは改めて、目の前の光景に感慨を抱いた。
「でも、草が生えてるな」
 そう、この場所に、草など生えないはずだった。
 森とまで呼ばれていた植生を、一夜で壊滅させた『死の閃光』。『灰』と俗称される残留物質の影響下にある爆心円周――ココウを含む一帯は、あの日からもう四年の月日が流れ去ろうとしているが、以来不毛の大地と化している。絶海の孤島のように緑が守られたココウ近郊部を除けば、この規模で広がる植物群落を、ここらでは実に久々に目にした。
「そうね。洗い流されたのか、害のあるものが時間経過で分解したのか……もしかすると、あと数年もすれば灌木も戻ってくるかもね」
「ああ。意外と早かった」
「嬉しい?」
「まあ、この辺に棲んでるポケモンのほとんどは、歓迎するんじゃないか」
「お兄さんは?」
「悩ましいな。砂漠の見晴らしの良さも、僕は嫌いじゃない」
 私も、と彼女は笑んだ。上塗りのない素顔の表情も、なんとなくだが、見晴らしがいい。化粧で演出した見かけの強さも、もちろん嫌いではないけれど。
 アズサは再びしゃがみこむ。どうも花冠を作ろうとしているようだった。ホウガにいた頃、姉に倣ってトウヤも作ったことがある。トウヤは二つ下の弟だが、九つになる頃には姉よりも手先が器用になっていて、花を編むのも姉より幾分か上手かった。ほんの一時にすぎないが、花を摘んでは大小の輪っかにすることに夢中になっていた時期がある。ミヅキ、ハリ、そしてモモ。みんな存外に喜ぶものだから。思えば女の子に囲まれて育っていたと言えなくもない。大きな頭に特大の花冠を載せてやれば、アサギは気恥ずかしそうにして、すぐに焦がしてしまっていたっけ。
 丈の短いここの花では、難しかろうに。郷愁に耽りつつ、彼女のやりようを、トウヤはしばらく眺めていた。仲直りの企てはいささか子供じみているが、まあ、タケヒロなら喜ぶだろう。だが進捗は芳しくない。見るにもどかしい手つきだった。アドバイスをくれてやろうか。だが、安っぽい男の矜持が、それを微妙に憚らせる。
 ぐったりしなびる野花を前に、ウーンと唸り声をあげるアズサ。それを黙って見ている自分。
 体調を案じられることに対して、磨り減った昨日の心境では、疑念からくる不快感を膨らませるばかりだった。だが、今となっては、例え仕事の一環だろうが、小さな気遣いがくすぐったい。くすぐりをくすぐったいと思えるくらい心を許している相手に対して、手を差し伸べることくらいは、するべきではなかろうか。
 隣にしゃがみ、第一声、言いかけて、そういえばまだ名前を呼んだことすらないのだったとトウヤはふと考えた。自身のうだつの上がらなさにはほとほと呆れるばかりである。
「……あの……ア」「そうだ、付き合ってよ」
 ぱっと振り向いた声と声が重なった。
 トウヤは思わず閉口したが、向かいは気にする素振りもない。
「水辺に集まってる生物の調査。お兄さん、そういうの好きでしょ? たまにはレンジャーらしいこともしとかないと」
 開きかけた男の口から、何を予感したと言うのだろうか。メイクの武装がなくたって妖艶に浮かべられる彼女の微笑に、トウヤはつられる他になかった。





 サンド、サンド。それにマスキッパ。
 期待のこもった六つの目が、一途に見上げてくる。その視線による肯定に、傷つけられた自尊心がじわじわと修復されていくのを、ミソラははっきりと実感していた。
 センスあるかも、とアズサは言ったが、あれはどう考えてもお世辞だ。見よう見まねのキャプチャごっこが次から次へと成功したのは、レンジャー訓練過程を修了した清き心を持つ正規隊員用に洗脳強度を高められたスタイラーの賜物である。けれども、あのお世辞を今更真に受け、将来はポケモンレンジャーになってみようかしらなんて空想を膨らませてしまうほどには、それは芳しい成果に思えた。
「何してあそぼっか」
 新しい友人たちに声を掛けると、三者三様にわいわいと何かを主張してくる。片方のサンドは両手を振り、もう片方は宝石のような目をぱちくりさせ、マスキッパはしきりに蔓をくねらせている。決してポケモンの言葉が理解できるようになったわけでも、その心のすべてを掌握できたわけでもない。それでも、『分かりあえた』ような親密さを誰かと共有することができるのは、機械の仕業だろうが、『その場限りのお付き合い』だろうが、子供心に嬉しかった。
 気持ちを伝えるだけの道具、とアズサはしきりに言っていたが、逆に伝わってくるものもある。ひどく曖昧で、捉えどころのないものだ。だが、自分に好意的な野生ポケモンたちを見て、ミソラがささやかな幸せを感じていることと、それはきっと関係している。
 ポケモンたちは、ミソラを否定する心も、肯定する心も、当然持っている。仲良くなりたいという気持ちを伝えるミソラに対して、受け入れるか吟味して、取捨選択する。それが結果的に機械の力で誘導されているのだとしても、仲良くしてやるかどうかということを、ちゃんと頭で考えている。『ミソラたち人間が考えているのと同じように』。
 およそ言うまでもない当然のことだと、人には言われるかもしれない。だが、自分とまるで違う形をして、まるで通じない言語でコミュニケーションをとるポケモンという生き物が、自分と同じように思考しているのだということは、ミソラにとっては新鮮な気付きに思われた。
 今朝、リナが急にまた懐くようになった。でもそれも、実際は「急」ではなくて、「突拍子もない心変わり」でもなくて、リナなりに何かを考えた末の選択だったはずなのだ。ミソラはリナの言葉は分からないけれど、心ならば、人間の心に読み替えて推測することができるかもしれない。理解することができるかもしれない。それは、一トレーナーとしてのミソラが、これからリナと向き合っていくための、重要な糸口になるだろう。
 いつの間に遠くへ行ってしまったのだろう、今リナは、ハヤテを連れて、湖の対岸まで移動している。光が踊る水面の向こう岸に、水色と、藍色の大小の怪獣は、寄り添いあって歩いたり、並んで水へ口をつけたり、あるいは顔を向けあって、ふと首を垂らした藍色の頭に、水色が頭を擦りつけたりしているのだ。
 あらゆる想像が、シャボン玉のように、ミソラの目の前で弾けては消えた。二匹の方を眺めながらぼうとしているミソラの足元を、サンドの小さな爪がくいくいと引っ張っていた。が、背後から突然、「おい!」とヒトの大声がすっ飛んでくると、新しい友人たちはぴゃっと一斉に飛びあがって、ほうぼうへ走り去ってしまった。
 野生ポケモンに取り囲まれてうわの空だった金髪碧眼の年少を、ボサボサ頭の黒髪は、心配顔で見つめている。
「タケヒロ……」
 先の出来事の延長線上でやや身構えてしまうミソラに対して、タケヒロは別に怒りはしなかった。気まずそうにぼりぼり頭を掻いている。
 ミソラは口をひらきかけ、すぐに閉じた。
 謝るための言葉、仲直りのための言葉、分かり合うための言葉を、きちんと用意していたはずだった。なのに顔を見てしまうと、どれも違うような気がしてきて、音にするのが躊躇われる。
 だけど、ミソラとタケヒロは、同じ心を持っているのだ。
 うろうろ泳ぐタケヒロの視線を、ぴんと立てた人差し指に、ミソラは捕まえた。その人差し指を対岸へ向け、デート中の二匹を指し示した。
「見て、仲良くしてる」
「……あ、ほんとだ……」
 自然な距離で、隣に並ぶ。
 一緒に同じ景色を見つめる。
 ふたりぼっちの感傷が、じんじんと、胸の余白を埋め尽くしていく。
 しばらくして、聞こえるか聞こえないかという声で、ぼそりとタケヒロは呟いた。
「……俺も、ヒビに行くから」
 ミソラは目を丸めて横顔を窺った。このメンバーで一緒にヒビまで行くことを、ミソラは当然そうなるものだと思っていた。言われて考えてみれば、それはちっとも『当然』ではない。
「そうなんだ」
「うん」
「タケヒロ、ココウを出たことがないって言ってたよね」
「まあな」
「寂しくない?」
「なんでついていくのに寂しいんだよ」
「え? ココウを離れるのが……」
 噛み合わない会話の意味を考えかけたところで、「べ、別に、ココウに一人で残るのが寂しいとかじゃねえからな」とタケヒロが先に答えを言った。目が合った。少し頬を赤らめた友人の顔が、すぐに真剣味を取り戻した。
「ミソラ。俺、あの約束、忘れてねえから」
 タケヒロのことを、自分と同じ子供ではなく、年上の存在なのだとミソラがはっきりと認識したのは、もしかしたら、そのときが初めてだったかもしれない。
「俺たちがお前にバトルで勝ったら、復讐をやめるって約束」
 
――殺さなきゃいけない理由はあるけど、殺さなくていい理由がないから……
――なら、殺さなくていい理由がいるのか?

 その理由に自分がなると、彼が言ってのけた、あの日のココウスタジアム。
 大雨だった。九連勝を賭けた試合で、ミソラとリナはタケヒロと対峙し、ポッポのイズと、進化したピジョンのツーを撃破した。そして十戦目、ハヤテと勝負し、瞬きする間に敗北を喫した。誰かを殺したいというミソラの悲願を、二人がかりで遠ざけられたような一日だった。ミソラが殺したがっていたのが、まさにその男だったのだと知ったのは、それから数日後のことだった。
「あんなデカい奴に指導されてんだ」
 本人は気付いていないのだろう、泥汚れの残る顔のまま、タケヒロはまっすぐに空を見上げる。ツーとレジェラは鳴き交わしながら、何かの稽古を続けている。
「今に強くなる。俺だって、勉強しようと思えばできる。お前やリナなんかより、うんと強くなるに決まってんだ。だから、そのときは勝負しろよ。いいな。絶ッ、対に、逃げんじゃねえぞ!」
 ぐっ、と顎を引きながら、ぐっ、ぐっ、と念を押し込んでくる。
 思わず仰け反ったミソラが呆気に取られていられたのは、ほんの一瞬だけだった。
「ありがとう、タケヒロ」
 言った途端に、だめだった。
 瞬いたあとにはすっかり目の前が見えなかった。
 咄嗟に顔を逸らした。ああ、こんなに泣き虫だったろうか。止まらない。あっという間に頬で涙が川になった。本当に、僕というやつはだめだ。タケヒロも気付いてしまっただろう、ちょっと言葉に詰まってから、幾分ぶっきらぼうになった。
「何のありがとうだよ」
「……、……てくれて」
「え?」
 しゃくりあげる喉を堪えて、ミソラはもう一度繰り返した。
「一緒にいてくれて」
 ――こんなにだめな僕のために、彼は、馴染み深い町と決別する。
 思えば、随分と振り回してきた。自分みたいなのと知り合わなければしなくてもよかった辛い思いを、いくらも喉奥に呑みこんできただろう。それを知りもせず甘えてきた。ミソラがトウヤについていくと言わなければ、タケヒロはおそらく今ここにはいなかった。ココウを離れなくてもよかった。きっとイズも死なずに済んだ。あんなふうにして直接ぶちまけられるまで、あの苦しみも悲しみも、ミソラは受け止めてやれなかった。でも、それでも、タケヒロは、ミソラのために戦うと言う。
 甘ったれで、ごめん。でも、そのことが、今はどうしようもなく嬉しい。
「一緒にいてくれて、ありがとう」
「……おう」
 つっけんどんな低い返事。それになんだか笑けてしまった。唇を尖らせる友人の隣で、これが最後にすると誓って、ミソラはごしごしと顔を拭った。





「ねえ、ひとつ、どうしても聞いてみたいんだけど」
 移動した先には、茎の長い花がちらほらと疎らに生えていた。でもやっぱり、この草じゃ無理だ。花冠作戦は一旦諦めた方がいい。
「いいよ」
「気を悪くしたらごめんなさいね。さっきのお父様の話は、あれ、もしかして作り話?」
 やってみなけりゃ分からないじゃないと言って、せっかく咲いた野花たちにアズサは次々と無体を働く。トウヤは結局あれこれ助言を加えたが、この手で実演できない以上、あまり意味を成さなかった。
「タケちゃんの『隠し子』発言から話題を逸らすために、ショッキングな身の上を仕立てあげたとか」
「そうか、嘘だと思われたのか」捨て身の打ち明け話を冷やかされては、流石に落胆を禁じ得ない。「僕はそこまで信用がないのか?」
「だって、いくら子供に関心が薄かったとしても、親が子供にわざわざそんなことを説明するとは思えないもの。自分の性嗜好がどうだとか、その、お前が生まれたのは『事故みたいなもの』だったとか……」
 言っている間にも、ぶち、とまた茎が千切れた。これまで散々に翻弄されてきたこの女は、こんなにも手先が不器用だったのかと、トウヤはいっそ感動すら覚えていた。キャプチャ・ディスクを手足のように繰るレンジャーと同一人物とは信じ難い。考えてみれば、自炊している痕跡をほとんど目にしなかったような。意外な弱点を発見した。
「残念ながら、実話なんだ。親から聞いたんじゃなくて、全部従兄から聞いた」
「あれ? 親戚いたんだ」
「おばさんだって親戚だぞ」
「そうだけども……」
 がくを境にちょん切れた花と花柄とを捨てながら、アズサは目を円らにする。身辺資料を得ている彼女が訝るのも無理はなかった。トウヤが持ち出したのは、もうこの世にはいないはずの人間の話だ。
「そういえば、メグミが僕に懐いてきたのも、僕がそいつと親戚だったからかもしれない」
「メグミちゃんとも知り合いなんだ、従兄さん」
「名前もそいつが付けたんだ」
 タケヒロが共にヒビに行く旨、ヒビに着いたあとの身の振り方。用件だけ話し合ってしまえば、その後はとりとめもなく雑談が飛び交う。多少辛辣なことを言われたところで、昨晩の気まずさが嘘みたいに、心持ちは軽かった。
 あっちの方が緑が深い、別の種類の花があるかも、と言って、アズサはてくてく歩いていく。トウヤはぷらぷらとそれに続いた。靴裏を包み込む柔らかな草。風に景色がそよぐ。ふと左方を見やる。りんりんと清冽に光る湖面。
 ――あれも、似た景色だった。トウヤとアズサが最初に出会ったのは、ココウではなく、ヒガメの近場の湖だった。訓練生の緑の制服に身を包んだ少女は、生真面目な三つ編み。うんと背丈の低かった自分は、確か十六だったろうか。
 温かい春の日だった。野外実習中に崖から転落して足首を痛めていた彼女を、背負ってキャンプのそばまで送り届けた。チリーンを連れていなかったし、ハリも進化前だったのだ。警戒心の強い猫みたいな彼女は最後までを名前を言わなかったし、こっちも気恥ずかしくて聞かなかった。その頃には孤独な放浪スタイルが板につきつつあったトウヤが、この無愛想な出来事を良い印象で記憶していたのは、道中、かねてからの念願だった『とあるポケモン』の大移動に、運よく遭遇したからだ。レンジャー訓練生を助ける羽目にならなければ、きっと見逃してしまっていた。
 あれから三年ほど経ったあと、地味で辺鄙な田舎町の無名トレーナーをただただ監視するという退屈極まりないミッションに、何故か彼女が抜擢された。
 仮に、あの出会いがきっかけで赴任させられたのだとしたら、トウヤはいたたまれない気がしてくる。ポケモンレンジャーの組織の事情など知らないが、どう見ても出世街道ではないだろう。いらぬ世話を焼いたせいでキャリアを傷つけたのだとしたら、申し訳ないことをした。
 そう今更の謝罪を入れれば、曲げかけていた腰を伸ばして、「自分で選んだのよ」とアズサは笑った。
「卒業試験の成績が良かったから赴任先はある程度希望が通ったんだけど、本部に配属されるのは絶対嫌だったし、その付近も嫌だった。目の届かないところに行きたかったの」
「なんでまた」
「そうじゃないと、『波動』を見て生活することを強要されるから」
 『波動使いの娘』と呼ばれることが、長らく苦痛だったのだと言う。
 ポケモンと心を通わせる職務上、相手の心理状態をある程度把握できる『波動』の才は強力だ。その功罪は大きかった。訓練学校入学以来常に成績上位を維持していたが、いくら必死に努力して勝ち得た結果だとしても、「波動ってやっぱりすごいんだね」と言われると、微笑みながら、激しい違和感に苛まれていた。あの子は人と違う。波動が使えるからずるい。考えを見透かされるから怖い。遠巻きに揶揄される。自然と距離を置かれた。人間扱いされていない、と感じることは、物の分かる歳になるほど増えていった。
「なんというか、普通の人になりたかったのよ」
 ばかよね、と彼女は言うが、自嘲や卑屈というよりは、そんな自分を肯定するような、前向きな響きが含まれている。
「幸い、波動を見るか見ないか、っていう『目』の切り替えは、子供の頃から器用に出来てた。だから、一旦『目』を閉じて、普通に生活してみたかった。ユニオンからも他の町からも離れた候補先のターゲットに知ってる顔を見つけられたのは、私、ホントにラッキーだったな」
 花冠は諦めたのだろうか。握っていた草きれを、ぱらり、ぱらりと両手で撒いたアズサの背を、トウヤは沈黙で見守った。常人離れした彼女の苦悩に正しく同情できる自信はないが、化け物扱いされる気持ちだけなら、少しくらいは理解できる。彼女に向けられた偏見に比べれば、本当に、くだらないものかもしれないが。
 はぐれもの、と四人を評しだしたのは、確かアズサが最初だった。私たちみんなはぐれものじゃない、と言ってのけたとき、そういえば、彼女は妙に楽しげだった。レンジャーという名のヒトの群れから自ら進んで『はぐれる』ことで、人間としての尊厳を、彼女は取り戻していたのだ。 
「見ない方がうまくいくこと、本当にたくさんある。なぁんてレンジャーユニオンで言ったら、エライ人たちに怒られちゃうけど」
「……ココウ暮らしはどうだった?」
「自由だったし、気楽だった! とっても満足したわ。ダラダラと居候しててくれたどっかの甲斐性無しさんのお陰ね」
 そのフレーズのどことない聞き覚えに、トウヤはすぐに思い当たった。グレンが似たようなことを言ったのだ。組織の目の届かない場所。自由な生活。任務期間中、欲していたものを手に入れられた。ターゲットであるお前のお陰だ。
 あのときは素直に受け入れられなかったグレンの言葉を、アズサの言葉とともに、トウヤは呑み込むことができた。自分などを監視させられていたことで、二人とも、別に不幸にはならなかったのだ。
 ココウで、トウヤが楽しく暮らしていた間、アズサも、グレンも、きっとそれなりに楽しかった。
「それは……よかったよ」
 ほっとした。どっと、救われたような気がした。
 胸中の味気のない砂漠に、薄日が差して慈雨が降って、ぽん、ぽん、と新芽が息吹いて、蕾を膨らませ花を咲かせる。気の抜ける安堵感が肺を満たして、トウヤは少し息を吐けた。グレンやアズサの人生に知らぬ間に影を差していたことに、我ながら変な責任を感じてしまっていたものだ。振り返ってにこにこしているアズサへと、歩調を早めて、トウヤはさくさくと近づいていった。
「でも……大変なんだろうな。人の心が丸見えって言うのは」
「読心術じゃないから、丸見えってわけじゃないわよ。お腹がすいたなーと思ってるのは分かっても、どこで何が食べたいのかまでは、明確に分からないって感じ」
「嫌な面まで見えるんだろ」
「そうね、私がキャプチャ試験に挑んでるとき、後ろで何人か『失敗しろ!』って念じてるなーとか」
 明るく語るが、なかなか壮絶だ。「あとはー」と空を見上げ、ちらりとトウヤを見やったあと、アズサは前へと向き直った。
「男の人が、私や同年代の女の子を見て何を考えているのかとか、なんとなーく分かっちゃったり……」
 なるほど、女の子を――と具体的に想像を巡らせかけて。
(……女の子を)
 露骨に止まりかけた足を。
(……女の子を……?)
 すんでのところで、押し進める。
 嫌でも脳内に具体的に巡らせてしまったイメージを払拭するためトウヤは右手を右腰に伸ばし、精神安定剤があるはずの場所で空を切った。ああ、そうだった。左手を伸ばす。一つ目の紅白球に触れる。仮眠中だろうか。出来ればそうであってほしい。
 アズサは素知らぬ様子で歩を進める。――ユキが来ていたときだろうか、男嫌いだと言っていた。無理もない話だ。どいつもこいつも、ではなくても、一度でもそういうものを目にしてしまえば、その恐ろしさたるや、他人の想像の及ぶ範囲には収まりきらないに違いない。彼女はココウでそれなりに楽しくやっていた。本当か? 僕らの住んでいた町は、とてもじゃないが、褒められたような治安状況の町ではなかった。
 何を言えばいいのか、どういう返事を求められているのか。ああ、うん、と曖昧な言葉を二度三度濁して、結局のろのろと歩みを緩めて距離を置きはじめる自分が、トウヤは情けなくって仕方なかった。どうして僕にその話をした。一種の嫌味か? ココウ路地裏に構えられた一人暮らしのあの家へ、事あるごとに押し掛けた。ノックも無しに扉を開けたこともある。死ぬほど怖かったろうに……配慮に欠けた行動の数々を超速で猛省していると、次に、思いもよらぬ声が、あっけらかんと飛び込んできた。
「でも、その点、あなたなら大丈夫って思えたってわけよ」
「え?」
 トウヤは顔をあげる。
 振り返り、アズサは何やら笑っている。
 僕なら大丈夫?
 どうして?
 どこが?
 完全に硬直している男へと、女は黒マントの内の両肩を、愛らしく竦めてこう言った。
「訓練中に助けてもらったとき、ポケモンの大群を見かけたわよね。お兄さん夢中で写真撮ってた。あれ、何だったか覚えてる?」
「ん?」
 勿論だ。二十二年と十一か月、様々な場所で出くわしたありとあらゆる光景の中でも、あれはまさに、指折りの絶景だったのだから。
「だから、チルタリスの群れ……」

「……」
「……」

「……」
「……」

「……」
「……、……」

『さっきのお父様の話は、あれ、もしかして作り話?』
 つまり、つまり――アズサは本当は、こう言いたかったというわけだ。
『あれ、本当に、お父様の話だったの?』


「……、……――ッ!!」


 信じられない勢いで、全身の血流が、一気に顔面へ駆けのぼった。

「……違うッ!」
 とりあえず叫んだがどう考えても逆効果だ。
「ち、ち、ち、ち」
「ち?」
「ち、ち、ち、ちる……ちが……」だめだ見破られている。波動なんか見るまでもなく丸分かりだ。狙撃した張本人は瀕死の醜態を前にして何故か怪訝の色を浮かべている。そのリアクションがむしろキツかった。両手をあげて顔を抑えて「……遺伝なんです……」という苦し紛れの言い訳にもならない言い訳は、どっどっどっどっと存在感を発揮する心臓と反比例して脱力していく全身と共に、聞くも無残に語尾を細めた。
 チルタリスが。チルタリスを。僕がチルタリスをアレだから、アレだから、だからあなたは大丈夫――ああ。なるほど。なるほどな。
「ごめんなさい、まさかそんなに動揺するとは」
「いや、いやでも違うんだ待ってくれ!」
「違うの?」
「ちが……いません」
「そうよね」
「その、でも、全部じゃない。本当なんだ。信じてくれ。半分半分くらいなんだ」
 意味不明な弁明がまったく弁護していないことに、トウヤはまるで気付かない。そこまで来ると、なんだか申し訳なさそうにしていたアズサも手で口を押えて笑いを堪えて、原っぱをクルクル、ご機嫌なヤジロンみたいに回りながら悶えている。
「いいじゃない、別に。私肯定的に捉えたんだから」
 なんて楽しそうなんだ。それだって当事者にとっては化け物扱いだぞと糾弾してやりたい。やりたいが、なけなしの年上根性が、しっぺ返しを堪えさせた。
「ずっと聞いてみたかったの。どのポケモンもそうなの? それともチルタリスだけ?」
「うるさいな」
「教えてよ」
「悪かったな、変態で」
「そんなこと言ってない。勘違いしないで」
 滑り出る自虐をぴしゃりと否定され、トウヤははたとその顔を見た。
 アズサはやはり、楽しげに笑みを見せてはいたけれど、それは人を見下してからかうような笑い方では決してなかった。
「波動を見ずに生活することを考えたとき、この人だったら、男でも安心して接せられるかなと思っただけ」
 驚いて、トウヤは、咄嗟には何も言い返せなかった。
 言われたことを噛み砕き、理解するのに、幾分時間が必要だった。まったく思いもよらなかったし、信じがたいことだった。自分にとってみれば『化け物めいている』特性が、彼女にとっては、『化け物でないことを証明しうる安心材料』になっていた。そんな都合のいいことが、本当に起こっていたのだろうか。だが、実際に、アズサはココウで波動の視界を放棄して、男のトウヤとやりとりしながら、気楽な生活を手に入れた。
 歪んだ鍵と、設計ミスの鍵穴が、偶然かっちり嵌ったような。二人の仲を取り持っていたのは、なんとも奇妙な縁だった。
「……それが、下心を見せはじめて、さぞや落胆しただろうな」
 結局、どうやったって、自虐は免れないようだ。ごくごくか細く吐き捨てたのが聞こえたのかどうなのか、アズサはまた踵を返して、先へ先へと歩きはじめる。時折腰を折っては、見栄えのする花を摘み集めている。どうやら花冠は諦めたらしい。流石にここでは引き下がれないので、トウヤもとぼとぼと後を追った。
 下心を見せた一件。つまり――最終的には念力で吹き飛ばされ顔面にチリーンをぶち当てられ挙句鼻血まで垂らすに至った、あの凄惨な事件を出せば、そりゃ、返答に窮するだろう。
 と思いきや、
「うーん、そうね」
 二、三、野花を摘みあげてから、独り言のように、だけど確実に聞こえる音量で、彼女は他愛もなく呟いた。
「私もまさか、その人のことを好きになるだなんて思わなかったし……」
「ああ、うん……」
 トウヤはまた曖昧に相槌を打ち、足先を見ながら、もう二、三歩だけとぼとぼ歩いた。
 それから顔をあげた。
「え?」
 アズサは肩越しに振り返っていた。
 そして、にこりと微笑んだ。


 トウヤは今度こそ歩みを止めた。
 左手が一つ目のボールを鷲掴んだ。

 す。
 え?
 今なんて?
 どうしようハリ。
 僕のメンタルはもうボロボロだ。


「過去形よ?」
 彼女は教本のような綺麗なお愛想を浮かべながら、こてりと小首を傾げて見せる。ずるい。おい、そんなのずるいぞ。
「だってあなた、『冗談だよ』って言ったでしょ? 『まさか本気にしたのか』って」
「言っ……たかもしれない」
「言ったのよ。そう言われてちゃんと興ざめしたんだから、私」
 過去の自分の防衛本能が放たせた醜い醜い苦肉の策が、彼女の目前を掠めたあと、彼方を旋回して、ぎゅんぎゅん加速して、己の急所に突き刺さった。そう、ずるいのは、まことに自分なのである。
 別に、悔しいとか、惜しいことをしたとか、デカい魚を逃したとか、ああしていればこうしていれば、という未練がましい考えが、トウヤの中に瞬間的に次々沸き起こったりはしなかった。正直本当にその手の後悔は不思議なほどに起こらなかった。ただ、ただ、意味が分からなかった。自分が何をして、その働きかけにより、結果ああなったことの裏側で彼女の心境がどうであり、どう変化していたのかということが、全霊をかけた演算の結果、まるで、意味が分からなかった。
 頭は真っ白なのに、顔面はいよいよ湯気でも立ちのぼらせそうだ。泥酔しているときとどっちが真っ赤か比べてやりたい。「ちょっとやめてよそんな顔するの!」とアズサが声を立てて笑った。化粧でなく、ほんのりと紅潮したその素顔が、やっぱり、妙にかわいかった。
「ああ、もう……」
「はー、おかし」
「頼むからからかわないでくれ」
「こっちの台詞なんですけど。教えといてあげるけど、なんでもかんでもたぶらかしてたら、あなた、じきに痛い目見るわよ」
 もう見てるよ、と言いかけたが、ボールが揺れたので我慢できた。ありがとうハリ。聞かないでくれ。
「なんでもかんでもってことはないよ」
「あるわよ」
「なんでそう思うんだよ」
「だって」
 両手に花を携えた、五つも年下の女の子が、黒マントを翻してまた振り返る。振り返って笑う。
「知ってるのよ。お兄さん、私のこと、好みのタイプじゃなかったでしょ?」

 ふわり。耳元で揺れる猫っ毛。
 きらきら光を弾く瞳。
 なめらかに膨らむ薄紅の頬。
 花弁みたいに澄んだ唇。
 それがためらわず紡いだ『嘘』。

「私があと五年早く生まれてたら、私のこと好きになってた?」

 無邪気が繕われたように聞こえたのは、高慢な思い込みなのだろう。
 何が正解だったのだか、多分、永遠に迷宮の中だ。
 でも、それで良かった。だからトウヤは目を伏せて、身勝手な夢見心地に幕を引いた。

「君があと五年早く生まれてたら、僕になんかきっと見向きもしなかったよ」

「――そうかもね!」
 アズサはくしゃっと笑った。
 今日一番の、花の咲いたような笑顔だった。
 駆け寄ってくる。背後を取られる。両肩を掴まれ、すとんとその場に座らされるのに、トウヤは抵抗しなかった。抵抗できなかったと言ってもいい。後ろで縛っているマフラーを勝手に解いて、作りかけの花束と一緒に、膝上へと投げ込んできた。不自然なまでの奔放さ。
「ハサミ持ってるでしょ?」
「君まで僕を殺したいのか」
「ばーか、髪よ。そのままヒビに行ったら恥ずかしいわ」
「そんなに変かな……」
「そんなに変よ」
 手先の不器用さを指摘すると、「美容師さんが男だったら嫌だから、私もセルフカットなので」と自信満々なご様子だ。それを言うなら、男の髪なんか、触りたくもないだろうに。男扱いされてないんだな、という薄っぺらな嫌味は、そろそろ封じ込めておこう。ハサミを取り出して、でも、少し迷った。手渡してしまう前に、もう一度だけ念を押したい。
「……どうしてこんなに世話を焼いてくれるんだ」
 半ば見上げてくる男に対して、背後に膝立ちしていた女は、前を向け、と言う代わりに、両手で頭の向きを矯正した。
「友達を助けるのに、理由なんかいらないでしょ?」
 『友達』か。
 命名された関係性に、気恥ずかしさと、無性な幸せとを噛み締める。
 左手に目を落とす。几帳面な巻き目の包帯。むっつり顔をしかめながら「俺も頼れ」と叱ってくれた、年下の友人の優しさを思う。『宿り木の種』は、いつの間に、彼らに根を下ろしたのだろうか。彼らに種を投げつける権利を、いつの間に、僕は許されていたのだろう。
「タケヒロが嫉妬するかもな」
 顔を見れずにハサミを上げれば、
「ミソラちゃんも嫉妬するかもね」
 軽快な返事が、それを受け取る。
「……お願いします」
「お任せください」


 小気味よく刃の合わさる中で、それから、色んな話をした。
 ずっと眠れなかったのだと、はじめて人に白状した。飯も受け付けなくなったと。長い長い暗闇だった。ハシリイでグレンの正体を確信して、キブツで父の死の真相を聞いて、ミソラが誰かを殺すと言いはじめて。ハリがいた、ハヤテがいた、メグミがいた。なのに心細かった。胸に抱いて、口を噤んで、ただ歩み続けたトンネルの、どこまでも果てしない闇の向こうに、けれど、ちゃんと終点は待っていた。
 気付いていた、と、アズサが言った。
 ユニオンから戻ってきたとき、久々に見たあなたの顔が、あんまりにも痩せていた。あんなに一気にやつれられれば、病んでいることくらい嫌でも分かる。なのに、正体を明かすのが怖くて、何も言うことができなかった。辛いときに、力になれなくて、ごめん。
 そうか。なんだ。知っていたのか。
 心の奥にひた隠しにして、自分を疲弊させ続けてきた大きな重石が、細かな粒のようになって、次第に蒸発していった。そうだったんだな。知ってくれていたんだな。今、ようよう荷を下ろせた。こんなにも、安心して、誰かと話をしているなんて、本当に、いつぶりだったのだろう。
 眠れないことも。飯を食えないことも。体調が悪いことも。過去に犯した罪のことも。隠さなきゃいけないと思っていたことを、アズサは、全部知っていたのだ。
 怯えていたんだ、必死に隠してきた重大なことが暴かれることを恐れながら、ずっと生きてきたんだと、トウヤはこのとき、やっと気付いた。そして、あっさりと暴かれてしまえば、抱え込んでいたものが取り立てて重大ではなかったのだということも、ふと、受け入れることができた。
 自分を殺すと言っている子供と同じ部屋で、安眠できるはずもなかったことを、少なくともこの女には、話してもよかったのではないか。遣る瀬のない後悔が、降ろした瞼の内側に、熱く切なく膨らんでいった。せめて、相談していれば。誰かに知ってもらっていれば、もっと良い方法を、一緒に模索することもできただろうか。


とらと ( 2019/05/18(土) 21:09 )