月蝕



小説トップ
月蝕
12−5

「ツー、お前、僕を掴んで空を飛べるか」
 片や体長一メートルあるかないかという小柄なピジョン、片や細身とはいえ体長一コンマ八メートル近くある大荷物だ。無理難題にも思えるが、そこが『ポケモン』と呼ばれる生命体の摩訶不思議なところである。後から聞いた話だと、進化前の小鳥のポッポですら、その気になれば、子供とその旅荷を抱えて百キロ以上の距離を飛行することもできるのだそうだ。
 両肩をむんずと鷲掴み、二度三度乱暴に羽ばたくと、ツーはトウヤの要求を見事に達成してみせた。
「いいぞ!」
 みるみるうちに上昇、ぐんぐんと遠ざかっていく。嬉々とした声が降り注いでくるが、ツーは酔っ払いみたいにふらついているし、どうして怖くないのだろうか。呆れ半ばで見上げるミソラの横で、タケヒロは手持ちの信じられないパワーを前に、拳を突っ込めそうなくらい口をまんまるに開けている。
 コツを掴んだのか、少しもしないうちに翼をどたばた動かさなくてもまっすぐ飛べるようになった。ハガネールの体高、つまりミソラたちの目線の高さまで降下してきて、停空する。肩を掴むツーの両脚を握りつつ、トウヤは実に生き生きとした顔をしている。
「先に行って偵察してこよう。危険はないとは思うが」
「飛びたいだけでしょ」
 アズサに茶化され照れたように笑いながら、左手を離し、ボールにハリとハヤテを収納した。僕なら片手でも離せないな、とミソラはそれを見て考えた。それはツーへの全幅の信頼か、はたまた命知らずにも等しい度胸か。
 フルルルッ、と背後で耳を擽る声。先輩鳥のレンジャーピジョットは、「ワタクシをお忘れなく」というような顔をして飾り毛をたなびかせている。
「レジェラも飛んでくれるのか」じゃなかった、とトウヤは言い直した。「レジェラさんも。……ポケモンに敬語って慣れないな」
「夕方にはユニオンへ発つんですから、お休みになっててくださいよ」
 コムスメよ、見くびるなよ。悠々と頭を振り、姿勢を低くする。背中に乗せてくれるらしい。
「誰が乗りますか?」
「せっかくだから子供が乗せてもらえば?」
 半日揺られ続けてきたのが止まったばかりでクラクラして、あまり気分がよろしくない。あと怖い。ミソラはタケヒロとしずしずと目を合わせる。タケヒロも乗り気じゃなさそうだ。
「いいよ俺は、ポケモンで飛んだことねえし」
「練習じゃん」
「気分じゃねえし……」
 二人が振り返ると、アズサは解放したチリーンのスズを胸元へ抱え込んでいる。
「スカッとして気持ちいいわよ? 私はスズちゃんの念力でのんびり追いかけるから」
「ず、ずるい……」
「歩いていくわ、俺」
「あ、私もそうします。ほら、乗り方が下手だとレジェラさんにも悪いですから」
「乗せてくれるって言ってるんだぞ、どっちでもいいから早くしろ」
 早く飛んでいきたくてウズウズしている人が急かすと、んみゃあ! と鳴いてニドリーナがジャンプした。どすん! 無遠慮に飛び乗っても、鍛え上げられた体躯はびくともしない。頭まで駆け上がるリナににこり、レジェラは笑顔で頷くと、何やらアズサに向かってぴょっぴょと鳴き声をあげた。――いや、アズサではなく、彼女が抱いている奇天烈に向かって。
 ちりーん! 涼やかな鳴き声と共に、突如湧き出た謎のオーラに包まれたタケヒロが、ふぎゃっ!? と叫んで浮き上がった。
 そしてレジェラの背中にべしゃんと叩きつけられた。
「へぶっ!」
「よし、行くぞ!」
 声を合図に、ばさん! 翼が振るわれる。羽毛にしがみつくタケヒロの滑稽な姿が見えたのは一瞬だけだった。風圧と共に巨鳥は空へ。少年ののびやかに響く奇声を、いってらっしゃーい、とミソラは笑顔で見送……ろうとしたが、それは叶わぬ願いだった。
 がしっ。
 両肩が巨大なものに掴まれる。
「へ?」
 問答無用。
 あっという間に足が地を離れ、あっという間に全身が重力に逆らいはじめた。
「……、」
 ぐんぐん上昇する。さらばアズサさん。さらばハガネール。さらば安寧の大地よ。
「……っ、」
 あまりの恐怖に、叫び声すら、口から飛び出すのを躊躇った。
「……っぎゃああああああー……!!」
 何度かポケモンに乗って空を飛んだが、「掴まれて」飛んだことはない。足場がないとこんなにも恐ろしいものか。レジェラの屈強な両脚へ死に物狂いでしがみつく。さっき片手を離したトウヤの感覚がどれほど常軌を逸しているのか本当の意味で理解した。それと捕食される生き物の気分も。
「いやだああああああ」
 先を飛びながらこちらへ振り向くトウヤがさも愉快そうに笑っている。今こそ酷い目に遭わせたい。
「叫んでないで見ろ、本当に水だぞ。植生もある」
 先刻から見えていた、光るもの――眩く揺れる水面、その周りを取り囲み水に向かってグラデーションに濃くなっている植物の群落に、トウヤは相変わらず興奮気味だ。だが半泣きのミソラはそんなものに構っている余裕はない。
「降ろしてええええ……!」
「オアシスってやつか?」
 頭の上の方で叫ぶタケヒロの声がどことなく浮ついているのも恨めしい。レジェラが背に乗せるのを選んだのが僕だったら、僕だって景色を楽しめたのに。
「この間の雨だろう。デカい『水溜まり』だ」
「雨水が流れて、ここに集まるのか」
「おそらくハガネールの轍だろうな。ずっと不思議だったんだ、あんなに巨大なハガネールが棲みついてウロウロしてるなら、もっと地表がぐちゃぐちゃになっていても不思議じゃない」
 近づいてくる。白い岩石砂漠の中に、群れる緑、そして晴れた空と砂の色の溶け合ったような淡い青。水辺にぽつぽつと別の色が見えるのは、あれは、野生のポケモンだろうか。
「多分決まった道を持っていて、地上を移動するときはなるべくそこを通るようにしてるんじゃないか。同じ場所さえ通っていれば、その道は岩も均されて人やポケモンの通用路になる。雨が降れば、その道を雨水が流れて、こうしてひとところに集まる……いや、轍が先か、ワジ(涸れ川)が先か、分からないな。ワジが平面で通りやすかったから、道として選んでいたのかもしれない」
 全然話が頭に入ってこないミソラの目の前で、トウヤがまた左手を離した。よく考えたら右手も力が入らないはずなので、実質上空でツーの鉤爪任せだ。見ているだけで身の毛がよだつ。
 一つ目と二つ目のボールを取り、下手投げで放る。赤と白のカラーリングを交互に見せながら落下していくボールは、水辺からかなり離れたところで解放された。
 湖の真上で滞空する一行が見守る中、ハリ、ハヤテの二匹は、水面と陸の境目で群れている灰色のポケモンへと早足に近づいていく。……グラエナだ。警戒しているのか、じりじりとしか動かない。今にもバトルに転じそうにも思われたが、やや距離を置いた場所でハリとハヤテが立ち止まると、ほどなくして、群れで一番大きな個体が自ら二匹へと歩み寄ってきた。
 そこから一分か二分ほど。上空の鳥とヒトとへちらり顎をあげたグラエナたちは、口々に高い遠吠えをあげてから、背を向けそそくさと立ち去っていく。交渉は成立したらしい。
「よし、降りよう。ツー、疲れたろ。悪かったな」
 水際に着地してくれ、とトウヤが促すと、ツーは従順に地表を目指しはじめた。レジェラはというと、内臓が浮き上がる感覚を思ってミソラがやだやだと喚くので、困って後輩鳥の成り行きを見守っていた。

 さて、ツーはいかにも真面目で優秀で将来性のあるピジョンである。が、人間でなくても、こんなにも重いものを掴んで飛ぶのは初体験だ。それなりに疲れが出始めていた。「水際に着地してくれ」という指示を生真面目に了解した彼は、もうすぐ降りれる、という安堵感により、正常な判断力を鈍らせていた。
 「水際」に着地することを目指して、湖上を斜めに切り込むように、急ぎ滑空していく。
 まったくいつも通りの目測で。
 足の下にぶら下げている物体の体長などお構いなしに。
「え? あっ、ちょ、危な」

 ――ざぱあ!
 岸から数メートル離れた場所に何故か着水させられたトウヤが、派手に水飛沫をあげた。意外と水深があるらしい。
 思わぬ逆方向の力を受け爪を離しぐるぐる回転したツーは、どしゃんと岸部に墜落した。わたわたと駆け寄ってきたハリとハヤテの視線の中で、すぐに起き上がって羽根を振るった。怪我はなさそうだ、良かった。
 手をかけるまでもなく、酷い目に遭ってくれた。水中で呆然としているトウヤの頭へ向かって、ミソラは自身の置かれた状況も忘れてけらけらと嘲笑を投げつけた。「なにやってんだ……」と呆れた声は頭上から。そして、ホロロゥ、という、なんだか得意げに聞こえるさえずりの音も頭上から。
 何を思ったのか――いや、ミソラの笑い声を聞き、「ふむふむ人間にとってこれは愉快な遊びなのだな」と勘違いしたに違いないのだが――レジェラは突如猛烈に滑空し、ミソラの悲鳴もタケヒロの悲鳴もリナの歓声もトウヤとツーとハリとハヤテの豆鉄砲食らったような顔もお構いなく、必死に縮もうとするミソラの体を、滑空の勢いを伴いながら水面へと放り投げた。
 ――ざぱあ!





 ちなみに、季節は真冬に差し掛かろうとしているのである。
 ……ガタガタと震え鼻水まで垂らしながら黒マントにくるまっているミソラの隣で、「レジェラさん昔からとぼけたところがあるからなあ」とアズサは笑うのみ。この怒りを誰に向かわせればいいのか。レジェラさんは憎めないのであんまり怒る気になれない。やはり『あの人』だ。また復讐ポイントが加算された。
 その『あの人』だが、先程から奇行に走り続けている。
 ……いや、奇行に走っているのだろうか。それとも元からこういう人だったっけ。関係がぎくしゃくしはじめてからの印象があまりにも強いので忘れているだけなのだろうか。でも、やっぱり、「濡れたしついでだから服を洗おう、血が固まって気持ち悪かったんだ」と言ってこの真冬に突然服を脱ぎ出せる人ではなかったような気もするのだ。
 ハガネールもそれに揺られ続ける己らの疲労も気遣っての小休止。痣のある上半身を剥き出しにして(流石に下は脱がなかった)右袖の千切れた服をばしゃばしゃと洗い、ハリの棘に引っ掛けて干している。迷惑げに目を細める案山子草の見守る中で、リハビリと言って突然腕立て伏せをしだしたり、それにくたびれたら次はハヤテと組み手のようなことを始めたり。アズサは大いに目のやり場に困っていたが、それにも気付いているのかどうなのか。
 あの暴露話の後だ、努めて明るく振る舞っているのか、それとも先の墜落で頭のネジが十本くらいどこかへ吹き飛んでしまったのか。見当がつかない。というか、正直、ちょっと怖い。レジェラに技の稽古をつけてもらっているツーに声援を送るあっけらかんとした姿にも、なんだろう、うまく表現できないが、得体の知れない恐ろしさを感じる。人数が増えて持ってきた携帯食料が足りないからとポケモンフードを口にして、あれ、ドラゴンタイプのってこんなにおいしかったかな、と首を傾げながら二十粒も三十粒もぼりぼり貪り食っている姿を見ると、怖いと言うか恐ろしいと言うか、この人を一瞬でも師匠と言って慕っていた過去を、ミソラは後悔するに至った。
 それで、乾いた服を着て次は何をしているのかと言うと、髪を切っているのである。
 そう、髪を切っているのだ。
「一体何考えてるんだか……」
 アズサも呆れ返っている。常識的な感想を共有してくれる人がいるのはミソラの唯一の救いだった。
 ヒビに行くなら多少は小綺麗にしとかないとと言って、ハサミを握り、アズサに借りた手鏡をハリに持たせ、今は真剣に前髪をつまみあげているところである。それもリハビリのつもりなのか、最初は右手で切ろうとしていたが、早々に諦めて左手に持ち替えた。確かに出会った頃と比較すれば伸ばしっぱなしかもしれないが、別に慌てて切らなければならないほど変ではない。
「不気味ですよね」
「不気味というか、ちょっと心配かな……さっきの話も言いたくなかっただろうし」
 年下に気を遣わせるなんて最低ですよ、といつかのタケヒロのようなことを吐き捨てながら、ミソラは寒さで青褪めた唇を膝頭へと押し付けた。
 さっきの話は、言いたくなかったかもしれないが、言ってくれないほうがよかった。ミソラだって聞きたくなかった。
 この人は両親を『殺した』のだと、信じ込んできた。だが、僕はモモを『殺した』のだと本人の口から聞かされるのは、他人から伝え聞くのとは、まるで違う。本当に『殺した』のだ。自分がまだお伽話の世界で勇者を気取る夢遊病者だったのだと、現実を突きつけられて、痛感した。
 いつか握った手で、いつか抱きしめられた腕で、いつかパンを千切って渡してくれた手で、毒を盛って、彼は本当に殺したのだ。
「……アズサさんは、知ってたんですか? さっきの話」
 風に流されて聞かれぬよう、声をひそめながら問う。アズサはやや逡巡してから頷いた。
「どうしてホウガにいられなくなったのかは身辺資料で知ってたわよ。おうちの込み入ったことは、初耳だったけど」
「ひどいって、思いませんでしたか。アチャモのこと」
「そうね。でも、子供のしたことだから……」
 当時の彼と同じ年頃のミソラの一番聞きたくない、到底受け入れがたい答えをアズサは言いかけて、「違うな」とすぐに首を傾げた。
「やっぱりショックは受けたかも。それでも、私が自分の目で見て知っているのって、今のお兄さんだけなのよね」
 ココウに来て最初の頃にスズちゃんのことを少し話したの、と、アズサはふと零した。
「ミッションだから、まずはお兄さんに近づかなきゃいけないでしょ。スズちゃんに関心があるようだったから、気を引くために薬物依存症なことを説明した。そしたら、あの人、治療法がないか探してみようと言い出して、色々と調べはじめた」
「一緒に調査したんですね」
「違うのよ。最初は「厄介なことになったな」と思った。私、スズちゃんを治すっていうことは、考えないようにしていたから」
 口を開けて涎を垂らしているスズのつるつるの頭を撫でながら、彼女は自嘲気味に微笑む。
「小さい頃こそ、どうにかして治さなきゃ、絶対に治してやるって意気込んでたわ。でもレンジャーの訓練校に入って、ポケモンの心理学とかユニオンやリューエルみたいな組織のこととか、色々と勉強していくうちに、スズちゃんを治すっていうのが、途方もないことのように思えてきた。大人たちも助けてくれない、それどころか、その子をパートナーにするのはやめろって促してくる。無理だ、どうしようもないことなんだって、そのうちに諦めてしまった。考えないように、考えないようにって、心が遠ざけてしまった。それは正直、今でもそう。駄目な『親』よね」
 ミソラは静かに首を振る。ありがとう、とアズサは目を細めた。
「依存性の高いドーピング剤が出回らないように、今は戦いたいと思ってる。でも、この子自身からは目を背けてる。波動が見えても、キャプチャできても、大事なことには結局何も活かせてない。この子が何を考えているのか、私を恨んでいるのか、生きていたいと思ってくれているのか……」
 さわさわと耳元で風が揺れ、眩くさんざめく水面の手前で、トウヤが肩を払い立ち上がる。かと思うと、水を覗き込むようにしゃがみこむ。話が脱線しているのにふと気づいたのか、きまり悪そうにアズサはスズを抱き直した。スズの目は虚空ばかり見つめて、少しも反応を返さない。
「出先で売られてるドーピング剤を回収してきてくれたり、依存症を克服したポケモンの話を探ってきてくれたり。お兄さんが危なっかしくリューエルを追っかけるのをミッションに反して手助けしてると、私、スズちゃんのことも間接的に助けようとしているような、罪償いをしているような気持ちになれた。少し心が軽くなったの。だから、お兄さんには感謝してるわ」
 水面に映っているんだろう髪の毛を首を回しながら確認し、隣で水を飲もうとして波紋を起こすハヤテに、困って眉尻を下げる、炭酸の抜けたソーダ水みたいに張り合いのない彼の笑顔。
 なんで散髪に行かなかったかって? うーん、背後でハサミを扱われるのが、どうも気味が悪くてな。へらと笑いながら彼は言った。ミソラはあの顔も恐ろしかった。
 はあ、と勝手に、どでかい溜息が漏れる。アズサはくすくすと笑った。
「苦労するわね、ミソラちゃんも」
「根っから悪人だって言いたいわけじゃないんですよ。でも分かんなくないですか、あの人、何を考えてるのか」
「それはあるな」
 キャプチャラインでグルグル囲んでチャチャっと人心掌握できたら楽なのにねえ、とアズサがさらりと恐ろしいことを言う。ミソラは笑って流しかけたが、聞き捨てならない言葉を拾って、がばっと顔をあげた。
「掌握できるんですか」
「残念ながら、気持ちを伝えるだけの道具なので。気持ちを伝えて強引に同調させて、興奮を鎮める……」
 言いながら、アズサは若干眉間に皺を寄せた。
「……そういう意味では、多少は心を掌握できると言えるかもね」
「掌握……人心掌握……」
 うっとりと繰り返すミソラを、アズサは呆れ気味に見下ろしていた。
 が、閃いた、と言う風にポンと手を叩いて、
「そか。やってみればいいのか」



「キャプチャ・オン!」
 という上擦りきった声は、スタイラーの持ち主ではなく、ミソラが発したものなのである。
 ぴゅっと放たれた小鼠大のキャプチャ・ディスクは、アズサがやるのとはまるで違った。まず、あの彗星の尾のような青白い光が出ていない。接地すればたちまちに地を掴み走りはじめるはずのディスクは、背の低い草の中にずぶっと埋もれた。動かない。「あ、あれ?」細腕にいかにも大袈裟なキャプチャ・スタイラーを装着したミソラが、素っ頓狂な声をあげる。ディスクの照準の先に座っていた人、つまり、キャプチャ対象の人物は、さして驚きもせず振り向いた。
「……何やってるんだ……」
 トウヤである。問われた二人は、ボタンを押すだけじゃだめなんですね、使い手の精神統一が云々、と完全に二人の世界の内だ。懐疑的視線などお構いなし。
「もう一回やってみます」
「オッケー、まずはディスクを装着して」
「はぐれレンジャー、君の商売道具は子供のオモチャにして許される程度のものなのか?」
「そうよ?」
「否定してくれ……」「えーい!」
 ぴゅっ! ほんの一瞬青白い光が出て、すぐに途切れた。コロコロコロ。ミソラは顔をしかめるが、お、センスあるかも、とアズサは目を丸める。
「そのマシンはヒトに使用してもよいものなんでしょうか」
「ミソラちゃん、お兄さんに伝えたい気持ちがあるそうだから」
「違います、人心掌握です! いけぇっ!」
 接地したディスクが寝転がらず、地上を走った。空色の両目がぱあっと輝く。ほら回して! アズサが叫ぶ。トウヤは億劫そうに左手を伸ばし、へなへなと近寄ってきたキャプチャ・ディスクを、ぺしっ、と虫でも潰すようにして捕まえた。
「あー!」
「人間をキャプチャしたらどうなるんだ」
「どうなると思う? 好奇心を擽られるでしょ」
「冗談じゃないよ」
 言いつつも律儀にディスクを投げ返した。ミソラは間一髪でそれをキャッチする。
「邪魔しないでくださいよ」
「邪魔されることを考慮して撃たなきゃ。ターゲットの妨害を受けないように、手の届かない範囲で円を描くの。でもうかうかしてるとラインを切られるから、出来るだけ素早く回すこと」
「よし、今度こそ」
「おいおい……」
 彼らの脇には、鏡を持って突っ立っているハリ、若草を転がりまくっているスズと、それを追いかけ回しているリナ。それを見て目を白黒させているハヤテ。騒々しさ越しにこちらを向いて、「タケヒロ、助けてくれ」とトウヤが冗談半分に乞うた。――絡んでくるなよ、めんどくせえ。顔面いっぱいに嫌悪をアピールして、タケヒロは一連の光景から背を向けた。構ってられるかっつーの。
 離れていくタケヒロのことなど意に介さず、背後の連中はお気楽な笑い声を響かせている。なんで笑えるんだよ。タケヒロはまた口の中で呟いた。あの火山の化身みたいな恐ろしいポケモンや、トウヤの右腕を食いちぎった敵がいつ襲ってくるかも分からない。メグミの透過能力はもう使えず、広大な砂漠には身を隠せる場所もなく。こんな状況で、レンジャーごっこなんかして、どうして笑っていられるんだ。どっちがピエロか分かりゃしない。
 いや、きっと、ピエロなんかじゃないのだろう。――あいつらは心の底から笑えるのだと、タケヒロは軽蔑の念を抱いた。だって、あいつらは、それでも手持ちのポケモンを殺されたわけじゃないんだから。イズの死を心から悼む俺とは、根本的に違っている。
 上空では、大小一対の鳥ポケモンがつれだって空を飛んでいる。米粒ほどの鳥影は、目に慣れ親しんだ二羽の姿も想起させる。むなしい幻想を追い払うと、タケヒロはひとりきりだった。朽ちかけたトタンの下に身を隠しボロ毛布にくるまって夜を越える、あの冷ややかな孤独よりも、今はうんと孤独だった。
(なんでこんなことに)
 すたすたと歩を速めていく。
(一体誰のせいで……)
 女子供の声が、ふざけた調子で交互にじゃれあう。内容は聞こえないけれど、自分に向けられた声ではなかった。自分を無視して楽しんでいる。あるいは、悪口でも言い合っているのだろうか。言っとけよ。笑ってろよ。薄情者め。俺やイズのことなんか、お前らにとっちゃ、そりゃどうだっていいだろうさ。タケヒロ、と、再び男の声が呼びかけてきたが、それも無視した。放っておいてくれよ。馬鹿馬鹿しいことで笑ってるやつなんかと一緒にいたい気分じゃないんだ。分かるだろ。分かってくれよ。分かってくれなんかしないんだろうけどな。
 除け者にされて憤りながら、構ってくるなと憤っている。
 すっかり卑屈になっている自身の矛盾から、タケヒロは目を背けていた。
「……おーい、あんまり遠くまで行くなよ」
 無視したところで色を変えない男の声。針先に刺激されるたび膨らんでいく苛立ちに、乾いた唇を噛み締める。
(誰のせいで俺がこんな目に遭ったと思ってんだよ)
 一層に歩を速めた。砂を蹴る一歩一歩の喧嘩腰で、早く察して欲しかった。
 『誰のせいで』? 違う。胸の奥に残る悪魔だか天使だか分からないものが、冷めきった目で告げてくる。完全に、自業自得だったじゃないか。発信機を持って逃げると言い始めたとき、お前は巻き込めないとトウヤは止めた。勝手に巻き込まれたのは自分だった。何もできないくせにとミソラは責めた。足手まといは僕だけで充分だと、足手まといがいれば、皆が危険な目に遭うんだと。あの忠告を、己の弱ささえも無視して、タケヒロは強引に首を突っ込み、そして、イズが犠牲になった。勝手に巻き込まれたのは自分で、自分が、罪のないイズを巻き込んだ。
 何度か声を掛けてくれようとしたミソラのことを、塞ぎ込んで無視をした。
 正直に告白して謝罪した事柄にそれでも酷い言葉を投げつけた自分に、アズサが触れづらいのは当たり前だ。
 そうやって他者を拒絶してなお、トウヤが自分を腫れ物にせず普段通りに話しかけようとしてくるのも、気を遣ってるからに決まってる。
 悪いのは、全部自分だった。
(……でも、でも)
 諭すような自身の影を、蹴りつけて、蹴りつけて、追い払う。
(だからって、笑っていられるのはおかしいだろ)
 ふつふつと胸の中にこみあげはじめた幾度目の『怒り』の波を、タケヒロはなんとかやり過ごそうとした。なけなしの雨水に縋ってようよう芽吹いた生命を、踏み折り、捩る。季節外れの新緑と砂地は手応えが薄く、むしろ不満に拍車をかけた。
 ピジョットの大きな背に乗せられて空を飛んで、一瞬でも気持ちがいいと思った自分が嫌だった。見たこともない量の水が鏡のように光っているのを目撃して、一瞬でもわくわくした自分が嫌だった。あいつらみたいに、馬鹿になってはしゃいでしまえば、一体どれほど楽だろうか、タケヒロは何度も考えた。だが、そんなにも惨い裏切り行為を、働くことはできなかった。昨日、イズが死んだ。俺のせいで死んだ。俺がイズを見殺しにした。その俺が、炎の中で身動きもできずに死んでいったイズを悼むことすらせず、げらげら笑い声をあげてるなんて。そんなこと。
 背中側から、げらげらと、耳障りな声が響いてくる。
(なんで、笑えるんだよ……!)
 喪失の悲しみは、いつの間に、怒りに姿を変えていた。誰かに、何かに、腹を立て続けて責任の所在を探さないと、どうにかなってしまいそうだ。それは全く、純粋な追悼などではない。分かってる。それも、分かっているけれど。
 後方から、行く手を遮るように、すとんと何かが降り立った。
「……なんだよ」
 見てろ、と言わんばかりに胸を張り、ツーはもう一度飛翔する。
 ひらりと空へ舞い上がり、呼吸を整えるように一度停空。突如、両翼で後方へ空気を打ち、何もない場所へぎゅんと滑った。ひらめく刃先のように光を帯びた翼は、一閃切り込み、目にも止まらぬ旋回ののち、同じ場所へ間髪入れずのもう一撃。見たことのない素早さだった。
 続けて体勢を整え、きりつめた威勢の声をあげながら、翼を前方へ、空気を押し出すように撃ち放つ。お得意の『吹き飛ばし』と同じ要領の動きだが、放たれたのは逃走するための風ではなかった。一陣の渦をなした風は目に見えるほどのエネルギーを伴って、根の浅い草を攻撃的に弄り、砂を撒き散らし、そして水までもを掻き上げていく。
 葉の残骸と砂塵と水飛沫とが、一緒くたの雨になって、傍らのタケヒロへも襲い掛かる。
 瞬く間の嵐が止むと、ツーは元の場所に立っていた。披露した攻撃は非難めいた激しさだったが、当の本人は、目を輝かせて主人を見ている。『燕返し』と『竜巻』、どちらもタケヒロが名前すら知らない技。
 まさか、褒められるとでも思ったのか。
「俺は技の練習をしろなんて言ってない」
 反射的に、そのまま声を叩きつけた。ツーは目を瞠った。タケヒロは顔をしかめると、振り向き、いつの間に背後に控えていた、自身の背丈ほどもある巨鳥へと、
「ツーは俺のポケモンだぞ。勝手に野蛮なことを教えるな!」
 吠えた。勝負してすらいないのに、それは負け犬の遠吠えみたいに、舌の上に苦みを残した。
 レジェラは微動だにせず、泰然として、ヒトの子供を見据えている。そのさまが更に癇癪を増長させる。ツーはといえば、主人の不躾に対して金切り声をあげてまで、反発の意を示すのだ。敵を牽制するみたいに。
「なんなんだよ」
 その姿に、かっと目の奥が熱くなった。
「なんなんだよお前」
 ぶちぶちと、全身の血管が、一斉に破裂していくような感覚がする。足が震えはじめていた。膝を抱えて丸め込んでようよう押さえつけていたものが、そのとき、遂に、顔をもたげた。目も当てられぬほど醜い、醜い容貌をしたなにかは、腹の底から這いあがり、生臭い瘴気を撒き散らしながら、喉をこじ開けようとする。
 身を守るための、たくさんの凶器を身につけた、肥大した虚栄心の怪物だった。
「何してんだよお前。さっきから何楽しそうにしてんだよ。なんで平気で技の稽古なんかできんだよ」
 威嚇するように、ツーはくちばしを開いた。ああ、こいつは今や敵なのだと、そこではっきりと理解した。唯一の理解者でいてくれてもいいはずだった。孤独な悲しみの底なし沼に、共に沈んでくれたはずの手持ち。薄皮一枚のみを纏ってやっとのことで耐えていた、膨張しきった感情を、つっついて破裂させてしまうのに、そのくちばしは適任すぎた。
「お前、イズの兄貴だろ」
 怪物が、喉を震わせて飛び出していく。
「おかしいだろ。おかしいだろ、お前。なんでそんなに薄情でいられるんだよ。なんで悲しんでねえんだよ。おかしいだろ……ッ! イズは、死んだんだぞ!?」
 吐き切った瞬間、声が届くのを拒否するように、ツーがけたたましく翼を振るった。
 『吹き飛ばし』。五、六メートルも宙を舞った。ろくに受け身も取れなかったが落下した場所は柔らかい砂地の上だった。体に受けた傷よりも、心に受けたショックの方にずっと打ちのめされていた。砂利まみれの唾を吐き出し、頬にへばりつく砂を拭う。タケヒロ、タケちゃん、と、今更にミソラやアズサの声が聞こえた。急いた足音が近づいてくる。来んじゃねえよと気が付けばタケヒロは叫んでいた。怒りか悲しみかもうなんだか分からないどろどろにへしゃげた感情を、誰にも見つけられたくなかった。それでも足音は寄ってくる。
「タケヒロ、大丈夫!?」
 滑り込むように膝をついたミソラの青くてきらきらした目が、眩しかった。右腕にはキャプチャ・スタイラーが巻き付いていた。ヒーローじみた真っ赤な色に、互いの立てる場所の差を、ひけらかされていると錯覚した。
 両手で、力任せに突き飛ばした。
「ずっと馬鹿にしてたんだろ!」
 ミソラが尻もちをついた。アズサがそれを支えた。
「どうせ俺は捨て子だから、どうせ俺は弱いから、みんなして馬鹿にしてたんだろ!」
 自分で何を言っているのか、意味も分からず叫んでいた。どうしてかそのときになって飛び出てきたのは、長年溜め込んできた膿だった。目に入らないように、隅に置き去りにしてきた感情。厚く埃を被せていても、存在を忘れてしまうことはなかった。
「芸して土下座して投げ賃貰って、廃材かき集めて汚ねえ服着て生活して、強いやつには噛みついて、噛みつくくせに口ばっかで、ちっとも強くなろうともしないで」
「待って、タケヒロ、どうしたの」
「お前、それは、当てつけかよ、弱い俺への当てつけか、俺は使えねえ主人よりもこうやって強くなったんだぞっていう、当てつけかよ!?」
 唾を飛ばして叫んでも、ツーは何も返さなかった。
 細い両脚でどっしりと地を掴み、きりきりとした眼光でこちらを睨みつけるさまは、異様に大きく感じられた。
 頭に、顔面に、血がかけのぼる。
 手持ちポケモンが奪われたから、膝を抱えて塞ぎ込んで捻くれているタケヒロと。半身にも近い妹が奪われたから、救世主のように現われた強者に指導を乞うて強くなろうとするツーと。
 どっちが正しいのかなんて。
「そんなことないよ、タケヒロ。誰もタケヒロのこと馬鹿になんかしてないじゃん」
 折れずにミソラが割り入ってくる。その顔を見たのが不味かった。困惑した目。同情した目。憐れんだ目。慰めるような目。
 ほら、そうやって、お前も上から目線じゃねえか!
「うるせえ」
「多分、ツーが技の練習してるのも、純粋にタケヒロのために」
「うるせえよ」
「あんな言い方したらダメだよ。ツーだって、本当は辛いだろうに元気出して一生懸命……、だから、タケヒロも」
「――元気出せなんて、簡単に言うな!!」
 ありったけの拒絶を込めた雄叫びは、悲鳴と表裏だった。ミソラの憐憫の表情が、一瞬にして凍りついた。
「お前が殺す殺す言い始めたときは俺が何言っても聞かなかったじゃねえか、お前はいつも自分勝手なのになんで俺ばっか我慢しなくちゃいけねえんだよ、お前なんかもううんざりなんだよ、もう、ほっといてくれよ……!」
 長らく一緒にいたからこそ、ミソラが何を言われたくないだろうかは、よく分かっているつもりだった。分かって凶器を振り回していた。そうでもしないと、じりじりと自分を追い詰めていく目には見えない何者かに、今にも踏み潰されてしまいそうだった。ミソラまで、上から目線で自分を憐れむ。馬鹿にされたくない。疎外されたくない。取り残されたくない。腫れあがった恐怖心が、ではなぜ他人を拒絶してしまうのか、タケヒロは自分で理解ができない。
 だが、凍りつかせた表情を、ミソラは一瞬で溶かして見せた。
「……ほっとけるわけないじゃん」
 自分を思いやって、悲しげに歪む蒼穹に。
 心臓が引き絞られる。
「黙れよ! お前に何が分かるんだよ!」
 地面を蹴りつけ、砂を浴びせかける。怯んだミソラに畳み掛けるように叫び続ける。体の内側で連鎖的に爆発していく感情が、その熱量が、みるみるうちに僅かな理性を焼き切っていく。
「俺はどうせ路地裏で死んだように生きてる汚ねえ捨て子だ、ちゃんとした家で大人に守られてのうのうと生きてきたお前とは違うんだよ、分かって欲しくなんかねえんだよ!」
「タケちゃん、落ち着いて」
「姉ちゃんだって、ずっと俺たちを裏切っておいて、仲間みたいな顔して、そんなん許せねえよ、なんで許されると思えるんだよ、図々しいにもほどがあるだろ」
 この言葉がどれほどアズサを苦しめるかくらい、ちゃんと理解していた。ずっと見てきたから、ずっと思ってきたから、そのつもりだったから、いま彼女が何を言われれば傷つくのかくらい、やはりタケヒロには分かっていた。
「信じてた俺の気持ちはどうなるんだよ。ずっと好きだった俺の気持ちは……っ、だから、俺が、どんだけ傷ついたかなんて、これっぽっちも分からねえくせに偉そうにしてんじゃねえふざけんな!」
 大事なもの、胸の中で大事にしてきたもの、大事に育ててきたものを、ぶちまけて、踏み躙っていく。アズサの顔が真っ白に見えた。その顔は瞼にくっきり焼き付いた。被害者面のようにだって捉えられるその顔を見て、更に頭に血がのぼって、のぼって、視界が霞んでぐらぐらする。傷つけて、踏み潰していくたびに、スカッとしてもよさそうなものが、なぜか不安や後悔や恐怖心が恐ろしい勢いで膨らんでいく。それを乱暴にはねつけるために、また攻撃しなければならなくなる。
「分かるか? 赤ん坊のときいらねえからって捨てられて、ずっと捨て子として生きてきて、そしたらグループのやつらに裏切られて、でもやっと友達とか信じられる仲間とか集まれる場所とか、俺にも出来たと思ったら、ミソラも、アズサも、グレンも、ツーまで、みんな裏切りやがった俺の気持ちが。分かんねえよな。みんな、みんな簡単に裏切りやがって……!」
 お前だって、と振り返る。
 トウヤは離れた場所にいた。
 殊更に、そのことに愕然とした。ミソラたちに遊ばれていた先程の位置に、彼は立ち上がっているだけだった。ハリやハヤテなんかの方がまだタケヒロに歩み寄ろうとしていた。こちらを見はしていたが、どんな顔をしているか分からなかったのは、それほど遠くなのではなく、タケヒロの視界が、歪んで、震えていったからだった。
「お前、お前は」
 なんだよ。なんで助けてくれねえんだ。
 いつも助けてくれたじゃねえか。
 お前まで、俺のことなんか、もうどうだっていいと思ってたのか。
「……お前だって! 姉ちゃんもグレンにもミソラにも裏切られて、なんで平気な顔してるんだよ、なんで笑ってるんだよ、怒ってる俺だけがこれじゃ悪者みてえじゃねえか」
 声は、いつの間に、みっともない泣き声混じりの、ぐしゃぐしゃの声になっていた。
「イズが死んで、ココウにいられなくなって、こんなことになって、お前の……ッ、お前のせいで、こんなことになったのに! 全部、お前のせいなのに! へらへら、笑って……ッ!」
 言うほどに、悲しみがこみあげる。
「そんな冷たい奴だと思わなかったよ」
 振りかざす凶器は、自分の心まで切り刻んでいく。
「ポケモンを殺したことがあるからなのか」
 タケちゃん、と、再度アズサの声が、耳から入り込んだ。その咎めるような、トウヤに味方してタケヒロを責めたような響きが、強烈に胸を掻き毟った。誰も味方はいない。全部、全部俺が悪い。でも振り上げてしまった刃を今更引っ込めることもできなかった。そんなことを言ってはだめだと、ちゃんと分かっていたはずだった。
「ポケモンを殺して、涼しい顔して生きて――」
 何も見えない。目の裏にあるもの、腹から喉奥までつっかえた大量のへどろを、すべて焼き払ってしまうために、声を嗄らして、泣き叫ぶ。
「――そんなの本当に『化け物』じゃねえか!!」

 そのとき。
 どん、と、鈍い力が、真正面から胸を突いた。
 痛み。衝撃。がはっ、と肺の中身を吐きながら砂地に叩きつけられた体が、押し潰されて、動かせなくなる。見開いた目の前は、緑と黒に覆われていた。その中に一対の大きな満月が、その中央の深淵の黒が、こちらへ杭を突き立てていた。
 明確な殺気があった。
 理解する僅かな時間すらない。即座に空へ、棘のある右腕が、人間と比較すれば遥かに強力な剛腕が、振り上げられ、そして、
 まっすぐに振り下ろされた。

「――ハリ!!」

 怒号が飛ぶ。
 そうでなければどうだったろう。
 ぴたっ、と、鼻頭に触れて止まった右腕は、タケヒロの頭を、本当に木端微塵にしていたのではなかろうか。

 ……遅れて、獰猛に騒ぎはじめる心臓の拍動。ひっ、ひっ、と妙な呼吸音を響かせる真っ赤な顔をしたタケヒロを、至近距離に見下ろしながら、ハリもまた瞳を震わせていた。ざくざくと足早に近づいてきた男が、案山子草の肩を掴んで、乱暴に引き剥がすまで、ハリはタケヒロに跨ってずっと怒りを露わにしていた。
「タケヒロ」
 脇にしゃがみこんだトウヤの顔を、タケヒロは歯を食い縛って見上げた。
 状況が違えば、切りすぎだろって突っ込んで笑ってしまいたくなるくらい、短くなった前髪。だから表情がよく分かった。その目を見れば、ハリの名を呼んだ怒鳴り声、タケヒロの名を呼んだ声を聞けば、彼が決して本心から「涼しい顔して」生きてなどいないことは、火を見るよりも明らかだった。
 いや、見る前から、聞く前から、ちゃんと知っていたのだ。知りながら、自分が鬱憤を晴らすためだけの言葉で、手当たり次第に人を傷つけただけだった。
 トウヤだけじゃない。ミソラだって。アズサだって。
 ツーだって。
 それを一番知っているのは、一番傍にいた自分であるに決まっているのに。
「ハリが、ごめんな。後で二人で話そう。落ち着いたら僕のところに来なさい」
 それだけ言って立ち上がる。脇に立っているハリの肩を、叱責するように横から殴りつけた。無論ハリはびくともしなかったが、去っていくトウヤの背を追いかける前、一度振り返って見たタケヒロに対して、溜息を吐き捨てるようなことはしなかった。
 仰向けになったまま、泥に汚れた顔を覆って、タケヒロはしばらく嗚咽が止まらなかった。ミソラもアズサもそこにいたが、何もしてくることはなかった。ただ、黙ってそこにいた。ツーが寄ってきて、主人の体中に付着した砂埃を翼で払おうとした。タケヒロは身を捩ってそれを避けたが、追ってきてからは、やりたいようにさせていた。
 しゃくりあげる合間に、絞り出す。

「分かってるよ」

 誰も、簡単に裏切ってなどいないことも。
 それぞれが胸の中に、それぞれの痛みを抱えていることも。
 それでも、それをどうにかやり過ごしながら、前へ進もうとしていることも。

「分かってるよ……」


とらと ( 2019/04/03(水) 20:56 )