11−10
「――――噛み砕けッ!」
激昂したキノシタの指示と同時に、トウヤは地を蹴った。
引き戻されかけた右腕の拘束が急になくなり、体が前進する。一歩。バランスを崩し床に突く左手が鎌の柄を掴む。二歩。一気に立て直す。左腕を振り上げる。鈍色の刃先の光が尾を引く。目を見開いたキノシタの背後に、影が躍り出る。姿を現した。ゲンガーの実体だ。
三歩、踏み出しつつ、振りかぶった鎌を、トウヤは全力で投げつけた。
三日月形の鋭利な光はほぼ直線を描きキノシタの顔の横を抜けた。向かう先で『シャドーボール』を起動しかけていたゲンガーが、闇に掻き消えた。その虚空を凶刃は貫いた。護衛のいなくなったキノシタへ、投げた動作のままの流れで、前方へ伸ばした左手を、トウヤは叩きつけた。身を引きかけていた彼の右腰へ。トレーナーベルトに並ぶ六つの紅白球へ。
指先が開閉スイッチに触れた。
カチリ、という軽い音が二回、ほぼ同時に聞こえた。反発する感触のあと三つ目と四つ目のボールが割れた。赤い光が一筋、納屋に秘められた闇を真っ二つに切り裂き、右後方の影の中へと突き刺さり、そこに潜むゲンガーを問答無用で収納した。片方は不発。一体残っている。追って跳びかかってきた、血塗れのクチートが、トウヤの背骨へ顎を振り下ろそうとした。
――その体側に、若い翼が、全力の『電光石火』をお見舞いした。
気絶していたと思われていたピジョンの奇襲。標的をトウヤのみに絞っていたクチートは納屋の奥へと吹き飛ばされた。キノシタがそれを目で追ってしまった一瞬の隙、トウヤは彼へ右肩から突進した。
自分諸共男を引き倒しながら五つ目と六つ目のボールも叩く。クチートが成す術なく赤光に呑みこまれる。キノシタが叫びながら右手を伸ばす。ボールに収納された従者たちを再び解放しようとした手首を、左足で強く踏み躙る。上半身に圧し掛かり動きを制すと、トウヤは痣の左手で、キノシタの首を鷲掴みにした。
嘔吐くような声がひとつ漏れた。構わず、柔らかな急所に赤黒い指をめり込ませ、迷いなく、全力で握り潰した。
目玉をひん剥き、狂ったように足掻くキノシタの体を、左腕を震わせながらトウヤも必死に抑え続けた。片手で的確に圧迫するのは殊の外難しかった。永遠とも思える時間、互いの身動ぎと荒い息遣いが響くだけの、沈黙の攻防の時が流れた。
やがて、キノシタは動かなくなった。
服を握り絞めていたキノシタの左手が、急に力を失って、ただの棒切れのように、バタッと床に落ちた。演技である可能性も考慮してそこからしばらく絞め続けたが、それきり動かなかった。
自身も目を見開いて、喘ぐような呼吸を肩で繰り返しているトウヤは、彼方へぶん投げてしまった冷静が戻ってくるに従って、腕にかける命懸けの力を、少しずつ緩めていく。
――勝ったか? 本当に? 勝った。勝ったんだ。だが休んでいる暇はない。失神させただけだ、すぐに意識を戻すだろう。この人は死んだ訳じゃない。僕は殺した訳じゃない。この人が目を覚ます前に、やるべきことをして逃げなければならない。次の行動を迷わぬよう、脳味噌の皺に塗りこむようにひたすら言い訳を浮かべながら、男の体を解放した。彼の右腰で暴れている三番目と六番目のボールの開閉スイッチを操作し、誤って開かぬようロックを掛ける。キノシタの体をツーと協力してうつ伏せに倒し、両手首を背後に纏める。何か紐のようなものがないか一周見渡したが見当たらないので、自分の左腕に雑に巻かれている包帯を、歯で引き千切って解いた。キノシタの手首、そして足首を、包帯で素早く縛っていく。口を使って片手で縛るのは慣れている。左手だろうと問題なく遂行できた。
ちょうど今日の昼間、あの白穂の草原で、頸動脈洞を圧迫して相手を失神させる仕組みを偉そうに説明していた。ミソラの顔を追想すると罪悪感がそうになるからとにかく頭から追い出した。だが追い出してしまうと、追い出して生まれた間隙に、次々と別の顔が浮かんできた。ハリ、ハヤテ、メグミ。タケヒロ。アズサ。グレン。おばさん。ヴェル――父さん。母さん。おねえちゃん。
待ってくれよ。そんな顔をしないでくれよ。殺しちゃいないよ。この人は死んじゃいないんだ。だって、だったら、僕はどうすればよかったんだ?
幸運にも――幸運にも、と必死に思い込むしかなかった――キノシタは一向に目を覚まそうとしなかった。何故こんなにも非道なことばかり思いつくのだろう、キノシタの体を納屋の奥まで引き摺って、大量に積んであった麻袋を上から被せて覆った。少しでも時間稼ぎになればと、クチートとゲンガーのボールはベルトから外し、ばらばらの場所に隠した。
片方を戸棚の奥に突っ込んで閉めて立ち上がろうとした時、あとは逃げるだけ、という思いが、心の中に過ぎった。その瞬間、ふっと目の前が真っ白になって、床に崩れ落ちた。
ツーがやかましい鳴き声をあげながら跳ねて近づいてくる。トウヤは左腕で、なんとか体を起こした。そうだった。自分だけじゃない。この子も逃がしてやらなければ。翼は折れているようには見えないが、健全に飛べる容態ではないようだ。よくやったな、と雑に頭を撫でてやると、そんなことを言ってるんじゃない、と言わんばかりに、ぶんぶんと頭を振る。ツーの言いたいことは分かっていた。
考えないように、考えないように、いくら無視しようと試みても、右腕の、肘と呼ぶべきあたりの位置から、実際に『続き』がなくなっている。行き場をなくした鮮血が、そこから絶え間なく滴り続けている。
這い蹲らされていた場所へ目を向ける。いくらか血の跡が残っているが、他には何も残っていない。ああ、――僕の、僕の右腕は、一体どこへ消えたんだろう。クチートの顎の中に納まって今頃はモンスターボールの中か。そこに吐き出されているか、あるいは、胃袋の中だろうか。
眩暈が収まるのを待ちつつ、余った包帯を左手に取る。右の、体に残った二の腕に数周巻き付け、出来る限りの力できつく縛り上げていく。トウヤの仕草と、キノシタが埋まっている方へと交互に顔を向けながら、ツーが不安げに見守っている。
包帯の端を噛み食い縛り、左手と反対側にぎりぎりと引き絞る。努力を嘲笑いでもするように、黒い血はあとからあとから流れ落ちていく。なかなか止まらない。体が冷たくなっていく気がする。自分で自分を痛めつけているような錯覚に囚われながら、それでも懸命に止血を試みた。
――死にたくない。
――死んでやるもんか。
――死んでたまるか。
唐突に、訳のない涙がこみあげてくるのを、トウヤはなんとか呑み下した。
ハガネールと逃走したというアズサたちとの合流方法などまったく思いつかなかったが、とにかくここに留まっていることはできない。連絡が取れないことを察すれば部隊員たちはキノシタを探しはじめ、じきにこの場所を突き止めるだろう。応急処置を終え立ち上がりかけた時、そのリューエル隊員の声が聞こえて、また心臓が跳ねあがった。
『こちら第一部隊、ウラミです。隊長、ただいま地下を追跡するための精鋭メンバーを選抜しまして、これよりハガネールの巣穴へと突入を開始します』
――トランシーバーだ。キノシタが投げ捨てた黒いトランシーバーが、そこに転がって音を吐いている。声の主はウラミと名乗った。逃走前に酒場で話した副隊長の男だが、スピーカー越しの声と聞き覚えを一致させるのは困難だった。それほどまでに雑音が酷く、音質が悪い。
冷たい汗が一層に噴き出していくのを感じながら、トウヤは這うようにして近づき、トランシーバーを手に取った。
『ですが、巣穴の入り口が崩落しており、追いつくまでには時間がかかるかと。地上からの追跡も行っておりますが――』
どのくらいの高さだったろう。スイッチを発信用に操作し、先ほどまで耳に捻じ込まれていた声を再生しながら、
「……キノシタだ」
似せた音をそっと送り込む。
はい、と相手は、やや上擦った声で応答した。行けるか。これだけ音質が悪ければばれない。絶対に大丈夫だ。
「一体何の幻覚を見せられたんだ。貴様の目は節穴か? ラティアスは、俺が追っていたトレーナーの方が本物を連れていたぞ」
『……は?』
通信の向こうが、一瞬にして凍り付く。あとから追ってきた恐怖を押し殺し、トウヤは思いつくままに捲し立てた。
「貴様のような使えない男に任せたのは完全に失策だったな。ラティアスはオニドリルへ化けて町の南へ逃亡した。トレーナーも一緒だ。俺も追って町を出たが飛行タイプを連れていない。ハガネールの追跡は中止しろ、総員、今すぐ南へ向かえ」
『……で、ですが……しかしあれは』
「俺の言うことが聞けないのか? 無価値なハガネールなど捨てておけ。第一、第七、全隊を率いて、南へ向かえと言っている! 今すぐにだッ!」
でたらめに怒号を飛ばせば、はっ、と引き攣った声が応答した。そこで強引に通信を切った。
どっ、どっ、と存在感を増す心臓が、まるで別の生き物を肋骨の中で飼っているかのように、獰猛に暴れ続けている。用を終えたトランシーバーを拒絶するように体から遠ざけ、トウヤはその場に蹲った。何か確かなものが欲しくて、顔を覗き込んできたツーを、左腕で少しの間だけ抱き込んだ。ばれなかったろうか。リューエルの隊員は皆、言ったとおりに南へとココウを離れるだろうか。あんなに不自然な指示を聞き入れてくれるだろうか。今頃、隊長に何かあったのでは、と言いあいながら、血眼になって僕を探し始めていやしないか。キノシタに『何か』をした僕に、『何か』をするために、僕を探しているんじゃないだろうか。……いや、いや、違う。皆ココウの町を北から南へ素通りし、誰もいない場所へ向かっていくはずだ。僕は、勝った。成功した。ちゃんと生き延びることができたんだ。
緊張の中に、急激に流れ込んできた安堵感が、全身を鉛のように重くしていく。
無意識に瞼を落としかけたトウヤに、ツーが鼓舞するように鳴く。本当に良く出来たポケモンだった。あの雛をこんなにしっかりした子に育て上げてたなんて、タケヒロもトレーナーとして見所があるな、なんて軽口を叩いていると、現実と虚構の境目がかなり曖昧になっていたことを実感する。視界に入れないようにしていた右腕に、もう一度目をやってみる。肘から先は、やはりどこかへ無くなっている。嘘みたいだった。それでも体が動いていることも、まるで嘘みたいだった。
ゲンガーがボールの中に戻ったことによって『黒い眼差し』の効果は消えていた。真っ暗だった板目の継ぎ間から、ぼんやりとした夕明かりが滲んでいる。壁だと思っていた場所は戸もなく開放されていて、そのまま屋外へと続いていた。
飛べないツーを片腕に抱え、依然として目覚める気配のないキノシタを隠した方を一瞥して、トウヤは朦朧と歩き始めた。
外はまだ明るいようだった。その明るさへ吸い寄せられるように歩きながら、混濁して脈絡もない思考の流れに、トウヤは身を委ねつつあった。嘘八百の指示はあっという間にばれるだろう。でも多分、ハリやハヤテが、ちゃんと探しに来てくれる。誰かと合流できるまで、どこかに隠れておいた方がいい。先の指示を信用せず隊員がうろついている可能性もある、とても逃げおおせる状況ではないから、細心の注意を払わなければ。外は僕に悪意を向けてくる者たちがゴロゴロいるかもしれないんだ。……はて、僕は、どうして悪意を向けられているんだったろうか。キノシタを絞め殺したからか? でも、ああしたことは、まだ誰も知らないはずなのに? どうも上の空になっている。何があって、こんなことになっているんだっけか。ああ、そうだ、メグミだ。メグミを匿おうとしたから、僕はターゲットにされたんだった。で、家を出ることになって。あれ、でも、おかしいな。家を出ようということは、こうなる前からずっと計画していたはずなのに。それが突然に起こってしまっただけなのに、僕はどうして、キノシタに対してあんなに怒っていたんだろうか。あれだけ怒ることが出来るなら、それなりの理由があったんじゃないか……
納屋から、外へと、誰にも見つからぬよう、慎重に顔を覗かせた時。
トウヤは愕然とした。
――真冬を迎えた農村は、閑散としていた。寂れた家々と赤茶けた畑の間に、雑草の枯れ果てた農道が、まっすぐまっすぐに伸びていた。ひとっこひとりいない。トウヤに仇なそうという連中なんて、誰一人としていなかった。痩せたホルビーがこちらを見つめ、数羽のズバットが音もなく飛び交い、遠くの屋根の上で、ちんまりとしたホーホーが何度も首を傾げている。頭上を覆う雲は千切れかけ、東には藍の空が、西には柔らかな茜の空が、ところどころに見え隠れしていた。目に映るすべてのものは、暮れの深みのある橙色に、ほんのりとぬるく色づいていた。
それは、ココウで過ごした十三年間、トウヤがあまりにも見慣れてきた、なんでもない夕暮れだった。
肌を撫でる冷たい風が、容赦なく熱気を奪っていく。トウヤはしばらく立ち竦んでいた。今日、酒場で二人と対面してから、特別な時間を駆け抜けてきた。駆け抜けてきたと思っていた。だが、トウヤの目の前に広がっているのは、無情なほどにありふれた、日常のただの延長線上の世界だった。
呆然とあいた瞳の中に、ぶち壊してしまったはずの景色を、きらきらと映し込みながら、浮つききっていた心が、すうと地に戻っていくうちに。
ある決定的な出来事が、本当に起こってしまったのだという事実と、ようやく、彼は向き合うことができた。
――ヴェルが、死んだのだ。
*
そんな一日も、やがて幕を下ろし、当たり前のように夜が来た。
遠くに座っているハリが、空を見上げている。被り傘の下に浮かぶ月色の瞳は、雲間に見えるものとよく似ていた。丁度半分に切り落とされた月。静かに流れゆく薄雲の上で、北風に弄られながらひとところに耐えている、下弦の月だ。
赤い服を着た女の人とチリーンがトウヤたちを探しに出掛けてから、大分と時間が過ぎた。ハリの横に転がっている赤と白のボールの中には、メグミが入っている。ハリもメグミも、ほとんど口を利かなかった。それらを眺め、寒さにぶるりと体を震わせてから、リナはもう一度視線を戻した。目の前に横たわっている、あどけない主人の眠る顔へ。
ヒトの子のことを、『主人』だと思い始めたのは、いつぐらいのことだっただろう。
顔を添わせ、おずおずと頬を舐める。生まれて初めて舐めた頬は、ひどく冷たい頬だった。ひっそりと白いリナの主人は、眠り続けている。長い睫毛と睫毛を合わせ、ぴったりと瞼を閉じた寝顔を、とても可哀想だと思う。たくさん酷い目にあって、色んな人に虐められて、もう嫌になって、だから目を覚まさないのだろう。リナはミソラのたったひとりの手持ちなのに、ミソラのことを、何も分かってあげることができなかった。もっと別のポケモンがミソラの手持ちだったなら、ミソラの今も、違っていたのかもしれない。
謝りたくて、もう一度、そっと頬を舐めると、目元がひくりと震えた。
ゆっくりと、穏やかにひらいた隙間から、透き通るような瞳が少しだけ覗いた。穏やかでふんわりとした、春の空みたいな優しい色だった。リナはその目に自分の顔が映るように、身を乗り出して覗き込んだが、今自分と目を合わせているものが決して『ミソラではない』ことは、なんとなくだが分かっていた。
距離があったからハリは気付かなかった。岩盤の上に長い金色の毛を散らし、うっすらとした空色でリナを見て、子供はふと微笑んだ。
「おれの兄弟のこと、頼むぜ」
夜に溶け消えるような声で呟いて、また瞼を下ろす。
ほんの少しだけ迷ってから、リナは小さく頷いた。
ココウ北東の農村部でタケヒロがトウヤを見つけたのも、やはり夜になってからだった。
月が雲の向こうに出たり、隠れたりするごとに、世界が浮かんだり沈んだりする。その沈んだタイミングで、ある場所が不自然に光っていることに気付いた。朽ちかけた空き家と空き家の間。淡い光が漏れている。ハヤテの背から飛び降りて、タケヒロはそこをめがけて走った。狭い路地には古い洗濯機のようなものが置いてあって、その物陰の奥に、誰かがいた。
「トウヤ兄ちゃん」
何を言おうともする前に、声は勝手に零れた。淡い光の中にいる誰かが、びくりと震えた。
「タケヒロか?」
小さな声が返事をした。その慣れ親しんだ声を聞いた途端、排出溝にへどろが詰まって行き場をなくしていた感情が、一気に溢れかえりそうになった。
「イズが、イズが」
繰り返しながら駆け込み、きっとタケヒロを救ってくれるはずの、物陰に身を潜めていたその男の姿を見た途端、
――タケヒロはごく短く、空をつんざくような悲鳴をあげて、壁に背をぶつけへたり込んだ。
はくはくと唇は何かを求め、目は一点に釘付けになる。
ぐったりと座り込んでいる彼の。あるべきもののない右腕の切れ目。
「……悪い、タケヒロ、ツーを痛い目に遭わせてしまった。ごめんな。でも骨折まではしていないから大丈夫だ。スズに『癒しの波動』をかけてもらったから、一晩寝れば元気になるよ」
トウヤはタケヒロの反応などまるで無かったかのように、まっすぐに目を見ながら、恐ろしくはっきりした声色で、そんなことを言い始めた。彼の足元にいるツーは確かに傷を負っているようだが、ちゃんと動いてこっちへ寄ってきたし、翼も両方ついている。
「ツー凄く頑張ってくれたんだ、ちゃんと褒めてやってくれよ。僕に褒められても、ちっとも嬉しくなさそうだからな、そいつ。はは。それにしても、タケヒロ、合流出来て良かったよ。ついさっきレンジャーに会えたんだ。僕が、ちょっと今自力で歩けなくて、ハリを呼びに行ってもらってるが、すぐに迎えに来てくれるからな。ミソラもメグミも、リナも揃ってるってさ。今ココウに残しておくのは心配だから、お前も一緒に来なさい。今晩だけでいいから、皆で隠れていよう。それで、お前の方は大丈夫だったか。ハヤテは? 連れてたんじゃなかったのか」
自分の腕のことも、タケヒロがそれに瞠目していることも、完全に無視してトウヤは喋り続けた。それも普段通りとは程遠い、誰か別人が乗り移っているのではないかと思うほど妙な喋り方だった。
彼の傍にはチリーンのスズがいて、『癒しの波動』と思しき技を右腕に掛けているところだった。が、ハヤテが後をよろめきながらやってくるのを見たトウヤは、そのチリーンの施しも拒否した。僕はもういいから、残りはハヤテを治してやってくれ、と言った。チリーンは言う通りにトウヤを離れ、淡い光をたなびかせながらタケヒロの目の前を何事もなかったかのように横切り、ハヤテの首元へと取り巻きはじめた。そのハヤテもタケヒロの前を横切り、甘え声をあげながらトウヤの腹へと鼻先を突っ込んで、そこで力尽き崩れ落ちた。
「お疲れさん、ハヤテ。偉かったな。……で、イズが、どうした? 怪我してるのか」
本気でイズだけを案じている顔で、トウヤが言った。
……なんだよ。なんなんだよ、お前。震えが止まらなくなって奥歯が鳴り続けているが、恐怖しているのはどうも自分だけのようだった。あまりにもたくさんのことを頭の中に詰め込まれて、ぐちゃぐちゃに掻き混ぜられて、いっぱいいっぱいで、トウヤが何を言っているのか、タケヒロはほとんど理解できなかった。ただ、イズ、という名前を出されると、目の前の光景に覆い被さるようにして、あの炎の揺らめきが蘇ってくる。開閉スイッチを押したボールが、かぱりと開くだけの感触も。
「ボールに戻らなくて」
タケヒロがそれだけ言うと、トウヤはやや不思議そうに顔を歪めながら答えた。
「ボールマーカーが壊れたんだろうな。ボールとポケモンを繋いでいる機械で、ポケモンの耳の奥に引っ付いてる。ボールを買い直せば済む話だ、また買ってやるから心配しなくていい。それで、イズはどこにいるんだ」
耳の奥。
耳の奥にあるものが、壊れるって。最後にイズを秘密基地の奥に寝かせた、あの小さくて温かくて柔らかい肉と羽の感触が思い出された。ああ、はは、そうか。だとしたら、そうだ。崩れ落ちた瞬間に。燃える前から。
彼の腹の前で頭を撫でられていたハヤテが、呻くように声を漏らしながら振り向いた。だがチリーンが技を掛け終わったのを見て、そのハヤテをトウヤはボールに収納した。青竜の質量がボールに消える。あたりはいっそう静かになった。
真っ黒に見える左手で、右腰のホルダーへ難しそうにボールを戻す。それからもう一度タケヒロを見、寄りかかっていた壁から身を起こした。暗がりでも、タケヒロの様子のおかしさに、トウヤも気付いたようだった。また明るさを増した視界の中で、彼は随分と憔悴しきった顔をしていたが、それでもそこからひと言ごとに、双眸は力を増していくように感じた。
「タケヒロ、何があった」
その目に、――その目に、タケヒロは、まるで責められている気がした。
「家が、崩れて」
半分嗚咽を交えながらタケヒロは続けた。
「下敷きになって……それで、燃っ、え、て」
「燃えて、って……、どこで、どのくらい前だ?」
空虚だったトウヤの声が、あっという間に、芯を取り戻していく。自力で歩けないと言った癖に、すぐに立ち上がろうとする。タケヒロは彼が庇おうともしない傷口を見ながらへたり込んでいるだけだった。歴然とした力の差を、そんなところで知ってしまった気がした。そうか。こいつは確かに強い。ずっと馬鹿にしてきたけど、俺より、うんと強かった。こんな大怪我を負っていても、イズを助けようとする。俺は、ほとんど怪我なんてしないないのに、あの化け物を前にして、何もできなかった。逃げることしかできなかった。
「どこだ? 連れてってくれ。すぐに助けよう。大丈夫だ、ポケモンって言うのは頑丈なんだ。火傷はしてるかもしれないけど、ちゃんと治療すれば」
「お、お前……何言ってんだよ」
「お前こそ何言ってるんだ、行くぞ、まだ間に合うかもしれない」
「その腕」
「こんなのは、」
頭から降り注いでくる声が語気を強めて、タケヒロは視線をあげた。
今にも泣きそうなタケヒロが見上げているトウヤは、半分だけの月を背負って、今にも泣きそうな顔をしていた。
「どうでもいいんだよ。どうでもいいんだ、タケヒロ。諦めないでくれよ。イズはどこにいるんだ」
――奥歯を噛み締めて、タケヒロは俯いた。
諦めないでくれよ。それ、俺に言ったのか。俺が今まで、どんな思いで、お前とミソラのやらかすことに、無様にしがみついてきたのか、分かって言ってんのか。ミソラが妙なことを言い出して、トウヤがそれに協力するだなんて言い出して、俺はそれを止めたくて、がむしゃらに頑張ってきた。けれどミソラに裏切られ、グレンにも裏切られ、お前だって、ミソラを連れて町を出ていくとか言いやがって、それで皆して、タケヒロは足手まといだ、だなんて言って。
頭を掻き毟る。トウヤが何か言っていたかもしれないし、ツーも何かを言っていたし、自分の考えていることがどこまで口に出ているのかも、よく分からなくなっていた。期待した結果が、これだ。まだ可能性があるかもと思って細い希望の糸に縋り付いてきた結果がこれだ。諦めるなって? 俺は諦めなかったよ。でも諦めなかったからこうなったよ。だからもう、何も期待したくない。期待させるんじゃねえよ。もう何も信じたくない。なんで俺ばっかこんな目に遭わなきゃいけなかったんだ。
気付けば立ち上がっていた。気付けば掴みかかっていた。ツーが制止しようとしたが殆ど意味をなさかなった。揺さぶったトウヤの大きな体が、いとも簡単に、背後の壁へと叩きつけられた。もう嫌なんだよ、と叫び散らすタケヒロの声が、しんとした夜空に、遥か遠くまで突き抜けていった。
「お前の、――お前のせいだッ!!」
*
*
――その、少し前。
日没に差し掛かっていくココウ中央大通りを、一頭のゼブライカが疾走していく。リューエル第七部隊長のイチジョウは通りの人々を軽やかに躱しつつ、トランシーバーから聞こえる声に耳を傾けていた。
『アサギとロッキー、どうやら別々の場所で交戦していたらしいね』
声の主はアヤノである。第一部隊からココウ到着を急ぐようにとの要望を受け、二体のポケモンを先行させた。素早さが高くココウに土地勘のあるエテボースのロッキー、そして単騎出動の経験が多いバクフーンのアサギだ。だが、どうも別行動を取っているらしい。アヤノの手持ちであるロッキーは主人の命令に反した行動を取れる性格ではないので、アサギの方が自己判断で行動しているのだろう。二体のポケモンにはそれぞれ発信機を取り付け、行動はアヤノが監視している。
戦況が芳しくなさそうなので、ゼブライカを飛ばさせ、イチジョウも他隊員より一足先にココウに到着した。アサギはターゲットに取り付けた発信機の示すポイントで交戦していたらしいが、先ほど第一部隊長キノシタから『ポイントはフェイクだ』という旨の通信が入ったため、トランシーバーで連絡を取り戦闘行動をやめさせた。ターゲットとは異なる一般人を相手に交戦していたということになるが、アサギは実務部員としてイチジョウに勝るとも劣らない実績を積んできた手練れだ。知性も十分に兼ね備えている。そのアサギが戦うという選択肢を取っている以上、相手はターゲットの関係者なのではないかとも考えられる。
「アサギの追っていたポイントの正体は何だ?」
『うーん、何だろうね。ただ、ポケモンは人間の顔をあまり識別出来ていないと言うからね』
アサギを先行させた理由には、もう一つある。本作戦のターゲットであるワカミヤトウヤは、アサギの元主人であるワカミヤキョウコの実の子だ。アサギはトウヤと同じ屋根の下に暮らしていた時期があり、ターゲットの顔を認識できる利点があると考えていた。
『俺たちはたくさんのピカチュウに囲まれているとき、その中に手持ちのピカチュウが混じっていたとしても、顔を見分けるのは難しいよね。逆もまた然り、ってことだ。特徴的な模様でもあれば別だけど』
「『特徴的な模様』があるだろ、ミヅキの弟には」
『でもよく考えてみると、その痣? が出来た後には、アサギは彼と一緒に暮らしてはいないんだよね。前、ミヅキがエトくんを見て、私の弟も今頃こんな感じかなあ、なんて言ってけど、エトくん十八歳で、トウヤは二十二だよ? ミヅキのイメージの中では、どうやら弟は正常に歳を取っていないらしい。寿命の長さが違えば時間の感じ方も違うと言うし、アサギなら尚更だと思うけどね』
「別人と見間違えて攻撃したと言いたいのか?」
『うん、そうだなあ、例えば……その別人が子供の頃のトウヤと似た背格好をしていたり、事前情報――ヒガメで目撃されているときと似た色形のコートとかマフラーとか、あとは同じ種類のポケモンを連れていたりしたとしたら、間違っちゃうこともあるかもしれないなあ、なんてね』
だとすれば、面倒なことになりそうだ。イチジョウは元から険しい人相を一段と険しくする。
面倒事を避ける為――正確には、本作戦の実質的な発案者であるミヅキに火の粉が掛からない為に、策は打ったつもりだが。ラティアス捕獲作戦に第一部隊がわざわざ第七を巻き込んだ時点で、厄介事の責任を擦り付けられることは承知の上である。被害を最小限に抑えるべく立ち回りたいところだが、やはりゼロとは行かないだろうか……大通りを南下する途中、何やら不穏な雰囲気の人だかりを見つけた。
「おい、あれ」
「誰がこんなところで……」
「可哀想にねえ」
「よそ者の男と喧嘩してたよ、さっき、あいつが」
「あのほら、酒場の坊だよ」
「トウヤか」
イチジョウはゼブライカの背から降り、リューエル実務部の所属を現す腕章を示しながら近づいていく。人の壁が割れ、その奥に待ち受けていた光景に、誰にも聞こえぬように息を吐いた。
大きなビーダルが一匹、薄暗い細道の真ん中に、不自然な体勢で横たわっている。
ぼろぼろに汚れた毛並みにも、顔色にも生気がない。薄く開いたままの目は濁って見える。人だかりに見守られて近づきながら、イチジョウはトランシーバーを口元に寄せた。
「……春頃に寄った酒場に、確かビーダルがいたな。弟の手持ちだったか」
『ん? いや、あれは確か、ハギさんの手持ちだったと思うけど。ハギさんって言うと、店主のおばさんだよ、あの酒場の』
前歯が欠けている。口の端から垂れた舌先が乾いている。壁や毛皮に焦げた跡はないから、おそらくアサギの仕業ではなかろう。無関係な市民を巻き込んだ責任を押し付けられる可能性はある。それでも、イチジョウに次の行動を取らせたのは組織人としての打算などではなく、ただの一トレーナーとして、それが当然と考えたからだった。
ツンベアーのボールを選び解放すると、観衆から小さなどよめきが上がった。氷タイプに抱かれては冷たかろうが、主人に送り届けるまで、辛抱して欲しい。
大事に扱えと命じた。体の下にそっと手を差し込み、ツンベアーは両腕で亡骸を抱き上げる。酒場まではここからそう遠くなかったはずだ。俺は一度酒場に寄る、とトランシーバー越しに伝えると、第七はどうする? と呑気な声が返ってきた。
『こちらももうじき到着するけど。いかがいたしましょうか、隊長? 第一部隊様の言う通りに、金髪碧眼の少女を追うかい?』
相手をからかうような愉快さを滲ませるアヤノに、また少し顔を渋くする。気遣わしげな野次馬の視線に配慮しつつ、低いトーンでイチジョウは返した。
「……エトを信じよう」
『了解』
笑い交じりに通信が切れた。
大通りへ戻ると、ごうと北風に背を押された。自分は既に慣れてしまったが、あの娘がいれば、大袈裟なまでに寒がるだろう。冷酷な風に煽られるのが、自分一人なら、まだいいのだが……待たせてた愛馬を促し、歩き始めた時。
視線を感じて、イチジョウは歩みを止めた。
肌が粟立つような、悪意のある視線ではない。それにしては気味が悪いのは、視線を感じた『距離』だった。あまりにも近すぎる。すっと振り返る。斜め後ろをついてこようとしていたツンベアーは、目を瞬かせながら己の手元を見下ろしている。そこに力なく抱かれている、ビーダル……の、亡骸。欠けた前歯が痛ましい。半分開いたままの目は、胡麻粒のような小さな瞳を、地面の方へと落としている。
……今、振り返りかけた時、その両目、こちらに向いていなかったか?
「……ん?」
ツンベアーがあまりにも微妙な表情でイチジョウを見やる。ビーダルはやはり、ふっくらとした尻尾を力無くぶら下げ、乾いた舌を少し覗かせ、半開きの視線は地面の方へ向かっている。何故だろう、意思などないはずのその視線が、どことなく白々しいような。
イチジョウは手を伸ばし、哀れ開いたままの瞼を、手のひらで下ろしてやろうとした。
瞼がぴくりと抵抗した。
そしてついでのように、尻尾がぴくりと揺れた。
*
*
――その、更に遡ること、数日前。
「違います」
怯えた声が呟いた。
作戦の詳細を聞かされていた面々が、顔を向ける。眼鏡の奥をふと煌めかせたアヤノ、淡々と指示書を読み上げていたイチジョウ。遅れて、ゆっくりと振り返るミヅキ。キブツの安宿の一室でのことだ。移動日に組み込まれた第一部隊との特別作戦の内容を共有するため、第七部隊全員がその場に集合していた。背筋に滲む冷や汗を不快に感じつつ、隣に立っていた新入りの少年へと、ゼンも視線を下ろした。
ゼンの動揺よりも、それは目に見えて凄まじかった。癖のある長髪を後ろで束ねている眉目秀麗な少年は、無残なほどに青ざめていた。
「違います……そいつ、ラティアスじゃありません」
うわごとのように、しかしはっきりと、エトは同じことを繰り返した。
薄暗い部屋の中、黄金の夕日を逆光に受けるミヅキの目がすうと鋭くなった瞬間、ゼンはあたかも自分が睨まれたかのように感じた。上から寄越された指示書の内容はこうだった。ヒガメで第一部隊員を強襲した犯人は、ココウ在住のワカミヤトウヤというトレーナー。彼の所持しているラティアスはリューエルからの盗品であり、それを奪還するための作戦を執り行う。ラティアスは光学迷彩により姿を消したり変化させたりしているが、普段は『金髪碧眼の少女』に擬態して生活していることが多いとのこと。一撃、技を加えることで、迷彩が解け、正体を現すという話だった。
聞きながら、とんでもない話だと、ゼンは分かっていた。だが言い出すことが出来なかった。それを言い出した結果、自分が――トウヤが、ラティアスが、そしてあの子供が、どうなってしまうのか、瞬時に判断がつかなかったからだ。
だがエトは、第一部隊の誤ちをすぐに指摘してみせた。ゼンがとうの昔に失った無鉄砲なまでの正義感が、彼にそれをさせたのだ。
第七部隊全員の視線を浴びながら、がちがちに直立したエトは、震える唇で話し始めた。
「そいつ、……人間です。普通の人間なんです。俺、そいつと一緒に、囲碁を打ったことがあります」
最初、蚊の鳴くように細かった声は、みるみるうちに急いた激流に変わっていく。
「ミソラって言うんです。もちろん話もしました。飯食ってるとこも、風呂入ってるところも、あと転んで擦りむいてたとこも見ました」
隊員たちがざわめき始める。イチジョウは困惑気味にアヤノを見やり、アヤノは楽しげに肩を竦める。ゼンは堪りかねて右傍をそれとなく小突いてみたが、それらの意味をエトは理解できなかったようだった。出会って以降の寡黙さから突然堰を切ったように、まさに水を得た魚のように、エトは一気に喋り続けた。
「トウヤは他に変身するポケモンを持ってるんです。そいつはオニドリルになったり、マリルリになったり、とにかく色々変身出来ます。俺、本当に見たんです。だからその作戦内容は間違ってます。そいつがラティアスかまでは分からないんですけど、俺はメタモンかと思ってて」
「何故そんなことを知っている」
口早に畳み掛けるエトを、イチジョウがようやく遮った。え、あ、と口ごもり、エトは興奮気味に目を膨らませたまま固まってしまった。真っ青な顔で、一転して黙り込んだ少年を、ゼンは息を詰めて見ていた。助け船を出してやりたい。だがどうしてやればいい。彼は自分の出身も、トウヤとの関わりも、ゼン以外には秘密にしている。
袋小路に追い詰められながら、少年は視線を逸らすことなく、じっとイチジョウと相対していた。イチジョウの横で、ミヅキは、まるで氷を張り付けたような目をしていた。ゼンにはそれが恐ろしかった。あの氷を踏み割ってはいけない。あの下にいる魔物を目覚めさせてはいけない。花の骸。彼女は呼吸を忘れた花。硝子の中で永遠に誇り続ける豪奢な花弁は、時を取り戻した瞬間に、急激に萎んでしまうだろう。だがゼンが幾ら一人で怖気づいていたところで、その薄氷は、必ず溶かされてしまうのだ。いつか、温かな誰かの手によって。
「……とにかく……とにかく、ダメなんです。そいつ、普通の人間です……。だから、攻撃なんか、絶対にしちゃダメなんです」
エトは懸命に繰り返した。
彼の純粋な若々しさは、いかに凶悪な魔物に迫られ呑み込まれようとしたところで、決して折れることを知らなかった。
*
――こうして、多くの『誤解』を孕んだまま、物語は次の舞台へと移っていく。
トウヤとタケヒロがアズサ、ミソラたちと合流し、ココウ郊外の砂漠の真ん中で一夜を明かした翌朝。そこから数百キロ離れた場所で、新しい風が起ころうとしていた。
願いが小さな風を呼ぶ。風は、乾いた心に波紋を落とし、躊躇う背中を後押しする。ほんのわずかな一歩は、寄り添い、縺れ合いながら、確かにどこかへ進んでいく。誰もが辿り着きたいと願う場所へ。
凪いでいる空、この街へと、乾風が十三ノットで吹く。
その目の中に映るのは、記憶の彼方か――それとも、明日か。
風の行方は、誰も知らない。
*
花が揺れている。
冬なのにな、と、寒さに身を竦めながらゼンは思った。肩を寄せ合うようにして群がっている草が、小さな花を咲かせている。この街には何度か足を運んだことがあるが、いつも夏場で、冬に来るのは初めてだった。街も人々も賑やかで明るい、というのが印象だが、祭りの時期ばかり選んで来ていたからそう感じるのかと思っていた。冬場でもやはり、この街は野草まで、どことなく明るい。
前を歩いていくエトが、ふと立ち止まった。郷愁に燻るような視線が、上へ上へと動いていく。追って見上げて、ゼンは心の中で溜息をついた。夏場の青々とした丘とは違う。けれど、とても懐かしい景色だ。
小高い丘の上、曲がりくねる長い坂道の一番むこうに、大きな家が建っている。
「本当にこんなところに、トウヤが来るのー?」
最後尾をかなり遅れてぶらぶらとついてくるミヅキが、不貞腐れたような声をあげた。