月蝕


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月蝕
11−9

 メグミの声にならない声が響き、頭上におぞましいまでの殺気が収斂した。
 特別なポケモンとして身を狙われるのも分かる。目に見なくてもそれと知れる莫大なエネルギー量だ。メグミはあの技を制御できない。力を加減することが出来ず、敵を炭の塊にしてしまう光景をこれまでも何度も見てきた。標的になっているのはエテボース一体で、それ以外の殆どのポケモンは射程範囲外にいる。だがよく目を凝らして見ると、口を開いて空を見ているのはエテボース一体だけではなかった。首裏にしがみついている小さな獣。ニドリーナだ。左耳がない。
 最悪の瞬間が、今まさに訪れようとしている。
 無我夢中で走り出した。つんのめるように飛ばす。上空のエネルギーが形を成していく。一歩一刻近づいてくる。この鈍足が恨めしい。リナがこちらを向く。エテボースは覚悟したように空を見ている。透過状態のメグミは錯乱しているのだろうか。間もなく技が放たれた。瞬く間に視覚は真白に消し飛んだ。熱が迫る。技を展開しながら思う。間に合わないのだろうか。また、自分は間に合わないのだろうか。主人の運命が変わったあの日、自分は間に合わなかった。ヒガメでのあの一幕も。今回もそうなのか。それでも間に合わせなければならない。リナのために、メグミのために、自分のために、そして主人のために。自分を信頼して送り出した主人の選択を、間違っていたと言わせる訳にはいかない。間に合え、間に合え、間に合え、間に合え――!

 

 スズの『サイコウェーブ』による広義的な金縛りは二秒と持たなかった。だがその二秒の間にメグミは『破壊光線』を発動し、エテボースを円心とした径数メートルを熱線の中に消し去った。
 轟音。閃光。あらゆるものが輝きに色を奪われる。飽和する聴覚の中にいくつかの人間の指令が競って紛れ込んだ。念の拘束を強引に振り払い、ポケモンたちが動こうとする。あるポケモンは光線の主へと特殊攻撃を放とうとし、あるポケモンは果敢にも再度北方へ走りさんとする。だがどれも、強烈な光に目を潰されていたからだろう、一瞬だけ動きが遅れた。
 十分だ。
 その隙にアズサは左腕を構え、ディスクを撃った。
 白を基調とした駒はすぐさま接地し、鋭いラインを放出しつつ、乾いた地面を抉り取るように突き進む。ポケモンたちの足元に描かれる光の軌跡は、あらゆる障害物に触れることなく、微塵の狂いなき完璧な直線を伸ばしていく。
 左方へ進路を転換する。九十四度。
 飛び上がるライボルトの前脚の間を、オーロラビームの下をストーンエッジの脇を。ディスクは目にも留まらぬ速さで正確に直進する。再び左方へ。甲高い音と砂礫を蹴散らし急旋回する。九十度。敵方たちもポケモンレンジャーの動きを完全に放置している訳ではない。キャプチャ・ラインは途中で攻撃を受ければ途切れ消滅し効力を失う。敵にそれをさせないのは、膨大な熱量の暴走を前に場が混乱していること、そして敵の動きを圧倒的に上回る、ディスクの素早さ故である。
 三度、左方へ。八十二度。
 ラインを引き、記号を描ききるまで、僅か一秒足らず。敵方の位置、移動方向、距離を把握し、一秒の間、絶対に阻害できない四辺を見つけ出し、そこへディスクを撃った。後は正確に走らせるだけでいい。――ディスクを操るアズサも、同様に眩しさに目を焼かれ、眉間を絞っている。だがその目に映るべきものは、位置や動きに限らず、万物に内在する力の流れ、繰り出さんとする技の形態、その角度、威力、全ては手に取るように『見えている』。それは視覚に依る以上に、第六感として、認知できる。
 無論、こんな芸当は、常人では不可能だ。だが、目には見えない『波動』の潮を瞬時に掌握することが出来れば、話は変わってくる。チリーンのスズによる『アシスト』が、アズサにそれを可能にさせる。
 最後の角を曲がる。五十五度。四角に渦を巻くような図形を描き終えた瞬間、キャプチャ・ラインは光を弾けさせ、地面の下へと消えていった。『レンジャーサイン』――契りを結んだポケモンへ送る、ポケモンレンジャーからの救難信号。
「来て……!」



 足から滑り込みながら『ニードルガード』を展開した。
 瞬間、『破壊光線』の猛烈なエネルギーに呑み込まれた。地鳴り、膨大な熱と共に、巨人に踏み潰されるかのような圧力が両腕に襲い掛かる。突破されるはずのない防護壁の内側とは到底思えぬ凄まじさだ。片膝をつく。攻撃を耐えるほんの一瞬だけの時間が、ハリには永遠にも思われた。その長い長い刹那の間、光に埋め尽くされた世界の中で、辛うじて分かるものがあった。腹の下に潜り込む小柄なニドリーナ。そして傍らで、呆然と天を見上げているエテボース。
 二人とも、生きている。間に合った。トウヤが自分をこちらに向かわせたのは、確かに正しかったのだ。
 エテボースの後頭部に小さな禿げが見える。昔ココウで盗人を手伝っていたエイパム、そして夏頃にキブツで交戦したエテボースだと、そこでようやく思い至った。確か盗人の人の子たちに『ロッキー』と呼ばれていた個体だ。ロッキーもこちらに気付き、ハリが自分を助けるために『ニードルガード』を使用していることを察すると、素早くこちらに身を寄せてきた。
 その時、彼が耳元で言ったことは、ハリを動揺させるに十分すぎるものだった。
 氾濫していた光が溶け消え、景色と音が戻ってくる。真っ黒に焼き払われた草原の向こうから、チリーンの念力で浮遊するアズサが空を滑って近づいてきていた。リューエルのポケモンたちは立ち止まってこちらを見るに留めていた。
 何故あのポケモンたちは襲い掛かってこないのだろうか。一瞬頭に過ぎった疑問は、その後すぐに察せられた。
 地面が揺れている。
 衝撃の中央に立っていたハリは気付かなかったが、『破壊光線』を受けている時から、揺れは既に始まっていた。微かな地鳴りだったものはすぐに獰猛な揺れに変わった。『地震』か、『地均し』か、『マグニチュード』か。どれでもない。先とは質の違う地響きが、北方から迫ってくる。リナを庇いつつハリが姿勢を下げる横で、身軽なロッキーはサッと翻り、アズサと入れ替わるように後退していった。彼がいるべき陣地、すなわちリューエルのポケモンたちがいる方へと戻っていった。去り際、彼は、もうひとつハリに言い残していった。
 『あの子はぼくの友達だ』。
 空を見る。千切れ雲を折り重ねたような藍色の空合に、ふ、と赤と白が灯った。強力な攻撃により透過能力の制御まで失ったか、本来の姿を現したメグミが慌ててこちらへ滑空してくる。その腕に、ロッキーの言う『あの子』は、頭を垂れ、だらんと全身を脱力して抱えられている。それを見たリナが腹の下で声をあげた。それを見ながら、アズサとチリーンが、ハリの傍らへと降り立った。
 その時だった。
 
 背後の草原が――――突然、爆ぜた。

 地面が隆起した。
 枯れ草と白穂が膨張したように一瞬見えた。次の瞬間には、世界をひっくり返すような爆音と共に、そのすべてが土石の色の濁流に呑まれた。
 振り返るハリのもとへと大小の岩石が土塊が粉塵が、雪崩をうってやってくる。吹き飛びかけたアズサの細身を抱きかかえ、再度『ニードルガード』を展開しようとしたが連続使用で失敗した。代わりに誰かが発動した『守る』が、飛び込んできたメグミを含めその場の全員を庇護した。使用したのはメグミかスズかと思われたがどちらでもなく、目を閉じ、完全に失神しているミソラだった。
 崩壊した地面から、土砂を押し上げるようにして、途轍もない乱入者が、その頭角を現し始める。
 暮れかけの空に巨塔となって立ち上がっていく銀灰色。全身に鋼鉄を張り巡らせ、砂煙を纏いながらも煌びやかに輝いている。地面を破壊し陸上へ飛び出してくるという光景は、ハヤテが『穴を掘る』で攻撃する時の状況に近い。だが、スケールはその百倍はあるだろうか。
 あまりの迫力に、リューエルのポケモンたちは誰も立ち向かおうとせず、総じて狼狽え、指示に反して退く者すらいた。無論ハリたちも誰も動くことなどできなかった。身を寄せ合って、唖然として、遥か空高くへ依然伸長していく『鉄蛇』の鋼色を見上げていた。ハリより、ハヤテより、トウヤよりグレンより彼の連れていたカバルドンより、ハギの家より、ココウスタジアムより、ココウ近辺にあるどんな建造物より圧倒的に巨大なものが、草原の下から、彼らの前に姿を見せた。
 アズサが「私の友人」として彼の名前を挙げた時、トウヤは彼女の話を信用できずにいるようだった。ボールの中で聞いていたハリも、正直俄かには信じがたいと思っていた。この春に出くわした時だって、自分たちは彼に対して、「逃げる」以外の選択肢は講じようともしなかった。話の出来る相手だとは全く思えなかったのだ。鈍い光沢を放つ巨体は砂漠の主であることはおろか、「神」という言葉すら冠することも出来そうなもので、全貌の到底拝めぬ巨体は今や雲まで突き破らんとして見えた。ちっぽけな人の子が友と呼ぶには、いささか格が違いすぎる。――が、ポケモンレンジャーであるアズサは本当に、彼をこの場へ呼び寄せてみせた。彼は今から彼の意志で、友である彼女を救済する。
 だが、トウヤとミソラが、あの時彼を文字通りに足蹴にしたりしなければ、アズサは彼と友人になることもなかったのだ。
 その超弩級の構造物――生物、ポケモンは、全身の三分の一も出ないうちに動きを止めると、メグミが飛んでいた場所よりもうんと高い位置から、こちらを見下ろし。
 雄叫びをあげた。
 音圧だけで吹き飛ばされそうな、割れんばかりの『怒り』だった。





「やめろ」
 蚊の鳴くようなか細い声だけが、唇の端から漏れて落ちた。
 大声で叫べたら。駆け出せたら。あのバクフーンを押しのけ、燃え盛る炎へと手を突っ込んで廃材をどかして掴んで引っ張り出すことができたら。――どれもできなかった。怒りとか苦しみとか、悲しいとか、そういう感情はタケヒロの中には一切合切存在しなくて、形を変えながら爛々と燃え続ける秘密基地と、暮れの近づく曇り空へ刻々と闇を注いでいく黒煙と、燃やし続けているバクフーン、その腹の下で少しずつ動きが鈍くなっていくガバイト、と言う光景を、眺めて、突っ立っているだけだった。膝が笑っているのは、筋肉が硬直しているのは、怖気づいているからだった。怖い。嫌だ。怖い。嫌だ。その原始的な感覚が、心臓が動くごとに、交互に腹の底に流れ込んでいく。だが何が怖いのか、何がどうなるのが嫌なのかは、その実、まだ理解も及んでいなかったと言っていい。
「やめろ」
 うわ言に繰り返される声は、何を考えたというでもなく、雑多の液体で満杯になった器から勝手に零れていくような、意味を持たない言葉だった。
「やめろ……」
 炎は佳境を越えた。タケヒロの背丈をゆうに超えていた火は、胸のあたりにまで落ち着いて、依然ばちばちと音を立てて可燃物を焼き続けている。
 トウヤたちと別れる直前、タケヒロは一度この秘密基地の中に戻り、役立ちそうな荷物をナップサックに詰めて持ち出した。そのナップサックは、ぶかぶかの茶色のコートの内側に今も背負っている。ピエロ芸をして稼いだ金、高く換金できそうなもの、あとは少しの食糧、防寒に役立つ薄手の毛布。ツーとイズ用の餌。トウヤとミソラが町を出ようとしていると知って、「ついていきたい」とは更々思わないのに何故か「置いてきぼりにされたくない」と思って、そういうものを持ち出した。だが、大事なものを。何よりも大事にしなければならないものを、激しく燃え続ける秘密基地の一番奥に、タケヒロは寝かせてきた。置いてきぼりにして、出てきてしまった。
 炎の中に飛び込んで、燃え盛る瓦礫を押しのける勇気があれば、まだ助けられるかもしれない。
 何かが崩れ落ちる音がした。ハヤテの動きはみるみる緩慢になり、やがて動かなくなった。その光景を見ながら、タケヒロは握った自分の拳で、自分の腿を打った。何度も何度も打った。動け、動けと。だが、熱で靴裏が溶けて地面に引っ付いてしまったかのように、自分の足は、どんなに叱っても念じても、前へ走り出そうとはしなかった。
 絶え間なく揺れ続ける炎の中で、微動だにしなかったものが、動かなくなったものから視線を外した。無慈悲なまでに無表情な灼眼は、邪魔者を始末し終えて、もう一度タケヒロに目をやった。
 もうバクフーンのことが、タケヒロはそれほど怖くもなくなっていた。それよりも、彼が立ち上がり、こちらへ向かう一歩ごとに踏み壊していく残骸の下へ想像を巡らせることの方が、うんと恐怖心を掻き立てた。
 どうしよう。どうしよう。バクフーンが近づいてくる。焦げひとつないその毛皮にしがみついて、イズを助けてくれと、タケヒロは叫びたかった。だがやはり喉は硬直して動かなかったし足も腕も出なかった。第一そんな化け物に、話なんて通じっこない。両手はコートの前を心臓へ手繰り寄せるように握り締めていた。あのときトウヤから強引に借りた、彼の薄汚れたコート。トウヤ兄ちゃん。トウヤ兄ちゃん。グレン、アズサ、ミソラ。ツー。どこにいるんだよ。皆どこにいっちまったんだよ。どうしよう。どうしたらいいんだよ、トウヤ兄ちゃん。助けてよ。どうしよう。助けてよ。トウヤ兄ちゃん。
 彼の姿を思い起こした瞬間、稲妻に貫かれたように、ぶわっと脳味噌の温度が上がった。
 ズボンのポケットへ即座に手を突っ込み、あるものを掴んで引っ張り出した。
 震える手のひらが握っている。今は空っぽのイズのボール。最初にツーとイズに出会ったときにトウヤが買ってくれたボール。そうだボールに戻せばいい。障害物があったとしても、この距離ならボールに戻せる。どうして気付かなかったんだ。
 バクフーンの体の向こう、あのおぞましい炎の下へと、タケヒロはボールを向けた。
「イズ、戻れ!」
 開閉スイッチを押し込む硬い感触がした。
 ――だが、見慣れた赤い光は、イズを捕まえにいかなかった。ボールは上下にかぱりと割れて、それだけだった。
 ボールが反応しない。白々しく口をあけたまま黙っている。収納すべきポケモンはこの付近にはいませんよ、と言わんばかりに。ツーの方のボールも慌てて試してみたがだめだった。やはり軽い音を立てて上下に開いて、イズを収めようとはしなかった。傍にポケモンがいないときには、ボールは確かにそういう反応をする。ツーは今トウヤと一緒にいるはずで、傍にはいない。でもイズは、間違いなくあの下にいるのに。
「なんで」
 ボールを閉じてはスイッチを押し、閉じては押し、閉じては押し、を、繰り返す。何度やっても同じことだった。光は伸びない。無情に開くだけ。壊れている。ボールが、壊れている。
 なんで。どうしてこんな時に。手や膝から全身に広がっていく震えに、体が崩れ落ちそうになる。あの炎の下で、イズは、今。なのに、どうして。
「なんで、なんで、なんで……」

 ……虚ろに、同じ言葉を唱えながら、何度も何度も無意味なことを繰り返している人の子を――今にも泣き出しそうな『懐かしいはずの』子供の顔を、バクフーンのアサギは、少し遠巻きな位置から、黙って見つめ続けていた。

 その時、ノイズのかかった音が、突然二者の間に響いた。
『あー、こちら第七部隊です、えーとアサギ? 聞こえるかい?』
 タケヒロが肩を震わせたが、音の出所はバクフーンだった。バクフーンははたと目を丸め、己が襷掛けに背負っているトランシーバーへと目をやった。
『アヤノだ。いいかいアサギ、今、第一部隊の方から連絡が入ったんだがね。君が追っている発信機の持ち主だが、どうやらターゲットではないらしい』
 鋭かった目を瞬かせ、バクフーンはタケヒロの顔をしげしげと覗き込む。その一方で、威勢を弱めた炎の中で長らく伏していたものが、ぎこちない動きで首をもたげていた。
 よろめきながら起き上がり、這うように炎から脱出すれど、ハヤテはバクフーンの顔を見ることさえ出来なかった。虫の息で、一方的な攻撃を受け続けて完全に戦意を失っている。既に戦闘を行える状態ではないし、したところで意味がないことを、骨の髄にまで叩き込まれてしまった。
『今すぐ追跡を中断して、イチジョウ隊長と合流しなさい』
 バクフーンは動き始めたガバイトのことをあまり興味もなさそうに見やり、何か問いかけるように、再度子供へと視線を戻す。タケヒロは構わなかった。気付きもしなかった。二つ目の画期的な思いつきで、頭がいっぱいになっていた。
 コートのポケットに収まっていた黒い機械。取り出し対面し、タケヒロは唾を飲んだ。あれほど不吉に思えていたものが――。
 これがあれば、話が出来る。助けを呼べる。相手がリューエルだろうが知らない人だろうが、人間なら誰でもいい。意思の疎通ができる人間なら。おい。誰か。誰か助けてくれ。誰でもいいから。イズが。火事の下敷きに。俺のポッポが。矢継ぎ早にタケヒロは機械に話しかけた。バクフーンが受けていた通信はいつの間にか終了しており、タケヒロの声には、誰も応答をしなかった。
 トウヤたちと別れる前の会話が、ふと脳裏をよぎった。
 ――聞こえないよ。一方通行の無線機だ。操作しないと発信できない
 ――私たちが喋っても向こうには聞こえないってことですか?
 ――詳しいのね
 ――実家にあったのと同型だ。まあ、十年以上前と機能が変わってなければ、の話だが
 ほんのちょっと前に聞いた声。懐かしい皆の声。聞きたくて堪らない皆の声。そうだ、何か操作をしなければ、発信できないと言っていた。次にトウヤが吐いた言葉を、タケヒロは思い出そうとした。
 ――確か、発信するときは、このスイッチを――
 操作方法を指導しようとした、トウヤの声を、タケヒロが今最も知りたかった話の続きを、
 ――今はいいってそれは
 誰かの声が遮った。
 それは、少し前に吐いた、自分自身の声だった。
 スイッチはいくつかついていた。でたらめに操作しながら呼びかけてみたが、トランシーバーの向こう側は、うんともすんとも言わなかった。呼び掛けながら、懸命に助けを乞いながら、目の前が、真っ暗に、閉塞していくような感覚に、タケヒロはどんどん沈んでいった。そこは重苦しくて冷たい沼で、泥は手足に次第に纏わりついていって、もがく気力さえ奪われていった。水面に揺らめいていたはずの光は、タケヒロのことを見限ったかのように、急速に遠のいて消えていく。泥水は肺を満たして、腹の中までさらっていく。こんなに体が重くては、ここから脱することもできないし、もう二度と、空を飛ぶことなど叶いそうにない。だって、垂らされていた命綱は、随分前に、自分で切り落としてしまっていた。そんなものは必要ないと。自分の声が、イズの、生命線を、断ったのだ。
 風向きが変わり、向こうに流れ続けていたどす黒い煙が、タケヒロを一瞬で呑み込んだ。
 熱いものが触れた。その背に、タケヒロは知らぬ間に跨っていた。あれほど焼き尽くされても尚、竜の強靭な鱗は焼け爛れず、せいぜい煤を貼り付けているくらいだった。ハヤテはバクフーンを弱々しく一瞥すると、炎に背を向け、覚束ない足取りで、歩み始め、少しもしないうちに走り出した。
 混乱が解けたばかりのハヤテは――禁じられていた『逆鱗』を使用し混乱した自分の失態、それでもタケヒロを生かすこと、そのためにバクフーンから逃げること、それにしか考えが及んでいなかった。タケヒロの様子のおかしさには、微塵も気付いていなかった。
 バクフーンは追ってこなかった。
 夕闇の迫るココウの裏路地を、重い足音を立てながら、ハヤテはまた北を目指して進んでいった。ハヤテの首筋に力無く腕を回し、タケヒロはずっと後ろを振り返っていた。鼻の奥には、焦げ臭い匂いが、何もできなかった証として、いつまでもいつまでもこびり付いていた。
 たくさんの建物のむこうに、いつまでも立ちのぼっている黒い煙は、手の届く場所から暗闇の果てへ、だんだんと遠ざかっていった。
 やがて見えなくなった。
 




 青い闇の中を、少女が遠ざかっていく。
 赤い目をした化け物が、背後にざわざわと蠢いている。
 トウヤは鉄柵にしがみつき、泣き叫び、向こうの少女を呼んでいる。
 ――おねえちゃん。おねえちゃん。おねえちゃん。おねえちゃん
 呼んでも、呼んでも、彼女は遠ざかっていく。
 ――おねえちゃん、おねえちゃん、おねえちゃん、おねえちゃん……
 夜は静けさに満ちている。
 格子の嵌った窓から、冷たい光が差し込んでいる。
 寒い夜だった。月がきれいな夜だった。月明かりに浮かぶあの顔は、ずっと笑っている。くるりと背を向ける。スキップをするような足取りで、楽しげに遠ざかっていく。トウヤはいつまでも泣き縋る。声が幾重にもこだまする。ひたひたと、後ろから、赤い目の化け物が近づいてくる。廊下の先で、それでも、彼女はまだ笑っている。
 笑いながら、泣いている。
 何百回も、何千回も、脳裏に思い描いてきた光景だ。だが、こんなにも時間が経ってから今更に、十歳の自分が見たものに、ふとした疑問が浮かんできた。――どうして泣いていたのだろう。姉さんは、どうして、僕を見て泣いていたのだろうか。
 思えば彼女の顔を見たのは、あの時が最後だった気がする。



 何らかの足音が耳に触れて、トウヤは重い瞼をあげた。
 薄暗く、視界は曖昧である。けれど夜中の暗さではない。気を失っていたらしいが、長時間は経っていないようだ。
 錆びた鉄の匂いがする。叩きつけられた折に切ったのか、口の中にかすかな血の味が混じっている。床に伏している左頬が借り物のように冷たい。左の指先で地を撫でると、砂埃に指の跡が残る。コンクリートだ。横たわっているのは建物の中だった。
 鈍った五感が少しずつ、状況を探り出していく。屋内にしては、随分土くさい場所だ。闇に慣れつつある目を動かす。古そうな農具が散乱している。納屋だろうか。板張りに隙間のひとつくらいありそうなものだが、外の様子は、どこからも伺えない。出入口がどこなのかも曖昧だ。まるで納屋の内だけが外界から切り離され、完全な闇の中に浮かんでいるかのようだった。……その薄暗い納屋の、暗さがひときわ押し込められた物陰に、赤い目がぽつんと浮かんでいる。意識して探してみれば、目は物陰という物陰に数え切れないほどあって、巣に持ち込んだ生餌を監視しているみたいに、じっとこちらを見つめている。『黒い眼差し』の効果は健在らしい。目玉のひとつと見合ってみる。錐で穴を開けたような瞳孔の深淵。生気のない虚(うろ)。あの日見たヨーギラスの目に少し似ている。だが、錯乱して泣き叫んだりしないだけ、自分も大人になっただろうか。
 足音は、一歩、また一歩と、目玉の牢獄へ近づいてくる。
 不気味な光景だったが、心は動かなかった。濁りきった泥水の中に腐った枯葉が沈んでいくように、その歪で醜悪な闇へ意識が溶けていくことは、どこかで自然なことに思えた。どろりとした目で、出口を塞ぐ闇を、トウヤは見つめていた。足音が、焦らすように慇懃に、近づいてくるのを、待っていた。
 足音は一旦立ち止まり、次いで翼を震わせる音が聞こえた。
 逃げよう、抵抗しようという気は、最初はすっかり失せてしまっていた。あれほど胸を焦がしていた高揚感は、まだちらちらと、夕星のように燻っている。だが、燻っている、それだけだ。諦めた、と言ってもいいが、諦めたと言えるほどはっきりとした意識を、トウヤが持っていた訳ではない。言いようのない虚脱感が体の大部分を占めていた。一瞬見た、あの日の姉の泣き笑いが、すべてを奪い去ったのだ。
 だが、――闇と目玉の壁の奥から、その人が、視界の中へ現れた時。
 正直に言って、トウヤは心底がっかりした。
 そして、そんなことでひどく落胆している自分が、どうしようもなく滑稽に思えた。なるほどな、結局のところは自分が一番、再会を期待していたんじゃないか。ミソラやハリにあんなに格好をつけた癖して。笑い話もいいところだ。馬鹿馬鹿しい。トウヤが馬鹿馬鹿しいと思った、その武骨な男の手が、掴んできたものを乱暴に投げ捨てる。どさりと床に落ちたピジョンの翼が微かに、身を庇うような動きをした。目を閉じて気絶したふりをしているが、意識がある。起死回生のチャンスを窺っているようだ。なんと聡明な個体なのだろうか――ツーの逞しさ、そして足音の正体に対する深い深い落胆が。
 もう一度。
「……何を笑っている」
 ――トウヤに、冷たい火を点けた。
 起き上がろうと引いた右腕に、激痛などという言葉では形容できない衝撃が走る。呻き声をあげ姿勢を下げる。肩越しに振り返る背後にはクチートの大顎があって、右肘から先はその顎の中に消えていた。
 鋼の牙が、ずぶりと真ん中に刺さっている。総毛立つ惨状に耐えかね目を逸らした。動かせば自ら腕を縦に引き裂く結果になる。これでは逃げようがない。だが、放っておいても失血して死ぬだろう。右か左かというだけで、やはりあの時の状況に似てはいまいか。あの時は、あの時はトウヤは泣くばかりで、追ってハリが助けてくれたが。今日は期待できそうもない。さあ、どうする。挽回できるか。
 過去の試練の記憶を漁り、策を空振りするごとに、追い詰められたという実感が募る。募り、焦れば、焦るほどに、あの不気味な高揚感が燃え上がり、再び腹の内側を熱していく。頼りの手持ちがいない。人気のない場所に連れ込まれた。黒い眼差しを掛けられている、身動きが取れない、そうでなくたって敵は第一部隊長だ。勝てる訳がない。逆境の数を数えれば、何故だろう、確かに生きた心地がした。口の端が抑えられずに吊り上がるのを、指摘されるまでもなく、自分自身でも感じられた。利きの前腕をクチートに食われて地に這い蹲っている、絶体絶命の土壇場の僕は、今、確かに笑っている。
 勝ってやる。ここでくたばる訳にはいかない。
「……ああ、そうだ。隊長さん」
 あくまで軽やかに問いかける。キノシタの蔑んだ目の奥に、ほんの僅か、動揺の色がある。経験と常識の枠の中に嵌らないものと出くわした時に人が覚える恐怖の色。そこに勝機を見出せるか。
「ラティアスはどうなりました? 捕まえることができましたか」
 窮地に浮かされ、半ば開き直った思考から、言葉は信じられぬほど明朗に飛び出してくる。完璧に屈させているはずの相手が見せる余力に、キノシタは表情を苛立たせる。その時。
『――隊長! 隊長! 応答願います!』
 まるでトウヤの問いかけに応えるように、知らない声が叫び始めた。
 彼の持つトランシーバーか。屋内だからだろうか、音質は先に聞いた通信よりも一層に酷い。嵐のような喧騒も聞こえる。入り混じる人とポケモンの怒号。現場の興奮、混乱が読み取れる。キノシタはトウヤに向かって舌打ちし、腰のホルダーから、鬱陶しそうに通信機を取り出す。
 笑いを堪え、震え引かれる顎の先から、汗の雫が滴り落ちる。いいタイミングだ。面白いことになってきた。破裂しそうな勢いで拍動し続ける心臓は次第に動きを速めていく。
「どうした」
『申し訳ありません……ッ、ラティアスを、取り逃がしました!』
 ――ほら、ほら、ほら。
 怒涛の勢いで、風はこちらへ向かってくる!
 キノシタは面相を豹変させる。鬼神の如き眼光に睨まれ、トウヤは肩を竦めて笑って見せる。余裕綽々とまでは言えない。鼓動は高まるほどに右腕のどこかしこから生命を噴き出し、クチートの喉元に黒い血の川を形成していく。意識は混濁の一途を辿る。だが、獲物を狙う視界の真ん中の一点だけは、死に近づいていくごとに、鋭利に彩度を増していく。
『E2地点にて追跡中、突然、地下から巨大なポケモンーーと思われるものが現れ、ラティアスと、レンジャーの女を丸呑みに』
「ポケモンと思われるもの?」
『ええ、お、おそらくは……』
「ハガネールですよ、ハガネール」
 顔の見えない相手から、種明かしを引き取ってやった。
「ココウ近郊に棲息してる化け物みたいなハガネールがいるんです。そいつの口内に匿われて、地下へ潜って逃走したんでしょうかね。突拍子もない話ですが、いやあ、そうなると、なかなか追うのは難しいでしょうね」
 自分でも驚くほどの、笑い混じりの軽薄な声。怒りに戦慄く彼の目を見ると、こんな状況下において、トウヤは快感すら覚え始める。ただ安穏としていた自分の日々を、地位を利用して脅かしたこの男に、自分たちは一泡吹かせた。
『――捕らえようとしたのですが、あまりにも巨大で、打つ手がなく……』
「追っているんだろうな」
『し、しかし、敵は『怒り』と思われる技を使用しています。町に被害が及ぶ可能性を考えると、下手に刺激を加える訳には……』
 アズサのとんでもない計画は成功した。
 リューエル第一と第七の複合部隊から、僕たちは、メグミを逃がすことができたのだ。
「無能どもがッ! さっさと追え!」
 機械の遥か向こうへと唾を吐き散らし、そのままトランシーバーを床へ叩きつける男の癇癪を見ていると、愉快で、愉快で、仕方なくなる。クチートに拘束されてさえいなければ、腹を抱えて笑ってやるのに。怒りの矛を持て余して瞼を戦慄かせている男に、なんと賛辞をくれてやろうか。唇を舐める。彼が視線をこちらへ据えるのを、きっちり待ってから、投げかけた。
「優秀な部下をお持ちですね。流石は、華の第一部隊だ」
 目に見えて頭にのぼりかけたものを、キノシタはそのままぶつけてはこなかった。
「やれ」
 ぶつと音を立て『何か』が引き千切られる。
 声すら出なかった。苦痛に遠のきかけた意識をぎゅうと拳に握りしめた。クチートが歯噛みをするたびに波のようにそれは襲ってきた。額を地面に擦り付けて耐えつつ、横目に窺う。気絶したふりをしているツーのうっすら開いた目元が、悔しげな歪みを滲ませている。トウヤはそいつに笑いかける。大丈夫だ。すぐに終わる。お前、タケヒロの言うことしか聞かない癖して、そんな顔をするんじゃない。
 悦による震えを押し殺したキノシタの声が、頭上から降り注いでくる。
「……例えラティアスを取り逃がしたとしても、貴様を拘束して拷問にかければ、じきに助けに来るだろう。こちらの陣地に招き入れてしまえば捕獲は容易い」
 目が回るような痛みの中で、トウヤは更に視線を滑らせる。何か使えるものはないか。錆びた鉈。大きな鍬。動きそうもない耕耘機。剪定鋏。埃を被った麻袋。
「憐れだなあ、無能なトレーナーを持つと」
 ありありと挑発する敵方の声に、
「助けになんか、来やしませんよ」
 口先だけ、トウヤは言葉を返した。
 ――来るだろうな。メグミも、ハヤテもハリも、もしかしたらミソラもアズサもタケヒロも。皆、馬鹿だから、きっと助けに来るだろう。その前に、舌でも噛み切って死んでやろうか。
 長年の癖がついて自然と自棄に流れかけた思考に、否、と、同じ自分が唱える。
「はっ、手持ちに助けにも来てもらえない程度のトレーナーか? ……いや、」
 死んでやる訳にはいかない。
 過去に呪われた左手を、力強く地面に突く。
 嬉々として弾む煽りを受け、這い上がるように、トウヤは汚れた面をあげる。
「『手持ち』ではないから当然か。あのラティアスは、盗品なのだからなァ」
 明確に己を害するものと、正面から、もう一度対峙する。
 ――死にたくない。
 死んでやるもんか。
 死んでたまるか。
「……そうやって、言いがかりをつけて……」
 腹の底に、積もり積もった淀み、濁って腐った感情に、油を撒き、火を入れるように。イメージしながら絞り出す声は低く芯を持ち、熱い。面白がるように眉をあげるキノシタを真っ向に見据えながら、視界の下端に映り込むものを、素早く確認する。
 ――トレーナーベルトのボールホルダー。紅白のオーソドックスなボールが六つ。中身が入っているのか空なのかは、外からは窺えない。トウヤを拘束しているクチート、『黒い眼差し』を使っているゲンガーは、どのボールに収まるのだろうか。
 先の会話を聞く限り、キノシタは部下に信用を置いていない。本人がトウヤの相手をしている以上、肝心のラティアス捕獲作戦には己の手持ちポケモンも向かわせているだろう。クチートとゲンガー以外の四体は、おそらくここにはいないのではないか。
「拷問などと、出来もしないことを言って、脅すようなやり方をしないと、目的を達成することも出来ない……」
 だとして、敵は手練れの二体。こちらは非力なピジョンと死にかけの自分のみ。どんな奇襲を打ったとして、戦闘をするなら、どう考えても勝ち目はない。
「リューエルの第一部隊は、いつからそんな部隊に成り下がったんです?」
 だから、戦わずして勝つ。
 幸いにして、口は流暢に動く。あとは片手さえ伸ばせれば、潮流は手繰り寄せられる。
 若造のあからさまな「挑発返し」を、壮年は黙って聞いている。表情は殆ど変化がない。だが、トウヤの読みが正しければ、この男は相当に浅はかで、怨念深い人間のはずだ。
「僕が子供の頃は、少なくとも、そうじゃなかった。僕の母親が、第一に所属していた頃は」
 『母親』という言葉に露骨なまでに感情を乗せる。
 男の眉根に刻まれた皺が、ぴくりと動いた。
 霞みかけた視界の中にトウヤはそれを見逃さなかった。
「あなたが、肝心のターゲットを部下に任せ、僕みたいな素人のところにわざわざ出向いて、こうやって憂さ晴らしをする、」
「己を棚に上げて『憂さ晴らし』とは笑わせてくれる――」
「それほどまでに、あなたを追い詰めたのは、」
 一蹴せんとする声に強引に被せる。無視はさせない。
「僕の母か、それとも姉か」
 確信と共にトウヤが迫ると。
 優位に立とうとするキノシタの冷笑は、それ以上は続かなかった。
 肌を刺す空気が凍てついていく。闇の溜まりに浮かぶ目が、ざわりと一斉に瞳孔を動かす。叱られた子供が親の機嫌を窺うような反応だ。癇癪を起こした主人に、これまでも痛い目に遭わされてきたのだろう。
 部下を無視し、或いは怒鳴りつけて指示を通す。恐怖で従者を使役する。教本通りの暴力的な支配手段。そのやり口には覚えがある。
「母ですかね。死ぬ間際まで第一部隊に所属していたと聞いています。母は、僕ら子供にもすぐに手が出る、乱暴な……いや、良く言えば教育熱心な母親でした。そういえば、部隊員にも厳しく指導しているんだと、家でもよく話していましたよ。今日も誰某をボコボコにしてきた、お前も同じようにしてやろうか、ってね。母は、あなたに失礼を働いていましたか。それなら、僕が謝るのもまあおかしい話ですが、申し訳なかった」
「指導だと。笑わせてくれる。俺が副隊長に任命された時、あの女は平だった」
 自分の方が格上だと吐き捨てる言葉の後に、だが彼は、抑えきれない鬱憤を滲ませる。
「……平の分際で、統括の右腕のように振舞いおって……」
 複雑な憎悪が渦巻いた声色に窺い知れる――格下のはずの存在が上役に寵愛され、己の評価が不当に下げられていると感じていたのだろう。目の上の瘤と言う訳だ。それに『暴力的な支配』を受けていたのだと言うならば、当然面白くなかったに違いない。面白くなかったというどころか、彼の表情を見ていると、トラウマと呼んで差し支えないものだったのではないかとさえ想像される。
「目障りな女が死んで、清々した隊員は多かったろうな」
 若干余裕を欠いた男の顔に、嘲笑のようなものが上塗りされる。肉親の悪口を伝えるだけで攻撃したつもりだろうか。確かに普通の状態ならば、お前の親は皆に嫌われていたと言われれば多少なりとも傷つくことが出来ただろう。普通の状態ならば。
「……なるほど。平如きに昇進を邪魔されたと思い込んでいた、『無能』な部隊員たちが?」
 正常な道徳心などとうに欠いている今のトウヤには、掠り傷さえ残せない。
 キノシタが使ったのと全く同じ言葉で彼を煽る。これが効いた。今度こそ目に見えるほど急激に頭に血を昇らせた男が、衝動のままに叫んだ。
「クチートッ!」
 トウヤの背後が力を込めた。
「――……ッ!!」
 鋭い痛みが全身を突き抜ける。上半身を支えていた左腕が弾かれるように痙攣して、三度地面に崩れ落ちた。
 自分の喉から聞いたことのない声が漏れる、背筋に焼けた火箸を突っ込まれたような衝撃があったがそれはそういう気がしただけで、実際に加害されたのは右腕だった。歯を食い縛って繋ぎ止めた意識の先に、一時前まではあった肘から下の感覚がない。クチートの顎の中でそれがどういう状態になっているのか、考えるとゾッとする。だが出血しているのは幸いかもしれない。おそらく『リゾチウム』を使用しているはずのクチートの唾液が体内を回れば、ここまで意識は持たなかったろう。
 震えの止まらない左腕をもう一度地に突き、体を持ち上げようとする。
 額から噴き出した脂汗が顔面を流れ、ボタボタと床を濡らす。先の振動で間近に転がってきたものがそこで視界の隅に入った。光。今にも千切れそうな細い光だ。三日月のような形。鈍色。混濁する薄ら闇の中で、静かに先端を輝かせている。鎌か。よく砥がれている。憑りつかれたかのようにトウヤは刃の光を見た。左手を伸ばせば柄に届く。振り被ってもキノシタには掠らないだろう。だが、――行動範囲を制限している邪魔な自分の右腕を、斬り落とすことは、できるかもしれない。
 動悸と、荒い呼吸音ばかりが耳につく。
 どうせ使い物にならない腕だ。
 どうせ何も守れなかった腕だ。
「土下座しろ」
 血と、汗と共に、熱く、柔らかで、二度と得難い大切なものが、体から流れ出していく。人としての尊厳。自分が自分として存在すること。だがそんなものを、この期に及んで、まだ持っていたのかと呆れもした。大事なものは増やせば増やすほど辛くなると随分前から分かっていた。分かって、処分してきたつもりが、肝心なものは何ひとつ捨てられずに来たのだろう。そのツケが今になって回ってきた。だけど構わない。守るべき、数少ない本当のものを、ちゃんと守ることが出来るなら。
 手持ちの、家族の、友人たちの、たくさんの顔が目の前を過ぎる。ヤスリのような声でキノシタが言う。どちらも無視してトウヤは続けた。
「……女であると言うだけで、昇進のままならない社会だったそうですね、リューエルは。だが、姉は古い体制の風穴となった。『目障りな女』の面影を残す女が特例で昇進する様を見るのは、さぞや面白くなかったことでしょう。その女が、昇進を、実力の外で勝ち取ったなどと、根も葉もない噂を流してしまうくらいには」
 背後で気味の悪い咀嚼音が聞こえている。限度を超えた痛みは感じられなくなったのか、神経が完全に逝っているのか。淡々と淀みなく喋り続けながら、猛然と思考の靄を突き進み、トウヤは策を一つに絞った。もう、他に残された可能性のことは、排除して考えないようにした。これしかない。こうするしかないんだ。静かに片膝を引く。距離を目算する。バランスを崩さなければ三歩で掴み掛かれる。ゲンガーの実体が厄介だ。きっとキノシタの傍にある。
「やはりヒガメの宿に侵入したのはお前か」
「そうだ」
 キノシタの右腰のボールは六つ。手前から一つ目と二つ目は外れ。残るボールは四つ。片手で叩いて一度に開放できるボールはせいぜい二つ。外れを引けばその瞬間に、背後から食い殺される。
「そうだ。そしてそんな時に、苛立つあなたの目の前に、ラティアスという葱を背負って、そいつの弟というカモが、のこのこと現れた」
 運任せの博打ではダメだ。運命の女神はどうせこちらには微笑まない。だが、それを強引に掴む手は、まだ、片方残っている。
「どうです? 格下のど素人に、嬉々として八つ当たりをする気分は」
 腹は括った。勝負に出る。
「気が晴れますか。隊長さん」
 慎重に、だが的確に癪に触れてくる、命を握っているはずの若者の笑みに、キノシタは明らかな青筋を浮かべた。
 右足が上がる。ココウの町とその納屋に全く似合わぬ革靴が、
「……調子に乗るなよ、糞餓鬼が」
 地面に伏したままのピジョンの頭の上へと、下ろされた。
 ――乗ってきた。あと少し。靴底と床に挟まれているツーは頑なに目を閉じて動かない。恐ろしかろう。辛抱している。その根性に報いたい。
「第一部隊長にもなってすることが、それですか」
 は、と不実な息を飛ばす。内心は何と判別もつかぬほど燃えている。感覚は昏迷しつつある。だが、思考の核心だけは、氷柱のように冴え渡り、男の心臓へとひたりと狙いを定めている。
「失望させないでくださいよ。僕がリューエルにいた頃、第一部隊と言えば、実務部の中でも超花形のエリートでした。その部隊長と言えば、実力にも人徳にも優れた全団憧れの存在で」
 凡そ口下手なはずの自分は、どこでこの舌先を会得したのだろう。思えば父も母も口の煩い人だった。夫婦喧嘩の舌戦は他者に聞き取らせぬほど凄まじかったし、姉さんも、普段は大人しいのに怒らせると突然達者になる。あれらの系譜が自分にも確かに流れていると言うのか。
「僕ら子供はフィールドでポケモンを戦わせながら、競ってその役を夢見たものだ。その地位を手に入れたあなたが、その地位を以てしてすることが、それですか? 僕らはそんなものを夢見ていたのか。今だってリューエルの子供は、その地位を夢見ているんだろうにな。ああ今の子供は可哀想だ。何の罪もない、吹き飛ばししか使えない、善良なピジョンの頭を踏み割る、そんな崇高な役職を、競って目指さなくちゃあならないなんてな」
「黙れ」
「そのあなたの作りあげた第一部隊は、この狭くて汚い田舎町で、部隊をあげて女子供を追い回して、挙句に逃げられるとんだ使えない集団で――」
「黙れ!!」
 キノシタの怒号が響く。目玉が萎縮し背後が怯む。
 右膝を立てる。左足で地を掴む。狭小なバトルフィールドは興奮の渦中にある。些細な初動には誰も気付かない。
「――僕が憧れていた頃の第一部隊とはえらい違いだ。草葉の陰で母も泣いていることでしょうね。一体、誰がこんなに程度の低い『華の第一部隊』にしたんです?」
 もう笑うことはできなかった。語調には勝手に怒気が表出した。ただただ渾身の力で、恨むべき敵を睨み上げた。
「あんただ。あんたが第一部隊を腐らせた」
 腹の底から凄みを振り絞り叫ぶ。
 耐え難い侮辱にキノシタの唇が捲れ、戦慄き、次ぐトウヤからの、
「無能な部下にお似合いの、無能な部隊長様だな――!」
 最後の罵倒に、トリガーを引かれ、男が吠えようとした瞬間を、計り、左足に力を込め、

「――――噛み砕けッ!」

 強く、地を蹴った。

 主人の指示通り、大顎の上下に生え揃う鋼が、
 右後方に引き戻されかけた体が、

 咬合し、
 

 ――ふ、と、軽くなった。

とらと ( 2018/07/27(金) 22:38 )