月蝕



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月蝕
11−6
 冷たい石畳の上を、無数の足音が往来する。
 当たり前の光景が、次々と目の前に現れる。サーナイトが埃を叩く古書店。風に乗ってくる油の香り。十年以上変わらぬ声で客引きを続ける生花店主の見知った顔。夕飯の一品を吟味する女、酒場の小窓を覗きこむ男、薄暗い裏路地のゴミ溜まり、座り込んでいるくたびれた捨て子。その脇で残飯を漁るコラッタが、ふと顔をあげ通りへ駆け出し、人間の足の間をちょろちょろと抜け、まっすぐこちらへ突進してくる。慌ててトウヤはそれを避ける――あらゆる人の雑多の思いが交錯し続けるココウ中央大通り、決して住みよい場所ではなかったが。もう、しばらくのうちは、通ることもないだろう。
 日の短い冬の暮れは、急ぎ足で迫ってくる。雲越しに散乱した斜陽は影ともつかない淡い影を、朧な輪郭で投映する。夕刻に差し掛かるに従い、悪質な冷気の潜む闇は徐々に町中に蔓延していく。夜ともなれば冷え込みは更に厳しく、野ざらしで一晩を凌ぐのは、放浪経験の多いトウヤでも少し想像しづらいところだ。が、ミソラを連れての野宿はほぼ確定事項である。アズサは荷を持っているようには見えないが、自分たちを逃がした後、どうするつもりなのだろうか。
 人混みの中を、三人は無言で歩き続けていた。
 トウヤの右手の裾を握っているミソラは落ち着きなく首を回し、前方をゆくアズサは、全く表情が窺えない。この沈黙が警戒心からくるものなのか、単に緊張なのか、それとも『ばつの悪さ』の表れなのか、判別するのは難しかった。見飽きているはずの町の景色と、行き交う人々の顔色に、トウヤも間違い探しをするような心地で広く神経を尖らせていた。見覚えのある顔。見覚えのない顔。向こうから、旅人のような身なりの男が厳めしい目つきでやってきて、不意に右手をあげる。その手の中に、黒色の小箱が収まっている。アズサが顔を向ける。ちょいちょいとミソラが腕を引く。三人ともが、男の口元へ視線を注ぐ。
 当たり前の光景が、男を中心にして、急激に温もりを失っていく。
 この町は既に、いつもどおりのココウではないのだ。
「ターゲットはD19地点を南に進行中、第七部隊の先鋒隊員と交戦のち逃亡の模様」
 トランシーバーへそう語る男は、通りへ目を光らせつつ、前方左手を歩いてくる。
「現在第七部隊員がターゲットを追跡中。第一部隊二班は、南方から接近し――」
 平然を装っても、首筋で存在を主張する心臓が、緊張の高まりを感じさせる。トウヤは無意識に息を止め、それまでと同じ歩調で歩き続けた。
「接触次第、作戦通り、西部に誘導――」
 ぴたりと、目があった。
「――し、そののち戦闘行動に移るように。街中での交戦は避け、戦闘範囲は最小限に留めるようにとの――」
 気がした。気がしただけだった。
 何事もなく去っていく男を、思わず振り返る。
「タケヒロ、戦ってるみたいですね……」
 同じく背を見送ったミソラが、消え入りそうな声で囁いた。反応せず歩いていくアズサには聞こえなかったのだろうが、聞いていたトウヤにも、祈るような思いで頷くことしかできなかった。自分たちのために時間稼ぎをしている少年に、何をしてやることもできない――トウヤの背中に添うように浮遊しながらついてくる、不安げな顔つきのメグミにも。
 今のリューエル隊員にも、先のコラッタにも、トウヤの姿は見えていない。トウヤだけでなくミソラも、アズサも、メグミの『光の屈折を操る』能力の影響下にある。
 メグミを逃がすためにメグミの透過(正確に透過ではないが)能力を用いて陸路を移動する、というアズサの提案にトウヤは最初は反対したが、かといってそれ以上に有効な手立てを打ち出すことも出来なかった。メグミを危険に晒したくない、というトウヤの考えは所詮感情論であり、アズサは幾分理論的だった。彼女だから入手できた情報を元に策略を語る口調には、迫力すら感じられた。
「『テレポート』での生体の移動をポケモンに指示することは危険視されていて、レンジャーには認められていない、リューエル実務部もそういう体になってる。本部に隠れて使っている人もいるみたいだけど、実務部の『顔』である第一部隊員は、全員このルールを守ってるわ。だから移動のための飛行ポケモンを必ず一体ずつ持ってる、もちろん戦闘にも長けてる。空路で逃げるのは無謀よ」
 タケヒロと別れた後、作戦を練り始めたアズサの瞳の険しさを、背中を見ながら思い出す。実態を隠す黒いマントが、嘲笑うように揺れている。自分よりうんと小さく、軟弱ですらある背中だが、頭からつま先まで隙がない。彼女は毅然としていた。
 いや、毅然と見えるように、振る舞っていた。
「正規登録の手持ちに加えて、このミッション用に、ゴルバットを三体、リューエル科学部から第一部隊員が借り受けてる。あと、手持ちをサブのオンバーンと入れ替えてる隊員もいるわ。超音波で周囲状況を把握するポケモンにはラティアスの透過能力が通用しない、そうね?」
 確かに舌先は達者な娘だ。だが、こんなにも饒舌に語る彼女に、トウヤはこれまで出会ったことがあっただろうか。
「……その通りだ」
「なら空よりも、障害物の多い陸路の方がまだチャンスがありそうじゃない? 大通りなら人もポケモンも多いし、『形』で判別するポケモン相手なら多少は誤魔化しが効く」
「障害物で言うなら、わざわざ大通りを通らなくたって裏路地から外に出ればいい。大通りは確実に張られているだろう」
「波動を扱えるポケモンを、相手が連れていたら? 建物の向こうからでも行動がばれる。ルカリオでなくたって、波動技を覚えるポケモンはたくさんいる。中には波動が見えるだけの才能を持って生まれる子もいるわ」
 腑抜け面で虚空を眺めているチリーンのスズを、アズサはそっと撫でた。
「人混みに、大勢の波動の中に紛れてしまえば、波動の探索も阻害できる。大通りを歩いて北へ抜ける、これで行きましょう」
「匂いは」
「第一部隊って基本的に捜索をするミッションは担当しないのよね。ムーランドを持ってる隊員もいるけれど、この個体は嗅覚を使った探索訓練を受けていない」
「各個体の詳細まで把握してるんだな……」
 タケヒロが去った後のあの場所で、トウヤよりも、ミソラよりも、誰より必死になって余裕を失っていたのは、どう見てもアズサだった。
 これまで四年ほどの付き合いの中で、『つかず離れず』の距離感を取ることができる彼女の聡明さを、トウヤは幾度となく実感してきた。彼女ほど賢い人が、語りすぎることで逆に自らを怪しませる事実を理解していないとは思えない。だが今は、ポケモンレンジャーの身分では知る由もないような情報を具体的に並べ立て、ミソラでさえ困惑を浮かべている。敢えて語り明かしてくる意図が、トウヤは読めずにいた。
 二人の浮かない表情を見て、凄いのはユキよ、とアズサは小さく肩を竦めた。
「あなたが私のことを怪しむのは仕方のないことだと思う。でも、そんなことを言っている場合? 今の状況で、信じてくれなくちゃ、どうにもならないわ」
「……何を根拠に」
「お兄さん。私、確かに、ずっとあなたを騙してた」
 遮って、アズサが言った。
 トウヤは、僅かばかり、唇を引き結んだ。
 硬質で真っ直ぐな、鈍色の剣を思わせる声。そして同様な眼光だった。ミソラが少し身動ぎするような音がしただけで、トウヤは何も言わず、相手の双眸を見つめているだけだった。思いつめた女の表情に、少し昔までの人を食うような妖艶さはなくて、どうしようもなく愚直で、目を逸らすことも拒ませるほど、あくまで真実めいていた。
 その刃が、今という瀬戸際になって垂直に突き立てられた意味を、どうにか分かってやりたかった。五つ年下のこの少女が、ここまで懸命に、がむしゃらに、段々冷静を欠いてさえ自分に訴えようとしている意味を、素直に酌んでやりたかった。
「でも、あなたの味方だから。これは本当。リューエルがあなたからラティアスを奪うなら、それを阻止することが、私の、ミッションだから」
 ――はっきりと見据えてくる彼女の言葉を、肯定的に、トウヤは呑み込んでやりたかったのだ。
 だが、今のトウヤにはその言葉は、無数の棘に覆われた苦々しい果実か、あるいはそのまま毒物だった。『騙していた』、か。『ミッション』か。まだ瘡蓋も剥がれていない、あの男とのやりとりがよぎる。対する栗色の瞳が雄弁に語る。きっと嘘ではないのだろう。その目を、人柄を知っている。だからこそ彼女の吐いた言葉は、トウヤの奥の、その奥まで入り込んで、胸に残っていた無防備な場所を、無邪気に握り潰すことができるのだ。
 ぐしゃりと、形を歪めた内心の中には、彼女を交えてシャッターを切った、宝物のような思い出がある。
 それを引っ張り出して、目の前の顔に投げつけてやりたい衝動を、トウヤはぐっと堪え切った。
「分かった。大通りを行こう」
 それぞれのポケモンを戻し、代わりにメグミを出す。悔しさのような耐え難い熱さが、どっと噴き上げて顔を焼いて、波が引くように瞬く間に消えていくトウヤの感覚を、メグミは読み取ったのだろう。アズサから顔を背けた男を困ったように覗きこんで、『トウヤの言うことは聞く』という言葉をテレパシーで伝えてきた。けれど多分、思考までは、正確に読み取れていなかったに違いない。
 初めて見るメグミの本来の姿に、ミソラが「かわいい」と少しだけ頬を弛めた。アズサは何の感動も覚えていないようだった。タケヒロからボールを託されなかったピジョンのツーはトウヤの肩に留まり、三人と二体寄り集まって、メグミの能力の恩恵を受ける。『透明人間』になって大通りへ繰り出す直前、先導する女はふと立ち止まり振り向いた。
「お兄さん、体はまだ平気?」
「体?」
「第一部隊員のポケモンなら、『薬』を使ってる可能性が高い。技に直接触れないように、特に煙を吐くポケモンには注意して。アレルギー症状が出るかもしれない」
「分かってる」
「いい、絶対に無茶をしないで。最初に症状が出たのって、強化剤を高濃度処理したヨーギラスに噛まれたのが原因だったのよね。傷口から唾液が入るだけでも、やっぱり危ないと思うから……」
「……悪いな、不都合な体で」
 僕より、僕の体のことに詳しいんじゃないか。
 皮肉を押し留める。アズサもさすがに不味そうな顔をして、前に向き直った。
 それから十分ほど、大通りを歩き続けている。もう十分も歩けば通りの北口に差し掛かり、そこからは一気に人足が疎らになる。北で合流できる『アズサの友人』という人物は、味方に付けられればかなり心強い存在だ。――無論、アズサの言っていることが本当であるなら、の話だが。
 黒く汚れた腸(はらわた)があるとして、できれば隠していて欲しいと思う。
 そんなものを、白状してくれなくていい。望んで見たくなんかない。だが、彼女の選択に命運を預けているメグミの立場を思うにつけ、メグミにそれを暴くなと言うこともできない。トウヤの背中にぴったりとつき、一行を他者の視線から排除しながら、メグミはしきりにアズサの心を探ろうとした。そしてその度に、『この子が何を考えているのかよく見えない』ということを、テレパシーで伝えてきた。
 人の心を感じ取る、というメグミの行動は、おそらく波動を介している。「自分の波動を消すことができる」と言っていたアズサは、メグミに腹を探らせないように波動を操作しているのではないか。だとすれば、読み取られては都合の悪いものを隠していることは明白である。
 体の内側がゾクゾクと粟立つような、不快な感覚がせりあがる。
 だが、それは、全容を掴ませないアズサに対してではなく、それを疑おうと無意識に思考を誘導する、自分の疑心暗鬼に対してだ。
 向かいから来る人、背後から急ぎ足で駆けてくる人にぶつからぬよう、歩みは遅々としている。足元にはふやけた薄墨が濃淡を入れ替えながらついてくるが、道行く誰しもに、この影さえ見えることはない。それでも不安と苛立ちは募る。服の裾を掴んで歩くミソラが、妙案を思いついたような勢いで、さっと顔をあげてくる。こちらを映す空色の瞳は、怯えの上に健気な強がりを塗りたくっていた。
「あのトランシーバー、グレンさんの家で見つけたんですよ。分かりやすい場所に置いてあったって」
 物怖じを誤魔化すように、ミソラは上擦った声で話し始めた。
「グレンさん、きっと、味方になってくれてるんです。向こうの中に一人でも味方がいるって考えると、心強いですよね」
「……馬鹿だな、あいつ」
 できるなら頼ってしまいたい人物の名前を出されて、思わず悪態が漏れる。ミソラは目を瞬かせた。
「グレンが僕らと繋がってて、しかもラティアスを連れてるのを知って僕を泳がせていたことは、リューエルの上の人間も掴んでいるはずだ。その立場でトランシーバーをこっちに寄越すって、故意だろうがそうじゃなかろうが、ばれたら相当責任が問われるぞ」
 タケヒロは第七部隊の誰かと交戦していると、すれ違った男が言っていた。逃げ足の速いハヤテがいるとはいえ、タケヒロにトランシーバーを持たせたままにしたのは失策だったかもしれない。
 ぼそぼそと喋るトウヤの声を、前方のアズサは聞いただろうか。ミソラは面白くなさそうに目を細めた。
「……人の心配より、まずは自分の心配をしたらどうですか」
 他者の言葉が、いちいち痛いところに突き刺さる。頭の後ろで、メグミが微かに笑った。
「そうは言ってもな……」
 言わなくてもいいことを、トウヤはミソラに言おうとした。
 自分のせいで人が傷つくのは、なるべくなら避けたい。そんなことになれば耐えられない。関係者が増えるほど、僕の手の届く範囲で事は収まらなくなる。おばさんにも、グレンにも、可能な限り迷惑は掛けたくない。暴力的な集団ではないと言うが、今の様子を見る限り、女子供を人質に取らないとも言い切れない。アズサもタケヒロも、本当は巻き込むべきじゃなかったんだ――口に出すことにまるで意味のない、ほとんど願いのようなトウヤの言葉は、実際どれも出ていくことがなかった。左肩に止まっていたツーが後頭部を素早く小突き、トウヤは後ろを振り向いて、それを確認した。その時、言わずに胸元に滞留していたその儚い願いたちが、叶わないのだろうという、粉々に砕かれて、風に煽られてあっという間に吹き消えてしまうのだろうという直感を得て、どこかで無意識に、トウヤは納得してしまった。これまでの人生なんて、全部がそうだったような気さえする。淡い期待なんて、願いなんて、どうせ裏切られるんだって、抱くだけ無駄だって。なのにどうして、何度だって、すぐに壊れるだけの願いを、また抱いてしまえるのだろう。
 ――冷い北風の荒ぶ大通り、足早の雑踏を右へ左へと惑いながら、紺色のマフラーを咥えたビーダルが、こちらへ向かって歩いてくる。
「ヴェル……」
 小声を詰まらせたミソラが、トウヤの右腕の裾を、ぎゅうと引きしめた。
 寒さが堪えるのだろう。家で最後に見た時より、顔色が悪い。みすぼらしく艶を失った毛並を引き摺って、覚束ない足取りで石畳を踏んでいる。匂いを辿ろうとしているのか、しきりに鳴らしている赤い鼻は、痛々しく乾いている。老ビーダルのヴェルの姿は、五メートルほど向こうにあって、その目は何かを探すようにしておろおろと彷徨い続けていた。完全に立ち止まったトウヤたちの姿は、無論、ヴェルにも今は見えていない。
 リューエル第一部隊の二人組が酒場にやってくる前、ヨシくんのスニーカーの傍で眠りについたヴェルの首元に、トウヤはどうしようもなくくだらない理由で自分のマフラーをかけた。あの後二階で起こした騒動を聞きつけたヴェルは、そのマフラーを返すために、ここまでトウヤを追いかけてきたのだ。
「……お兄さん。可哀想だけれど、行きましょう。気持ちは分かるけど……」
 焦りと気遣いがない交ぜになった複雑な声が、背後から掛かる。そうだ、ヴェルからマフラーを受け取って家に帰らせるなら、姿を見せなければならない。無論、そんな危険は冒せない。
「でも、ヴェル、ずっと調子が悪くて、早く帰らせてあげないと……ヴェルに何かあったら、おばさんひとりぼっちになっちゃいます」
 今にも走り出しそうな切実な早口が、右手を引きながら言う。無視してこのまま去れば、日が暮れるまで、ヴェルはトウヤを探し続けるかもしれない。ヴェルの今の体力でそんなことをさせれば、どんな結果が待っているだろうか。
 身勝手な通行人の乱暴な歩みに翻弄され、ヴェルの背はせわしなく上下して、呼吸が荒れているのが見て取れる。匂いはするのに姿の見えない自分を探して、狼狽して視線を泳がせ、マフラーを咥えたまま鳴き声をあげている。ヴェルには、行ってきますも、さよならも、言わなかった。そしてさよならを告げずに消えた別の子の影に、あの小さなスニーカーにこびり付いたもう消えているはずの匂いに、ヴェルは未だに縋っているのだ。
 タケヒロの時と同じだ。己の甘さを痛感する。だが、黙って背を向けることが、どうしてもできなかった。
「……メグミ、ヴェルに、テレパシーで伝えてくれ。今はお前には会えないから、家で待っててくれって」
 メグミが頷き、ヴェルへと視線を向ける。一同が固唾を飲んで様子を見守った。
 ――テレパシーを受け取ったらしいヴェルの体が驚きに跳ねる。周囲を窺う行動がせわしくなる。メグミがどのように伝えたのか、トウヤには分からなかった。ヴェルはやがて、こちらではない一点を見つめて、暫く黙りこんだ。それからマフラー越しの声で、ぶうぶうと文句を言うように鳴いた。
『……ヴェル、帰らないって。トウヤに会いたいって。トウヤが、あの時、何か言いかけたから……』
 あの時――ヴェルの寝室を離れる直前、話してやろうとした秘密、ハギに呼ばれて結局言うことができなかった秘密のことを、トウヤが思い出した瞬間だった。
 ――影が、笑った。
 痩せた喉から、音にならない声が漏れた。ミソラとアズサがこちらを向いた。トウヤの、そして同時に気付いたメグミの目も、ヴェルの足元、腹の下、尾の下、そこにじわりと沁み込んでいる殆んど輪郭のない影へと、釘付けになっていた。
 注視しなければ気付かない。だが、この天候の中で、明らかに『影の色が濃すぎる』。
 ……あの時、言いかけたから。ヴェルの反応を楽しみたくて、言うのを少しだけ勿体ぶって、結果として話す機会を失ったから、だから、ヴェルは追いかけてきたのか。僕のくだらない自己顕示が掛けさせたマフラーを持って、僕と最後に話をしようとして――その気持ちを利用されて、ヴェルは、それで。
 僕の、
 ――僕のせいだ。
 狂いはじめた拍動を胸の上から押さえつけようとしたが、そんな行動に、何の意味もない。明らかに血相を変えたトウヤに、どうかした、と、アズサが問うた。同じタイミングで、どうする、とメグミが問うた。どうする。どうすればいい。メグミのテレパシーにヴェルが声で返したことで、近くにトウヤたちがいることに、奴は気付いただろう。このままトウヤが姿を現さなければ、奴は次にどう行動する。――攻撃するだろう。ヴェルを。そうすることで、トウヤをおびき出そうとするだろう。そうなったら、ヴェルはどうなる。
「ゲンガーがいる」
 ミソラは思わず手を離した。
 アズサは、一言で、トウヤの動揺を理解した。
「左手の路地に入る。メグミ、ヴェルを、ゆっくりこっちに誘導してくれ」
『分かった』「どうするつもり」
 横倒しのドラム缶が二つ並んだ、比較的広くて明るい路地だった。ミソラとタケヒロがよく遊んでいた場所で、トウヤも、そしてミソラも、このあたりの立地には比較的詳しい。路地を数メートル入ったあたりで、ヴェルがやや緊張気味の面持ちで、大通りから折れ曲がってきた。トウヤたちの向かう方には右手に折れる小路がある。この先は入り組んだスラム街になっていて、例えば大型のポケモンを使ってこの道を移動するのは厳しい。
「レンジャー」
 その後、自分がどうするのかまでは、考えることができなかった。
「メグミとミソラを連れて、逃げてくれるか」
「え」
 アズサが目を丸めた。ミソラは黙ってトウヤを見上げ、メグミがすぐに首を振った。
『嫌だ』
「お願いだ、メグミ。僕の言うことは聞くって言ったろ?」
「あなたはどうするんですか」
「ハリとしばらく足止めする。必ず合流する」
「……私のこと、信用してるの」
 右手に折れる。ゲンガーの視界から逃れただろうことを確認して、ホルダーの三つ目のモンスターボールを、トウヤは右手に取った。笑えることに、その手が微かに震えていた。それを見て、メグミがクッと顎を引いた。
「そうしろって言ったのは君だろ」
「だって、さっきは」
 その時、一瞬、子供が駄々をこねるような色を交えたアズサの声を聞いて、トウヤはやっと理解した。
 彼女も、信じられずにいる。トウヤを疑っているのだ。『トウヤが自分を信じていること』を、信じ切ることができなかった。だから強い態度を取るしかなかった。
 あなた一人で何ができる。信じてくれなくちゃ、どうにもならない。アズサが言った。まさしく、その通りだ。自分を信じろと訴える、彼女の主張は正しい。――それができない、数年手を組んできたこの娘を信用することができないのが、自分自身の弱さでなければ。一体何だと言うだろう。
「何を根拠に」
 アズサに遮られて言い損なった、小っ恥ずかしい言葉を、口早に、腹を括って言い放った。
「何を根拠に僕が君を信じていないって思ってるんだ、失礼な、って言おうとしたんだ」
 トウヤは強引に口角をあげた。
 アズサは眉根に、悲しみのような皺を刻んで、小さく唇を噛みしめた。
 メグミの頬を撫で、一人、踵を返す。心許ない一対の蒼穹がちらりと視界の端を流れた。ヴェルの姿はまだ見えない。足音が近づいてくる。
 後ろ手に差し出したメグミのボールを、
「君を、信用させてくれ」
 ――無言で、細い手が掴み取った。
 互いの背が離れる。男が、子供の手を握った女が、同時に逆方向へ駆け出した。トウヤは素早く一つ目のボールを取り、投げた。姿を見るなりこちらへジャンプしたヴェルの脇を抜け、ボールが地面へ突き刺さる。その前に、飛びあがっても色を変えない藍色の『影』へ、肩から発ったピジョンが撃った。
 『吹き飛ばし』が決まり、地面から実体を伴って放り出されたゲンガーへと、開放光をぶちまけながらハリが飛び掛かる。
「『騙し討ち』!」
 必中技が、したたかにゲンガーの後頭部を殴った。影へ逃れられぬよう背後から抱え込みつつ、紫色の寸胴をノクタスが地面へ押さえつける。警戒すべきは『黒い眼差し』、そして『催眠術』か。敵が一匹とも思えない。早くこの場を打開しなければ。
 背後のヴェルから、マフラーを受けとる。ゲンガーの姿を見てやっと事の重大さに気付いたのか、ひどく体を強張らせていた。疲弊した表情に触れる。北風に弄られただけとは到底思えない、冷凍庫に漬け込まれたのではないかと想像してしまうほど、体が冷え切っている。影に潜んだ獲物から少しずつ体温を奪うというゲンガーの生態を思い出した。放っておけば、取り返しのつかないことになっていた。
「ヴェル。分かるだろ。帰ってくれ、頼む」
 敵も手練れだ。激しく暴れるゲンガーをハリは全身で抑え込んでいる。トウヤが手早くマフラーを巻き後ろ手に縛ると、ヴェルは名残惜しそうな声をあげた。
「僕も、絶対に、お前に会いに帰るから!」
 本心なのか、そうでないのか、分からない出鱈目なことを、気付けば強く口走っていた。
 それを聞き届けて、ヴェルは頷いた。
 踵を返し、ハリとゲンガーを一瞥する。横切り、大通りの方向へ、ヴェルは元来た道を駆けていく。トウヤの見える範囲にアズサとミソラの姿はなく、足音もとうに聞こえなくなっていた。逃がせた。あとはゲンガーを撒きつつ、自分もスラムに逃げ込めばいい。打開路が見えたが、まったく安堵はしていなかった。ただトウヤの意識は、次の指示を求めるハリの方へと、完全に集中しきっていた。
 どすん、どさりと、視界の外から、立て続けに音が聞こえた。
 次手だと思った。音だけでは敵方の姿は想像がつかなかった。ツーに『吹き飛ばし』を命じる息を、喉と舌の間まであがらせながら身を返した。その息は、すんでのところで音になりそこなって、鼻と口から中途半端に抜けていった。
 そういえば、あれから、一粒も雪が降っていない。
 町は、乾き切っていた。まっすぐ斜めに切り込むガラス板のような薄日の中に、たった今舞い上がった埃がもうもうと流れて、細やかな光を散らしていた。
 その日向と影の丁度分かれ目、ドラム缶の前のあたりに、道を遮るようにして、獣が横倒しになっていた。
 それを見て、トウヤの頭にいっとう最初に、こんな考えが過ぎっていった。
 ……ああ、
 やっぱり、一回りは、小さくなったんじゃないだろうか。
 いつ見たのか、いつも見ていたのだが、夏頃に酒場の床に横たわっていたそれに比べても、どことなく寂しい気がする背中だ。それでもたっぷりと蓄えた張りのない贅肉が、砂っぽい地面に垂れ落ちている。見慣れたと言うには親しみすぎている、心をほっとさせる柔らかな茶色。そんなところに横になったら、ただでさえ惨めななりなのに、また毛並が汚れてしまうのに。尻尾もだよ、ヴェル。店の端のベンチで昼寝をするとき、よく枕にさせてくれていた、いつだか裏庭で泣いていた時に背中を撫でてくれていた尻尾も、最近よく引き摺っているけれど、あまり引き摺らない方がいい。今は力無く地面に伏せている、深い褐色の大きな尻尾。トウヤは子供の頃から今までずっと、ふっくらとしたヴェルの尻尾が大好きだったのだ。――そんなことが、ほんの刹那のうちに、まるで見当違いに頭の中を駆け巡って、互いにぶつかって、星屑のように弾けて、消えた。
 何してるんだ。
 そんなところで休んでないで、早く逃げろ。
 と、言ってしまいたい。それもまったく意味のない言葉で、現実逃避に過ぎないけれど。トウヤは、一秒、また一秒と、その光景を目に映すごとに、力というか、生きる源、魂と呼んでも差し支えないような原動力が、あの埃みたいに流れ出て、煙のように薄くなって空気に溶けて、どんどん体から抜けていくような心地がした。
 倒れているヴェルと、――その向こうで臨戦態勢を取るクチート、その向こうにいる第一部隊長のキノシタ、の存在に、なかなか連続性を見出せなかった。彼らが、ヴェルを、害したのだという事実に、合点がいかなかった。
 ヴェルがそんな目に遭った訳を、その原因を、察することを、頭が勝手に拒んでいた。
 背後でじたばたとゲンガーが暴れる音がする、ツーが何かを言っている、ゲンガーを押さえつけているハリも、音にならない声で、多分何かを言っている。トウヤは味方の声に振り返れなかったし、声に気付いていたのかも定かではない。吸い寄せられるように、その光景を見つめていたが、それだけ見つめていたところで、瞼の裏に焼きつくなんていうことはなかった。――少し後になって思い返そうとしてみても、その時のことを、トウヤは殆んど思い出せなくなっていた。
「……おや?」
 大通りでは数人が立ち止まって、互いに囁きながらこちらを窺っていた。一歩ずつ歩み寄ってくるキノシタの表情は、影が差してよく知れなかったが、何か厭らしい顔をしていたというイメージだけは、半壊の記憶にこびりついている。
「致命傷を与える攻撃ではなかったのだが……、よほど衰弱していたのか」
 彼の大きな独り言に、クチートが返事をする。どこからかトランシーバーを取り出し、歩み寄りながら誰かに言った。発信機のポイントはフェイクだ。追跡を中断しろ。キノシタが何を言っているのか、トウヤはやはり理解できなかったが、彼がヴェルに向かってどんどん近づいてくる様を見て、危ない、ヴェルが危ないと、そればかり思った。だが、何故だったのか、足は動かなかった。ざあざあと鳴り続ける血流か、或いは見知らぬ誰かの悲鳴を聞くような得体の知れない恐ろしさで、埋め尽くされていた。
「……ヴェ、ル」
「何故酒場から逃げた? 悪事を働いたという自覚があるからだ。さあ、ラティアスを渡せ」
「ヴェル……、逃げろ」
 結局、まるで意味のないことを、うわごとのようにトウヤは言った。
 キノシタが目配せをして、傍に立っていたクチートが、身を翻し、身体の後ろに引っ提げた巨大な槌のような鎌のような惨たらしい形相の大顎を、最大限に振りかぶって、勢いよく、ヴェルの腹へと叩き込んだ。
 全く無抵抗な塊がほんの少しだけ宙を舞い、一度跳ねて、ごろごろと転がって、またこちらに背を向けて止まった。背後の声を無視して、トウヤは見えないものに弾き飛ばされたように駆けて、傍へ滑り込んで膝をついて、抱き起そうとした顔は、やはり可哀想なほど冷え切っていた。頬が剥け、前歯が欠け、横から柔らかそうな舌が覗いていた。半分だけ開いた目と、目が合わなかった。
「ヴェル、ヴェル」
 名を呼んで、身体を揺すって、合わない視線が重なる場所へ、顔を覗きこませる。焦りとか、悲しみなんて名前をつけられる感情は、ひとつもついてこなかった。すべての動作は自覚のないまま行われ、自分が何を思ってそうしたのかも釈然としないし、そうしているのが自分なのだという認識も、最早なくなっていった。現実感が薄い。今、何のために、何をしていて、どうしてこんなことになっているのか。何もかも頭から抜け落ちていた。真っ白だった。
「聞こえなかったか? ラティアスを渡せと言っている」
 そして、真っ白になった頭の上から降り注いでくる、よく知りもしない男の言葉が、新しい認識を、次々とトウヤの中に植え付けていった。
 ――ここは、ここは
「下衆な上、無力だな、衰弱したポケモンひとつ庇うこともできない」
 ――もう、安らげる場所ではない。
 ――ここには、僕の帰る家はない。
 トウヤが見ているヴェルの顔の向こうに、気付けば男の足がふたつ、こちらを向いて並んでいた。その横にクチートの腹があって、その背後に、白く光る牙を上下に覗かせる真っ黒な顎が、不気味な息を漏らしていた。
「それとも、下衆は下衆らしく、死体を盾にでもするか?」
 ――ここにいていい権利なんか、僕は、もう、持ってない。
 男の右足が、ひょいとあがって、トウヤが大好きだったふっくらとした尻尾の上へ、強く振り下ろされようとした。
 すんでのところで、トウヤはヴェルの尻尾を守った。抱き寄せた尻尾に最後に触れた感触は、立ち上がり、向かいの男の胸倉へ黙って掴みかかった感触で、すぐに上書きしてしまった。完全に無意識だった。反射のように動いていた。振りかぶった拳はそれでも空を切った。背後から飛び込んできたハリが、トウヤをキノシタから強引に引き剥がしていた。ハリがそうしなければトウヤの頭があった場所を、クチートの大顎が上から下へ一閃した。
「『黒い眼差し』!」
 腰のホルダーから複数のボールを取りながらキノシタが叫んだ。けたたましい笑い声をあげたゲンガーが技を発動する前に、ツーが再度の『吹き飛ばし』を見事に決めた。ハリが放った『わたほうし』が、続けざまキノシタたちに向けて撃たれた『吹き飛ばし』に乗って、ヴェルごと彼らを飲み込んだ。スラム街へ向かう小路へ、ハリはトウヤを突き飛ばした。そして、走り始めた。従者の決断に、トウヤは抵抗しなかった。振り返りもしなかった。
 ヴェルは。
 ヴェルは、長らく一緒に暮らしてきたポケモンだ。だがヴェルと一緒に戦った経験はほとんどない。ヴェルは戦うポケモンではなかった。そのヴェルの顔が、トウヤに最後に、自分のことはいいから逃げろだなんて勇敢なことを、言ってくれるとは思えなかった。だとしたら、その顔を最後に見ることは、きっと足枷にしかならない。そうなることを、ヴェルが望むはずはない。――というのは、振り返しもしなかった斯くも冷酷な自分に対して、後付けした見苦しい言い訳だ。何故置いていくことができたのか、何故振り返ろうともしなかったのか、後になって考えてみても、自分がそうした理由というのが、トウヤは、さっぱり分からなかった。分かりたくもなかった。
 ヴェルを、置いたまま、ハリとツーと共に、トウヤはその場所を走り去っていった。
 




 十三年前。
 ココウという町の入口で、荷車から下ろされて、大きな通りに面している赤い屋根の酒場まで、トウヤは自分で歩いて辿りついた。
 今まで住んでいた場所とは違う、騒々しくて怖い通り。
 今まで住んでいた場所とは違う、汚らしくて、暗い家。
 大きなガラス戸の向こうで、太った知らない女の人が、食器を洗い続けていた。どうしてそんなにたくさんの食器を洗う必要があるのか当時のトウヤには分からなくて、とてもおぞましいものを見ているようで、気味が悪かった。扉の前で突っ立っている十歳のトウヤと、その傍に突っ立っているサボネアのハリに、ハギはいつまで経っても気付かなかった。もしかしたら、気付かないふりをしているのかもしれないと思った。僕みたいな子供なんて、本当は家に入れたくないから、何度も何度も、同じ皿を洗い続けているのかもしれない。
 扉を、開けることができなかった。
 この家の、この扉を、自ら開けてしまえば、この家にこれから住むことを、認めてしまうような気がしていた。
 そうしてしまえば、もう二度とホウガの家に、――父さんと母さんと、おねえちゃんがいる家に、帰れなくなる気がしていた。
 結局トウヤは、ずっとそこに突っ立っていた。日が暮れて、通りが真っ赤に染め上げられて、その色が、だんだんと藍色の闇に沈んでいった。父さんが迎えにくるんじゃないかと何度も通りを見渡したが、きやしなかった。飲んだくれと、薄汚れた服を着た、知らない人ばかりだった。ハリはいてくれるけれど、喋らないし何もしてくれないし、心細くてたまらなかった。その日のトウヤは、体中にまだ傷跡が残っていて、包帯はいたるところに巻かれていた。包帯やガーゼで覆いつくせない痣の見え隠れする頬や左腕は、一目で分かるほど腫れあがっていた。妙な子供が酒場の入り口に立っていることに、行き交う人たちはもちろん気付いたけれど、誰ひとり目を合わせようとしなかった。ココウは今より治安が悪く、乱暴な捨て子が大勢いて、不審な子供と関わると大人であっても碌な目に遭わないという風潮が、町全体に蔓延っていたのだ。
 そんな状態で、トウヤに近づいてきた生き物が、一匹だけいた。
 もうすぐ夜になろうかという時、突然、ぐいっと背を押されて、トウヤは情けない悲鳴をあげた。ハリが目を瞬かせて見守る前で、あとからやってきたその生き物は、そんなところに立ってると通行の邪魔だと言わんばかりに、鼻先でぐいぐいぐいと背を押し続けて、ついにトウヤの身体ごと、ハギ家の扉を開いたのだった。

 それが、ヴェルとの出会いだった。

 がらんがらんと呼び鈴が鳴って、その時にはスプーン磨きに移行していた女が顔をあげ、あら、まあ、と驚嘆した。本当に気付いていなかったらしい。最後に膝裏を突かれてバランスを崩し、獣の顔に尻餅をつくような格好で崩れ落ちたトウヤを見て、ハギは大声をあげて笑った。
 ひっくり返ったまま、トウヤはむっとして、そのポケモンの顔を見た。ヴェルは胡麻粒みたいな目で見知らぬ子供を一瞥して、ぶむぅ、とどこか得意げな鳴き声をあげた。

 トウヤの、ココウでの日常と呼べる日々の、はじまりのこと。

 誰かが無理矢理押し込んでくれて、どっと安心したあの瞬間を、一生、忘れやしないだろう。
 トウヤの二つめの人生は、確かに、あの瞬間に、新たな幕をあけたのだ。


とらと ( 2018/04/18(水) 21:40 )