月蝕


小説トップ
月蝕
11−4
 ミソラのごくありふれた一日を想像するならば、まず間違いなく、朝はこの部屋からはじまる。
 ベッドの上で目を覚ます。いくつかの日課をこなして出かけ、昼と夕方を思うように過ごして、夜にはこの部屋に戻ってくる。ベッドの上で目を閉じて、そしてまたこの部屋で朝を迎える。ミソラの一日が日ごと生まれて、日ごとゆっくりと死んでいくこの部屋は、居候しているはずなのに、いつしか「自分の部屋」と思える場所になっていった。呑気で平和で代わり映えもないけれど、今思えば幸せだった一日を、安らかに暮らしていくうちで、最も重要だった場所。
 それはまさしく、トウヤが許してくれた場所で、ミソラの居場所に違いなかった。
「……ちょっとそこに座れ。今から言うことを、落ち着いて聞きなさい」
 開けっ放しの窓から背中に強風が吹きつけ続けていた。金色の長髪が後ろから前へ流れかかって乱れる先で、雲越しの仄暗い明るさが、しんと室内に満ちていた。その時、ミソラはまるで、時が止まってしまっているような気がした。ついさっきまであんなに焦っていて、真っ赤な手のひらの痛みだってまだじくじくと疼いているのに、その瞬間だけ、景色ごと水中に沈みきったような感覚だった。
 座って話をするだけの時間などないはずだった、トウヤだって分かっていた。けれど、座卓の前にトウヤがどすんと胡坐を掻くと、向かい側に、ミソラは正座せざるを得なかった。
 トウヤは毅然としていた。白穂の草原で見た彼らしからぬ瞳の強さは、より一層に顕在していた。出会ってこの方、トウヤが纏い続けていたどこか悲観的な、諦めたような雰囲気は、その時、露ほども掬い取ることができなかった。
 ――二人でこの部屋で話をするのが、これで最後になるのだと、ミソラは不意に確信した。
「ミソラ。僕はこれから、ココウを出る」
 夜鳥みたいな響き方をする声が、音にならない力を込めて、二人の間を震わせた。
 強く下唇を噛みしめて、ミソラは頷いた。
 ……トウヤがココウからいなくなる。
 心の奥底に封じ込めていた弱虫が、蓋の割れ目から滲み出してくる。じわじわと迫る実感をミソラはぐっと堪えて直視した。トウヤが、いなくなる。長い間、この瞬間が訪れるのを、自分はいっとう恐れていたのだ。「ミソラが店の手伝いができるようになるまではココウにいる」とハシリイで彼が言った時、あの何気ない言葉が、どれほどミソラを追い詰めたか、きっと彼は知らないだろう。手伝いなんか、してやるもんかと思っていたことも。ずっと甘ったれた弟子でいてやるって捻くれていたことも。あなたが部屋の私物を捨てはじめた時、その意味に、ちゃんと気付いていたことも。
 ミソラは、甘ったれた弟子でいることを、自らの手で放棄した。
 出会って幾許もない春の日、死閃の爆心にトウヤが一人で向かって、ミソラはついてくるなと言われたのに勝手についていった。挙句草原の真ん中に座り込んで、置いていかないでくださいと泣きわめいていた。思い返すと恥ずかしい。どれほど子供に戻ったら、あんな行動ができるのだろう。今のミソラは、彼に仇なそうとするミソラには、トウヤに一緒にいてほしいなんてわがままを言う権利はない。だが権利云々以前に、身勝手に縋りつけるほど、もう、無知な子供ではいられないのだ。
「下にいる連中が、メグミを狙ってる。話し合いで解決してくれる雰囲気じゃない。どのくらい執着してくるか分からないが、目の届かないところまで逃げようと思ってる」
 ミソラたちがトランシーバー越しに聞いた危険を、トウヤも察知しているらしかった。助けなければと思っていたが、助けるまでもなかったようだ。既に荷も纏めているし、彼は強いし、旅慣れている。リューエルが相手と言ったって、きっとメグミを連れて逃げ延びるだろう――ロッキーを簡単に奪われてしまった、ミソラやタケヒロとは違う。
 大丈夫だ。足手まといさえいなければ。
「あてはあるんですか」
「一応な。とにかく、うちにいるとおばさんにも迷惑が掛かる。急で悪いが、今すぐ、家を出るから」
「はい、」「それで」
 ご無事で、待ってます、と、本音を殺して言おうとしたミソラを遮って、トウヤは思いがけないことを言い出した。
「お前はどうする」
「え?」
 彼は一層に声を絞った。
「今下にいるのが第一部隊で、第七部隊が、もうすぐ来るらしい。そこに、姉さんが所属してる」
 対して、階下から、馬鹿笑いのような声が聞こえてきた。
 張り詰めたトウヤの顔と、ミソラははじまじと見つめ合った。一瞬、ミソラは、彼が何を言い出したのか本気で分からなかった。これから来る。第七部隊が。そこに、姉さんが所属している。この人の、お姉さんが。……それが誰なのか、理解するまで、ミソラは何度も目を瞬かせた。
 それから叫んだ。
「ええっ!」
 ――会える。あの人に。えっ、これから!?
「ほんとですか!」
「おい静かにしてくれ」
「まっまっ待ってくださいよ!」
 気が動転して、目の前にトウヤがいるのもあって、肝心の名前がうまく出ていかない。
「み、みっみ、み、み、みっ」
「ミヅキだよ。ワカミヤミヅキ。お前、知り合いなんだろ」
「み、みミヅキちゃんが、ここに? すぐに? あ……会えるんですか?」
 トウヤが自分と違ってさらりとその名を呼んだことが、どこか冒涜的にさえ感じられて、ミソラは己が独占欲の凄まじさをそんなところで思い知った。まるで考えたこともなかったが、この人は、僕の大好きなミヅキちゃんと血が繋がった弟なのだ。赤ん坊の頃から十年間も一緒に育っていたのだから、名前くらいは呼ぶに違いない。
 突如吹き荒れ始めたリューエルという嵐のお陰で二人とも意識しなかったが、二人の決定的な共通項である彼女について、面と向かって話をするのは、実はあの日以来これが初めてだった。
「会えるよ、多分。この家にいればな」
「ミヅキちゃんに、会える……」
 胸に両手を当て、夢見がちに空色が惚ける。が、
「会いたいか?」
 たった一言が、無情なまでに、現実に引き摺り戻していく。
 ミソラが浮わついて、彼女の幻を思った間、トウヤは冴えきった双眸で、ミソラを見つめ続けていた。頭の芯を貫くような眼光をしていた。その目が残酷なほどに、ミソラに真正面から選択を突きつけていた。彼女が許さないと言った、彼女が恨んでいるその弟が……ミソラが師匠と慕っていたその男が、その口でミソラに問いかける。
 会いたいか。
「私、は……」
 ――会いたいに、決まっている。はずだった。ミヅキのことをはっきりと思い出した時、すぐに会いにいこうと思った。会いに行くことを思った時、ミソラの脳裏にその光景は、燦然と輝く太陽のような激しい希望となって昇りつめたのだ。使命を全うして――つまり、トウヤを殺して、ミヅキに再会して、褒めてもらう。大好きだったあの笑顔を取り戻して、そして今度こそ、傍に置いてもらう。それこそが、ミソラがこれからを生きる上での、唯一の願いになっていた、はず、だったのだ。
 今は、どうだ。目の前にいる男を今すぐにでも殺そうという気は、正直なところ失せている。それどころか、彼の命を狙う奴から助けようとまで考え、行動した。
 その癖、どんな顔をして、自分はミヅキに会うのだろう。――あの太陽に触れたとき、今の自分は、焼け死なずにいられるのだろうか。
 瞬く間の高揚を凍りつかせ、黙りこくった子供に対して、トウヤは身を乗り出した。
「僕は、会いたい。お前の為にも、会って話さなきゃいけないと思ってる。だが連中は、姉さんをダシにしてメグミを分捕る気なんだ。僕は、何よりも、メグミのトレーナーだから、今はメグミを守ることを優先する」
 誰が合流したのだろうか、一階の酒場の入り口で、また呼び鈴が鳴り響いた。雑談が大きくなる。男は矢継ぎ早に続ける。
「お前が姉さんに会いたければ、下に降りればいい。姉さんについていきたいなら、ついていきたいと言えばいい。もし、まだ会うのが怖ければ、押入れの中にでも隠れていればいい。僕がいなくなった後でも、お前はこのまま居候を続けていることもできる。ヴェルのこともあるし、おばさんは家が賑やかな方が良いに決まってる。でもお前は、他の誰のことも考えずに、自分の好きなようにすればいいんだ。だから、もし、お前が、」
 トウヤの提示する様々なシチュエーションが、その状況での自分の姿が、次々と頭の中を駆け巡る。それらの言葉の間隙に、ミソラがひとつひとつを咀嚼して比較するだけの猶予なんて、ある訳もなかった。だが最後のひとつを提示する前だけ、トウヤは一呼吸分、間を置いた。それは目まぐるしさに混乱する子供の気持ちを慮った訳ではなく、トウヤが今一度、自分自身に、本音を問うただけの猶予だった。
「僕についてきたいのならば、それでも構わない。僕についてくればいい」
 ミソラは、改めて、真正面の、トウヤの目を見た。
 少しも冗談めかさない表情に、逆に呆気にとられる。まるで、都合のいい、幻聴でも聞いたんじゃなかろうか。
 ――だってそれは、子供みたいに醜く泣きすがって、やっと勝ち取れる選択肢だったはずでしょう。
「どうする。時間がない。すぐに決めてくれ」
 悩む暇などないなんて、ミソラだって分かっている。だけど何を言っていいのか分からず、なにひとつ、答えが出ていこうとしない。蘇った記憶の中のミヅキの悲痛な泣き顔が火花になって瞼に散った。トウヤは目の前で、ミソラと真っ向から対峙していた。ああ、ミソラは今度こそ、耳を塞いで蹲りたくなってしまった。酷なことを言わないでくれと叫びたい。ミヅキちゃんに会うこと。ココウに一人で残ること。ミヅキちゃんから逃げて、トウヤと共に、この町を離れること。どの未来の先に、何が起こって、僕はどうなる? 視線が下がる。何も出来ない赤らんだ手を見つめる。やわな手のひらを握るくらいのそんな時間で、決めろだなんて、出来る訳がない。本当にひどい話だと思った。考えようとすればするほど、こんがらがった思考の糸で頭がいっぱいいっぱいになって、何も考えられなくなる。
 優先すべきことはなんだろう。大事にすべきことは。ミソラが目を醒ましてからの数か月間、幸せな日々だったとは言ったが、思い悩んでいた時間も長くて、幸せばかりだったとは言いがたい。ミヅキちゃんは、どうだろう。彼女のためならなんだってできる、人を殺すことだってできると本気で思えていたほどの、ミヅキちゃんといた時間は。
 僕は、幸せだったのだろうか。きっと幸せだったに違いない。――きっと、多分、おそらく、誰とも比較にならないくらい大好きだった彼女との日々は、ものすごく幸せだったのだろう。……そう、推測することは、できる。
 けれど。
「……もし、自分で決められないなら……」
 十秒も待たなかった。ミソラがすぐに答えを言えなければ、そう返すことを、トウヤはあらかじめ決めていたようだった。
「僕についてきなさい」
「……え」
 ミソラは顔を上げた。
 それは、全く以て、余裕のある表情ではなかった。
 だが、ミソラの前で、トウヤはしたたかに笑ってみせたのだ。
「……何故ですか? 逃げるのに、私がいては邪魔でしょう」
 そう言った瞬間、突然、必死に頑なに耐え続けていたものが、粉々に砕けて、音を立てて崩れ落ちていった。
 崩れ落ちていく瓦礫の合間に、その先に、何も持たない、ただの子供の自分がいた。
 その自分が言った。
 ――『連れていってほしい』。
 ただの子供の自分が、声を嗄らして泣きながらそうやって駄々をこねるのを、唇を歪ませて、ミソラは見下ろしているしかなかったのだ。
 本当は。連れていってほしい。だって。ミソラは、知らないから。ちょっとだけ思い出したと言ったって。だいたいのことは、すっかり忘れてしまったから。あなたがいない生活のことなんて、分からないから。愛してもらえる自信がないから。僕は他に、何もないから。
 だけど僕は、弱いし間抜けだし、あなたの旅の邪魔になるから。
「何故なんて、こっちが聞きたいよ」
 トウヤは呆れたように笑うと、膝を叩いて立ち上がった。
「決められないなら、つべこべ言うな。どうせ僕を殺さないと気が済まないんだろ?」
 そんな風に茶化しながら、やや照れ気味の顔を逸らす。重たげなリュックを軽快に背負う。
 見上げながら、自分の顔が熱くなって、真っ赤になって涙をこらえてぐしゃぐしゃになるのを、ミソラは懸命に我慢した。
 泣きたくない。だって、そんなの、子供みたいだ。せっかく、泣きわめかなくたって、ついてきていいと、言ってもらえたのだから。
 連れていってほしいと、いつも、こちらが言うばかりだった。
 爆心に行った時も、ハシリイにも、ヒガメにも、仕方がなしに連れていってもらえた。一人でいるのが好きな人なのだととっくの昔に気付いていた。しかも碌に役にも立たず、そのくせ容姿は悪目立ちするし、体力もなくて結局迷惑をかける。それも分かりきったことなのに、取り残されるのが怖くて、結局わがままを受け入れてもらってきた。その末、寝返って、牙を剥いて。せっかく命を救ってやったのに、こんなにも可愛げのない、自分のことを、この期に及んで、連れていくだなんて。お人好しが過ぎる、でも。
「一緒に行こう。ミソラ」
 ――袖の内側で、ごしごし目元を拭ってから、ミソラは黙って頷いた。
 甘ったれの弟子も、わがままばかりの迷惑な子供も、反抗的な態度も、恩を仇で返した化け物も。全部、全部、受け入れてもらえたような気がしたのだ。
 


「何してるんだ、早くしろ」
「待ってください、この本と、あとは、ええと」
「本はいらない、ドールも置いていけ」
「だっだめですこれはっ、あっあとおばさんの部屋にリナの好きなビスケットが」
「下に降りれるはずないだろ、旅行に行くんじゃないんだぞ!」
「リューエルの人たちに何て言い訳して上がったんですか」
「腹が痛いって」
「えっそれだけ!?」
「だから急げって言ってるんだよ!」
 その時、階下の騒々しさが一気に増した。声と乱暴な足音が近づいてくる。ギョッとして二人は目を合わせた。揉めているような口調だった。殆んど男性物の中に、ハギの声が聞こえる。
 階段の方へ目を向けたミソラの腕を、トウヤが左手で掴んだ。
「行くぞ」
「は、はい!」
 最後の最後にそれなりにとっ散らかしてしまった部屋を名残惜しむ間もなく横切り、窓の桟にトウヤが足をかけた時、押し返すような突風が、ごうと部屋に吹き込んできた。コートの裾がはためいた。金糸のきらめきが狂ったように暴れた。その時、風にさえ逆らって噴き上がってきた、身が竦むくらいのハギの怒鳴り声が、二人の耳に飛び込んだ。
「何様なんだい、あんたたち! リューエルだろうが何だろうが、私の――」
 ミソラの手首を握る、大きな手の力が、ぐっと強まり、
「――私の『息子』に何かしたら、許さないよ!」
 たまらず、トウヤは振り返った。
 その顔を見て、ミソラは少し嬉しくなった。寂しいのは自分だけなのかと、ちょっぴり残念に思っていたからだ。別れの時があまりにも唐突にやってきて、怒涛の勢いで過ぎ去っていくのに、彼が気丈に振る舞うものだから。


 おばさん、とトウヤが叫びつつ、階段の前まで走って戻る。引っ張り回されるミソラの視界の真ん中に今、階段の中腹で五、六人の男どもを止めようとしている、見慣れた背中があった。ハギが振り向いた。外着のトウヤと、いなかったはずのミソラを見て、当然驚いた顔をした。
 どのくらい帰れないのだろう。最後に顔を見れてよかった。ああ、ヴェルにも会いたかった。できることなら、飛びついて、抱きしめて、とびきりの感謝を伝えたかった。
 横で突っ立っているミソラの後頭部を、左手で掴んで、
「――今まで、育ててくださって、ありがとうございました!」
 腹の底から、震えて滲んだ声で吼えて、トウヤは深く礼をした。
 ミソラも強引に頭を下げさせられた。
「行ってきます!」
 叩きつけるような挨拶を残して、ミソラは何も言えなくて、そして、再び引っ張られた。その後、ミソラはハギの反応を見れなかったし、多分トウヤも見なかった。部屋の方へとダッシュした。背後から訳の分からない怒声が聞こえた。悲鳴のような声が聞こえた。どちらも、いつか帰るべき大切な居場所に、置いていくしかなかった。
 大股で二人の部屋を駆け抜け、ジャンプして、窓枠を踏み抜いて、光の中へと飛び出した。
「スズちゃん、お願い!」
 温まっていたチリーンのスズが、上着の中から現れた。短い両手を掲げ放つ『念力』が二人の身体を宙へとどめ、北西へと引っ張った。すぐさま背後より音と光が迸る。肩越しに振り返る、目に馴染んだ赤屋根の下より果敢に飛翔する鳥影は、ムクホーク、エアームド。念力の空中遊泳の倍ほどの速度で迫ってくる。トウヤがすぐさま声を張りあげた。
「吹き飛ばし!」「吹き飛ばせッ!」
 技名の指示に、もう一人の声が重なる。隣を飛んでいたピジョンのツーが、そして、どこからか現れたポッポのイズが、揃って翼を打ち付けた。
 小さな身から起こされたとは思えない獰猛な気流が、敵方二羽ともを見事に巻き込んで墜落させる。進行方向の地上で腕を振り上げたタケヒロが、こっちだ、と叫んで建物の影へ走り込んだ。ミソラと別れた後、人目のなさそうな退避経路を確認してくれたはずだ。飛行ではおそらく逃げ切れない。アズサと組んだ計画通りにスラムのあたりで地上に降りて、二人はタケヒロの後を追い始めた。

とらと ( 2018/02/21(水) 21:43 )