月蝕



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月蝕
11−2
「第一部隊の連中、また先走ってやがるな」
 無線機の交信を終えたイチジョウが思わず浮かべた渋面に、隣を走るアヤノは朗らかな笑い声を上げた。
 曇り空の広漠な岩石砂漠を、十数体の獣が駆ける。リューエル実務部第七部隊は実務部の中では小部隊であるが、第一は更に少数精鋭だ。戦闘部員の中でも選りすぐりの実力者が集う部隊であり、隊長であるキノシタなど、第七部隊の全員が束になっても敵わないだろう。その第一部隊のミッションに末端の第七が合流出来ることは、名誉であると言わなければならないが、そうでもないのが実情だ。超実力主義のキノシタはその腕前だけでなく、冷酷非道のエゴイストとしても組織で名を馳せている。
「そろそろ部隊長の選考基準に『人格』の項目を加えるべきだと思うけどね」
 今回のミッションも、全面的にキノシタの裁量で勝手に取り決められ、執り行われる。末端部隊長であるイチジョウは拒否する権利を持っていない。第七が到着するまでもなくミッション開始を宣言した男の暴挙に、腹に据えかねるものもあるのだろう。普段殆んど変わらないイチジョウの顔色には険しさが浮き彫りにされていた。
 キブツを発って一日半。日が出ている時間の殆んどを走り続けている第七部隊の視界の最奥に、埃色の町の影が蜃気楼のように浮かび上がりつつあった。あと二時間程度か。
「ミヅキたちは、そろそろ到着しただろうか」
 ゼブライカの蹄の音に掻き消されかけたイチジョウの呟きを、アヤノが耳聡く聞き取った。
「そんなに気になるかい? これはあれだね、イチジョウくんにも、遂に春が来たってところか」
「馬鹿を言え。……だが部下として、あの危うさは気にかかる」
 おちょくるアヤノの胸の内でポニータの紅のたてがみが揺れるが、その赤さが武骨の頬に差すことはない。アヤノは「まあね」と苦笑しつつ、部隊の中のもう一つの『赤』へ、視線を向けた。
 品のない連中が筋肉が毛皮を着ていると評すが、あながち間違いでもないと思う。隙のない肉体に据えられた鋭い真紅の双眸が、他の誰をも意に介さず、ただ真っ直ぐに駆け続ける。バクフーンのアサギ。『ワカミヤ キョウコ』――ミヅキの母親が寵愛していたポケモンだ。個体の戦闘力ならリューエル全体で見ても屈指の実力を有するのだが、主人亡き今は科学部所属のレンタル用ポケモンとしての地位に甘んじている。そうなってから今日までずっと、ミヅキがレンタルしっぱなしの状態だ。もう所有権を移せばいいと何度も進言したのだが、娘は頑なにそれを良しとしない。
 向かうココウという町に、アサギが愛していた主人の、もう一人の実子がいる。寡黙の獣は今、一体何を思うのだろうか。
「アヤノ、今回の任務、お前はどう思う」
 依然渋めた顔で向かい風を受けながら、イチジョウが問うてくる。
「どうって、何だい? 普段は俺の意見なんか邪険に扱う癖に」
「ラティアスに興味を持っていたろう。それほどの価値があるか」
 ひとり不敵に笑んで、アヤノは頷いた。
 今回の任務は、はっきり言って不自然だ。一般トレーナーの無害な手持ちにはリューエルは干渉しないし、それが幻だろうが伝説だろうが、取り上げる権利などあるはずがない。両部隊とも本来移動日であるはずの日程を利用して組み込まれた本作戦は、本部ではなくキノシタからの提案であるという話だ。今年度の第一部隊の成績は芳しくなく、彼は戦果を焦っている。
「無論、珍しいポケモンには価値がある。だが俺の興味は、どちらかと言うと今はトレーナーの方に向いているかな」
「ミヅキの弟か」
 そうとも。低く零しながら、父親の面影を色濃く残したあの頼りなげな青年を、灰色の空に思い浮かべる。
 ホウガに居た頃は、天才的な姉の影に隠れていた平々凡々な少年だ。初夏にココウで出会った時にはブリーディングの優秀さに多少見るべきものがあったが、それが実は『準伝説』と呼ばれるほどのポケモンを懐柔出来るレベルとなれば、話は変わってくる。実際、リューエル科学部ではラティアスの対と呼ばれるポケモンの使役に失敗しているのだ。
 アヤノには、長い間、疑問に思ってきたことがある。事の真相に触れ、納得がいかず、近くにいながら悲劇を食い止めることができなかった後悔は、心に引っかかり続けてきた。今回の任務が成功してほしいのか、それとも失敗するべきなのか、アヤノの中で未だ答えは出ていない。だが、この成り行きを見守り通すことで、この積年の後悔に、ぜひとも終止符を打ちたい所存だ。
「確かめたいんだよ、俺は。――『ワカミヤ スグル』が、何故死ななければならなかったのか」
 アサギは反応しない。イチジョウだけが、怪訝として眼鏡の奥を一瞥した。





 『三匹目の手持ちを今すぐ手放さなければ、取り返しのつかないことになる』――リューエル団員のグレンは意味深な脅しを吐いて消えた。しこりは残さなかった、と言ってやりたいが、余波は大きい。疑問点は沢山ある。メグミの存在の一体何が災いとなるのか。リューエルがメグミを狙っている、と言うのなら、何故グレンを使って奪わなかったのか。そもそも自分を監視する任務に就いていたはずのグレンが、このタイミングで任を解かれる意味が、全く分からないのである。
 トウヤは、グレンが自分を監視していた目的は、自分の特異な体質にあるものだと考えていた。
 まだ家族と共にホウガという工場町に暮らしていた頃、その町にはリューエル所属の研究チームがあり、主にヨーギラスを使用した臨床試験が盛んに行われていた。無論トウヤは知らなかったが、その試験の一環として、『バンギラスの爆破実験』がココウ近郊で計画される。計画は三年前の冬に実行され、ココウで『死の閃光』と呼ばれるあの爆発により、森は一夜にして消滅し、一部は『灰』となって飛散した。
 ここまでは、アズサの助力もあって、トウヤが今までに知り得た事実だ。ここからは妄想だが、ココウ周辺の植物を死滅させ、不毛の砂漠を生み出したものの正体は、おそらく炎や熱線ではない。バンギラスの身体に高圧縮されていた何らかの化学物質だ。そしてその物質は、現在トレーナー界隈の暗部で流通している強化剤の有効成分に由来している。……何故そう考えるのかというと、強化剤が流行しているヒガメに行った時、あるいはドーピングをしていたバクーダの『噴煙』を吸った時と、『灰』が高濃度に残留する死の閃光の爆心付近に近づいた時とで、程度の差こそあれ、トウヤの身体がほぼ同じアレルギー反応を起こした為である。
 今『リゾチウム』という名で取引されているポケモン強化剤の開発には、リューエルの科学部が中心的に携わっている。ホウガの研究チームは、強化剤の成分を、別の物に転用するための研究をしていたのではないだろうか。
 三年前のあの頃、トウヤは、爆発が起こる少し前から寝込んでいた。件の物質は爆破実験前から飛散していたはずだ。その物質にアレルギー反応を示すトウヤの体質を、トウヤの父親が含まれていたホウガの研究チームは熟知している。あまり考えたくはないが、自分の体質を一種のセンサーのように利用することを想定していたとすれば、グレンを使ってトウヤをココウに定住させた意味は理解できないでもない。……だが、本当にそれだけなら、三年前の爆破実験の時点でグレンは任を終えていたはずなのである。
 ――いや、待て、そもそも。『死閃』の前後でトウヤが寝込んでいた間、そういえばグレンは一度も様子を見に来なかったではないか。
「ん……?」
 大通りを南へ歩きながら、疑問にぶち当たる。主人の冴えない表情を、案山子草の黄色い目がひょいと見上げる。
 『ラティアス』の件を絡めて、自分の動向を監視していた可能性もある。グレンが以前からラティアスの存在に気付いていたとしたら、死閃の後も見張っている必要性があっただろう。だが、だとしたら、忠告して立ち去るという今回のグレンの行動はあまりにも不可解だ。職務放棄したとさえ見えるが、彼の様子からはそうとは思い難い。
 グレンを吐かせた時、あまりにも感情的になりすぎていた。分かったような気がしていたが、冷静に考えれば考えるほど、あの男が分からなくなる。一体何がしたかったのだろう。誰の命で、何の為に。洗いざらい説明させなかった自分の無力加減を思うと、やはり向こうの方が何枚も上手だったのだと、認めざるを得なくなる。……ああ、あと、『トウヤが何かを忘れている』というようなことも言っていた気がして、それも聞きそびれていて、そしてどんな流れでそう言われたのかもいまいち思い出せず、不甲斐なさは募るばかりで――とにかく、ひとつ確からしいのは、どうやらよからぬことになりそうである、ということだ。ああ、これを『確か』だなんて、笑ってしまう。
 メグミのこと、ミソラのこと。ヴェルへの気持ちとの折り合いも含めて、課題は山積している。グレンの忠告を真に受けるなら、ココウを出てどこかへ身を隠すべきだろう。ハシリイ、が一瞬頭に浮かんだが、とてもじゃないが世話にはなれない。とりあえずワタツミの知人を頼ろうと考えている。だがその場合、ミソラはどうする。今の状態のミソラをまさか置いていく訳にもいくまいし、連れていくと言ったって、……。
 考えている間に、トウヤはハギ宅に戻ってきた。
 ミソラがアズサ宅で愚痴をぶちまけて菓子を貪り、トランシーバーを握りしめたタケヒロがハヤテの背に乗ってグレン宅を飛び出した同時刻のことである。聞き慣れた呼び鈴を鳴らしつつ帰宅。ノクタスのハリ、ピジョンのツーが続いて戸を潜る。マフラーを解き、上着を脱ぎ、それらを持ったまま、二階には上がらずまっすぐハギの寝室へ向かう。ヴェルは変わらずに眠っているはずだ。何事もあるわけがない、と心の中でそっと念じながら部屋を覗き込んだが、何事も起こっていた。それがあまりにも思いがけなかったので、トウヤは数拍固まった。それから、大きな溜め息をつかされた。
「お前、僕がいない方が元気じゃないか」
 茶色い獣が、顔を持ち上げる。ビーダルのヴェルは、げっ、とでも言いたげな顔をしていた。その巨大な肉体は、閉じていたはずの、自力でこじ開けたらしい押し入れの、中の衣装ケースへと、三割くらい嵌り込んでいる。中身を漁っている。トウヤが看ている間は、目を開けることさえ殆んどなかったのに。
 上着とマフラーをその辺に放り、ヴェルの傍へ腰を下ろす。顔色も毛並みも、本当は全く『元気』とは言えないのだが、今にも呼吸するのを諦めてしまいそうな先刻の様子とはほど遠い。ぶうぶうと鼻を鳴らしながら主張してくるヴェルが何を欲しているのか、トウヤはすぐに理解した。
 ハギの寝室の押入れの、水色の衣装ケース。ハギの息子の遺品が収められている場所だ。
 ヴェルが体を突っ込んでいた一段目を閉め、三段目を開けて、つまみ上げて見せる。
「これだろ」
 履き潰された子供靴だった。片方だけのスニーカー、黒ずんだ血痕で汚れている。ヴェルは大きく頷いた。
 十三年前に消えた『ヨシくん』が最後に残した痕跡である。匂いが残ってるとは信じがたいが、しきりに嗅ぎ回っているからそうなのだろう。ヴェルがこのスニーカーに入れ込んでいる事は前から知っている。『代役』である自分の居場所に本当にいるべきだった人物に、好きなポケモンが未だに執着している様を見るのが、トウヤは昔、嫌で仕方なかったのだ。
 寝床にしていたシーツの傍にスニーカーを置いてやると、でっぷりと贅肉を揺らしながら同じ位置に寝そべる。頬を寄せ、どこか安心したようにまた瞼を下した。最後の最後にヨシくんか、という嫌味のひとつでも言ってやろうかと思ったが、その気持ちも失せるほど、ヴェルは安らかな顔をしていた。
 最後まで、なんて、我儘だろう。ずっと傍にいてくれたのだから、最後くらいは。
 毛布を掛け直してやる。傍に座り込んだハリがそっと背中を撫で、ツーがひらりと舞い降りて何か言葉を掛ける。この頃の諸々を考えると、それだけの光景が、どうしようもなく平和で、得難いものに感じられた。ぼうっと眺めているうちに、呼び鈴が鳴った。ハギかタケヒロが帰ってきたのだろうと思ったが、声が聞こえない。廊下を覗こうと戸を開けると、すぐに小さな影が入り込んできた。
 トウヤの膝の前を抜け、ツーとハリの間をちょろちょろと抜け、ぬると目を開けたヴェルの鼻先へ。咥えていたものを、ぽとりと落とす。得意げな瞳をきらきらさせるニドリーナが持参した小瓶には、黄金色のどろりとした液体が充填している。蜂蜜……、は、確か我が家は切らしていたはずだ。
 店頭に蜂蜜を並べている生花店の店主は気の良い人物だが、そういう問題ではない。だがここでリナを叱るべきなのは『主人』であって、トウヤがそれをしてしまえば、ミソラとトウヤの間で揺れるリナの気持ちをまた混乱させる結果になる。何も言えずに目配せすると、目配せを受け取る前に、緑色のげんこつが落ちた。ミャッと怒ってリナが振り向くと、殴った後は、ハリは微動だにしなかった。ただ、被り傘の下の闇にらんらんと光る両の目が、黙して後輩を凝視した。
 どうやら、手持ちだけでなく仲間内にも、ハリは姉御肌を発揮しているらしい。垂直に張っていた片耳が、眼光に焼かれてへなへなと萎れる。ヴェルへ向き直ったリナが申し訳なさそうに何か言って、ヴェルは首を振った。水色が小瓶を咥え直す。返しに行くつもりなのだろう。
 良い機会かもしれない。トウヤが手出しできずにいたミソラとリナの関係にも、もしかすると、ハリなら。
 トウヤはリナを引き留め、生花店へ謝罪の旨を一筆したため、それをハリに持たせた。この頃トウヤの護衛に徹しているハリは傍を離れることを少し渋ったが、それも少しだけだった。三つ目のボールを示して見せると、こくりと頷いて立ち上がった。
 ハリとリナが連れ立って部屋を出ていく。トウヤ、ヴェル、ツーという妙な三者が残された。ヴェルが再び目を閉じる。ツーが暇そうに身繕いを始める。ボールの中のメグミが、ふふ、と、笑い声を伝えてくる。
『ハリ、リナちゃんを、ついでに金髪の子のところに送ってくるって』
「それがいい。頼もしいな、あいつ」
 実際、ミソラとリナの不仲は大きな懸案だ。トウヤにとってのハリのように、リナが絶対的な存在になってくれれば、ミソラも少しは安定する。二人が仲違いしている原因がいまいち掴めないというのも、トウヤがこの問題に手を出しかねている理由のひとつである。……ミソラとリナが仲直りしたら、次に取れる行動は、と考えはじめたところで、トウヤ、とメグミが話しかけてくる。
『めぐみのこと、負担なら、もう、いいよ』
 テレパシーはトウヤにしか伝わっていないらしい。ヴェルは眠っているし、ツーは熱心に翼を啄んでいる。
 二人に悟られないように、心だけを介して、トウヤも返事をしようとした。乱雑な思考の内から、伝えたいことだけを掴み上げ、音として吐き出さずに文章化して、纏めて脳裏に浮かべる。この作業は殊の外難しい。テレパシーを操るメグミとは思考だけ介してコミュニケーションを取れることに気付き、訓練し始めて二年以上だが、未だに要領が掴めずにいる。
 負担じゃないし、約束をしたし。僕自身、お前には既に入れ込んでいるし、ハリもハヤテもいる。リューエルだってそんなに暴力的な集団じゃない。心配しなくていい。お前が嫌じゃないなら、僕たちと一緒に居て欲しい。――なんて、複雑な感情は、どうせうまく伝わらない。
 大丈夫、なんとかなる。
 それだけ強く念じてみたが、裏にある不安も自信の無さも、多分伝わってしまっただろう。メグミはまたいつもの特徴的な笑い方をした。
 それからしばらくの時間は、嘘みたいに穏やかに過ぎた。
 今も冷たい強風が幅を利かせているはずの外界とは裏腹に、この場所は静かだ。ほんのりと温かい。何日もこの場所にいたのに、色々なことに囚われすぎていたから、そんなことにも気付けなかった。外に出て話をしたことが良い気分転換になったのだろう。きっかけを作ってくれたミソラにも、感謝するべきか。
 ヴェルが寝息を立てていて、ツーが知らん顔で身繕いしていて、トウヤは座ってぼんやりそれらを眺めている。何もない時間がゆっくりと過ぎていく。ゆっくり過ぎているのか、あっという間に過ぎ去っているのか、本当のところは、トウヤにも判別がつかないが。
 ずっとこのまま穏やかに居られたら、と思わないでもないが、そうはいかないだろう。ツーは永遠には身繕いをしないし、ヴェルは永遠には寝息を立てない。それが寝息を止めるまで、トウヤは座り込んでいる訳にはいかない。
 ヴェルの頬の傍に転がっているスニーカーへ、もう一度目を向けた。トウヤが子供だった頃、嫌がっていることに気付いたのか、ハギがそのスニーカーを衣装ケースの中に隠した。ヴェルはしばらく怒っていた。そんな風に気を遣われるのも、そんなことでヴェルが機嫌を損ねるのも、辛くて悲しくてたまらなかった。だが、今は、違う。そのスニーカーが、時折苦痛に顔を歪めていたヴェルの気持ちを、穏やかにするのならば。心から喜んで、その事実も受け入れよう。
 ただ、嫉妬していることを、ちょっとくらいは分かって欲しくて、紺色のマフラーを、ヴェルの首元に掛けてやった。
 立ち上がる。踵を返す。ヴェルは目を開けなかった。二階で荷を纏めようと考えたのだが、部屋を出ようとした瞬間に、ある閃きをして、思わず足を止めた。
 秘密であることが当たり前すぎて、すっかり忘れていた。もう話してもいいのではないか。
 そうしよう。教えてやろう。不意に気分が高揚する。本当にトウヤがココウを発てば、帰ってきた時、ヴェルが生きているとは限らないのだ。知れば、きっと喜ぶ――すぐに振り返った男に、追わんとしていたツーが驚いた顔をする。名を呼びながら眼前に膝をついたトウヤに対して、ヴェルは億劫そうに顔を上げた。
「あのな、ヴェル。話さなきゃいけないことがある。ずっと、黙ってて、悪いなとは思ってたんだが……」
 長年の秘密だ。なんだか惜しくて、少しだけ勿体ぶってみる。

 だが、その、少しだけ、と思った一瞬が、後になって、決定的に事を分けた。

「……実は」
「――トウヤ! いるかい!」
 その時、呼び鈴と共に豪快に響いていたハギの声が、打ち明け話の邪魔をした。邪魔されてしまった、という思いの方が強かったから、ハギの足音と共に踏み込んできた複数の足音に、トウヤは気付かなかった。できればゆっくり話をしたいし、ゆっくりヴェルの反応を楽しみたかった。家を出ようと考えているとはいえ、ちょっと話をする時間くらいは、いくらでも取れると思っていた。
「悪い、後でな」
 再び立ち上がって背を向けた男に、うんざりした顔をして、ヴェルがまた目を閉じる。と、目を開けて、毛布以外のものが自分に掛けられていることを確認する。すると表情を一層穏やかにして、幸せそうに眠りにつく――その過程を、トウヤは見ていなかった。さっさと酒場へ出ていったトウヤは、ハギが連れて入ってきていた二人組を前にして、束の間の幸せに緩んだ胸をすっかり凍りつかせていた。ヴェルに話そうとしていたことなんかは、その瞬間にはもう、完全に頭から吹き飛んでいた。
 間違いない。
 目の前にいるのは、ヒガメの宿で出会った、リューエル第一部隊の二人組である。
「あなたが、『ワカミヤ トウヤ』くん?」
 二十代後半と、三十代中頃と言ったところか。若い方が爽やかな笑顔で問いかける。愛想笑いも浮かべられぬままトウヤが頷くと、二人組の背後から、影が素早く飛び掛かってきた。
 あまりにも突然のことに、何一つ抵抗できなかった。簡単に押し倒されたトウヤが崩れ落ちると、飛び掛かってきたもの、大きく裂けた口に鋭利な牙をずらりと並べた、鋼色の巨大な顎――を、後頭部にぶらさげた、何とも愛らしいポケモンが、愛らしい笑顔をいっぱいに咲かせながら、問答無用でじゃれついてくる。
 は、……激しい。
 攻撃する意図がないといえ、ちょっと引くほどに、それはそれは凄まじい『じゃれつく』だった。興奮しているのか愛情表現なのか、顎をぶんぶんと振り回しながら、トウヤの腹にこれでもかと頬を擦りつけている。全身をまさぐられ顔を舐めまくられ、服をたくし上げ顔を突っ込もうとするそれを男は全力で制止した。ハギは笑うばかりだし、二人組も「こらこら」なんて言いながら止めに入らなかった。相手は軽いので跳ね飛ばせそうではあるが、じゃれつきの激しさと、至近距離で左右に暴れる顎への恐怖感が勝って、トウヤは全く身を起こせない。無邪気な好意を全身で表現されているが、好感を抱く以前に、状況が飲み込めなかった。なんだこれは。ポケモンは好きだが、趣味ってもんが、じゃなくてちょっと、さすがに相手と状況が。
「あ、あの、えっと、すいませんこの子を」
「いやあ申し訳ない! そいつ、人懐っこい性格でして」
「リューエルの第一部隊にも、躾がなっていないポケモンがいるんだねえ」
「バトルは優秀なんですけどね」
「躾って、人懐っこいがすぎるでしょ、ちょ、っと! あっやめっ」
 執拗に腋の下を攻撃されて呼吸がままならなくなる。転げまわった末に背後を取られたあたりでようやくボールにしまってくれた。遠巻きに腹を抱えて笑っている二人のリューエル団員へ、息を荒げて床へ這い蹲りながら、トウヤはますます要らぬ不信感を膨らませる。
「失礼、失礼」
「いいんだよ、この子ポケモンが好きなんだから」
 おばさん、余計な事を、と咎めようとした声は、息も気も動転してうまく出ていかない。
「しかし、不思議なもんだね。あのポケモン、私にはちっとも遊んで欲しそうにしなかったのに」
「トウヤくんはポケモン育成につけては優秀だって、第七部隊のアヤノが言ってましたからね。ポケモンには分かるんでしょう、才能のあるトレーナーという奴が」
 それを聞いて、褒められたはずなのに、熱がすっと沈着した。声の中にあるあからさまな『皮肉』が、ありありと感じ取れたからだ。確信に至る。トウヤだけではない、向こう方も、こちらに対して不信感、あるいは嫌悪感を抱いている。
 身を起こし、息を整える。無駄に高鳴っていた心臓は、依然として緊迫の鼓動を刻んでいる。
 ヒガメの宿で部屋に侵入していたのが自分だと、気付いているのだろうか。一度すれ違いはしたが彼らは話し込んでいて、メグミが本来の姿を晒した交戦はかなり遠巻きであり、直接顔を覚えられているとは考えにくい。だが、宿の主人に聞き込みをしたとすれば、『頬に痣のある男と金髪碧眼の子供』の二人組がいたこと、それが翌朝には忽然と姿を消していたことは、掴んでいても不思議ではない。それだけの情報をリューエル全体にばら撒けば、グレンが吐かなかったとしても、容易にこの家を特定できるだろう。そう、――例えば、アヤノまで話が渡っているなら、確実にトウヤを炙り出せる。
「アヤノさんと、お知り合いなんですね」
 立ち上がり、トレーナーベルトを盗み見る。二人ともボールは複数所持していた。クチートはおろか、メグミの擬態を暴く厄介なクロバットがどちらの手持ちかも、目視ではさすがに特定できない。
 二人はあくまでにこやかに頷いた。
「実は今日、第七の連中とココウで飲もうという話になっているんですよ」
「え?」
 反射的に聞き返した瞬間に、意味を理解して、トウヤはぞっと全身を粟立てた。
 今日。――第七部隊が、『ワカミヤ ミヅキ』を副隊長に据えるリューエル実務部第七部隊が、今日、ココウにやってくる。
「それで、アヤノにこの店を紹介して貰ったんです。以前寄った時に、飯が旨かったからと」
「嬉しいね、そう言ってもらえると。大所帯になるね、トウヤも今晩手伝えるかい?」
「……、おそらく」
「それは良かった。アヤノがそこまで言うものですからね、是非一度、手合せ願いたいと思っていまして」
 若い方が言った。魂胆は透けて見えた。彼らはバトルに持ち込んで『ラティアス』を確認しようとしている。
 第七部隊が、という発想から、連鎖的に浮かんだ姉の顔を強引に払拭して、トウヤは苦笑を返した。冷静になれ。大丈夫。踊らされる下手は打たない。
「アヤノさんとは子供の頃から知り合いなんです、だから余計に立派になって見えるんでしょう。だが買い被り過ぎだ。ガッカリさせますよ」
「そう謙遜せずとも。せめてポケモンだけでも、拝見させて頂きたい」
 素早く策を固める。ハヤテをボールごと渡した幸運、ハリをリナと一緒に行かせた幸運を、トウヤは無言で噛みしめた。
「生憎、出払っていまして……」
 腰のトレーナーベルトの、手前から三か所――一つ目と三つ目にボールが掛かっていて、二つ目は空白――の有様を示してから、一つ目を手に取る。ハリのボールの開閉スイッチを押し込む。収まるべきハリは支配距離外にいるので、ボールは上下にかぱりと割れるだけだ。
「三つ目はいるんですが、……おい!」
 廊下の奥から飛んでくる。ピジョンのツーだ。翼を小さく翻し、慣れた素振りで右腕に留まってみせる。意図を酌んでくれる賢い個体で助かった。
「最近やっと進化したんですよ。バトルはまだまだこれからでして」
 もし、三つ目がボールに収まるところを見せろと言うなら、ボールが嫌いな個体だと返せばいい。穏便に接触してきたのだから、気まずい雰囲気は避けたがるはずだ。
 すらすらと偽り始めた甥の姿に、ハギは不思議そうな顔こそしたが、黙って見ているにとどめていた。ここでハギに横槍を入れられたら詰んでいたことに気がつくと、『いつもの癖』で危ない橋を渡った事実に、トウヤはようやく戦慄した。
 欺き続けている人の前で、嘘だと分かる嘘を吐いたのだ。
 どっと熱が噴きあがってくる。だが、ここで尻尾を出す訳にはいかなかった。
「二番目は、空いていますが?」
「ああ、こいつは近所の子供に貸しているんです。重い物を運ぶとか言って」
「なるほど」
 向かいの二人が、それとなく目を合わせ、頷き合う。
「では晩にでも、一戦交えましょう。酒の席の余興としてでも」
「近くにフィールドはありませんよ。田舎で面目ない」
「そんなもの、やろうと思えばどこでだってできる。その時には三対三で」
「二対二ならお受けしますが」
「どうも、逃げられているようだなあ」
 一歩引いてやりとりを眺めていた年上の方の男が、冷笑混じりに言った。
 その手の煽りには、乗らない。トウヤは慣れている。逃げるのか、という言葉で不本意をフィールドに引き摺り出すのは、グレンの常套手段だったからだ。
「自信がないんですよ。本当に弱いんです」
「またまた」
 情けない笑顔、を、作って浮かべて見せるトウヤに、男たちは口の端を上げる。
「楽しみにしていますよ」





『――手持ちが一匹しかいない?』
 トウヤとミソラが不在だと考えたタケヒロがアズサ宅に滑り込んだ時、菓子を食らっていたミソラとアズサの目の前で、またトランシーバーが喋り始めた。
『ノクタスと、ガバイトがいるはずだ。どこに消えた』
『近所の子供? 資料にあった外人の子供か?』
『そのピジョンがラティアスである可能性は』
『クロバットは療養中だ。擬態している場合、攻撃してみない事には』
 待ったを掛けたくなるほどに、容赦なく情報が雪崩れ込んでくる。三人は、それぞれ口を抑えて必死に息を殺しながら、何者かの会話に聞き入っている。
『だな。戦闘に引き摺り出せばすぐにでも分かる』
『念の為、第七が合流する時間まで酒場に待機させる』
『逃げないように見張っておけ』
『ともかく』
 電波の向こうが、一呼吸を置いた。
 ミソラが、アズサが、タケヒロが、誰ともなく、目を合わせる。
 戻りかかった日常を、あざやかにひっくり返す一言が、スピーカーから放たれた。
『ともかく、そのラティアスは盗品だ。殺してでも、取り返せ!』


■筆者メッセージ
お暇でしたらおまけ幕間もどうぞ。読まなくても進めます。↓
http://nekoanizya.hishaku.com/text/gessyoku/gi11-2.htm うちのサイトに繋がっています
本話劇中舞台裏です。喋るポケモンに注意。

「ハリね、安心したんだって」
とらと ( 2018/01/11(木) 23:46 )