月蝕
10−5
「グレン、お前、いつからリューエルの団員だったんだ」

 視線を外し、またフィールドの方へと目をやりながら、グレンははっきりと笑った。

「十五年前だよ。お前と知り合う前からだ」


 ――十二年前。ココウに連れてこられた時、十歳のトウヤは最初にこんなことを考えた。『このままココウに馴染まなければ、ハギのおばさんに嫌われれば、ホウガの家族の元へ帰してもらえるのではないだろうか』。
 子供だった。当然帰れると信じていた。ホウガを追い出された理由を大人たちは誰も教えてくれなかった、だから已む無い発想でもあった。おばさんに迷惑をかけまくろう。言われることには全部反抗してやろう。本気でそう考えて、本当に実行した。ハギが一番最初に話したのは『裏路地は危険だから絶対に行ってくれるな』ということだった。だからトウヤは、サボネアのハリを引きつれて、すぐに裏路地へ出かけていった。
 案の定、スラム住民のポケモンと交戦する羽目になり、そこでグレンと名乗る少年と出会った。
 翌日、少年はハギ家にやってきて、引き籠っているトウヤを遊びに連れ出そうとした。彼のことも、『早速友達ができたんだね』と喜んでいるハギのことも、最初は無視した。だが次の日も、その次の日も、彼はハギ家にやってきた。自室として与えられた二階の部屋まで上がってきて、図々しく居座っては、ココウスタジアムという遊び場のことをしつこいくらいに語り続けた。
 どうして僕など誘うのだろう。
 あしらうのも面倒になって、理由を尋ねてみると、
『――とにかく、お前とバトルがしたい!』
 十三歳のグレンは、目を輝かせてそう言ったのだ。
 グレンが振るった熱弁のことを、トウヤは今でも覚えている。俺は、ココウじゃ一番強いトレーナーだ。その俺がお前とサボネアを見込んでいる。これはとても光栄なことだ。もう一回言うが、俺はココウで一番強いトレーナーだから、それを証明するために、新参のお前とどうしてもバトルしなくちゃならない。バトルを拒否するってのは、自分とポケモンが俺より弱いと認めるのと同じだ。それでいいのか? 逃げるのか? まっ、俺と俺のポケモンたちに敵うはずはないんだがな――
 その日は追い返した。心底呆れていた。野蛮なヤツ。汚らしいこの町にお似合いの、とんだバトル狂いだ、と。
 けれど、一人よくよく意味を考えているうち、トウヤは違った考えを抱き始めた。
 ――あいつと付き合うのは、案外、『楽』なのではないだろうか?
 あいつには、僕が『良い子』だろうと『悪い子』だろうと関係ない。ただバトルの腕前だけを買っていて、バトルが強ければ受け入れてもらえる。バトルしていれば、バトルだけを目的に、仲良くできるのではないか。
 恋人とか、友達とか、――家族とか。友情だの愛情だの、そんな捉えどころのない、風が吹いたら消えてしまう蝋の火のような絆より、それはずっとさっぱりとしていて、分かりやすい。その分かりやすさは、トウヤにとって好ましかった。
 家族みたいな、根拠のない繋がりよりは。
 信じてもいい、と思えたのだ。



 ――そう、信じていられたら、どれほど楽でいられただろう。
「別に隠してた訳じゃないぞ? 聞かれなかったから言わなかっただけ……、」
 ひょうきんに茶化そうとしたグレンも、トウヤの表情を見た瞬間に、道化を演じるのを諦めた。
「……いや、隠してたな。すまんかった」
 無残に萎びた『友人』の声に、返す言葉を、トウヤは見つけられなかった。
 こいつと真剣に話をしたことが何度あっただろうか。彼の湿っぽい瞳など、どのくらい遡れば思い出せる? 今更になって鼓動が早まる滑稽さを、僅かに居残った客観の自分が、他人事のように笑っている。笑いながらそいつが言う。わざわざ本当のことを吐かせて、どうするつもりだったのか。自分から欺瞞を暴いた癖に、何を動揺してやがる――そいつも圧迫されてすぐに消えた。踏み込んだ先は想像以上の暗闇で、用意してきたはずの覚悟は、どこにしまいこんだのか分からない。
 いつしか胸に溜まっていた真っ黒な水が、音もなく嵩を増していく。飽和するその水底で、トウヤは息もつけなくなる。
 自宅ほど居慣れたこの場所は、今や、真逆に変容した。
 自分の言葉が、そうさせたのだ。
 完全に思い詰めているトウヤより、吐かされたグレンの方がまだ余裕があった。苦笑しつつ弟分の表情を見やったあと、また誰もいないフィールドへ視線を移して、昔話を始めた。
「十の年にカントーを出てこっちに渡ってきた。だが旅のいろはも知らん小僧で頼るあてもなく、手持ちもデルビル一匹で、そう都合よくいくはずもない。旅路、行き倒れかけていたところを、リューエルの人間に助けられてな」
 親の手の届かないところで強くなりたかっただけで、この地方を選んだことに特別な理由もなかった。そのままリューエルに身を寄せることになったが、年齢の低さもあり正規入団とはならず、部隊や駐留地を転々とした。
「十三の時、別の部隊へ合流するためにココウに残されることになった。だがどうも連絡ミスがあったようで迎えが来ず、しばらく滞在する羽目になってな。数か月、やることもなくスタジアムで小遣い稼ぎをしてたんだが、丁度その時期に……」
「僕が現れたって訳か」
 トウヤが言うと、グレンは懐かしげに目を細めて頷いた。
「すぐにココウを活動拠点にするように命じられたよ。……ガキのお目付け役など、最初は意味が分からんかったが……」
 噛みしめるような間合いのあと、続ける。
「ホウガで開発中のポケモン強化剤のこと、その中の特定成分にアレルギー反応を起こすお前の体質のこと、それと、バンギラスの爆破実験の候補地としてココウ周辺が挙げられていることを聞いて、納得がいったな」
 トウヤも頷き、唇を噛んで、幾許か目を閉じた。
 自分が長らく知らなかったこと、知らされずにいたこと、知りたくて求めていたことを、最初から、グレンは全部知っていたのだ。
 優しいと言えるほどトウヤは優しくもない。十二年間も『友人面』をして自分を欺き続けた彼を、無条件に許せるほど甘くもない。少なからず怒りはあった。だが、声高に罵って痛めつけてやるだけの力は、てんで湧いてこなかった。打ち明け話を聞くほどに、気力はむしろ失せていった。
 虚しさだ。席巻するものは。虚しさの方が、よっぽど強い。
 トウヤにとって、グレンという存在は兄貴分であるに違いない。歳も下で、ココウに来たのも後で、後ろを引っ付いて回った期間も長かった。それでも気がつけば、ココウスタジアムの双璧などと呼ばれるようになっていた。グレンとトウヤは同じよそ者で、『親が傍にない』と言ってしまえば、それも似たような境遇だ。その境遇の中で、彼は多くのポケモンを従え、たくさんの人に慕われ、不自由なく放浪し、一人自立して生きている。憧れ、と言うのは、気恥ずかしい。だが、いつからか当たり前に、バトル以外でも様々な部分で、手本にしようとしていたのだと思う。
 同じ場所に立ちたかった、立てるはずだった、彼が見ている広大な世界を、トウヤも見てみたかった。なのに背中を追うごとに、いつも一段上に立っていた。卑屈になって見上げるトウヤに、早くここまで上がってこいと、笑って手を差し伸べていた男が――
 知らないふりをして、仮面の下で、自分をあざ笑っていたなどとは。
(……思いたくない)
 トウヤは額に手を付き、振り絞るような溜め息を吐いた。
 思いたくない? いや、違う。
 どうしてもそうとは思えないのだ。
 変わらず強い北風の中、黙り込んだ弟分を、顎を掻きながら眺めてくる。知らないことも多いとはいえ、それはあまりにも見知った顔だ。傍で見てきたグレンの人柄を、見誤っていたとは考えにくい。友人ぶりながら嘲笑できる器用さなど、この愚直な男にはあるまい。そもそも、対等な立ち位置に上がってくることをトウヤに求めて続けてきたのは、誰よりも、グレン本人だったじゃないか。
 友人の『ふり』をしてくれる間、グレンは苦しんだのだろう。いつかこういう日がくる恐怖をずっと抱え込んでいたのだろう。自分といるのが辛かっただろう、何も知らなかった自分よりずっと、悲しい思いをしてきたのだろう。
 たまらなかった。
 こいつまで、自分が、この町でのうのうと生き延びたばかりに。
「――ま、俺にとっちゃ、自由を満喫できて万々歳だったがな!」
 頭の後ろで腕を組みながら、グレンはあっけらかんと言う。
「ココウみたいなど田舎に拠点を構えられるのは、なかなか好都合だったぞ。上の目も届かんし他に団員もいない、交通の便が悪いもんで招集もほとんど掛からない。好き勝手トレーニング出来たし、良いポケモンも集められた。カントーを離れた時に理想としてた通りの生活だ。部隊配属されてたらこうはいかんかっただろう。お前のお陰っちゃお陰だな」
 にいと笑みを作ってみせる。それがわざとらしく、痛々しくさえ感じられるのは、本当にそうなのか、自分がそう思いたいだけなのか。何を言っていいのかも分からず俯いているトウヤの横で、ばつが悪そうにグレンは頬を掻いた。どうすればこの場を収められるのか――どうトウヤを丸めこむべきか、どうすれば有耶無耶にできるのか、計りあぐねている風だった。
「……あのなあ……いいか、トウヤ」
 焦りや苛立ちを押し隠したような顔で、グレンは聞きわけの無い弟分を覗き込む。
「第一、お前が綺麗さっぱり忘れちまうから、こんなことになったんだろうが」
「は」
 忘れる?
 何を言われたのか分からなかった。分からないなりに、『自分のせい』にしてくるようなニュアンスを汲み取ってしまったことが、ふ、とトウヤに火をつけた。
「僕が何を忘れてるって言うんだ」
「ん? いや、だから……」
 向かいの顔色がうっすらと変わった。
「……俺がリューエルの団員だと、どうして気付いた?」
 先に聞いたのは僕だ、と返すと、グレンは眉間に皺を寄せて黙り込んでしまった。
 ふつふつと、沸きあがってきたものは、あんまりにもごちゃまぜになった感情の塊で、それをぶちまければ果たしてどんな色になるのか、まるで想像がつかない。怒りや、虚しさや、悲しみの隙間で、またあぶくを立て始める。悔しい。卑怯だ。糾弾してやりたかった。まだ隠すか。この期に及んで。掌の上で踊っているのが当然だと、思っているから、黙るんだろ。
「煙草だよ」
 ぼそりと呟いた言葉に、さも意外そうに、グレンは目を丸めた。
 意を決して、トウヤは顔を上げる。隠し事をする向かいに手の内を明かしてやることは、せめてもの反骨心だった。
「今年ハシリイに行った時に、リューエルを狙った盗人に出くわしたんだ。『煙草の匂い』を嗅ぎ分ける訓練をされたチラーミィを連れていて、僕はそいつに目を付けられた。丁度、君に貰った煙草を吸った後のことだよ。その煙草、リューエルの団内でしか出回っていないものだそうだな」
「こりゃあ確かに供給品だが……」
 収めていた白い箱を手に取って弄んで、暫く口を引き結んでから、男は肩を落とした。
「驚いたな。これじゃないと物足りんのだ。知らん間に団にマーキングされとったのか」
 およそ特殊な依存物質でも仕込んでいるのだろう。父が狂ったように煙草を吸っていた理由も、グレンに貰う煙草の煙を吸うとなんとなく父の顔を蘇らせていたことも、そうであるなら納得がいく。
 ハシリイで出会った薬売りの少年に吐かせたことを、どう受け止めるべきか、トウヤはあまり迷わなかった。グレンがリューエルの団員である、という炙り出された事実を前に、それほど動揺もしなかった。仕事の内容をはぐらかされたこと。行き先も告げずに消えること。小さな疑念の種はそこらじゅうに撒かれていたし、裏付けるような言動さえ、グレンは幾つも零してきた。
「ハシリイから帰った後、僕に『帰ってきてから妙にさっぱりした』みたいなことを言っただろ。その後、『キブツで何かあったのか』と聞いてきた。確かに僕は、ハシリイから帰った後すぐにキブツに飛んで、リューエルと交戦した。……だが、リューエルの偵察を目的にキブツに行っていたことは、君には敢えて話さなかったはずだ。僕がキブツにいたことを、誰から聞いたんだ?」
「……そうか。なるほどな」
 今朝の酒場で宿の名を不自然に尋ねてきたことも、怪我をしていることを言い当てたのも、『ガバイトを連れたトレーナーがヒガメの宿で負傷した』という情報を持っていたなら、辻褄が合う。リューエルが持ち得たトウヤの情報は、全て知らされていたのだろう。
 どことなく感慨深そうにグレンは頷いて、少し遠い目で向かいのスタンドを眺めていた。だが、しばらくすると腕を組んで、
「……だからって、そんな些細なことに気付ける方が異常だろう。煙草の件も、俺がリューエルの人間と繋がっている一般人の可能性をまず考えるはずだ。俺を元から疑ってなければ、の話だが」
「……」
「俺はそんなに不審だったか?」
 お前だって疑いながら『黙って』泳がせてきたんだろう、と、問うたのだ。
 不意をつかれたような気がした。ぎこちなく苦笑するグレンの横で、トウヤは微かにも口の端を上げることができなかった。
「春先くらいに、レンジャーの家の前で君のヨノワールに襲われろう」
「懐かしいな!」手を打って、グレンは声さえあげて笑った。「あれは言い訳したつもりだったがな? 何と言い訳したかも覚えてないが……」
「ターゲットの家と間違って襲ったって言ったんだ」
「ほう、我ながら苦しいな」
「本当なのかと聞いたら、お前の女に手を出すようなことはしない、と答えた。はっきり変だと思い始めたのはあの時からだ」
「その答えの何がおかしい?」
 からかうような、試すような口調だった。挑発されているのだと思った。グレンが何故そんなことをしようとするのかも、大方予想はつく。
 掌で踊らされたと思って、怒っているのは、何も自分だけではないのだ。
「家を間違えていたなら、あの家に住んでるのが『女』だと、断言できる訳ないだろ」
 一拍置いて、トウヤは凄いな、とグレンはまた大きな笑い声をたてた。
 ポケモンレンジャーとリューエルの間には相互不可侵の不文律があり、アズサはポケモンレンジャーの身でありながら、リューエルが開発中の薬物を追っていた。グレンがリューエルの団員であるなら、アズサに手を掛けようとする動機は分かる。分かるが、目の前で笑っているグレンの顔に、見てはならないものを見た気がして、トウヤは血の気が引くようだった。
 彼のヨノワールに殺されかけた恐怖などもう露ほども残っていない。だが、一歩間違えば、あの大きな手が同じ力で、アズサの細い首を圧し折っていたかもしれない。その光景の残忍さと、眼前の笑顔の軽薄さとは、空恐ろしいほど剥離している。
 トウヤの古巣であるリューエルに彼が所属していて、裏から掌握されていたとしても、だから嘲笑されていたとまでは考えられない。この何分のやりとりで今日までのすべてが無に帰すとは、トウヤはまるで思っていない。それでも、呑気に笑いあっていた間、グレンが腹の底で何を考えていたのか、知らずに済むなら、その方がいい。そう思っているのも、また事実だった。
 信じていたのではない。信じられる存在であってほしかっただけ。目を瞑って耳を塞いで、信じたがっていただけだ。
 ホウガを出た頃から、身を預けられるものを、ずっと欲していた。そういう顔をして近づいてくるものに、だから、気を許してしまえた。だけど、その優しさの裏側を、いつか目にしてしまうとしたら。信頼の方向が、一方通行かもしれないと、気付いてしまうとしたら――そうやって、怯えて生き続けてきたから、いつか裏切られることを、恐れ続けてきたから、彼の綻びに、気付けてしまった、でも。
 それでも、信じていたいと願っているものが、騙していてくれるなら、騙されていてもよかったのだ。
「疑ってた訳じゃないんだ」
 呻くようにトウヤは声を零した。
「……そんなことを、君が僕に隠すはずがないと思いたくて……」
 顔を伏せながら吐露した言葉が、本心なのか、当てつけ、嫌がらせなのか、トウヤ自身にも判別がつかない。
 ただ、ひとつ、確かだったのは、その言葉が何よりも、グレンが避けようとしていた場所を、正確に射抜いたことだった。
「お前だって」
 打ち返すように口を突いた言葉を、グレンは一度飲み込もうとした。トウヤが彼を見上げる。疑っていた訳じゃないと言うトウヤの目には不信と怒りが宿っていて、それと相対するグレンの目にも、――やはり『怒り』が、こみあげていた。
「お前だって、俺に隠していることなんか、いくらでもあるだろう」
 音が低まり、ごうごうと吹き荒ぶ北風は声を掻き流しちゃくれなかった。トウヤは眉根を寄せ、睨むようにグレンを見た。裏など知りたくないという願望と、滅茶苦茶に仮面を暴いてやりたい欲求の、等しく天秤に掛かっていた二つが、がくんと後者へ傾いた。
「そうだな。いいよ。何でも聞けばいい」
 冷たく吐き捨てたトウヤに、
「お前はッ、……」
 握られた拳が、震えていた。それを左手で隠すようにしながら、耐えて、耐え切れなくて、ついにグレンは立ち上がった。
 眩いばかりの太陽は、トウヤの見上げる彼方、グレンの険しい顔の向こうで、まだ燦然と輝いている。どす黒い雲がそいつを覆い隠してさえいなければ、刹那、――今にも泣き出しそうに歪んだグレンの表情を、トウヤは、見ずに済んだはずだった。
 身体の奥底で、張り裂けそうな痛みが、叫んだ。
「……!」
 苛烈に舌打ちしてグレンは踵を返した。追えなかったのでなく、自ら強い意志で、トウヤは視線だけでその背を追った。背はすぐに立ち止まった。振り返る、少し遠のいた顔は、もう泣き出しそうではなかったが、随分悔しさを滲ませていた。
「その、三匹目! どこで手に入れた」
 半ば獣のような声が、開いた距離を貫いた。トレーナーベルトに引っ掛かった、手前から三つ目のモンスターボール――『ラティアス』のメグミのボールへと、トウヤは右手をやる。リューエル団員である彼が何を言わんとしているのか、分かるなと言う方が、もう、無理な話だった。
「ワタツミだよ」
「今すぐ手放せ」
 強い口調でグレンは凄んだ。庇うように、トウヤはボールを手中に収める。
「無理だ」
「そいつはお前には荷が重すぎる」
「出来る訳ないだろ。メグミは僕の仲間だ」
「早く手放さないと、本当に、取り返しのつかないことになるんだ!」
「お前は、そうやって手持ちのことを――」
「――黙って言うことを聞けッ!!」
 初めて、グレンが、トウヤに怒鳴った。
 迎え討つように、トウヤも立ち上がった。静寂な双眸が燃えていた。右手の中から押し寄せる動揺と不安を、宥めるように、もう一度ボールを握りしめる。
 決別の時が、近づいていた。



 ハギ家にはいない。いつもの遊び場はすべて巡った、タケヒロの秘密基地にもいなかった。アズサの家にもおらず、グレンの家は留守で、大通りもとっくに当たった。滑空する翼の行くあては、あと一つしかない。先導するピジョンとポッポ、ツーとイズを追いかけて、タケヒロとアズサはココウスタジアムの扉を抜けた。
 受付の女番が右手を顎で示した。観客席に続く階段を、二人は段飛ばしに駆けあがっていく。
 野次と同化した熱狂的な歓声が脳を揺らす。スタンドの若者たちは皆立ち上がっていた。天へ拳を振り上げ嬉々として怒声を上げる輩を押しのけながら、観客席をがむしゃらに突き進んでいく。ココウ中を全力疾走し息も絶え絶えのタケヒロは、途中から自分がアズサの手首を掴んで引いていることにも、全く気付いていなかった。
「ミソラが、もし、本当に、」
 男たちにもみくちゃにされながら必死についてくるアズサを振り向いたが、タケヒロが目を見開いて笑んでしまうのは、そこに好きな女がいるからじゃない。自分がごく真面目に話そうとしている内容が、まるで浮世離れして、馬鹿らしくて、少し前までの平穏な生活にはちっとも必要のない言葉を、いくつも孕んでいるからだ。
「あいつのこと、本当に、殺そうとしてるなら、直接攻撃できるスタンドの前の方にいるんじゃねえかって思うんだ、試合が終わったところを乱入とか」
「選手通用路に隠れてるって可能性は? あと、バクーダの騒動の時は、ダクトの中を進んでフィールドの傍まで行ったこともある」
「クソッ、あんだけ目立つ癖に、どこにいるんだよ」
 二手に分かれた鳥たちが上空からスタンドを見渡そうとする。一際大きな歓声が地鳴りのように轟いた。頭上から唾と一緒に直撃する幾多の猛りにタケヒロは思わず顔を顰めた。フィールドでは烈風が巻き起こり、中央で激しくぶつかり合ったガバイトとウォーグルーーその背に乗ったトウヤとグレンが、粉塵の中で敵対していた。
 カッ、と、世界が明るみを増す。
 皆、フィールドを見ていた。少し低い位置から、タケヒロはその時、空を見上げていた。
 一面に垂れこめる暗雲が、嘘みたいに一閃、裂けて、黄金の光が降りしきったのだ。
「タケちゃん、あそこ!」
 熱狂の中を女の声と、甲高いイズの鳴き声が響く。
 光を浴びて、隠しようもなく、きらめく。
 少し離れたスタンドの最前列で、前のめりに、食い入るようにフィールドを見る、
 白。金色。ココウの冬の空にはない、澄んだ蒼穹の瞳。
 思わず叫んでいた。
「ミソラ――――ッ!!」
 この咆哮の渦の中で、よく通る少年の声が、はっきりと少年の耳を突いた。
 ミソラの肩が揺れた。青褪めた顔が、確かにこちらへ振り向いた。それも一瞬で、あのアチャモドールを抱きしめると、咄嗟に人混みの中へ逃げ込んでしまった。
 フィールドから凄まじい爆音がした。何が起こったのか見ている余裕はなかった。相棒の鳥たちに追うよう命じて、タケヒロはアズサの腕を掴んだまま、人混みを掻いて走り始めた。

■筆者メッセージ
***拍手レス
>海さん
温かいお言葉ありがとうございます……!!作者としても色々と楽しみにしていた章です。どうしようもない連中がどうしようもなくなっていく感じの10章ですが、見守っていただけると幸いです。
とらと ( 2017/10/16(月) 19:48 )