月蝕
10−4
「不正アクセス?」
 受話器から聞こえる耳馴染みのない言葉を、アズサは繰り返した。
 時刻は正午を回った。曇天に閉じ込められた世界は薄暗く、普段より曖昧な輪郭を映す窓は時折強い風に打ちのめされている。力無く机上に転がり、尻尾だけだらりと垂らしているチリーンのスズ。何かに取り憑かれたように、じっと窓の外に目を奪われている。
 電話を受けた瞬間から、ユキの声色は随分と逼迫していた。物言わぬチリーンの背中さえ、アズサには何か不気味な予兆のように思えた。
「先月の報告書って、ココウでクオンをキャプチャした時のでしょう。あんなもの覗き見して得をする人がいるの」
『分からない、でも例えばクオンの『メガシンカ』について情報を得たいなら、わざわざあの報告書じゃなくても他に見るべきデータがあるから』
 狙いはアズサの父親や、そのパートナーのルカリオではない。件の始末書は、業務外戦闘報告としてユニオン幹部である父の命で作成したものだ。内容を振り返ると、戦闘日時、場所、そこに至った経緯、参戦したトレーナーの人数と使用ポケモン。それに関わる周囲の被害状況。
「犯人は誰だか分かってるの?」
『それもまだ。ごめん。ただ、去年リューエルにアクセスされたのと似たようなルートでセキュリティを突破してるみたい』
 リューエル。看過できないその名に、若き女レンジャーは眉根を寄せる。
「了解。こっちでも調べてみる」
『……とにかく、気を付けて』
 電話を切った途端、耳馴染みのする友人の声が無くなり、一人取り残されたような不安を覚えた。
 気を付けるべきは、本当に私だろうか。ココウを出がけに挨拶に寄ってくれた顔を思い出す。トウヤはミソラを連れてヒガメに行っているはずだ。リゾチウムの依存症を治療するリューエル関係者の情報に興味を持っていたから、実際に接触している可能性もある。無茶をしないよう忠告はしておいたが、残念ながら、素直に聞いてくれる人ではない。目的の為なら我が身を省みないような性分は、このところ輪をかけて悪化しているようにさえ見えていた。
 来るべき時が、遂に来たのかもしれない。僅かばかり目を閉じて、アズサは口元を引き締めた。
 だとして、あの戦闘に彼が混じっていたことを知り得る人物は誰だろうか。戦闘区域を設定して事前に人払いをした。リューエルの関係者が潜伏していた可能性は捨てきれない、だが。
「――あの男、か」
 アズサにはひとつ、重大な心あたりがある。
 踵を返した。ホルダーに収めていたボールにチリーンを収納し、レンジャー隊員服の上にマントを羽織る。鮮烈な赤を黒で覆い隠し、玄関へ向かおうとした矢先だった。
 何者かが駆け足で接近し、すぐに扉が押し開かれた。
 アズサは思わず身を引きボールを解放しようとしたが、右手はすんでのところで止まった。そして、やはり、嫌な予感は的中したのだと確信した。
 肩で息をするタケヒロは、左頬に赤い擦傷を作り、目の周りに青痣を浮かべている。
「タケちゃん」
「……アズサ」
 ぽつりと呟く口の端で、拭いきらなかった血の跡が乾いている。どこから駆けてきたのだろう、荒く呼吸は乱しているが、目は茫然と丸まっていた。だが、大丈夫、と駆け寄ったアズサの顔を見上げると、
「……ミソラが……お、俺……」 
 唇を曲げ、眉を歪め、堪えるように鼻を膨らませた。それも一瞬だった。
「……俺なんかに、何も、できる訳ねえよ……」
 一気に膜を張った少年の大きな目から、ぼたぼたと雫が零れはじめた。
 次々と、とめどなく、涙は溢れた。泥まみれの手が無茶苦茶に拭った。服はいつも以上に汚れていて、いたるところを擦り剥いていた。その傷跡が、明確に示していた。何もできない訳じゃない。実際に何かしようとしたのだ。何もしなかったのではなく、しようとして、し損ねてきた。聞かなくたって、ちゃんと分かる。
 嗚咽を漏らすのを必死に我慢する五つも年下の子供を、アズサは息を詰めて見下ろした。つい先日、「俺はどうしたらいいんだろう」と、親友たちを助ける方法を真剣に考えようとしていた。くっきりと思い出せる。あの二人は、知らないかもしれないが。
 まだだ。何も。
 終わってなどいない。言うなら、幕を開けたばかりだ。
「似合わないわ」
 キッパリと諌めて、アズサはタケヒロの両頬を両手で挟んだ。
 温かく人情味のある頬だ。少年の目が、点になる。グイと顔を上げさせ、無理矢理視線を合わせたタケヒロに、顔を寄せた。瞳の奥まで見据えながら、力を込めて言い放った。
「あんたは負けない。絶対に諦めない。そうでしょ?」
 これは、不穏の影に魅入られそうになる自分を、同時に奮い立たせるための言葉だ。
 ごうごうと低く北風の唸るこの町で、何が起こるとしても。タケヒロに、トウヤに、ミソラに、アズサは助けられた。だから、次は、私の番だ。
 タケヒロはじっくり数秒固まったあと、歯を食い縛り、ぎゅうと絞り出すように瞼を閉じた。それからアズサの手を払いのけて、地に向かって甲高く吠えた。
「――ぜんっ、ぜん! 諦めてなんか、ねえよッ!」
 ギッと顔を上げる。その目にはもう、弱気の膜は宿っていない。





 観戦席への階段を上がりきった途端、体を持っていかれそうな突風に見舞われた。
 息苦しくてマフラーを下すと、頬を切り裂いて冷気が駆け抜ける。冬は怒涛の勢いでココウへと吹き込み続けていた。悪意を混ぜ込んだような雲が絡み合いつつ頭上を流れ、どす黒い色が西側からうねりながら迫ってくる。決して気分の良い景色ではないが、慣れたものだ。両手で数えきれないだけ、この厳冬を越えてきた。
 コートの前を合わせながら、トウヤはスタンドへと踏み出した。
 昼食時のココウスタジアム、青天の日は観客席で昼餉を取る選手や観客の姿も多いが、ここまで冷え込むとちらほらとしか見られない。寄り集まって震えながら飯を掻き込んでいる物好きな数人を一瞥したが、目的の人物は混じっていなかった。
 と、やや遠くに、ぽつねんと座っている男の姿を見つけた。
 歩きながら、グレン、とトウヤは呼んだ。風に流されたか、グレンは気付かなかった。惣菜パンを黙々と頬張りつつ、途方に暮れたように無人のフィールドに目を留めている。遠くから見ても相変わらずの大男だが、やや丸まった背には迷子の子供じみた哀愁が漂っていた。ココウスタジアム随一の実力者であり、若い輩に慕われる人気者でもある彼が観客席に一人きりでいるのは、それだけで珍しい光景だった。誰にも豪放に振る舞う彼が案外小心者であることを、トウヤはちゃんと知っている。
「グレン!」
 近づき、語気を強めると、男はぱっと振り返った。
 ほんの束の間だけ、気後れしたように見えた。それから片手をあげて、普段と全く同じ顔で、にいっと勝気に笑んだ。
「よお。逃げずに来たな?」
 既に水に流してくれたと見える。こっそり安堵して、トウヤは苦笑を浮かべた。
 親指で「ここに座れ」と示してくる。腰を下ろすと、凍え切ったベンチから背骨に冷たさが沁みこんだ。菓子パンを一つ押し付けてきたが、迷いなく押しつけ返した。食ってきたのか、と向こうが勝手に納得した。
「あー、その、なんだ、さっきはすまんかったな」
 そのパンを自分で開封しながら、グレンはやや照れくさそうに言った。
「まあお前の気持ちも分かる。ありゃあハギさんの前でしていい話じゃなかった」
「僕もムキになって悪かったよ。しかし君が謝るなんて珍しい」
「やかましいわ」
「お陰様で、おばさんにきちんと話が出来ましたよ」
「ほう」
 大きな一口が、みるみるうちに菓子パンを飲み込んでいく。
「で、どんな法螺を吹いたんだ?」
 やはりというか、一撃で言い当てられて、トウヤは思わず笑い声をあげた。
「ちっとも信用されてないな」
「お前の考えそうなことは大体分かるわ」
 医者には、と立て続けに問いながら、最後の一切れを放り込んで缶ジュースで流し込んだ。トウヤが右肩を軽く回して見せると、きょとんと目を瞬かせた。
「なんだそりゃ」
「だから言っただろ。大袈裟なんだよ」
「一応忠告しとくが、あまりポケモンに治させない方がいいぞ。膝からヒレが生えてきた話知っとろうが」
「僕の手持ちにそんな技が使える奴はいないだろ?」
「……そうだったな」
 何かを含んで、グレンは小さく笑んだ。
 ならば一戦。いつものノリが返ってきて、トウヤも今度は断らなかった。よっしゃ、と少年じみた笑顔を見せてから、グレンは上機嫌そうに煙草の箱を取り出した。
 視界に入った白い箱、グレンがいつも吸っている簡素なパッケージを、トウヤはじっと見下ろした。分厚い雲を潜り抜けた弱光が、フィルムをきらきらと反射させる。その光が、視線から銘柄を眩ませている。
「実は、暫く帰らないことになった」
 一本、頼んでも無いのに恵まれたトウヤは、その筒から静かに顔を上げた。
 グレンはこちらを見てはいなかった。戦い慣れたフィールドへと視線を落として、柔らかな目尻に情緒を滲ませていた。グレンがココウを長期間離れるのは日常茶飯事で、ミソラが来る前も半年ほどふらっと消えていた期間がある。その名目は修行の旅だの、レアポケモン捜索だのと様々だが、「仕事で長期遠征が入る」という今回の話自体は、以前にも彼から聞かされていた。その時一緒に「その遠征にお前もついてくるか」と言われた。グレンとテラ絡みの言い合いをする直前、スタジアムのトレーナー控室でのことだ。
 グレンの仕事関係の遠征など、ついていけるはずがない。ありえないと弁えていながらも、あのとき、トウヤはこんなことを思って、一筋の光を見た気がしたのだ。
 ――グレンが無理矢理に引き摺っていってくれるなら、自ずから逃げ出さずとも、ミソラから離れることが出来てしまう。
「前に文通してた子の話、覚えてるか?」
 風に煽られて何度も消える火に四苦八苦しながら、グレンが言う。「ついてくるか」という話をするのかと思ったが、今日は触れなかった。
「一緒に仕事をすることになってな。なかなか腕が立つんだ、戦闘スタイルは全く違うんだが、良い機会だから盗んでやろうと思う。……春以来、随分ココウに留まってしまったな」
 大きな手の内側でやっと灯った火が、煙草の先端に移り、やがて黒く焦がし始める。
 どこか懐かしむようにフィールドを眺める友人の、穏やかな横顔を、――覚えておきたくて、瞼の裏に、トウヤは焼き付けようとしていた。
 ココウから彼が消えることなど、日常茶飯事だ。だから、わざわざ報告して出ていくことなど今までなかった、いつの間にかいなくなって、いつの間にか戻ってきていた。グレンがスタジアムに顔を見せなくなっても、「またか」と言って誰も気に留めない。「早く帰ってこい」だなんて言われることを嫌っていたとも思える。彼は徹して太陽と言うよりも、しがらみのない世界を渡る風のような男だった。その彼が敢えて遠征を予告した意図も、物寂しげにしている意味も、分かるなと言う方が、土台無理な話だ。
 今日が最後かもしれない。
 ライターを投げ渡される。掌にひとつ虚しく転がる、細い煙草を、
「……僕も、」
 畳んだ指先で、そっと撫でる。
 燃やす気になどなれなかった。
「出ていくよ。この町を」
 ぽつりと呟いた声を拾って、本当か、とグレンは嬉しそうに振り返った。
「そりゃあいい。お前はもっと広い世界に触れて腕を磨くべきだ」
「何百回と言われたな、それ」
「お前も、ポケモンも、これからまだまだ強くなれるぞ。次に会う時が楽しみだな」
 大口を開けて笑おうとしたグレンから、トウヤはついと目を逸らした。
「会えるといいけどな」
 ふと、隣の雰囲気が、見え透いた不安を纏う。
 そんな気配を察するだけで、胸が、ひどい音を立てて軋んだ。
「……何だって?」
「帰ってこないかもしれないだろ。お互いに」
 彼から見えない位置でトウヤは煙草を握りしめ、ライターと共に、ポケットの奥深くに捻じ込んだ。
 グレンの指先から昇る白煙は忽ち流され続けていたが、嵐のような風は一旦落ち着きを見せていた。向こうで飯を食っていた連中が立ち上がり、怪訝としてこちらを窺いながら建物の中へと引っ込んでいく。彼らから見えるグレンの表情は、相当妙なものに見えているに違いなかった。それを想像すると、酒場で彼に掴み上げられた後、ハギの顔を見れなかったのと同じ後ろめたさに襲われた。だが今度こそ逃げる訳にもいかなかった。
「二度と会わないかもしれない」
「……寂しいことを言うな」
 顔を上げると、思い描いたとおりの優しい顔で、グレンは苦笑いを浮かべていた。
 それを見た途端、言葉が気道をせりあがった。言うつもりなどまるでなかった、そんなことを言うために、この場所に臨んだのではなかったのに。一瞬喉奥でつっかえた。だが、抑え込めば、別の場所から溢れてしまうんじゃないかと思えた。そうなれば耐え難いほど惨めな気持ちになるのだろうし、惨めさよりも、何かこの場所を汚してしまうのではないかと言う、そんな予感にさえ囚われる。
 汚したくない。美化したくも、ない。だから、吐き出すしかなかった。
「君には世話になった。感謝してるよ」
 口から出て、耳に戻ってきて、また自分が驚くような、とんでもない代物だった。そんなものが自分の中で勝手に自然に製造されたことが不思議でならないし、何故か気恥ずかしさも感じなかった。
 真顔でそんな事を抜かすトウヤの手前、グレンの方がぎょっと目を丸めて、ぶはっと煙を吐いた。仰け反るようにして笑い始めた。
「よせ、馬鹿か! んな柄じゃないだろ」
「だけど」
「やめろやめろ、サブイボが立つわ」
 大袈裟に腕をさする男の隣で訳も分からずトウヤも笑った。くだらない会話を重ねるたびに感傷はますます深まっていった。十から叔母とポケモン達と暮らし、男親というものと縁遠かった自分にとって、この男の存在は、果たして何だったのだろうか。友人であり、兄貴分であるが、その実はそれより少し大きい。ほんのちょっとの誠実も退けられるほど、真面目な話をしてこなかった。だが、グレンがそれを望まなくても、彼の、自分より大きな背中に、トウヤはずっと、習うべきものを見続けてきた。
 その存在が、目の前からすっかりいなくなるなんて、まだ現実味を感じない。拠り所のない世界でこれから自分がどうなるのか、正直言って、まるで想像もつかない。
「今生の別れみたいじゃないか、それじゃ」
「そうじゃないとは限らないって言ったんだ」
「まあ、それもそうか。トウヤが帰らないつもりなら、そうだな」
 トントンと落とされる灰が風に掬われ、崩れながら転がっていく。落ち着かなさそうに足先を組み、グレンは肩を竦めて歯を見せる。
「そうか。お前がいないなら、もう俺も、レベルの低いココウをわざわざ本拠地にすることもないな。拠点を移すか。ヒガメにでも行くかな」
 何気ない調子で、グレンが言った。
 どくんと心臓が脈を打つ。顔が強張るのを、今ばかりは、隠せなかった。
 世話になった。感謝している。この気持ちは、本当だ。
 それでも、言わなければならない。手を離さなければならない。
 一人きりでも、明日を目指すために。
「それは、まるで」
 随分短くなった煙草をふかしながら友人が見下ろす。
 顔を背けたくてたまらなかった。だが、その表情が変わるのを見逃さないために、あと一歩の瀬戸際で、トウヤは持ち堪えた。
「……僕を、監視していたような言い方だな」
 言い切ると。
 ――向かいの表情が凍りついた。
 決定的だった。彼の顔は、すぐに平常を取り戻したかのように見えたが、狼狽の全ては消せなかった。何を、とグレンは吐き捨てた。それ以上は継げなかった。無理に笑おうとする口の端が歪むのを、結局見ていられなくて、トウヤは少しだけ視線を下した。
 正直な奴だと思った。人を騙すのに向いていない、不器用で、馬鹿正直な男だと。
 これから自分がしようとしているのは、その馬鹿正直な彼が、自分に目を掛けてくれた、そのすべてを、踏み躙るような、背徳行為だ。
 これが、裏切り、それ以外の、何物であろうか。
「今生の別れなら、ひとつだけ、僕の質問に答えてくれないか」
 顔を上げる。
 普段の表情に見える。笑っているようでもあった。音も無くひた走る風が短い髪を揺らし続けていた。この仮面の裏に何があるのかなんて知らない。本当は知りたくもない。知らなくていい、それでもいいと、自分に言い聞かせ続けてきた。ああ、このところ、言い合いばかりしてきた気がする。もう少しだけ色々と思い出に触れてからにすればよかったと、もう少しだけ笑いあってからにすればよかったと、この期に及んで、トウヤは心底後悔した。
 この場所に、この友人との距離の間に、この十二年間の、膨大な出来事が詰まっていた。
 この町で、トウヤが馬鹿笑いしていたとき、隣にはいつも、彼の笑顔があった気がした。

「グレン、お前、いつからリューエルの団員だったんだ」

 まっすぐにその目を見据えて、トウヤは尋ねた。
 グレンは顔色を変えなかった。
 微かに頬を弛めて見えた。右手の指の間に挟んだ白筒を、吸って、ゆっくりと吐いた。
 やはり煙は風に乗って、すぐに掻き消されていった。

 その時、一体、どんな返答を期待していたのだろう。
 だが、その後、グレンが口にした返答以外の、どんな答えであっても、きっとトウヤは納得しなかっただろう。その点では、グレンは最後まで、トウヤの期待した通りの人物だったと言えるかもしれない。

 すっかりごみになった煙草を落として、靴底が揉み消す。
 視線を外し、またフィールドの方へと目をやりながら、グレンははっきりと笑った。
 確かな声で、こう言った。

「十五年前だよ。お前と知り合う前からだ」


とらと ( 2017/07/29(土) 21:26 )