10−3
俺は、馬鹿だ。
頭が悪い。文字も読めない、計算も出来ない、勉強しようという気もない。それを今まで負い目に感じたことさえなかった。だが今タケヒロの内心は、冬の冷気を裂いて走りながら、苛烈な後悔に苛まれている。
グレンがトウヤを殴ろうとした。それを見て、見たことのない顔をしたミソラが酒場を転がり出ていった。細い腕の中に、焼かれたはずのアチャモドールが収まっていた。何かが起こった、それは分かる、それも決定的によからぬことが、起こっている筈なのだ。
だが、一体何が。
トウヤの様子が妙だった。今思えば、タケヒロをミソラに会わせないようにしていたのだろう。風邪を引いていると言っていたのもおそらく嘘だ。けれど何のためにそんな嘘を吐いたのか。後からやってきたグレンが、トウヤが怪我をしていることに何故か気付いて、トウヤは何故か頑なに否定して、グレンは何故か激昂した。胸倉を掴みながら、こっちの傷は、ミソラが、と言った。トウヤも否定はしなかった。目の前で何が行われているのかタケヒロは何も分からず、こうやって思い返してみても、グレンが何に気付いていたのか、あの時何が起こっていたのか、結局露程も分からない。
ミソラとトウヤの傍にいたのは自分だと言う自負があった。自分が一番話を聞いてやってきたと思っていた。だが、特に話もしていなかったはずのグレンの方が、ずっとあの場を分かっていたではないか。
俺が馬鹿だからか。俺に力がないからか。だから、分かってやれないのか。だから置いていかれるのか。
無力感が強く拳を握らせる。
冬空の下、ココウ大通りを北へひた走りながら考える。この頃本当に碌な事が起きない。その殆んどはタケヒロ自身ではなく周りが端を発している。普段どおりの平和な日常の中、皆で愉快に笑って暮らせればいいと思っているが、そんな日常、一体どこにあるのだろうか。このまま首を突っ込み続けていれば、望む平和な日常とやらはいつか掴み取れるのだろうか。見て見ぬ振りをしたら、どうなる。楽になれるかもしれない。平和が訪れるかもしれない。季節を三つほど遡れば、その前は、一人きりで生きていたはずなのだ。
走りながら、タケヒロは首を横に振る。
ミソラという友達が出来る前、自分がどんなことで笑っていたのかなんて、もう思い出せもしなかった。
「――ミソラ!」
よく二人で遊ぶ裏通りに金髪の背中を見つけ、タケヒロは叫んだ。
寝巻のままで、いつもの肩掛け鞄も持っていない。道の真ん中に蹲っている。嫌な予感は膨れ上がるばかりだった。だが、グレンのように何もかも言い当てることが出来ないなら、正面きって突破する以外に、タケヒロに取れる策などない。
背後に駆け寄り、荒れた息を整える。ミソラは顔を上げもしない。
「どうしたんだよ、ミソラ。何があったんだ……」
差し伸ばし肩に触れようとした手が、弾かれた。
乾いた音が鳴った。咄嗟に手を引いた直後、甲に赤い痺れが来た。
ミソラに手を引っ叩かれたその事実よりも、友人に拒絶されたという実感の方が、一層タケヒロを打ちのめした。
「軽々しく触らないでよ」
青い空の目を弓なりに細め、冷たい顔をした少年が放つ。
膝に手を付き、立ち上がる。背中の上を金糸が流れる。胸で潰れているアチャモドールは、頭の三枚の飾り羽のうち左の一枚が欠けている。アンバランスなドールの感情の無い黒塗りの瞳に、タケヒロは目を奪われた。そこからぎこちなく視線を上げて、もう一度ミソラと顔を合わせた。
理解できない。夢を見ているかのようだ。
弟のようにさえ思っていた友人は、今、蔑んだ目でこちらを見ている。
「ねえ、さっき、何の話してたの」
厭らしい嘲笑を交えながらミソラが問うた。微かに背を丸め、肩を揺らして笑うミソラに、無意識にタケヒロは後ずさりしていた。え、という情けない一音だけが口の先から漏れ出した。それは、ミソラの言葉に対してというより、見知った友人の形をしたまるで知らない怪物に対して、自然に零れた疑問符だった。
誰だ。――誰だ、これは。
「もうあいつに近づかないようにしなよ、タケヒロ」
ミソラの形をしたものが、自分の名前を吐き捨てた。
「あいつ、自分の、親を、殺して、平気な顔してるような、酷い化け物だからさあ」
アチャモドールの首元を腕で絞め殺しながら、一歩、一歩、近づいてくる。今度こそタケヒロは意識的に身を引いた。
「……『あいつ』、って、」
肩がひたりと背後に接した。
壁際に追い込んだタケヒロに、迫る。一切の穢れを受け付けない白の、柔らかな肌。夜空の繊細な光だけ集めたような細くて美しい髪。最初にその姿を見たとき、男と知らず一目惚れしかけた。こんな薄汚い町には似合わない、ミソラは綺麗に子供だ。その浮世から離れた美貌が、泣いたり笑ったり怒ったりはしゃいだり、汗と砂埃を身体中に貼り付けているのが、なんとも俗っぽくて、自分と同じなのだと思って、タケヒロは気に入っていたのだ。
長い睫毛の一本一本が目の中に影を落としている。澄んだ蒼穹の瞳は、昼の色なのに、深みに星を蓄えている。今はぎらぎらと獰猛な光。
知っている顔だ。友達の顔。――けれど。
密やかに、白い蕾が綻んで、ほんのりとした紅がひらく。
その微笑みに戦慄した。
『大人みたいな』顔だった。
「分かるでしょ?」
耳元で、息を吹きかけるようにミソラは囁いた。
それから、――くるりと身を離して、脇のドラム缶へと、軽快な勢いで腰をかけた。
いつもタケヒロか、そうでなければリナが座っていた隣に、トン、とアチャモドールが置かれる。放心して、へたり込むのをなんとか堪えているだけのタケヒロに向かって、
「僕、――思い出したんだ!」
高々とした宣言に乗せて、ミソラはすがすがしいほどの笑顔を咲かせた。
思い出した、そう言われる瞬間を。
何度も何度も、思い描いてきたはずが、呆然とする以外に、タケヒロは何も、考えることもできなかった。
ねえ、聞いてくれる? 声が弾む。朗らかでわくわくとして、これから話すことが嬉しくて仕方ない顔をしている。
「ミヅキちゃんって言うんだよね、僕の好きだった人。ワカミヤミヅキって言うんだ」
春先から何度も何度も突き合わせてきた顔のはずだ、その笑顔なんて。それこそずっと見てきた顔に違いない。ミソラが歯を見せてあどけなく晴れやかに笑うたび、だが、体の中がぐちゃぐちゃに掻き乱されるような不快感を覚えた。現実味がどこにもない。夢より奇妙だ。なのに目の前の音や匂いや光や風は、夢より遥かに鮮明に、タケヒロの全身をまさぐってくる。
足が竦んで動かない。笑顔の仮面の下から見つめられているような錯覚がする。
「僕、他に友達もいなくて、ミヅキちゃんにいっぱい遊んでもらってたんだ。僕の仲良しはミヅキちゃんだけで、ミヅキちゃんが大好きで、僕の全部って言うか、それで、僕、ミヅキちゃんにも僕のこと好きになってほしくて」
たった一人の聴衆をおいてきぼりにして舌は回り続けた。あくまで無垢な両目は、反応を窺うように、タケヒロの引き攣った顔を覗き込んだ。
「でもね? ある日、ミヅキちゃんが、泣きながら僕のところにやってきたんだ。あのね、お父さんとお母さんが亡くなったんだって。殺されたって。許せないって、それで、誰が殺したのか、聞いたんだよ。ねえ、誰が殺したんだと思う?」
タケヒロが何も言う前に、ふっと、堪えきれないというように口角を上げた。
「弟が。ミヅキちゃんの弟が、お父さんお母さんを殺したんだって」
――弟?
聞いているようで、何も理解できなくて、でも一単語、耳に引っかかったものを手繰り寄せると、共に引き摺り出されてくる。頭に詰め込まれてこんがらがっていたミソラの声がやっと言葉として意味を持った。回想しかけて立ち止まる。そこにあるべきでない、耳馴染みする音があった。
ワカミヤ……ワカミヤミヅキ。
ミヅキちゃんの弟。
「僕が殺したかったのは」
ふわりとタケヒロが目を見開いたとき、ミソラはもう、笑ってなどいなかった。
ただぼそりと呟いた。
「あいつだよ」
どこかの喧騒や、突風が攫って行ってくれればよかった。
辺りは静まり返っている。空気も底冷えするばかりで、風は陰気な裏路地を避けて通っているようだった。
やがてミソラがぷっと吹き出し、足を揺らし腹を抱えて笑い出したとき、やっと理解がいった気がした。冗談を言ってタケヒロが欲した通りに驚いたから笑っているのだと思いたかったが、きっとそうではないこともどこかで分かりはじめた。だが、ドラム缶の上でもんどりうつようにして笑っているのが友人であることをまだ信じられなかったし、そいつが言ってのけたことなど。
ミソラがずっと殺したがっていたのが、ずっと隣にいた『あいつ』だなんて。
「っはっはっは、笑うよね! あーあ、どうして気付かなかったんだろう!」
「……な、何言ってんだよ、ミソラ、お前」
「ねえねえ、タケヒロ知ってる?」
がばりと身を起こし、友人は目をきらきらと輝かせる。
「ヒガメで知ったんだけど、ポケモンの記憶を消せるポケモン、っていうのがいるんだよね。僕、記憶を『失った』んじゃなくて、『消された』んじゃないかと思うんだよ。『あいつを殺さないといけない』っていう記憶を」
楽しげにドラム缶から飛び降りる。細い脚が地を鳴らし、砂埃があがる。
「仮説なんだけど、僕、記憶を失う前、ココウの近くまであいつを殺しに来てたんじゃないかな?」
長い金髪を光の中で躍らせながら、ミソラはくるりと振り返った。
「それで、砂漠で偶然あいつを見つけて、殺そうとして、でも、殺し損ねて、僕は気絶させられた。そこでメグミか誰かの力を使って、僕の記憶を消したんだよ。そして、記憶喪失になった僕を、何も知らないふりをして連れて帰った。僕やミヅキちゃんに対する報復のつもりだったのかな? まるで命の恩人みたいな顔をして、僕があいつのことを好きになるように仕向ければ、僕がこうやって苦しむって知っててさ。それでこんなことをしたんだよ」
滔々と言い切ったあと、小さく溜め息をついた。
笑っていたが、冷え切った残酷な双眸だった。その目のまま、小さく肩を竦めた。だがその行為と裏腹に、ミソラは最後を述べる前に、タケヒロの前でもう一度、微かに躊躇を残した気がした。
「……。ホンット、最低の屑だよね」
その時、空色の最奥で、火花のようなものが散るのを、タケヒロは確かに見たのだ。
余韻が流れる。タケヒロは足裏で少しだけ砂利を鳴らした。ミソラが何を言い出したのか、最初は全く分からなかった。理解したくもないと思った。だが、ミソラが台本を読み上げるようにトウヤを罵るのを聞いていると、逆に段々と冷静さを取り戻していた。
ポケットに手を突っ込む。ツーとイズ、二羽のボールがその中で沈黙している。取り出して、投げて、二羽を出してそれで、何かが起こる訳でもない。ミソラがココウを発つ前、スタジアムで二羽と共にミソラに立ち向かって、敗北を喫した。あれから自分たちは何も変わっていない。勝てるはずがない。だが、今二羽は間違いなく、ボールの中で身を震わせて怒っている。ならばまだ、負けてはいないのだ。
僅かばかり目を閉じる。瞼の裏に、楽しかった時の記憶を蘇らせようとした。ミソラが、トウヤの傍で、呑気にニコニコしていたような思い出は、いくら塗り潰したってその下に、ちゃんと残っているはずだった。
「……自分が何言ってるのか、分かってんのか」
腹に力を込め、眉間に気を集める。一歩踏み出す。ミソラは鋭い目をしたまま黙っている。
「ミソラ、お前、あいつにどんだけ恩があると思ってんだ」
「知らないよ、そんなの」
「お前が思い出したことが正しいって、どうやって証明するんだ。証拠があるなら出してみろよ」
食って掛かろうとしたタケヒロの前に、自分の言葉に呼応するような光景が、突然フラッシュバックした。
――トウヤの部屋で見た。彼の『両親と男の子の三人』の家族写真の裏に挟まった、『両親と女の子の三人』の家族写真、あのぐしゃぐしゃに握りしめられて、血で汚れていた、隠された二枚目の不気味な写真。
息が詰まる。それだけじゃない。立て続けに蘇る。ミソラとリナの試合を二人で観戦した時だ。
『どうして、人を殺しちゃいけないんだ?』
意味が分からなくて受け取りかねた映像と声が、一閃を放って繋がっていく。
『僕は、』
『殺したことがあるぞ』
「……証拠? 自分の記憶なんだよ? 正しいかどうかなんて自分で分かるよ」
タケヒロの狼狽にミソラは気付かなかった。鬱陶しげに眉根を寄せながら早口に続けた。
「あいつが殺した。あいつが殺したんだ」
違う。絶対に違う。
脳裏に過ぎった光景を頭を振って掻き消し、少年は呻く。
「人なんか殺せるような奴じゃねえんだ」
「それこそ証明できないじゃん」
「俺はなァ!」
叫び声を上げていた。ミソラの言い分を否定するより、自分の中に過ぎった微かな疑念を振り切るための悲鳴だった。およそ冷酷な目で見下しているはずのミソラの顔が、だから見れなかった。
「俺はお前よりあいつと付き合い長ぇんだよ!」
「だったら、何なの?」
下げた視線の中で、向かいの拳もぐっと固くなった。
「半年も一緒に住んでたんだよ? タケヒロより知ってるよ」
「たった半年いただけのお前に何が分かんだ」
「ずっとあいつを避けてた癖になんで今更庇ったりするのさ」
「んなこと出来ねえ奴だって分かってるからだよ!」
「タケヒロだって化け物とか言って嫌ってたじゃん!」
「――心底嫌ってなんかねえよふざけんな!!」
腹の底からあげた怒鳴り声で自分の身体が震えていた。
言葉でどれだけ塗り潰されても。鮮やかに思い出せるものがある。写真なんか知らねえ、気味が悪いこと言ってたって、タケヒロが右も左も分からない雛鳥だった頃、色々と尽力してくれた姿も隣で笑っていた姿も、タケヒロを馬鹿にした連中のところに一人乗り込んでボコボコにした背中も、はっきりと思い出せる。ミソラはそのどれも知らなかった。知らずにあれだけ盲信して、今度は知らずに否定した。どうしようもなく腹が立つ。悔しくて悔しくて仕方なかった。
「殺さねえよ、あいつは、親なんか、殺さねえ、絶対だ、いいか」
まだ顔を上げられなかった。自分の拳が震えているのだけ見ながらタケヒロは言った。
「お前は知らねえだろうな、でもあいつはな、自分の家族が好きでずっと迎えに来るのを信じて待ってて」
どんどん口から零れ出ていった、止まらなかった。言えば言う程確信した。タケヒロの知るトウヤの人物像で親を殺すなどありえないこと、そして、
「あいつの親が死んだって連絡が来た時も葬儀にも出れなかったってめちゃくちゃ悔しそうにしてたし、俺の、……ッ、俺の」
言えばきっと、ミソラが理解してくれることも。
話せばわかるはずだった。そのためにこいつに話せないことなど、タケヒロには何もなかった。
「俺の、家族が見つかった時も! 嬉しそうに、家族って良いものなんだって俺に何回も父ちゃんや母ちゃんの話――」
「――は? 家族? タケヒロに家族なんかいないじゃん」
声が突き刺さる。
すっ、と熱が冷えて、信じがたい気持ちで、タケヒロは顔を上げた。
じきに消えかかる三日月みたいに、目を細めて、ミソラは肩を竦めて失笑した。
「何言ってんの、大丈夫? おかしくなっちゃったんじゃない?」
家族の話するよね、嬉しそうに。なんなんだろうねあれ。あんなに上手に嘘がつけるものかなあ。凍りついたタケヒロからいとも簡単に目を逸らして、背中で腕を組んで、ミソラはゆらゆらと辺りを歩いた。
さも楽しそうに、唇を突き出して考えているミソラの顔を見ながら、何か、心の中に、かろうじでバランスを取って積み上がっていたものが、がらがらと音を立てて崩れていく様を、タケヒロは感じていた。
何が出来るか、じゃない。
今更だ。
俺の守りたかったものは、もう完全に壊れている。
はたと立ち止まって、ミソラはぽんと手を打った。それから平和的ににこやかに、明るく頬を弛ませて、ねえこういうのはどうだろう、と、こちらを振り返った。
「僕だけじゃなかったのかな? 記憶を失っているのは。
記憶喪失になってるのって、本当は、一体、誰なんだろうね」
確かな感触がした。
振り抜いた拳の先を見た。向こうに尻餅をついたミソラが、目を見開いてこちらを見上げた。赤らんだ頬を抑えた。じきにタケヒロの右拳にも、じんじんと熱い痛みが灯り始めた。
いつぶりに本気で殴ったのだろう。一番最初に、タケヒロがトウヤを馬鹿にして、それで喧嘩をしたとき以来だろうか。
「……ミソラ、お前は」
お師匠様を馬鹿にするなと言って泣き喚いて振り回していたほそっこい腕を思い出す。座り込んだまま、握られた向こうの拳は、まだほそっこいままなのに。
目の奥から苛烈な怒りがこみあげてくる。
「お前は、お師匠様お師匠様っつって、ずっと甘ったれてればよかったんだよ。よかったのに、なのに、なんで、……――ッ!」
カッと目の前に光が弾けた。
吹っ飛ばされていた。
どしゃんと背中から落ち、肺が圧されてゲホッと息が爆ぜた。途端口の中全体にぶわりと鉄の味が満ち溢れた。その瞬間、顔が変形したのではないかと思うほどの痛みが左の頬から猛然と脳を揺らした。
意識がぐらつく。朦朧としながら、タケヒロは顔を上げる。
肩をいからせ、頬を紅潮させたミソラが、右拳をわななかせながら立っていた。
「強くなったでしょ、僕のグーパンチ」
腫れているような左頬と、右頬が不器用に歪んで笑う。
弱いと思っていた友人の、拳の強さこそ、友人と思っていた人が、気付かぬうちに遠くに行ってしまった、そのなによりの証拠だった。
「僕、――あの人を殺すために、あの人に鍛えてもらったんだ」
*
床を拭いているうちに酒の匂いに耐えられなくなって、結局吐いてしまった。
元から何も入っていなかったのだが、胃液だけ逆流させて尚、体は必死に無いものを吐き出そうとする。空っぽの胃が狂っている。嘔吐感が止まらない。便所に蹲って喉奥が切れるまで咳き込み続けていた。制御が効かなかった。それがあまりに壮絶なものだから、少しもしないうちに扉の向こうから、ハギの気遣う声が聞こえた。
大丈夫です、と答えながら、とにかく言い訳を考え続けた。
「――風邪を移されましたかね、ミソラに」
ついに顔色の悪さも指摘された。これまでの努力がすべて水泡に帰した気がして、徒労感がどっと体を支配した。
階段を上がる気力も無い。吐き気が我慢できる程度にまで落ち着いてからも、トウヤは暫くカウンターに突っ伏していた。水を出してくれたが飲める気がしない。未だ眩暈が酷い、何も受け付けそうにない。
「向こうの宿を出てすぐだったんですが、野宿してる間に寝込みを襲われまして」
隠し通すよりは得策だろうと、昨晩の方の傷口を見せて、用意したシナリオを並べた。叔母が痛々しい表情で覗き込んでくるのに耐えられず、トウヤはずっと視線を泳がせていた。
「ヒガメのあたりは野良もレベルが高くて。ハリとハヤテがすぐに追い払ってくれたんですが、……怪我をしたのがミソラじゃなくて幸いでした」
「ミソラちゃんは、どうしたんだい。走って出て行ったけれど」
「あいつ、僕が怪我をしたのも、自分が風邪で寝込んでいて庇われたからだと勘違いしていて」
とんだ嘘っぱちだ。ミソラが聞いたら今度こそ殺されてしまうかもしれない。
本当のことなど、言えるはずもない。ミソラはかなり前から誰かを殺したがっていて、その誰かというのは実は僕のことで、昨晩殺されそうになって、だから自分で自分にナイフを突き立てたんです、なんて。笑い話がいいとこだ。
昨晩のことを思い出そうとすると、向けられていたナイフの切先よりも、ミソラの声と、涙ばかりが思い出される。自分を貫いた瞬間の痛みさえいまいち実感として残っていない。
……ミソラが悲鳴をあげていたら、錯乱して飛び込んだ先が洗面所でなく叔母の寝室だったとしたら、物音に気付いて叔母が目覚めていたら、もう全て終わっていただろう。だが起きてきたのはヴェルだけで、その時トウヤは血塗れの布団の上にこそいたが、メグミが傷口を塞いでしまったあとだった。ミソラが深夜の町に飛び出してしまわないように仕向けたハリは、ちゃんとミソラを連れて二階に戻ってきた。自室にこそ入らなかったが、廊下の隅で膝を抱えて蹲ったミソラはそのまま大人しく眠りにつき、朝を迎えた。ギリギリのラインだが、持ち堪えた。いずれ失うものと言えど、最悪の形は免れた。
だから、ここも、上手く躱せば、まだ長らえることができるはずだ。
「……自分の責任だと気にしてるんでしょう。タケヒロが追いかけてくれたんで、大丈夫だとは思いますが」
一切合切誤魔化せるとはもう思っていない。随分とボロを出してしまった。筋が通ったことを言っているのかどうかもいまいち自信がなく、尻すぼみに声を落としながら、トウヤはちらりと顔を上げた。
怒りと恐怖がない交ぜになったような顔をしてハギは黙っていたが、ややあって、大きな溜め息をひとつ落とした。
「おばちゃんが心配してること、分かって頂戴。トウヤ」
「……はい」
「ミソラちゃんのことだけじゃないのよ。あんたに何かあったら、スグルとキョウコさんからあんたを預かった私も、天国の二人に顔向けできないからね」
隣の席からハギが立ち上がる。怪我をしていない方の肩を優しく叩かれた。
「あんたの帰りを待ってる人がいること、忘れたらだめだよ」
背中側から注がれた言葉は、普段の状態で食らっていれば、うっかり涙腺が弛むくらい温かく感じられたのだろう。だが今のトウヤにはやたらと胡散臭く感じられて、上手く飲み込むことができなかった。
のそのそと足元にヴェルが寄ってきて、尻尾を絡めながらトウヤを見上げてくる。自分も辛いだろうに、どことなく案じるような表情。
「……すいません」
やっとそれだけ返すと、謝ってばかりだね、とハギが苦笑した。
暫く他愛もない話をして、そろそろ二階に上がろうかとトウヤが立ち上がった時、言い忘れてたとハギが手を打った。意味もなくトウヤはギクリとしたが、飛び出してきたのは思いもよらない話題だった。
「あんたが留守の間、フジシロさんからまた電話があってね」
「カナから?」
「いないと言ったら、また連絡するって言ってたけど。なんだか浮かない声でねえ」
浮かない声。あっちは結婚前で、幸せの絶頂にいるのではないのか。
「用件は何も言いませんでしたか」
「ええ。言伝すると言ったんだけど断られてね。おばちゃんが思うに、マリッジブルーってやつね、あれは」
にやりと、訳知り顔でハギが笑う。トウヤは適当に愛想笑いを返して、階段へと向かった。
馬鹿だな、と、誰にともなく、内心で毒吐く。
マリッジブルー、と言う奴だとして、――一体何故、僕に相談する必要があるんだ。あいつには旦那がいるじゃないか。同性の友人もいるし、エトはいないかもしれないが祖母も祖父も家に残っている、なんなら異性の友人も、僕以外にもハシリイに山ほどいるだろう。何を勘違いしているのだろうか。阿呆らしい。
およそ、『やっぱり式に来てくれるな』というくらいの、碌でもない連絡だろう。トウヤは半ば確信すら持っていた。
カナミの結婚相手のアキトという男はまともな人間なので、自分の事をよく思っていない。そのことをトウヤは前から弁えている。そりゃ、結婚しようという相手の元カレが身内ヅラをして家に上がり込んで何日も寝泊りしていれば、よく思えと言う方が無理な話だ。おかしいのはその男を結婚式にまで招待しようとするカナミの無頓着さで、そこに知らぬ顔で付け込んで甘えられる自分の図太さなのである。自分絡みで喧嘩をされて結婚の話が破綻するなど、たまったもんじゃない。それならこちらから願い下げだ。
『トウヤ、昨日の、もう一回治してあげよっか』
主人の心情が棘立っているのを宥めるように、メグミの柔らかな声が流れ込んできた。
誰もいない自室の戸を閉める。息をつけるような場所ではなかった。血の匂いが籠るのが嫌で窓を開けっ放しにしていたから、冷え冷えとした風が流れ込み続けている。
「体調は?」
『平気よ』
「晩だってそう言ったろ。お前の『平気』は信用ならない」
『そっくりそのままお返しします、――って、ハリが言ってる。ふふ』
赤と白の竜が飛び出して、座り込んだトウヤの右肩に触れる。
昨晩絶不調で表面しか塞げなかった『癒しの波動』の光が、今度は内側まで浸透した。軽く肩を回すが、痛みはおろか、違和感まで完全に消え去っている。技を掛けられて体を治されるたび、自分が化け物に近づいていくような気がしてならなかった。
『治った?』
「無理させてごめんな。頼むからもう少し休んでくれ」
『そっくりそのままお返しします、って、』
「ハリが言ってる?」
『ううん、はずれ』
ハヤテも言ってる、とメグミは笑った。
ボールに戻して、一息。久々に一人になった気がした。端に寄ったカーテンが重たげに揺れるのを漫然と眺めていたが、ふと思い出して、顔を上げた。
押入れの上の長押に、黒の見慣れないスーツが一着、ハンガーに掛けられている。
顔も分からぬハギの夫か、もしくはどこかから調達してきてくれたのだろうか。随分と大きい、合わせるまでも無くぶかぶかに見える。着る機会さえ結局なさそうだが、頼んでもいないのに用意していてくれたのだから、お礼くらいは言わなければなるまい。あまりにもゴタゴタして言い忘れていた。
血が飛び散らなくてよかった。早く返してしまおう。だがその前に、それを着て出かけていくかもしれなかった光景に一瞬だけ思いを馳せてしまった途端、よからぬ思い付きが、トウヤの頭を支配した。
血塗れになった布団と一緒に、このスーツも燃やしてしまえばどうだろうか。
……めらめらと燃え上がる火の手、溶け落ちていく布と黒い煙。幸福な景色も悪夢も日常も、燃えれば等しく灰になる。花嫁姿の彼女の傍にちょっとでも居られると期待した先日の自分にも、唾を吐きかけよう。ざまあみろ。想像すると少しだけスカッとした。実行できる度胸などあるはずもないが。
ともあれ、今のところ押入れにしまい込んでいる布団だけは、今日中にどうにかしなければならない。
時計を睨み、ハギが晩の営業の為買い出しに出ていく時間を予想する。裏庭で燃やせば厄介な焦げ跡が残るだろう。町の外まで運んで燃やすか。メグミの飛行能力と擬態能力を使えば簡単に持ち出すことが出来るが、今日はこれ以上負担は掛けられない。洗って流せるならそれでもいいが、一晩寝かせた血液というものはそう簡単に落ちてくれるだろうか。
ならば、どうする。
思考が止まりかけた時だった。トントン、と控えめに扉を叩く音がした。
迎えてやった廊下には、片耳の大兎が、しょげた顔で立ち尽くしてる。
「リナ。ミソラと一緒じゃなかったのか」
言ってから振り向き、ミソラの肩掛け鞄が床に放られたままであるのを確認した。いつの間にボールから出たのだろう。
ちょこちょこと部屋の中に入ってきて、不味そうな顔でこちらを見上げるニドリーナの心情を、トウヤははかりかねていた。主人がああでは無理もないが、普段のリナの様子から、今はかなり逸脱している。焦っていないところを見るに、ミソラに何か起こって伝えにきたのでもなさそうだ。
大きな赤目が、いたく不安げな、自信のなさそうな色をしている。あとからのそのそと入り込んできたヴェルは、階段を昇ってきたからかゼェゼェと息を切らしている。そのごま粒のような小さな黒目が、キッ、と、非難するように、こちらを睨んだ。リナに本当のことを聞いたのかもしれない。
その目を見て、ふとトウヤは思い当たった。
リナは迷っているんじゃなかろうか。
「……リナ、いいかい」
腰を下ろして、目を合わせた。おどおどとしつつもしっかり視線を交えてくるリナの表情を覗き込む。頭を撫でようと手を伸ばしかけたが、やめた。自分はリナの『親』ではない。ミソラがトウヤに手を掛けることができなかったのは、こうやって中途半端に、自分が手を差し伸ばし続けていたからだ。
「お前の主人は、誰だ」
トウヤは真剣な声で問うた。
ひくりと水色の体躯が震える。一足後ずさりして、低く鼻を鳴らした。
嫌々をするように首を振る。片方しかない耳が揺れる。
トウヤは小さく苦笑を浮かべた。嫌われていたと思っていたのに、いつの間に手懐けてしまったのだろう。申し訳ないことをした。嫌いなままでいさせれば、辛い思いもさせずに済んだのに。
ミソラのこともそうだ。愚かで浅ましい『師匠』のことを、せめて恨んでいて欲しい。
「リナ、じゃあ、お前の命を救ったのは、一体誰だったんだ?」
突き放すように強く言った。
はっとリナの目が見開いた。
その後ろ脚に力がかかった瞬間を、トウヤは見逃さなかった。反射的に滑った右手が右腰のモンスターボールを叩いた。開閉スイッチが押し込まれ弾ける。部屋が閃光の真っ白に潰れる、何もない視界に短い咆哮が轟く。刹那。
――『従者に』突き飛ばされて、トウヤは背後の本棚に背中から激突した。
上段には何も入っておらず、何も落ちてこなかった。本を売り払っていてよかった。目を開けたとき、トウヤが先程までいた場所には、牙と闘争心を剥き出しにしたリナが唸っていて、それから自分を庇うように、呼び出した草色が戦闘態勢で構えていた。
『主人の仇を代わりに殺そうとした』リナが、即座に諦めて部屋を飛び出していく。一気に高まった緊張が、一気に弛んだ。シンと音の鳴るような静寂が走った。だいぶん遅れて高揚しはじめた心臓が、胸の中央で今更存在感を放っている。なんと滑稽なのだろう。
姿勢を弛め、ぬるりとこちらを振り向いたハリは、顔面一杯にうんざりしたような感情を貼り付けているではないか。
そんなに豊かな表情が出来るのか。長年の連れの見たことのない様子に、トウヤは思わず噴き出した。
笑い始めたトウヤの前で、がっくしとハリが肩を落とす。よたよたとヴェルが近寄ってくる。トウヤはヴェルに手を差し出した。その手があと少しで鼻先に触れるまで近づいた時、ぶっとヴェルの頬が膨らんで、『水鉄砲』を噴射した。
ぴゃっと顔面に水が掛かる。獣の生臭い味がした。
……一拍制止し、またからからと笑い出すトウヤに怒りの鼻息を何度も浴びせて、相変わらず豊かな贅肉をたっぷりと揺らしながら、元気が無かったはずのヴェルがどしどしと部屋を出ていく。びしょびしょの顔を拭う。寒くて仕方ない。『頭を冷やせ』とでも言いたいのだろうが、もっとやり方があるだろうに。
笑いの余韻を吐き出してから、トウヤははたと気づいた。
不思議だ。空っぽになっていた器に、また水が満ちてきたような。
湧き出してくるのか、注がれたのか。両方だろうと思う。死にかけていた感情が息を吹き返した経緯を辿ると、どうもカナミに対する理不尽な怒りが契機だったような気がした。
顔を上げた。ハリが視線を追い掛けた。二人して、まだ燃えていないスーツを見上げた。
来るなと言われても乱入してやろうか。……いや、式など最早、どうでもいい。妄想に不敵な笑みを浮かべた主へ、従者は顔を戻して小首を傾げる。瞼の裏にくっきりと浮かぶ。鮮やかな夏空の下、長い坂道の上にある、広々としたあの家へ。次の夏を迎えられたら、また大好きなあの場所へ行こう。で、赤ん坊を抱いてやろう。図々しいって? 言いたきゃ言えばいい。僕は死にそびれたあの時からずっと、そういう生き方をしてきた男だ。
弾むように立ち上がる。相変わらず体は重いが、心は羽にでもなり変わったか。
「行くぞ、ハリ」
昨日の晩、底は脱した。これ以上窮地もないだろう。あとは這い上がっていくだけだ。
頼もしいばかりの相棒が、一瞬だけ、固まった。
呆れたように目を細める。それから息をつき、大きく頷いた。