10−2
手からどす黒い色が溶け出して、排水溝に吸い込まれていく。
無我夢中で擦り合わせる。固まってはいなかった。指の皺に沁みこんだものも爪の下に入り込んだものもすぐに流れ落ちていった。荒れた己の息遣いと、水音。やたらと騒々しく聞こえる。目に見えるすべてを洗い落とすと次に口を濯いだ。しつこく何度も濯いだが吐こうとまでは思わなかった。口の中にはもう臭い水道水の匂いしか残っていないはずなのに、その味で何度上書きしても、先に味わった感覚が消えない。既に舌ではなく、脳にこびり付いてしまっていた。
諦めて、もう一度両手を明るみに翳して、血の跡が消えたことを確かめた。手のひらを幾度も裏返して確認したあと、自分が今浴びているこの淡い光が何なのか、不意に疑問に思った。
顎から雫を滴らせながら、ミソラは顔を上げる。
洗面台の脇、半開きの窓の、網戸の向こうから、月がこちらを覗き込んでいた。
やけに眩しい。普段より強い光に感じた。暗闇に慣れて開き切った瞳孔は、凛冽なその輝きを、最奥まで導き通した。
空虚な風の吹く、寒い夜だった。
床板の軋む音がした。顎を拭っていたミソラは、肩を跳ねて振り返った。
子供より幾分か高い背丈の、人の形をしたポケモンの影が、ひっそりとそこに佇んでいる。
動けなかったし、逃げる場所もなかった。声も出ない。とくとくと控えめに心臓が鳴るだけ。月夜に丸く切り取られた二つの真昼の空色が、被り傘の下から覗く、二つの濃密な月の色と、色を交えた。
いつも通りの、微笑んだような口のまま。
ノクタスのハリは、動かぬ子供へと歩み始める。
*
声が聞こえた。
叫び声……、だったかもしれないし、悲鳴に近い泣き声だったかもしれない。手のひらに収まっているモンスターボールを目にするが、それも今しがた力尽き沈黙したばかりで、中から声など聞こえるはずもない。ポケモンではないだろう。理由のない直感だったが、なんとなく、確信めいたものがある。多分当たっていると思う。
横から殴りつけるような突風が、顔に砂塵を吹きつけた。目に痛みを感じて、ミヅキは顔を覆った。
ヒビ郊外の砂の砂漠から、いつしか景色は岩石砂漠へ姿を変えた。白っぽい成分の砂礫は晴れの日は照り返しで目を焼くのだが、今朝は随分と穏やかだ。空を覆う、というよりも空そのものが色を失ってしまったような灰の雲が一面に垂れこめ、思い出したかのように時折、ごうごうと荒っぽい風が吹く。冬場のキブツ周辺は天候に恵まれないと聞いた。それに程近いココウもおそらく、そうなのだろう。
調査捕獲したモンスターボールを腰のホルダーに引っ掛けて、目を擦りつつ振り返る。
地図を囲んでああだこうだと言っている第七部隊の面々から少し外れた場所で、訝った様子で、少年がこちらを見ていた。
「目、大丈夫ですか?」
突風の名残りにやや長めの髪を揺らしながら、彼がミヅキに問うた。その左腕には、昨晩本部から届けられたばかりの真新しい腕章が、金色の刺繍を頼りなく光らせている。
「平気、平気」
手を振って答えると、微かに口角を上げ微笑んで、エトは小さく頷いた。ツンとしているが素直で愛らしいこの少年と接していると、ミヅキはつい考えてしまう。
あの時、何も起こらなければ、今頃トウヤとも、こんな風に話をしていたのだろうか、と。
顔を忘れた訳ではない、似ていないだろうことは分かるのだが、なら大人になったトウヤをイメージできるかと言われると、それが全く分からない。出会ったばかりのこの少年に、十二年前に離別したきりの弟の存在を重ねていることは、ミヅキ自身も奇妙だった。ただ、こんな感じであればいいな、なんて、思うくらいは許されるだろう。
キブツは近い。キブツで部隊の任務を終えたら、ココウに立ち寄ることが出来る。そこにどんな顔をした弟がいて、どんな言葉で話すのだろうか。……進路を定めたのか、隊員たちが次々と立ち上がる。合流するため歩き出した。その時背中を押すような強い風がまた吹いて、耳の横に垂らした髪がばさばさと顔の前で揺れた。
先程聞こえた『声』は、もしかして風音の聞き間違いだったのだろうか。それなら分かるような気がした。
踊り狂う黒髪の隙間から、ふと空を見上げる。
灰色一面の空。その灰色の向こうにあるはずの、本物の青い空の色。
『もう一人の弟』のことを、何故だろう、ミヅキは思い出していた。
*
死神、疫病神――という類いのものが憑いているのなら、話は早い。祓ってもらえばいいだけの事だ。だが、自分は無神論者なのである。
深めの小皿に入れた少量のポケモンフードへ、人肌に冷ました湯を注ぐ。ペースト状に解し潰した物体を、ひと匙口に運んでみる。獣特有の臭いが元より更に増幅されて鼻へ抜ける。ペレットの方が幾分マシに思えるが、あくまでそれは人間の感性なのであるから、聞いてみなけりゃ分からない。
皿を持ってカウンターを出ると、酒場の隅で蹲っているビーダルの傍へ、トウヤは腰を下ろした。
鼻先へ差し出し、促すように、口元を小突く。少ししてから、億劫そうに瞼が上がる。
ヴェルが飯を食わなくなったのはつい二、三日前のことだそうだ。帰宅したトウヤにハギはヴェルのことを「また」飯を食わなくなったと説明して、「でもこの間みたいにそのうち元気になるだろう」と楽観的な様子を見せた。だが、トウヤは何となく、前回とは違ったものを感じている。
鼻を何度かひくつかせて、ヴェルがのろりと顔を上げ、トウヤと目を合わせた。
今朝、固形のポケモンフードを拒絶され、好んで食べる白米もよそってやったが駄目だった。どちらも物欲しそうに見はしたが、諦めたように首を振った。ヒトも自分の命が自然に消えていくとき、死に際というものを察することが出来るらしいが、ヒトより野性の残るポケモンならば尚更だろう。昔に一度だけ、衰弱していくポケモンを看取ったことがある。ヴェルの今の濁ったような目の色は、あのときの目に似ている気がしてならなかった。
生きているものは、みんないつか死ぬ。
あとどれくらい生きられるのか、目安にされる数字がある。野良か手持ちか、日常的にバトルをするかしないか、種だけでなく生きる環境によって、それは幅広く流動する。身繕いを怠ってみすぼらしい姿になったこの老ビーダルが、ペットとして飼われるビーダルの平均的な寿命をそろそろ越えようとしていることを、トウヤはちゃんと弁えている。
だが。
死神よ、疫病神よ。信じちゃいないが、運命の女神よ――今じゃなくたっていいじゃないか。そう思わずにはいられないのである。この家に災厄が降りかかっているとして、自分が撒いた種なのだが、こればっかりは。亡くした子供の代わりのように獣を可愛がっていた叔母の失意を案じるだけではない。家族同然に愛しているのは自分だってそうだ。ココウに来たばかりの頃、寂しさを必死に押し殺していた自分の傍にずっと寄り添っていてくれたことも、ミソラが『思い出した』あの日、裏庭でヴェルに背中を擦られて泣いたことも、トウヤの心の中に杭打たれて、ここまで繋ぎ止められてきた。ヴェルが興味を失って、気怠そうに目を閉じ顎を下げる。しっかりしろと言わんばかりにがしがしと首元を撫でると、嫌そうに鼻を鳴らしながらまたこちらを向いた。
「置いていかないでくれ。頼むよ」
冗談めかして言うつもりが、口から出たものは存外に切実に響いてしまった。
唇を噛むようにして笑う男の顔をじっと見つめて、……薄目でねめつけてから、やれやれと言った様子で、ヴェルは小皿へ鼻先を突っ込んだ。
舐めるようにだが、食べ始めた。どっと脱力した。大きな溜め息をついて、トウヤは肩を落とした。
ヒガメから帰宅した翌朝。目まぐるしく季節が進行する時期だ。だいたい十日ぶりに迎えるココウでの朝は、体が覚えているより随分と冷え込んでいる。昨晩はまだ晴れ間もちらほらと拝めたが、今は分厚い雲がすべて覆い隠している状態だ。覆う、というより、まるで空一面が色を失ったかのようでもあった。ココウの冬場と言うのは殆んどこんな空模様で、冬の陰鬱さは着実に迫りつつあるのだが、――という空を見ようと顔を上げると、窓の向こうと、ばっちり視線がぶつかった。
よく焼けた小麦色の肌は、まだ夏の残り香を引き摺っている。その中に映えている大きな双眸が更にぎょっと見開いて、勢いよく飛び退いた。どうやら見られていたらしい。
恥ずかしそうに咳払いをしながら、タケヒロが入店してくる。大分前に自分がやったカーキ色のダウンを着ていた。
「いらっしゃい」
「み、見てねえからな別にお前のことなんか、何食わせてんのかなって思っただけだからな」
聞いてないのに早口に言い訳を捲し立てて満足したらしく、すぐに平生のご機嫌を取り戻した。小汚いブーツの厚底を鳴らしながら家の奥へと向かおうとした。
「言ってたより早かったじゃねえか。ミソラは? 上か?」
にこやかな顔が通り過ぎる。まずい。
「待て、今は」
引き止めようと、トウヤは立ち上がって、――急に何も見えなくなった。
どんな風に崩れ落ちたのか分からない。気付いたら床に蹲っていて膝に打ち付けた痛みがあって、視界が白んで酷く眩暈がしていて、顔を上げると、当然タケヒロが驚愕していた。歩きかけた格好で固まっている少年と長らく目を合わせて、ようやく状況を把握した。立ち眩みを起こしたらしい。
「だ、だ、大丈夫か」
何でもないと返そうとして急に吐き気がせりあがって、口を抑えて、代わりに何度か頷いた。背後からのそのそとヴェルが近づく気配がする。目の前にタケヒロが座りこんで、窓越しに見たのと同じような表情で、トウヤを覗き込んだ。
「やっぱり見間違いじゃねえよな、顔色悪いぞ?」
心配げな声が言う。
なんとか吐き気を飲み下せた。なんかあったのか、調子悪ィのか。率直に気遣ってくる十も年下の少年に、トウヤはとりあえず苦笑を見せた。
なんかあったのか、と問われても、原因に思い当たる節がありすぎる。
まともに眠っていない、まともに食っていない、ヒガメでは死ぬかというような目に遭って、そして昨晩も。首の付け根、右肩の内側、自ら刃を立てた箇所から、やはりそれなりに出血した。自分で縫おうとしたがメグミが『癒しの波動』を掛けてくれて、けれどメグミも連日の移動で疲労があり、完治しているとは言い難い。ケロイドのように腫れている傷口の下には、件の薬の鎮痛作用も切れていて、鈍い痛みが疼き続けている。
どれも説明できない。だが、言い訳を考えられるほど頭も回らなかった。
「……平気だよ、驚かせたな」
片手であしらい、今度こそ慎重に立ち上がったトウヤに、タケヒロはむっと眉をひそめた。
「お前なあ、……せっかく心配してやってんだぞ」
「タケヒロに心配してもらうなんて、僕も落ちたもんだな」
からかうように見下ろすと、また照れて唇を尖らせる。だがそこで終わらなかった。
「冗談言ってんじゃねえんだよ」
窓の外へ目を逸らしながら、ぼそぼそとタケヒロは続けた。
「……なんか、この間ミソラと話したとき、お前が寝てねえとか言ってたり……アズサも痩せたんじゃねえかって……。俺たちにも心配くらいさせろよな」
最後にちらりと、咎めるようにこちらを見上げる。
思わぬ追撃を食らって、トウヤは言葉が出なかった。
何を、だろう。体調をか。それとも、その先にあるものか。心配させろ。どういう意味だ。自分で撒いた種だ。自分で片をつけなければ。心配、させろよ、だなんて、言われたところで、どうしろと言うのか。心配されたところで、これ以上騒ぎを大きくして、一体どうなる。
今、目の前で優しさを見せつけてくるこの少年も、本当のことを知ったら、どんなに蔑んだ目で自分を見るのだろうか。
色々な靄が胸の方で沸き上がって喉を塞いだ。自分が何を考えているのか、どういう感想を持ったのか、自分でもうまく整理できなかった。トウヤが閉口したのをどう受け取ったのか、タケヒロは頬を掻きながら、今度は家の奥――二階へ続く階段の方へ目を向けて、こう言った。
「今お前が倒れたら、ミソラだって参るだろ。あいつ、色々不安定っつうか、お前だけが拠り所ってところあるし、俺的には悔しいけど……」
お前だけが拠り所。
ぞっとした。一瞬で肝が冷えた。内に溜まっていた靄は、瞬く間に薄氷の膜になって、喉の内側に貼り付いた。
暫し硬い表情で、目を合わせようとしないタケヒロを見下ろしたあと。
……ふとトウヤは微笑んで、カウンターの方へと歩き始めた。
「ソーダ飲むか」
「いらねえよ、寒いし」
そう言いながら律儀にカウンターに腰を下ろしたタケヒロが、まだ訝るようにトウヤを見ている。瓶を開け、氷の入ったグラスへと注ぎ移す。無数の泡が生まれては弾ける。
「ミソラ、風邪なんだ。移すといけないから今日は帰りなさい」
「移る訳ねえだろ? 俺を誰だと思ってるんだ」
お前みたいなヒンジャク野郎とは違うんだよ。いかにも口先だけの罵倒を吐きながら、自分の前へトンと差し出されたソーダ水を、タケヒロはまじまじと眺めた。
「飲んだら帰れよ」
嫌味ではないが、嫌に優しい口調。……疑問符の浮いた表情で、きちんと添えられたストローを摘まむ。そして大人しく飲み始めた。
離れている間のココウのこと、進化したてのツーの様子などを話すだけの暇があってから、呼び鈴が豪快に鳴り響いた。北風と一緒に吹き込んできたのは夏を具現化したような大男で、トウヤの顔を見るなり、「やっと捕まえた」と大声で呟いた。その発言をトウヤが疑問に思う前に、戸口に立ったまま、グレンは親指をグイグイと北方向へ向けた。開けっ放しのドアからびゅうびゅうと冷気が雪崩れ込んで、ソーダで体を冷やしたタケヒロがぶるりと震え、ヴェルが非難めいた視線を向ける。そんなことを彼が意に介するはずもないが。
「スタジアムに行くぞ、トウヤ。一戦しようや」
にやりと好戦的な笑みが浮かんだ、あまりにも『普段通り』の顔だった。ひっくり返った環境の中、彼の相変わらずな様子に触れると、思いがけず安堵している自分がいる。トウヤは内心で自分自身に失笑を向けた。
「暇じゃない」
「おっ、逃げるのか?」
「悪いが本当に暇じゃないんだ、昨日の晩戻ったばかりで」
「分かった分かった、じゃあ後で来い」
全然分かってねえじゃねえかと代わりに突っ込み、けらけらとタケヒロは笑った。背後でトウヤもつられてしまった。こんな風に笑っているのが随分久々に感じられる。馬鹿な話を、している場合かとも思うのだが、できるのは純粋に嬉しかった。束の間なのだろうが、その束の間が終わった後のことなど、本音で言えば、今は考えたくもない。
「僕と試合をしないと死ぬのか、お前は」
戸を閉め、グレンはタケヒロの隣にどっかりと腰を下ろした。
「暫くおらんかったろうが。どこに行っとった」
「んなことも知らねえのかよ、それでも友達かよ」
「おっ、そう言う坊主はトウヤと『友達』に戻ったのか? どういう風の吹き回しだ、憎き兄貴と二人きり、なんて」
「はぁ!? いやいやいや、ばっか、ちげぇよ俺はなぁ――」
「ヒガメだよ、わざわざヒガメまで行って、弾丸で帰ってきたんだ」
ヒガメ。かっと顔を赤らめたタケヒロのことをにやにやと眺めながら、グレンは街の名前を口の中で転がした。
「ミソラを連れてか?」
「そうだ。ゆっくりするつもりだったんだが、デカい大会があったらしくて柄が悪いのが多くて、とても子連れで観光するような雰囲気じゃなくてな」
「そりゃ災難だったな。ヒガメと言うと、何年前だったか、俺とも行ったろ」
二人で? どことなく羨ましそうにタケヒロが問う。トウヤは頷いた。
「史上最悪の旅だった」
「タケヒロ、その街の奥にな、ヒガメ峡谷ってダンジョンがあるんだよ。上級者向けの魔境で、かなり手強い野良がウヨウヨいるんだが、俺が無理だと言っとるのにこいつ勝手にトライしたんだ。そしたらどうなったと思う、たったの十分で半ベソかいて帰ってきたんだぞ」
「ココウの恥じゃねえか」「おい、話を盛るな」
これ以上暴露されたくなければ酒を出せ、と年長者が要求してくる。仕方ないので出してやった。子供のように悪戯に笑っているグレンと呆れ気味のタケヒロが並んでいると、数年前に戻ったような錯覚を覚えそうになる。
「あの時に泊まった宿の受付に可愛い姉ちゃんがいて、しかも峡谷の件を慰められて、お前『絶対僕に気がある』とか言ってしつこく飲みに誘ってたろ」
結局バラされるのである。少年が白々しい目を向けてくる。
「何しに放浪してんだよ」
「ココウじゃ周りの目があるからわざわざ遠方に出向いてナンパしてるんだぞ」
「グレンもだろ」
「お前もかよ……」
「残念ながら女には困ってないんだよなあ、俺は」
とくとくとグラスに瓶ビールを注いだあと、グレンは手を伸ばし、勝手に二つ目のグラスを手に取る。
「あの娘、まだいるんだろうかな。今回はどこに泊まったんだ」
珍しい事を聞いてくるな、と思いつつもすらりと答えそうになった。だがその瞬間、トウヤは一気に思い出した。
あの宿で、あの晩、誰にも言えないことが起こった。
――油断した。喋りかけた。背筋にぶわっと汗が噴き出るようだった。いかに自分が朦朧としているのか気付いた、冷水で殴られたほど覚醒した。変わらない顔に安堵し緩み切っていた気持ちを引き締めると、目の前にいる気の良い友人であったものが、面の皮だけを貼り付けた全くの別物のように見えた。
「……宿、なあ」
何かつまめるものを探すふりをして、トウヤは彼らに背を向けて冷蔵庫を開けた。
「酷い宿だったよ、値段の割に汚くて。名前はなんだったかな。ミソラも思い出したくもないだろう」
そんな大嘘をついた。何も見つからず、探してさえいないのだが、振り向くと、ん、とグレンがついだビールを差し出してきた。右腕を伸ばしてカウンター越しに受け取ると、昨晩裂いた傷口に、また引き攣るような痛みが走った。
あまり動かさない方がよさそうだ。さりげなくグラスを左手に持ち替える。
「それ、ビール? 飲んでいいの?」
とっくに飲み干して残った氷をストローで掻き混ぜながら、やや控えめにタケヒロが問うてくる。
「調子悪ぃならやめとけよ。さっきふらふらしてたじゃねえか」
「ふらふら?」
グレンが眉根を寄せる。トウヤは慌てて誤魔化した。
「ただの立ち眩みだよ。道中寝不足でな」
「ん? ……ああ、ハハハ」
言いながらグラスを持ち上げたトウヤの、その持ち上がった左手の、肌の人でない色を見て――一瞬きょとんとしたグレンが、すぐにまた破顔した。呆れたような笑い方だった。
「どこでやられたんだ?」
そして何食わぬ様子で言い当てた。飲みかけてグラスを傾けた手を、トウヤは思わず止めてしまった。
結局口を付けず、ゆっくりとグラスを下した左手に、グレンの、そしてその視線を追ったタケヒロの注目が刺さる。違うよ、とトウヤは笑った。平生の顔を取り繕えている自信があったが、すぐに否定を示したことそのものが、明確に肯定したようなものだった。
どこでって、何が? タケヒロがグレンに問う。グレンは白い包装の見慣れた箱から、煙草を一本手繰り寄せた。
「貧血でも起こしてるんだろ」
「……怪我してるってこと?」
ますます声を細めた子供の怖気づいた顔を見ると、急激に焦りが膨らんでくる。
「馬鹿言うな、怪我なんかしてない」
「子持ちの癖にまた峡谷に突っ込んだのか、それとも野良か?」
「違うって」
「じゃあ、どこだ」
突然、兄貴分である男の眼光が鋭くなって、それに睨まれてトウヤは怯んだ。
目の奥は煮えて見えるのに、全身に纏っていた快活さはさっと潮が引くように冷えた。空気が変わった、肌に突っ張るような緊張を感じて、不意に思い出した。ココウを出る前、グレンに最後に会ったのは、あの時のココウスタジアムだ。テラの件で突っかかって、珍しく言い合いになって、半ば喧嘩別れのような幕引きをしたのだ。謝りに行こうと思っていたが、思っていただけで、結局逃げるようにココウを離れていた。
背中側、廊下の方から、足音が聞こえてきた。ハギがこちらにやってくる。
「……してない、してないよ。適当な事を言わないでくれ」
トウヤの隣に立ったハギが、布巾の漂白を終えたタライの中身をシンクに流そうとした。微かなビールと、塩素の匂いが鼻を突いて、また吐き気を促してくる。見ず知らずの他人同士が閉じ込められているような、居た堪れない沈黙だった。遠くから聞こえる、ごうんごうんと洗濯物の回る重々しい響きの中で、品の無い音を立ててタケヒロが溶け出た氷を啜って、グレンとトウヤとを交互に眺めた。
異様な空気を感じたのか、ハギが不思議そうに甥の表情を覗く。トウヤはその目が見れなかった。
「……なんだ? 意地になって」
煙草をふかす男の声が低くなり、――先の口論で反撃を食らった瞬間が、鮮やかに脳裏に蘇る。
口では勝てない。テラの時とは違う。身を引く場所が見当たらない。
「そうだと言えばいいだろう」
「だから違うんだ」
やめてくれ、ここではやめてくれ。心の中で唱えつつも、頭はぐるぐると混乱して、どう言いくるめれば事が収まるのか、どう逃げればこの場を離れられるのか、何ひとつ案が浮かばない。何か出来るとすれば、耳を塞いで蹲ってやめろと叫ぶくらいのものだろうと思った。そうすることが出来るなら、どれほど楽か。
グラスに視線を下げて目を見なくなったトウヤに、フンと鼻を鳴らしたグレンは「何が違う」と一言置いて、悠々と煙を吐き出した。
「ヒガメか、道中か知らんが、甘く見ない方がいい。医者には掛かったのか」
「医者に掛からないといけないような怪我はしてない」
「貧血を起こすほどなら、放っておいたら悪くなるぞ」
「違うって言ってるだろ」
「あんた、怪我してるのかい」
そら、厄介なことになった。――見下ろす叔母に不安げな顔を向けられるのが、今のトウヤには心底こたえた。見え透いた嘘を言う心苦しさよりも、子供の頃、路地裏で大怪我をして泣かせた日から、怪我も風邪も悟られぬよう、散々気を遣い続けて、ミソラのことだって、危ないことをさせてくれるなと言われていたのに、このざまだ。ヒガメでのことをどう説明すればいいのか分からないのは、誰よりもこの人だったし、どうとも説明できる気がしないし、する気もないし、知られる羽目になる前に片をつけなければと、思っていた。その人の眠る家の二階で事を起こして、今でもまだ思っている。
騙さなければ。嘘を、上手な嘘をつかなければ。
「してませんよ」
上辺を撫でるだけの口が回る。耳慣れているはずの自分の声が、赤の他人の声に聞こえる。
「こいつが全部、妄想で吐いてるだけで」
「妄想なら良いんだけどなあ」
グレンが嘲るように言った。
笑いが漏れた。何故笑ったのか分からない。ただ、ぶちんと弦の切れるような感覚があった。
「もういいだろグレン」
勝手に喉が吐き捨てていた。タケヒロが身を竦めた。グレンは更に目を細め、
「自分で縫ったのか? いいかトウヤ、いつもそうやって、お前は――」
咎めるような語気で言って、何様のつもりで叱っているのだと、何も知らない癖にと頭が考えるよりも早く、
「――――いい加減にしろッ!」
気がつけば叫んでいた。
はっとして、トウヤが最初に目を合わせたのは、店の向こう端で硬直した、ヴェルの生気を欠いた顔だった。
自分の声が、こんなにこの場所に響いたのは、十二年来初めてかもしれない。たった数分前の会話の楽しさのすべてを無に帰す静けさだった。誰も何も言っていないのに、酷く責められた気がした。少し声を荒げただけなのに、取り返しのつかないことをしたような罪悪感が床から伝って足を這い、膝を震わせようとしていた。誰よりも顔を強張らせていたタケヒロがひくりと頬を上げて、場を取り持とうとぎこちない笑みを取り繕って、
「な、なにキレてんだ……、っ、おい、」
灰皿に煙草を潰して立ち上がった男の腕を取ろうとして、呆気なく振り払われた。
ハギが後ずさった。無言でカウンター内に押し入ってきたグレンの威圧するような表情に、睨み返せはしたが、トウヤは何も吐けなかった。頭が真っ白になっていた。
ぐわんと脳が揺れる。踵が浮いた。伸びてきた腕が胸倉を掴み上げていた。押し込まれ体勢を崩した。咄嗟でなくても成す術もなかった、食事も睡眠も碌に取っていない体が体格で劣るこの男に何か出来る訳もなかった。指が引っかかったグラスが倒れビールを撒き散らしながら落下した、落下したグラスが割れて飛び散った、ハギが短い悲鳴を上げた。酒瓶の並ぶ棚にトウヤが叩きつけられたのは、それと同時だった。
刹那、感覚が飛んで、空白があって、そのまま気を失えばよかったのに、すぐに戻ってきた。
一拍の後、もう一度、たくさんの硝子が砕け散る甲高い音がした。
棚から落ちた二つの酒瓶の濃い赤と透明の液体が広がり、足元で破片と混じりあう。力が入らず崩れかけたところを、胸倉を掴まれたまま引き摺り上げられる。酒瓶だろうかグラスだろうか、棚に押し付けられた背中の後ろでガチャガチャと何かが鳴っている。息が苦しい。強いアルコールの匂いが鼻の奥を突いて頭がぐらぐらした。首元を中心とした火箸を押し当てられたような痛みのあと、痺れが全身にまで回り、それでも睨もうとした男の顔の向こうに、口元を抑えて後退する叔母の表情が映った。
まるで化け物を見るような、怯えきった顔をしている。
「庇ったな。肩か」
顔を寄せ、グレンが低く言った。周囲に聞こえないよう声を潜めたのはもしかすると情けかもしれないし、脅しなのかもしれない。目の前にあるぎらぎらとした双眸に吸い寄せられるようだった、目が離せなかった。きっと僕はどうしようもなく情けなく映っているに違いない。
「……こっちはもう塞がってるようだが、左首も切られてるな。もう少し深く入っていれば頸動脈だ。危うくお陀仏だったな」
痣に紛れてばれんと思ったか? 再び胸を揺すられて問われたのが何なのか、強い痛みに霞みかける意識の中で、トウヤは考えることもできなかった。ヒガメでクロバットにやられた傷のことを言っていることは分かるが、だったら何故この男がそんなことで、こんなに激昂しているのか、まるで理解ができなかった。旅先で怪我をしたことも、まして死にかけたことも、別に初めてではない。しかもお互い様だったではないか。おばさんに隠し通していた怪我をあっさり見抜かれたこともあるが、難儀な立場だなと、あの時は呆れて笑うだけだったのに。
掴まれている拳が炎を纏ったような熱を放っている。目の前の額に汗が滲んでいる。何故だろう。
「手を離せ」
苦し紛れに一言発したトウヤに、グレンが浮かべた冷笑は、冷笑と言うが、痛烈な怒りが紛れていた。
「……トウヤ、お前、何を隠してる」
「お、おい、ちょっと落ち着けよ」
やっと介入しようとしたタケヒロに聞く耳を持たず、もう一度胸倉を締め上げ、トウヤが顔を顰めた瞬間、ふとグレンの手が弛んだ。
弛んだだけだった。放しはしなかった。視線がトウヤを離れ、二階への階段がある廊下の方へ向かった。そこに何があるのか、トウヤは察することも出来たが、顔を向けずにはいられなかった。
白を通り越して、不健康に青褪めている長い金髪の少年が、目を見開いてこちらを見ていた。その腕には大きなアチャモドールが抱えられている。
トウヤが目を合わせた途端、ヒッ、とミソラは身を震わせて、思い切り廊下を蹴った。グレンとトウヤの横を抜け酒浸しのカウンターを一心不乱に駆け、タケヒロに目もくれずに家を飛び出していった。誰も声を掛けられなかった、身動きも出来なかった、ヴェルだけがよろりと起き上がってガランガランと叫びをあげる呼び鈴の向こうを見ようとした、それを止めかけたトウヤの耳元で、破裂するような、笑い声がした。
一瞬だけ声を上げて笑ったグレンが、去っていった戸の方から、目の前の弟分へ顔を戻す。
「なるほどな」
彼の大きな左手が、昨晩の傷口――丁度ミソラが、いやトウヤが、果物ナイフを突き刺したあたりを、強く掴んだ。
稲光のような激痛が走って、今度こそトウヤは小さく呻いた。手を弾き飛ばした。カッ、と頭に血がのぼった。
「こっちの傷は」
「黙れ」
「ミソラが――」
「黙ってくれ頼むから!」
――やったんだな、という彼の声を、掻き消せたか分からない。ただ、そのトウヤの声を押し潰そうとするようにまた胸倉を掴み上げたグレンが、握り拳を振り上げた。
目が合った。
普段の朗らかさが嘘のような、惨たらしい、酷い剣幕だった。
その顔が急に憐れに見えたから、拳が真っ直ぐ飛んでくる瞬間を想像しても、トウヤは目を背けられなかった。
何故、友人が、こんなに怒っているのか、まだ分からない。けれどもう少しで分かるような、あと一歩、喉元につっかえているような感覚だった。握り拳が宙に留まってぶるぶると震えている様よりも、どこか悔しげに歪んでいるグレンの目を、半ば放心しながら、トウヤはじっと見やっていた。長い間、一緒にいたような気がしていたが、こんなにも面と向き合って、互いの目を見つめているのは、おそらくこれが初めてだった。
一体何がきっかけで、こんなことになっているのだろう。
「……殴ってもいいが、ここでするのは、やめてくれ。後でスタジアムに行く」
力無い声でトウヤが言うと、向かいの熱気が、さっと遠のいた。
長い息を吐きながら、ゆっくりと、グレンは拳を下した。
掴まれていた手が離される。支えを失ってよろめいたトウヤが棚に腕をつく間に、グレンは黙って踵を返した。ハギも、タケヒロも、やはり何も言えなかった。戸口へ向かうさなか、無言で強烈に、椅子を蹴り飛ばしたグレンに、ヴェルが体を縮ませるだけだった。
跳ね転がった椅子が、机の脚に当たって止まる。開けっ放しにされた戸が勝手に元の位置に収まって、呼び鈴が鳴くのをやめる頃、呆然とそれを眺めていたハギとタケヒロが、恐る恐る、トウヤの方を振り返った。
褐色と透明の酒瓶が、粉々に砕けて、それぞれ鋭利な硝子片になって、薄暗い床で光を吸い込むこともなくただの塵屑と化している様を、奇妙な感慨を覚えながら、トウヤは見下ろしていた。
「……お、お、俺、ミソラを探してくる!」
空回る威勢を発揮して、逃げるように少年が走り去っていく。入れ違いにのそのそと近づいてくるヴェルに首を振って遠ざけて、トウヤは硝子片を掌に集め始めた。紙袋を持ってきたハギが、それを差し出しながら言う。
「あんた、大丈夫なのかい」
「すいません」
反射的に出した声が恐ろしく暗くて、なんだか笑えてしまった。
「ちゃんと弁償しますから」
「どうだっていいんだよ、商品なんて」
叱りつけるような強い口調でハギが言った。
『いいかトウヤ、いつもそうやって、お前は』
グレンが言いかけた説教が蘇る。ぐっと、胸が締め付けられた。得体の知れない感情がこみあげて、不意に抜けかけた栓を慌てて押しとどめた。ぐちゃぐちゃに刻まれた傷口に絆創膏を貼られたのか、それとも塩を塗り込まれたのか、今のトウヤには、もう判別もつかなかった。
「怪我は、酷い怪我なのかい?」
「いえ……」
「危ないことはしてくれるなって、あんなに……」
「すいません、本当にすいません」
遠巻きの場所から、遠慮がちに、ヴェルが覗き込んでいる。
逃げ出してしまえば、どうなるだろう。この硝子片で首を掻き切ってしまえば、今度こそ、楽になれるのだろうか。出来はしまいと分かっていても、思わずにはいられなかった。自分がここにいなければ、どれだけの人が、楽になるのだろう。自分さえここにいなければ。
「ごめんなさい……」
胸が空っぽになっていた。
心無い謝罪を並べる自分を、母親代わりの人がどういう顔で見ているのか、想像すると怖かった。時が進むごと、恐怖感がつのって、トウヤはなかなか顔を上げることができなかった。