01
1
駆ける。私という重みをものともせず駆ける。鋭く、たくましく、闇に沈んだ森の中を疾走する。野生としての本能を取り戻したように、今まで溜め込んでいた力を一気に放出するみたいに。勢いとともにシルエットと化した木々は夜闇の中に次々と消えていき、四肢を力ませた獣はひたすら地面に蹴りを入れ続ける。追いかけられているという状況なのに、まるで獲物を狩るような力強さ。太い幹のような角を、私は振り落とされないように握りしめる。ふと気を抜けば、熱を宿すその体から激しい勢いで転げ落ちてしまいそうだった。朦朧と霞む意識の中で、私は目をつぶって耐えた。獣は駆ける。
2
淡い色をした花々がいっぱいに咲きこぼれている。
春のヤグルマの森は穏やかな陽気に満ち満ちて、呼吸をするだけでまどろみが頭をいっぱいにしていく気がした。岩に腰を落ち着けて、私は相棒の背中に呼びかける。
「一旦休憩しようか、メブキジカ」
メブキジカは鼻を鳴らして合意の意を示した。疲れたのか足を折ってその場に座り、あたりの景色を見渡している。くたびれたのか、帰ってきた森の匂いがよほど気持ちいいのか、目を細めて。
「ねえ、メブキジカはここで何回春を迎えたの?」
呼び掛けるも、メブキジカはこちらを振り向こうともしない。まあ、いいか。メブキジカの角にくっつく咲き始めの蕾と、茶色と白の毛の入り混じるところをぼんやり眺めていると、リュックが振動した。ファスナーを開けて携帯を取り出し、電話口に出る。
「もしもーし、ミキ。今どこにいんの?」
姉の声だった。
「ヤグルマの森だよ。今休んでたところなの」
「ああ、もう森の中?早いね」
きっと仕事先からかけてるんだろう。がやがやとした喧騒がしゃべり声の隙間から漏れ出てくる。
「メブキジカは?」
「メブキジカも休んでるよ」
「へえ。どう、ふるさとの空気は。何か言ってる?」
「別に。でもやっぱり嬉しいみたい」
「だろうね。ミキ、森で出会ったばかりの頃のメブキジカってどんな感じだったの?手が付けられなくて捕まえられなかったんだって?」
「まあ、ね。メブキジカ…とにかく足が速くって」
そう、あの頃の彼はとにかく俊敏な生き物だった。ばねでもついているみたいにびょんびょんとよく跳ねて、モンスターボールの中にはひと時もじっとしていられない。太陽と自然の空気を吸うのが好きな彼の角には、四季折々の花や葉っぱで彩られていた。そして時間ができたら、辺りを確認して思い切り駆け回るのだった。
「へえ、速かったんだ」
「そう。本当に速いの。飛んでいくみたいだったの」
私の言葉に姉は一拍おき、「うん」と返した。
さらさらと風が吹き抜けていく。揺れる木々の葉を目で追っていると、「ミキ」と囁くような声が聞こえた。「あんた、いつ帰ってくんの?」
「この森を抜けたら、電車に乗って帰るよ。メブキジカも、モンスターボールに入れて」
「そうか。……ねえミキ。あんた、森を出たらちゃんとボールに、」
突然携帯を当てているのと反対の耳のそばで、ほんのり獣臭いぬくみが膨らんで、私は驚きの声とともに跳ね上がった。振り返ると、メブキジカの眼差しがすぐそばで私を見つめていた。きっと鼻息を吹かせたのだろう。私はメブキジカの鼻先を指で軽くつついた。
姉が訝しむように聞いてくる。
「えっ、何。どうしたの」
「ううん、何でもない。メブキジカが急に後ろに来て驚いただけ」
「ああ、そう…」
脱力したように答えて、くつくつと笑う声が聞こえた。さっき何か言いかけた忠告めいた言葉については、もういいみたいだ。
「とにかく、ちゃんと帰ってきな。いいね」
「分かってる」
通話を切って、私は再びメブキジカと視線を合わせた。瞳のつるつるした輝きは、洗いたてのブルーベリーみたいだ。淀みのないその色は、いつでも同じ色。どんな時でも、その冴え冴えとした輝きは失われることはないんだと私は信じている。どんな時でも。
「そろそろ行こうか」
しばらくの時間をおいて私がそういうと、メブキジカはのっそりと立ち上がった。どうやら名残惜しいみたいで、ふんふんと土に鼻をすり付けている。なんだか急くのが申し訳なく思えるけれど、私は言う。
「ほら、行くよ」
メブキジカの体を押すように触ると、ふさふさとした毛並みが伝わってきた。柔らかくて、生き物の毛並みだ、と私は思った。確かな血の通う生き物の体。
のそり、のそりとでも確かにメブキジカは前に進む。私もそれに歩調を合わせて、森を行く。この調子なら明日には森を抜けられるはずだ。少しでもメブキジカをこの森に寄り添わせたいと思いながら、家に帰らねばとも考えていた。時間がなかった。
3
夜の森と言うのは静謐な空気で満ち足りて、どこか不穏な気配もはらんでいる。
私たちは息をひそめて進んでいく。昼間よりも、早足に。
本当なら夕方までに、森の中にある診療所を兼ねた宿屋に着くことになっていた。けれども行けども行けども木々が私たちを取り囲み、着く気配はなかった。予想以上に私たちの歩みは遅かったようだ。
もう少しのはずなのに。それでもいくら歩けど見えるのは一本の断続する道だけだ。
「…メブキジカ、ボールに入る?」
昼間の休憩以降、何回も私はメブキジカの前でモンスターボールをかざした。この中に入れば、少なくとも確かな安寧がメブキジカを迎え入れてくれる。
しかしメブキジカは見るたび顔をしかめて首を振るのだった。ここだけはいささかも出会った頃と変わることがない。今回も拒絶のように眉をひそめられた。一体ボールに入ることの何を彼は許さないんだろう。プライド、なのだろうか。
じわじわ、じわじわとメブキジカの体に疲労が積み重なっているのを私は知っていた。昼間から歩いているのだから仕方がない。頑張れとメブキジカを励ます。毛並みにそっと触れる。メブキジカも足を引き上げるようにして歩む。メブキジカを支える四つの脚。私は直視することができない。
そのとき、背後で草のこすれあう音がした。小さい音。けれど確かに。
私はすぐさまメブキジカの体に寄り添って、唇を結んだ。何かがいる。メブキジカもそれを悟ったのか首を下げ、音のした方を睨みつける。
最悪の事態が脳裏に浮かんで私は打ち消した。まさか、そんなことあるはずない。もしそうだったとしても、静かに、木の中に紛れ込む一部として思ってくれたらそれでいいのだから。けれども湧いてくる唾を飲んで行く末を見守る。
少し、音が遠ざかる。行った?一切の音を立てないように、細心の注意を払う。でも、また戻ってきた。足音も聞こえる気がする。また遠ざかる。しかしまた舞い戻る。その音は大きくなっていく。近い。足音が早くなる。だんだん大きく――――
「っ!メブキジカ!」
だめだ。とうとうその音の主が首を持ち上げて私たちを見下ろしたとき、私は声を荒げていた。メブキジカも威嚇するようにその生き物を睨む。そして目の前に対峙するそのポケモンも、同じように私たちを睥睨していた。
闇夜でもわかる毒々しい色合いと、首を痛めるぐらいには顔を上げないと視線を合わせられないぐらい、背の高いポケモン。ペンドラーだ、と私はすぐに察した。
ペンドラー。猛毒をその体に仕込み、獲物となる相手を見つけたら執拗に、容赦なく襲ってくるポケモン。夜、周りに助けもいないなか闘争心の荒い毒ポケモンと遭遇するのは、かなり最悪なシチュエーションといえる。
けれど、と私は困惑した。どうして?
最近のヤグルマの森は散策スポットとして多くの人が通るので、きちんと整備されていていると聞いたことがある。実際危険なポケモンはめったに見られないし、ポケモンを持たずに歩く人もいるという噂も聞いたことがある。その中でもこのルートは遠回りだけれど―――それも宿に着かない一因なのだろうけれど―――少なくとも、危ないと称されるポケモンの住処や、生息はごく稀にしか確認されていなかった。それなのに、なぜ。
けれども今の私には、そんな湧き上がる疑問を解消する余裕なんて持ち合わせていなかった。逃げなくちゃ。その一言にすべてが収束され、足を持ち上げようとする。けれど、動かない。金の色をした、厳ついまなこ。まるでテロリストが大勢の人の中から私を選んで銃口を向けるような、観念しろと無言の力に圧されているようだった。
瞬間、ペンドラーは唸り声をあげる。メブキジカも対抗するように鳴く。なに?そう思ったのもつかの間、メブキジカが乱暴に私を押しのけた。
「うわっ!」
体が転げ、視界が反転する。慌てて起き上がってみると、目の前にはメブキジカの背筋を伸ばした姿があった。いつの間にか事態はメブキジカ対ペンドラーの図式になっている。
「メブキジカ、逃げよう!ボールに戻って!」
とっさに私はあらん限りの叫び声をぶつけた。でもメブキジカは根を張った大樹のごとくぴくりとも動くことはなく、眼差しだけをこっちに送っていた。今のお前が逃げたところであいつに捕まるだけだろう、と。
確かに緊張で張り裂けそうな私が足を動かしたところで、どうにもならないと言うことは明らかだった。けれど今、ここでメブキジカを戦わせるわけにはいかない。
「メブキジカ!」
メブキジカは一言も発しない。けれど、ペンドラーがメブキジカに向かって体当たりしようとしたとき、メブキジカが跳躍し、ペンドラーの顔に鋭い蹴りを放った。一歩間違えば吹っ飛ばされていただろうに、メブキジカはリスクを伴う行動に出たのだ。いつ以来だろう。そんな無謀ともとれる自信をたぎらせた彼の姿を、私は久しく見ていなかった。
ペンドラーは顔を振って今の攻撃の余韻に耐えている。「メブキジカ!」―――さっきよりも甲高く、私は彼の名前を呼ぶ。メブキジカもこちらを振り向いた。走って、ペンドラーの見えない充分な距離をとって身を潜める。モンスターボールを取り出そうとするけど、汗で指がぬめって滑り落ちる。焦れば焦るほど、それは掴めずぽとりと地面に転がってしまう。
そのとき、ペンドラーがかっと目を見開いた。私たちがいないことを悟ったのか、次の瞬間あらゆる方面に何かを放出した。
あっ。
ちっ、と足先に痛みが散った。刺されたような、先端のとがったもので突かれたような痛み。慌てて闇の中で手を泳がせ、痛みの中心となるそれに触れたとき、ぞっと背筋が粟立った。
「どくばり」、だ―――気付いた時の、収集のつかない混乱。目の前がちかちかしそうなぐらいの爆発しそうな焦りのなかで、訳の分からぬまま私はその針に手をかけていた。軽い力で抜けたのだから、そこまで大きな針というわけでもなさそうだ。でも足からは確かに血が垂れていた。そして毒。
あ、と声を漏らす。このまま放置したらどうなるか。そんなの、毒が回って死ぬにきまってる。そう考えた瞬間、私は口の中が急速に乾いていくのを感じた。そのときだった。
視線をこちらに走らせたメブキジカは、呆然とする私の目の前でいきなり膝を折り曲げた。背中が私の視線と並行するような位置になる。
それが何を示しているのか、最初、理解ができなかった。
けれどもメブキジカは眼差しを自身の背中にやり、首を縦に振ったその瞬間、私はメブキジカの意図を掴んだような気がした。途端、知らぬうちに震え声が漏れる。
「乗れって、こと?」
もう一度、メブキジカは首を縦に振る。私は首を振って拒否した。だめだ。私が彼の背中にまたがったその瞬間、彼は走るだろう。駆けるだろう。
だめだ。それだけは絶対にだめだ。そんなことをしたら、今までメブキジカがゆっくり進んでいたのも、森から出た後ボールに早くしまえと言っていた姉の忠告も、すべて意味のないことになってしまう。
「メブキジカ、ボールに戻って」メブキジカを見つめていった。「お願いだよ」
けれどもメブキジカは私と目線を絡ませたまま、首を動かさない。威圧するような眼差しに息を呑み、思わずボールを持とうとする手を下げる。
本当に乗れと言っているのだろうか。長年メブキジカと相棒を務めてきた私でも、気持ちまで全部わかるかと言ったら、そんなことはない。だけどメブキジカは膝を折ったまま何も言わない。それが彼の見せる意志の全てのような気がした。
向こう側で、ペンドラーはぎらぎらと瞳を瞬かせている。繰り返すけれど、ペンドラーは一度的を絞った相手には執拗に追いかけてくるという習性がある。どこだ、どこだと虎視眈々と狙っている。いつ私たちにとどめをさそうか機会を待っている―――。
口をつぐんでいると、不意にメブキジカが私を見据えた。そして大きく口を開き、小さく、しかし鋭く鳴いた。
びっくりした。鳴いたら気付かれるのに。ここにいるのだと、ペンドラーに居場所を示してしまうことになるのに。しかしメブキジカは私から視線を動かさずに鳴く。段々声がよじれて捻じれて震えて途切れようとしても、息を吸いこんでメブキジカは鳴く。その間、決して私から眼差しを外そうとしない。何を考えているのだろう。私には理解ができない。
もしかして、と私の頭にとある考えが浮かび上がったのはその時だ。
もしかして、メブキジカはこう言っているのだろうか。お前が乗らない限り、自分はずっと鳴き続ける、と。
本当にそう言っているのかは私にはわからない。でも、仮にそうだとしたら。
「やめて」
一言だけ、漏らした。メブキジカは細い声を鳴らす。メブキジカ、と私は制するように名前を呼ぶ。やめて。それでもメブキジカは止めない。喉から絞り出すようにして鳴いている。ペンドラーがこっちを振り向いたのが見えた。それでもメブキジカは、鳴き続ける。途切れることなく、鳴き続ける。
息を吸った。そして吐こうとする息を胸の内におしとどめ、私はメブキジカの角に手をかけた。さっと辺りが静まり返る。角はざらざらとした質感で、本当の樹の幹みたいだ。私はメブキジカの体をまたぐと、角を掴んだままうつぶせになった。
前まで私たちは同じような格好をとって走り回っていたことを、頭の隅で思い出していた。こんな危機的状態に遭遇することも一度や二度ではなかった。けれど、そんなときメブキジカはたくましい脚を以てして、私を乗せて地面を蹴ったのだ。
右足の感覚がない。予想以上に毒の回るのが早いのか、それとも私がそう思い込んでいるのかはわからない。メブキジカ、と私は蚊の鳴くような声を彼の耳元に送り込んだ。メブキジカの鼻が膨らむ。ほんの少しだけ目元あたりが笑んだのは私の見間違いだろうか。
メブキジカがすっくと立ち上がり、走り出した。跳躍。大地に穴を開けるような強さで蹴り上げ、そのたびに私は振り落とされそうになった。後ろを背中越しに見てみると、ペンドラーも一呼吸おいて気付き、私たちを追いかけてくる。しかしぐんぐんと後ろへ遠ざかっていき、やがては諦めたように立ち止まった。
それでもメブキジカは走っていく。立ち込める闇の幕を裂く光のごとき勢いで。
落ちるな、落ちるな。
そう心の中で私は自分に言い聞かせる。けれどもそれは、いつの間にかメブキジカを鼓舞するような響きに変わっていた。
負けるな。負けるな。負けるな。
メブキジカは道を駆け抜けていく。ここらは一本道で整備されているから迷いようがない。
いくつもの木々の影が私たちに覆いかぶさろうと枝を広げるように見える。けれどもメブキジカはそんな幻想を一蹴するがごとく、走る。私はメブキジカの内側に宿る、彼を司る音を体全体で感じる。どくんどくんとそれは力強く脈打っている。
駆ける。
私は再びしっかりとメブキジカの角を握りなおす。
この躍動がなんだか生き生きしているように思えたのは、顔に容赦なく吹きつける風に何とか慣れてきたころだった。逃げているという状況のはずなのに、なぜだかメブキジカの躍動はなんとも伸びやかで、解き放たれているみたいだった。ゆっくり歩を進めていたここ数日とは、まるで別の生き物みたいだ。そう、メブキジカはだらだらと歩くよりも、切り替えてさっと駆け抜けるほうがずっと好きだったのだ。思い出したとき、熱の塊のようなものが喉まで込み上げてきた。
ひたすらに走っていると、やがて視界が開けていき、ぽつんと遠くのほうで明かりが見えた。暖かな、オレンジ色の光。さっきまで私たちが目指していた、あの宿屋に違いなかった。
ああ。その光を見たとたん、どうしようもない安堵感に胸が襲われた。限界を振り切る。
メブキジカの振動に揺られつつ、私はいつの間にか気を失っていた。
4
「起きましたか」
どれぐらいの時間を揺蕩っていたんだろう。ゆっくり、ゆっくりまぶたを持ち上げると、ずっとつぶっていた目には眩しい光がちかちかと光った。どうもベッドに寝かされているらしい。
目が覚めて、頭上から振ってきたその声の主を探そうと視線をスライドさせる。左、いない。右…いた。ベッドの右側のほうに、若い男の人が椅子に腰かけて私を見下ろしていた。
ある程度筋肉がついたほっそりした体。整った顔立ち。まぶたの奥にあるオリーブの色をした目が私を見つめてくる。
「大丈夫ですか」
滑舌のいい、よく通る声だった。あなたは誰ですか、と問いかけようとしてもうまく口が回らず、男の人は微笑んだままだった。とりあえず身じろぎしつつ上半身を起こすと、男の人は「足は動かさないでくださいね」といった。「毒を抜いたばかりだから」
男の人はカナメさんと名乗った。状況の飲めない私に、カナメさんは歯を見せて笑った。
「さっき、メブキジカがここまでやってきたんです。あまりにも唐突で、俺驚いちゃって。だって背中にあなたがぐったりして乗っていたから。しかも毒が回っている状態だったので、とりあえず手当てさせてもらいました。ほぼ毒は抜きましたけど、安静にしといたほうが賢明ですよ」
「はあ…」
「この毒の量、多分ホイーガがペンドラーあたりですね。数か月前に一回、ペンドラーが現れたことがあったんです。なんとか追い払ってそのあとは一回も姿は見てないんですけど…でも一応注意喚起をしたほうがいいのかなって、ちょうど、話してたところだったんです。……でもまさか、こんなことになるとは」
カナメさんの視線が私の目から外した。どうしたのだろうとみると、カナメさんは毒を抜いたばかりの私の足を、陰りのさした瞳で見つめていた。
私は慌てて、「助けてくれてありがとう」とカナメさんに向かって深々と頭を下げた。確かに注意喚起をされていたら、私ももっと用心深くしていたのかもしれない。でも今は彼を責める気には到底なれそうもなかった。
いまだにぼんやりする意識の中、部屋を眺めまわしてみる。天井から吊り下げられた橙のランプを遠巻きで見ながら、助かった、と思った。それはまぎれもない事実なのに、なぜだろう。私は大事なことを聞いていなかった。
私を乗せ、旋風のごとく私をここまで連れてきてくれた存在。
そう、メブキジカはどうしたのか。カナメさんに問いかけると、カナメさんの表情が曇り、ドアの向こう側に視線を投げた。
「今、タテジマさんが…ああ、ポケモンを治す専門の人なんですけど。が、メブキジカの面倒を見てます。メブキジカ、あなたとは違って攻撃は受けていなかったのに、息たえだえでなんか、ただ事じゃないなって」
「今どこにいるんですか」
「宿の裏の小屋にいると思います」
宿の裏の小屋。確認をしたその時、ドアがばんと乱暴な音を立てて内側に開いた。二人そろってドアの方向を見つめると、そこには肌のそこらじゅうにしわを刻んだおじいさんが肩で息をして立っていた。タテジマさん。その人の名を呼んでカナメさんが動く。
「どうしたんですか。なんかあったんですか」
「いや…お前、さっきの奴は起きたのか」
「あ、はい。今さっき」
タテジマさんは、視線を私のほうにむけた。ぎょろりとした厳つい瞳に私は身をすくませる。あんた、としゃがれた声が私を呼んだ。
「あんた、あのメブキジカの相棒か」
そう言われた瞬間、私は息を呑んで胸元まで毛布を寄せた。メブキジカ。何か良くないことがあったのだと瞬時に判断できたのは、タテジマさんの声に滲むものがそれを示していたからだ。そしてそれは同時に、私が覚悟していたことでもあった。
「はい」
小さく、けれども確かにうなずく。タテジマさんはぼそぼそと、「ちょっとぐらい動かしても仕方ねえよな」とカナメさんに聞いている。カナメさんも少し眉根を寄せたけれど首を縦に振った。
「大丈夫です」
「わかった。おいあんた、ついてきな」
タテジマさんが手をこちらに振り、来いというジェスチャーを示す。不意に心臓が静かに暴れだした。
行かなくてはならないのだろう。けれど、行くのが怖い。私が眠っている間にメブキジカはどんな状態でいたのか、想像するのが怖い。
でも、行かないとだめだ。
生ぬるい唾を飲み込んで、私は二人の後に続いた。
頭上には、ばらまいたような星々が燦然としたきらめきを放っていた。月もおぼろに霞む空の下、私たちは小刻みに足を運ぶ。春の夜風はひやりとした冷気をはらんでおり、肌の表面を何度も指でさすった。
「連れてきたぞ」―――不意に立ち止まり、タテジマさんは私を見たまま目の前を手で指し示す。
息を呑んだ。
突然に五感を奪い去られたような錯覚を覚えた。夜風の涼しさも、周りの言葉も、何も感じ取ることができない。唯一、視覚が目の前の存在をしかと捉える。
膝を折り、微動だにしないメブキジカがそこにいた。
「メブキジカ」
唇を動かす。メブキジカの元まで歩み寄り、かがみこんで体に触れる。ほのかに温かかった。まだ、意識はある。まだ、生きている。
しかし表情はぼんやりと虚ろで、吸う息も吐き出す息も浅かった。
指を角のほうまで滑らせると、ぽつりとそこだけ発光しているような、一つだけ咲いていた花びらに触れる。しかしそれは触れた途端にあっけなく崩れ、花としての輪郭を失った。地面に舞い散るいくつもの花弁。
視線を落とし、もう一度メブキジカに焦点を合わせる。メブキジカの表情はぴくりとも変わってはおらず、むしろ変えたのは私のほうだった。他人に見せるのもはばかられる様な顔を、私はメブキジカの体の中に埋めた。
「…もう、今夜が限界だな」
ポケモンの診療が担当だと聞いていたからだろうか、タテジマさんの言葉は淡々と言葉を連ねたように私には聞こえた。場慣れする医者とはみんな、こういうものなんだろうか。私は親指を自分の手に食い込ませ、さらに深くメブキジカの毛の奥に潜り込んだ。
「え、どういうことですか?」
カナメさんにとっては唐突な展開だったんだろう。唯一この短い時間でメブキジカと全く関係性を持たなかった彼は、すっとんきょうな声を発した。
「限界って一体…どういうことですか?別にメブキジカ、怪我なんて負ってなかったでしょう」
「馬鹿やろう、怪我を負ってないとしても、どう見たってあいつは様子がおかしかっただろうが」
タテジマさんはカナメさんを叱り付けると、私に向かって語を継いだ。
「…あんたは、分かっているよな」
私は何も言わなかった。ただ、さっきのタテジマさんの言葉が打ち込まれた楔のように深く、心に食い込んだ。
限界―――。
脳裏に、ヤグルマの森に入る前の日々のことが蘇った。みっともなく泣きわめいたり、嘆いた日々。周りの人に、そして相棒に醜態をさらし続けた日々。
それでも、泣いてもわめいてもその結末からは逃げられないことを悟ったとき、折り合いをつけなくちゃいけないと思った。メブキジカの前では平常心でいるのを心掛けたら、次第に心も慣れていく。そう思っていた。
でもいざその現実が目の前に横たわっているのを見たとき、今、自分はどうしようもなく打ちひしがれている。ああ、結局自分は折り合いなんて付けられそうにない。なるべく思い出さないようにやりすごしていただけなんだ。
「どういうことです」
カナメさんは問いかける。事情を知らない人間からしたら当然の反応だろう。でも私は答えられなかった。声を出すだけでも、内側に溜め込んだものがどうっと溢れ出していきそうだった。
カナメさんはこれ以上同じ問いを重ねなかった。人の奥深くまで入り込まないというのが彼の筋なのか、辛抱強く待ってくれた。おかげでその間、私はひたすらに心を落ち着けることに専念できた。そして同時に、説明する文章を頭の中で組み立てた。
メブキジカのこと。
今、ここに横たわっているメブキジカのこと。
長い静寂の末、私はようやく口を開いた。
「メブキジカは、病気を患っているんです」
あの日のことはまだありありと思い出せる。
メブキジカの元気が有り余っていたと思っていたその日、私たちはヒウンシティのホテルに滞在していた。
けれど数日後にはヒウンの街を出て、ヤグルマの森に行く。そして親と姉の待つ実家のあるシッポウシティへと帰省する。それがイッシュ地方に携わるひとまずの大仕事を終えた私が立てた、実家に帰る予定だった。
でも森なんて抜けなくても、ヒウンからシッポウへとつなぐバスはいくらでも走っている。にも関わらずそんな面倒な予定を立てたのは、メブキジカに森の地を踏ませてあげたいという私の希望からだった。ヤグルマの森でメブキジカをゲットして以来、私は早々に仕事でイッシュ地方を巡る旅に出たから、メブキジカにはまだ一回も彼の生まれ育った森を見せていない。車の行きかう大都会にいるのもあって、森に行ったらきっと彼は生き生きした姿で駆け回ってくれるはずだ。
その日私は朝の日課として、ホテルからユナイテッドピアへ、メブキジカが入ったボールを携えて出かけた。朝靄にかすむ海原はちらちらと昇り始めた日を反射しており、まばらな人たちも海を望んでいる。ユナイテッドピアは大型ポケモンが出せないヒウンの中でも、ポケモンを出せる貴重な場所だった。
着くと早速ボールを空中へ放り、メブキジカを外へ出す。いつものように彼も周りの人に倣って海を見つめ、潮風を嗅ぐだろう。けれど、この日は何かが違った。
出てきたメブキジカの表情に覇気がない。どうしたの、と呼びかけても何も答えない。連日ボールの中にいるのが窮屈で体調を壊したのだろうか。
「メブキジカ?」
得体のしれない不安が押し寄せ、彼の名前を呼びかけたその時、私はあることに気付いた。
視線を落とすとメブキジカの脚が、かくかくと震えていた。まるで生まれたてのシキジカさながらに。しかしメブキジカはどこからどう見ても大人の年齢で、そしてこんな事態になったことは一度もなかった。いつの間にか吐き出す息も荒く、顔には苦悶の表情が滲んでいる。そんなメブキジカの表情を見るのも初めてだった。
私はメブキジカをすぐさまボールへ戻し、ユナイテッドピアに程近い大規模のポケモン専門の病院へと急いだ。どうしようもなく嫌な予感が、お腹のあたりでぐるぐると渦巻いているのを自覚しながら。
メブキジカを病院に預け、私は白すぎる壁を背に待合室のソファに座り込んだ。お腹に渦巻くものがだんだんと色を濃くしていくのが分かる。なぜメブキジカはあんなにも苦しげだったのか。昨日までそんなそぶりは見せなかったけれど、私は何か見落としていたのか。様々な問いかけが胸中にたまり、私は膝の上で汗ばむ手を握った。
結局五時間が経過した。その間私は立ち上がれず、名を呼ばれてようやく腰を上げたときには、腰回りにじっとりとした痛みが張り付いていた。その日のその五時間はひどくおぼろげな記憶として私の中にあり、何を考えて過ごしたのか、何一つ思い出すことができない。
私は消毒液の匂いが漂う、廊下の向こうの指定された部屋に通された。そこでは染み一つない白衣をまとった医者と看護師の二人が私を待っていた。
椅子に着いた私に、医者はこう切り出した。
「メブキジカのことですが」
「はい…」
「多分、胞子が繁殖しているのだと思います」
「え?」
予想していなかった球を打ち込まれた、そんな妙な気分になって私は首を傾げた。
「胞子、ですか?」
「はい。それもあまり例を見ない、極めて悪質な」
この日、前述したように、この部屋に入る事前の五時間はあまりにも虚無で思い出せない。けれど、そのとき私に語られる医者の一言一句は焼き付いたように鮮明に思い返せる。
「この症例は草ポケモンの、しかもごく稀にしか確認されていないものなんです。ある特殊な胞子が何らかの原因でメブキジカの体内に入り込み、繁殖をしているのです。この胞子にとりつかれたポケモンは、多くの確率で死に至ります。半年が、限界かと」
私は息を吸った。そしてそのまま、吐き出せなかった。
何を言っているの?
何も難解なことを言っているわけじゃない。医者は、事実を、あるがままに伝えているだけ。それなのにどうしても理解することができず、私は医者の発したその言葉を馬鹿の一つ覚えのように、ただ頭で繰り返すことしかできなかった。胞子。ごく稀。繁殖。
死に至る。
私は腕の皮膚を引っ張る右手の動きを左の手で制した。混乱が極まるとついしてしまう私の癖だった。しかし指は再び腕の皮膚を容赦なくひねっている。
顔を持ち上げて、訊いた。
「治療法はないんですか」
「この病状はとても稀で、治療法などは見つかっていないんです。いまだ研究している段階であるので、薬で病状を和らげることしか方法はありません」
「じゃあ、死ぬのを待つしかないんですか」
「はい」
はい。
その淡々とした、はなから諦めたようにも感じられるその一言が、どれだけ私を掻き乱しただろう。
一瞬、目の前がすうっと暗くなるぐらいに呆然とした。しんと間が開く。次の瞬間、私は食ってかかるように医者に詰め寄っていた。
「じゃあ、どうすればいいんですか。メブキジカはどうしたら少しでも長く生きられるんですか」
「…できるだけ、体を動かさないこと。歩くだけならまだ、今の進行状態では大丈夫ですが、バトルすることや、走るといった行為をしないことです。体力を失うとかなりの速さでメブキジカは命を落とします。死期が近づくにつれて体も満足に動かせなくなりますから、今のうちにしておきたいことをするのが望ましいかと」
走ること。バトルすること。
その二つが、メブキジカの命を奪う。
「な」
唇が震え、アクセントのよじれた一字が零れ出た。
「なんで、そんなの、目に見えない暴力に等しいです」
「それしかないんです」
不意に医者は、ふっと哀し気な色を宿した眼差しを私に向けた。私と同じように、淡々と宣告をされ、どうにもならずに荒れる人々を見てきたような瞳だった。
医者は机の紙をぺらりとめくり、私にまっすぐこう問いかけた。
「この病気は、知らずのうちにゆっくりと内側から体を蝕む病気です。今回はまだ発見が早かったほうですが、進行が進むにつれ、メブキジカの体力は奪われてやがては動けなくなります。今のうちに、やっておきたいことはありませんか」
「やっておきたいこと…」
「はい。後悔しないために、メブキジカの為に、できることを」
できること―――。
そのとき、私の脳裏に浮かんでいたのは数日後に通るはずの木々のシルエットだった。メブキジカと初めて出会いを果たしたあの森。
「…あ」
「え?」
「……あります」
気付かぬうちに私は声を発していた。かすれた震えた声だったけど私は確かにそう言った。
素早い返答に、医者も驚いたように私の顔を見た。
「あるんですか」
私も医者を見つめ返した。
「――はい。あります」
「…それで、医者に相談して、許可を取って…森を通って家に帰るつもりだったんです。動けなくなる前にせめて、メブキジカを連れてこようと思って」
私がようやく話を締めくくると、タテジマさんは尾を引く溜息を吐き出し、カナメさんは視線をさまよわせた末、地面に着地した。長く重たい沈黙が私たちを包んで居座っていた。
やがて沈黙を打ち消したのは、タテジマさんだった。
「そうか」
「はい」
「…注意喚起のこと…本当に、すみませんでした」
カナメさんの言葉に、私は強く首を横に振った。医者からも、いくら整備されている森といえども用心すべきだと太い釘を刺されていた。だけど私はきっと大丈夫なはずだと思い込んで、何が起こっても不思議ではない夜道を歩いていた。これは、私のミスだ。
再び静寂が私たちの前に横たわる。誰も、何も言わずにいると不意に後ろで声が聞こえた。鼻を鳴らす、メブキジカの音。
「メブキジカ」
メブキジカの前にしゃがみこみ、そっと体をさすった。それでもメブキジカの鳴き声は収まらず、瞳だけは艶やかな光を宿して、私を見上げていた。
「一緒にいてやりな」
タテジマさんの声が私たちに呼びかけているのが、背を向けていてもわかった。
二つの足音が徐々に遠ざかっていく。状況を見て、とりあえずここから離れることにしたのだろう。そのとき、おい、あんた、としわがれた太い声が私を呼んだ。
「とにかく、あんたはそのメブキジカに命を救われたんだから、今はそのことにありったけの感謝をしろ。メブキジカも感謝しているはずだ。今まで一緒にいてくれたんだから」
その一言を最後にタテジマさんとカナメさんの気配が消えていき、私とメブキジカは二人きりになった。
メブキジカの顔のラインをゆっくりと辿る。メブキジカは時折鼻を鳴らしながら無言で私の辿る指を見つめている。
そっと角に手を当てた。春真っ盛りの季節。ヤグルマの森でも色々な花々が様々な形で咲き誇っていたのに、メブキジカの角の花は膨らみかけた蕾がほとんどで、開花している花は数えるほどしかない。病気の症状はこんなところにも現れていた。
「メブキジカ」
今日何度目かもわからない相棒の名前を呼び、肌をすり付けた。メブキジカ、メブキジカ、としつこいぐらいに名前をくりかえす。呼んでも返事をしてくれない日が刻一刻と迫っている。私は何かの証を刻み込むようにして何度も何度も囁いた。
メブキジカも感謝しているはずだ―――。
タテジマさんの言葉を思い出し、そんなはずはない、と自分に言い聞かせた。そんなこと、ありえない。
こんな事になると分かっていたら、私は断固としてもこの森に足を踏み入れることはなかった。でも、あの頃の私はむしろ早くメブキジカをこの森に連れて行きたいと思っていた。やがては動けなくなる。メブキジカにとって一番の喪失を味あわせてしまう前に早く、このふるさとの森の地面を踏み、空気の匂いを、森の匂いを体全体で浴びてほしかった。せめて生まれ育った森の匂いを吸えばメブキジカも満足して、幾分病気の進行も遅くなるかもしれないと、私は信じて疑わなかった。
でもその考えは傲慢かつ、浅はかだった。現実、私はこんな目に遭うかもしれないというリスクを甘く見て、メブキジカの体力を奪い取り、命の炎を掻き消そうとしている。
全部、私の判断が招いたことだった。感謝しているだなんてこと、誰が信じられるだろう。
限界だった。鼻の奥がつんと痺れ、堰を切ったようにぼろぼろと涙が溢れだした。ごめん、ごめん、ごめんと私は繰り返した。メブキジカは驚いたようにまぶたを持ち上げた。メブキジカの体の上にいくつもの落ちた涙が散らばっていく。私はしゃくりあげ、何度もごめんねと繰り返した。何もかも遅すぎる懺悔だった。
たなびいていた雲が晴れていったのだろう。淡い月光がメブキジカを照らし出し、ぼんやりと淡い布をメブキジカが被っているように見えた。その光景は、体温も、その体にも確かに触れているはずなのに、メブキジカがどこか遠い場所に連れていかれるような気がした。
待って、と私は声に出していた。待って。自分はメブキジカに伝えたいことの、十分の一でさえ言葉にできずにいる。
私は視線をさまよわせた。待って。待って。けれどもう、追いつけない。私とメブキジカを分かつ境界線は広がって、私はもう永遠に、メブキジカが強く地面を蹴るその一瞬を見ることができない―――。
私がむせ返るようにしゃくりあげると、不意にメブキジカが顔を持ち上げた。そして、おもむろに私に顔を近づけて頬を舐めた。
メブキジカが食べている、草の匂いが香る。私がいつも感じていた、どこか安心する匂いだった。
「ありがとう」
雫を滴らせるように、私はぽつりと零した。ありがとう、なおも同じ響きを紡ぐ。
メブキジカが再び体を地面に横たえる。ほんの少しだけ微笑を浮かべて。
私は驚いた。なぜ微笑んでいるのか、私にはわからなかった。頭にタテジマさんの一言が蘇った。
メブキジカに、ありったけの感謝をしろ。
私はメブキジカの毛を撫でた。ありったけの感謝って、なんだろう。ありがとう、と私は言った。
ありがとう。ありがとう。ありがとう。
足りない。こんなのじゃ、足りない。
今度はひたすらに、私はメブキジカにありがとうと囁いた。そう言っていると幾分だけ私の気持ちも和らぎ、メブキジカの呼吸も穏やかだった。私は何度も呟きメブキジカに頬をすり寄せた。
どれだけの感謝の念を送ったのだろう。
やがてメブキジカの瞳がまどろむように閉じていくのを見て、ああ、と私は思った。終わってしまう。メブキジカが、遠くに行ってしまう。
けれどその時、ほんのひと時だけ、もういいよ、と思った。もういい。メブキジカは、とても立派な生き物だった。とても優しかった。それだけで私はとても救われていたのだ。だから、もういい。充分だった。
「…ありがとう、メブキジカ」
私がそう呼びかけると、メブキジカは安心したようにふう、と鼻から長く息を漏らした。そして、その余韻に浸ったまま、眠るようにまぶたを閉じた。
私は顔を撫でて、角の方向に視線をやる。
いくつもの蕾の中で一つだけ、少し開き始めていた花があった。それは光が透けるような薄い色をしていて、まるでメブキジカの尽きる魂を力にしたような、そんな咲き方をしていた。
5
「ミキ」
卵を割るようなこつこつといった音の後にドアが開いた。髪を背中まで垂らした姉がずんずんと大股で部屋に入ってくる。
「あんた、まだ寝てないの?もう十二時過ぎてるよ。早く寝な」
私は椅子に座っており、顔を腕の中に埋めたまま返事をせずにいた。仕事もしている社会人の妹に向かって、早く寝るもへったくれもない。でも私は何も言えず黙りこくったままだった。背中辺りにどうしようもない疲弊感が広がっているのを感じた。
たっぷり間を開けて顔を上げると、彼女は僅かに目を見開いて、静かに吐息した。泣いてたの、と言葉にしない問いが聞こえてくるようだった。
「…メブキジカのこと?」
「…うん」
そう、と彼女は短く返して姉は私のベッドの上にお尻を沈ませた。そっか、と繰り返して彼女は何も言わなくなる。
あの日、メブキジカの病気を宣告されたあの日、私が真っ先に電話をかけたいと思った人は、姉、そして両親だった。三人ともメブキジカを家族のように惜しみない愛情を注ぎ、メブキジカも彼らにとても懐いていた。
だからこそ、医者が言ったあの言葉を、私も切れ切れに彼らに電話で伝えたとき、みんな唖然としたり、呆然としたりしていた。けれども最後は「メブキジカとミキが元気な姿で帰ってくるのを待っている」と言って、私は人の目も構わずしゃがみこんで泣いてしまいそうになった。彼らはとても、優しかったのだ。
けれど、私は彼らの願いを叶えられなかった。三人とも生きたメブキジカに会うことは出来ず、ようやく触れたのは、固く冷たくなってしまったメブキジカの亡骸だった。両親は亡骸にすがって咽び泣いていた。そのことを思い出すたび、胸の奥が縮こまる。
それでも彼らは、何があったのかという事情をタテジマさんとカナメさんに聞いていた。だからみんなは私を責めようとしなかった。「もう、どうしようもなかったのだ」と囁き、私の背中をさすってくれた。その一言に、私は一体どれほど救われたのだろう。本当に、本当に彼らは優しかったのだ。
けれども私はそれを聞いて安堵する反面、拠り所のない気持ちが燻るのも確かだった。私は、こんなに簡単に許されていいのだろうか、と。
いくつもの選択肢が並んでいたあの日。どれか違うものを選んでいたら、メブキジカは今もこの家で体を休め、姉や両親に励ましの言葉とともに優しい手つきで撫でられていたのかもしれない。その情景を思い浮かべ、気付くと得体のしれない何かに食われたかのように身動きできずにいる。
「…後悔しているの」
ぼそり、と独り言にも似た声音で私は漏らした。
「…私が、メブキジカの病気を、もうちょっとでも早く察知できてたら。私が、森に行くって決めてなかったら…」
「でも森に行ったら、メブキジカすごく満足そうだったんだって、あんた電話で言ってたじゃん。病気だって、そんな素振りみせなかったら病院に行きようがないし、メブキジカも分かっていなかったと思うよ」
淡々と連ねる姉の言葉に私はうつむいた。
悔やんでいることはまだあった。自分が毒を受け、メブキジカが膝を折ったあの時。あそこでてらいもなくメブキジカをボールに戻せば、何かが変わっていたかもしれない。開閉スイッチを押せば、メブキジカの気持ちとは関係なく彼をしまい込めたはずだ。だけど、私は戻さなかった。
どす黒く濁ったいくつもの後悔が自分の中で対流する。何もかも、全部過ぎてしまったのに。もう全てが遅いのに。私は一体どうすればいいんだろう。どうしたら許されるんだろう。分からない。全然、分からない。
「ミキ」
そのとき、姉が真っ向から私を見据えた。
「…ねえミキ、あんたがどれだけ悔やんだところで、もうメブキジカは居ないんだよ」
その語り掛ける口調は、まるでもう過ぎたことなんだから仕方ないでしょうと言っているように聞こえた。突き放された気もして、私は咄嗟に言い返した。
「そんなこと知ってる」こっちだってそんなの痛いぐらいに分かっている。「だけど」
胸中にマッチをすりつけられた気分で、私は姉を睨みつけた。なぜ彼女はそんな、他人事のように言えるのだろう。点火した火は小さいながらも私の胸を怒りの色で染めていく。
しかし、姉は動じなかった。私の視線を受け止め、口元をおかしな具合に持ち上げて、「ごめんね」と言った。
「…ごめん、酷いこと言ったね。私はともかく、あんたはずっとメブキジカと一緒にいたんだもんね。あんたはある意味、どうしたって後悔してしまう立場にあるんだよ」
「そんな」
「でも、メブキジカは幸せだった。それだけは確かだったんじゃないの」
「え」
幸せ?
メブキジカが、幸せ?
私はきょとんとしてその言葉を繰り返した。幸せ。その一言は私がどれだけの日々を送ってもたどり着けない、程遠い言葉のように思えた。
だってさ、と姉は言葉を継いだ。
「だって、遅かれ早かれ、メブキジカは死ぬ定めだった。なら、ヤグルマの森に帰れたのは絶対幸せだったよ。おまけに、あのこが一番得意だった、走ることを活かして、あんたを助けることができた。絶対、メブキジカはとんでもなく幸せだったに決まってる」
その言葉とともに、姉は勢いよくベッドから立ち上がった。私が何も言えずにいたのは、彼女の瞳にもわずかに涙の膜が張っているように見えたからだった。
姉もメブキジカのことが好きだった。両親に、そして私に負けないぐらいにメブキジカを愛していた。そして「メブキジカはあんたと一緒にいるほうがしっくりくる」と私に言ってくれたのも、姉だったのだ。
「もういい加減に寝な」
そう言い放った姉はずかずかと歩いていき、ドアノブをひねって部屋を出て行った。ぱたん。静かな音が部屋に響いた後も、私は閉まったドアをぼんやり眺めていた。
いつまで眺めていたのだろう。
ふいに、もう寝よう、と思った。寝よう。頭はこねられた粘土のように疲れ果てているし、思考も散り散りに霧消する。涙もとうに枯れて、まぶたも鉛がついているみたいに重たい。
最後にティッシュで鼻をかんでごみ箱に放ると、私は重たい足取りでベッドの中に潜り込んだ。
きっとすぐに眠ってしまうのだろうと思った。
最後にメブキジカ、と口の中で転がしてまぶたを下ろす。
一分もしないうちに私の意識はまどろみの海に沈んでいった。
夢を見た。
目を開けると頭上には、青のペンキを盛大にぶちまけたような、突き抜けるような空があった。綿のような青を透かす白雲が、ところどころに散っている。びっくりした。ここまで晴れた深い群青の空はめったに見られるものじゃない。
視線を下ろし、また驚いた。地面もまるで水を引いたように頭上の空を映していたのだ。頭上の青と、踏みしめる青。二つの空に挟まれているみたいだった。どこまでも遠く、果てのない世界に私は突っ立っていた。
途方もなく美しい景色だ。そう思ったとき、もしかしたらここは天国なのかもしれないという考えが頭をよぎった。こんな夢幻のような景色は夢から覚めたって、絶対に見られるものじゃない。例え天国じゃなくても、きっと限りなく近いところなんだろう。そう考えると驚くほどにしっくりくる。
でもそこはひっそりと静かで、歩を進めても私以外に誰もいなかった。もしかして自分はこの世界に一人きりなのか。だとしたら自分はどうすればいいんだろう。なんだか心細い思いになってあてもなくそぞろ歩いていた、その時だった。
遠く―――遠くのところに、誰かがいる。生き物だ。どっしりとした大きな生き物。途方もなく遠い距離を隔て、その生き物はそこにいた。誰なのかはすぐにわかった。見間違えようもなかった。
「メブキジカ!」
思わず叫んでいた。私の相棒がいる。眩いばかりの青に囲まれて、確かにいる。足がよろめいた。メブキジカ、ともう一度呼んだ。メブキジカ。メブキジカ。メブキジカ。メブキジカ。
けれどメブキジカは首を横にそらしたままで、こちらを振り向こうとしない。遠すぎて気付かないのだろうか。そう思って声を振り絞るようにして叫んでも、メブキジカは雄々しく黙ったままで身じろぎもしない。
もしかして―――と私は思った。もしかして、私の声はメブキジカには届かないのかもしれない。だってここは天国だ。私とメブキジカは、もう存在する世界が違うのだ。きっと私がどれだけ叫んでも彼には届かないのだろうし、どれだけ走っても彼のもとにはたどり着けない。そんな気がした。
私は叫ぶのを諦め、ただ私とメブキジカの隔てる距離をじっと見つめた。見えるのに、見えない。届きそうなのに、届かない。
じれったくて、かなわない。やっぱり、私たちのいる世界はそれぞれ違うのか。
そう思うとなんだか無性に悲しくなって、その場にへたり込んだ。なんでこんな夢なんか見てるんだろうと思った。せっかくなら、会いたい。触りたい。渦巻く気持ちはとめどなく溢れだしていく一方で、叶える方法が分からない。唇を噛みしめたそのとき、私は思わず目を見張った。
メブキジカが、唐突に駆けだしたのだ。青い地面を蹴り、走り出した。力強く蹄が空を映す地面を蹴る。瑞々しい生命の伊吹が香ってきそうなほど、たくましく地面を駆け抜けていく。
その姿を見て、私は思った。メブキジカを蝕んでいたあの病気は、どこに行ったんだろう?よく見ると角の花も盛らんばかりに満開になっている。そして何よりも強く地面を蹴るメブキジカの姿が、病気などもう患っていないということを如実に表していた。
彼の病気が治っている。それを悟ったとき、くらんとしてしまいそうな喜びが私の胸の内にも駆け抜けた。メブキジカの姿ははつらつとして眩しい。よかった、と思った。よかった。肩の力みが緩んでいくのを私は感じた。
ああ、眩しい、と私は思った。この世界の色彩は、私には眩くて仕方がない。
でもメブキジカは、ここで生きるのだ。
「メブキジカ!」
枯れていたと思っていた涙が込み上げてくるのを、私は無理やり押し返した。意味のないことだと知りながらも、声を張り上げて片腕を振り上げる。
「さようなら、ありがとう、ありがとう、どうか、元気で!」
頭に湧き出てくる言葉をめちゃくちゃに発した。片手だけじゃ足りないと、両手を振り回した。肩がはずれそうなぐらいにあらん限りに振り回し、ただただひたすらに叫んだ。
そのとき、メブキジカの動きが止まって、首をこちらに傾けた。遠すぎて表情はわからないけれど、こっちを見ているんだと思った。私の顔を、あの艶やかな眼差しが眺めているんだと思った。
やがてメブキジカは首をもとの位置に戻した。そしてまた、再び強く地面を蹴る。走る。まるで飛ぶように青空を駆け抜けていく。やがてぐんぐんとスピードを上げていき、背中が青空と白く煙る雲の向こうに埋もれていく。
その姿に大きく手を振りつつ、私はこちらの世界での朝がだんだんと押し寄せてくるのを実感していた。あと数分で私はメブキジカのいない朝の訪れを迎えるだろう。
目覚めれば、自分は再びメブキジカのいない世界を悲観して、泣き喚いて、後悔するかもしれない。その感情は呪いのように私の中に巣くい、制止するように動けなくなるだろう日のことも、私は思い描ける。だけれどそんな日々も、ほんの少しずつでも距離を刻んで遠ざかっていくだろう。そして今はまだ考えられないけれど、メブキジカとともに駆け回った日々を思い出して、いつの日か、ほんの少しでも微笑むときが訪れるのかもしれない。
だけど。今は、今だけは、何も考えず、そうなるかもしれない訪れを迎えるまで私は背中に向かってただひたすらに叫んでいたかった。
「メブキジカ!」
群青に霞んで溶けていくその体。
その背中に向かっていつまでも、私は両腕を精一杯に振りかざし続けていた。