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◇◇◇◇◆
人間の暮らす場所からは少し離れた森の中。ブラッキーの巣穴の近くに、お月見するには最適の大きな岩が一つあった。
時刻は真夜中、今日は満月。
天然のベンチの上に寝そべって、ブラッキーは天頂高くにあるまん丸な月を眺めていた。遠くの空にビブラーバの群れが舞い、満月に時々模様を落とす。蝶のようにも花のようにも見える彼らの影のおかげで、月はまるで施された繊細な彫刻がひらひらと動く、不思議なランプのようだった。
その青白い光に照らされて、ブラッキーは一つ大きく息を吸った。するとブラッキーの体毛の黄色い部分が内側からほんのりと輝いて、月の光に溶けこんだ。混ざりあった二つの波長は、優しい癒やしの力となる。自身に満ちていくエネルギーを感じながら、ブラッキーは一つ大きく息を吐いた。
「いい夜だなあ。」
不意に聞こえた声の方向に、ブラッキーはぴくと耳を向けただけだった。それは警戒するに及ばない音だったからだ。ブラッキーの古い友人、ドダイトスが、のっそりとお月見岩に近づいた。
「今年はナックラーの進化の当たり年だったんだな。月に群れるビブラーバ、なんとも美しい。羽音も少し聞こえるね。まるで歌っているようじゃないか。あれがフライゴンになるのも納得できる。」
「確かにこうして見る分には、なかなか幻想的な景色だが。」
大変だったんだぞ、とブラッキーは岩の隣に腰を落ち着けたドダイトスに向かって口をとがらせた。イーブイがタマゴを拾ってきて、親探しの結果ビブラーバたちに襲われた今日の出来事を、ぶすぶすと聞かせてやる。
「みんなで進化するってのは、あんなに頭が狂うもんかね、まったく……。おかげでまだ体中ずきずきするから、こうして月の光を浴びてるってわけだ。」
ぽわ、とブラッキーの体に浮かぶ月輪が天上の光を吸った。その温かさに包まれていくらかは心地良さそうに目を閉じたブラッキーに、ドダイトスは「すまなかったね」と暗い声を差しだした。ブラッキーはぴょいと頭をもたげ、いぶかしげにドダイトスを見た。
「なぜおまえが謝る?」
「イーブイに君を紹介したことだよ。どうやっても君の心が晴れないようだから、もしかしてイーブイの無邪気な恋心に触れれば、何か変わるかもしれないって思ったんだ。あの子の目、とてもきらきらしていただろう。まるで光が意思を持ったような、そんな目だと俺は思った。だけどあの子の光は、かえって君を傷付けてしまったよね。……すまなかった。」
ああ、とブラッキーはドダイトスの謝意を理解した。それから「いいよ、別に」と付け加えた。
「そんなんじゃないさ。それにイーブイと一緒にいれば多少にぎやかだし、まあうるさいぐらいだが……そこまで悪くない。」
月が黙って二人を照らしていた。
静かに満ちる時間にぽつりと言葉を落としたのは、ドダイトスだった。
「エーフィは、きっと帰って来るよ。」
ブラッキーはしばらく答えなかった。やっと口から吐き出された空気は、「どうだか」と冷たくかすれた音になった。
「私はたぶん、あいつは人間のいる場所に行ったんだと思う。自分から人間に付いて行ったのか、それともゲットされてしまったのかは分からないけど。」
「……ああ。エーフィの人間好きは、本当に筋金入りだったね。人間の文字も読めたものな。それに君ら、人間の真似事をして、何か集めていただろう。エーフィは『図鑑埋め』って言ってたかな。」
「うん。人間の落とし物を拾ったのさ。きのみとかポケモンの羽とか、その辺にある物を人間が絵に描いたノート。それを使って、描かれてるのと同じ物を見つけて印を付ける遊びをしてたんだ。二人でほとんど見つけたんだよ。すごいだろ。」
しかも、知ってるか? とブラッキーの話は続く。
「エーフィのやつ、人間が使う日付ってのまで覚えてさ。絵と同じ物を見つけたら、その日付をきのみの汁で書き加えるんだ。『数字』を使うんだと。私は数字を書くなんて器用なことはできなかったから、見つけたという印だけ……こういうバツの模様を、エーフィが書いた日付の横に加えていたんだ。エーフィが一緒に書きたいって言うから。でも、私の書く線はふにゃふにゃで、あんまり上手くいかなくてさ。じゃあ点をつなげて書くといいってエーフィが言うから、こう、汁を指先に付けて、てんてんって印を書いて……」
その時と同じように指を動かし、身振りを加えて話すブラッキーの口は、しばらく止まらなかった。エーフィが何を言って、どんなことをし、その時ブラッキーがどう思ったのか。ブラッキーとエーフィが共に過ごした時間の話に、ドダイトスは時々うんうんと相づちを打ちながら、楽しそうに耳を傾けていた。
けれどもブラッキーの声は、それを過去形でしか語れない事実にやがて弾力を失い、夜と同じ色になって地面に転がった。
「あいつは、人間が大好きだった。」
その言葉を最後にブラッキーは、ぺっとりと力なく岩に寝そべった。
ドダイトスは友人の小さな影を見つめ、そっと一つ息を吐いた。
「エーフィが一番大好きだったのは君だと、俺には見えたよ。」
ビブラーバたちの飛行はまだ続いていた。側にいればあんなにうるさく凶暴だった彼らの羽音も、今は安らかなメロディだ。彼らがいるのは、仮に近づきたいと思ったってもう届かない、はるかな天空。昼間の出来事など幻だったかのような、遠い場所。
「なあドダイトス……。」
ブラッキーはもうすっかり沈黙してしまったと思っていたから、ドダイトスはちょっと不意を突かれて顔を上げた。
「もしも、もしもの話だが。エーフィが人間に捕まってて、その人間がエーフィと他のポケモンを交換していたら。あいつはもう私たちの手なんて届かないどこか遠い場所に、行っちまった可能性もあるのかな。
私は、もう、永遠に、エーフィと時間を重ねられないのかな。」
いつまでも止まない雨のような、細く小さな声だった。
ドダイトスは少し考えた後、そんなわけないだろう、と答えた。
「永遠なんてないさ。平凡に見えたって、日々は変わる。ナックラーは集まって進化するし、どこかで恋やタマゴが育つ。イーブイだって見違えたよ。君のおかげで、チラーミィとは上手くやっているんだろう? この間、仲良さそうに一緒に歩いているのを見たよ。」
だから、とドダイトスは語気を強めた。
「エーフィも、きっと帰ってくるよ。」
本当は、それが順接でつながる話ではないとドダイトスには分かっていた。それは合理的な説得ではなく、ひとえにドダイトスの慰めだったし、だからその後ブラッキーが返した「うん」という小さなうなずきもまた、友人の思いやりに対する感謝の言葉にすぎなかった。
「ああ……こんなに胸が痛いのに、月の光を使っても、ちっとも楽にならないな。」
ブラッキーの月光は今にも消えいりそうだった。体の傷はもうすっかり治っているのにその技を使い続けていることを、ドダイトスは初めから知っていた。
月に浮かぶビブラーバの影が、一つ、また一つと、闇夜の中に消えていった。
◇◇◇◇◇
タマゴの親探し事件から、何度目かの太陽が昇った日のことだった。
ひとりぼっちの広い巣穴で目を覚ましたブラッキーは、うーんと伸びをして、あくびして、きのみをかじりながら、今日は何をしようと考えた。
ここでエーフィを待ち続けることがあまり賢い選択ではないことを、ブラッキーはなんとなく理解していた。毎日は平凡に過ぎていたけれども、実は昨日と同じものは何一つない。つぼみはいつか花開いているし、川原に転がっていたすべすべの石は気がつくとどこかに消えていた。よく遊びに訪れるイーブイとチラーミィが、だんだん彼らの時間にブラッキーを必要としなくなってきているのも、分かっていた。ブラッキーも、少しずつ変わらなければならない。
(決めた。今日はイーブイとチラーミィに会いに行こう。そしてこの巣穴をあの子らに引き渡すことを提案しよう。)
イーブイとチラーミィは最近、一緒に暮らすためのねぐらを探していた。ここなら二人暮らしにはちょうどいい大きさだ。ブラッキーはどちらかの巣を譲ってもらえればいい。そうすればブラッキーも、眠っている時にふっと目を覚まして、隣がぽっかり空いている寒さに震えることはなくなるだろう。
引っ越しとなると巣穴の物を片付けないとな、と思ったブラッキーの目は、自然と例のノートに引き寄せられた。エーフィと一緒に図鑑埋めごっこをして遊んだ、人間の落とし物。この絵が一番お気に入りだと話したり、本物はどんなだろうねと想像したりした二人の思い出が詰まった、ブラッキーの宝物。実はあと一つで、すべてのページに印がついていた。絶対に全部見つけてみせるぞ! と意気込んでいたエーフィの輝く決意が果たされることは、きっとない。もしもそんなことがあるとすればそれはよっぽど上手く何かがビンゴした時で、そんな偶然が起きる可能性は限りなくゼロに近いということは、ブラッキーが一番よく知っていた。ノートはこれからもずっと、最後に二人で印を付けたあの時のままだ。
(けれど世界がいつも何か少しずつ変化していくものならば、そんなちっぽけな永遠を抱きしめることくらい、許されたっていいよな。)
一度心を決めてしまえば、踏み出す足は結構軽い。ブラッキーはいつもよりちょっと元気よく、巣穴の外に飛びだした。イーブイたちの所に行こう!
と歩き始めた矢先、がさがさと目の前の茂みが揺れたから、ああイーブイたちが来たなと思った。これは手間が省けて好都合だ。
ところが現れたのは、藤色の絹毛を持つ一匹のポケモンだった。
一瞬、イーブイが進化したのかと思った。チラーミィへの愛を成就させ、その幸福に満ちて進化したのかと。でも違う。今、目の前にいるそのポケモンを進化させることになった愛情と幸福はもっとずっと前のもの。紛れもなく、ブラッキー自身に由来するもの。
「ただいま。」
あまりにも唐突なことで、ブラッキーはただ立ち尽くすばかりだった。でも何度見ても、それはブラッキーがずっと待っていた、あのエーフィだった。最後に会った時よりちょっと汚れて毛づやも悪くなっていたけれど、やっぱりそれはブラッキーがずっと待っていた、あのエーフィに間違いなかった。
エーフィは草を編んで作ったスカーフを首に巻いていた。スカーフの胸元は小さな袋になっていて、きらりと光る白い石が一つ、編みこむように固定されていた。
「『ひかりのいし』、やっと見つけたんだ。」
にこっとエーフィが笑う。
「あなたの一番のお気に入り。これだけは絶対、絶対、本物を見つけたくって。遅くなっちゃって、ごめんね?」
ブラッキーの口元が、ふるふると震える。喉がからからに乾いて、胸がじんじん焼けるように熱くて、伝えたい言葉がはち切れそうなくらい湧いてきた。視界がにじんで、エーフィの姿がじわりとぼやける。だからその姿が完全に見えなくなってしまう前に、ブラッキーは急いでエーフィに向かって突進し、我先に飛び出そうと大混乱を起こしている単語の一つをひっつかんで思いっきり口を開けた。
「バカーーーーーーーーーーーーッッッ!!!!!」
押し倒されてぐえっと潰れたエーフィのうめき声の後、わんわん泣きじゃくるブラッキーの大声が森中に響き渡った。
ここは、人間の暮らす場所からは少し離れた森の中。大きな樹の下に掘ったちょうどいい広さの巣穴の中で、一匹のブラッキーと一匹のエーフィが一冊のノートを仲良くのぞきこんでいた。開いたページに描いてある石と同じ物が、側に置かれて輝いていた。
きのみをすりつぶして作ったインクに、エーフィがちょんと指先を浸す。そして人間が使う文字を、器用に丁寧に書き加えた。同じようにしてブラッキーも、エーフィよりは少しぎこちなく、紙面に色を加えていく。
「ひかりのいし」の名前の横に、きのみの汁で書いた日付と、てんてんで描いたバツ印が、浮かびあがった。