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* 百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百百… *
雨上がりだ。目の前にはきのみのたくさんなった木が生い茂っている。向こうの青空には虹が見える。
アユはこの景色を知っている。何度も夢で見たんだ。
「ぽぽ。」
声がしてアユは驚いた。ポッポのポポが隣にいる。どうしてここに?
「ぽぽぽ!」
ポポは少し怒ったようにアユの腰を示す。アユはボールホルダー付きのベルトを装着していて、ポポのモンスターボールがそこには収められていた。
そうだ、私、ポポを連れてポケモントレーナーになったんだっけ。それでポケモンにはきのみが必要だから、取りに来たんだ。ポポのためにきのみを取らなきゃ。
アユは樹上のきのみに手を伸ばした。が、そこではたと手を止める。
あれ? このきのみ、なんていう名前だっけ?
どういう時にポポに食べさせればいいんだっけ?
どうしよう、私、ポケモントレーナーなのに何も知らない。
動きを進めることができないアユの目の前で、きのみがひとりでに柄から離れていく。
待って待って、落ちないで!
私、まだ何も知らないの!
私、まだどうすればいいか分かっていないの!
ねえ、待って! 待ってよ!
焦るアユの言葉など届くはずもなく、きのみが外れる。それはまるでその空間だけ時間の先送りを許されているかのようにゆっくりと、しかし確実に動いていて、今まさに、きのみのへたと枝に残った柄との間に空の青が侵入し――――
アユは目を覚ました。
「またあの夢……か。」
夏休みはごく平凡に、何も変化することなく過ぎていった。暑い毎日。各教科の復習課題。家事や農作業の手伝い。青々とした田んぼの上、薄羽できらきらと光を反射しながら飛ぶヤンヤンマ。夜の森で一定のリズムを保ちながら低い声で鳴き交わすのはホーホー。一度だけ見慣れないポケモンの影を空に見つけた気がしてハジメに連絡を取ったことがあったが、それ以外は密輸されたイッシュ地方のポケモンなど毛の先っぽも見かけることなく、日常の風景は繰り返されていた。
そしてアユが不思議な夢を見ることも、その一部になりつつあり。
それはいつも雨上がりの青空の下、黄色いきのみがいっぱい実っている光景だった。その景色には誰もいないこともあれば、人がいたり、ポケモンがいたり、あるいは人とポケモンの両方がいたりした。登場人物の出で立ちを見るに、場所も時代も一定ではない。夢の中でアユはおおむね彼らの様子を上から見ていたが、ごくたまに今見た夢のように、自分でも知らない自分になって、下からきのみを見上げていることもあった。景色が額縁の中に収められていて、写真か風景画のように見えたこともあった。
こんなふうに夢の内容は見るたび微妙に異なっていたが、一つだけ共通点があった。どの夢も必ず、雨上がりの空に虹がかかったところで始まり、きのみが落ちる瞬間で終わる。過程も結果もまったく分からないまま、ただ美しい景色の様々な一場面を見るのは、さながら一枚の絵を眺めて空想遊びをしているようだった。そしてアユはこの遊びが、いつしかお気に入りになっていた。次はどんな人やポケモンが景色の中に現れるかなと、眠りの時を心待ちにすらしていたのだ。
夏休みが何の変化もなく過ぎていったというのは言い過ぎた。アユがだんだん雨上がりの空ときのみの夢を気に入ったように、物事は少しずつ変わっていた。例えば田んぼの稲は穂を出しはじめたし、つがいでうろうろしていたオオタチはいつのまにか小さなオタチを三匹連れていた。夏休みの課題の残りページ数は着々と減っていて、秋に行く修学旅行の計画もちょっとずつ進んでいる。自由時間にどの順番で観光地を巡るかより先に、誰がトランプを持って行きどのお菓子を仕込むかのほうが早く決まったのは、高校生らしいご愛敬。
変わらないのはアユの悩みだった。答えを出す期限だけが刻一刻と迫っている、進路希望。どの大学を受験するのか、あるいはしないのか。どんな職業を目指すのか。
「あー、いっそのこと本当にポケモントレーナーになっちゃえばいいのかも。」
庭に遊びに来たポポと一緒に縁側に座り、クッキーを分けっこしながら、アユは投げやりなため息をついた。急に大声を出されたので、ポポはびっくりして体を細くする。アユがごめんごめんと笑いながらポポをなでると、ポポはくるくるのどを鳴らして、またふっくらした形に戻った。
本当に、群れの中でこのポッポだけが人懐こい、変わり者だった。もしかしたらもともとは人間の側にいたポケモンなのかもしれない。他のポッポやピジョンたちは皆、こんなに近くまでは寄ってこようとしないもの。
と、視線の先にポポの群れを眺め、アユは「あれ」と気がついた。
「ポポ、あなたの仲間、みんな進化しちゃったの。」
それはポッポとピジョンの群れではなく、完全にピジョンの群れだった。初めてポポと出会った頃は、ほとんどポッポの群れに一、二羽のピジョンが混ざっているという感じだったのに。今はもう、一羽のポッポが混ざったピジョンの群れだ。
「ぽぽぽ。」
「そっかあ……。もう、ポッポはあなただけなんだ……。」
アユの胸が無性にざわざわした。ポポのことはいつも可愛いと思っているけれど、その時はなぜか「可愛い」という言葉だけでは説明のつかない庇護欲というか、世界で自分だけがポポの味方であるような、たまらなく愛しい感情に体中を支配された気がして、アユは優しく優しくポポの羽をなでた。
「進化のタイミングって、難しいよねえ……。それともポポ、あなたはもしかして、進化したくないの?」
ぽぽ、と鳴いてポポは首をかしげた。
「なんや、アユ、ポケモントレーナーになるんか。」
「あ、おじいちゃん。」
ひょっこり庭に現れたのは、アユの祖父とその手持ちポケモンメガニウムだった。ポポは大柄な人間の男とメガニウムに驚いたのか、ばっと羽を広げて群れの方に去っていく。ばいばいポポ、と手を振ってからアユは祖父の方を向いた。
「聞こえてたんだ。」
「でかいため息と一緒にな。あのポッポ連れて行くんか。」
「違うよ。ポポはただの友達。」
「そうか。せやったら、あんまり人間が作ったもんやらへんほうがええで。」
クッキーの袋をちらっと見て、祖父はそう言った。アユは曖昧にうなずいて、袋をちょっと体の後ろに寄せた。
「おじいちゃん、新しい
罠作るの?」
祖父が手にしているワイヤーや工具を目にして、アユは話題を変えた。おう、と祖父はうなずく。
「オドシシ被害がえらいことなっとぉ。シゲさんも手伝う言うてくれたから、向こうの山とシゲさんの山にも、罠増やすわ。」
「大変なんだね……。」
「今は申請したら獲れるだけましやな。昔はメスのオドシシ獲ったらあかんかったから。」
アユの隣にどっかりと腰かけると、祖父は首にかけていたタオルでごしごしと顔を拭き、ついでにメガニウムの首についた汚れも拭い取ってやった。
「人もポケモンも仲良く暮らせたらいいのに。」
「まあな。あいつらもわしらに嫌がらせしようと思て畑荒らすわけやのぉし、わしらかてできれば命まで奪いたくはない。せやけどポケモンで追い払うのにも限界あるし、どっちも生きるのに必死やからなあ。言葉だけではどうにもならんこともあるんや。」
アユは何も言えずうつむいた。祖父はそんな孫娘の頭に手を置くと、わしわしっと動かした。おじいちゃんの手は大きくてごつい。小さな女の子の髪を乱さずに頭をなでる方法なんて知らなくて、でもいたわり励ましてやりたいという気持ちだけはあふれるほどに伝わってきて、アユは祖父になでられるといつもくすぐったくて笑うのだった。その笑顔を見て祖父もにかっと歯を見せた。
「アユは賢くて優しい子やからな。ようけ勉強して、そのうちじいちゃんもオドシシも仲良く暮らせる方法、見つけてくれるかもしれん。」
「私は……そんな……。」
「なんや勉強おもろないんか? ポケモントレーナーになるほうがええか?」
「ううん、勉強は好きだよ。ポケモンも好きだけど。」
少し考えた後、ねえおじいちゃん、とアユは問いかける。
「もしもポケモントレーナーになろうと思ったら、私の年齢じゃもう遅いかな?」
祖父は一瞬きょとんとしたあと、大きな声で笑いだした。あまりに愉快そうに笑うので、今度はアユがきょとんとしたぐらいだった。
「なんでそんなん思たんや? ちっとも遅ない。大事なポケモンがおって、そいつと一緒に生きてくって決めたら、人間いつでも誰でもポケモントレーナーや。」
なあ? と祖父はメガニウムを軽くたたくようにしてなでた。メガニウムが同意するように一鳴きし、首の花びらからいい香りを漂わせた。機嫌のいい時にだけ出す、花畑のような匂いだ。
そんな答えが返ってくることは半分くらい予想していたのに、実際に耳にした言葉と香りは、思った以上にアユの心にじぃんとしみた。きっとポケモンと助け合うだけではなく時には敵対することすらある時間を、アユの何倍も過ごしてきた祖父とその大事なポケモンのものだからこそだろう。
アユは祖父を見上げ、晴れ晴れとした表情でうなずいた。
「ありがとう、おじいちゃん。じゃあ私、お母さんの晩ご飯の用意手伝ってくる。」
そう言って立ちあがり部屋の中に入ろうとした時だ。
アユ、と名前を呼んで祖父がアユを呼び止めた。
「もしかして十歳の時、ほんまは、ポケモントレーナーになりたかったんか。」
アユは祖父の顔を見つめ、困ったように少し微笑むと、そうじゃないよと首を横に振った。