落ちなかった百個のきのみと、少女が歩む一個の夢
* 百 *


『……。』

『おぅい。』

『おーぅい。』

 誰かに呼ばれているのに気がついて、アユは目を開けた。辺りは真っ暗だ。
 シキジカ! アユの腕の中はからっぽだった。慌てて見回しても闇が広がるばかりで、ポケモンはおろか、うろにいた虫も植物も、およそ生命と呼べそうなものは何もない。さっきまであんなに激しく吹き荒れていた風も雨も止んでいる。無だ。そういえば右手も痛くない。
 私、死んじゃったのかな。

『違うよぅ。君は死んでなんかいないよぅ。』

 再び声が聞こえた。見るとアユの前方に、いつ現れたのかピンク色のボールのような何かが浮かんでいた。紫の大きな花柄模様がついていて、下側に四つ出ている小さな突起が足に見えなくもない。……ポケモン?

『その通り。ぼくはポケモン。みんなムンナって呼ぶよ。よろしくぅ。』

 ピンクのボールは楽しそうに揺れながらそう言った。ではその口調に合わせて細っこくなったあの赤いのが目玉か。口がどこで動いているのかは分からなかった。もともと口がないポケモンなのか、あるいはテレパシー的な何かを使ってアユに語りかけているのか。こちらの考えていることも筒抜けのようだし。

『だってぇ、ここは君の夢の中だもん。』

 あたかも「ポッポはピジョンに進化します」と当然を説くかのような調子でムンナが笑う。それから、あのねあのねぼくね、とアユの周りをくるくる飛んだ。

『君に夢を返しに来たんだ。ぼくねぇ、とってもお腹が空いてて、うっかり君の夢を食べそうになっちゃったの。ヨチムは食べちゃだめって、マムにあんなに言われてたのに。でぇ、その時に君の夢をどっかに落としちゃってね、やーっと見つけて持ってきたの。』

 ムンナがアユの鼻先で止まる。赤い瞳に、じっとアユを映しこむ。

『雨上がりの青空ときのみの夢。』

 アユは息を飲んだ。ムンナの言葉の意味はところどころ理解できなかったが、それだけは何のことか分かった。雨上がりの青空ときのみの夢。この一か月近く、アユがずっと見続けていた、その前後の空想を楽しんでいた、あの夢。

『あの……。』

 思いきって口を開けば、どうやらアユもここで発話することができるらしい。いつもと違って、ふわふわエコーのかかった奇妙な声ではあったけれど。

『私、その夢を、たくさん見た。』
『うんそうだよぉ。ぼくが君の夢を探しながら、似たようなやつをいっぱい持ってきたからねぇ。でもそれは全部、君じゃない誰か別の人が見た夢だったの。』
『あんなにそっくりな夢を? 誰か別の人が? そんなことってあるもんなの?』
『あるもんなのぉ。例えばみんなで同じ絵を見て空想にふけったりした時なんか、一度に同じ景色の夢がたーくさん生まれることがあるんだよ。ま、そういうのはほとんど形になれない夢なんだけどねぇ。君のと間違えて持ってきちゃったあの夢たちは全部、そういう夢だったの。きのみが落ちるその景色を一瞬は夢見てもらえたのに、すぐに忘れられちゃった夢とか。形になりそうだったけど上手くいかなかった夢とか。あるいは別の物語に取って代わられちゃった夢とか。』

 分からない顔をしているアユを見てムンナは「世界ってのは君が知っているよりもずっとずっと広くて深くてぐちゃぐちゃなのさぁ」とからかうように付け加えた。アユがますます言葉を失っていると、不安がっていると思ったのだろうか。一転した優しく穏やかな口調で、大丈夫だよぉ、とムンナはにこやかに目を細めた。

『君の夢はここにあるからね。そのためにぼく一生懸命探して持ってきたんだからぁ。はい、これが君の夢! 君の雨上がりの青空ときのみ!』

 アユとムンナに挟まれた空間に、ぼんやり白い光が生まれた。これがアユの夢だというのか。何度も出会い、親しみ、その可能性に思いを馳せた、あの美しい景色の夢だというのか。
 ムンナはにこにこと笑顔を浮かべながら、ゆったりとリズムを取るように左右に揺れている。

『つまり、これが正解ってこと? どんな雨が降っていたかも、きのみが落ちてどうなるのかも、これで全部、決まっちゃうってこと?』
『ん? んんー、よく分からないけど、これが君のヨチムだよぉ。』
『……いらない。』

 アユは光の玉から一歩後ずさった。

『いらない。私、あの夢が好きなの。あのきれいな景色の前や後に、何が起きるのかなって想像するのが好きなの。もしそれが一つに決まっちゃうんだったら、他の可能性がなくなっちゃうんだったら、いらない。私これ受けとれない。』

 ムンナは明らかに驚いたようだった。赤い目をぱっちりと開き、機嫌のよい体の揺らぎも止め、アユを見据えていた。その視線が痛くて、アユは目を伏せる。

『それじゃあ……夢はいつまでたっても夢のままだよ。何の役にも立たないままだよ。』

 アユはハッとして顔を上げた。ムンナが話しているのは眠っている時に見る「夢」のことだ。けれどもその言葉は別の意味を伴って、アユの心に突き刺さったナイフを激しく揺さぶった。
 アユは夢見ていた。人とポケモンの役に立てる自分の未来を。ポケモン看護師でもいい。トレーナーズスクールの先生でもいい。描いた数だけ夢はあったし、それぞれの未来を考えるのは楽しかった。

『どの可能性だって選べるってことは、とっても自由で気持ちよく感じるかもしれないけど、それじゃあ、君のきのみはいつまでたっても落ちないままだよ。』

 けれども同時に怖くもあった。どれかを選んで、それ以外の何かを選べなくなることが。だからいつまで経っても何も選べないまま、アユは全ての可能性を保持し続けていた。見るたびに違う夢で空想遊びにふける子供のように。群れの仲間が次々に大きくなる中で、自分だけいつまでも進化しないポケモンのように。

『どれか一つを選んで、形にするのは、君自身なんだよ。君が行かなきゃ、意味ないんだよ。』

 そして結局、シキジカ一匹救えなかった。
 人の役にもポケモンの役にも立てなかった。

『だから、さあ、怖がらないで、行って見て!』

 もしも何かを選んでいれば。
 夢の一つを目指せていたら。
 アユとムンナの間でぼんやりと光る玉が、アユの選択を待っていた。
 光の真ん中に、ひときわ強く輝きを放つ小さな種のようなものが見えた。アユはおそるおそる種に手を伸ばそうとして、ふとその動きを止め、ムンナに尋ねた。

『ねえ、形になれなかった夢たちは、どうなっちゃうの?』

 光を挟んだ向かい側で、ムンナが体を傾けた。
 さあねぇ、ぼくはよく知らないけど、とムンナは少し考えた後で言葉を続ける。

『でもマムがこんなことを言っていたよ。形になれなかった夢は完全になくなってしまうわけじゃなく、いろんな色や形の砂粒が無限に集まって厚い地層を作るように、小さな小さな存在になって確かにこの世界の一部になるんだって。この世界の土台はそうやってできてるんだって。で、その夢たちは永遠に忘れ去られたままのこともあるし、ごくまれに夢の持ち主に再会することもあるんだって。』

 アユは再び、ぼんやりとした光の玉を見る。
 形になれるかもしれないアユの夢。雨上がりの青空と落ちるきのみの、アユだけの物語。
 アユは大きく息を吸った。そして両腕を伸ばし、中心で輝く種をすくうようにして包みこんだ。
 瞬間、アユの手の中で光がほとばしる。発芽だ。芽はみるみる成長し、輝く茎と葉が指のすき間からあふれ出た。それはあっという間にアユの手に納まらなくなって、生長する、生長する、生長してどんどん空間を覆い尽くしていく。真っ黒な世界が真っ白に塗り替えられていく。

『また、会えるといいねぇ。』

 最後に聞こえたムンナの声は、アユに向けられていたのか、それともどこかで主を待つ夢のために発せられたのか、分からないまま光の中に消えた。





 光が収まると、アユは山を登っていた。ひざの辺りまで下草が茂っている道でとても歩きにくい。踏み出した一歩の先にあった地面がへこんでいて、少しバランスを崩してしまった。大きな岩が行く手をふさいでいて大回りしなければならない所もあった。それでもアユはひたすらに進んで行く。どこへ? 答えられないのに知っていた。アユはそこに行かなければいけないと分かっていた。
 突然、視界が開け、青い空が天を覆う。大きな虹がかかっている。何本ものオボンの木が、黄色い実をいっぱいにつけていた。すべてのものがしずくをまとい、光を浴びてきらきらと輝くその光景を、アユは知っている。これがアユの夢。よく似た景色を何度も見たけど、やっと出会えた、これこそがアユの景色。
 目の前の一番大きなオボンが、ゆっくりと柄から離れていく。
 あ、落ちる――。
 オボンに向かって、力いっぱい手を伸ばし、



 アユは目を覚ました。
 辺りは真っ暗だ。いや外から光が差している。アユは木のうろの中にいた。右手の痛みもずきんと目を覚まし、昨夜の出来事がうそではなかったことを証明した。しかしシキジカの姿が見当たらない。

「シキジカ。」

 アユの腕にはまだ自分のものではない体温が残っている。アユは急いでうろから這い出した。
 シキジカはすぐ近くにいた。風はまだ強いが、木々のすき間から見上げた空は明るい。朝だ。どうやら一夜のうちに台風は通り過ぎたようだった。
 シキジカはアユが出てきたのを確認すると、少しふらつきながら歩き始めた。

「待って、シキジカ! どこに行くの!」

 シキジカはアユを振り返ると、また前を向いて先へ行く。どこか目的地があるようだ。アユはシキジカの後を追った。
 山の中のこんな場所に道らしい道はなく、草がぼうぼうに生えていた。それでもシキジカはお構いなしで、首まで草に埋まりながらずんずん進む。アユも遅れまいとするが、足元が見えず何度も石や木の根につまずくし、細長い葉は露だらけでアユの服を遠慮なくびしゃびしゃ濡らすし、とても歩きにくい。きゃっ、と悲鳴を上げたのは、踏み出した一歩の先にあった地面がへこんでいて、少しバランスを崩してしまったからだ。
 はたとアユは思い当たる。
 私、この道を知っている。
 しばらく進むと、大きな岩が行く手をふさいでいた。シキジカが困ったように岩を見上げ、どうしたものかと思案している。アユはやっと追いついたその背中にそっと触れた。

「おいで。こっちから大回りして行こう。」

 まるで一度歩いた道であるかのように、アユは回り道を見つけだし、シキジカと共にひたすらに進んだ。どこへ? 答えられないのに知っていた。アユはそこに行かなければいけないと分かっていた。
 ふと、空気が変わったのをアユは感じる。足元から立ち上る、雨の後の湿った土と踏み倒した草の汁が混ざったにおいの中に、かすかに漂う甘酸っぱい香り。
 シキジカがぴんと耳と尾を立て歩調を速めた。アユもシキジカに続き、二人の息遣いとがさがさ草むらをかき分ける音が、朝の山道に響く。
 アユの体の中心で、心臓が一打ちごとにその音量を上げていた。予感。期待。不安。好奇。一つ深呼吸してその鼓動をなだめると、アユはたぶんこれが最後の一歩だと確信して、草を踏み倒した。
 突然、視界が開け、青い空が天を覆う。目の覚めるような深く透明な青だった。その青の中に銀色の雲がもくもくと光り、大きな虹がかかっている。何本ものオボンの木が、虹に手を伸ばすかのように枝葉を広げ、黄色い実をいっぱいにつけていた。その実が放つ甘酸っぱくみずみずしい香りが辺り一帯に溶け、さわさわと吹き抜ける風がアユのほおを軽くたたきながら、その匂いを運んでいった。熟した大きな実も、まだ青い小さな実も、よく茂った葉も、枝も、下草も、空気さえ、昨夜の雨がもたらしたしずくをまとい、朝の光を浴びてきらきらと輝いた。
 色も、匂いも、音も、輪郭も、それは今まで夢に見たどんな景色よりも鮮やかな、雨上がりの青空ときのみの光景だった。
 アユの視線は、自然、目の前にある一番大きなオボンの実に吸いこまれた。ぽってり栄養と水分をためこんだ実のついた枝はゆるやかにたわんでいる。次に何が起きるかアユは知っている。ふつとかすかな音を立てて、実と柄の間に空の青が侵入し、木々についた雨粒がぱっとはじけて宙を舞った。
 あ、落ちる――。
 次に何が起きるかアユは知らない。だって夢はいつもここで終わっていたから。その先を見るのが怖かったから。空想だけしていたかったから。けれどもこれは夢じゃない。アユが選んだ景色の先。定められた景色の向こうにある物語を、アユは今、紡ぐ。

 オボンの実が落ちる!

 アユは左手を掲げていた。
 ぼん、と思いのほか強い衝撃と共に、オボンがアユの手に収まった。

「キュルッ、キュルキュルッ!」

 シキジカがうれしそうにアユの足元にすり寄った。オボンの実は傷ついたポケモンによく効くとおじいちゃんが言っていた。きっとシキジカはこの匂いをかぎつけてここまで来たんだ。
 アユは少しかがむと、シキジカにオボンの実を差しだした。

「はい、どうぞ。」
「キュルキュル!」

 シキジカは勢いよくオボンにかぶりつくと、夢中で食べ始めた。しゃくと一口かじるたびにつややかな果肉がはじけ、一段と強く甘酸っぱい香りが周囲に満ちる。あふれた汁はシキジカののどを流れ、それでもまだとどまらず果皮にも流れ、オボンを支えるアユの左手にも流れ落ち、ぴかぴかと光をはね返した。アユはごくりと唾を飲んだ。アユだってのどはからから、お腹もぺこぺこなのだ。シゲさんには申し訳ないけど、シキジカにこれを食べさせたらあと一個だけ、自分用にもオボンを頂こうかと考えてアユが樹上を見上げたその時。
 木々の間に見えた空、虹の向こうに黒い点が見えた。点はどんどん大きくなり、やがて二つに分かれて小さな鳥ポケモン一羽と大きな鳥ポケモン一羽の影になった。大きなほうには人が乗っているようだ。こちらに向かって手を振っている。

「おーい! アユさーん!」
「ハジメさん!? それにあれはまさか……ポポ!?」

 それはムクホークに乗ったポケモンレンジャーのハジメと、ピジョンのポポだった。一人と二羽はまたたく間にアユの側に近づくと、ものすごい風圧で草を揺らし木々の葉に乗った雨粒を吹き飛ばしながら着地した。

「無事か、アユさん!?」
「は、はい。なんとか。ハジメさん、どうしてここが?」
「昨日キミから電話があって、すぐに出られなくて悪かった。折り返しても全然反応がないから、念のため朝一でこっちに来ておこうと思ってムクホークで飛んでいたんだ。そしたら血相を変えたピジョンがしきりに付いて来いって様子で。あの子、ポポだろう? これは何かあったに違いないって、やって来たら案の定ってわけさ。」

 ポポが遭難した私たちを見つけてくれていたんだ。遠慮がちに様子をうかがっているポポの姿が、アユの視界でじわっとにじんだ。

「ポポォー!」

 アユが腕を広げたのと、ポポがぴいっと鳴きながらアユに駆け寄ったのとはほとんど同時だった。ふかふかの羽毛に包まれた体は、ポッポの頃と少しも変わらず温かくやわらかく、それでいて大きくたくましく成長していた。

「ハジメさん、この子がポポだってよく分かりましたね。進化しちゃってるのに。」
「分かるさ、なんとなくだったけどな。ピジョンの必死の姿を見て、すぐにアユさんとポポのことを思い出したよ。キミたちはとても仲が良かったし、それは進化したからって変わるもんじゃないだろう?」

 アユは口をきゅっと結んでうなずいた。そうしなければまた涙がこぼれてしまいそうだったから。
 ポポはくるくるとのどを鳴らしていた。改めてポポを抱きしめようとした時、うっかり右手が動いてしまい、アユは「あいたっ」と悲鳴を上げた。けがしてるのか、とハジメが急いで症状を確認する。

「これはひどい……折れているな。一刻も早く病院へ行こう。よく頑張った。痛かっただろうに、自力で応急処置もできている。」
「これは、あの、シキジカが手伝ってくれたから。」
「ああ。固定に使っているこれ、シキジカの『宿り木』だろ。迷子になっていたイッシュのポケモンを見つけてくれて、ありがとうアユさん。いつもならここでキャプチャするんだけど……」

 シキジカは突然現れた人間とポケモンたちにすっかり驚いた様子で、それでもまだ口だけはオボンの実をもぐもぐしながら、アユの後ろに隠れてそっと顔をのぞかせていた。ハジメはキャプチャ・スタイラーを装着している腕を下ろして微笑んだ。

「アユさんがいればその必要はなさそうだな。」

 そしてハジメは救援連絡を送信し、アユの右手首を改めて処置し直すと、シキジカに何か薬を与えた。てきぱきと手当てを進めるハジメの姿を、アユはただただ尊敬のまなざしで見つめるばかりだった。一度「すごいですね」とつぶやくと「人もポケモンも、守りたいって思うからさ」と控えめな笑顔が返ってきた。それは口先だけではない、確かな知識と技術に裏打ちされた言葉だった。
 ほどなくして応援が到着し、アユは無事に病院へと運ばれた。

カイ ( 2019/10/21(月) 22:03 )